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2024年9月24日 (火)

神秘主義的エッセーブログを更新しました。エッセー 120「舅の死(ある因縁話)。百貨店でオーラの話。」

はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」を更新しました。当ブログで綴った文章を改稿したものです。以下に紹介します。

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2024-09-21
120 舅の死(ある因縁話)。百貨店でオーラの話。
初出: b 覚書,2024

目次
1 舅の死(ある因縁話)
2 百貨店でオーラの話


1 舅の死(ある因縁話)

3 月に義父(夫の父親)が亡くなった。97 歳の舅には血液疾患があったが、こんなに早く亡くなるとは思わなかった。

亡くなる 5 日くらい前から、これまでには体験したことのなかった心霊現象めいた心象風景ともいうべき光景を見た。ふわふわとしたグレーっぽい雲のようなものが白い天井を覆うように包み込んでいるのが見えたのだった。

わたしは神秘主義者なので、空間に赤、黄、青、紫、黒、銀色、金色などの光の点や黒い浮遊物を霊的な視力で見ることは珍しくない。エレナ・レーリッヒの文章に、わたしの見るものにそっくりな描写があるので、エッセー 18「第44回総選挙のときに見た不吉な兆し」で書いたように何度か引用してきた。

英語で書かれたブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』をロシア語に訳したヘレナ・レーリッヒ(1879 - 1955)は、透視力の持ち主に見える――わたしもしばしば見るが――空間に出現する光について、いろいろと解説している。日本アグニ・ヨガ協会訳で、ここにその断片を引用する。

大抵黒い点は暗黒、又は混沌的なエネルギーの接近を意味する。その場合、万事に注意したほうが良い。だから私は小さな黒い点を見ると、それらが度々、困難の来ることを示したり、又は健康について警告していることを知るのである。点が大きければ大きい程、多ければ多い程、もっと注意を払うべきである。時々、空間の中を泳いでいる大きなビロードのような黒い点を見ることができる。紫、青、銀色、そして金色の点は、いつもよい使者たちであり、あるいは師匠のご放射が近いことを示すものである。黄色の点は、危険の警告である。赤い点は、大気の中の大変な緊張を示し、その時、地震や嵐や革命さえも予期できる。

わたしの場合、空間によく届く青い点は、1995年にお亡くなりになった神智学の先生からの光のお手紙であることが多いように感じている。

とても高貴にきらめく紫、銀色、金色の点はどなたからのものなのかわからないが、高揚感がもたらされ、すばらしい贈り物のように感じられる。

たまに見る黄、赤は警告を感じさせられるものだ。黒い点及び浮遊物は幸いめったに見ることがない。昔何回か続けてありありと見た黒い浮遊物は、何か低級な世界と関係がある不吉なことを暗示する表示のように感じられた。

しかしながら今回の、白い天井をふわふわと包むように現れたグレーがかった淡い雲のようなものが何であるのか、さっぱりわからなかった。見間違いかと思い、何度も目をこすった。5 日くらいは見えていた。

そして 8 日の午前 3 時頃のこと、わたしはまだ起きていた。何と、窓が開いていないのに、室内を風が吹き抜けるのはどうしたことか。次いで、動物は飼っていないのに仔犬か何かが家具にぶつかったような音がしたのだった。

舅の亡くなったのがその頃だと知り、あのグレーがかった雲や風や物音は舅と関係があったのかもしれないと思う。

もっとはっきりとした挨拶にお見えになるかたも珍しくない。自身の死を自覚し、今後のことも予想がついているかのような主体的な雰囲気が感じられた方々は今のところ 3 名おられ、神智学の先生、カトリック教徒であったフランス文学者、熱心な浄土真宗の門徒であった中学校の校長を務めたかただった。

その他の方々にはそのような主体的な雰囲気は感じられず、半ば無自覚的に我が家へ引き寄せられたのだろうと思われた。

葬式に行った夫に就いてきた、亡くなったばかりの叔父さん。「Nちゃん」と昔と同じ声で呼びかけてきたわたしの幼なじみ。

自分の贈った人形を見に来た大学時代からの友人……「わたしが死んだら髪の毛が伸びるわよ」と彼女はいったけれど、伸びたりはしなかった。

そういえばフランス文学者もわたしの蔵書を見に来られたので、「昼下がりのカタルシス」という短編小説にした(その場面を除けば、内容は完全なフィクションである)。

別れの挨拶に見える死者は全員、肉体を喪失していられるので、透明だ。透明なのに、わたしにはどなたかわかることがほとんどだ。その方々の思いも行動も、わたしの意識の範囲内で起きることであれば、わかる。

なかにはオーラが見えたかたもあった。肉体の重みから解放された軽やかさを陽気に楽しんでいられるかたがあり、普通に歩いていられる様子のかたもあり。

だが、今回のような体験は初めてだった。舅は霊媒気質だったのかもしれないとわたしの勝手な想像なのだが、思った。

夫の実家でわたしにひどい嫁いびりをした舅姑とよく滞在していた義妹家族には、案外霊媒気質が揃っていて、質の悪いカーマ・ルーパ(死者が脱ぎ捨てていった物質に関する精神的、肉体と欲望によって作られた主観的な形体)*1の悪影響を受けていたのかもしれない。生きている人々は今なおそうではあるまいか……。

わたしはその悪意の感じられる澱んだ雰囲気に耐えられなくなり、心臓を傷めて、子供たちが中学生のころにはわたしは夫の実家には行かなくなっていた。次いで子供たちも行かなくなり、次第に夫もほとんど行かなくなっていたけれど、姑に呼ばれて帰省することはあった。嬉しそうに出かけ、不機嫌な顔で帰宅するのが常だった。何か嫌な目に遭わされたに違いない。わたしがいなければ、夫が標的になるのだ。

わたしより 5 歳上の義妹とその夫。舅姑。あの独特の雰囲気を持つ集団は一体何だったのだろう。

一人一人と接すると優しかったりしたから、余計にわからなかったが、この年齢に達してわかったことは、意地悪な人々とはそのように掌を返すような振る舞いをする人々であるということだ。

距離を置いて正解だったと今は思っている。

源平、元寇時代に遡る因縁があるようにも思われる。

義妹のご主人は平家の子孫を根絶やしにするために遣わされた源氏系の人々が住んだと伝えられる集落辺りの出身である。そして、夫の祖父は自分は平家の子孫だといっていたそうだ。夫は半信半疑。「ただの海賊か、平家よりは源氏の側ではなかったの?」などといいう。

源氏と平家は出自がわからなくなるくらい入り乱れていたりするが、夫の先祖が平家と関係がなかったとはいいきれない。夫の亡くなった親友は間違いなく平家の子孫で、まだ続いている一門の集まりに呼ばれるといっていた。

しかも、わたしの先祖は少弐氏の部下として(わたしの母方の先祖は江上氏*2と関係が深いようだ)、夫の先祖は松浦軍の一派として、共に元寇を戦い抜いたことがだいたいわかっている。

何にせよ、まだ彼ら――特に義妹夫婦――とのおつきあいは残っていて、義父の死後、さっそく彼らが法的常識をはみ出すようなことをいってきた。もはや旧帝大を出たエリート商社マンだったとは思えない義妹のご主人。幸いわたしと娘は法学部出身であるから、夫と一緒に法律を参照して、常識的な判断に従うだけだと思っている。

