カテゴリー「オルハン・パムク」の21件の記事

2008年10月 5日 (日)

またノーベル文学賞の発表の季節ですか

 またノーベル文学賞の発表の季節らしい。海外の下馬評では、村上春樹氏の名が挙がっているという。あるタイプの男たちの救世主ともなっているらしい(勿論愛読者には様々な人々がいよう)村上氏の人気は、少なくともわがブログでは絶大だ。やれやれ(おっといけない。これはわたしなどがうっかり口にすべきではない口癖だった)。

 その村上氏とパムク氏の作品を比較、分析するはずのエッセーには、手をつけていない。読書に身の入らない日々が続いているため。同人雑誌の締切がいってくれば、急ピッチで進むことと思う。先に例の短編小説に手をつけたくなった。

 昨年のノーベル文学賞の受賞者は、ドリス・レッシング。わたしは昔――1987年の岩波文庫版――の『20世紀イギリス短編選(下)』(小野寺健訳編)で読んだことがあった。『愛の習慣』という短編。実はそのことを忘れていたのだが、もしやと思い、本を探して頁をめくってみたら、やはりそうだった。

 フェミニストとして名を馳せた人らしく、結婚生活が孕む複雑な要素、その危険性にまでメスが入れられている。

 主人公ジョージの元妻モリーは、彼と同じく労働党でも中心よりやや左寄りで、彼女の戦闘的なフェミニズムにジョージは共鳴していた。彼女がジョージと別れた原因は、彼の浮気だったようだ。愛人のマイラはノンポリで、子供一辺倒の女性だが、離れて暮しているうちにジョージに対する熱は冷めていた。

 60歳になったジョージは、ひとり暮らしの侘しさに耐えられなくなる。そうして、これまでの女性とは全く別のタイプの下っ端女優ボビーと一緒になる。彼にとってのボビーは、「男の子とも女の子ともつかない、頼るものもない哀れなチビ公というか浮浪児」といった類のイメージをとる。

 ボビーには器用なところがあって、いくつかの顔があり、それらを巧みに使い分ける。実際の彼女はチビ公どころか40歳で、年下の愛人までいた。愛人にはジョージには見せない表情を見せるが、愛人とは長くはやっていけないと彼女は踏んでいて、ジョージもそれを解し、二人は旅行に出る。旅先でも相変わらず、ベッドでのボビーは硬い。

 そして、旅行後、彼女はジョージとの暮らしにいよいよ飾り気も演技もなしの我流を持ち込む。彼女には親しい姉がいて、姉を家に呼び、姉とボビーは一体化したかのようだ。

 その姉とは、初めて家に招かれてやってきたとき、ジョージに次のような印象を抱かせた女性だった。

ジョージは結婚式のときちらっと会った時からこの姉が嫌いだったが、こんどこそは初めて、この結婚そのものに猛烈な嫌悪感を覚えた。姉というのはどこか下町に住んでいる中年女で、安っぽくてやりきれなかった。色の黒いきつい顔でフラットの隅々まで嗅ぎまわり、家具を値踏みしながら、物欲しげに肉の薄い鼻をうごめかすのだった。

 姉妹はジョージの家に居座るというより、まるで乗っ取りのような雰囲気を醸し、彼は彼女たちに飲み込まれそうにさえなったかのようだ。ついに体に変調を来たした彼の死(?)を匂わせるところで物語は終わっている。

 この作品は、女性に母性とか愛玩動物とかの価値しか見出さない男性の政治活動の偽善的な実態を暴いたものだろうか? 結婚生活を描きながら、階級差の臭気を放つ政治色の強い作品といってよい。

 娯楽的にはとても読めない息の詰まる作品だが、現実問題を容赦なく織り込む手腕には長けた作家であることに間違いない。文学的な価値はともかく、深刻な政治状況を描きながらもどこかムード的なところのあるパムクより、一層シビアなタイプの作家だといえる。

