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2023年7月 4日 (火)

ついにわかりました! いや、憶測にすぎないことではありますが……(祐徳院三代庵主の痕跡を求めて)

2023年2月5日の過去記事で、次のように書きました。

祐徳院に関する覚書を以下にメモしてきましたが、この辺りでまとめて電子書籍にしておきたいと考えています。一太郎で作成することになりそうですが、iPadに入っているPagesが電子書籍作成に便利だと知り、どちらを使うか検討中です。

カテゴリー: 祐徳稲荷神社参詣記」『マダムNの神秘主義的エッセー』

このPagesは最近のiPadのアップデートの後で使えなくなったので、削除してしまっていいか調べたところ、なかなか使えることがわかりました。一旦削除してインストールし直したら、使えるようになりました。

ただ、一太郎、Pagesどちらを使うにしても面倒な長期作業になることは間違いありません。

また、2023年6月4日の過去記事では、次のように書きました。

また日が空きました。小説に没頭していたわけではありません。祐徳院に関するエッセーをまとめるに当たり、神秘主義的要素を抜こうかどうしようかと迷い続けていたのです。抜けば、世間に出しやすいものになります。しかし、そうすれば、神秘主義的感性なしでは解けなかった謎のいくつかを書くことが難しくなるのです。また、生前から優れた神秘的な能力を発揮された萬媛を表面的にしか扱えなくなります。いつまでも結論が出ず、かったるくなりました。

そして、遡ること2022年9月10日、はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に公開したエッセー118「祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」では、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのではないかと書いています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。……(略)……

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

祐徳院について、エッセーとしてまとめる計画が頓挫したようになっていた原因には前述したような執筆者であるわたしの神秘主義的考察を消すか、そのままにしておくかといった私的迷いもありましたが、もう一つ、三代庵主の存在が祐徳稲荷神社に見当たらないのはおかしいのでは……という漠然とした疑問がわたしの中にあったためでした。

それが、重い腰を上げてとりあえずエッセー「あかぬ色香は昔にて」(仮題)に取り組むことにし、「はじめに」の部分から書き始めたときに、もしかしたらと思ったことがありました。

後で改稿するかもしれませんが、その「はじめに」の下書きを以下に紹介します(アメーバブログに下書きした「はじめに」はブログとしてのものなので、内容が異なります)。

+‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥(引用ここから)

あかぬ色香は昔にて 

祐徳稲荷神社の尼寺としての前身「祐徳院」に関する研究日記

※タイトルは、萬媛の愛された皇太后宮大夫俊成女の歌「梅の花あかぬ色香も昔にておなじ形見の春の夜の月」から採ったもの。

※萬子媛という呼び名は明治以降のものと思われるので、存命時の呼び名の一つであった可能性の高い「萬媛」に統一したい。このことについては次の記事を参照されたい。

115 祐徳稲荷神社参詣記 (16)萬子媛の呼び名。初婚だったのか、再婚だったのか。直朝公の愛。」『マダムNの神秘主義的エッセー』



● はじめに

 佐賀県鹿島市古枝に鎮座する祐徳稲荷神社は、日本三大稲荷の一つともいわれ、商売の神様として知られている。祐徳稲荷神社の公式ホームページによると、参拝者は年間300万人に達する。当稲荷神社は、貞享4年(1687)に、肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請されたものだという。

 祀られている神様は、衣食住を司る生活全般の守護神「倉稲魂大神(ウガノミタマノオオカミ)」、天照大神が隠れてしまわれた岩戸の前で舞を舞われた、技芸上達の神あるいは福徳円満の神として信仰される「大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)」、高千穂の峯に天孫降臨された天孫瓊瓊杵命(テンソンニニギノミコト)の先導役をつとめられた故事から水先案内の神、交通安全の神として信仰される猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)である。 

 ここで、境内摂末社及び祀られている神様に注目したい。

石壁神社 萬媛命(祐徳院殿)

命婦社 命婦大神

岩本社 岩本大神

岩崎社 岩崎大神

若宮社 文丸命、朝清命

 

石壁神社

 どのようないきさつで、創建者が石壁神社に「萬媛命」として祀られているのだろうか? それについて、前掲ホームページ「石壁社(せきへきしゃ)・水鏡」 の「ご祭神 萬子媛(祐徳院殿)」には次のように書かれている。

萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘でありますが、寛文2年直朝公にお輿入れになりました。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されました。萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、二人のお子様をもうけられましたが、不幸にしてお二人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。萬子媛ご入定の後も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われております。諡を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と申しましたが、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称されました。

 後陽成天皇は曾祖父、公卿であった花山院定好が父である。母が天皇の血筋で、母にとって後陽成天皇は祖父だった。萬媛に兄弟姉妹はいたのだろうか。

 萬媛の嫁ぎ先は武家であった。肥前国鹿島に置かれた佐賀藩の支藩、鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝に嫁いだ。降嫁後の萬媛はよき妻で、二児をもうけた。不幸にもその子らが早世したことから、62歳で鹿島藩領古枝に祐徳院を創立、神仏に仕えた。80歳の4月、石壁山山腹の寿蔵にて断食入定。諡、祐徳院殿瑞顔実驎大姉。

