カテゴリー「Notes:萬子ひめ」の171件の記事

2022年5月21日 (土)

コロナ禍においても、極めて冷静な某クリニックに出かけました。白血球数、肝機能正常、がんの兆候もなし。イベルメクチン最高!

火曜日の午前中、循環器クリニックを受診しました。

胸部レントゲンと心電図を今回に回して貰っていたので、その二つを済ませて診察の順番がくるのを待ちました。

名前を呼ばれて診察室に入ると、胸部レントゲン写真の前に仁王立ちになった先生がこちらを振り返り、「Nさん、具合が悪くない?」とおっしゃいました。「いいえ、特には……」とわたし。何か問題があるのだろうか、まさかコロナでは?

「ほら、この横切った線! こんな影、半年前にはなかった!」とオーバーアクションに見える先生。「Nクリニック、行ったこと、あるよね?」と訊かれました。やっぱりコロナ肺炎なのだろうか、その自覚はないけれど、確かにいくらか前に2回ほど、かなり変なことがあったなと思いました。

「Nクリニックには行ったことがありません」とお答えすると、「行ったことがあるだろう?」と先生。「ありませんよ」「Nクリニックだよ?」「初めて聞いたクリニック名です」と変な押し問答。傍の看護師さんは押し黙ったまま。先生がパニック状態であることはわかりました。

これに近いことがあったとき、うまく受け流してきましたが、今回はわたしも先生に釣られてパニック状態。わたしコロナってこと? PCR検査、抗原検査なの? 隔離なの? コブラ毒を打たれるの? もはや、わたしもこれまでなの? という考えが頭の中で渦巻いていました。

「NクリニックはCTが上手だ。紹介状を書くから、行ってきて! それから、採血させてくれる?」と先生。採血は、副甲状腺機能亢進症を診ていただいている総合病院でやって貰い、そのコピーをクリニックに持参するという形になっていました。「どうぞ!」とわたし。

PCR検査はしなくていいのね? 

コロナかもしれないとしたら、こんな無防備な状態でここにいて、そして患者さんが大勢いるかもしれないNクリニックに出かけていいのだろうか、と疑問に思いました。熱は36℃で平熱、咳も――喘息持ちなので、それから来ると思える刺激で起きる咳は出ることがありますが――ないといってよい状態ではありました。

コロナには神経質なはずのクリニックなのに、不思議なことには、まだ先生からはコロナのコの字も発せられてはいませんでした。わたしは意味がよくわからないまま、「ありがとうございました」とぼやーといって椅子から立ち上がると、先生は我に返ったように静かに頷かれました。

Nクリニックに行ってきてって、いつ行くのだろうと思い、受付でお尋ねすると、「ご心配でしょうから、早いほうが。Nクリニックは午後も開いていますから」とのことで、まずは電話をし、午後にでも行ったほうがよいということがわかりました。

循環器クリニックも、Nクリニックも歩いても行ける距離でしたが、丁度休みだった夫に迎えに来て貰い、ケンタのドライブスルーに行きました。クリニックの帰りに夫とのケンタランチが楽しみだったのです。

「なぜドライブスルー?」と夫。「もしかしたらコロナかもしれないからよ。レントゲンで影あるっていわれた。コロナだといけないから、店内には入らないほうがいいよね。職場に迷惑かけることになったら、申し訳ない」「ええーっ?」と夫。

そういえば、娘の勤務する病院の病棟で少し前にクラスターが発生し、病院は一時新患受付を休止したりしていました。病棟のスタッフは全員、PCRか抗原か忘れましたが、検査があったとの話でした。

あのコロナに感染したのかな? イベルったら、どうしたの? 優秀なイベルメクチンで予防してきたとはいえ、予防はあくまで予防であって、完全阻止は難しいということなの?

Nクリニックに電話をし、事情を説明すると、CTで撮ることになる部位を訊かれました。胸部だと思います、というと、それではこれからどうぞ、ということでした。

ペッパーマヨツイスターセットをもそもそ食べ終えると、誰も使わなくなった洗面台のイソジンでうがいをしました。PCR検査の直前にイソジンでうがいをすればいいと、どなたかツイートしておられたからです。

Nクリニックは、想像したより大きな病院でした。診療科目は消化器科、内科、外科、肛門科です。医療設備はX線撮影装置、ヘリカルCT、胃・大腸電子内視鏡、心電図、超音波診断装置(腹部・乳腺)、血液・尿検査とあります。

正面玄関から入ると、向き合って受付があり、片側に小ロビー、もう片側が待合室で、ずらっと並んだ長椅子に大勢の患者さんが寡黙に診察の順番が来るのを待っていました。もう午後も遅い時間帯なのに、こんなに沢山の患者さんが……と驚きました。

受付で紹介状とレントゲン写真の入った大きな袋を差し出すと、問診票と体温計を渡されました。

大きなテレビ画面に、お知らせや情報が流れていました。風邪にはウイルスと細菌によるものがあり、ウイルス性では白血球が減り、細菌性では増える。ウイルス性の治療薬はなく、対症療法になる。細菌性は抗生物質で治療。新型コロナのコの字も画面に出てきませんでした。