 村上春樹氏の小説は、パムクやレッシングとは質を全く異にしている。世俗的、文学的な価値は別として、娯楽的な作品なのだ。現実に目を開かせてくれるゆえに苦痛を与えもする手ごたえのある文学作品ではなく、酔わせ、意識を混濁させ、目を閉じさせる眠剤のような作品……。現在のわが国で薬物の違法な個人輸入が流行り、薬物中毒が蔓延している傾向と全く無関係であるとはわたしには思えない。

 だから、わたしは嫌がらせを受けようが、村上氏の作品について書いたエッセーを削除しようという気にはなれないのだ。

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2008年8月25日 (月)

入院14日目⑤読書ノート∥オルハン・パムク『雪』№1

〔読書ノート∥オルハン・パムク『雪』1〕
本日、47頁まで。

雪を効果的に活用しようとするパムクの工夫が、伝わってきすぎる嫌いはあるが、表現は引き締まっていて美しい。
トルコの複雑な政治情勢に、主人公Kaと共に引き込まれていく。

『国境の町新聞』社長セルダル氏の言葉。
「以前は、ここでは誰もが兄弟でした」「しかし近年では、俺はアゼルバイジャン人だ、俺はクルド人だ、俺はテレケメだなどと言い始めました。もちろんここにはあらゆる人種がいます。テレケメはカラカルパクとも言い、アゼルバイジャン人の兄弟です。クルド人は部族と言われていますが、以前はクルド人なんて知りませんでした。オスマン・トルコの時代からそうだったのです。オスマン・トルコの後裔の土地の者も、『おれは土地の者だ』といって誇りはしませんでした。トゥルクメン、ポソフ、ツァーが流刑に処したドイツなどあらゆる者がいましたが、誰も自分にどこか違った何かがあると言って誇りはしませんでした。これらの誇りは、トルコを分割させたいコミュニストのエレヴァンとバクー放送が広めたのです。今日では誰もが以前より、より貧しくより誇り高い。」

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2007年7月21日 (土)

村上春樹とオルハン・パムクについて若干

 昨日一日考えていたのだが、同人雑誌に提出する予定だったエッセーは先送りすることにし、俳句を提出することにした。

 村上春樹とオルハン・パムクに関するエッセーに取り組んでいたのだが、パムクの『雪』『イスタンブール』を読了してから書きたいという思いが強くなってきたということと、ある用事で来月時間をとられるため、来月いっぱいで仕上げる予定だった短編小説を今月うちからスタートさせたいということから、俳句を出すことにしたのだった。

エッセーについていえば、下準備として、村上春樹『ノルウェイの森』を再読、『海辺のカフカ』を読み、パムクのノーベル賞受賞講演を収めた『父のトランク』を読んだところだった。

 パムクの『父のトランク』は、彼の人間的な真っ当さや温かみが感じられる講演内容だと思った。

 作風が観念的という点で、バムクと村上春樹はよく似ていると思う。

 違いといえば、パムクがよくも悪くも芸術家としての姿勢を強く打ち出そうとしているのに比べて、村上春樹の場合は趣味的といおうか、自分の好み以外のものに対する徹底した無関心と想像力の欠如とが目立つ。

 パムクの姿勢が、過去の文豪たち――例えば……思いつくままだが、バルザック、トルストイ、ドストエフスキー、トーマス・マン、モーリヤックなどと比べると、格段に落ちるなと思われるのは、彼が未だ芸術家としての模倣の段階にあるのか、充分に肉化しているとはいいがたい観念の空回りを感じさせる点だ。

 逆のいいかたをすれば、観念の空回りが感じられるために、彼が作家として優秀であることに異論はないとしても、なお芸術家して模倣の段階にあるのではないかと感じさせられるわけなのだ。

 パムクが影響を受けたという谷崎潤一郎もまた、作りすぎるところのあった作家であった。『細雪』の中の台風のあるシーンなどはその一例で、台風の恐ろしさを体験したわたしには笑わずには読めない滑稽さだ。