 遺徳をしのぶ参拝者は引も切らず、明治期の神仏分離令により萬媛命の神号を贈られた。

このようにまとめてみたが、疑問が湧いたのは、萬媛の出家の動機が二児の早世によるものだとしたら、そのときから年月が流れすぎているのではないか、本当に二児の早世が動機だろうかということだった。二児がそれぞれ何歳で亡くなったのか、調べなくてはならないと思った。

 祐徳院を、庵のような、茶室のような小さな家のようなものだと想像した。

 また、わたしは萬媛の断食入定を疑わなかったが、前掲「ご祭神 萬子媛(祐徳院殿)」をよく読むと、「断食入定」とはどこにも書かれていない。断食行と入定を切り離して考える発想はこのときのわたしにはなかった。


命婦社 

 前掲ホームページ「命婦社」より次に引用する。 

稲荷大神の神令使(お使い)である白狐の霊を、お祀りしている御社である。
光格天皇天明8年(1788)京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移った時、白衣の一団が突如現れて、すばやく屋根に登り敢然と消火にあたり、その業火も忽ち鎮火した。
この事に花山院公は大変喜ばれ、厚くお礼を述べられこの白衣の一団に尋ねられた。
「どこの者か?」
答えて言うには、
「肥前の国鹿島の祐徳稲荷神社にご奉仕する者でございます。花山院邸の危難を知り、急ぎ駆けつけお手伝い申し上げただけでございます。」……(略)……
花山院内大臣はこれは不思議なことだ、奇蹟だと内々に光格天皇に言上されると、天皇は命婦の官位を授ける様勅を下され、花山院内大臣自ら御前において【命婦】の二字を書いて下賜されたといわれる。

 ここに書かれた「白衣の一団」とは、もしかしたらこの白狐の霊として祀られている方々は……と後にわたしは考えるようになった。


岩本社

 前掲ホームページ「岩本社」に、岩本社のご祭神が、岩本大神という技芸上達の神様と説かれても、祐徳院を庵のようなのものと考えていたわたしには出家後の萬媛との関係など想像できず、弁財天を連想しただけで、よくわからない神様だった。祐徳博物館の女性職員からお話を伺い、ある貴重なメールが届くまでは……。


岩崎社 

 前掲ホームページ「岩崎社」に、「縁結びの神様として祀ってあります」と書かれている。「縁結びの神様を祀ってあります」とは書かれていないことに、ふと気づいた。


若宮社

 前掲ホームページ「若宮社」に、ご祭神の文丸命、朝清命がどのような神様かは書かれていない。このことは、萬媛を調べ始めてすぐに明らかになった。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+(引用ここまで)

思わせぶりな書きかたとなっているのは、本文で謎を解き明かす設定であるためです。

命婦社の御由緒に書かれている「白衣の一団」をわたしは萬媛と共にご奉仕くださっている、かつては尼僧であった方々ではないかと憶測しています(眷属の存在を否定しているわけではありません)。

萬媛と共に修行し尼寺を構成した方々について、2019年12月8日のエッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に、次のように書きました。

萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名。
蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈ねへんに「同」要。

萬子媛の存命中は総勢 18 名だったことになる。
萬子媛の小伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』は、義理の息子・鍋島直條(鹿島藩第4代藩主)がまだ萬子媛が存命中の元禄17年(1704)――萬子媛が亡くなる一年前――に著述したものとされている。

郷土史家・迎昭典氏はわたし宛の私信で、「萬子媛についての最も古くて上質の資料は『祐徳開山瑞顔大師行業記』だろうと思います」とお書きになっている。

その『祐徳開山瑞顔大師行業記』*16(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016))には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。

その方々の痕跡が明治期の神仏分離令後の祐徳稲荷神社にないと考えるより、あくまで憶測にすぎませんが、命婦社にあるのではないかとわたしは考えています。

岩本社については、前掲はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に公開したエッセー118「祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」 をご参照ください。

岩本社に二代庵主の痕跡があるのなら、三代庵主の痕跡がないのは不自然です。岩崎社がそうではないかと、これも憶測にすぎませんが、わたしは考えています。

若宮社に祀られている文丸命、朝清命は萬媛の御子息です。

萬媛は1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産しています。

1673年、文丸(文麿)は10歳で没。1687年、式部朝清が21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬媛は翌年の1688年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号しました。このとき、63歳でした。※「薙染[ちせん](髪をおろし僧となる)し、以[もっ]て志す所を遂ぐ。実に貞享戊辰[つちのえたつ](五年、一六八八)夏四月なり」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016、「一二 祐徳開山瑞顔大師行業記」72頁を参照)

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2023年5月18日 (木)

第29回三田文學新人賞 受賞作鳥山まこと「あるもの」、第39回織田作之助青春賞 受賞作「浴雨」を読んで

第29回三田文學新人賞 受賞作鳥山まこと「あるもの」、第39回織田作之助青春賞 受賞作「浴雨」を読んだ。

● あるもの

主な登場人物は、堀内、桑原さん、有村さん。

介護職から事務職兼町民支援センターの通称「町の何でも相談係」に転職した女性――堀内の視点で作品は描かれる。

彼女には、ずっとこの田舎町で生きてきた課長にも同僚達にも見えない巨大な塔が見えるという設定。塔は、日常生活という結界を越えた区域に存在し、長尾山トンネル、いくつもの里山を過ぎた集落の広大な田畑の先に聳えている。