特例承認された色々な薬剤についても一切なし。内容が更新されていないのだろうか、と思ったほどでしたが、何か意識の高さが感じられたので、意図的なのかもしれないと思いました。診察室に入って、そのことを確信しました。他の人を飛ばして、すぐに順番が回ってきました。

真剣な表情の先生。わたしは同年輩――60代前半――くらいに見えましたが、あるいは、わたしより五つ上の循環器クリニックの先生と同じくらいかもしれません。

病歴や検査に関する手短な確認がありました。その短いやりとりの間にも、先生の冴え渡った意識が感じられ、行き届いた雰囲気があって、このクリニックいいなと思いました。

循環器クリニックは明日は休みだから、明後日の午後には検査結果を届くように送ります。金曜日の午前中に循環器クリニックを受診してほしい――と先生はおっしゃいました。

後は検査の順番が来るのを待てばいいようでした。わたしは椅子から立ち上がった後、思わず口走りました。「あの、何か注意すべきことがありますか?」

すると、先生は厳しい表情をこちらに向けられましたが、無言のまま、わたしを見つめられました。わたしは脳天気に笑って(真剣になると陽気になる馬鹿です、はい)「例えば、コロ……いえ、いいです」といいかけてやめると、先生は食い入るようにわたしを見つめられ、「風邪症状がある人をコロナというのであってね……」と先生。

このとき、ようやく、わたしは悟りました。風邪症状のないわたしがコロナではなく、癌を疑われていることを。それも、どちらかといえば、進行癌とか進んだステージの癌とかを疑われているのだと。

コロナ禍でも冷静沈着によい医療を提供しているクリニックに出合えた喜びと、癌という重い言葉が混じり合い、帰宅後は万一癌だった場合の情報収集に明け暮れました。アフラックをやめなくてよかったと思いました。どこかへ検査入院ということになれば、限度額適用認定証を申請しておかなければなりません。

もし癌だったとしたら、標準的な治療を受けることにしました。それで駄目だったら寿命。ただし、癌にも効くというイベルメクチンは自己責任で飲み続けたいと思いました。研究が進んで、各癌向きの容量と服用法が確立すればいいのにと願わずにはいられません。

ただ、もしイベルメクチンを飲みながら癌になったのだとしたら、どこまで頼れるのでしょうか? 最近、たまたま丸山ワクチンについて、調べたことを思い出しました。

今のわたしのこの立場では、未だ治験中の丸山ワクチンは敷居が高いように感じられました。関係者や希望者が丸山ワクチンの一刻も早い認可をと思われるのも当然だと感じられました。

あの世はよいところだと知っているので、死ぬまでの肉体的苦痛はあるかもしれないけれど、わたしにとって死はむしろ喜ばしい出来事ともいえます。幸い息子も娘も自立しています。これが娘が書店や日赤の契約社員だったときだったら、心配であの世に行けないかもしれませんが。

娘はまだ結婚はしていませんが、今は婚活サイトというものがあって、真面目な、相手を気遣った複数の人々とのやりとりを見せてくれるときがあり(このようなやりかたが一般的なようです)、今後相手が見つかることもあるだろうと思いました。

義母から、自分達が死んだ後は――義父母は健在です――こちらにあるお寺の納骨堂に入りたいとの希望を聞いていますが、そこへ真っ先に自分が入ることになるのだろうか、父のこともあるのに……何て親不孝なんだろうと思いました。

あの世に行くまでには、萬子媛に関する研究エッセーと新作能を仕上げなくては。毎朝、祐徳稲荷神社のお札に向かって、国家安泰と家内安全を祈願しています。家にいても背後から萬子媛の太陽の光のようなオーラを感じるときがありますが、この夜も感じました。あの世から竜王会と神智学協会の会員たちを見守ってくださっている田中先生からは、空間にきらめく宝石のような光のお手紙。

この方々は、今後のわたしがどうなるのか、おおよそのことはご存じでしょう。

今回は、何も起こらないかもしれないと思いました。

というのも、家の中がかなり滅茶苦茶になった地震があった日の朝、いつものように祈願すると、心の鏡に、萬子媛を中心に整然と並んだ方々が、一斉に、気遣わしげにこちらを凝視なさっている様子が映りました。それはほんの一瞬のことでした。

砂糖壺がうまい具合にIHクッキングヒーターと壁の間の隙間に挟まって、中身がこぼれずに済んだこと。大事にしていたキューピッドの二つの置物が落下しながら――くっつけることが可能な翼のとれかたをしただけで――無事だったこと。一枚の皿が食器棚の中を落下しながら、割れたのはその一枚だけだったこと。落下した文庫本棚が、うまい具合にテレビが吹き飛ぶのを抑えていたこと。

被害が思わぬところで小さくなっていたことに驚いたのですが、この状態を作り出してくださったのが江戸期に尼僧だった方々というよりも、まるで妖精さんのようで……感心しました。生前が女性だった方々ならではの心遣いと工夫を発揮して祈願者の安全安心に応えてくださっていることが、このとき改めてわかった次第でした。