話が逸れた。

いずれにせよ、初七日ごろ、わたしを訪れたかたがたはどこかへ行ってしまわれる。つまり、どなたも無事に成仏なさったのではないだろうか。


2 百貨店でオーラの話

神秘主義的な話題になったついでに、百貨店へ娘と出かけたときのことを話そう。

物産展のティー売り場で色々と試飲させていただき、その中から3種類買い求め、そこを離れた。娘は別の階へ行く用事があり、あとでまた物産展で待ち合わせようということになった。

人が少なくなっていた。娘はまだだろうかと思いながら歩いていると、ティー売り場の年輩の売り子さんに呼び止められた。

そのかたの目が星のように輝いているではないか。

「あなた、先ほどいらしたかたよね? でも何だか違った人に見えるわ。普通、ほとんどの人には見えないと思うけれど、もうあなたは圧倒的なんですよ。それが他の誰にもわからないのが不思議なくらい。こちらに歩いてこられたとき、スポットライトの中を燦然と輝きながら歩いてくる女優さんみたいに見えました。何て綺麗なオーラなんでしょう……」とそのかたが囁くようにおっしゃったので、びっくりした。

竜王会の大会で、一緒に参加した複数の人々からオーラが綺麗だと褒められたことがあった。それはずっと昔のことだったし、今ではわたしはおばあさん。心底驚いた。

「実はわたしにもオーラが時々見えるのですよ」とそのかたに打ち明けて、お別れした。


マダムNの覚書、 2024年3月18日 (月) 20:45

*1:H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版の用語解説「カーマ・ルーパ」を参照されたい

*2:「江上氏」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。 2024年2月9日 (金) 12:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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2024年3月18日 (月)

『卑弥呼をめぐる私的考察』(Kindle版)をお買い上げいただき、ありがとうございます! 

『卑弥呼をめぐる私的考察(Collected Essays, Volume 3)』(ASIN:B00JFHMV38)を3月3日ごろ、お買い上げいただきました。ありがどうございます! 11冊目のお買い上げでした。

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2023年12月28日 (木)

これから、というかた――同志――のために、もうこの時期ですが、「おすすめ年賀状テンプレート・イラスト2024(令和六年)」を『Nのめもちょう』に公開

これから、というかた――同志――のために、もうこの時期ですが、「おすすめ年賀状テンプレート・イラスト2024(令和六年)」をブログ「Nのめもちょう」に公開しました。


おすすめ年賀状テンプレート・イラスト2024(令和六年)
https://n2019memo.blogspot.com/2023/12/2024.html

新しく紹介したサイト様が複数ですが、ほぼ説明なしですみません。

12月は怒濤のような月でした。玄関ドアに注連縄をと思い、玄関の内外と通路側の窓など掃除して注連縄を設置したあと、キッチンの戸棚の整理で今日は過ぎていきました。

わたしは年賀状はこれからです。1年ぶりに開くアプリ。ちゃんと印刷できるか不安です。

あなた様はどのような年末をお過ごしですか? 無理のないよう、お体に気をつけてお過ごしくださいね。

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2022年12月25日 (日)

エッセーブログより「26 フジコ・ヘミング (1)初のフジ子・ヘミング 2006.5.1」を紹介

昨夜の以下の記事中、電子ピアノに関する記述の中でリンクを張ったエッセーブログの記事を転載しておきます。

2022年12月24日 (土)
オーストラリアTGA(医薬品行政局)の検査によると、含有量を下回っているイベルメクチン商品があるとか。我が家に電子ピアノがやってきました。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/12/post-65db60.html

リンクを張ったエッセーブログの記事は2006年に公開した記事ですから、初めてフジ子・ヘミングのコンサートに出かけたのは16年も前ということになりますね。

『26 フジコ・ヘミング (1)初のフジ子・ヘミング 2006.5.1』「The Essays of Maki Naotsuka」 
https://naotsukas-essays.hatenablog.jp/entry/2017/05/18/055404

 

26 フジコ・ヘミング (1)初のフジ子・ヘミング 2006.5.1


 フジ子・ヘミング*1のピアノ・リサイタルは、素晴らしかった。可能な限り印象を持ち帰りたいと思い、休憩時間にメモ帳を開いたのだが、うまく書き取ることはできなかった。無味乾燥なメモ……。

 休憩時間にロビーへ出ると、犬たちがいた。盲導犬だ。リサイタルの主催がボランティアグループで、収益の一部が盲導犬協会に寄付されることになっていたのだった。イエローと黒のラブラドール・レトリーバーが 6 匹はいた。

 触りたくなり、思わず撫でてしまった犬はイエロー、泰然としている。まるでフジ子みたいだと思った。でも、彼女はどちらかというと容貌や仕草が猫に似ている。猫を沢山飼ってきたせいだろうか。

 犬の目を覗き込むと、遠くを見るような目つきをしている。もしかしたら、眠かったのかもしれない。実際、リサイタルが終わってロビーに出ると、帰宅を待ちかねた犬たちがぐったりと前脚の上に頭をのせて目だけ動かしていたり、眠ってしまっていたりした。

 休憩の間に、舞台の上では調律師が丁寧に音をチェックしていた。そこにはグランド・ピアノが一台、ぽつねんとあるだけだ。スタインウェイ・アンド・サンズ社の製品。

 世界で最も名高いスタインウェイのピアノなんて、昔の日本ではまずお目にかかれなかったのではないだろうか。さすがにいい音だと思った。ピアニストの腕だけでは、あれほどまでに透明感のある響きはつくり出せないに違いない。 

 前回わたしがピアノ・リサイタルに出かけたのは、随分前のことだった。年に一、二回音楽会に出かけることがあったとしても、管弦楽団と一緒だったりすると、ピアノやピアニストだけに注意を集中させたりはしない。

 舞台はイエローのレトリーバーの毛色に似た色をしていた。沙漠の色のようにも見える。そこに現われてピアノに辿り着くフジ子は、ピアノだけが生きるよすがみたいに見えた。

 双眼鏡を覗いていると、ピアノを弾く前に顔をそむけるようにして、困ったような、途方に暮れたような、はにかんだような、独特の表情を見せた。それは、テレビのドキュメンタリー番組で観たときに印象に焼きついた表情だ。わたしが絵描きであれば、この顔を絶対に描こうとするだろう。

 一旦弾き始めてからは、二、三曲ごとに小休止をとった。両手を膝にのせ、少しうつむいて意識を集中させようとする姿が、まるで祈っているようだった。そして、黙々と、ただひたすらに曲をこなしていくその姿は苦行者さながらだった。

 わたしがチケットを買うとき、あまり席が残っていなかったのだが、売り場の人が鍵盤が見える席を教えてくれた。それで、席は後ろのほうだったにも拘らず、鍵盤も、足もよく見えた。

 足は、初めは衣装のせいで見えにくかった。フジ子は髪に白い花飾りをし、着物のように見える紫の衣装をローブのように羽織っていて、スカートは黒いレース地のようなものを幾重にも重ねたものだった。

 休憩を挟んでからは、紫の衣装をゆったりと着ているのは同じだが(といっても別の衣装で、模様が違った)、下は黒いパンツだった。今度は衣装に妨げられることなく、ペダルを踏む足が実によく見えた。

 何てすばらしい足、絶妙なペダル使いだったことだろう! 彼女がペダルを自家薬籠中の物にしていることが、ペダルに置かれた足の角度の美しさが物語っていた。さりげなくおかれた足。なめらかに踏み込まれ、そっと離されるペダル。ペダルが愛撫されているかのようだった。 