堀内は子供のいない中年女性で、夫がいる。家庭生活は申し訳程度に出てくる。塔が見える以外は、彼女は常人という印象である。

デスクワークに優れ、クールな男性――桑原さん。あらゆる空間に観葉植物を置くことのできるスマホアプリの栽培ゲームに熱中している。アプリを通して本来はそこにないはずの観葉植物を見る桑原さんに堀内は期待を寄せ、機会をつくって一緒に塔を見に行くが、残念ながら桑原さんには見えない。

堀内が「町の何でも相談係」として担当している70代の女性――有村さん。視力と記憶力の衰えを自覚している。町内の至る所に土地を所有する、町では有名な地主。

「有村さんにも子供がいなかった」という記述からすれば、夫に先立たれたのだろうか。

一人暮らしかどうか、一人暮らしであれば安全に生活できるレベルがどうか……それは支援センターの役割としては重要な情報だと思われるが、その辺りがぼかして描かれているために、読みながらわたしは苛々した。

有村さんは昔話をして、その中に出てくる思い出の場所がどうなっているか見てきてほしいと堀内に依頼する。同様の依頼が何件も溜まっていく。そうした場所は一つとして見つからない。なぜか堀内と有村さんが一緒に確認に出かけることはない。

ここで、私事になるが、最近、長崎在住の従兄――わたしとは親子ほど年齢差がある――が惚けてきたようだ。

妹である従姉の話によると、とうの昔に更地にして駐車場にしている佐賀の生家跡だが、従兄の「現実」ではまだ生家があって、そこに在りし日の家族――健在である従姉も含まれる――が住んでいるのだという。

従姉がいくら本当の「現実」を説いても通じず、長崎から佐賀まで彼の「現実」を確かめに来たそうだ。

戦後、満鉄に勤務していた従兄の父親は引き揚げて来る途中で妻を亡くし、幼い兄妹が残された。数年後に再婚した父親は慣れない炭鉱の仕事が応えて病み、亡くなった。従兄姉には義理の妹ができていた。

中学生だった従兄は「なぜ俺を残して死んだんや」と号泣したという。従兄の生家には、まだ未婚だったわたしの母が一緒に暮らしていた。従兄の父親は長男で、母は末っ子だった。従兄は母を姉のように慕っていた。

母の姉(従兄からいえば伯母)夫婦も満州からの引き揚げ組で、夫は三菱の商社マンだったが、脱サラして満州で手広く製麺業を始め、大成功していたという。その伝手だったのか、中学を卒業した従兄は長崎にある三菱の会社に入社した。

中学卒で苦労したとは思えない品のよさ、頭のよさを感じさせた従兄。海外からのお客を英語で案内するのが苦手だと語っていた。社交ダンスが趣味で、達筆だった。年賀状が来なくなったので、従姉に電話して事情を知った。

義理の母と妹達を生家に残して就職した従兄は、後ろ髪引かれる思いだったろう。その頃の記憶が、認知機能の衰えていく中で強く甦ってきたのではないだろうか。

せつない話で、有村さんの「現実」を読みながら従兄のことを連想した。有村さんは現在、天涯孤独なのだろうか? その辺りの情報が読者に何も与えられない不自然さがある。

いずれにせよ、昔話のこと以外にも有村さんの物忘れは度を越している。受診を勧めて、一人暮らしであれば、それが可能かどうか確認するくらいのことは、支援センターであれば、するのではないだろうか。

心情的に共感を覚え、寄り添っていればいいというものではないだろう。

しかし、相手が認知機能に問題のある人物であったとしても、これまで主人公にしか見えなかった塔が有村さんにも見えた、という話の流れである。そのために、作者は有村さんが必要だっただけなのかもしれない。

限られた複数人に見えるということであれば、それは現在の自然科学では合理的な説明のできない、いわゆる超常現象の類いか?

その人にしか見えないのであれば、幻覚だろう。

有村さんは堀内の話に合わせて妄想を膨らませているだけかもしれない。有村さんの塔は夜になると光るという。

堀内はついに塔が現実にあるのか、確かめに行く。塔はあった。しかし、光るような設備はない。

塔を出た堀内は「この塔は私にしか見えない塔なのだとしたら、有村さんにしか見えない塔もどこかに立っているのかもしれない」と結論づける。

作者には文章力があり、応募時30歳とは思えない成熟度を感じさせる。有村さんの昔話もよく書けている。

ただ、万人受けするようなパーツを集め器用に組み立てただけで終わっているような読後感で、そこが残念だ。

塔は何の象徴だろうか? それには、面倒でも堀内の現在の家庭生活に踏み込まなければだめだろう。

いつ頃からか、このような、純文学小説の体裁を整えた、空疎な作品が多く発表されるようになって、受賞するのは大抵このような作品である。

分岐点は、大道珠貴さんが芥川賞を受賞したあのころだったとわたしは考えている。2014年に出した拙Kindle本『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 ―2012』の「はじめに」でわたしは次のように書いた。