田中軍医が戦地に向かう大海原で溺れそうだったとき、故郷の名を記した醤油樽が流れてきたときのことを連想させられました。

それにしてもお忙しいでしょうに、分身の術でもお使いになっているのでしょうか。神秘主義者のわたしには、わからないことだらけです。

いずれにせよ、今回はそのような、一斉にこちらを凝視なさっているような感じを受けたことはありませんでした。それに、何か大きなことが起きるときは大抵、そのことを暗示するような夢を前もって見るのが常ですが、このところの夢は全く覚えていませんでした。

その一方では、ここ数ヶ月の間に2回ほど、体調に異変があったため、もしかしたら癌になったための異変だったのかもしれないと思いました。

1回目は2ヶ月ほど前に遡ります。顎から頭にかけて割れるように痛くなり、イベルメクチンを予防のためではなく、症状の改善を期待して12ミリグラムを1錠服用。症状は間欠的に起きたので、イベルメクチンを3日続けて服用し、ようやく治まりました。熱はありませんでしたが、喘息が悪化したような咳が出ました。喘息だったのでしょうか。

あの凄まじい、顎から頭にかけての痛みが何だったのか、わかりません。

2回目はつい最近で、背中や腰が痛くてたまらず(ぎっくり腰とは違う痛みでした)、体がばらけそうで、胸が焼けるようで息苦しく、このときはイベルメクチンを5錠使いました。1日に2錠服用した以外は1日に1錠です。

倦怠感があったので、それが突発的に起きた異変から来たものなのか、イベルメクチンを連用したことによる薬剤性肝炎なのかわからず、そのことが一番気になりました。

これも何だったのか、さっぱりわかりません。

咳が出れば、どうしても喘息か心臓からのものを疑いますし、背中が痛いと昔やった膵炎を連想します。

どちらも今までに経験のない、変な症状でしたが、全く家事ができないということはありませんでした。ただ、暇さえあればゴロゴロしていました。

ずいぶん横道に逸れましたが、結論からいえば、大したことはありませんでした!

読影のコピーを希望すればよかったのですが、癌でなかったことに舞い上がっていたので、忘れていました。

右肺の肺野部に線状の陰影があり、引き攣れたような箇所もあったそうです。いずれも腫瘍などではないとのことで、経過観察となりました。

「先生、脅かさないでください。ああ、よかった!」というと、「ちゃんと診ていかないといけないからね」と先生。「そうでした、ありがとうございました」と感謝の気持ちでいっぱいになりました。

「ところで、影は何なのですか? 過去の肺炎の跡か何かですか?」とお尋ねすると、「過去……?」といって、先生は沈黙なさいました。

帰宅後ググったところでは、2mm未満の細いものを線状陰影、2mm以上の太いものを索状陰影というようで、わたしの場合は索状陰影でしょうか。引き攣れたような箇所というのは、何のことだかわかりません。先生にお尋ねすべきでした。

索状陰影は、ほとんどの場合が風邪をこじらせた跡とか、軽い肺炎などにかかって治癒した跡だということです。胸膜肥厚や気管支拡張などで現れることもあるそうです。

嬉しそうなわたしに釘を刺すように先生がおっしゃいました。「それとね、腎臓は守っていかなきゃならない。腎臓が石でいっぱいだそうだよ。水をよく飲むように」

CTで撮ったのは胸部だけかと思っていたら、腎臓も入っていたのですね。腎結石は副甲状腺機能亢進症から来ています。副甲状腺機能亢進症は案外厄介な病気です。腎結石の他に骨粗鬆症などの骨病変、高カルシウム血症などの症状が出ます。

わたしは死ぬのなら心臓で死にたいな。心臓発作には慣れているから。

イベルメクチン、不思議な薬です。肝機能は理想的な数値でした。Nクリニックの動画で、風邪にはウイルスと細菌によるものがあり、ウイルス性では白血球が減り、細菌性では増えるといっていましたが、白血球数も極めて正常でした。

なるほど、これではコロナだの風邪だのといえないわけです。現に、体調はすっかり戻っています。

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2022年4月 1日 (金)

言葉足らずだったかな……しばしお待ちを

昨日の記事をアップしたあと、幸い、それなりの訪問者があり、閲覧してくださっているのがわたしの神秘主義的感性に伝わってきた。

しかし、引用した萬子媛の言葉に疑問や反感を抱いたかたもおられたようだ。

萬子媛は仏教の基本的な教えに沿って述懐なさっていたにすぎないのだが……。

一般的日本人であれば、「愛」すなわち「渇愛」であり、これが苦しみの原因であるという仏教由来の考え方があることは何となく知っているのだとばかり思っていた。

夫は知っていたが、「俺たちは、年寄りだから知っているだけだよ」という。ああそうか。

きちんと説明しようと思えば、阿含経(初期仏教経典。阿含はアーガマの音写。アーガマは伝来の意)にある十二縁起(十二因縁)を説明しなければならなくなる。否、「縁起(因縁)」の説明から必要だろうか。そもそも、反感を抱いたかたは二度とわたしのブログへはお越しにならないかもしれないけれど、中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫 - 講談社、2009)を再読して出直すことにした(ここからの引用になりそう)。

萬子媛は子供を亡くすという強烈な喪失感を通して、仏教の基本的教えを嫌というほど実体験なさったわけである。仏教でいわれる「愛」はキリスト教でいわれる「愛」とは全く異なる哲学概念だ。