 レゴを組み立てている子供がそのまま大きくなったような無邪気さが谷崎の文学作品には感じられ、パムクも同じ傾向を持っている。

 パムクの『わたしの名は紅』には、その谷崎の『春琴抄』の影響を受けて書かれたのではないかとわたしが想像する目潰しのシーンが出てくる。

 『春琴抄』ではそれが自然なふくらみをもって描かれ、成功しているのに対し、『紅』ではむしろ、彼ら細密画師たち各様の個性が台無しになる結果をもたらしていると思う。

 というより、各様の個性がもうひとつ肉化されていないために、作者はそんな行動をとらせることができたのだろうと思われた。

 こうした不満については、左サイドバーにあるカテゴリーの中に「オルハン・パムク」があるので、そこをクリックしていただき、過去記事の読書ノートを参照していただきたい。

 パムクの『父のトランク』には対談も収めてあるが、その対談で、谷崎の影響について追究してほしかった。

 今回わたしがエッセーを見送ったのは、何より『雪』や『イスタンブール』でも、彼が芸術家として模倣の段階に依然とどまっているのかどうかが知りたくなったからだ。

 村上春樹の『ノルウェイの森』で、直子が自殺したあとの彼女の両親が描かれるが、両親については、如何に彼らが世間体ばかり気にしていたかという情報だけが、読者にもたらされる。

 以下はその部分の引用である。

「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。「すごくひっそりとして、人も少なくて。家の人は僕が直子が死んだことをどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじゃなかったんですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃて、すぐ旅行に出ちゃったんです」

  ―村上春樹『ノルウェイの森(下)』(講談社文庫、2004年)―

 ひどい気分に誘われるのは、こちらのほうである。何と幼い主人公であることか。娘が自殺して、両親が世間体を気にするのは自然なことだ。この両親は何の因果か、直子の姉からもかつて自殺されているのだ。

 世間体を気にすることと、惑乱、哀しみ、絶望が同居できないとでも、主人公は思っているのだろうか。

 この主人公のような立場だと、直子の両親から責めを受けそうで怖ろしく、針の筵に座らされる思いで葬式に出席するのが普通ではないだろうか。主人公はどうも、気軽に出かけ、一緒にさめざめと泣くことを期待していたようである。

 そして、直子の両親が世間体ばかり気にしていたことに傷ついて、主人公は旅に出た。1ヶ月間の放浪の旅。主人公は、砂浜で出会った若い漁師に母親が死んで泣いていると嘘をつき、同情される。

 漁師も自分の母親を亡くした話を始めるが、主人公は、そのことに怒りを覚える。その理由がまたふるっている。

それがいったいなんだっていうんだと僕は思った。そして突然この男の首を締めてしまいたいような激しい怒りに駆られた。お前の母親がなんだっていうんだ? 俺は直子を失ったんだ! あれほど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!それなのにどうしてお前はそんな母親の話なんてしているんだ?

―村上春樹『ノルウェイの森(下)』(講談社文庫、2004年)―

 あたかも、自分の悲しみは高級で、漁師の悲しみは下等だといわんばかり。いや、自分と直子は上等の生き物で、漁師とその母親は下等だといわんばかりではないか。

 このような主人公からは、自分と関係のある人間以外はどうなってもいいという作者本人の無関心、冷淡な態度が透けて見える。 

 村上春樹は、人間の基本的な感情の描きかたに欠陥がある。意識してそうしているとは受けとれないだけに、異常な気さえする。お洒落な見かけに騙されてはいけない。

 わたしは、直子よりも、一見正常で良識的に描かれている主人公のほうがむしろおかしいように思える。壊れた主人公をテーマにしている風でもないだけに、村上春樹の小説は、読めば読むほど読者に不安定感をもたらすはずだ。

 この基本的なところがすこやかなオルハン・バムクは、読者に安定感と明るさをもたらしてくれる。それは文豪には共通した、不可欠の要素である。だからこそ、作家がどんなに異常なことを書こうが、福音となるのだ。