(引用ここから)……純文学は次第に伝統性も、真の意味での実験的要素もなくし、つまらないものになっていった印象がありますが、第128回(2000年下半期)芥川賞を受賞した 大道珠貴「しょっぱいドライブ」は忘れられない作品です。
 その作品自体をというよりは、それが大道珠貴さんの作品だったからで、わたしの作品が平成11年度第31回九州芸術祭第30回文学賞地区優秀作に選ばれたとき、大道さんの「裸」と同じ最終選考の俎上にのり、大道さんはその作品でデビューされました。「しょっぱいドライブ」が芥川賞に与えた影響からすれば、大道さんの作品は純文学と大衆文学の間の垣根を完全に取り払ったということがいえるでしょう。
 そして、芥川賞に選ばれる作品は今や大衆文学でもないと思えます。面白さをプロフェッショナルに追求する大衆文学にもなりえていないからです。
 大手出版社の文学賞や話題作りが、日本の文学を皮相的遊戯へ、日本語を壊すような方向へと誘導しているように思えること、作家も評論家も褒め合ってばかりいること(リップサービスと区別がつかない)、反日勢力に文学作品が巧妙に利用されている節があること……そうしたことが嫌でも感じられ、長年文学の世界を傍観してきましたが、このまま行けば日本の文学は確実に駄目になってしまうという怖ろしさを覚えます。……(引用ここまで)

この文章を書いてから10年近く経ってしまった。三田文學は純文学の最後の砦だと思われるので、期待しているのだ。

● 浴雨

漁師父子の物語。高校生の子の進学問題を中心にストーリーは展開する。友人の視点で描かれる作品。

まず、変な文章が目につく。

例えば、近くに雷が落ちたときの描写だが、「強い光がその場の全員の目を焼いた」というと、全員が失明したかと思ってしまう(そうではない)。光が目を射た――であれば、強い光が目を照らしたという意味になる。

「涙が風に乗って後ろへ飛んでいく、それを目で追ったとき、」という表現は、現実にはありそうにない奇妙な光景である。

創作に必要な下調べをほとんどしていないことも、すぐにバレる。

漁業といっても沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業などがあるが、どれなのか。

漁法による分類では網漁業・釣漁業・雑漁業の3種に分けられるそうだが、どれの設定か? 

父親は何を獲っているのか? 逆にいえば、この情報があれば、作品に登場する島がどの辺りにある島か、読者に推測可能となる。島の描写はないといってよい。

それを曖昧にしなければならない理由は、作風からしてなさそうだ。単に作者が調べたり、取材に行ったりするのが面倒なだけだったと憶測する。

丁寧な取材ができれば、漁村の描写が加わって作品の説得力は増すだろうし、いくらか島を見下したような作者の意識が変化して別の展開となる可能性すら出てくる。

いずれにしても、嵐の前の漁師は大切な漁船を守るための対策で多忙に違いない。そんなときに、漁師父子の今更ながらの親子喧嘩は不自然である。

息子は嵐の中、飛び出していくが、そもそも風圧でドアが開かないのではないか?

漁師の息子は、映画を撮りたいから島を出て専門学校に行きたいようだが、父親の仕事にまるで関心がなく無知で、海岸で遊ぶ事しか知らない。

小遣いから買ったのか、大量のDVDを所有し視聴した形跡があるわりには鑑賞眼が育まれたふうでもない。お気に入りのDVDの内容も変だ。

DVDは明治時代の日本が舞台で、主人公は美しく、よく出来た娘。趣味は雨を浴びること。しかし、花魁みたいな髪型をして明るい黄色の着物を着て雨を浴びているとなると、世間では気が触れていると勘違いされるだろう(気が触れている設定ではなさそうだ)。

漁業の跡継ぎか進学か、そのような選択が成立しないほどのぼんくら息子には島を出て行って貰ったほうがむしろ親のためかもしれない。

親の育てかたが悪かったのか、息子自身の問題なのか、作品からはわからないが、ぼんくら息子に苦悩する父親の視点から描けば、それなりに面白い小説になるかもしれない。

しかし、作者としての客観性を持てず、ひたすら息子の心情に寄り添おうとする作者に、そのような作品を書くのは無理だろう。

もし創作を続けたいのであれば、読書から始めたほうがいいのではないだろうか。よい作品に感化されなければ、よい作品は書けない。

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2022年6月22日 (水)

神秘主義をテーマとしていたはずのツイッターでのやりとりが、難問(?)に答える羽目になりました

サル痘に関して、何か動きがあれば、以下の記事の冒頭に書いた(タイトルにそれに関するものは無し)、サル痘にもイベルメクチンが有効という情報を紹介しようと思っています。

2022年6月17日 (金)
母の日のお花。レモン鶏そぼろ寿司(NHK「きょうの料理ビギナーズ」)、鶏ひき肉とカリフラワーのクリーム煮(ふれ愛交差点 クッキングガイド)、塩昆布入り豆乳スープご飯(こんぶネット)、琵琶(e-ながさきドットコム)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/06/post-fc5db1.html

ここへきて、「やはり……しかし、ここまで……」と思うようなニュースをIn Deepさんが紹介してくださっています。この件も様子見です。

当記事では、ツイッターでのやりとりを記録しておきたいと思います。このやりとりが生産的なものであったかどうかは別として、こうしたやりとりの中で、改めて自らの体験によって裏打ちされた知識の重要さということを認識しました。

萬子媛の言葉にあった仏教用語としての「愛」の説明をしたいと思いながら、わたしには荷が重く、渋々という感じで参考文献として選んだ、以前ざっと目を通したはずの中村元・三枝満悳『バウッダ〔佛教〕(講談社学術文庫)』(講談社、2009)を再読していました。

