カテゴリー「能楽」の12件の記事

2021年11月 7日 (日)

『祐徳院』らくがきメモ 6)能の五番立

「蔵出し名舞台 名人の芸で観る能の五番立」『にっぽんの芸能』(NHK)――初回放送日: 2021年8月27日――を視聴した。

『にっぽんの芸能』の能を採り上げた回は勉強になるので、よく視聴しているのだが、この回は録画したまま未視聴だった。もっと早く視聴しておけばよかったと思った次第。能の五番立の解説がとてもわかりやすかった。ノートしておこう。

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能の五番立

  • 神(しん)
    天下泰平、国土安穏[あんのん]を祈り祝う神の姿を描く。「高砂」「鶴亀(月宮殿)」等。
  • 男(なん)
    主に武将が死後、修羅道という地獄で苦しむ様子を描く。「清経」「実盛」等。
  • 女(にょ)
    多くは女性を主人公とした、美しく幻想的な能。「羽衣」「熊野(湯谷)」等。
  • 狂(きょう)
    心乱れた人々や怨霊、異国のものを描く。「隅田川(角田川)」「葵の上」等。
  • 鬼(き)
    鬼や獅子、天狗などが登場する華やかなフィナーレ。「石橋[しゃっきょう]」「大江山」等。

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江戸時代、能は武家の式楽(公式芸能)と定められていた。萬子媛の夫であった鍋島直朝公が能を嗜まれた背景として、こうした幕府の方針があり、加えて萬子媛の影響もあっただろう。

先月、『多田富雄新作全集』が3,000円台で2点出ていた。新品もあるが、9,240円もする。図書館から度々借りていたので、できれば入手したいと思っていた。中古品だと、汚れていないか心配になる。それも安い値段だと。くずくずしているうちに安いほうは売り切れてしまった。

3,300円の本が残っていた。汚れている箇所が写真に撮られ、表示されていた。箱入りの本で、汚れているのは箱のようだった。中身は無事なのだろうか? 多田氏の作品の内容にはやや疑問があるのだが、とても勉強になる本であることは間違いない。今後、ここまで安い中古品が出るとは限らない。注文した。以下はAmazonの商品ページより。

多田富雄新作能全集
多田富雄 (著), 笠井賢一 (編集)
出版社 ‏ : ‎ 藤原書店 (2012/4/23)
発売日 ‏ : ‎ 2012/4/23

多田富雄三回忌記念出版 現代的課題に斬り込んだ全作品を集大成!
免疫学の世界的権威として活躍しつつ、能の実作者としても、脳死、強制連行、核兵器、戦争など、現代的課題に次々と斬り込んでいった多田富雄。1989年の第一作「無明の井」から、最晩年の「花供養」まで、現世と異界とを自在に往還する「能」という芸術でなければ描けない問題を追究した全8作品に加え、未上演の2作と小謡を収録。巻末には6作品の英訳も附した決定版。

確かに、箱の一箇所が汚れていたが、それほど気になる汚れかたではなかった。中身は新品同然だった。注文カードが挟まれたままで、栞紐が使われたことのないまま二つ折りになって挟まっていた。藤原書店の小冊子「機」も挟まっていた。

嬉しかった。本が汚くなっていると、せっかく購入しても放置状態になってしまうことがあるのだ。図書館から借りる本はありがたいことに、新品同然のものばかり。たまに大衆受けするタイプの本を借りると、あまりの汚さに愕然となる。

多田氏の能作品を再読したが、内容にはやはり疑問がある。しかし、11編の能作品には創作ノート、構成、あらすじなど付いていて、とても勉強になる。海外公演のための英訳詞章集も付いているではないか。

そういえば、イェーツが能の影響を受けた書いた一幕物詩劇「鷹の井戸」が青空文庫で読めたので、印刷して読んだ。独特の雰囲気は出ているが、内容的には痩せている。

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2021年10月25日 (月)

YouTubeで視聴できる新作能「アマビエ」、コロナ終息を祈願する神歌・能「岩船」

コロナ禍ゆえの自粛に対応するためでしょう、1年前くらいから能楽関係のYouTube動画が一気に増えたような……期間限定動画配信なども目に留まります。

すっかり有名になったアマビエ伝説ですが、このアマビエをモチーフとした新作能「アマビエ」が公開されています。後半に作者の上田敦史氏(小鼓方大倉流)と大槻裕一氏(シテ方観世流)の対談が収録されています。

新作能「アマビエ」 
2020/12/04
公益財団法人大槻能楽堂
https://youtu.be/-okw1gDZVDA

また、コロナ終息祈願「初春能」 神歌・岩船が公開されています。邪気が祓われるような格調の高さがありますね。

コロナ終息祈願「初春能」 神歌・岩船
2021/01/03
公益財団法人大槻能楽堂
https://youtu.be/gpyLZk1ZwwQ

「岩船」に登場する天探女をウィキで検索すると、天邪鬼の原型といった意外なことが書かれていますが(ウィキペディア「天探女」)、ここでは天界の存在ということでいいのでしょうか。

「岩船」について、以下の解説がわかりやすいです。

演目事典: 岩船(いわふね)」『the能.com』
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_060.html

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2021年10月 9日 (土)

神秘主義エッセーブログに「112 祐徳稲荷神社参詣記 (15)新作能「祐徳院」創作ノート ①2020年7月~10月 」をアップしました

やはり新作能にチャレンジすることにし、これまで当ブログに綴ってきた新作能に関する覚書を2本の記事にまとめ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録することにしました。1本目の公開はご報告済みでした。2本目も公開しました。若干手を加えましたので、当ブログに転載しておきます。

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112 祐徳稲荷神社参詣記 (15)新作能「祐徳院」創作ノート ①2020年7月~10月
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2021/10/06/195736

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龍右衛門作と伝えられる「雪の小面」を江戸時代初期に写したもの。
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

 目次

  1. 「断り書き」ノート、曲名の第一候補、「ワキ〈名ノリ〉」ノート1、(2020年7月25日)
    ● 「断り書き」ノート
    ● 曲名の第一候補
    ● 「ワキ〈名ノリ〉」ノート1
  2. 挿入する和歌、経典の断章(2020年7月28日)
  3. 作中に挿入する経典の断章として外せない『般若心経』(2021年9月22日)
  4. あの世の涼しき観点から眺めれば、この世の出来事は一幕の芝居(2020年10月31日)


1.「断り書き」ノート、曲名の第一候補、「ワキ〈名ノリ〉」ノート1、(2020年7月25日)

「断り書き」ノート

当作品は、田中保善著『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980年)に触発されて執筆したものです。執筆にあたり、「本音と建前」の章「キャプテン・ラスト」の節の中の41頁の記述をモチーフとさせていただきました。

『泣き虫軍医物語』の内容については、著者あとがきに「この本は太平洋戦争末期の昭和19年7月、町の一開業医だった私がにわか軍医として応召、戦地ボルネオを中心に体験した記録である」とあります。

曲名の第一候補

祐徳院

「ワキ〈名ノリ〉」ノート1

○○軍医(ワキ)は、戦場ボルネオへ向かう貨物船の通路で尼僧達(前ジテとツレ)に出遭う。出遭うはずのない人々であった。

尼僧達は求法のために船に乗ったという。

軍医の疑問に対して、前ジテは「法[のり]の舟さしてゆく身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1922)*1、「しるべある時にだに行け極楽[ごくらく]の道にまどへる世の中の人」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1923)*2という歌を答えの代わりとして、尼僧一行は何処にか姿を消す。

ツレの人数が問題だ。わたしはエッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (12)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」で次のように書いた。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名。
蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、●要(※ ●は「しめすへん」に「同」)。
萬子媛の存命中は総勢 18 名だったことになる。

この方々をツレのモデルとするつもりなので、17名全員登場させたいところなのだが、さすがに多すぎる。登場人物の多い「安宅(あたか)」では、義経の家来だけでも10名ほど登場するが、それでも10名ほどだ。

人数をぐっと絞って蘭契1人にするか、3名ほどにするか、多く登場させるか(それでも17名は無理)、うーん、それが問題だ。

○○軍医は里に妻子を残してきており、幼子は重態であった。

船が爆発し、○○軍医が飛び込んだ大海原。流れてきた里の樽に縋り付いて命拾いした○○軍医に、神々しい姿となって登場する後ジテは、自分が我が子を亡くしたことから出家した身であることを明かす。

能向きの文章に調えるのは後にして、まずは、へんてこな文章になるのを怖れず、サクサク書いていこう。

ワキ〈名ノリ〉

これは肥前国鹿島より出でたる大日本帝国陸軍軍医にて候。このたびの東亜細亜の大事を計らひ、ちはやぶる天下を和(やは)さんと、わが大日本帝国は米國また英國へ宣戦を布告せり。
初めつ方は時つ風吹けども、やうやう勢ひのしづまれり。
赤紙来たれば、地区一同各戸総出にて、われの武運長久の祈願祭を祐徳稲荷の社にいとなみたまひて、其の後に地区有志はなむけの会を開きたまひき。
国に留め置きつる妻子あり。明日打ち出でんとての夜、子とみに病ひづきて候。子の病ひ、軽からねば、われは後ろ髪を引かるる思ひなり。
わが船団十二隻は門司の泊まりを発向致し候。駆逐艦、水雷艇、駆潜艇、飛行機に守られて、朝鮮海峡、東支那海と南下すれど、鬼神よりは凄まじき敵は取り掛けき。其をからうじて交はして、魔のバシー海峡凌ぎけり。

『泣き虫軍医物語』によると、田中氏が出発する直前に発病した4歳になる長女は、鶏のもも肉に当たったらしい。病名は疫痢(幼児の赤痢)と書かれている。幸い、病気は治った。

『泣き虫軍医物語』で、ボルネオにいた兵隊達がよく罹患していたのはマラリアだ。用いられていた薬はキニーネである。田中軍医は、宿舎付近の藪を切り払い、水溜まりをなくして蚊の発生を防ぎ、残った水溜まりにはカルキを散布、夜は必ず蚊帳を使用させている。

マラリアの他に病名で目につくのは、赤痢、肝炎、栄養失調症、脚気である。外科的なものでは、外傷のほか虫垂炎。時々、性病患者も出ている。

兵隊達が息を引き取る時は「天皇陛下万歳」、「お母さん」といったり、あるいは色々とつぶやいたり、また叫んだりして死んでいったと書かれている。


2.挿入する和歌、経典の断章(2020年7月28日)

能作品には、歌がよく引用される。

万葉集。山家集。古今和歌集、千載和歌集、新古今和歌集、玉葉和歌集……等の勅撰和歌集。和漢朗詠集(漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集)。

今昔物語、伊勢物語、大和物語、源氏物語、平家物語もよく引用され、また、経典からも当然のように引用される。

わたしは、神秘主義エッセーブログのエッセー 78 「祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観」で、次のように書いた。

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

  梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。

その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 「祐徳稲荷神社参詣記 (4)神仏習合」を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