 夏休みが近づいた頃から、当ブログの村上春樹に関する記事が、一段とアクセス数を増やし出した。読書感想文を書かせる高校、大学の教師が多いのだろうか。

 村上春樹はまだ商業主義のさなかにある作家だ。文豪と呼ばれる過去の西洋の作家の優れた文学作品は数多いのだから、読書慣れしていない生徒たちに危険な読書をさせないでほしい。

 途上にある、ごく近い未来の文豪オルハン・パムクは、前出の『父のトランク』に収められた「カルスで、そしてフランクフルトで」の中で、――小説という芸術は、ヨーロッパが発展させた最大の芸術上の発見――といい、また次のように語っている。

  小説という芸術は、それを巧みに操る人の手にかかれば、自分の物語を他人の物語のように語ることができるものなのです。

しかしながらそれは、四百年の間、全力を挙げて読者に影響を与え、わたしたち作家を興奮させ、夢中にさせてきた、この偉大な芸術の単なる一面に過ぎません。

わたしをフランクフルト、あるいはカルスの通りにつれてきたのは、そのもう一つの面です。つまり、他人の物語をあたかも自分の物語のように書くことができる可能性なのです。〔略〕

 わたしたちにまったく似ていないそのものは、わたしたちの中にある最も原始的な自衛、攻撃、嫌悪、恐怖の本能に訴えます。

わたしたちは、これらの感情がわたしたちの想像力を燃え上がらせ、執筆に駆り立てるのをよく知っています。

手元にあるこの芸術の規則を活用する必要上、「小説家」は、この「他者」と自分とを同一視することが、自分にいい結果ももたらすと感じたのでした。

また、誰もが考えたり、信じていたりすることの反対を考えようと努力することも、自分自身を解放するであろうことを小説家は知っています。

小説という芸術の歴史は、人間の解放の歴史です。つまり、自分を他者の立場に置き、想像力によって自分というものを変え、解き放つ歴史として書くこともできます。

―オルハン・パムク『父のトランク』(和久井路子訳、藤原書店、2007年)― 

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2007年7月 4日 (水)

ひとりごと(同人雑誌の締切日が…)

 同人雑誌の締切日が、音もなく忍び寄ってくる。。。締切日は今月末。

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2007年3月10日 (土)

パムク氏『わたしの名は紅』を読了、『雪』は21頁

 犯人については、作者が彼と決めたのだから彼なのだろう、という印象。

 推理小説に足るだけの予備知識が読者に伏せられ、あるいはいい加減さのうちに放置されたまま、犯人が挙がってしまったという感じなのだ。

 蝶、コウノトリ、オリーヴ、誰が犯人であったとしても、読者としては推理が的中したという満足感を覚えるわけにはいかないだろう。誰であってもいい感じだ。作者はそんな書きかたしかしていない。

 作品全体においても、そうしたご都合主義、一貫性のなさが何とはなしに感じられ、竜頭蛇尾の感が否めないが、これは厳しい見方をした場合であって、現代書かれた文学作品の中では間違いなく手ごたえのある作品、ノーベル文学賞に選ばれた作家にふさわしい作品といえるだろう。

 どこまでが資料に添ったもので、どこまでが作者の想像力の産物であるのか、わたしには想像もつかないが、16世紀末におけるオスマン・トルコ帝国の首都イスタンブルを舞台に選んで、よくあれだけ重厚、精緻に細密画師の世界が描けたものだと感心する。

 当時のイスタンブルに生きる細密画師たちがペルシアを、イタリアを、インドを、さらには中国をどのように意識していたのかが生々しく描かれている。

 単純ではない人間の複雑な内面がよく描かれていて、どの登場人物をとっても、そのような描かれかたをしている。『わたしの名は紅』において、ステレオタイプの人間は登場しなかった。

 ただ、ミステリー仕立てということを作者が意識しなければ、複雑さを備えたままで、その人間固有の匂い、その人間固有の内的色合いをもっと強く打ち出せたのではないだろうか。