第一部は三宝――全仏教の基本――の解説です。

井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一 編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)に収められた萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」に、萬子媛が「いまだ笄せざるより、早くも三宝の敬すべきを知り」と書かれていたことを思い出しました。

三宝とは仏・法・僧に帰依することをいいます。萬子媛及び祐徳院で一緒に修行を積まれた方々のことを想いながら読んでいくと、霧が晴れるような思いがしました。

高い目的のために協力する仏教修行者たちの「つどい」である僧(サンスクリック語でサンガ)は、もとは「集まり」「団体」を意味していたそうです。

祐徳院で修行していた方々はまさに高い目的のために協力する仏教修行者たちであり、死後も、その高い目的のために彼の世でつどわれたのです。

わたしは萬子媛が成人前から三宝を敬うべきことを会得しておられたという記述は、失礼ながら誇張かと思っていたのですが、決して決して、そうではなかったのです。

このことに気づいたのも、わたしが萬子媛御一行の動向をインスピレーションによって知るという体験があったればこそでした。

この続きは専用カテゴリーで書きます。

以下はツイッターでのやりとりです。神秘主義をテーマとしていたはずなのに、なぜ、このようなお題に答える必要があるのかと思い、受け流そうとも思いつつ、お題に自分なりに――わかって貰えるかどうかは別として――応えていました。ちょっかいを出したのはわたしのほうでしたし。

立野"🕊"恵祐(tatenokeisuke)|ただいま商店街(🛵)@tadaima_group·6月20日
直感は2つあるんです👍
神の啓示
悪魔の囁き

神は自由意志なので特定の条件でないと啓示を示さないので

ほとんどの直感は悪魔の囁きなんですよw

これから大麻を解禁する理由は自分軸直感教をふやすため

宇宙の有無を確認出来るのはDSのみです。確認できないものを信じるのは神秘主義といいます

naotsuka_maki@NaotsukaM·6月20日
立野様、DS様の宇宙の定義って、どんなものですか? お金が中心の天動説?
確認できないものを信じるのは神秘主義ではなく、一般大衆では? ワクチンの中身を自分で確認できないのに、漠然と科学医学か、ワクチンの過去の実績か、政府か、彼らの信仰の対象かを信じて、どんどん打っちゃったからね!

立野"🕊"恵祐(tatenokeisuke)|ただいま商店街(🛵)@tadaima_group·6月20日
ビックバン。という仮説を真実と決定したのは現在の支配者です👍

量子力学の基本原理(世界は粒子で出来てて現実は変わる)という仮説を今拡めてるのも現在の支配者です👍

エジプト神秘主義、ユダヤ神秘主義、スピリチュアル...神秘主義の歴史は古く一貫してるのは神秘(創造主を隠す)なのでふ👍

naotsuka_maki@NaotsukaM·21時間
①立野様の表現にどうしても引っかかるところがあるので、再度、書き込ませていただきますが、お忙しいでしょうから、返信を期待してのことではありませんので…(^_^;)

スピリチュアルとは、キリスト教スピリチュアリティ、心霊主義、ニューエイジのどれを指すのかわかりませんが、
②へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·21時間
②心霊主義とニューエイジは神秘主義の伝統には属さないと思いますよ。
神秘主義は科学(秘教科学)ですから、その伝えるところは当然ながら一貫しています。伝統的です。

「創造主を隠す」の意味がわかりかねますが、ユダヤ神秘主義(カバラ)では、最高神を認識不可能な原理と考えますね。
③へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·21時間
③エホバ(IHVH)は最高神ではなく、第三位の発散という位置づけです。

ところで、「現在の支配者」とは、DSすなわち悪魔教徒達のことですか? わたしの調べた限りではDSはフリーメーソンを侵食したイルミナティに属しており、悪魔教徒です。

「105 トルストイ『戦争と平和』…⑥テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界」『マダムNの神秘主義的エッセー』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2020/10/11/220929

立野"🕊"恵祐(tatenokeisuke)|ただいま商店街(🛵)@tadaima_group·19時間
makiさんは

ナイフを振り回す子どもをちゃんと叱れますか?
万引きした中学生をビンタして泣けますか?
自殺しようとしてる友人を殴ってでも止めますか?

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
①立野様、ご質問が難問というより抽象的すぎますが……

ナイフを振り回している時点で、相手が子供か大人か動物か機械かは関係なく、身の安全の確保が第一です。第二は、その子の興奮が鎮まるのを待つことでしょうか。第三は――わたしは神秘主義者なので、その方面の知識も総動員しての――
②へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
②状況分析です。それ以上は答えようがありません。

短期間ですが、子供相手の仕事をしていました。わたしは児童小説を書いていますが、自分の子や仕事していたときの子たちに対する万感の思いがあるからです。ナイフを振り回している子がいれば、それはある意味で窮地に陥った自分です。
③へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
③店の人に知らせます。自分が店員なら、流通業に勤務した経験からもマニュアルに従います。筋骨隆々たる中学生やグルーブで犯罪行為をたくらむ中学生もいます。その背後にヤクザがついていることすらあります。素人判断は危険な時代となってしまいました。日本がこうなった原因は複雑です。
④へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
④自殺未遂を繰り返した女性を亡くなるまでの34年間、時に無力感に苛まれながらも支える――というより、友人として共に生きました。
彼女は非常に知的で詩の才能のある人でしたが、大学時代から統合失調症を患っていました。晩年は糖尿病など煩い、死は還暦を前にして急に訪れました。
⑤へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
⑤お父様のお話によると、優しい穏やかな死に顔だったそうで、長い交友に何度もありがとうとおっしゃいました。
わたしは翌年、神秘主義的観点からの考察を交えた、彼女に捧げる『詩人の死』という題の日記体小説を書き、Kindle出版しました。
彼女を殴りませんでしたが、結果的に自殺を止めたかな。
午前10:26 · 2022年6月22日

詩人のことを思い出し、涙が出てきました。美意識の高かった彼女は彼の世で楽しく暮らしていることでしょう!