萬子媛をシテのモデルとした今回の作品では、新古今和歌集から多く引用したい。黄檗宗の僧侶として入定されたので、経典からの引用も当然ながら……

萬子媛が愛された前掲歌「梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月」を後ジテの過去を物語るものとして、引用したい。

前に書いたことと重複するが、○○軍医(ワキ)が戦場ボルネオへ向かう貨物船の通路での場面。

○○軍医(ワキ)は、戦場ボルネオへ向かう貨物船の通路で、尼僧達(前ジテとツレ)に出合う。出合うはずのない人々であった。尼僧達は求法のために船に乗ったという。

軍医の疑問に対して、前ジテは「法[のり]の舟さして行く身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1922)*3、「しるべある時にだに行け極楽[ごくらく]の道にまどへる世の中の人」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1923)*4という歌を答えの代わりとして、尼僧一行は何処にか姿を消す。

尼僧から死を覚悟せよと諭された――と解釈するワキの心境を物語るものとしては、この歌がいい。「極楽へまだわが心行きつかず羊[ひつじ]の歩みしばしとどまれ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1934)*5

歌の意味を、訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988)から引用する。

極楽へは、わが心の修行は、まだ行き着いていない。死すべき者は、屠所の羊であるが、その歩みの命数は、修行の間のしばらくは留まっていてくれ。*6

そして、大海原で船が爆発して海に投げ出された兵隊達が波間に浮き沈みする戦火の光景を天空からご覧になる、生死を超越した神的な観点からは――想像するのも畏れ多いことではあるが――おそらく、この歌がふさわしい。「春秋[はるあき]も限らぬ花におく露はおくれ先立つ恨みやはある」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1940)*7
歌の意味を同書から引用する。

春とも、秋とも限らない、永久の極楽の蓮華の花に置く露の命である人の命は、現世の命の、消えるに遅れたり先だったりするような恨みがあろうか、ない。*8

江戸時代からこの世の人間達のために働いていらっしゃる萬子媛のような方々の御心を畏れ多くも憶測すれば、次の歌が目に留まる。

「立ちかへり苦しき海におく綱も深き江にこそ心引くらめ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1940)*9

※わたしは新古今和歌集を、訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988)と久保田淳 訳注『新古今和歌集 上下』(角川文庫 - 角川書店、2007)で読んでいるが、両書で歌の番号の異なる場合がある。

歌の意味を久保田淳 訳注『新古今和歌集 下』(角川文庫 - 角川書店、2007)から引用する。

漁師は立ち戻って海にしかけておいた綱を深い入り江で引くのであろう。聖衆は煩悩に苦しむ人間の世界に立ち帰って、深い因縁があって人々を極楽へと引き取ろうと努めるのであろう。*10

聖衆、という表現は、あの方々にぴったりだと思う!


3.作中に挿入する経典の断章として外せない『般若心経』(2021年9月22日)

エッセー 71 「祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」を参考にすれば、作品に挿入する経典の断章として外せないのは、般若心経』である。エッセー 71 から引用する。

博物館で見学した萬子媛の御遺物の中で、僧侶時代のものと思われるものに、御袈裟[みけさ]と鉄鉢があった。御袈裟には「御年60才のころ、普明寺の末寺として祐徳院を草創、出家せられた」と説明があった。

御遺物の中でも最も印象的だったのが、畳まれてひっそりと置かれたこの御袈裟だった。褪せているが、色は鬱金色[うこんいろ]、蒸栗色[むしぐりいろ]といったもので、萬子媛の肖像画を連想させた。素材は麻のように見えた。夏用なのだろうか。冬にこれでは寒いだろう。意外なくらいに慎ましく見える萬子媛の尼僧時代の衣服から、しばし目が離せなかった。

鉄鉢[てっぱつ]も印象が強かった。

鉄鉢とは、「托鉢(タクハツ)僧が信者から米などを受ける。鉄製のはち」(『新明解国語辞典 第五版(特装版)』三省堂、1999)のことだそうだ。

また、金字で書写された「金剛般若波羅蜜経」の前からもしばし動けなかった。

「臨済禅、黄檗禅 公式サイト」*11によると、臨済宗・黄檗宗でよく誦まれるお経には次のようなものがある(他にも、各派本山のご開山の遺誡や和讃なども含め、多くのお経が誦まれるという)。

 
 開経偈
 懺悔文
 三帰戒
 摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
 消災妙吉祥神呪(消災呪)
 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
 大悲円満無礙神呪(大悲呪)
 開甘露門(施餓鬼)
 仏頂尊勝陀羅尼
 金剛般若波羅蜜経(金剛経)
 大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
 延命十句観音経
 四弘誓願文
 舎利礼文
 白隠禅師坐禅和讃


このうち、経名を含めてわずか276文字の『摩訶般若波羅蜜多心経[まかはんにゃはらみたしんぎょう](般若心経)』は宗派を問わず広く誦まれるお経で、仏さまの教えのエッセンスともいえ、この題目は「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されるという。

『金剛般若波羅蜜経[こんごうはんにゃはらみきょう](金剛経)』は般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているもの。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ誦むのだそうだ。


博物館で見学したときに見た、この般若経典のことが記憶に残ったためか、見学後に神楽殿で30分間家内安全の御祈願をしていただいていたときのことだった。

前述したように、わたしたち家族は長椅子に座っていたのだが、その背後に萬子媛を中心に見えない世界の大勢の方々――ボランティア集団と呼びたくなる統一感のある方々――のいらっしゃるのがわかった(お仕事の一環のような感じであった)。
映像的には内的鏡にはほんのり映ったような気がするだけなのだが、なぜかそうした方々の挙動や心の動き、そして萬子媛のオーラは――色彩より熱として――鮮明に感じられた。
前述したように、わたしが心の中でつぶやいたことは筒抜けで、それに対する萬子媛やその近くにいる方々の反応が伝わってきた瞬間が何度かあった(願い事も雑念も筒抜けであるから、参拝するときは願い事の整理ときよらかな心持ちが肝要)。

博物館で見た『般若経典』のことが頭をよぎり、わたしはふと「波羅蜜多」と2回心の中でつぶやいた。わたしが見たのは『金剛般若波羅蜜経』だったのだが、つぶやいたのは『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の方だった。

つぶやいたとき、萬子媛から、すぐさま動揺の気配が伝わってきて、精妙な情感が音楽のように流れてきた。郷愁の交じった、きよらかな心の動きが感じられた。こうした心の動きという点では、生きている人間もあの世の方々も変わらない。

これも前述したことで、高級霊は自己管理能力に優れていることを感じさせる――幼い頃からわたしを見守っていてくださっている方々もそうである――が、萬子媛は情感という点ではわたしが知っているこの世の誰よりもはるかに豊かで、香り高い。心の動きのえもいわれぬ香しさが伝わってくるために、蜜蜂が花に惹かれるようにわたしは萬子媛に惹かれるのだ。

萬子媛はもっと聴こうとするかのように、こちらへ一心に注意を傾けておられるのがわかった。

『金剛般若波羅蜜経』は御遺物にあったのだから愛誦なさっていたのは当然のこととして、『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』という言葉に強く反応されたのは、それだけ生前、般若心経を愛誦なさっていたからだろう。

神様として祀られるようになった萬子媛は、衆生救済を目的とする入定を果たした方らしく、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるように思われる。

しかしながら、萬子媛の生前は大名の奥方でありながら出家し、晩年の20年を禅院を主宰して入定された僧侶だったのだ。

わたしが何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉に、それが甘露か何かであるかのように反応なさった萬子媛、否、瑞顔実麟大師がどれほど僧侶に徹した方だったのかということが自ずと想像された。

わたしは萬子媛が愛誦し指針とされたに違いない『般若心経』を暗記することにした。

ちなみに、このあとで「オウム、アモギャーヴァイロウ、キャーナーマハムドラ、マニペードム、デュヴァラー、プラヴァルスターヤー、ウーン」という竜王会で教わったマントラムを意図的につぶやいてみたのだが、こちらのほうは反応が感じられなかった。

萬子媛を囲むように控えている大勢の方々に幾分白けたような気配さえ漂ったところからすると、マントラムは意味不明な言葉と受け取られたのだと思われる。

現代人と変わりないように感じられるのに、やはり江戸時代に生きた方々ということなのだろうか。現代人であれば、マントラムの内容はわからなくとも、こうした言葉がインド由来の真言であることぐらいの察しはつくだろうから。

エッセー 59 「神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ②ハッチ判事」で紹介したエルザ・バーカー(宮内もとこ訳)『死者Xから来た手紙―友よ、死を恐れるな』(同朋社、1996)には、次のようなことが書かれている。

物質界と霊界が交流するとき、物質界にいるきみたちは、霊界にいるわれわれがなんでも知っていると思いがちだ。きみたちは、われわれが占い師のように未来を予言し、地球の裏側でおきていることを教えてくれると思っている。まれにできることもあるが、ふつうわれわれにはそういうことはできない。*12

あの方々の端然とした統一感のとれているところが、地上界のためにボランティア活動を行っているあの世の方々の特徴なのか、かつて江戸時代に生きた方々ならではの特徴なのか、わたしにはわからない。

いずれにしても、萬子媛の清麗な雰囲気こそは、高級霊のしるしだとわたしは考えている。

御祈願が終わるころ、萬子媛は近くに控えている方々に促されるようにして、どこかへ去って行かれた。全員がさーっと……一斉に気配が消えた。『竹取物語』の中の昇天するかぐや姫を連想してしまった。上方へ消えて行かれた気がしたのだ。……(略)……
あの方々の行動から推測すれば、地上界での一日の仕事が終われば全員があの世へ帰宅なさるのだろう。まさか、あの世の方々が地上界の人間と同じようなスケジュールで行動なさっているなど想像もしなかった。

前掲書には次のようなことも書かれている。

 大師を信じることを恐れてはいけない。大師は最高の力を手にした人だ。彼らは、肉体をもっていてもいなくても、こちらの世界と地上を意志の力で自由に行き来できるのだ。
 だがわたしは、彼らが二つの世界を行き来する方法を世間に教えるつもりはない。大師以外の者がその方法を試そうとすれば、行ったきり戻れなくなる恐れがあるからだ。知は力なり。それは事実だが、ある種の力は、それに見合うだけの英知をもたない者が行使すると、危険な事態を招く場合がある。……(略)……
 こちらの世界でわたしを指導している師は大師である。
 地上の世界に教授より地位の低い教師がいるのと同じで、こちらの世界には大師でない教師もいる。……(略)……
 わたしは、死と呼ばれる変化のあとで迎える生の実態を人々に伝えようとしているわけだが、師はその試みを認めてくれていると言ってよいと思う。もし師が反対するなら、わたしはその卓越した英知に従うしかない。*13

萬子媛や三浦関造先生がどのような地位にある教師なのか、わたしには知りようがない。

ただ、萬子媛にしても三浦先生にしても、生前からその徳を慕われ、また神通力をお持ちだった。現在はどちらも肉体を持っておられない。そして、お二方が二つの世界を自由に行き来なさっていることは間違いのないところだ。