 工房の頭で、細密画師たちの父親役をも務めていたといっていい名人オスマンは、工房内部で自らが育んできたものが瓦解するのを目の当たりにし、ついに両目の瞳に針を刺す。

 殺人犯は、カラ、2人の細密画師たちによって、両目の瞳を刺される。この場面でわたしは、作者が影響を受けたという谷崎潤一郎のことを思い出し、『春琴抄』を連想してしまった。

 この目潰しという点だけとれば、パムクの小説の場合はちょっとわざとらしい。

細密画とはアラーの神がどうご覧になるかを絵の中で探し求めることである。そしてその無比なる光景は、厳しい研鑽生活の末に、細密画師が精根尽きて到達する盲目の後に思い出される、盲目の細密画師の記憶によってわかるのだ。年老いた細密画師は、この幻想がわが身におこった時、つまり記憶と盲目の暗闇の中で眼前にアラーの光景が現れた時、傑作を手が自ら紙の上に描くことができるようにと、全生涯を手を慣らすことに費やす。

 と、オリーヴが伝える細密画師の名人セイット・ミラキの言葉から考えても、盲目というのは細密画師にとっては最高の勲章ともなりうる事態なのだ。

 絶望感から、自然が与えてくれる盲目の機会を自ら放棄したオスマン。そして、怒りと恐怖から、かつては仲間であった犯人に、逆しまな価値を付加した盲目を制裁としてもたらしたカラたち。

 彼らの盲目へのこの過剰な拘りが、細密画師たちのそれまでの高度な芸術観や、それらのせめぎあいと相容れず、リアルな彼らの世界を戯画化してしまったようにわたしには感じられるのだ。

 非合法コーヒーハウスの噺し家の造形は、秀逸だった。それにしても、哀れなあの殺されかた! 彼に語りのネタを提供していたのは細密画師たちだったのだ。

 『わたしの名は紅』の中で、これは作りすぎでは、と思えた部分は少なくないが、そのうちの一つと感じられながらも、わたしが登場人物の中で一番好きだったシェキュレの下の男の子、可愛いオルハンがこの作品を書いたことがわかる結末部は、作者から贈られたプレゼントのようにも想えた。

 あの可愛らしかったオルハンが、このように絢爛豪華で、さらにはエログロも多少はある複雑な物語を書いたのだと思うと、こちらの気持ちも複雑にはなるけれど。。。

 『わたしの名は紅』は間を置きながらの読書となったので、読み直したい気がするが、かなりの厚さなのでしんどい……『雪』へ進むことにした。

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2007年3月 6日 (火)

発作のあとで考えたこと②&児童文学作品は準備に熱が入る、パムク氏は477頁

 雛祭りの日の早朝5時半頃、久しぶりにやや強めの狭心症の発作が起きた。

 やはり、以前よりニトロ舌下錠の効き目が悪い気がした。

 以前は、薬の効果が奔流のようにほとばしり、痛みという岩をあっという間に押し流してくれ、影も形もないまでにしてくれたが、最近は、どうにか岩をどけたものの、そこで力尽きて清涼感を与えるまでには至らない、という感じだ。

 それでも、しばらくしたら、胸の中の違和感はなくなったのだから、薬に文句はいえない。

 痛みが起きてそれが和らぐまでにはほんの数分が経過するにすぎないのに、馬鹿に長く感じられ、その間に様々な想念が湧き起こるのが不思議だ。そうしたものを記録しておきたい。他に、ようやく動き出した自身の児童文学作品について。 

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2007年1月11日 (木)

パムク氏は398頁

 しばらくオルハン・パムク著『わたしの名は紅』(和久井路子、藤原書店)から離れていたが、禍々しくも魅惑的な作品の世界にすっと入って行けた。

 さて、カラだが、幸い彼はこの時点では、拷問の真似事をされただけだった。スルタンの命により、彼は細密画師の頭オスマンの手助けをして、殺人犯を見つけなければならなくなった。オスマンを頭とする細密画師の班が殺人犯を見つけ、引き渡すことができなければ、班全員が同罪となるのだった。