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2022年3月31日 (木)

萬子媛の言葉

昨日、「祐徳稲荷神社参詣記(16)」をはてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたのですが、何か足りない気がして、改めて「祐徳開山瑞顔大師行業記」を読んでいました。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)には21の著作が収められています。「祐徳開山瑞顔大師行業記」はそのうちの一編です。

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、文人大名として知られた義理の息子、鍋島直條(1655 - 1705)によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述されたといわれています。

郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料です。

原文は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の1頁分しかありません。現代人にもわかるように編集された文章を読んでいると(これは2頁あります)、かぎ括弧が使われた3箇所のうちの2箇所が萬子媛の言葉となっており、その貴重さが胸に迫ってきました。

萬子媛の二人のお子さんが早逝してしまわれたため、萬子媛は深く悲しみ悼んで、日夜泣き叫ばれました。そして喪が明けました。次の文章が続きます。

一旦慨念、愛為苦本、愛若断時、苦自何而生。况生平承誨和尚。失之今日者、不亦自愧乎。

一旦(あるひ)、慨[なげ]きて(ため息をついて)念[おも]う、「愛は苦の本為[た]り。愛若[も]し断つ時は、苦は何[いず]こ自[よ]り生ぜん。況[いわ]んや(ましてや)生平(日ごろ)誨[おしえ]を和尚に承[う]く。これを今日に失うは、亦[ま]た自ら愧[は]じざらんや」

この文章は萬子媛の心のうちが文学的に描き出されたものかもしれませんが、筆者の直條、あるいは出家している兄の格峯(断橋、鍋島直孝)に対して萬子媛が真情を吐露された言葉なのかもしれません。

ある日、大師(※萬子媛のこと――引用者)はため息をついて、思われました。「愛は苦しみの原因ですものね。愛をもし断つ時は、苦しみはどこから生じるのでしょう。ましてや日ごろ和尚様から教えを受けておりましたのに。これを今日に失うのは、全く自分を恥ずかしいと思わないかといえば、いいえ、思いますとも」

もう1箇所を引用します。ここでは明確に、萬子媛の格峯に対する言葉として書かれています。

大師一日、語吾兄格峰禅師云、念對境起、塵中决不可處也。願栖遅巗壑、以儘餘喘。

大師、一日、吾[わ]が兄(珠龍海の兄弟子)格峯禅師に語りて、云[い]う、「念、境(対象)に対して塵中[じんちゅう](俗世界)に起これば、決して処するべからず。願わくは、巌壑[がんがく]に棲遅[せいち](隠居)し、以[もっ]て余喘[よぜん(のこりの命)を尽さん」

大師がある日、わたしの兄の格峯におっしゃいました。「対象に対する思いが俗世界で起きたなら、決して、それに応じた行動をとってはなりませんね。願いが叶うのであれば、わたくしは岩屋に隠棲して余命を全うするつもりです」

ですが、このときの出家したいという萬子媛の思いは、親戚に反対されて叶いませんでした。見かねた格峯が義理の母の願いを叶えようと、自分の住まいであった祐徳院をお譲りになったのでした。

義理の息子たちに助けられて萬子媛の出家の願いは叶い、萬子媛の小伝も残されたのでした。おなかを痛めた二人のお子さんは亡くされたけれど、それを補って余りある素晴らしい関係を萬子媛は義理の息子たちとの間に築いておられたのです。

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2022年2月20日 (日)

モンタニエ博士の「水は情報を記憶する」という研究内容から連想したブラヴァツキー夫人の文章

モンタニエ博士の「水は情報を記憶する」という研究内容から連想したブラヴァツキー夫人の文章を紹介したいと思います。あくまで、わたしの個人的な連想にすぎません。

神智学に関するわたしの考えには間違っていることも多く混じっていると思いますので、書籍や神智学協会の動画を参考になさってくだされば幸いに思います。

神智学協会ニッポン・ロッジのチャンネルがYouTubeに開設されており、現時点で15本の動画が公開されています。

神智学協会
https://www.youtube.com/channel/UCzZCXhRNoZZ7DkMcIkJpAwQ

わたしが行う引用については、故田中会長に引用の許可を伺い、黙認して貰っていたという経緯があります。はい、あくまで 黙認 にすぎないものです。

田中恵美子先生とジェフ・クラークさんの翻訳はすばらしく、ここで日本語の神智学用語が確立されたといってもいいでしょう。

その貴重な邦訳書から引用させていただくことは畏れ多いことですが、現代科学とリンク……といわないまでも連想させられる内容については、わたしのような未熟な者でも発信しないことには、知られないままで終わってしまうのでは……という懸念を覚えるのです。