4.あの世の涼しき観点から眺めれば、この世の出来事は一幕の芝居(2020年10月31日)

「江戸の女性が芝居見物で楽しんだ幻の重箱弁当が200年ぶりに復活!?……(以下略)……」という番組予告に心惹かれて録画しておいたNHKの選・スペシャル - 美の壺「日本のお弁当」。

夫から頼まれた『カサブランカ』を忘れないうちにダビングしておこうと思い、視聴を中断したので、まだ最初のほうしか観ていないのだが、歌舞伎の幕間に食べるから「幕の内」弁当と名付けられた弁当に施された華やかさの演出、一口で食べられる工夫……といったエピソードに早くも魅了された。

江戸時代、紅葉狩りのときに持って行った弁当箱が紹介され、その中に黒漆金蒔絵で水面に落ちる紅葉が描かれているものがあった。その風雅な美しさといったら、溜息が出るほどだ。

文化の担い手であった公家にとって、四季の行楽は大切な行事の一つで、それは遊びであり、また仕事でもあった。萬子媛も嫁入り前は四季の行楽を楽しみ、愛でられていたに違いない。京都でのそうした日々をいくらかでも再現したいという思いがおありになったのだろう。田中保善『鹿島市史真実の記録』(1990)に次のような記述がある。

花頂山の下に水を湛えた大きな水梨堤があるが、これを京都の暮しを思い出すために直朝公にせがんで萬子姫が、近江の国琵琶湖畔に見立てて近江八景の雛形を作って楽しんでいたという事である。*14

直朝公は萬子媛を娶ってから文化的に感化され京風が好きになられたらしいが、大名は、陣法など学ぶ以外に、色々と身につける必要があったらしく、大変だ。『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収、普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載「直朝公」より引用する。

候、陣法(陣立の仕方)を堀江甚三郎重治に問い、神道を惣社宮内昌賢より伝え、禅は桂老和尚に参じ、書を光源院に学ぶ。又た飛鳥井雅章郷を師として、和歌道・臨池法(書道)・蹴鞠を受く。戯(戯曲)は、観世七大夫を師として曲舞(足利時代の舞曲)に巧みなり。在府(江戸滞在中)の時、即ち、光茂公と往々(しばしば)歌会あり。*15

この「直朝公」には七十歳の誕生日に「申楽(能楽)を花頂山に奏す」*16と書かれている。このときの能楽の舞台では、直朝公自ら能を舞われたのだろうか。

能楽は美の世界だと思う。悲惨な、あるいは荒涼、索漠とした場面に、美的幻影が紗のように重なる世界である。その美的幻影の多くがシテの在りし日の思い出を宿している。

戦場となった海原に、萬媛である後ジテ[のちじて]がツレである尼僧達(後ツレとして見れば天人達)を伴い、大海原に降り立つ……と設定している場面では、当然ながら、天華が海面に散り敷くことになる。

わたしは水面に散る紅葉を描いた弁当箱を観ながら、その場面のことを考えていた。

田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)によると、田中軍医の乗る貨物船が戦地に向かう途中の海域で、戦車を積んだ船倉に魚雷が命中した。炎が弾薬をいっぱい積んだところに燃え移ったら一巻の終わりだから、思い切って海に飛び込み、船尾の渦に巻き込まれる難も逃れたものの、救命胴衣の浮力は頼りなく、溺れ死にそうであった。

藁にもすがりたいときに、郷里(鹿島市の隣の吉田村)の名入りの醤油樽が流れてきたという出来事は、作り話ではなく、現実だったのだから、本当に神秘的だ。貨物船だったのだから醤油樽があったとしても不思議ではないといえないこともないが、やはり不思議である。

何しろ、貨物船がリエンガン湾のサンフェルナンド港を出港して、比島(フィリピン諸島)西岸を海外沿いに南下していたところだったのである。岸まで1キロくらいだった。

そんな海で、偶然も偶然、積まれていた郷里の名入りの醤油樽が敵の攻撃でバラバラにもならず、沈みもせず、また、よそへ流れて行ったりもせず、まるで飼い犬のように溺れそうな田中軍医のところに流れてきたのだが、その醤油樽はあたかも名札を自慢する小学生のように郷里の名を見せて流れ着いたのだ。田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)より引用する。

海岸までは一キロくらいである。海岸へ上陸しようと泳いでみたが、引き潮で海水は沖へ向かって流れていて、思うように進めない。そのうち爆発で海中に散らばったいろいろな物がわたしの周りに流れてきた。なかでも私がびっくりしたのは「佐賀県藤津郡吉田村」と墨で書かれた空の醤油樽であった。はるか故郷をはなれた南海で、しかも海に投げ出されて藁をも掴む気持ちでいる時に、故郷鹿島市の隣の吉田村と書かれた醤油樽が流れてきたのである。急に故郷に残してきた母や妻を思い出し、なんとかして助からねばと思い、その醤油樽を拾って麻縄で腰にくくり付けた。浮揚力は救命胴衣よりもずっと強い。それで、気をよくしていると、運のよい時は重なるもので、今度は大きな厚い板が流れてきた。*17

この場面をどう描こう?

此方へ流れ来たるは、国方(くにがた=郷里)の名のある醤油樽ではござらぬか。

それとも……。

それがしへ流れ来ぬるは、国(くに=郷里)の名を記せし醤油樽にて御座候。

あるいは……。

あれに見ゆるは樽なり。(悲惨な場面だけに、逆に滑稽味を持たせて)いざいざ、此方来[こ]。やや、これは如何な事。国の名の記されし醤油樽かな。

醤油樽に意志があるのでなければ、醤油樽を操る存在がいたとしか思えないではないか。

田中軍医は『泣き虫軍医物語』を上梓した10年後に著した『鹿島市史真実の記録』で、次のようにお書きになっている。

第二次世界大戦では日本軍の敗色歴然たる時、国民兵の私にも召集令状が来た。昭和十九年七月十五日軍医として入営である。その出発前に、地元の若殿分区全員が祐徳稲荷神社に参詣して、私の武運長久の祈願祭を開いてくれた。
私は以前より祐徳稲荷神社を研究していたので、私は私なりに神通力のある荼枳尼天の倉稲魂大神に御願いすると同時に、荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦で戦死するのが当り前ですが、何卒御助け下さいと御願いした。*18

あの世の涼しき観点から眺めれば、この世の出来事は、一幕の芝居のように映るのではないだろうか。

そして、遠い異国で前世のわたしは前世の萬子媛と接点があり(共にモリヤ大師の大勢の弟子達の中にいた)、何の用事でか、まるで田中軍医の許へ流れ着いた郷里の名入りの醤油樽のように、江戸中期に死去したはずの萬子媛が、今なお神霊(高級霊)としてボランティアのために毎日清浄なあの世と不浄なこの世を往来していられる鹿島市へ流れ着いた(生まれた)のではないだろうか? 

いや、勿論、これはワタクシ的空想のお遊びにすぎない。萬子媛とは何らかの縁があるような感じを抱いているのは事実であるが。

 

*1:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*2:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*3:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*4:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*5:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、p.449)

*6:窪田,1988,p.449

*7:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、p.451)

*8:窪田,1988,p.451

*9:久保田淳 訳注『新古今和歌集 下』(角川文庫 - 角川書店、2007、P.394)

*10:久保田,2007,p.395

*11:<http://www.rinnou.net/>(2016/8/20アクセス)

*12:バーカー,宮内訳,1996,p.25

*13:バーカー,宮内訳,1996,pp.203-204

*14:田中,1990,p.145

*15:p.59

*16:p.58

*17:田中,1980,p.41

*18:田中,1990,p.157

 

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2021年9月25日 (土)

神秘主義エッセーブログに「111 祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い 」をアップしました

どうやらぎっくり腰は治りました。癖になっているようです。次回なったときは(なりたくないけれど)、整形外科で診ていただこうと思います。

それから、創作に関してですが、やはり新作能にチャレンジすることにしました。時間がかかっても、とりあえずは駄作でもいいので、何とか仕上げまで持って行きたいです。

そのための下準備として、これまで当ブログに綴ってきた新作能に関する覚書を2本の記事にまとめ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録することにしました。1本目は既に公開済みです。加筆がありますので、当ブログに転載しておきます。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

111 祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2021/09/23/190905
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広島県廿日市市の厳島神社で演じられる能
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

目次

  1. 観能記「船弁慶」(2007年10月)
  2. この世ならぬ現象を描くにふさわしい形式(2019年9月)
  3. 新作能を読んだ感想(2019年9月)
    ・瀬戸内寂聴「虵」
    ・石牟礼道子「不知火」
    ・多田富雄新作能全集
  4. ぎっくり腰になってしまったが、いざ能楽堂へ(2020年1月)


1.  観能記「船弁慶」(2007年10月)

当地に引っ越してきたとき、能楽堂があることに驚いた。

九州の能楽堂といえば、福岡の大濠公園能楽堂が有名だか、九州には少ないのではないだろうか。

公益社団法人「能楽協会」公式サイト(https://www.nohgaku.or.jp/)の能楽堂検索で検索したところによると、九州は8件ヒットした。

大濠公園能楽堂
〒810-0051 福岡県福岡市中央区大濠公園1-5
092・715・2155
定席470席

森本能舞台
〒810-0023 福岡県福岡市中央区警固3-8-1
092・711・8888
250席

白金能楽堂
〒810-0012 福岡県福岡市中央区白金1-8-16
092・522・0658
250席

井内能舞台
〒840-0831 佐賀県佐賀市松原4-5-13
0952・26・5378
300席

平和市民公園能楽堂
〒870-0924 大分県大分市牧緑町1-30
0975・51・5511
定席500席

青島神社能楽殿
〒889-2162 宮崎県宮崎市青島2-13-1
0985・65・1262
250席

住吉能楽堂
〒812-0018 福岡県福岡市博多区住吉3-1 住吉神社境内
092・291・2670
600席

かごしま県民交流センター 県民ホール能舞台
〒892-0816 鹿児島県鹿児島市山下町14-50
099・221・6600
690席

わたしが初の観能体験をしたのは30代。福岡県飯塚市にあるホールで「杜若」を観、夢心地に誘われた。

それに触発されて、思わず短編幻想小説「杜若幻想」「牡丹」を書いたほどだった。

直塚万季 幻想短篇集(1)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JBORIOM

世阿弥の『風姿花伝』『花鏡』を読んでもう恍惚となり、ますますのめり込んで、前掲の大濠公園能楽堂にも出かけたりしたが、その後パッタリ行けなかった。

この街に能楽堂があると知り、行きたいと心は逸ったものの、またのめり込むことにでもなれば、楽しい反面辛いな……という思いもあった。

しかし、昨日、ついに出かけてしまったのだ。40代も終ろうとするときになって……ああ、いつか新作能の脚本を書いてみたいなあ。

能は謡・舞・囃子から構成される歌舞劇で、室町時代に大成された総合芸術であるが、新作能とは一般には明治維新以降に創作された能のことである。

新作能を書いてみたいなどといえば、ろくに能のことを知りもしないくせにと叱られそうだが、神秘主義者のわたしにはぴったりくる世界であるし、古典、新作、どちらの脚本を読んでみても大した長さではなく、俳句と同じで、ある型にはめ込めばよい気楽さがありそうで(などといっては、ますます叱られそう)、文体も頑張れば何とかなるのではないだろうか。数年間、しっかり勉強し、取り組めば。