 オスマンはカラに、オリーヴ、蝶、コウノトリ――と呼ばれる細密画師の特徴を挙げていく。そのうちの誰かが犯人であることは、間違いないからだ。

 わたしもカラと一緒にオスマンの話を聴いたけれど、どうも特徴がはっきりしない。3人の人物が、本人の語りと他人の語りからだけから成り立ち、その語りというのがあまりにも観念的であるため、3人が1人の人物のように想えてしまうのだ。

 パムク氏は、人間を単純な存在としては描いていない。が、語りから浮かび上がる人物像は観念的というだけにとどまらず、平気で人物設定の矛盾を放置しているように読める。

 つまり、作者にとって都合のいい描かれかたをしているようにとれるのだ。

 こんな疑問というか不満がわいてしまったが、3人各様の特徴を挙げれば、オリーヴは複雑な人格の持ち主で、美少年愛好癖がある。殺された優美さんは、「気品、洗練、それにあの女性っぽい態度に気を悪くしていた」という犯人の語りから、美しい男性だったことが窺える。オリーヴの好みだったといえるだろう。

 そして、その犯人の語りの中の重大な事実に、犯人がシェキュレを熱愛していたということがある。

 オリーヴが美しい男性の中に恋の叶わぬ美しい女性を見ていた可能性もなくはないが、オリーヴの語りの中に、優美さんの死体が発見される前に訪ねてきたカラのことを「ドアを開けると、今度は彼らではなくて、子供のときの知り合いでとっくに忘れていたカラだった」とあるから、カラに嫉妬し憎悪しているばすの犯人ではないだろうと思う。

 では、犯人はコウノトリか蝶のどちらかということになる。

 コウノトリは特に哲学的なタイプで(全員が哲学的なことをいう)、異教徒の名人――イタリア絵画の巨匠――の様式に一番通じている。

 だが、犯人はエニシテを殺す前にエニシテに、彼によって作らされている本が宗教を冒涜しているのではないかと問う。そのことで夜も眠れないと告白しているのである。そのような男が、コウノトリのように大胆に異教徒の様式に心惹かれたりするだろうか。

 コウノトリではない。では、残る蝶か?

 蝶は肥満気味で(子供の頃や若いときは美しかったという)、楽観的、おまけに妻帯者である。蝶はいう。「わたしはよく働くし、仕事は好きだ。最近この界隈で一番美しい娘と結婚した。仕事をしていない時は狂おしい愛に耽る」

 こうした本人の語りからは蝶がシェキュレをひそかに熱愛し、殺人まで犯すとは考えにくいが、彼の特徴といえば感覚的であること、色の業師であるということである。

 題名にもなっている『わたしの名は紅』という紅の語りの章が設けられているくらいだから、この作品をミステリーとして読んだ場合、色彩は重要なポイントであるはずだ。

 一見最も素朴なこの蝶という男が、その素朴さゆえの暗転しやすさから、殺人を犯したとは考えられないだろうか。うーん、はずれかな?

  

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2006年12月23日 (土)

ひとりごと(パムク氏、来春来日予定)

 今日は午後から、窓・網戸の掃除と年賀状書きをするつもりだった。ところが、息子が29日(もしかしたら30日)に帰省すると電話してきて、長話となり、し損なった。

 あと大掃除で、どうしてもしなければならないのは、窓・網戸の掃除ぐらいだ。

 最近、体調に波があり、いいときは悪いときのことが嘘みたいだが(今がそう)、1~2週間でいいときと悪いときが繰り返すみたいだ。正月を過ぎるまで、このまま体調が暗転しないことを願う。

 傷めた左膝は、真っ直ぐに伸ばそうとすると、少し痛い。よくなったかと思っていたけれど、そうではなかった。長く歩くと、だんだん痛みが強くなる。整形外科に行くかどうか、迷うところだ。