一方では、ブラヴァツキー夫人が述べてもいない荒唐無稽な思想が夫人と関係があるかのようにあまりにも堂々と横行しており、この傾向にささやかにでも対抗するには、夫人の香気ある、なまの論文を読んでいただくのが一番だと考えました。

わたしの考えが間違っていたとしても、たとえ引用という形であれ夫人の論文の断片が存在すれば、それを読んでいただき、読まれたかたが邦訳書や原書を追跡なさることによって正しく判断していただくことが可能となります。

本当は、大学のような研究機関において高度な研究がなされるべきです。ブラヴァツキー夫人の文章は一般人には難解ですし、夫人の論文内容をまともに研究するには、強靱な知性と美しい心、そして膨大な資料(資金)が必要でしょうから。

その間に合わせのような、おかしなことを、わたしのような無知なおばさんがするべきではないことは重々承知の上ですが、どなたもあまりしてくださるふうではないので、わたしがあくまで個人的なメモとして書くしかないという事情をわかっていただきたいと思います。

サイト「ブラヴァツキー研究センター」はブラヴァツキー情報の宝庫です。

Blavatsky Study Center
https://blavatskyarchives.com/

以下の動画では、ここの資料へリンクさせていただいています。

「原子の無限の分割性」とブラヴァツキー夫人は言う
2020/10/23
https://youtu.be/c54EEOWPngo

ところで、新型コロナワクチンに警鐘を鳴らし続けたフランスのウイルス学者リュック・アントワーヌ・モンタニエ博士(Luc Antoine Montagnier,1932年8月18日 - 2022年2月8日)の急逝について、以下の記事で採り上げました。

2022年2月13日 (日)
モンタニエ博士の急逝。世界では薄れてきたワクチン信仰、それなのに日本ではガンガン打っている理由。危険なロット番号。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-d3e0ba.html

よく引用させていただくインディープさんの記事を閲覧していました。

興味の方向性が似ているなあと思って閲覧させていただいていると、時々、シュタイナーの著作からの引用に出合います。ああそうか、やはり方向性が似ているんだと思いました。

新型コロナが流行するようになって、インディープさんの記事を閲覧する医学の専門家が増えたようです。そのかたがたのツイートに引用があるのです。原文に当たって、きちんと紹介されているので、専門性が高いインディープさんのサイトです。

In Deep
https://indeep.jp/

ウイルス学者として知られるモンタニエ博士が光学生物物理学というジャンルにも偉大な足跡を残されたことを、インディープさんの以下の記事で知りました。

「生体の光」「水の記憶」「DNA」で人間の多くの病気を治癒する技術をほぼ完成していた矢先のモンタニエ博士の死。その「光学生物物理学」の歴史
投稿日:2022年2月19日
https://indeep.jp/dr-montagnier-s-revolutions-in-optical-biophysics/

インディープさんの記事によると、モンタニエ博士は、実験によって次のようなことを立証しました。

  • DNA の情報は、電磁波として水に転写される
  • 水はその DNA の情報を(DNAが消えた状態でも)記憶する
  • そして、その水に転写された DNA の情報は(そこに何もないのに)元の DNA と同じ電磁波信号を発し、(そこには何もなかったのに)DNAが検出された

また、同様の研究をしているかたの論文の抄録を読みました。そこには次のようなことが書かれていました。

水の情報記憶について
Memory of Water
根本 泰行
https://ci.nii.ac.jp/naid/130005253316

…(前略)…従来科学においては、「水の情報記憶」について、なかなか認められず、結果として「『水からの伝言』は非科学的である」との批判を受けてきた。ところが過去10年ほどの間に、世界のトップレベルの科学者たちから、「水は情報を記憶する」ということを示唆する証拠が提示されてきている。 ワシントン大学のジェラルド・ポラック博士は、水には固体・液体・気体の他に、「第四の水の相」とでも呼ぶべき特殊な「相」があることを発見した。そして博士は「『第四の水の相』を考慮すると、『水からの伝言』で示されている現象を初めて科学的に説明できる可能性がある」という趣旨の発言をしている。その理由として、博士は以下の2つ―すなわち「水が凍る時、水は必ず『第四の水の相』を通過する」ということと、「『第四の水の相』は、水分子がランダムに動いている従来の液体の水のイメージと異なり、極めて秩序正しい形になっているので、実際に情報を記憶する能力を持っている可能性がある」ということ―を挙げている。…(後略)…

こうした分野の研究全体については、わたしにはちんぷんかんぷんです。

そういえば、息子が大学、修士、博士課程を通して――社会人ドクターとして頑張りましたが、卒論の仕上げにかける時間がとれず中退しました――師事していた教授は水の研究で世界的に有名なかたですが、こうした研究とは全く異なる方面の研究なのでしょうか?