 肝心の指使いに関していえば、その奏法は指を寝かせて弾く弾き方で、ペダルの使い方と同じような、鍵盤を愛撫しているかのような弾き方だった。

 それは、中村紘子が日本のピアニズムに残存すると憂い命名した「ハイ・フィンガー奏法」とは、全く対照的な奏法なのだろう。ペダルの使い方は勿論、指の使い方と相関関係にある。

 わたしが子供の頃にピアノを齧ったとき、二人目の先生から教わったのが「ハイ・フィンガー奏法」で、それも絶対的価値観といったていで教わった。

 それは、手を卵型にして指を一本一本振り上げ、上から鍵盤に叩きつけるような弾き方で、そんな弾き方をすると、音はのびず、響かず、表情がなくなる。ペダルも、音を強くしたり弱くしたり、引っ張ったり途切らせたり、といった狭く固定された域を出ない味もそっけもない使い方だった。尤も、ペダルの使い方にまでいかない初歩のうちにピアノをやめてしまった。

 カチカチと爪の音のするピアノの弾き方にわたしが何となく疑問を抱き始めた頃、ピアノの上手な生徒がクラスに転入してきた。

 彼女は聴いただけの曲も習った曲も、自分で自由自在にアレンジして弾いた。今思えば、おそらく絶対音感の持主だったのだろう。自分には考えられもしないそんな才能もさることながら、音の響きのあでやかさを耳にし、次いでその弾き方を見たときには愕然となった。彼女は指を寝かせて弾いていたのだ。

 わたしが通っていたピアノ教室は、しばしば名のある音大に生徒を送り出し、権威をもって指を立てて弾く弾き方を教えていた。それからすると、転入生は間違った貧弱な弾き方をしているはずだった。

 しかしながら、あれほど多彩に音を響かせうる弾き方が間違っているとは、わたしにはどうしても思えなかったのだった。権威というものの愚かしさを、このときわたしは学んだ。

 バッハの「インベンション」をゆっくりゆっくり一音一音、指を金槌のように振るって弾かされた鍛治屋の見習いさながらだった稽古の時間を思い出す。幸いバッハを嫌いにはならなかった。どんなにゆっくりと弾かされても、叩きつける弾きかたをさせられたとしても、バッハの曲には噛めば噛むほど味わいの出るパンのような尽きせぬ魅力があった。

 ところで、フジ子には数々の不運があった。

 その最たる出来事は、ウィーンでのデビュー・リサイタルの直前に風邪をこじらせ、聴力を失ったことだろう(後に片耳だけ 40 パーセント回復)。

 だが、彼女が、ピアノの魅力を最大限に引き出す奏法を教わる幸運に恵まれた人であることは確かだ。

 ロシア系スウェーデン人の父を持つフジ子が日本で成長したことや時代背景を考えてみると、下手をすれば、間違った奏法を植えつけられていたとしてもおかしくはないからだ。あの中村紘子でさえ、留学先で奏法の改変を余儀なくされ、苦労したというのだから。

 フジ子の場合はそれに加えて――というより、そもそもといったほうがいいかもしれないが、肉体的な条件に恵まれているという第一の幸運がある。

 プログラムには、ドビュッシー、ショパン、スカルラッティ、リストの名があった。ドビュッシーは『版画』の 3 曲。ショパンはノクターン 2 曲、ワルツ 1 曲、エチュード 8 曲。スカルラッティはソナタ 2 曲。リストは 6 曲。そして、フジ子がアンコールに応えて弾いた曲はドビュッシー「月の光」とモーツァルト「トルコ行進曲」だった。

 彼女はこのリサイタルで、全 24 曲をよどみなく弾いたことになる。呼吸は整えられていて、演奏に乱れは感じられなかった。

 実は、テレビで奏楽堂でのリサイタルの模様を視聴したとき、また、わが家にある5枚の CD を聴いたとき、曲によるのだが、重い、まどろっこしい、うまくオーケストラについていっていない、といった風なことを感じさせられることが皆無とはいえなかった。

 何しろフジ子自身が、「人間なんだから、少しくらい間違えたっていいじゃない。機械みたいに完全すぎるのは嫌い」というのだ。

 それで彼女を、危うさを爆弾のように抱え込んだピアニストと捉え、彼女が少しとちったくらいでは失望しないだけの心の準備をしたうえで、リサイタルに出かけた。

 ところが、そうした危惧はプログラムの早い段階で消え去った。演奏にはびくともしない安定感があり、この夜の彼女は最初から最後まで見事だったと思う。

 高年に入ってからの再起を賭けたデビューだったけれど、フジ子は 1 曲弾くごとに舞台慣れし、円熟味を増しているのではないだろうか。少なくとも、それだけの努力を自身に課す人であることは間違いないようだ。

 世に出られない長い、気の遠くなるような時間を、拾ってきた猫たち、ピアノと共に過ごし、自分の能力をいつでも直ちに大舞台に立てるほどの水準に保ってきたのだ。それが並大抵の努力では済まないことくらい、わたしにも想像がつく。

 照明を落とした夜の部屋で、フジ子の演奏を聴いてきた猫たち。猫たちは、今日どれほど彼女を好む聴衆よりも、一等優れた聴き手であったに違いない。

 休憩時間に後ろの席の女性が、「彼女の演奏って、どこか他の人とは違うのよね。心に沁みるわね……」といっていた。他の人と違う理由は、いろいろと挙げることができる。

 日本人――ことに日本女性――のピアニストには、演奏中、何かが憑いたのではないかと訝りたくなるくらいに眉を顰め、目を固くつぶり、身をくねらせる人が少なくない。あれは一体、何なのだろう? 

 ありがたいことに、フジ子はそんな見苦しいパフォーマンスとは無縁であって、演奏中はずっと理性的な、静かな表情だった。

 リストの「ため息」が、物憂げに、物哀しげに、それでいて敬虔なおもむきで奏でられるには、理性による客観視と自己制御が必要であるのに違いない。演奏中のフジ子はそれを想像させるような、自己陶酔とは無縁の、多方面に意識を働かせている統監者の顔、分析者の顔をしていた。

 わたしはこういうところに、彼女が半分血を受けた欧州の自然や文化の香りを感じるのだ。実際に、生で見るフジ子は日本人というより白人に見えた。手も大きく、肉厚で、指はかなりの太さだろう。白人の男の人のような手だと思った。鍵盤を充分制圧できるだけの手だ。

 日本人のピアノ演奏は、どうしても、線が細くなりがちだ。彼らの技術も精神力も、牛のように屈強なピアノという楽器には、追いつかないところがあるように見える。

 ところでわたしは昔、お産のとき医師に「顔でお産をするな」といわれた。そういわれても、力を入れるべきところにうまく力を入れられないと、つい顔だけで力んでしまうのだ。

 日本の女性ピアニストに多い顔や身振りを使った過剰なパフォーマンスは、ムードづくりのための演技かと思ったこともあったが、むしろそうした余裕のなさのあらわれではないだろうか。自己陶酔である可能性もあるが、それも芸術性の欠如からくる。

 ずんぐりむっくりしたフジ子の指を長くすれば、ロシア人の巨匠リヒテルの手になるに違いない。あの手は、女性であるということ、東洋人であるということのハンディを軽く吹き飛ばす。わたしが先に、彼女が肉体的な条件に恵まれているといったのは、こうした点を指す。

 反面、彼女が調子が悪いとか、オーケストラと相性が悪いとかいう場合には、あの指の太さがわざわいに転じて、いらぬ鍵盤に指をひっかけさせたり、演奏を鈍らせたりするのだろう。

 それくらいのことは仕方がない。心に沁みる音色をつくるにはどうしたって、あの肉の厚みが鍵盤を沈めることでつくり出す陰影が必要なのだから。

 フジ子が弾いた曲はどれもこれもすばらしく、それぞれに忘れがたいのだが、プログラムの中で一曲といわれるとするなら、ドビュッシーの「雨の庭」を挙げたい。

 この曲では、まるで波紋のように、幾重にも音色が重なったのだ。どうペダルを踏めば、あのように、混濁しない、紗のように重なる音色がつくり出せるのだろう?