萬子媛は俗世界の因縁から解き放たれ、現在はボランティア集団のリーダーとして太陽の光のような圧倒的なオーラを放っていらっしゃる。その本質は、いわば、キリスト教でいわれるところの愛そのもの、無償の愛、アガペーであろう。

加筆しますので、しばしお待ちを(二度とお越しにならないかもしれないけれど……)。

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2022年3月31日 (木)

萬子媛の言葉

昨日、「祐徳稲荷神社参詣記(16)」をはてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたのですが、何か足りない気がして、改めて「祐徳開山瑞顔大師行業記」を読んでいました。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)には21の著作が収められています。「祐徳開山瑞顔大師行業記」はそのうちの一編です。

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、文人大名として知られた義理の息子、鍋島直條(1655 - 1705)によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述されたといわれています。

郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料です。

原文は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の1頁分しかありません。現代人にもわかるように編集された文章を読んでいると(これは2頁あります)、かぎ括弧が使われた3箇所のうちの2箇所が萬子媛の言葉となっており、その貴重さが胸に迫ってきました。

萬子媛の二人のお子さんが早逝してしまわれたため、萬子媛は深く悲しみ悼んで、日夜泣き叫ばれました。そして喪が明けました。次の文章が続きます。

一旦慨念、愛為苦本、愛若断時、苦自何而生。况生平承誨和尚。失之今日者、不亦自愧乎。

一旦(あるひ)、慨[なげ]きて(ため息をついて)念[おも]う、「愛は苦の本為[た]り。愛若[も]し断つ時は、苦は何[いず]こ自[よ]り生ぜん。況[いわ]んや(ましてや)生平(日ごろ)誨[おしえ]を和尚に承[う]く。これを今日に失うは、亦[ま]た自ら愧[は]じざらんや」

この文章は萬子媛の心のうちが文学的に描き出されたものかもしれませんが、筆者の直條、あるいは出家している兄の格峯(断橋、鍋島直孝)に対して萬子媛が真情を吐露された言葉なのかもしれません。

ある日、大師(※萬子媛のこと――引用者)はため息をついて、思われました。「愛は苦しみの原因ですものね。愛をもし断つ時は、苦しみはどこから生じるのでしょう。ましてや日ごろ和尚様から教えを受けておりましたのに。これを今日に失うのは、全く自分を恥ずかしいと思わないかといえば、いいえ、思いますとも」

もう1箇所を引用します。ここでは明確に、萬子媛の格峯に対する言葉として書かれています。

大師一日、語吾兄格峰禅師云、念對境起、塵中决不可處也。願栖遅巗壑、以儘餘喘。

大師、一日、吾[わ]が兄(珠龍海の兄弟子)格峯禅師に語りて、云[い]う、「念、境(対象)に対して塵中[じんちゅう](俗世界)に起これば、決して処するべからず。願わくは、巌壑[がんがく]に棲遅[せいち](隠居)し、以[もっ]て余喘[よぜん(のこりの命)を尽さん」

大師がある日、わたしの兄の格峯におっしゃいました。「対象に対する思いが俗世界で起きたなら、決して、それに応じた行動をとってはなりませんね。願いが叶うのであれば、わたくしは岩屋に隠棲して余命を全うするつもりです」

ですが、このときの出家したいという萬子媛の思いは、親戚に反対されて叶いませんでした。見かねた格峯が義理の母の願いを叶えようと、自分の住まいであった祐徳院をお譲りになったのでした。

義理の息子たちに助けられて萬子媛の出家の願いは叶い、萬子媛の小伝も残されたのでした。おなかを痛めた二人のお子さんは亡くされたけれど、それを補って余りある素晴らしい関係を萬子媛は義理の息子たちとの間に築いておられたのです。

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2022年3月15日 (火)

姑から貰った謡本(この記事は書きかけです)

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姑からごっそり貰った謡本。わたしが貰わなければ捨てるということでした。

姑が母親から貰ったらしい、昭和25年ごろの古い謡本も数冊混じっており、姑は長いこと仕舞を稽古していたのに全部捨てるとは……と困惑しましたけれど、要するにマイブームが去ったということらしく、現在のマイブームはアートフラワーと水彩画だそうです。

ネットで調べたところでは、貰った謡本は、二十四世 観世左近『大成版観世流謡本 93冊』(檜書店、1972)だと思います。

「羽衣」「熊野」なども入っているはずですが、見当たりません。紛失したのでしょうか、残念です。

写真の向かって右上に置いた「杜若」は、わたしが初めて観能に出かけたときの印象的な演目でした。チケットは姑が行けなくなったということで貰ったのでした。

かなり練習したのか、書き込みが相当あります。「杜若」は当然、姑も観たかったようで、当時、わたしがとてもよかったとの感想を述べると、「わたしも観たかった……」と残念そうでした。

昨日から、謡本がもたらしてくれる世界に浸っていました。作者、資材、構想、曲趣、節譜解説、舞台鑑賞、辞解とわかりやすくまとめられています。イラストも入っています。

観世流の謡本ですから、観世流の世界観が表現されているものだといえます。

わたしが貰わなければ捨てられた謡本……縁があって、わたしのところへ来てくれました。幾人もの高貴なお客様を迎え入れたような緊張感があります。

萬子媛から「それでもっと勉強してください」と叱咤激励されたような気がしました。

そういえば、過去記事で、羽衣について書きかけていたことがありました。今は時間がないので、あとでまた。

※この記事は書きかけです。

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2022年2月 2日 (水)