前置きが長くなった。

能を鑑賞して不思議なのは、いつまでも余韻の消えないときがあることだ。最初に観た「杜若」の装束の匂い立つような美しさは、今もはっきりと記憶にある。

今回鑑賞した演目は、見所の多い「船弁慶」だった。それが、舞台を観ているときはあの一瞬、この一瞬が印象に残った程度で、実はわたしは失望していたのだった。

シテ(主役)が予想外に小柄で、まるで女性のよう。芸も大人しすぎるように思えた。前ジテは静(源義経の恋人、静御前)、後ジテは平知盛の怨霊で、演じたのは同じ人である。

長身の役者が凛々しい静と勇壮な怨霊を演ずるーーといった類の派手な芸を勝手に期待していたわたしは、期待が裏切られた恨めしさを覚えながら能楽堂を出、がっかりして帰宅したのだった。

ところが、不思議なことに、時間が経つごとに、橋掛かりに佇む前ジテの無言の姿がいじらしい、かけがえのないものとして脳裏に浮かび上がるのである。繰り返し、何度も。

それとダブるように、後ジテが物柔らかな舞の中からこちらに面を向けたときの突如露わになった狂気の表情の記憶が甦って、戦慄させられた。否、能面が表情を変えるわけはないので、わたしは観能時に、気の触れた人の金光りする目を確かに見たような錯覚を覚えていたということになる。

そうした記憶のフラッシュバックする中で、それに被さるように、後ジテの絢爛豪華な装束の白銀の輝きが意識にクローズアップされるのだ。その白銀の輝きは、あたかも浄化の焔のようである。

感激は、何て遅れてやってきたことだろう! 

ところで、神秘主義では、高貴な影響力ほど、鈍重できめの粗いこの現実世界(物質世界)で実現するには時間がかかるといわれている。

固定観念に囚われていたわたしが、シテを演じた役者のまさに幽玄の美というべき高級な情趣を実感するには、時間が必要だったということだろう。

わたしは自分が期待したタイプではない役者から、期待したようでない「船弁慶」の解釈を贈られて困惑し、一旦は拒絶したけれど、時間が経ってそれを享け入れたということもできよう。

結果的に、新しい感覚を身につけることができたような気がしている。いくらか生まれ変わった気がするほどである。シテを演じた武田志房氏――すばらしい能楽師である!

義経は子供が演じる。

子方を演じた鷹尾雄紀くんは、小学校の中学年くらいだろうか。子供とは思えない落ち着きで、上手だった。顔立ちもなかなかのハンサムボーイであり、将来が楽しみだ。「その時義経少しも騒がず」というセリフ、可愛らしかった。

船頭を演じた野村万禄氏は、狂言『附子』のシテとしても活躍された。

一緒に出かけた娘とわたしは万禄氏に魅了され、ずっと彼を褒めていて、「でも、船弁慶のシテはもう一つだったわね。重要無形文化財保持者だなんて本当かしら」などと、失礼極まることをいっていたのだった。

それが、あとになって陶然となるという得がたい体験をした。

ちなみに、入場料は一般・全席自由で4,000円、学生席で1,000円だった。「船弁慶」のあらすじを「NHK 日本の伝統芸能 能・狂言鑑賞入門」(日本放送出版協会、1990)から紹介しておく。

源義経は、讒言によって頼朝から疑われ、兄弟不和となります。そこで西国へ落ちのびるため、弁慶ら家来を作って津の国大物浦へ到着します。そこに静御前が義経を慕って来たので、弁慶は義経の了解を得て静を訪ねます。

義経に帰京を言い渡された静は、別れの悲しさに涙します。名残の酒宴が催され、静は勧められるままに、中国の越王勾践と陶朱公の故事をひきつつ、別れの舞を舞い、泣く泣く一行を見送ります。

別れの悲しさに出発をためらう義経をはげまし、弁慶は出航を命じます。船が海上に出たところで、にわかに風が変わり波が押し寄せます。船頭が必死で船を操っていると、海上に平家一門の幽霊が現れます。

中でも平知盛の怨霊は、自分が沈んだように義経をも海に沈めようと、長刀を持って襲いかかって来ます。義経は少しも騒がず、刀を抜いて知盛の怨霊と戦います。

そこを弁慶が押し隔て、相手は亡霊だからと言い、数珠を揉んで神仏に祈ると、知盛の怨霊はしだいに遠ざかり、ついに見えなくなってしまうのでした。

(2007年10月17日)


2.  この世ならぬ現象を描くにふさわしい形式(2019年9月)

能に詳しいわけでもないのに、「新作能の脚本を書いてみたいなあ」などと過去記事で恥ずかしいことを書いた……と思いながら、小学館と岩波書店の『謡曲集』2冊を開いた。すると、熱心にこうした本を読んでいたころの記憶が甦ったのである。

確かに、能を含む古典にはまっていたあのころであれば、新作能の脚本を書けそうな気がしたのもわかるような気がした。そして、今回連想したのは、第2稿に一向に入れない、祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をモデルとした歴史小説のことだった。

歴史小説にするには、何か、そぐわないものがあるのである。

わたしは、神秘主義者に特徴的な精緻な感性によって、萬子媛及び彼女を取り巻く一群の存在――と解釈するしかない特異な存在を捉えた。

こうした存在からもたらされた、この世ならぬ高雅な現象を書きたいのであって、結婚前のことが判然としない萬子媛の生前のあれやこれやではないのだ。

いや、あれやこれやにも興味があるから、研究ノートを「マダムNの覚書」に綴り、それを不定期更新のエッセーとして「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録してきたわけであるが、そのノートは萬子媛のこの世ならぬ現象を表現できてこそ存在価値があるのだ(ノートはいずれ「萬子媛研究」といった形にまとめたいと考えている)。

その表現にふさわしい形式は、新作能以外にありえない気がしてきた。

残念ながら、古典にはまっていない現在、新作能を書けそうな気がしない。勉強すれば、書けるだろうか。

何しろ、能舞台を生で観たのは3回だけで、あとはテレビでの鑑賞と謡曲集の読書くらいがわたしの能楽体験である。それで、新作能を書こうというのだから、無知とは怖ろしいものだ。

母がお謡を習っていたのに、無関心で、からかっていただけだったことが悔やまれる。母が生きていたら、教わることも多かっただろうにと思う。

当地には能楽堂があり、3回観た舞台のうち1回はこの能楽堂で観たものだ。

舞台を観なくてはと思う。ホームページを閲覧したところでは、今年中にはそれらしいものがない。何にせよ、これからは当地の能楽堂と福岡の大濠公園能楽堂の催事情報をこまめにチェックしなくてはならない。能鑑賞貯金もしなくては。その貯金箱を、一昨日夫がうっかり割ってしまったのよ……(T_T) 

とりあえず、戯曲にしてみてはどうか? 戯曲なら書いたことがあるから、書けるはずだ。いきなり新作能が書ければいいが、わたしにはハードルが高いに違いない。

とりあえず戯曲にしてみようかと思った瞬間、脳裏に百花繚乱の情景が匂うばかりに広がった。そう、描き出したい「絵」はもう見えているのだ。

萬子媛に関する研究ノートを一つの作品としてまとめるには、郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察、また祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員のかた、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話など、慎重に扱わなければならない情報があるので、作業には時間がかかるだろう。

新作能の研究のために、図書館から3冊借りた。

  • 瀬戸内寂聴著『瀬戸内寂聴の新作能 : 蛇・夢浮橋』(集英社、2003)
  • 石牟礼道子著『石牟礼道子全集 : 不知火 16巻〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))』(藤原書店、2013)
  • 多田富雄著、笠井賢一編『多田富雄新作能全集』(藤原書店、2012)

瀬戸内寂聴氏を知らない人は少ないだろう。石牟礼道子氏は2018年にお亡くなりになったが、水俣病を扱った代表作「苦海浄土」でとても有名なかたである。多田富雄氏は免疫学者、文筆家として活躍された。

多田氏の新作能をざっと見ると、脳死、第二次大戦における諸問題、物理学の法則を扱ったものなど多作なかたである。

石牟礼道子『石牟礼道子全集 : 不知火 16巻〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕』所収のエッセイに、「台本を書くまでにお能といえば二度しか見たことがありませんでした」(75頁)という記述があり、わたしは石牟礼氏のこの言葉に救われる思いがした。


3.  新作能を読んだ感想(2019年9月)

図書館から借りた前掲本のうち、読んだ作品の感想を書いておく。

瀬戸内寂聴「虵」

鎌倉時代前期の仏教説話集、鴨長明編『発心集』の中の説話「母、女[むすめ]を妬[ねた]み、手の指虵[くちなは]に成る事」を基にした新作能である。

「発心集」の説話を紹介すると、娘のある女が年下の男と結婚し、老いの不安から娘と男を強いて夫婦にしたまではよかったが、女は一室でのどかに隠居するどころか、嫉妬のあまり両手の親指がくちなわになってしまうという話。

惑乱した娘は尼に、男は法師に、女も尼になる。それでようやく女の指は元の指になり、後には京で乞食になったという。

両手の親指がくちなわになるというグロテスクさ。娘も男も女のいいなりで、狂言回しに使われているだけだ。

女が後に乞食になったとあるのは、どういうことだろう? 