*1:フジコ・ヘミング、本名ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ(Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko)は、日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストである。父親がロシア系スウェーデン人(画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング(Gösta Georgii-Hemming))で母親が日本人(ピアニストの大月投網子)。ベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。「フジ子・ヘミング」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年8月6日 (日) 06:22 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

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2022年11月 4日 (金)

神秘主義エッセーブログより、改稿済み「71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」を紹介

「71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」『マダムNの神秘主義的エッセー』。URL: https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

 

2018年8月に、『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)を祐徳博物館から購入した。それを読むと、萬子媛は病死なさったのではないか――との推測が成り立つ。一方では、萬子媛には断食入定の伝承があり、その可能性も否定し去ることはできないと思われるので、当エッセーの記述は訂正せず、そのままにしておくことをお断わりしておく。(2018年10月14日、筆者)

目次

  1. 萬子媛について復習
  2. 2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学する
  3. 萬子媛の身長
  4. わたしが萬子媛を高級霊と疑わない理由
  5. 断食入定の伝承
  6. 何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉
  7. カーマ・ルーパという、物質に関するあらゆる欲望によって作られた主観的な形体
  8. どのような地位にある教師なのかは知りようがない


萬子媛について復習

もしかしたら、自分ではその自覚がなくとも、誰にでもあるはずの霊媒性質が強まったがために低級霊と縁ができてしまったのかもしれないという可能性を排除せず、緊張の中で参拝してきた。

しかし、これまでの経験から、強まったのは霊媒性質ではなく、健全な神秘主義的感受性だと確信し、今回わたしは警戒心よりも、神様と呼ばれる、生前から徳と神通力で知られた方に再会できる期待感で胸を膨らませながら出かけた。

深窓の麗人を訪問するような気持になる一方では、これまでのこと全てが夢だったのではないか、もし夢でなかったとしても萬子媛はわたしのことを覚えていてくださるだろうか……という甘美な期待感と恐ろしさに似た気持ちとが交錯した。

ところで、昔の日本の系図には女性の名前は書かれていないことが多く、実は萬子媛の名前もわからない。郷土史家の迎昭典氏が、こうした基本的なことから御教示くださった。

史料から判明しているのは、剃髪して尼となり、瑞顔実麟大師と号したこと。また、謚が祐徳院殿瑞顔実麒大師というくらいである。

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。

明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

ここでざっと萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚*1の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。

1705年閏4月10日、80歳で没。諡、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。


2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学する

2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学した。

地上と本殿をつなぐエレベーターができていた。階段での移動が大変な人や移動するエレベーターの中から景色を眺めたい人には便利だ。

萬子媛はあの世の方だから、お元気でないことはないと思うが、それでも変わりなくボランティアを続けていらっしゃることを確認できることは嬉しいことだし、高級霊としての品格を本当にさりげなく伝えていただき、出かけるたびに萬子媛が好きになる。

高級霊と書いたが、地上から離れられずにいる低級霊とは到底考えられない高貴さを感じるから高級霊と書いた。

参拝者を母親のように見守り、太陽の光のようなオーラで抱擁してくださる萬子媛のような方を長い時間をかけて日本人自身が育んできたことを思えば、祐徳稲荷神社のような文化財は本当に日本の宝物だと思う。

今回、萬子媛の御遺物が収められた祐徳博物館に長居した。メモをとるためにあまりに長い時間いたので、夫と娘はソファで寝てしまっていた。

博物館を出るときに長居の失礼をお詫びするつもりだったけれど、男女の職員のお二人が事務所の中から優しい快い表情を浮かべてこちらを見てくださったので、感謝のお辞儀をして出た。

前に博物館を見学したのがいつだったか、正確には思い出せない。そのときの見学で記憶に残っていたのは扇面和歌、大和物語を書写したもの、御掻巻といった僅かな品だった。今回はじっくり見ることができたので、小説に手を加える際の参考になる。

遺愛の名琴と説明のある楽器を見、感激した。小説の第一稿を書いているときに、気品の高い女性が筝を弾いている姿が目に浮かび、その場面を取り入れた。萬子媛は本当に箏を弾かれていたようだ。琴と普段呼ばれている楽器は音楽専門サイトによると筝であるようだが(琴には柱がない)、小説にはどちらの表現を使うかで迷う。

前の訪問時には見落としていたのか、僧侶姿の萬子媛の肖像画をじっくり見ることができた。郷土史家からいただいた資料の中にこの萬子媛の肖像画の写真のコピーがあり、嬉しくてよく眺めていた。

現物はずっと大きく、色合いもこまやかなため、わたしの中で萬子媛の容貌が修正された。厳めしい印象だったのが、もっと軽やかな、優しい、明るい表情に見えた。わたしが思い描くイメージにぴったりだ。貼りついたように肖像画の前を動くことができなかった。

やはり、若いころは相当な美人だったのではないだろうか。老境に入ってさえ、色白で卵形のお顔に鼻筋が通り、如何にも聡明そうな目は高齢のせいで形がはっきりしないが、奥二重か二重だろう。ほどよく小さめの口、薄めの唇、凜とした口元。

家内安全の御祈願をお願いした。たっぷり30分、神楽殿で御祈願していただいた。巫女さんの御神楽もあった。

御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。

寒いくらいにクーラーが利いていたのだが、背中がずっと温かく、萬子媛から放射されるオーラの温もりだと感じた。太陽さながらの萬子媛だ。

しかし、神秘主義的な現象だったためか、今回も夫はずっと寒かったといった。娘も温かいとは思わなかったようだ。わたしは汗が出るくらいだった。暑い日だったから、もしクーラーが効いていなかったら、こんな確認もできなかったことだろう。


萬子媛の身長

萬子媛を背後に感じていたとき、江戸時代に生きた萬子媛はもしかしたら小柄だったのでは、と思った。わたしは夫と娘に挟まれて長椅子の真ん中に座っていた。萬子媛はわたしのすぐ後ろに立っていらっしゃる気配があったのだ。

このときまで、わたしは萬子媛を長身だと思い込んでいた。前に石壁社を参拝したときの圧倒的なイメージがあったためだろう。小説にも長身のイメージで書いたものの、萬子媛の身長についてはずっと気にかかっていた。

まるで、その疑問に答えるかのように、萬子媛がわたしのすぐ後ろに江戸時代の御姿で立っていらっしゃるのが心の鏡にほのかに映って見えたのが神秘的だった。

石壁社で初めて萬子媛に語りかけ、わたしの語りかけに驚かれた萬子媛が後ろから圧倒的なまでのオーラを放射されたとき、まるで女巨人のような気がした。

あの世ではどんな御姿でいらっしゃるのかわからないが、この世に通勤(?)なさるときは、地上のイメージに合わせて、江戸時代の御姿をとっていらっしゃるような気がする。

「江戸時代がわかるお役立ちサイト 江戸時代 Campus」*2に、江戸時代の人の平均身長は「調査した学者によって異なりますが、だいたい男性は155cm~157cm、女性は143cm~145cmほどであったと考えられています」とあって、それからすると萬子媛の身長は平均身長くらいだったのではないだろうか。小柄なわたしが小柄と感じたくらいだから、それくらいだと思えた。