祐徳院について、新発見あり。尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです。

今日もブログを書く時間が思うように取れず、イベルメクチン、ワクチン関係の記事も書けていないのですが、昨夜、祐徳院関係の考察で新発見がありましたので、とりあえずメモしておきます。

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは昨日の記事で次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年2月 1日 (火)
祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-54e709.html

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、以下の過去記事では次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年1月17日 (月)
萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/01/post-51f4bc.html

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。前掲記事ではうっかりして禪を禅と書きましたが、禪という旧字体が使われています。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禅尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禅尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

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2022年2月 1日 (火)

祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。

地震以降、とにかく雑用や家事に時間がとられて、時間がつくれません。メモだけでもしておかないと、書かないままに終わってしまいそうです。紹介したいレシピと、命に関わるワクチン関係の記事を優先するはずでしたが、先に、祐徳院について。

いや、その前にイベルメクチンとワクチン後遺症について、ごく簡単に。

興和が「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認したとのニュースを、珍しいことにロイターが報じました。
また、京都大学のコンピュータによる研究(査読前論文)で、イベルメクチンはオミクロンに対して最も有効という結論が出たそうです。

興和、「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認(ロイター)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4924fb35eaa89d16884e9562defa71572857e2f7

京都大学の論文へのリンクです。
https://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/2201/2201.08176.pdf

また、これは過去記事で紹介したことがあると思いますが、コロナやワクチンの後遺症として、狂牛病(牛海綿状脳症)、あるいはアルツハイマー病のような症状が起きることがあるという疑いです。

それについての新情報をkazuchan-coconeさんがツイートしてくださっています。その論文へのリンクです。

Innate Immune Suppression by SARS-CoV-2 mRNA Vaccinations: The role of G-quadruplexes, exosomes and microRNAs
https://www.authorea.com/users/455597/articles/552937-innate-immune-suppression-by-sars-cov-2-mrna-vaccinations-the-role-of-g-quadruplexes-exosomes-and-micrornas

以上のイベルメクチン、ワクチン関係は別記事で、詳しく書きます。

さて、祐徳院について、です。

祐徳院の二代庵主様の御子孫であられる愛川様が送ってくださった貴重な資料について、「お渡しした資料は、萬子姫を調べるツールとしていかようにも使って頂いて結構です」とのご許可をくださったので、当ブログにエッセーの下書きをまだ続けるかもしれませんが、なるべく早いうちに「祐徳稲荷神社参詣記(17)」にまとめたいと考えています。

愛川様にはコロナ終息時にはお目にかかりたいという気持ちでいっぱいですが(江戸時代に祐徳院の二代目庵主を務められた無著庵慧泉宲源禅尼の面影がおありかも……)、娘が病院勤務であるため、家族にもやんわり規制がかかっている状態で、県越えが難しいです。

送っていただいた資料の中には、歴史研究家にお渡ししたほうがいいのではないだろうかと思える、巻物に記されていたという自筆履歴の写しがあります。漢文です。

それは、過去記事でも触れましたが、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にした愛川春碩というかたの貴重な自筆履歴の写しです。

今日、それを確認していたところ、その自筆履歴原稿の下のほうが切れてしまっていることがわかりました。コピーを取られるときに切れてしまったのでしょうか。近いうちに、愛川様にお尋ねしてみようと思います。

というわけで、コロナ縛りが解けたら、祐徳稲荷神社と祐徳博物館にもなるべく早いうちに行きたいと考えています。

わたしは過去記事で、次のように書きました。

永久保存と書かれた無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

ニュースによると、このときの宮司さんは息子さんと交替なさったようですが、祐徳院二代庵主様に関する永久保存版文書は神社のどこかに、あるいは宮司さんが保管なさっているのでしょうか。

普明寺を管理されている女性に尋ねたところでは、祐徳院関係のものは普明寺には何もないということでしたから、文書が存在するとすれば、祐徳博物館ということになりますが、もしそうだとすれば、岩本社について教えてくださった女性職員のかたが教えてくださったはずなので、祐徳博物館に行ったらそのことも尋ねようと考えていますが、祐徳博物館にはないのかもしれません。

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

愛川様によると、そのような掛け軸を見たことはないそうです。現在、存在するとすれば祐徳博物館以外考えられませんが、そのような掛け軸を博物館で観た記憶がありませんし、もしどこかに収められていたなら、やはり女性職員のかたが教えてくださったに違いないと思うのです。

祐徳院及び、そこで修行されたかたがたがおられなければ、祐徳稲荷神社はありませんでした。もしあったとしても、鹿島稲荷神社とか鍋島稲荷神社といった名で呼ばれる稲荷神社の一つにすぎなかったでしょう。

明治期の神仏分離令の影響は、想像した以上に大きく、わたしは今それをひしひしと感じています。

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2022年1月19日 (水)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。(1月24日に加筆訂正、赤字)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。

昨年12月に愛川様から衝撃的な内容のメールを頂戴したことは、以下の記事に書いています。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