 息子はこのところ、宴会続きだったという。研究室にアメリカから中国人研究者のお客様があり、ホテル、教授宅、助教授宅でのパーティーと続いたそうだ。英会話は所々しかわからなかったようだが、とても楽しかったらしい。クリスマスイブには野郎ばかりの集まりを息子宅で持つという。

 研究室に大学生は息子ひとりだが、クラスには息子の加わっている5人くらいからなる友人グループが2組あって、別々に、ときどき息子宅に集まるようだ。調理器具や調味料が息子のアパートには一番揃っているし、息子自体が外で集まるよりも自宅に呼ぶほうを好むからという。

 いつも鍋物で、材料は友人たちが買ってくるのだそうだ。片づけも友人たちがするのだという。来春には、2組とも人数が半分に減るらしい。彼らが他大学院に進学するため。一番の友人は幸い、残る。研究室は別だが。

 尤も、息子はこうした面ではクールで、行く道が分かれようがどうしようが、それほど気にとめない。性格や行動傾向を表す上昇宮が、水瓶座だからだろうか。

 わたしも考えてみれば、上昇宮は獅子座だが、上昇惑星が天王星のためか、クールなほうかもしれない(と人からいわれることがある。確かにべたべたしたつき合いは苦手だけれど、それって冷たいってこと?)。占星術を持ち出すまでもなく、単に息子は親に似ているというだけの話かもしれない。

 娘がたった今仕事から帰宅して、下の郵便受けから、わたし宛に藤原書店から届いたブッククラブ会員用の小冊子「機」が入った茶封筒を持ってきた。

 「機」に挟まれていたニューズレターによると、ノーベル文学賞に輝いたオルハン・パムク氏が来春来日するという。それに合わせて、『イスタンブール』が刊行される。

 楽しみだ。何かイベントがあるのなら行きたいけれど、東京だろうな、当然(絶句)。大分から東京は、専業主婦には遥かな道のりに感じられる。

 パムク氏の来日までには、『わたしの名は紅』『雪』を読了し、感想をしたためておきたい。そして、やはり村上春樹氏の作品批評と抱き合わせにするかたちで、少々長いエッセー(できれば評論の体裁を備えたもの)を来夏頃に出されるだろう同人雑誌に提出したい。

 『イスタンブール』を注文するときには、藤原書店の注文葉書の通信欄に、パムク氏の作品の感想を書きたい。

 このところ何となく暗い気持ちだったが、明るい気分になった。パムク氏の小説は面白くて、読むと、元気づけられる。このところ忙しくて感想のアップができていないが、388頁を読んでいるところ。そろそろ犯人の目星がついていい頃だ。

 『わたしの名は紅』は文学的な価値は高いと思われるが、推理小説として読んだ場合はどうだろう?  もう少し早い時点で、犯人の目星がつくだけの情報を読者に与えるべきではないだろうか。そうした点では、推理小説とはいえないよ、パムク氏!尤も、推理小説として読むべきかどうかはわからないけれど。 

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2006年12月 5日 (火)

児童文学作品はこれまでに書いた部分の見直し、パムク氏は364頁

 中断していた児童文学作品の続きを書くことにした。とにかく、完成にまでもっていきたい。中断したときから、かなり時間が経ってしまったので、まずは見直しから始めようと思う。

 オルハン・パムク著『わたしの名は紅』(和久井路子訳、藤原書店)は、名人オスマンが殺人事件を正式に勘定方長官から知らされたときのことを語る章を読んだ。近衛兵の隊長も在室している。隊長はスルタンの名の下に処刑や拷問を実行する人物だ。

 オスマンは細密画の工房の頭なのだが、彼は聾桟敷に置かれていた。スルタンは元高官であったエニシテに祝賀本の作成を命じ、エニシテはオスマンの可愛い細密画師たちを使って愚にもつかぬ絵を描かせたばかりか、殺し合いまでさせた。

