以下の記事を書いたときに、神智学の研究に役立ちそうな著作がキンドル版で出ているのを知り、購入した。充実した内容なのに安くて、嬉しい。
ブラヴァツキー『神智学の鍵』を読んでいると、神智学という言葉の意味や由来を説明するのに、「ワイルダー教授」の著書からの引用がある。
そのアレクサンダー・ワイルダーの著作が邦訳版で読めるのだから、ありがたい。
新プラトン主義と錬金術: 神智学の起源をたずねて
本の構成は、後半部が解説対談となっている。このあと今日は読書の時間がとれそうにないので、そちらから読んだ。気になったところを、ざっとメモしておきたい。
ちなみに、訳者の別の本の著者略歴によると、「1958年生まれ。ミュンヘン大学大学院修了。元ピサ大学客員教授、元新プラトン主義協会会長」とあった。
久しぶりに神智学協会ニッポン・ロッジのホームページを閲覧してみたら、「勉強会のお知らせ」に、カバラ基礎・ヘブル語、古典ギリシャ原典購読会、サンスクリット原典購読会が予定されているではないか!
び、びっくりした。本格的だ。東京在住であれば、行けるのに……凄いなあ。勉強してみたいと思っていたものばかり。というより、こうした基礎知識なくしては、本当にはブラヴァツキーの著作は読めないのだ。
本格的な取り組みに感激した。
古典ギリシャ原典購読会を、堀江先生が担当なさるようだ。興味のあるかたは、詳細をホームページで御覧ください。
解説対談は、堀江先生と元神智学協会ニッポン・ロッジ会長の高橋直継氏。
堀江先生は「新プラトン主義のような古典と神智学のような現代の教えが、一方通行ではなく交流して、お互いを豊かにすることが望ましいのではないでしょうか。新プラトン主義の立場から神智学に刺激を与えられるし、神智学の方からも刺激をいっぱいもらって、そういう見方で新プラトン主義をながめると思わぬところが見えてくる」とおっしゃっている。
以下は私的読書メモ。書きかけです。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
神秘主義を堀江先生は要約して、「現在の人生ではない人生にこの世でめぐり会えるといような、端的に言えば、一者との合一という思想です。つまり、神と一体になれるという、ある意味怖ろしい思想ですよね。神というのは絶対者ですから、その絶対的な者と、肉体を持って日々あくせくしている人間が一体になるということは論理的にありえないわけですが、それを越えて、弱い人間が神になれるという考え方です。そのような思想が、文献的にはプロティノスで一番はっきり残っているわけですね」とおっしゃるが、こういわれると一者が人格神のようにイメージされてしまった。
プロティノスは『世界の名著 続2 プロティノス ポルピュリオス、プロクロス』(編集責任 田中美知太郎、中央公論社、昭和51年)で読んだだけだが、本を開いたとたんにまばゆい光のシンフォニーがこぼれてくるような、美々しさ、幸福感に満ちている。
ポルピュリオスのプロティノス伝が収録されていて、一匹の蛇がプロティノスの寝台の下をくぐって壁の穴に姿を消したときに息を引き取った、という臨終の様子が印象的だった。
時々本を開きたくなり、断片的には読み返してきたが、全体を通して読んだのは37年くらいも昔なので、通して読み返したくなった。
堀江先生の解説で、ここも引っかかった。「要するに、神智学は卑俗な人間が持つものではなく神が持つので、仮に人間が持つにしろ、起源はどこか神聖なところにあるのだということですね。言ってみれは自己循環的で、神聖なものが神聖なものについて持つ知識、あるいは神が神について持つ知識、それだけだったら相互が自己完結してぐるぐるまわってしまう。神は自分に向かう神聖な智慧の輪から逸れることはなく、他方、人間はあくまで卑俗な世界にいて卑俗な知に向かう輪を循環している。その互いに孤立した二つの円環がそもそも交わりうるのか、そして、交わるとすればいったいどこで交差しうるのか、そこが決め手になってくるのではないでしょうか」
人間の七重の性質についての知識があり、内なる神という考えがあれば、神と人間をここでいわれているような「孤立した二つの円環」という風な個々別々なものとは考えない。
堀江先生の「アリストテレス『形而上学』第一巻に出てくる形而上学がなぜ神的な学問なのか」という説明は、ブラヴァツキーのいう「神々が持っているような神聖な智慧」の説明とは別物というか、置き換えることはできないと思う。ここは高橋氏の「そういうインスピレーションというか、啓示というよりは自己の内側から湧き出てくるような、理性を越えた所からくる直観のようなものを想定している」という説明が的を射ている。議論が噛み合っていない。
一番の大本から段階的に質料とかフォーハットとかいろいろと出てくるが、そうした存在階層はどのように定義されているのかという堀江先生の質問に対して、高橋氏は「ブラヴァツキーが活躍した頃の初期の神智学では、そういった存在階層についてまだはっきりと整理されていませんでした。次のアニー・ベサントたちの世代になってくると、少し存在階層としての宇宙や世界が体系化されてきて、それが現代の神智学における主要な内容とさえ考えられています」とお答えになっているが、複数のアデプトとブラヴァツキーの共作である『シークレット・ドクトリン』が、初期の神智学では整理されていなかった――というような低い段階にある作品とは到底思えない。
アニー・ベサントの理解力には疑わしいところがある気がする。リードー・ビーターになると、全く別物だと思うし、あとのほうで、新プラトン主義的な神秘思想の流れとして触れられているベイリー、クレームについてはひじょうに問題があると感じる。
竜王会で流行した時期に、ベイリー、クレームを読んだことがあったが、わたしが馴染んできた神秘主義の本とはおよそ似ていない強圧的な不浄なオーラが見え、読もうとすると、頭痛がしたり吐き気がしたりしたので(難解だからではない。『シークレット・ドクトリン』ほど難解な本はないと思う)、わたしの中ではダークな本と位置づけられてしまった。
そちらにいった人たちからは、主観的と非難された。オーラの見え方にも多かれ少なかれ主観が入るのかもしれないが、別に偏見があったわけではなかった。予備知識は何もなく、そのころはシュタイナーもリード・ビーターもベイリーも何も区別がつかなかった。
交際する中で、いろんな人からいろんな本をいただいたのだ。善意からだったろうと思う。今では、ブラヴァツキー、エレナ・レーリヒだけは無条件に信頼して読んでいる。オーラがえもいわれぬ美しさで、2人の著作は姉妹のように感じられる。
偽ディオニシウスについて、堀江先生はわかりやすく解説してくださっている。
「6世紀に偽ディオニシウス・アレオパギタという人物がいて、彼も「テオソフィア」という言葉を使います。そして。キリスト教と新プラトン主義を融合しようと試みました。偽ディオニシウスの著作には、『神秘哲学』という神秘哲学のマニュアルのような書や『神名論』という大著があります。さらに、天使の位階を九段階に分けるという『天上位階論』、それに対応して教皇から枢機卿、司教、助祭というように分かれていく『教会位階論』、そして、書簡集から構成されています」以下。
『世界の名著 続5 トマス・アクィナス』(編集責任 山田晶、中央公論社、昭和53年再版)で読んだトマス・アクィナスの作品にディオニシウスからの引用がちょくちょくあって、その部分が大層魅力的だった。気になる存在だった。
例えば、「神の光線が色とりどりの聖なるヴェールに包まれずに直接にわれわれを照らすことは不可能である」(p.109)
ワタクシ的に気になる箇所はあったが、解説対談を読んで、頭の中の整理ができた。