届いたばかりの書類に関しては、まだお礼のメールも出していないので、ざっとご報告しておきます。

引用させていただきたい箇所を特定してから、今日中にはお礼のメールをしようと考えています。

永久保存と書かれた文書中、無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

このような貴重な文書から断片的な引用が許されるのかどうかわかりませんが、お尋ねしてみたいと思います。

「鹿島藤津郡医会師よりコピー(原文ママ)」と手書きメモのある資料には、「愛川伯斉」の紹介に「三代藩主直朝に仕えた愛川伯順以来の藩医の家である」とあります。※1月22日に拝受したメール、24日にいただいたお電話でも確認しましたが、「鹿島藤津医会史」とご訂正ください、とのことでした。

愛川様のメモによると、愛川の名は『鹿島藩日記』『鹿島役所日記』『鹿島市史、中巻』『医業免礼制度』に出てくるそうです。

『鹿島藩日記』には、二巻、四巻、五巻に出てくるとあり、何頁に出てくるかもメモして下さっているので、わたしが持っている二巻をさっそく見たところ、興味深い日記の内容でした(わたしが購入したのは一巻と二巻です)。

愛川様の御先祖、愛川伯準(『鹿島藤津医会史』では伯順となっています)というお名前が出て来るのは、『鹿島藩日記 第二巻』所収「日々萬控帳 宝永二年乙酉ノ六月五日ヨリ 同三年戌九月四日迄」中、宝永二年七月十五日の日記(p.527)です。

切腹しかけた人があり、そこに派遣されたお医者様のうちのお一人が愛川伯準でした。「薬こう薬等」で治療されたようです。この箇所はノートにまとめるときに引用します。

確か、日本で初めて殉死禁止令を出したのは、佐賀藩主の鍋島光茂公ではなかったかと思います。

2014年5月13日 (火)
初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2014/05/272-bfac.html

田中耕作『初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども』(佐賀新聞社、2000)によると、この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

何にせよ、このとき愛川伯準が手当てをなさった与兵衛という人は、法を犯して殉死しようとしたのですね。いや、殉死のために切腹を意図したとは限りません。何のために切腹しようとしたのでしょうか?

その経緯についても詳しく書かれているようですが、素人のわたしの読解力では内容を理解するのに時間がかかります。

鹿島藤津医会史』に「元禄十三年(1700)四月十三日の鹿島請役日記より」と書かれた引用箇所及び解説を見ると、萬子媛と同じ頃に亡くなられた鍋島直條公のご病気が何であったのかがわかります。腹部に腫瘍のある疾患だったようです。

直條公は5年後に江戸で亡くなっていますから、5年以上、腹部の悪性腫瘍に悩まされていたことになります。病身に鞭打って鹿島鍋島藩主としての仕事を続けていられたのでしょう。

この鹿島請役日記は『鹿島藩日記 第一巻』で見た記憶があったので、開いて見ると、やはり収録されていました(『鹿島藤津医会史』の引用に該当するのはpp.502-503)。

ここではお名前が「白順」とあり(水川)とありますが、これは愛川伯順(あるいは伯準)でしょう。

昔の文書には当て字が多く、素人は面食らうことがしばしばです。

鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われた愛川春碩というかたに関する資料も大変貴重です。その御子孫の愛川様にぜひ作品としてまとめていただきたいです。

昨年の12月下旬、愛川様にお電話する前の検索で、愛川様が古代史研究家で邪馬台国に関する研究をなさっていることがわかりました。講師もなさっているようです。お電話したときにそのお話もしたので、邪馬台国に関する作品のコピーも送って下さいました。

沢山の贈り物に驚くばかりですが、とりあえず、お尋ねしたいことをまとめて、早くお礼のメールをしなくては……

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2022年1月17日 (月)

萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)

らくがきメモ9に加えておきたいことが2件出てきました。

前記事同様にノートのためのノートというまどろこしさですが、いきなりノートとして書くには引用したり参照したり整理したりといったことに時間がかかるので、こうなってしまいます。主婦は物書きとしては恵まれた立場ですが、ただ休日というものがなく、まとまった時間のとれないのが難点です。

2017年に佐賀大学地域学歴史文化研究センターから購入した井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)を改めて見ていると、21番目の資料として、「普明寺禅寺過去帖」がこの資料集の最後を飾っていることに気づきました。

郷土史家の迎昭典先生から貴重な資料を沢山送っていただいており、購入した時点では、ある程度の整理はついていました。

佐賀県鹿島市大字古枝字久保山にある普明寺は黄檗宗の寺院で、鍋島直朝公の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳性幢が開山となって創建されました。以後、鹿島鍋島家の菩提寺となります。祐徳院は普明寺の子院でした。

普明寺を見学したときのことは、以下のエッセーに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

断橋は義理の母である萬子媛に祐徳院を譲って、ご自分は普明寺に移られたのでした。普明寺は祐徳稲荷神社にほど近い場所にあります。

といっても、整備された今の道路を車で行くから近く感じられるのであって、当時の道路事情はどうだったのでしょう?

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

前掲エッセーで、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)の中の宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記を引用しているのですが、その記述の中で蘭契という人物が祐徳院は山中にあると述べておられます。

当時は、奥深い山の中を歩いて行き来するという感じだったのでしょうか?