女が尼になったのは怪奇現象を起こした指を元に戻すことだけが目的で、純粋な信仰心などはなく、目的達成後に尼をやめたということなのか。

尼であれば托鉢であって、乞食とはいうまい。それとも、この「乞食」とは仏教用語「こつじき」、すなわち托鉢のことなのだろうか。こつじきが転じて物乞いする行為「乞食」となった。

尼としての矜持を感じさせる暮らしであれば、いずれにせよ、その部分だけが強調されることはないだろう。

俗人が俗欲に終始した、花も実もないお話である。

瀬戸内氏は、男を仏師にすることで、作品の俗っぽさを一層強めている。能の形式上、男と女は成仏した格好だが、成仏はしていまい。

それが小説「虵」になると、表現がリアルであるだけにいよいよ救いがたい結末となっている。尼となった女が老い、見世物小屋でくちなわの指を見世物にしていたというエピソードが語られるのだ。

能舞台となれば美しいのかもしれないが、作品として読むと、あまりにも救いがなさすぎる。登場人物の魅力が微塵も感じられなかった。

石牟礼道子「不知火」

石牟礼道子氏の新作能「不知火」は流麗な文章で、情緒に満ちて美しいというだけでなく、偏頗な文明に対する作者の危機意識が伝わってくる。入魂の作品という印象を受けた。この曲が水俣で演じられることは意義深いことだろう。

たが、わたしにはこのストーリーがうまく理解できない。

竜神の娘・不知火[しらぬひ]には、海霊[うみだま]の宮の斎女として久遠の命が与えられているにも拘わらず、生類の定命衰滅に向かえば、不知火の命もこれに殉ずるという。

竜神の息子・常若は父に命じられて生類の世を遍歴し終えた。

姉と弟は海と陸からこの世の水脈を豊かにすることに携わってきたが、この世の初めからあった真水が霊性を徐々に喪い、生類を養う力が衰えて、姉弟共に身毒が極まり、余命わずかとなった。

慕い逢う二人は、息絶え絶えとなりながら、恋路が浜に辿り着く。そして姉のほうは死んだ(弟もか?)。

こうした一切を見ているのは、隠亡[おんぼう]の尉[じょう](じつは末世に顕れる菩薩)である。

わたしには二人の勤めの内容がよくわからない。人間の罪業が重なったために毒変した海を浚えて浄化するとあるから、いわば濾過装置のような役割を果たしてきたということだろうか? 竜神の子たちの勤めかたにしては、人間の労働臭い。苦役そのものである。

そして、亡き妻を含む竜神一家は、末世の菩薩の秘命の下に働いてきたというのである。

その菩薩の助力もあって不知火は生き返り、二人の結婚を祝うために中国から楽祖(じつは木石の怪にして魍魎の祖)が招かれる。

楽祖が磯の石を手にとって打ち鳴らせば、浜で惨死した猫たち、百獣が神猫となり、胡蝶となり、舞う、橘香る夜となる……海も陸も再生したのだろう。

水俣病問題は産業における人為的ミスに社会的要因が絡んで被害が拡大し、社会問題となった。

その問題を石牟礼氏は現世と来世が重なり合う宇宙空間、悠久の時間の流れの中に直に置こうとしたため、一つの作品として見るとき、整合性のとれない部分が出てきたように思う。

多田富雄新作能全集

収録された作品は、脳死(「無明の弁」)、朝鮮人の強制連行(「望恨歌」※ 最近の検証により、朝鮮人の強制連行はなかったことが判明した――引用者)、原爆投下(「原爆忌」「長崎の聖母」)、相対性原理を題材とした能(「一石仙人」)、沖縄戦(「沖縄残月記」)、横浜に因んだ能(「横浜三時空」)、白州正子さんを題材とした能(「花供養」)、(「生死の川――高瀬舟考」)、子供能チャレンジのための能(「蜘蛛族の逆襲――子供能の試み」)と多彩である。

わたしが馴染んできた古典の曲とはテーマ自体が違う気がした。時事問題的な題材が多い。構成は巧みで、文章も端正なのだが、悪くいえばプロパガンダ的であり、唯物的世界観によって閉じられている。

これらの能は、地上界から一歩も出ていないように感じられるのである。異世界に触れることによる浄化現象は期待できない。

まだざっと読んだだけなので、読み込めばまた違った感想が生まれるのかもしれない。そのときは別の記事にしたい。

ただ、能に関して右も左もわからないわたしのような人間には、参考になる。観能のあとで購入したのかどうかは覚えていないが、多田富雄 監修『あらすじで読む 名作能50』(世界文化社、2005)を再読している。わかりやすい。

(2019年9月25日、29日)


4.  ぎっくり腰になってしまったが、いざ能楽堂へ(2020年1月)

娘と観能に出かける前日、ちょっとした動作をした拍子に腰がギクッとして、たぶん、ぎっくり腰である。

どうもわたしにはこの種の身体トラブルが多い。副甲状腺ホルモンの過剰な分泌で、骨、関節が弱っているのかもしれない。椎間板ヘルニアや圧迫骨折なら困ると思ったが、ぎっくり腰と思われた。

強烈な痛みと疲労感で横になろうとしたけれど、痛くて無理だった。座るのも痛い。まだ立っている方がよかったが、腰が不安定でまたギクッとやりそうで、やはり痛く、横になりたい。

痛いので何度も寝返りを打ちながら(その寝返りするのも痛い)、必死でオーラビームを試みるも、痛みのためか、新型コロナウイルスについて調べすぎた疲れのためか集中できず、なかなか痛みが消えなかった。

オーラビームとは当方の命名で、神秘主義的な技法であるが、修行者だった前世の習慣が元となった多分に我流なところがあるため、勝手にこのように呼んでいる。ハートの光を患部に放射するやりかただ。

翌朝になっても痛みは引かず、整形外科を予約外受診するか観能かで迷った。整形外科にはいつでも行けるけれど(?)、観能の機会は少ない。新作能にチャレンジするからには、今年中にできれば2回は観たいと思っていた。

当地に能楽堂があるのは本当に恵まれたことだ。一流の能楽師が一堂に会する能楽の祭典はこの能楽堂最高のイベントであるはずで、年に1回ではなかったか。見逃せば後悔するだろう。

椅子に座れば痛みが増すのではないかと不安になりつつも、出かけた。娘がドーナツクッションを持って行こうと提案してくれたが、むしろ腰が不安定になってギクッとなりそうな気がしたので、断った。痛みに我慢できなければ、狂言と能の上演の間の休憩時間に帰るつもりだった。

幸い椅子は柔らかい割には腰が沈み込むほどではなく、ぎっくり腰にも快適な座り心地で腰が安定した。自宅に持って帰りたいほどにぎっくり腰向きの(?)椅子であった。

演目は「玄象」。観世流以外では「弦上」と書かれるという。

シテとは主人公のことだが、前ジテは尉(老翁)、後ジテは村上天皇。演ずるは、観世流シテ方能楽師・馬野正基。

ツレとはシテに従属する役で、ツレは藤原師長[ふじわらのもろなが]である。

後半部で、萬子媛が背後にいらっしゃるような気配を感じたのは、気のせいだったろうか。神社で感じたように、背中から太陽の光を浴びたように温かくなり、えもいわれぬ清浄な気を感じた。能楽堂が交錯するオーラの光で満ちていた。

それまでは、堂内に充満した加齢臭にちょっと堪え難い気がしていた。老人がぎっしりで……自分ももう老人の域である癖にである。

「玄象」について、ウィキペディアから引用しておこう。

『絃上』(げんじょう / けんじょう)は、能の演目。観世流では『玄象』と書かれる。藤原師長が音楽を志して南宋に旅立つ途中、摂津国須磨の浦で村上天皇の霊に押し止められたという逸話が題材となっている。
八大龍王を助演者に村上天皇が舞う早舞が見所。颯爽とした余韻を残す演目である。
題名の絃上は村上天皇愛用の琵琶の名称であり、曲中でも度々琵琶を演奏している場面があるが、舞台の上では演奏は抽象化されており、特殊な演出を除いて実際に弾くことはない。*1

藤原師長は平安時代末期の公卿で、藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男である。源博雅と並ぶ、平安時代を代表する音楽家だという。箏や琵琶の名手として知られた。

花山院萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たるから、萬子媛と縁のある能ともいえる。音楽を好まれたことでも縁がある。

祐徳博物館で見た、萬子媛遺愛の楽器「雁[かり]が音の琴」を思い出す。「万媛遺愛の名琴で、黄金を以て雁一双、家紋並に唐詩和歌を象眼[ぞうがん]した鹿島鍋島家の家宝で累[るい]代公夫人に伝わり……(後略)……」と説明があった。

また、萬子媛は後陽成天皇の曾孫女だから、村上天皇とも縁がおありなわけである。村上天皇の霊が昇天の前に舞う場面の素晴らしさ。

村上天皇について、ウィキペディアから引用する。

村上天皇(むらかみてんのう、926年7月14日〈延長4年6月2日〉- 967年7月5日〈康保4年5月25日〉)は、日本の第62代天皇(在位: 946年5月23日 〈天慶9年4月20日〉- 967年7月5日〈康保4年5月25日〉)。諱は成明(なりあきら)。
第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。
……(略)……
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めた。文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。*2

祐徳博物館を見学すると、萬子媛が如何に歌を愛されたかがわかるのだが、村上天皇は歌と音楽に造詣の深い人物であった。

実はわたしは創作の参考のために鬘物(女性をシテとする曲)を観たいと思っていたため、思いが叶わなかったと思い、あまり期待していなかった。

ところが、以前、金春信高演ずる 「高砂」の映像に惹かれて、何度も観、その度に生で観たかったと思っていたその映像を連想させる、村上天皇の霊が舞う場面ではないか。魅了された。

白色の袖は、秘密を開示するかのように、抱擁するかのように、何度も大きく広げられた。その袖が光を受けて、白銀に輝いて見えるのが崇高な感じを与える。

威厳と品のあるシテを演じたのがお年寄りではなく、1965年のお生まれで、わたしより七つもお若いとは意外だった。

世阿弥は、野上豊一郎・西尾実 校訂『風姿花伝』(岩波文庫 - 岩波書店、1958)で、老人を演ずるときの注意として、その振りや動作を少し遅れがちにするようにと説く。そして、その他のことは世の常に、如何にも如何にも華やかにすべし、というのである。これを「老人の、花はありて年寄りと見ゆるる口傳」という。

わたしは若い頃、世阿弥の『風姿花伝』『花鏡』を興奮のうちに読み終えた。どちらもとにかくすばらしかったが、最も印象に残ったのがこの「老人の、花はありて年寄りと見ゆるる口傳」だった。

能に観る老人は、世阿弥の美学の一結晶であり、気品に満ちてすばらしいのである。作者不詳の「玄象」を観ながら、この曲にも染み渡っている世阿弥の美学の鋭さ、哲学的奥深さを改めて感じた。

観能中、萬子媛の気配を感じたように思ったのは、10分くらいだっただろうか。観能の間に腰の痛みがほとんどよくなったので、中心街に出、また娘と夜まで歩き回ってしまった(夫には外食してくれるよう頼んで出かけていた)。

帰宅後、明らかに悪化。何回かオーラビームをやったというのに(参考のために、エレナ・レーリッヒの『ハート』*3を再読した後、三浦関造先生の技法を『マニ光明ヨガ』*4で確認した)、まだ痛みが残っている。ちょっと咳したりクシャミするにも勇気がいる。それでも、かなりよくなったと思う。

(2020年1月27日)

*1:「絃上 (能)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年4月8日 12:45 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

*2: 「村上天皇」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年7月14日 04:03 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

*3:田中恵美子訳、アグニ・ヨガ協会編『ハート: アグニ・ヨガ叢書 第8輯(平成17年9月1日コピー本復刻)』(竜王文庫、2005)

*4:三浦関造『マニ光明ヨガ』(竜王文庫、1981-第5版)

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2020年8月13日 (木)