こういう場所での30分という時間は半端ではなく、萬子媛の臨在を感じていながらふと緊張感の途切れる瞬間が何度もあり、あれこれ雑念が浮かんだ。

あまりに色々なことを心の中でつぶやいていたので、微笑まれる気配や微かに戦慄される気配の伝わってきた瞬間があった。

「日本は今、危険な状況にあると思います。どうか日本をお守りください」とつぶやいたとき、萬子媛が微かに戦慄なさるのが伝わってきた。萬子媛の最も近くに控えていた方が頷かれたような気配も、ほのかに伝わってきた。

萬子媛がボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の方々を感じることがあるからだ。萬子媛が黄檗宗の禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちなのかどうかはわからない。

わたしの願い事に萬子媛がなぜ微かに戦慄なさったのかはわからなかった。日本が本当に危ないからなのか、萬子媛の守備範囲を超えた願事をしたからなのか、あるいは真剣に受けとめられた武者震いのようなものなのか……

もう一度、微かな戦慄が伝わってきたのは、「萬子媛の小説を書きました。手直しが必要だと思っていますが、もしこの小説に価値がないのであれば、決して世に出ることがありませんように。でも、価値があるのでしたら、世に出ることができますように。わたしは萬子媛のような方の存在を日本ばかりか世界にも知らしめたい……」とつぶやいたときだった。

加筆修正が必要な段階でどうかとは思いつつも、ご報告までと思い、プリントアウトした小説を持参し、御祈願の間ずっと背後にいらっしゃる萬子媛の方に向けて膝に置いていた。

微笑まれたのは、「祐徳稲荷神社に少しは寄付できるくらいのお金があったらな……」と、これは雑念だったが、思わず心の中でつぶやいてしまったときだった。

相手が生きてる人であろうとあの世の人であろうと、神秘主義者にとっては神智学でいわれるように、同じように「思いは生きている」ので、相手の反応が伝わってくることがある。


わたしが萬子媛を高級霊と疑わない理由

わたしが萬子媛を高級霊と疑わないのは、江戸時代の人でいらしたときの豊かな情緒、優れた知性をおそらくは基本として、あの世から人類のためにボランティアをしている方々に特有の、といいたくなるような、完璧といってよい自己管理能力を感じさせられるからだ。

萬子媛の気配を感じるのはわたしの感受性が優れているためであって(?)、萬子媛に隙があるわけではないと思う。

その全てのほのかな気配が何ともいえない優美さ、快い率直さで、392年前に地上に誕生して生きていらしたときの個性を感じさせられる。お亡くなりになったときは高齢だったけれど、わたしに伝わってくるのは妙齢のご婦人を連想させられる若々しい印象だ。

312年前に入寂された方を取材できるなんて、神秘主義者の特権だ。萬子媛が神様と呼ばれるにふさわしい高級霊だと確信できなければ、この世で働いているあの世的な存在を観察しようなんて思わなかっただろう。

これまでの経験から推測するに、萬子媛の御公務は御祈願の窓口が開いている間だと思われる。それ以外の時間はあの世にいらっしゃるのだろう。御祈願が終わるころ、側に控えていた方に促されるようにして去っていかれた気配を感じた。

前回参拝したときもそうだったのだが、童謡「夕焼け小焼け」が流れたあとに萬子媛が祀られた石壁社にお参りしても、何も感じられなかった。哀しいくらいに空っぽに感じられた。


断食入定の伝承

ところで、わたしの歴史小説の初稿を読み、「なぜ、萬子媛は餓死したの?」と尋ねた友人がいた。「えっ?」と、わたしは言葉をなくした。

わたしは歴史小説の中で、萬子媛の断食入定を――それは伝承によるものだが――クライマックスと位置づけ、詳しく書いたつもりだった。さらに丁寧に書くべきか?

「萬子媛の入定がわかりにくかったみたい。あれじゃ、わからなかった?」と夫に尋ねると、「わかるも何も、説明がなくったって、坊主が食を断って亡くなったと聞けば、即身成仏だと思うだろ、普通」

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といえるものが『祐徳開山瑞顔大師行業記』で、文人大名として有名だった義理の息子直條によって、萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述された。

郷土史家が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料である。直條の記述を生かしたいと思い、『祐徳開山瑞顔大師行業記』から引用したりしたのが、難しかったのだろうか。

あるいは、断食入定を決意するまでの心情表現が不足していて、なぜ断食入定にまで至ったのかが理解できなかったということかもしれない。禅院での生活にもっと踏み込む必要がありそうだ。入定について、ウィキペディア「入定」の解説を引用しておこう。

入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。永遠の瞑想に入ることを言う。
原義としての「入定」(単に瞑想に入ること)と区別するため、生入定(いきにゅうじょう)という俗称もある。
密教の教義において、僧は死なず、生死の境を超え弥勒出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入ると考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ち仏になるため、即身仏と呼ばれる。
……(中略)……
江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。

……(中略)……
生入定を作ることは、現在では自殺幇助罪または死体損壊罪・死体遺棄罪に触れるため、事実上不可能になっている。

 

修行方法

まず、木食修行を行う。
死後、腐敗しないよう肉体を整える。
米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。
次に、土中入定を行う。
土中に石室を設け、そこに入る。
竹筒で空気穴を設け、完全に埋める。
僧は、石室の中で断食をしながら鐘を鳴らし読経するが、やがて音が聞こえなくなり、長い歳月の後(約56億7000万年後)に弥勒菩薩と共に姿を現すとされる。
*3

わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛には深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な、高級霊の雰囲気が伝わってくる。

それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧達ではないかとどうしても思えてくるのだ。

萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。

何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

こうした神秘主義的感性で取材したことを参考にすれば、禅院の生活やムードをもう少し踏み込んで描けるかもしれない。次に祐徳稲荷神社に行くときは、鹿島藩鍋島家の菩提寺「普明寺」にも行きたいと考えている。

普明寺は、鍋島直朝の長男・断橋の開基により、師僧・桂厳性幢に開山となって貰い、創建された寺である。断橋は鍋島直孝の僧名。

普明寺の見学動画が出て来ないか検索していたら、祐徳稲荷神社の動画が沢山出てきた。前に検索したときはもっと少なかった気がする。

そうした動画の一つに、読経(般若心経?)する白装束の人々が映し出されていた。2012年の12月に公開された「祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)」というタイトルの動画である。*4

4:28 ごろから萬子媛(御神名萬媛命)をお祀した石壁社が出てくる。読経する人々が登場するのは 5:13 ごろから。

神社で般若心経が唱えられることがあるとは知っていたが、実際にそうしている人々を見たのは初めてだったので、驚いた。これは明治政府によって禁止された神仏習合の名残りと考えていいのだろうか? 

