目次
● はじめに
枕許からのレポート
Ⅰ プロローグ
Ⅱ ある友人に宛てて出した手紙の一部
Ⅲ 思想形成の出発点となった体験を考察する
● あとがき
● はじめに
わたしは自称・神秘主義者で、そのことを人様から怪訝に思われていることでしょう。実をいいますと、わたしが神秘主義者と自称する根拠が、「枕許からのレポート」という作品に潜んでいるのです。
これは、23 歳のときに書いたレポートなのですが、この作品で報告した体験がわたしの神秘主義的生きかたを決定づけたものでありますし、わたしはその体験を作品にすることで、思想化(血肉化)し、自身の恒久的生きかたとして様式化しようとしました。
稚拙な作品ではありますが、この体験と作品が一体となって、わたしの自称神秘主義者たる根拠を形成しているのですね。これなくしては、わたしは自分のことを神秘主義者だなんて、とてもいえなかったでしょう。
そして、今もよりよき生きかたを探して、他人が作りあげた思想の森を彷徨っていたのかもしれません。
「枕許からのレポート」は、1981年10月10日発行の文芸同人誌「VIE」に発表したものです。
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枕許からのレポート
Ⅰ プロローグ
C・G・ユングの次の言葉は、わたしが彼の言葉に遇う以前から自己の内部に感じ続けてきた、ひとつの強力な指標である。
私の存在の意味は、生命が問いを私に投げかけてきたことにある。あるいは逆に、私自身が世界に向かって投げかけられた問いそのものなのだ。そして、私はその問いを伝えねばならない。さもなければ、私は世界がそれに答えるのに依存してしまうことになるからだ。これは努力をし困難と闘ってのみやりぬける超個人的な仕事である。*1
そしてこのユングの言葉は、当然、ドイツ強制収容所の体験記録である『夜と霧』の中で、ヴィクトル・E・フランクルによって述べられた次の言葉を前提としていなければならない。
如何なる人間、如何なる運命も他のそれとは比較され得ないのである。そして、その状況ごとに人間は異なった行動へと呼びかけられているのである。*2
わたしは危機というものに、ひじょうな関心を抱いてきた。なぜならばその人にとって危機と称されうるようなその瞬間とは、彼の複雑な精神現象を統一している意識そのものが直撃の憂き目に遭い、撹拌される瞬間だからである。
わたしがここに述べるものは、わたしを訪れ、精神的パニックに陥れた一連の出来事がある程度治まった頃、ある友人に宛てて出した手紙の一部であって、極めて個人的色彩を帯びたレポートである。しかしながらわたしが遭遇したような出来事は、一生の間に誰もが幾度か経験するようなごく陳腐な事柄といってよい。
Ⅱ ある友人に宛てて出した手紙の一部
以下は、ある友人に宛てて出した手紙の一部。
……(引用ここから)……今回の母の病気は、わたしの信仰を現実のものとしました。つまり、わたしの生命に直接的に関わってくるような問題を秘めていました。
2週間程度入院すればいいというので、母を個人病院に預けて2日目か3日目、わたしは大学に成績表を取りに行きました。そして帰ってから病院に行ってみると、容体が一変していました。ベッドに座り、目を異様にポッカリ開け、半分泣きかけ、パジャマの腕は血でベットリ汚れていました。恐ろしさにゾッとしながら思わずどうしたのかと聞きました。母は泣き出して薬を呑んでいると答えました。
返事があったのでいくらか安心しながら、ベッドの所へ行きました。焦点の合っていない瞳から、視力のないのに気づきました。戻しそうになりながら薬を呑もうとしている母に、わたしはもう呑まなくていいと言いました。その粉薬に今の母を助ける力など無いように思えたのです。こんな重病人に医師も看護婦も付き添っていないのが不思議でした。母はわたしの言ったことに対して一層泣きながら、だって呑まなきゃ治らないじゃないの、と言いました。愛おしさでいっぱいになって思わず抱き締めると、母は仔犬のようにわたしにもたれかかってきました。わたしはその時、母の生命がわたしの管轄下にあるような錯覚を起こしました。
