またノーベル文学賞の発表の季節ですか
またノーベル文学賞の発表の季節らしい。海外の下馬評では、村上春樹氏の名が挙がっているという。あるタイプの男たちの救世主ともなっているらしい(勿論愛読者には様々な人々がいよう)村上氏の人気は、少なくともわがブログでは絶大だ。やれやれ(おっといけない。これはわたしなどがうっかり口にすべきではない口癖だった)。
その村上氏とパムク氏の作品を比較、分析するはずのエッセーには、手をつけていない。読書に身の入らない日々が続いているため。同人雑誌の締切がいってくれば、急ピッチで進むことと思う。先に例の短編小説に手をつけたくなった。
昨年のノーベル文学賞の受賞者は、ドリス・レッシング。わたしは昔――1987年の岩波文庫版――の『20世紀イギリス短編選(下)』(小野寺健訳編)で読んだことがあった。『愛の習慣』という短編。実はそのことを忘れていたのだが、もしやと思い、本を探して頁をめくってみたら、やはりそうだった。
フェミニストとして名を馳せた人らしく、結婚生活が孕む複雑な要素、その危険性にまでメスが入れられている。
主人公ジョージの元妻モリーは、彼と同じく労働党でも中心よりやや左寄りで、彼女の戦闘的なフェミニズムにジョージは共鳴していた。彼女がジョージと別れた原因は、彼の浮気だったようだ。愛人のマイラはノンポリで、子供一辺倒の女性だが、離れて暮しているうちにジョージに対する熱は冷めていた。
60歳になったジョージは、ひとり暮らしの侘しさに耐えられなくなる。そうして、これまでの女性とは全く別のタイプの下っ端女優ボビーと一緒になる。彼にとってのボビーは、「男の子とも女の子ともつかない、頼るものもない哀れなチビ公というか浮浪児」といった類のイメージをとる。
ボビーには器用なところがあって、いくつかの顔があり、それらを巧みに使い分ける。実際の彼女はチビ公どころか40歳で、年下の愛人までいた。愛人にはジョージには見せない表情を見せるが、愛人とは長くはやっていけないと彼女は踏んでいて、ジョージもそれを解し、二人は旅行に出る。旅先でも相変わらず、ベッドでのボビーは硬い。
そして、旅行後、彼女はジョージとの暮らしにいよいよ飾り気も演技もなしの我流を持ち込む。彼女には親しい姉がいて、姉を家に呼び、姉とボビーは一体化したかのようだ。
その姉とは、初めて家に招かれてやってきたとき、ジョージに次のような印象を抱かせた女性だった。
ジョージは結婚式のときちらっと会った時からこの姉が嫌いだったが、こんどこそは初めて、この結婚そのものに猛烈な嫌悪感を覚えた。姉というのはどこか下町に住んでいる中年女で、安っぽくてやりきれなかった。色の黒いきつい顔でフラットの隅々まで嗅ぎまわり、家具を値踏みしながら、物欲しげに肉の薄い鼻をうごめかすのだった。
姉妹はジョージの家に居座るというより、まるで乗っ取りのような雰囲気を醸し、彼は彼女たちに飲み込まれそうにさえなったかのようだ。ついに体に変調を来たした彼の死(?)を匂わせるところで物語は終わっている。
この作品は、女性に母性とか愛玩動物とかの価値しか見出さない男性の政治活動の偽善的な実態を暴いたものだろうか? 結婚生活を描きながら、階級差の臭気を放つ政治色の強い作品といってよい。
娯楽的にはとても読めない息の詰まる作品だが、現実問題を容赦なく織り込む手腕には長けた作家であることに間違いない。文学的な価値はともかく、深刻な政治状況を描きながらもどこかムード的なところのあるパムクより、一層シビアなタイプの作家だといえる。
村上春樹氏の小説は、パムクやレッシングとは質を全く異にしている。世俗的、文学的な価値は別として、娯楽的な作品なのだ。現実に目を開かせてくれるゆえに苦痛を与えもする手ごたえのある文学作品ではなく、酔わせ、意識を混濁させ、目を閉じさせる眠剤のような作品……。現在のわが国で薬物の違法な個人輸入が流行り、薬物中毒が蔓延している傾向と全く無関係であるとはわたしには思えない。
だから、わたしは嫌がらせを受けようが、村上氏の作品について書いたエッセーを削除しようという気にはなれないのだ。
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