蘭契という尼僧が萬子媛の後継となって祐徳院の庵主となった人物ではないか――と憶測していたところ、御先祖様が第二代庵主を勤められたという愛川様からメールを頂戴し、電話してお話を伺ったのでした。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

第二代庵主の出家前の姓は愛川、出家後は「無著庵慧泉宲源」だそうです(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。フォントによってこの漢字は表示されたり文字化けしたりします)。尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。

そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に登場する蘭契というかたかどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われました。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでしたから。

鹿島市民図書館の学芸員は、祐徳院のその後について、以下のエッセーで採り上げた電話取材で、次のようにおっしゃいました。

88 祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/07/205602

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

この電話取材以前に、わたしは『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収の「普明禅寺過去帖」にざっと目を通していたはずでしたが、そのときは学芸員がこの過去帖を根拠として、祐徳院というお寺の歴史を推測なさっていることに気づきませんでした。学芸員は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の著者のお一人なのですから、著作の内容にお詳しくて当然なのです。

今回『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」を再読して、注目した箇所を引用します。

  寶永 宝永八年改元正徳 (※引用者註 最初の宝永のホウは旧字体)

……(略)……

祐徳院殿瑞顔實麟大師
  二年四月十日 直朝公後室開山和尚剃度為尼改正六月一日 前左大臣定好卿娘塔於祐徳院万子(p.179)

……(略)……

祐徳院前住入祠堂(後補)(※引用者註 玄の次の漢字は、うかんむりに呆)
絶玄宲仙禅師 五年十二月十七日
  天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始(p.181)
……(略)……

  寛政 十三年改元享和

 宝石二代 桃洲源和尚 七年七月四日
            初住大興後迁化祐徳院塔当山
(p.193 ※引用者註 「宝石二代」は小さな字で宝石と二代が二行に分けて書かれています。初住大興後の次の漢字は「千」にしんにょう)

……(略)……

祐徳九代
 前監西洲玄璨和尚 十一年七月廿二日
(p.193 ※引用者註 玄の次の漢字はおうへんに粲[サン])

このように普明寺の過去帖に、子院である祐徳院に関する記述があるのです。素人のわたしにはうまく解読できませんが、学芸員がおっしゃったように祐徳院は推移したのではないかと思います。

「天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始」とあります。「後補」は「後世の補修」という意味で使われるようですから、天明七年五月二日にその加筆が行われたということでしょうか。

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

鍋島直朝公の後継として藩主となった文学肌の直條公が『祐徳開山瑞顔大師行業記』(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収)を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかったでしょう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだといわれています。その直條公も萬子媛と同じ頃(宝永二年四月三十日(5月22日))亡くなったわけですが、少なくとも『祐徳開山瑞顔大師行業記』著述時までは、「尼十数輩」が祐徳院で修行なさっていたのです。

二代庵主の庵主としての期間は短かったかもしれませんが、萬子媛とおそらく一緒に出家されて、それから20数年、技芸の神様として祀られるような勤めを果たされて亡くなったのでしょう。

萬子媛が62歳で出家し、80歳で亡くなったことから考えると、萬子媛の降嫁の際に京都から付き添ってきた従事者がそう何人も残っておられたとは考えにくく、尼寺だったときの祐徳院には地元の女性も尼僧として在籍し、修行しておられたのかもしれないとわたしは考えています。

そして、二代目が亡くなった後、三代目になれるような女性は残念ながらおられなかったのではないでしょうか。

萬子媛が亡くなってから九代が亡くなるまでに、94年経過しています。

とんでもない間違ったことを書いているかもしれません。素人芸ですので、参考にはなさらないでください。

普明寺の過去帖は昭和まで記述があります。

愛川様は祐徳院に関する資料をまとめてくださっているようです。大変な作業でしょうね。それによって、何かわかることがあるかもしれません。

もう一つわかったことがあります。萬子媛が鹿島鍋島家に降嫁された背景に藤原氏という共通するカラーがあったのではないかということです。

萬子媛は、鍋島直朝公の継室として京都から嫁がれました。正室は1660年に32歳で亡くなった彦千代(寿性院)というかたでした。彦千代の母は龍造寺政家の娘だったそうです。

ふと、龍造寺氏の出自はどのようなものだったのだろうと思い、ウィキを見ると、諸説あるようですが、藤原北家と関係があるようです。

萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たる公家です。

鍋島氏の出自にも諸説あり、藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられるとウィキにあります。

龍造寺氏は少弐氏を破り、鍋島氏に敗れたわけですが、少弐氏は藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族だということですから、何だか藤原色が濃い中での争いだったのですね。

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2022年1月14日 (金)

間が空きました

用事が重なり、ご無沙汰しました。

6日に前記事を公開したあと、キンドルストアで販売中の児童小説『田中さんちへやってきたペガサス』を今年中にはアマゾンのオンデマンド出版サービスを使って出したいと思っているので、その計画を検討しました。表紙含めて自分で手がけるか、表紙だけ有料サービスを利用するか、あるいはPDF化全部をプロに頼むか、迷うところです。

田中さんちにやってきたペガサス
(Kindle版,ASIN: ‎B00BEMD5ZK)