世阿弥「花鏡」、戦国時代の中国に早くも臓器移植を連想させる道家の文書。神智学でいうカーマ・ルーパ。

世阿弥の『花鏡』に次のようなことが書かれている。能勢朝次『世阿彌十六部集評釋 上』(岩波書店、1940)より引用する。

妙とはたへなりと也。たへなると云は、かたちなきすがた也。かたちなき所妙體也。抑、能藝において、妙所と申さん事、二曲をはじめて、立ちふるまひ、あらゆる所に、此妙所はあるべし。さて、いはんとすればなし。若、この妙所のあらんしては、無上の其物なるべし。(能勢,1940,p.383)

〔口譯〕妙とは「妙なり」といふ意味である。藝能の上でいへば、この「妙なり」といふことは「形なき姿」とでも申すべきである。「姿」といふ以上、當然それは形があるべきことを豫想するに拘わらず、「形なき」と言はざるを得ない所に「妙體」の深義があるのである。一體、能藝に於て、この妙所といふものは、舞曲歌曲をはじめとして、立振舞のあらゆる所に、これがある筈であるが、さて、何処にとそれを指摘しようとすれば、全く捕へどころがないのである。若し、この妙所を得てゐるシテがあれば、それは能に於ける窮極無上の名人と言ひ得よう。(能勢,1940,pp.384-385)

世阿弥が能という表現形式において、何を目指していたかがわかる文章である。「妙とはたへなりと也。たへなると云は、かたちなきすがた也。かたちなき所妙體也」という箇所を読みながら、わたしはふいに萬子媛の「かたちなきすがた」を思い出し、涙してしまった。

心眼でしか捉えられない、あの「かたちなきすがた」の高雅な美しさを、この世の限られた――それもあまり頭がよいとはいえない――わが頭脳で、表現方法で、どのように表せばよいのだろうかと思う。そして、あの方々が住まっていられるところへの憧れの気持ちでいっぱいになったが、この不浄の身で畏れ多いことを……と慌てて自分の気持ちを打ち消した。

YouTubeに、祐徳稲荷神社をドローンで撮影した動画が公開されている。それを見ながら、天から毎日この世へボランティアに降りてこられる萬子媛ご一行には、近づいてくる地上世界はこんな風に見えるのかもしれないと想像を逞しくした。

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
https://youtu.be/d38PbrpYAgU

以下の過去記事で書いたことを思い出すとき、『竹取物語』を連想する。『羽衣』においても、天人は天から下界へ来て、天へ去って行く。

2018年10月 4日 (木)
歴史短編1のために #46 落胆と取材の成果 (1)祐徳稲荷神社での私的心理劇
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-891c.html

昨年参拝したときは、博物館を優先したために、萬子媛ご一行が一日のお勤めを終えて御帰りになるところが――もう雲の辺り――地上から何となくわかり、そのときに萬子媛の放たれた霊的な光が辺りを一変させて、わたしは天国にいるような高揚感を覚えました。……(略)……これまでのことがわたしの妄想でないことだけは、はっきりしました。あのような高貴な気配やオーラを、わたしが自分でつくり出す――想像する――など、とてもできない芸当だからです。尤も、それを他人に証明できないという点では同じですけれど。

萬子媛を中心にしてボランティアなさっているあの世の方々は、当時は尼寺であった祐徳院で一緒に修行なさっていた尼僧達ではないかと推測している。この方々は不浄な地上界へ、自己犠牲を伴う慈悲心から降りてこられるに違いない。

このボランティア集団は、たぶん全員が一塊になって降りてこられ(降りてこられるところは察知したことがない。いつも午後の参詣になるので)、帰りはわたしが察知したところでは、全員が「せーの!」というかけ声が聴こえそうな気合いを込めて一斉に天へ舞い上がられるのだ。ある種の技術が要るのだろうか? そして、あの世にはあの世の規則があるのか、時間厳守という感じだ。

普通の死者は初七日を過ぎたら、わたしの知る限り、あの世へ行ったきりで、その後のことは全くわからない。夫の父方の祖父がずっと昔に残していったカーマ・ルーパ(死後、死者が脱ぎ捨てる殻)には長年悩まされたけれど、神智学の知識があったお陰で、ああいったものの性質を学ぶことができた。

この世では人を楽しませる嗜好品にすぎないものが、摂取の仕方によっては、死後、他人にとんだ公害を引き起こす原因となることを、ほとんどの人間は知らない。

そういえば、一度だけ、お亡くなりになった神智学の先生がわたしの離婚を阻止するかのように(なぜ?)降りていらしたことがあった。何年も前の話になるけれど、あのときは本当に驚いた。そのときも心眼に映ったのであって、肉眼で見るように見たわけではなかった。

先生はあのとき、わたしと夫の間に、ちょっと困ったような、なだめるような、優しい表情で――それが心眼に映った――立ちはだかられ、その一瞬の神秘現象(?)がなければ、わたしは今、夫と暮らしていないかもしれない。

そのとき、わたしは夫の裏切りが許せないと思っていたし、相手がストーカー傾向の強い女性であることを知らなかった。そのころはまだ夫にカーマ・ルーパの影響もあっただろう。

それでも、なぜ、という疑問はある。離婚したら、ひどい境遇に陥るからだろうか。宿題が残っているからだろうか。それとも似合いの夫婦だからだろうか? 何にせよ、わたしなんかのことを先生は死後何年も経つのに、あの世から見守ってくださっていた……そのことが嬉しかった。

定年退職後のアル中が増えているそうだ。そういう場合はカーマ・ルーパが取り憑いていそうだ。カーマ・ルーパは死んだ人が残していった欲望によって作られた主観的な形体で、その欲望を共有できる人間に取り憑くことがあるからだ。

カーマ・ルーパに取り憑かれた人間は、本人が気づいていないだけで、相当多いのではないだろうか。

カーマ・ルーパが夫から離れ、あの世で夫の祖父が長い眠りから覚めた夢をわたしが見て以降、夫はお酒をそれほど好まなくなり、そのうち全く飲まなくなった。

別に、夫はアル中ではなかった。休肝日を設け、そう多く飲んでいたわけでもなかった。それでも、わたしには、お酒をほしがっているのが夫ではない執拗な何かであることを察知していたから(ブラヴァツキー夫人の『神智学の鍵』を読むまでは、カーマ・ルーパに関する知識はなかった)、あまり飲んでほしくなかったのだ。

カーマ・ルーパの存在やオーラに関することを、ブラヴァツキー夫人以外の誰が現代的な表現で、科学的に解説してくれただろうか? 

ブラヴァツキー夫人の著作が広く読まれるようになれば、社会の習慣、精神医学、教育などはよいほうに変わっていくと思う。

無知な学者がその価値もわからず、彼女を叩くのだ。体系的な理論であるに留まらず、日々の暮らしに役立つ生きた教えが散りばめられているというのに。

大田俊寛『現代オカルトの根源――霊性進化論』(筑摩書房、2013)を読んでいるところなのだが、タイトルからしてわたしには意味不明である。霊性進化論なんて、意味がわからない。霊性が進化する? この著作の感想は別記事にする。

話がひどく逸れたが、『竹取物語』も『羽衣』も、天人やその昇天の様子は、原文で読むと、何ともいえない美しさだ。わたしと同じような体験のある人々によって書かれたのだとしか思えない。

新作能でそのようなものがないだろうか?

現代になって、新作能がどれくらい書かれてきたのかは知らないが、再度検索してみても、見つかったのは過去記事で書いた3冊だった。

2019年10月 3日 (木)
あらすじ、できました。新作能を読んだ感想。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2019/10/post-6e6c1a.html

  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

新作能を書こうとする場合、これらの著作は参考になるが、古典の曲目にあるような浮世離れした感じはもたらされず、どれもこの世を一歩も出ていない作品だとの感じを受けてしまう。

それでも、参考になるはずなので、再度、図書館から借りた本で、石牟礼道子「不知火」と多田富雄氏の諸作品を読み返した。

多田富雄氏の作品は、構成を考える上で参考になる。時事問題や科学的テーマは斬新なのだが、プロパガンダ的であるため、亡霊や聖母マリアなどの出現が作り物めいて感じられてしまう。

多田富雄「原爆忌」の中の「ワキ 無残やな。その日より早六十年。かかる惨事に遭いしこと、よも忘るることはあるまじ」「シテ 〽しかるに何とこの国に 今核武装の兆しとかや われも被爆者 戦争はゆるさじと」(多田富雄『多田富雄新作能全集』藤原書店、2012、p.133)の箇所で、思わず九条教の人々を連想してしまった。

わたしの作品も戦場(海上)が舞台なので、そう見なされるかもしれないが、プロパガンダが目的ではない。神霊の舞台として戦場を用いるにすぎない。

プロバガンダは抽象的なのだ。俳句は抽象を嫌う。同じことが能にもいえるのではないだろうか。

脳死での臓器移植を描いた多田氏の「無明の弁」は、ぜひ、中共高官御用達の移植医療最前線で上演していただきたいと思う。

この「無明の弁」の創作ノートで驚いたのは、戦国時代の中国に早くも臓器移植を連想させる文書が存在したことである。

『万葉集』第五巻の山上憶良の「沈痾自哀[ちんあじあい]文」「扁鵲[へんしゃく]、姓は蓁[しん]、字[あざな]は越人[えつじん]、渤海郡の人なり。胸を割[さ]き心を採り、易[か]えて置き、投げぐるに神薬を以[もち]てすれば、即ち寤[さ]めて平[つね]なるがごとし」というのがあるという。原典は『列子』湯問[とうもん]篇』だそうだ。道家の文書である。

まとりのない記事ですみません。覚書として書いた記事ですが、後日、テーマ別にまとめます。

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2020年1月27日 (月)

今度はぎっくり腰? それでも観能(萬子媛…)。(28日早朝に加筆あり)

新型コロナウイルス関係の新情報にも触れたいとこだが、昨日、娘と観能に出かけたので、そのことをちょっとだけ書いておきたい。ぎっくり腰のことも。

その前日、あるちょっとした動作をした拍子に腰がギクッとして、たぶん、ぎっくり腰。どうもわたしにはこの種の身体トラブルが多い。副甲状腺ホルモンの過剰な分泌で、骨、関節が弱っているのかもしれない。椎間板ヘルニアや圧迫骨折なら困ると思ったが、ぎっくり腰と思われた。

過日、足底筋膜炎ではないかと思った左土踏まずの痛みは、例のハートの光を数回放射したのが効いたのかどうか、回復。

2020年1月19日 (日)
1月18日に、循環器クリニック受診。やりすぎのかかと落としにオーラビーム? 代わりに脳トレ。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2020/01/post-6561b3.html

強烈な痛みと疲労感で横になろうとしたけれど、痛くて無理。座るのも痛い。まだ立っている方がよかったが、腰が不安定でまたギクッとやりそうで、やはり痛く、横になりたい。痛いので何度も寝返りを打ちながら(その寝返りするのも痛い)、必死でオーラビームを試みるも、痛みのためか、新型コロナウイルスについて調べすぎた疲れのためか集中できず、なかなか痛みが消えなかった。

翌日、整形外科を予約外受診することと観能とどちらにするか迷った。整形外科はいつでも行けるが(?)、観能の機会は少ない。萬子媛をモデルに、わたしが想像する人物像をシテとした新作能にチャレンジするためには、今年中にできれば2回は観たいと思っていた。