前掲のウィキペディア「入定」によると、入定とは「僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする」行為である。

であるならば、入定を果たした萬子媛は、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるのだと思われる。

博物館で見学した萬子媛の御遺物の中で、僧侶時代のものと思われるものに、御袈裟(みけさ)と鉄鉢があった。御袈裟には「御年60才のころ、普明寺の末寺として祐徳院を草創、出家せられた」と説明があった。

御遺物の中でも最も印象的だったのが、畳まれてひっそりと置かれたこの御袈裟だった。褪せているが、色は鬱金色(うこんいろ)、蒸栗色(むしぐりいろ)といったもので、萬子媛の肖像画を連想させた。

素材は麻のように見えた。夏用なのだろうか。冬にこれでは寒いだろう。意外なくらいに慎ましく見える萬子媛の尼僧時代の衣服から、しばし目が離せなかった。

鉄鉢は「てっぱつ」と読むようだ。鉄鉢とは、「托鉢(タクハツ)僧が信者から米などを受ける。鉄製のはち」(『新明解国語辞典 第五版(特装版)』三省堂、1999)のことだそうだ。

また、金字で書写された「金剛般若波羅蜜経」があった。「臨済禅、黄檗禅 公式サイト」*5によると、臨済宗・黄檗宗でよく誦まれるお経には次のようなものがある(他にも、各派本山のご開山の遺誡や和讃なども含め、多くのお経が誦まれるという)。

開経偈
懺悔文
三帰戒
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
消災妙吉祥神呪(消災呪)
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
大悲円満無礙神呪(大悲呪)
開甘露門(施餓鬼)
仏頂尊勝陀羅尼
金剛般若波羅蜜経(金剛経)
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
延命十句観音経
四弘誓願文
舎利礼文
白隠禅師坐禅和讃

このうち、経名を含めてわずか276文字の『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経) (まかはんにゃはらみたしんぎょう)』は宗派を問わず広く誦まれるお経で、仏さまの教えのエッセンスともいえ、この題目は「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されるという。

『金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみきょう)』は般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているもの。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ誦むのだそうだ。

博物館で見学したときに見た、この般若経典のことが記憶に残ったためか、見学後に神楽殿で30分間家内安全の御祈願をしていただいていたときのことだった。

前述したように、わたしたち家族は長椅子に座っていたのだが、その背後に萬子媛を中心に見えない世界の大勢の方々――ボランティア集団と呼びたくなる統一感のある方々――のいらっしゃるのがわかった(お仕事の一環のような感じであった)。

映像的には内的鏡にはほんのり映ったような気がするだけなのだが、なぜかそうした方々の挙動や心の動き、そして萬子媛のオーラは――色彩より熱として――鮮明に感じられた。


何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉

前述したように、わたしが心の中でつぶやいたことは筒抜けで、それに対する萬子媛やその近くにいる方々の反応が伝わってきた瞬間が何度かあった(願い事も雑念も筒抜けであるから、参拝するときは願い事の整理ときよらかな心持ちが肝要)。

博物館で見た般若経典のことが頭をよぎり、わたしはふと「波羅蜜多」と2回心の中でつぶやいた。わたしが見たのは『金剛般若波羅蜜経』だったのだが、つぶやきの対象は『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の方だった。

つぶやいたとき、萬子媛から、すぐさま動揺の気配が伝わってきて、精妙な情感が音楽のように流れてきた。郷愁の交じった、きよらかな心の動きが感じられた。こうした心の動きという点では、生きている人間もあの世の方々も変わらない。

これも前述したことで、高級霊は自己管理能力に優れていることを感じさせる――幼い頃からわたしを見守っていてくださっている方々もそうである――が、情感という点ではわたしが知っているこの世の誰よりもはるかに豊かで、香り高い。

心の動きのえもいわれぬ香しさが伝わってくるために、蜜蜂が花に惹かれるようにわたしは萬子媛に惹かれるのだ。

萬子媛はもっと聴こうとするかのように、こちらへ一心に注意を傾けておられるのがわかった。

『金剛般若波羅蜜経』は御遺物にあったのだから愛誦なさっていたのは当然のこととして、『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』という言葉に強く反応されたのは、それだけ生前、般若心経を愛誦なさっていたからだろう。

神様として祀られるようになった萬子媛は、生死の境を超えて衆生救済を目的とする入定を果たした方らしく、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるように思われる。

しかしながら、萬子媛の生前は大名の奥方でありながら出家し、晩年の20年を禅院を主宰して入定まで行った僧侶だったのだ。わたしが何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉に、それが甘露か何かであるかのように反応なさった萬子媛、否、瑞顔実麟大師がどれほど僧侶に徹した方だったのかということが自ずと想像された。

わたしは萬子媛が愛誦し指針とされたに違いない『般若心経』を暗記することにした。

ちなみに、このあとで「オウム、アモギャーヴァイロウ、キャーナーマハムドラ、マニペードム、デュヴァラー、プラヴァルスターヤー、ウーン」という竜王会で教わったマントラムを意図的につぶやいてみたのだが、こちらのほうは反応が感じられなかった。

萬子媛を囲むように控えている大勢の方々に幾分白けたような気配さえ漂ったところからすると、マントラムは意味不明な言葉と受け取られたのだと思われる。

現代人と変わりないように感じられるのに、やはり江戸時代に生きた方々ということなのだろうか。現代人であれば、マントラムの内容はわからなくとも、こうした言葉がインド由来の真言であることぐらいの察しはつくだろうから。

エッセー 59 「神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ②ハッチ判事」で紹介したエルザ・バーカー(宮内もとこ訳)『死者Xから来た手紙―友よ、死を恐れるな』(同朋社、1996)には、次のようなことが書かれている。

物質界と霊界が交流するとき、物質界にいるきみたちは、霊界にいるわれわれがなんでも知っていると思いがちだ。きみたちは、われわれが占い師のように未来を予言し、地球の裏側でおきていることを教えてくれると思っている。まれにできることもあるが、ふつうわれわれにはそういうことはできない。*6

あの方々の端然とした統一感のとれているところが、地上界のためにボランティア活動を行っているあの世の方々の特徴なのか、かつて江戸時代に生きた方々ならではの特徴なのか、わたしにはわからない。

いずれにしても、萬子媛の清麗な雰囲気こそは、高級霊のしるしだとわたしは考えている。

御祈願が終わるころ、萬子媛は近くに控えている方々に促されるようにして、どこかへ去って行かれた。全員がさーっと……一斉に気配が消えた。『竹取物語』の中の昇天するかぐや姫を連想してしまった。上方へ消えて行かれた気がしたのだ。


カーマ・ルーパという、物質に関するあらゆる欲望によって作られた主観的な形体

そういえば、石壁社で萬子媛に語りかける以前に参拝したとき、高いところから夫を見てハッと警戒した方々がいたのを感じたことがあった。

上空を漂いながら警備している天上的な女性的な方々――といった映像を、わたしは内的鏡で見たように思った。そのときはその場面が何を意味するのかがわからなかった。あのころはまだ亡き義祖父のカーマ・ルーパが夫に憑依していたから、そのことが関係していたのではないだろうか。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「カーマ・ルーパ」によれば、カーマ・ルーパとは次のようなものである。

形而上的に言えば、また我々の哲学的観点からすると、物質に関するあらゆる精神的、肉体的欲望と思いによって作られた主観的な形体をいう。この形体は肉体の死後生き残る。……(中略)……高級自我は新たな化身の時が来るまでデヴァチャンの状態にいる。以前の人格の影は、その新しい住み処であるカーマ・ローカに取り残される。かつて人間であった時のかすかな写しであるこの影は、しばらくの間生き延びるが、その期間は影に残る物質性の要素によって異なり、それは故人の生き方が決定するのである。……(後略)……*7