 オスマンの認識は、こうしたものである。彼は、勘定方長官に事件を知らせて亡きエニシテと自分が潔白であることを訴えたカラ、結婚するために奇妙な動きを見せたカラを、当然ながら快くは思わない。

「彼には尋問で拷問にかけてください」とオスマンはいう。

 オスマンは細密画師の工房に、すでに失望していたようだ。というのも、彼は次のように述懐するからだ。

わしが頭となっているスルタン様の細密画師の工房では、既に昔のように傑れたものは作られない。さらに悪くなるようにすら見える。全ては衰えて尽きる。一生をこの仕事に心から捧げたにもかかわらず、ヘラトの昔の名人の美しさは、ここではめったに達せなかったことを苦々しく感じている。この事実を謙虚に受け入れることが、人生を多少とも楽にしてくれる。元々、謙虚さは人生を楽にするもので、わしらの世界では価値ある美徳なのだから。

 その行き詰まった世界に、イタリア絵画の精神と技法という新しい血を入れることで再生させようとしたエニシテの試みは、オスマンには邪道としか映らなかったようだ。

 行き詰まりといえば、今の日本の純文学界を連想させられる。

 とはいえ、わたしはオスマンや細密画師たちとは違い、当事者たちの中には入りたくとも(その実力がなくて)入らせては貰えないので、一庶民、一文学かぶれのおばさんとして、傍観者として、今の純文学界を司っている人々が勝手に行き詰まらせていると腹立たしく感じるばかりだ……。

 そういえば、アラビア半島に位置するカタールの首都ドーハで、アジア大会の開会式が行われ、式典の模様をテレビで観た。

 五輪を上回るといっていいような、豪華な式典に驚いた。アトラクションでは、アジア諸国の、そしてカタールの文化が紹介された。

 イスラム圏の民族衣装、踊り、民謡を味わう機会はめったにないので、テレビに齧りついて見た。女性たちの黒一色の衣装から薔薇色の衣装への変化、踊り、唄……渋さとあでやかさとが何とも見事に溶け合っていて、魅了された。

 カタールはオスマン・トルコ帝国に占領された過去を持つ。『わたしの名は紅』を彩るイスラム世界を、式典を通して垣間見たような気がした。

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2006年11月26日 (日)

『返り咲いた薔薇』は序破急の破を離陸し急の大陸へ、パムク氏は354頁。

 ああしんど。これ以上書くと死ぬ。というとオーバーだが、昨日の夜からぶっとばして、くたくた。襤褸切れ状態。

 あと、今日まで入れて3日ほどしかない。完成できるのだろうか。同人雑誌に提出するのは何も義務づけられているわけではないので、パスしたっていいわけだが(内容によっては掲載不可となる場合もある)、できれば出したい。

 ここ1週間、心臓の具合はすこぶるよくて、体調には何の問題もなかったが、ここにきて、膀胱炎の徴候。過労の警告なのだが、この程度の執筆でこうなるなんて情けない。原稿を送るまでは受診する時間もない。水をたびたび飲んで、乗り切ろう。

 オルハン・パムク著『わたしの名は紅』(和久井路子訳)は、死後にこの世とあの世のあいだでエニシテに起きたことを、彼自らが語る章を読んだ。

 パムクはなぜ、このような場面を設定したのだろうか? こうした場面があるのとないのとでは、作品の雰囲気がずいぶん違ってくる。わたしには違和感のない場面だが、一般の日本人にとってはどうなのだろう。最後まで読んでみないことには、パムクの意図が今一つ呑み込めない。

 エニシテの死後の場面には作者の実体験から出たものらしさは感じられず、作り物めいているが、悪くはない。ところどころにリアリティがあり、死後のことを研究した形跡がある。こうした場面は下手な描き方をすれば、滑稽なものになってしまうのだ。

 死後の世界といえば、プラトンが『パイドーン』で描いたそれは圧巻だ。

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