当市に能楽堂があるのは本当に恵まれたことだ。だが、一流の能楽師が一堂に会する能楽の祭典はこの能楽堂最高のイベントであるはずで、年に1回ではなかったか。見逃せば後悔するだろう。

椅子に座れば痛みが増すのではないかと不安になりつつも、出かけた。娘がドーナツクッションを持って行こうといったが、むしろ腰が不安定になってギクッとなりそうなので、断った。痛くて我慢ができそうになければ、狂言と能の上演の間の休憩に帰るつもりだった。

痛みはあったが、幸い椅子は柔らかい割には腰が沈み込むほどではなく、ぎっくり腰にも快適な座り心地で腰が安定した。自宅に持って帰りたいほどにぎっくり腰向きの椅子(?)だった。

演目は『玄象』。観世流以外では『弦上』と書かれるという。

シテとは主人公のことだが、前ジテは尉(老翁)、後ジテは村上天皇。演ずるは、観世流シテ方能楽師・馬野正基。

ツレとはシテに従属する役で、ツレは藤原師長[ふじわらのもろなが]である。

後半部で、萬子媛が背後にいらっしゃるような気配を感じたのは、気のせいだったろうか。神社で感じたように、背中から太陽の光を浴びたように温かくなり、えもいわれぬ清浄な気を感じた。能楽堂が交錯するオーラの光で満ちていた。

それまでは、加齢臭がちょっと堪え難い気がしていた。老人がぎっしりで……自分ももう老人の域であることを棚に上げてすみません。

『玄象』について、ウィキペディアから引用しておこう。

『絃上』(げんじょう / けんじょう)は、能の演目。観世流では『玄象』と書かれる。藤原師長が音楽を志して南宋に旅立つ途中、摂津国須磨の浦で村上天皇の霊に押し止められたという逸話が題材となっている。
八大龍王を助演者に村上天皇が舞う早舞が見所。颯爽とした余韻を残す演目である。
題名の絃上は村上天皇愛用の琵琶の名称であり、曲中でも度々琵琶を演奏している場面があるが、舞台の上では演奏は抽象化されており、特殊な演出を除いて実際に弾くことはない。

「絃上 (能)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年4月8日 12:45 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

藤原師長は平安時代末期の公卿で、藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男である。源博雅と並ぶ、平安時代を代表する音楽家だという。箏や琵琶の名手として知られた。

花山院萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たるから、萬子媛と縁のある能ともいえる。音楽を好まれたことでも縁がある。

祐徳博物館で見た、萬子媛遺愛の楽器「雁[かり]が音の琴」を思い出す。「万媛遺愛の名琴で、黄金を以て雁一双、家紋並に唐詩和歌を象眼[ぞうがん]した鹿島鍋島家の家宝で累[るい]代公夫人に伝わり(略)」と説明があった。

それに、萬子媛は後陽成天皇の曾孫女だから村上天皇とも縁があるわけである。

村上天皇の霊が昇天の前に舞う場面の素晴らしさ。

村上天皇について、ウィキペディアから引用する。

村上天皇(むらかみてんのう、926年7月14日〈延長4年6月2日〉- 967年7月5日〈康保4年5月25日〉)は、日本の第62代天皇(在位: 946年5月23日 〈天慶9年4月20日〉- 967年7月5日〈康保4年5月25日〉)。諱は成明(なりあきら)。
第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。
(略)
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めた。文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。

「村上天皇」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年7月14日 04:03 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

祐徳博物館を見学すると、萬子媛が如何に歌を愛されたかがわかるのだが、村上天皇は歌と音楽に造詣の深い人物であった。

実はわたしは創作の参考のために鬘物(女性をシテとする曲)を観たいと思っていたため、思いが叶わなかったと思い、あまり期待していなかった。

ところが、以前、金春信高演ずる 『高砂』の映像に惹かれて、何度も観、その度に生で観たかったと思っていたその映像を連想させる、村上天皇の霊が舞う場面ではないか。魅了された。

白色の袖は、秘密を開示するかのように、抱擁するかのように、何度も大きく広げられた。その袖が光を受けて、白銀に輝いて見えるのが崇高な感じを与える。

威厳と品のあるシテを演じたのがお年寄りではなく、1965年のお生まれで、わたしより7つも若いとは想像しなかった。

世阿弥は、野上豊一郎・西尾実 校訂『風姿花伝』(岩波文庫、1958)で、老人を演ずるときの注意として、その振りや動作を少し遅れがちにするようにと説いている。そして、その他のことは世の常に、如何にも如何にも華やかにすべし、という。これを「老人の、花はありて年寄りと見ゆるる口傳」という。

わたしは若い頃世阿弥の『風姿花伝』と『花鏡』を興奮のうちに読み終え、どちらもとにかくすばらしかったが、最も印象に残ったのがこの「老人の、花はありて年寄りと見ゆるる口傳」だった。

能に観る老人は、世阿弥の美学の一結晶であり、気品に満ちてすばらしいのである。作者不詳の『玄象』を観ながら、この曲にも染み渡っている世阿弥の美学の鋭さ、哲学的奥深さを改めて感じた。

萬子媛の気配を感じた――気のせいだったろうか――のは10分間くらいだっただろうか。観能の間に腰の痛みがほとんどよくなったので、中心街に出、また娘と夜まで歩き回ってしまった(夫には外食してくれるよう頼んで出かけていた)。

帰宅後、明らかに悪化。何回かオーラビームやったが(三浦先生のやりかたも再読した)、まだしつこく痛みが残っている。ちょっと咳したりクシャミするにも勇気がいる。それでも、かなりよくなったと思う。

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2019年10月21日 (月)

葵家やきもち総本舗の「京おはぎ味くらべセット」。謡曲集で何度も読んでいた「高砂」「初雪」。

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娘が「京都展に行ったら美味しそうだったから、買ってきたよ」といって、葵家やきもち総本舗の「京おはぎ味くらべセット」と「やきもち」を買ってきました。

前掲の写真が「京おはぎ味くらべセット」です。あん、きな粉、ごま、抹茶、いもの5個入りです。

わたしはおはぎは嫌いではありませんが、昔はどちらかといえば、ありふれた(?)食べ物だったので、へえーと感動なく思った程度でした。ところが、きな粉を一口いただいたところ、何という絶妙な、ほどよい甘さ、もち米の軽みのある粘り気でしょう。

感動のあまり変な表現になりましたが、いくつでもいただけそうな美味しさでした。やきもちも美味しく、これはお取り寄せ可能のようです。

葵家やきもち総本舗
公式オンラインショップ
https://www.aoiya.jp/

話は変わりますが、謡曲集を読んでいます。以前はさほど興味のなかった作品で、世阿弥作と考えられている有名な「高砂」が気に入り、何度も読んでいました。

NHKで1987年1月1日に放送された金春信高の名演を収録した「能楽 観阿弥・世阿弥 名作集 DVD-BOX」が出ています。

昔の結婚披露宴では、謡の上手な年寄りが3人で「高砂」を謡ってくれるのが恒例となっていましたが、今はあまり聴かないようです。

「高砂」を改めて読み、こんなに美しい文章だったのか、こんなお話だったのか、と感動した次第です。

金春禅鳳[こんぱるぜんぽう]の作とされる「初雪」はテレビでも観たことがありませんが、ちょっと悲しい可憐なお話で、これも何度も読んでいました。

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2019年10月 3日 (木)

萬媛の三番目物ノート ①大まかなあらすじ

わたしは田中保善氏のご著書『鹿島市史 真実の記録』(1990)の中の萬子媛に関する伝記的記述を読み、子供のころから何となく心惹かれていた萬子媛に一層興味を持つようになりました。

わたしなりの萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)として新作能を書いてみたいという大それた望みは先月の25日に生まれたばかりです。アマチュア物書きのわたしがそれを書いたところで何になる、などとは不思議にも全く思いません。書けるかどうかは別として、書いてみたいという強い思いが湧き起こっています。

ワキ(シテの相手役)は、前掲の田中氏がモデルです。

『鹿島市史 真実の記録』には、先の大戦中、軍医として出征した出来事が綴られています。田中氏は出征前、祐徳稲荷神社に参詣したそうです。

倉稲魂大神(田中氏の研究ではインドの夜叉・荼枳尼天だそうです)にお願いすると同時に、「荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦[まけいくさ]で戦死するのが当たり前ですが、何卒御助け下さいと御願いした」(157頁)そうです。

危機一髪で奇跡的に助かったエピソードが五つ紹介されていますが、そのようなことがまだ何回もあったそうです。インディージョーンズより凄い! 例えば次のエピソード。

敵地巡回診察中、敵戦斗機三機に狙われ機銃掃射を受け終に私の腰部に命中したが、私の軍刀の鞘にあたり、鞘はえぐり取られたけれど私の腰は無事で助かった。(158頁)

戦争を知らないわたしが戦争を書くことになるとは想像もしませんでした。

ですが、一応平和とされている現代においても、また田中氏が体験された戦争においても、おそらくは萬子媛はお亡くなりになった江戸時代からずっと今日まで、日本に生きる人間たちを毎日欠かさず見守ってこられたのだと思うと胸が熱くなり、田中氏の劇的な体験を参考にさせていただいて萬子媛を描いてみたいと思うに至りました。

田中氏の他のご著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は未読でした。幸いアマゾンに中古で出ていたので、注文したところです。このご著書も参考にさせていただくことになるだろうと思います。

新作能の曲名は未定です。2007年10月に上梓された絵本『萬媛[まんひめ]』(文:梶田聡実、絵:寺田亜衣・杉本国子・中島健一・古賀沙織、監修:荒木博申、企画:吉岡満雄・佐藤三郎、編集・印刷:サガプリンティング)とかぶるとよくないでしょうから、かぶることにはならないようにしたいと考えています。

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おおまかなあらすじ

開戦の詔勅から時間が経過し、日本軍の敗色が濃くなったころ、○○(ワキ ※ワキの名は未定)に招集礼状が来る。○○は軍医として出征するに際して、神社に参詣し、稲荷大神と萬媛(註1)に加護を祈念する。

○○はかねてより神社の研究をしており、信心は篤かった。○○には守るべき母、妻、子があった。

マニラ丸でボルネオへ向かう途中、船は敵の砲弾を受ける。海中に放り出された○○の目に、天より舞ひ降りて来し白銀の一団(シテ、シテツレ、トモ)が映った。中心のひときわ輝かしい姿が目に入る。

従者のように見える天人の一人(シテツレ)がいう。

自分達は仏果を得た者であるが、(神社に伝えられる)天明8年に京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移ったとき、鎮火に現れた白衣の一団とは実は自分達であったのだ――と。