先生から呼び出しを受けドアを開けると、苦痛を漂わせて座っている先生が見えました。事の全体を直観し、一瞬正気を失いそうになりましたが、 家の事情を知っている先生は、なかなか口を開こうとしません。*3しかし、こういう時一番辛いのは、それがどんなものであろうと、真実を隠されることです。こちらからずばり尋ねると、駄目かもしれないということを言われました。
航海中の父に電報を打ち、それまでも何日間か眠っていなかったのでひとりでは身がもたないと思い、親戚に電話して応援を頼みました。国立病院に腎臓血圧の名医がいるからそちらへ移れるように手配し、2、3日うちにそうできるだろうと先生が言うので、問題はその2、3日(!)を何とか切りぬけることでした。点滴は血管から漏れ、飲み薬は吐いてしまう、これでは事実上何の治療も受けていないのと大した違いはないことになります。一刻も早く注意深く明晰なまなざしの注がれる下に母を連れ出すのが第一でした。
家に帰ると、気違いみたいに泣きながら茶碗を1個割って精神を調整し(?)、聖書と『チベットの死者の書』 を病室に持ち込みました。不吉に思われるかもしれませんが、この本は死者の魂を導くための指南書です。
オー けだかく生まれたものよ。
死と呼ばれるものがやって来た。汝は此世から去ろうとしているのだ。しかし、汝が唯一人の此世を去るものではない。死はすべてのものにやって来る。此世の人生を溺愛することに執着するな。汝が好きでたまらない気持ちから執着するとしても、汝はここに留まる力を持っていない。汝はこのサムサーラの中を彷徨う以上の何も得ないだろう。此世に引き付けられるな。怯弱[きょうじゃく]であるな。貴重なる三宝を思い出せ。*4
こうした言葉で始まるこの奥義書は、格調高い響きを持っています。
その夜は、わたしの過ごした夜のうち一番苦しい夜でした。母をこのような重体に陥れた大きな原因は、わたしにありました。小さい頃からわたしは母を半分は母として見、半分はひとりの人間として見てきました。母に甘え(わたしほどの甘えんぼは類を見ないでしょう)、べったり依存してきた反面、冷たいほど厳しい批判の目で見てきました。
母は極めて孤独に弱く(わたしもどっぷりそうなのですが)、長い間そのことがわたしの不安の原因でした。
この世における最大の課題のひとつは、ひとが自分自身に直面することだと思ってきましたが、ただしそれは長い間、ほぼ一生に亙って徐々になされるべきことであり、それが何の準備もなしに急激になされる場合はひじょうに危険であることが、自殺した従姉の例から類推できました。災難はひとに急激な精神面の進歩をもたらすことがありますが、逆に治すことのできないダメージをもたらすこともあります。死も災難の例外ではありません。死がそのひとにもたらしたものを、わたしたちは見ることができません。しかし、たとえ死後の生命の存続を信ずるにせよ、信じないにせよ、精神に治すことのできないダメージを受けて死ぬことがよいはずはないと思われました。
大学卒業後、母をK市にひとりにして博多に住む決心を固めた理由のひとつは、母に自己に直面する機会を与えてやろうと思ったことにあります。母は不安そうでしたが、承諾していました。これはわたしのとんでもない過失でした。ひとつは母の持病が悪化してきているのをわたしが知らなかったということ、他のひとつは母の本質をよく極めていなかったということでした(そのようなこと、可能であるはずないのに)。自分の過失に気づいた時は遅く、もうわたしは神に頼る以外ありませんでした。祈ろうとしてわたしは、何と祈ればいいのか、わからなくなりました。わたしが母を重大な危機に追いやったとしても、母はわたしのものではなく、神のものではないか、神が母に必要なものをもたらされるのだ、という考えがわたしの脳には残っていました。必要なもの、というのには、生と死が例外であるわけがありません。それに対して、母の存命のみを願うわたしの側には強烈なエゴがありました。たとえ母にとって死がよきものであり、生が悪いものであったとしても、わたしは母に生を願おうとするでしょう。これはまぎれもなく低級なエゴであり、わたしがこの時母に与えられるものは自己愛しかなかったのでした。