いずれにしても、表紙はプロのデザインを購入することになるかなあ。

そこまでするのであれば、改稿したい気もしてきます。続編を書きたくなったりもします。

いやいや、いけない。今年はそれより新作能の創作を第一にしなくては。そこで、謡曲集を読み、以下の文章を下書きしたところで、用事の津波に呑まれました。

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

夫が行ってくれた。外出すると、好きな場所であってもどうしても疲れて家事に障るので、夫が快く行ってくれて助かっている。特に創作を応援してくれているということはないが、こういう形で応援して貰っているとはいえる。大学で同じ文芸部だったからこそ、こんなことが頼めもする。

『謡曲集一』をあれこれ見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

昔話の『羽衣』は、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を頼んでしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』の核となる一文。

ここまで書いて中断していました。「祐徳院」らくがきメモ9で、続きを書きます。といっても、また新しい用事ができたので、これもアップには少し時間がかかりそう。

コロナワクチンに関するニュースにも見逃せないものが2件あるので、先にその記事からのアップとなるかもしれません。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出します。どこへお帰りになるのかはわかりませんでしたが、上のほう、雲の彼方のどこかです。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのでしょうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書きませんでした。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書きました。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていました。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないでしょうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのでしょうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU 

心の鏡でしか見たことのない萬子媛と太陽の光と区別のつかなかった圧倒的なオーラの記憶が映像に重なり、涙が出てきます。ああ、懐かしい。もうずいぶん、行っていないなあ。

謡曲『羽衣』には、核となる一文があります。文学作品は、その核となる一文がなければ失敗作となりますから、わたしの新作能作品にもその一文――オリジナルな一文――が必要です。見つからなければ、いつまで経っても仕上がらないでしょう。

萬子媛をモデルとした歴史小説もどきには、その一文がなかったので、作品としては下書きの域を出ませんでした。あの時点では、萬子媛が断食入定なさったのかどうかに確信が持てず、萬子媛観が相当に揺らいでいました(その事実があったかどうかを歴史的事実として検証したエッセー89「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」をご参照ください)。

らくがきメモ9で、萬子媛にまつわる最近起きた、あわい神秘主義的体験についても記そうと思います。この体験は夫も共有しています。夫も、その霊妙な鈴の音とも鐘の音ともつかない音色を聴いたのでした。その音色は、祐徳稲荷神社に参詣しようとしていたときに聴いた音色と同じでした。

わたしが「高級霊ウォッチャー」よろしく探ろうとして近づくと、「緊急避難」もしくは「煙幕を張って」全力で一切の気配を消そうとなさるのに、わたしの真摯な問いかけにはそれとない形で応答してくださるのが感じられていました。

耳に聴こえる音として応答があったのは、二度目でした。前回は問いかけに対する応答としてではなく、「急いで」という注意としてでしたが……(らくがきメモ9では、そのことを書いたエッセーにリンクします)。今回はわたしの深い疑問に対する応答ではなかったかと考えています。で、何を疑問に思っていたかというと……

ここまで書いてしまいましたが、続きはやはりらくがきメモ9で。その記事とダブる部分は、あとで削除します。

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2022年1月 3日 (月)

『祐徳院』らくがきメモ 8)ワキが後ジテに出逢う場面での美の表現の難しさ。二日に一句。

創作の計画立てし二日かな

新作能の執筆は初めてということで、自分を甘やかしてきたが、できれば年内に仕上げたいと考えている。昨日、そのための計画をざっと立てた。

ノート7では、田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面を書いた。

2021年12月16日 (木)
『祐徳院』らくがきメモ 7)田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-b59f41.html

年末に考えていたのは、故郷の名を記した醤油樽に縋り付いているワキ(田中軍医をモデルとした人物)に萬子媛が出現する場面だった。

これに先立つ出来事として、ワキが前ジテに船中で出逢う(ワキの乗る江尻丸という貨物船は魚雷にやられて爆発する運命にある)。そのときの萬子媛は生前の老尼僧の姿で、気高くは見えても普通の人としての姿である。

それに対して、後ジテとしてワキに出現する萬子媛は女神としての神々しく若々しい姿だ。かといって、それは人を脅かす異形の姿ではない。

ここをどう表現するかで迷っているうちに年末年始の慌ただしさにどっぷり漬かってしまい、中断してしまっていた。

生死の海に漂ひて、残り少しと身を思ふ際[きは]に、あら、きらきらしき女性[にょしゃう]一人[いちにん]さしぐみに現れ給ふは、如何なる御方にてましますぞ。

芹生公男『現代語から古語を引く辞典』(三省堂、2018)には、「美しい」を意味する古語には沢山あるのだが、これはどうだろうと古語辞典を引いてみると、わたしのイメージとはずれがあったり、現代語とのイメージ的乖離があったりで、選択に迷う。

「きらきらし」には、

  1. きらきらと輝いている。
  2. 端正である。(容姿が)整って美しい。
  3. 堂々として威厳がある。
  4. きわだっている。

といった意味がある(宮腰賢・石井正巳・小田勝『全訳古語辞典』旺文社、第五版小型版2018)。

後ジテの萬子媛は文字通り、きらきらと輝き、美しく、堂々として威厳があり、際立っておられるのだからこの古語でいい気もするが……まだ迷っている。

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