中心の輝かしい御姿(シテ)が、萬媛は自分だと告げる。

後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘として生まれた萬媛のこの世に在りし日々が語られる。

※在りし日々で採り上げるエピソードに関しては未定

萬媛の入寂と昇天の舞が重なる中、神々しい萬媛の舞に見とれているうちに○○は意識を回復する。そこは、ボルネオのコタブルト(註2)のアバラ屋に日本軍が設けた医務室だった。その後もいくつかの危機を奇跡的に脱し、終戦の詔勅からほどなく復員を果たした○○は、神社に参詣する。

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註1 鹿島市民図書館学芸員T氏によると、剃髪前の萬子媛は「萬媛」と呼ばれていた可能性が高い。

歴史短編1のために #47 落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-55cb.html
日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。
萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。
萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。
生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。
そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

註2 コタブルトはコタッ・ブルッのこと。コタ・ブルッ(Kota Belud)は東マレーシア・ボルネオ島北端のサバ州にある町。「コタ・ブルッ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年10月16日 11:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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参考資料メモ1

  • 開戦の詔勅、終戦の詔勅
  • 田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)、『鹿島市史 真実の記録』(1990)
  • 郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察
  • 祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話
  • 三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)
  • 新古今和歌集
  • 大和物語
  • 拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」(カテゴリー「祐徳稲荷神社参詣記」)

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拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」より

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)

神社という聖域には、実際に萬子媛のような高級霊が地上界を見守っていらっしゃるケースがあるということを、わたしは神秘主義的見地から確認してきた。

萬子媛のようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本は持つことがなかったわけである。

わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。すると、時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

宗教的装いは違っても、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている萬子媛のようなかたが存在することをわたしは知ったのだった。

この純正ボランティア精神が生じた背景を知りたい。このかたはどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることでもあるのだ……

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を率いる尼寺であった。

ざっと、萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している……

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78 祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成(1114 - 1204)で、定家はその子、藤原俊成女は孫娘に当たる。

藤原俊成女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と藤原俊成女の間には確執が生じたようだ。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。
その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、藤原俊成女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。(略)

幽玄美を提唱して『新古今和歌集』の歌人を育てた藤原俊成、『新古今和歌集』の撰者の一人であった定家、藤原俊成女らは藤原北家の人々で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今和歌集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。藤原北家は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つである。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。
その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

こうした複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

ちょっと注目したいのは、次の歌である。作者は前述した皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)。

   皇太后宮大夫俊成『新古今和歌集』巻第十九神祇歌
春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)*10

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院家の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神々の中の一柱となられた萬子媛は、子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

*10:窪田訳,1990,p.443

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あらすじ、できました。新作能を読んだ感想。

昨日、萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)とした新作能(三番目物)のおおまかなあらすじができた。そのノートは、次の記事にアップする。

何しろ、能を観たのは3回だけで、あとはテレビでの鑑賞、謡曲集の読書くらい。それで、新作能を書こうというのだから、無知とは怖ろしいものだ。あらすじができたあとで、せっせと勉強することなる。その勉強によって、あらすじ自体が変わる可能性はある。

母がお謡を習っていたのに、無関心で、からかっていただけだったことが悔やまれる。母が生きていたら、教わることも多かっただろうにと思う。

当市には能楽堂があり、3回観た舞台のうち1回はこの能楽堂で観たものだ。

舞台を観なくてはと思う。ホームページを観たが、今年中にはそれらしいものがない。何にせよ、ここの能楽堂と福岡の大濠公園能楽堂の催事情報はこまめにチェックする必要がある。能鑑賞貯金もしなくては。その貯金箱の一つを、一昨日夫がうっかり割ってしまったわ (T^T) 

石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火 第16巻』(藤原書店、2013)の中のエッセイで、石牟礼氏の「台本を書くまでにお能といえば二度しか見たことがありませんでした」(75頁)という記述に救われる思いがした。

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  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

以上の本のうち、読んだ作品の感想を書いておこう。

瀬戸内寂聴「虵」

鎌倉時代前期の仏教説話集、鴨長明編『発心集』の中の説話「母、女[むすめ]を妬[ねた]み、手の指虵[くちなは]に成る事」を基にした新作能である。

「発心集」の説話を紹介すると、娘のある女が年下の男と結婚し、老いの不安から娘と男を強いて夫婦にしたまではよかったが、女は一室でのどかに隠居するどころか、嫉妬のあまり両手の親指がくちなわになってしまうという話。

惑乱した娘は尼に、男は法師に、女も尼になる。それでようやく女の指は元の指になり、後には京で乞食になったという。

両手の親指がくちなわになるというグロテスクさ。娘も男も女のいいなりで、狂言回しに使われているだけだ。

女が後に乞食になったとあるのは、どういうことだろう? 

女が尼になったのは怪奇現象を起こした指を元に戻すことだけが目的で、純粋な信仰心などはなく、目的達成後に尼をやめたということなのか。

尼であれば托鉢であって、乞食とはいうまい。それとも、この「乞食」とは仏教用語「こつじき」、すなわち托鉢のことなのだろうか。こつじきが転じて物乞いする行為「乞食」となった。

尼としての矜持を感じさせる暮らしであれば、いずれにせよ、その部分だけが強調されることはないだろう。

俗人が俗欲に終始した、花も実もないお話。

瀬戸内氏は、男を仏師にすることで、作品の俗っぽさを一層強めている。能の形式上、男と女は成仏した格好だが、成仏はしていまい。

それが小説「虵」になると、表現がリアルであるだけにいよいよ救いがたい結末となっている。尼となった女が老い、見世物小屋でくちなわの指を見世物にしていたというエピソードが語られるのだ。

能舞台となれば美しいのかもしれないが、作品として読むと、あまりにも救いがなさすぎる。登場人物の魅力が微塵も感じられない。

石牟礼道子「不知火」

石牟礼道子氏の新作能「不知火」は流麗な文章で、情緒に満ちて美しいというだけでなく、偏頗な文明に対する作者の危機意識が伝わってくる。入魂の作品という印象を受けた。この曲が水俣で演じられることは意義深いことだろう。

たが、わたしにはこのストーリーがうまく理解できない。

竜神の娘・不知火[しらぬひ]には、海霊[うみだま]の宮の斎女として久遠の命が与えられているにも拘わらず、生類の定命衰滅に向かえば、不知火の命もこれに殉ずるという。

竜神の息子・常若は父に命じられて生類の世を遍歴し終えた。

姉と弟は海と陸からこの世の水脈を豊かにすることに携わってきたが、この世の初めからあった真水が霊性を徐々に喪い、生類を養う力が衰えて、姉弟共に身毒が極まり、余命わずかとなった。

慕い逢う二人は、息絶え絶えとなりながら、恋路が浜に辿り着く。そして姉のほうは死んだ(弟も?)。

こうした一切を見ているのは、隠亡[おんぼう]の尉[じょう](じつは末世に顕れる菩薩)。

わたしには二人の勤めの内容がよくわからない。人間の罪業が重なったために毒変した海を浚えて浄化するとあるから、いわば濾過装置のような役割を果たしてきたということだろうか? 竜神の子たちの勤めかたにしては、人間の労働臭い。苦役そのものである。

そして、亡き妻を含む竜神一家は、末世の菩薩の秘命の下に働いてきたというのである。

その菩薩の助力もあって不知火は生き返り、二人の結婚を祝うために中国から楽祖(じつは木石の怪にして魍魎の祖)が招かれる。

楽祖が磯の石を手にとって打ち鳴らせば、浜で惨死した猫たち、百獣が神猫となり、胡蝶となり、舞う、橘香る夜となる……海も陸も再生したのだろう。

水俣病問題は産業における人為的ミスに社会的要因が絡んで被害が拡大し、社会問題となった。

その問題を石牟礼氏は現世と来世が重なり合う宇宙空間、悠久の時間の流れの中に直に置こうとしたため、一つの作品として見るとき、整合性のとれない部分が出てきたように思う。

多田富雄新作能全集

脳死(「無明の弁」)、朝鮮人の強制連行(「望恨歌」※最近の検証により、朝鮮人の強制連行はなかったことが判明した―ブログ管理人N)、原爆投下(「原爆忌」「長崎の聖母」)、相対性原理を題材とした能(「一石仙人」)、沖縄戦(「沖縄残月記」)、横浜に因んだ能(「横浜三時空」)、白州正子さんを題材とした能(「花供養」)、(「生死の川――高瀬舟考」)、子供能チャレンジのための能(「蜘蛛族の逆襲――子供能の試み」)。

時事的な題材が多い。構成も文章も端正だが、これらの能は地上界から一歩も出ていないような感じがする。異世界に触れることによる浄化現象は期待できない。

まだざっと読んだだけなので、読み込めばまた違った感想が生まれるのかもしれない。そのときは別の記事にしたい。

ただ、能に関して右も左もわからないわたしのような人間には、参考になる。能舞台を観たあとで購入したのかどうかは覚えていないが、多田富雄 監修『あらすじで読む 名作能50』(世界文化社、2005)を再読している。わかりやすい。

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2019年9月29日 (日)

借りてきた新作能の本、三冊 

最近の過去記事で、わたしは萬子媛をモデルとした作品について、次のようなことを書いた。

歴史小説にするには、何か、そぐわないものがあるのです。
わたしは神秘主義者として萬子媛を通して感じることのできた高雅な現象を書きたいのであって、よくわかりもしない萬子媛の生前のあれやこれやではないのです。
いや、あれやこれやにも興味があるから研究ノートを当ブログにアップし、そのまとめをエッセーとして「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録してきたわけですが、そのノートは、萬子媛の高雅な現象を表現できてこそ存在価値があるのです(エッセーは「萬子媛研究」といったような形にまとめたいと考えます)。
その表現にふさわしい形式は、新作能以外にありえない気がしてきました。

ノートは萬子媛をモデルとした作品が完成するまで、取り続ける予定。前述したように、いずれ「萬子媛研究」のような形にまとめたいと思っている。

ノートには、郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察、また祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話など、慎重に扱わなければならない情報があるので、まとめる作業には日数がかかると思う。

新作能を書きたいなどと大それたことを思い、三冊借りて読んでいるところだが、いや、本当に何だか書けそうな気がしてきた。テーマや雰囲気からすれば、過去に書いた「牡丹」という短編は、新作能にすることができるのではないかと思う。

萬子媛をモデルに、そのイメージ像をシテとする新作能を書きたい思いはあるが、まずは戯曲を、と思っている。逸る気持ちを抑えて、まずは新作能の研究からだ。

借りてきた三冊は以下。

  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

瀬戸内寂聴氏を知らない人は少ないだろう。石牟礼道子氏は、2018年にお亡くなりになったが、水俣病を扱った代表作「苦海浄土」でとても有名なかたである。多田富雄氏は免疫学者、文筆家として活躍された。

多田氏の新作能をざっと見ると、脳死、原爆、朝鮮人の強制連行(※最近の検証では強制連行はなかったとされているーブログ管理人N)を扱ったものなど多作なかたである。

力作揃いなのだろうが、わたしが馴染んできた古典の曲とはテーマ自体が違う気がした。

瀬戸内氏の「虵」からまず読んだ。感想は別の記事にします。

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