その夜、母の悲惨さは、ピークに達しました。それまでわたしは木偶のぼうのようでしたが、母が奇妙な呻き声をあげて、自分の離れようとする魂に取りすがろうとするかのようにベッドに起きあがりかけた時、わたしは一変しました。正確に言えば、わたしはわたしではなくなったのです。神秘的な感情がわたしの胸の中心部から、とめどもなく母に注がれるのです。力強く奥深く、しかも穏やかでデリケートな感情がとめどもなくそのあらわれを強めてゆきながら母に注がれる美しい情景は、視覚化さえできるようでした。
わたしはこの時初めて、ヨガ行者が到達しようとして精根を傾けているもの、真我、あるいは自己の中心に内在する神というものの実存と意味を学びました。
わたしの内部を突き進んでゆけば様々な精神上の産物に出遇います。しかし、さらに進めば、何もなくなります。無です。わたしはあの一瞬に、無になったのでしょう。無になったわたしを通して、神は母に必要な本当の愛情を注がれたのではないかと思います。あの時、精神上の産物がわたしの内部を浮遊している状態であればそれは、神の意思の障害物となったでしょう。
空想的すぎると思われるかもしれませんが(確かにそうなのですけれど)、少なくともこの時点からわたしは、神を抽象的な次元においてではなく、現実の線上で捉えるようになりました。これらのことがわたしにとっての体験の全てといってもよく、他の現象はむしろつけ足しにすぎません。母の枕許で聖書を開いたら、次の一行が示されました。
わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。*5
翌日、偶然国立のベッドが早く空いたということで(今思えば、そのベッドのひとは退院したか、死んだかしたのです)、救急車で行きました。そして主治医から空いているベッドの上で母の病歴に関する質問を受けていた時、ベッドにオーロラを縮小したような菫色のうつくしい光があらわれました。ひとを驚かすより先に安らぎをもたらすような、すばらしい現象でした(実はこれと同様な光が、本家の仏壇で祈ったあとあらわれました)。
こればかりが原因ではありませんけれど、この医師が母に何をもたらす結果になろうと、母にふさわしいという確信を持ちました。あの夜、わたしは結局、次のように祈ったのです。
『母がまだこの世において霊的進歩を促進することができますならば、こののちも母をこの世にとどめおいて下さい。そして母の肉体と精神に、あなた様の聖なる健康を注いでください』
結果的にはこの祈りの後半部と同様のことが起こったことになります。入院して数日、肉体的には適切な治療を受けて、慢性の腎臓疾患の方は別として、ずい分よくなりました。それから数日後、幻覚を見せ続けていた脳が正常になりました。……(引用ここまで)……
Ⅲ 思想形成の出発点となった体験を考察する
デカルトは「われわれは世界すなわち物体的実体の全体がその延長の限界をもたないことをも認識する」*6と述べているが、現にわたしが体験している覚醒よりもさらに高次の覚醒が、覚醒という延長の限界をもたない線上において存在しないと、どうして言えようか。
イエス・キリストを究極の師と定めた日から、わたしは自己に直面しなければならない日がいつかくるとわかっていた。それは人生においてわたしの最も恐れているもののひとつがやってくることであり、そのパニックのさなかでわたしは自身に対してわたしが何をなしうるかを証明しなければならないだろうという、ほぼ確信に近い予測であった。わたしたちの最も恐れていることが人生において起こる。それは必ず起こるのだ。なぜなら恐れるとは叫ぶことだから。「わたしはここにいる!」と。それは必ず起こる。まぎれもないこのわたしに導かれて。そしてひとは、自分が最も恐れているものと直面しない限りは、真にこれから解放されることなどあり得ないのである。