デヴァチャンとは極楽。カーマ・ローカとは黄泉、冥界、ハデスのことである。

遠い昔――わたしより七つ上の夫が中学生のころ――亡くなり、従ってわたしが会ったこともなかった義祖父が死後、地上に残していったカーマ・ルーパとの戦いで、わたしの新婚生活はスタートした。

影のように夫に寄り添う、目には見えない何者かの存在をしばしば感じずにはいられなかった。映像的には、内的鏡にはほんのり映ったような気がすることもあった。いずれにせよ、その存在の悪影響は目に余るものだった。

カーマ・ルーパには高級な知性も霊性もないので、説得は無意味である。結局のところは、それに取り憑かれている人間が変わるしかない。

アルコール中毒になるほどの酒飲みではなくとも、習慣的な飲酒が霊媒体質の強化に関係しがちなことは間違いない。

この現象が稀なことだとは思われない。何かの依存症になっている人は、自らが霊媒体質を作り出してカーマ・ルーパを招いているのではないかと疑ったほうがよい。

以前であれば、神社に行くのが嫌そうな夫だった。ところが、義祖父がめでたくあの世で目覚めた後の参拝だった今回は何のこだわりもなく一緒に出かけて、それが自然な行動と映った。萬子媛を描いた短編小説を気に入ってくれた夫はむしろ今回の参拝を楽しみにしていたほどだった。

義祖父がめでたくあの世で目覚めたと書いたが、俗にこれを成仏というのだろう。それまではどうもあの世では昏睡状態だったようである。夫から離れたカーマ・ルーパがその後どうなったかは知らない。

変われば変わるものだ。改善されたいくつかの傾向を夫に認めるとき、義祖父の死後残していったカーマ・ルーパとの長い戦いがわたしの妄想ではなかったことを確信させるのである(義祖父の成仏については エッセー 47及び60で公開したが、一旦閉じて改稿中)。

話が脱線したが、萬子媛を囲むように控えていた方々の中には、あのとき上空からの警備を担当していた方々もおられたに違いない(もしかしたらこのときも警備中で、神楽殿にはおられなかったのかもしれないけれど)。


どのような地位にある教師なのかは知りようがない

あの方々の行動から推測すれば、地上界での一日の仕事が終われば全員があの世へ帰宅なさるのだろう。まさか、あの世の方々が地上界の人間と同じようなスケジュールで行動なさっているなど想像もしなかった。

前掲書には次のようなことも書かれている。

 大師を信じることを恐れてはいけない。大師は最高の力を手にした人だ。彼らは、肉体をもっていてもいなくても、こちらの世界と地上を意志の力で自由に行き来できるのだ。
 だがわたしは、彼らが二つの世界を行き来する方法を世間に教えるつもりはない。大師以外の者がその方法を試そうとすれば、行ったきり戻れなくなる恐れがあるからだ。知は力なり。それは事実だが、ある種の力は、それに見合うだけの英知をもたない者が行使すると、危険な事態を招く場合がある。……(中略)……
 こちらの世界でわたしを指導している師は大師である。
 地上の世界に教授より地位の低い教師がいるのと同じで、こちらの世界には大師でない教師もいる。……(中略)……
 わたしは、死と呼ばれる変化のあとで迎える生の実態を人々に伝えようとしているわけだが、師はその試みを認めてくれていると言ってよいと思う。もし師が反対するなら、わたしはその卓越した英知に従うしかない。*8

萬子媛や三浦関造先生がどのような地位にある教師なのか、わたしには知りようがない。

ただ、萬子媛にしても三浦先生にしても、生前からその徳を慕われ、また神通力をお持ちだった。現在はどちらも肉体を持っておられない。そして、お二方が二つの世界を自由に行き来なさっていることは間違いのないところだ。

わたしは前世から三浦先生とはつながりがあったと感じている。だからこそ、先生のヴィジョンを見たのだと思っている。萬子媛にはそのような縁を感じたことはない。

だが、萬子媛を知り、作品に描くことは、この世に降りてくるときの計画にあったのではないかと考えたりしている。駄作のままではだめだとの衝動を覚えるのだ。

 


マダムNの覚書、2016年6月17日 (金) 18:33,2016年8月18日 (木) 12:58,2016年8月21日 (日) 07:24,2016年10月13日 (木) 19:15,2017年6月 6日 (火) 20:08

*1:鷹司家は五摂家の一つ。

*2:<http://www.edojidai.info/sinntyou.html>(2017/06/29アクセス)

*3:「入定」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月7日 18:49 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org

*4:<https://youtu.be/jV4qeCYEu8g>(2017/06/06アクセス)

*5:<http://www.rinnou.net/>(2016/8/20アクセス)

*6:バーカー,宮内訳,1996,p.25

*7:ブラヴァツキー, 田中訳,1995,用語解説 p.24

*8:バーカー,宮内訳,1996,pp..203-204

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2022年11月 1日 (火)

神秘主義的エッセーブログの「71」「95」を改稿しました

はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」の以下のエッセーを改稿しました。「95」は動画を差し替えただけです。

95 H・P・ブラヴァツキーの病気と貧乏、また瞑想についての貴重な警告
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/05/09/202238

71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

「71」は「祐徳稲荷参詣記」に含まれるいささか古いエッセーですが、カーマ・ルーパに関する観察記録を挿入しましたので、次の記事で、当ブログにも転載しておきます。これをテーマとした2本のエッセーを別に公開していましたが、現在は閉じています。改稿して、そのうち再公開したいと思っています。

カーマ・ルーパとは神智学で学んだ概念ですが、珍しいものではありません。高級な知性も霊性もない、死者の影です。脱ぎ捨てた衣服のようなものです。しかし、高級な知性も霊性もないゆえに、これが味をしめると厄介です。悪影響があります。追い払うには、憑依された人が変わるしかないのです。まあ萬子媛のような清浄な霊とは無関係の話ですが……

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2022年9月10日 (土)

神秘主義的エッセーブログに「118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」をアップしました

※ 23時ごろ、加筆修正を行いました。

昨年12月の話題に遡りますが、福岡にお住まいの愛川順一様から伺った祐徳院に関するお話及び送っていただいた資料に関して、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただき、5回にわけて当ブログにノートしました。

頂戴したメールから、改めてここに引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

ずっと、萬子媛亡き後の祐徳院がどうなったのか、知りたいと思っていたわたしには、衝撃的な内容のメールでした。

当ブログのノートをまとめたものにすぎませんが、それをとりあえず、以下で公開中です。

2022-09-10
118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/09/10/182421

 目次

  1. 祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました(2021年12月24日)
  2. 萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(2022年1月17日)
  3. 愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料(2022年1月19日)
  4. 二代目庵主様の肖像画を撮影した不鮮明な写真、そして明治期の神仏分離令の影響(2022年2月 1日)
  5. 新発見あり、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです(2022年2月 2日)

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2022年5月28日 (土)

神秘主義的エッセーブログを更新「116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②」。アメーバブログ開設のお知らせ。

当ブログに綴ったノートから、はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、萬子媛の言葉にある仏教用語としての「愛」の解説(これはまだ当ブログにもノートなし)、祐徳院のまとめをする予定ですが、その前にまとめておきたいノートがあったので、こちらを優先しました。

116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/05/26/011329

当ブログのノートをまとめたものですが、大幅な加筆がありますので、次の記事に転載します。

ノートの数も増えると、はてなブログに連載エッセーとしてまとめた、そのまた、まとめが必要になってきました。この関係のものだけをまとめるために、登録したものの長いこと未使用だったアメーバブログを使うことにしました。