物心ついた頃からわたしは母に嫌悪と好感、共感と反感、といったあらゆる感情の両極によって繋がれていた。これ程長い間わたしが母に執着したのは、母とわたしのパーソナリティーが対照的であったために、母がわたしを映し出すきわどい鏡となったからであろう。
わたしは母から離れることを望んだ。このことのうちには母に対するわたしの高次の希望と並行して、低級なエゴが潜んでいたことを述べておかなくてはならない。
わたしは自由になることを欲した。わたしの過去を不当なまでにしつこく現在に持ち越すように感じられる故郷から、肉親から、母から、自由になりたかった。しかし本来、自由とは継続するある意識の状態を表現するひとつの言葉であって、低級なエゴに根を持つ破壊や逃避とは区別されねばならないのである。自由とは、調和そのものなのだから。
家族制度は愛という抽象の概念に特定の、また無作為のある対象をもたらすことでそれの具体化を促す、貴重な役割を果たしているといってよい。
母はわたしの母である前に、ひとつのたましいである。母がわたしの母であるということは、母にとってもわたしにとってもひとつの外観にすぎないのだ。単に母の存命を願うことは、わたしの信仰に照らしてみれば愚かしかった。母の存命を願うことのなかには、強烈なエゴ、乳臭いエゴが輝いていたからである。
わたしの最も澄んだ愛は母を母としてではなく、ひとりのひと、ひとつのたましいとして捉えるときに訪れる。生と死の対立概念は消え去り、内省があらわれる。母の重体に際して、このたましいにとってふさわしいよいことがなされることを祈る祈りだけが、祈りとしての純粋さ、適切さを保つことをわたしは知っていたはずである。それでもなお激しさを増して、わたしは乳臭いエゴにしがみつかずにはおれなかった。母が死んだらわたしを襲うであろう、不自由とわびしさの様々の局面が次々と連想され、パノラマのように母の可愛らしい、おどけた笑顔がまぶしいばかりにわたしの脳裏いっぱいにひろがった。気違いじみた葛藤が何時間も続いてわたしは変になりそうだった。しかし、これほどまでに熾烈なエゴでさえも、薄っぺらな一枚の布切れにすぎない。なぜならそのようなエゴは究極の境地では、あられもなく姿をくらましてしまうからである。
母の悲惨さがピークに達し、母の精神も肉体も共に危機に晒されているのを目撃したときにわたしに起こったこと、それは味わいであって、言葉にはならない。どこまでもどこまでもわたしの内部を深く進んでいって、遂にわたしという人間を他の人間と区別するための何ものも残さない純白な一点。この一点に達しないまでには、決して、決して、わからないことがある。少なくとも、わたしには全くわかっていなかった。それ以前は「他の者がいるよりも、オレステスが不在である方が」*7好ましいエレクトラにすぎなかった。このとき初めてわたしは、C・トレモンタンの下記の信仰に関する美しい言葉を理解したのである。
信仰――神中心の徳――とは心理学の領域に属するところの信念ではない。(略)信仰自体は霊的悟りであり、超自然的認識であって、霊によってわれわれに与えられるものである。
〔慈〕愛とは感情的愛でもなく、心理学的諸動機または一つの気質によって説明される博愛でもない。それは感情でも情熱でもない。それは他の秩序――超自然的秩序に属している。
希望は自然的楽観主義、幸運な気質から生まれるところの期待する能力、とは何の共通点もない。それは同様に超自然的な徳である。なぜならそれは霊的であるからである。それはあらゆる蹉跌と人間的孤独をこえて存続し得る。*8
● あとがき
「枕許からのレポート」は、現在中年のわたしが 23 歳のときに執筆した手記です。
ここに書いた出来事が起きたのは、それを遡ること、大学在学中でした。
就職先もアパートも決まり、そのことを母に報告した翌日、腎臓病を患っていた母の体調がにわかに悪化し、自分で入院したかかりつけの個人病院にて倒れ、人事不省に陥りました。
母の発病の頃に遡れば、わたしが中学 1 年生のとき、電話交換手をしていた母は職場検診で腎臓の異常が見つかり、佐賀市の県立病院への入院をすすめられました。が、父が船員で不在がちであるため、母は自宅から近いその個人病院に入院しました。入院期間は 1 年でした。
母はその後退職し、腎臓病はかろうじて小康状態を保っているといったところでした。わたしが大学の卒業を控えていたとき、妹は大学受験を控えていました。
母が入院した個人病院の医師からもはや重体で助かるかどうかわからないと告げられたときから、転院予定の国立病院のベッドが空くまでに経過した時間中は、絶体絶命のピンチといってよい状態にありました。
国立病院に救急車で転院した後―――このあたりのことは手記にはあまり書いていませんが―――意識が戻った母は、完全に乳児の状態に返っていました。
脳はそのまま回復しない可能性が高いといわれ、わたしは赤ん坊のようになった母を、まさに赤ん坊をあやすようにして看病しました。
絶望感、赤ん坊に返った母の可愛らしさ、看病からくる疲労、おじゃんになった就職……そんなわたしの混乱状態の中で、母は薄紙を剥すように回復していきました。
年齢を刻々と取り戻していく様は、不思議でした。3歳児のように悪戯っ子だったときの母のことは、今も忘れられません。あまりに手に負えない母を病院のベッドに縛りつけて、洗濯に行ったこともありました。憎らしくてそうしたわけではありません。
点滴をむしりとろうとして、危なかったのです。実際、母は一度それに成功して、ベッドも何もかも、血だらけになったことがありました。完全看護といっても、家族の付き添いが当たり前の時代でした。
まるひと月、わたしは病院に泊り込みましたが、母の脳が正常になってから、その後の回復は思ったより早く、病状が安定して退院するまでに要した日数は3ヶ月でした。
国立病院の主治医は瞳の大きな、たっぷりした体格の優秀な医師でしたが、母の回復を奇跡だ、「こんなケースは、教科書にも載っていないよ」とおっしゃいました。
国立大志望だった妹は母のことで動転し、受験を半ば失敗した格好で、福岡にある短大の国文科に進学しました。わたしは福岡での就職を諦め、バイトをしながら、自宅から病院まで車で片道 30 ~ 40 分かかる道を、母の通院にドライバーとして付き添いました。
結婚するまでそんな生活が続きましたが、今は亡き母と過ごしたなつかしい日々でもあります。
手記は、母が最も危なかった時期のわたしの葛藤、神秘的(?)な内省に焦点を絞って書いたものです。哲学や宗教に最も真摯に、深刻に向き合っていた若い頃の少し恥ずかしい、青臭い作品です。
*1:C・G・ユング(A・ヤッフェ編,河合隼雄・藤綱昭・出井淑子訳)『ユング自伝 ――思い出・夢・思想―― 2 』みすず書房,1963,pp.162-163
*2:ヴィクトール・E・フランクル(霜山徳爾訳)『フランクル著作集1 夜と霧』みすず書房,1961,p.183
*3:当時父は外国航路の船員をしていて留守がちだったが、この時も容易には帰ってこられない状況にあった。
*4:おおえまさのり訳編『チベットの死者の書〈バルド・ソドル〉』講談社,1974,p.49
*5:新改訳聖書刊行会訳『聖書 新改訳』日本聖書刊行会,1978・2版,「新訳聖書」(ヨハネ21・22)p.207
*6:責任編集 野田又夫『世界の名著 27 デカルト』中公バックス - 中央公論社,1978,「哲学の原理」(21)p.381
*7:シモーヌ・ヴェイユ(田辺保・杉山毅訳)『神を待ちのぞむ』勁草書房,1967,「神への暗黙的な愛の種々相」p.228
*8:クロード・トレモンタン(西村俊昭訳)『ヘブル思想の特質』創文社,1963,p.189