あかぬ色香も昔にて
https://ameblo.jp/ovale-03/

はじめに
2022年05月15日(日) 16時10分00秒

祐徳稲荷神社を創建した祐徳院(鹿島藩主鍋島直朝公夫人であった花山院萬子媛 1625 - 1705)に関する研究を、ココログブログ『マダムNの覚書』、はてなブログ『マダムNの神秘主義エッセー』においてノート及び連載エッセーの形式で綴ってきました。

研究は続いていますが、当ブログでは作品化を目的として、これらをまとめてみたいと思っています。

まだ形になっていない段階ですので、引用・リンクはお控えくださいますようお願い致します。

冒頭で萬子媛と書きましたが、この呼び名は明治以降のものと思われるので、これ以降は萬子媛存命時の呼び名の一つであった可能性の高い「萬媛」に統一したいと思います。このことについては次の記事をご参照ください。

「115 祐徳稲荷神社参詣記 (16)萬子媛の呼び名。初婚だったのか、再婚だったのか。直朝公の愛。」『マダムNの神秘主義的エッセー』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/03/30/071733

ブログのタイトルは、萬媛の愛された皇太后宮大夫俊成女の歌「梅の花あかぬ色香も昔にておなじ形見の春の夜の月」から採ったものです。 

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2021年12月25日 (土)

クリスマスには、やはり新約聖書

何だか慌ただしくて、クリスマス・イヴという雰囲気には遠い昨夜でしたが、クリスマスには新約聖書を紐解かないと、忘れ物をしたような気持ちになります。

クリスチャンではありませんが、新約聖書の放つ白い柔らかな光に惹かれて、昔から愛読してきました。大学卒業間際に母が倒れ重態に陥った夜、枕許で紐解いたのも新約聖書でしたっけ。

2007年9月30日 (日)
手記『枕許からのレポート』
https://elder.tea-nifty.com/blog/2007/09/post_e32f.html

読むたびに、何らかの発見があります。

今日、目に留まったのは、イエスがローマ総督ピラトと問答する場面を描いたヨハネの記述でした。ピラトについて、ウィキペディアにはいろいろなことが書かれています。脚注の出典を見ると、比較的バランスよく引用されている気がします。

ピラト(ウィキペディア)

ポンテオ・ピラト(古典ラテン語:Pontius Pilatus (ポンティウス・ピーラートゥス)、生没年不詳)は、ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督(タキトゥスによれば皇帝属領長官、在任:26年 - 36年)。新約聖書で、イエスの処刑に関与した総督として登場することで有名。新約聖書の福音書の登場のほか、少し後の時代のユダヤ人の歴史家であるフィロンやフラウィウス・ヨセフスなどの歴史書においては、アグリッパ1世以前のユダヤ総督で唯一詳しい説明が存在する[1]。……(以下略)……

フランシスコ会聖書研究所訳『新約聖書』(中央出版社、改訂初版1984)の「ヨハネによる福音書」から引用します。

 そこで、ピラトは再び官邸に入った。そして、イエズスを呼び寄せ、「お前がユダヤ人たちの王なのか」と尋ねると、イエズスはお答えになった。「あなたはご自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの人がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。ピラトは言い返した。「このわたしがユダヤ人であるとでも言うのか。お前の国の人、また、祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。お前はいったい何をしたのか」。イエズスはお答えになった。

「わたしの国は、この世に属していない
わたしの国がこの世に属していたなら、
わたしがユダヤ人の手に
引き渡されないように、
部下が戦ったことであろう。
しかし、実際、わたしの国は、
この世に属していない」。

 そこでピラトが、「では、お前はやはり、王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。

「わたしが王であるとは、
あなたの言っていることである。わたしは、
真理について証しをするために生まれ、
また、そのためにこの世に来た。
真理に属している人は皆、
わたしの声に耳を傾ける」。

ピラトは、「真理とは何か」と尋ねた。

(フランシスコ会聖書研究所訳,1984,pp.384-385)

イエスに対してピラトがユダヤ人の王か、と問いかけ、イエスがそれはあなたの言っていることだと返す場面は、どの聖書記者も書いていますが、それ以外のここでの長い問答はヨハネしか書いていません。

そして、ピラトの「真理とは何か」という問に対するイエスの返答はなかったのか、後に削除されたのか、書かれていません。

イエスの言葉は、低次元であるこの世を包んで存在する、高次元の観点から語られた言葉であるように思われます。

そう考えると、ピラトの「真理とは何か」という言葉は愚問ですね。イエスは既に、真理とは何かについて、語っているからです。ピラトには、イエスの言葉を理解するだけのものが備わっていないことは明らかです。イエスは黙するしかなかったとも考えられます。

神秘主義的観点から新約聖書を考察した「マダムNの神秘主義エッセー」におけるオススメは、以下の記事です。

49 絵画に見る様々なマグダラのマリア
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/05/05/025512

目次

  1. 絵画によるマグダラのマリアの競演
  2. 東方教会が伝える、誇り高く行動的なマグダラのマリア(主の復活の第一証人、方々へ伝道、ローマ第二代皇帝にイエスの冤罪を直訴)
  3. イエスが結婚していたとする説
  4. イエスの愛しておられた者とは誰か?(横になって食事するローマ式だった最後の晩餐)
  5. イエス一家の棺の発見
  6. 「フィリポ言行録」について

105 トルストイ『戦争と平和』…⑥テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2020/10/11/220929

目次

  1. なぜイルミナティズムとマルクシズムは酷似しているのか?
  2. 唯物史観は日本には当てはまらない
  3. 『共産党宣言』に出てくる「新エルサレム」は理想郷の喩えなのか?
  4. マルクスはサタニスト(悪魔崇拝者)だったのだろうか?
  5. 転向したイルミナティの元メンバーの告発動画
  6. シオン長老の議定書と新約聖書に出てくるパリサイ派
  7. 中国共産党に改竄された教科書のヨハネ福音書
  8. 2021年2月4日における追記

また、児童小説『不思議な接着剤』に、グノーシス主義の福音書文書の一つ 『マリアによる福音書』に登場するマグダラのマリアをモデルとした人物を登場させたいと思い、研究してきたノートを以下のブログで公開中です。2016年5月から収録できていませんが、No.100まであります。

創作ノート - 不思議な接着剤
https://etude-madeleine.blog.jp/

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2021年12月24日 (金)

おすすめ年賀状テンプレート・イラスト2022

もう年賀状はお済みでしょうか。わたしは何と、これからです(^0^;)

明日までに投函しないと、元旦には届かないというのに。

これから、というかた――同志――のために、遅くなりましたが、「おすすめ年賀状テンプレート・イラスト2022」をブログ「Nのめもちょう」に公開しました。

おすすめ年賀状テンプレート・イラスト2022
https://n2019memo.blogspot.com/2021/12/2022.html

インターネットが不具合になった頃から、忙しく動くわりには一向に用事はこなせていないという情けない状態で、おすすめの言葉もろくに挿入できていませんが、一年ぶりに昨年紹介したサイトを閲覧させていただき、やはりおすすめしたいと思うサイトばかりですので、不完全な状態ではありますが、アップしておくことにしました。

おすすめしたい新規参入サイトは、うまく見つけることができませんでした。ビジネスが全面に出たサイトが多く、ここで紹介させていただいているような、何か純粋な絵心の感じられる年賀状デザインをアップされているサイトは本当に貴重だと思った次第です。

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