いずれにせよ、わたしには難解なのですが、前掲二つの記述からブラヴァツキー夫人の次の文章を連想せずにはいられませんでした。1831年に生まれたブラヴァツキー夫人は1891年――和暦では明治24年――に亡くなっていますから、現代の科学用語を駆使するわけにはいかなかったことを頭に置いて読んでいただきたいと思います。

氷は素晴らしい魔法使いであり、エーテルと同じように、その性質がほとんど知られていません。それはアストラル光とオカルト的な関係があり、ある状態の下で目に見えないアストラル領域からあるイメージを反射することもあります。ちょうど光と感光板は望遠鏡でさえも見えない星を反射することができるのと同じようなことです。…(略)…とにかく氷は光の或る状況の下でその表面に印象づけられたもののイメージを保存する特性が確かにあり、溶けるまでそのイメージを目に見えぬままで守ります。高質の鋼も同じ特性をもっていますが、氷ほどオカルト的な性質ではありません。氷を表面から見たら、これらのイメージは見えないでしょう。しかし、熱で氷を分解させて、そこに印象づけられていた力やものを扱うようになると、氷は印象づけられていたイメージを投げ出し、その形が現れるのを観察できます。それは別の環に至る一つの環にしかすぎません。もちろんこれはすべて近代科学ではありませんが、それでも事実であり、真実です。
(H・P・ブラヴァツキー著、田中恵美子&ジェフ・クラーク訳『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ、1989、「議事録」729頁)

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2022年2月 2日 (水)

祐徳院について、新発見あり。尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです。

今日もブログを書く時間が思うように取れず、イベルメクチン、ワクチン関係の記事も書けていないのですが、昨夜、祐徳院関係の考察で新発見がありましたので、とりあえずメモしておきます。

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは昨日の記事で次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年2月 1日 (火)
祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-54e709.html

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、以下の過去記事では次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年1月17日 (月)
萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/01/post-51f4bc.html

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。前掲記事ではうっかりして禪を禅と書きましたが、禪という旧字体が使われています。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禅尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禅尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

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2022年1月19日 (水)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。(1月24日に加筆訂正、赤字)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。

昨年12月に愛川様から衝撃的な内容のメールを頂戴したことは、以下の記事に書いています。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

届いたばかりの書類に関しては、まだお礼のメールも出していないので、ざっとご報告しておきます。

引用させていただきたい箇所を特定してから、今日中にはお礼のメールをしようと考えています。

永久保存と書かれた文書中、無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

このような貴重な文書から断片的な引用が許されるのかどうかわかりませんが、お尋ねしてみたいと思います。

「鹿島藤津郡医会師よりコピー(原文ママ)」と手書きメモのある資料には、「愛川伯斉」の紹介に「三代藩主直朝に仕えた愛川伯順以来の藩医の家である」とあります。※1月22日に拝受したメール、24日にいただいたお電話でも確認しましたが、「鹿島藤津医会史」とご訂正ください、とのことでした。

愛川様のメモによると、愛川の名は『鹿島藩日記』『鹿島役所日記』『鹿島市史、中巻』『医業免礼制度』に出てくるそうです。

『鹿島藩日記』には、二巻、四巻、五巻に出てくるとあり、何頁に出てくるかもメモして下さっているので、わたしが持っている二巻をさっそく見たところ、興味深い日記の内容でした(わたしが購入したのは一巻と二巻です)。

愛川様の御先祖、愛川伯準(『鹿島藤津医会史』では伯順となっています)というお名前が出て来るのは、『鹿島藩日記 第二巻』所収「日々萬控帳 宝永二年乙酉ノ六月五日ヨリ 同三年戌九月四日迄」中、宝永二年七月十五日の日記(p.527)です。

切腹しかけた人があり、そこに派遣されたお医者様のうちのお一人が愛川伯準でした。「薬こう薬等」で治療されたようです。この箇所はノートにまとめるときに引用します。

確か、日本で初めて殉死禁止令を出したのは、佐賀藩主の鍋島光茂公ではなかったかと思います。

2014年5月13日 (火)
初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2014/05/272-bfac.html

田中耕作『初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども』(佐賀新聞社、2000)によると、この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

何にせよ、このとき愛川伯準が手当てをなさった与兵衛という人は、法を犯して殉死しようとしたのですね。いや、殉死のために切腹を意図したとは限りません。何のために切腹しようとしたのでしょうか?

その経緯についても詳しく書かれているようですが、素人のわたしの読解力では内容を理解するのに時間がかかります。

鹿島藤津医会史』に「元禄十三年(1700)四月十三日の鹿島請役日記より」と書かれた引用箇所及び解説を見ると、萬子媛と同じ頃に亡くなられた鍋島直條公のご病気が何であったのかがわかります。腹部に腫瘍のある疾患だったようです。

直條公は5年後に江戸で亡くなっていますから、5年以上、腹部の悪性腫瘍に悩まされていたことになります。病身に鞭打って鹿島鍋島藩主としての仕事を続けていられたのでしょう。

この鹿島請役日記は『鹿島藩日記 第一巻』で見た記憶があったので、開いて見ると、やはり収録されていました(『鹿島藤津医会史』の引用に該当するのはpp.502-503)。

ここではお名前が「白順」とあり(水川)とありますが、これは愛川伯順(あるいは伯準)でしょう。

昔の文書には当て字が多く、素人は面食らうことがしばしばです。

鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われた愛川春碩というかたに関する資料も大変貴重です。その御子孫の愛川様にぜひ作品としてまとめていただきたいです。

昨年の12月下旬、愛川様にお電話する前の検索で、愛川様が古代史研究家で邪馬台国に関する研究をなさっていることがわかりました。講師もなさっているようです。お電話したときにそのお話もしたので、邪馬台国に関する作品のコピーも送って下さいました。

沢山の贈り物に驚くばかりですが、とりあえず、お尋ねしたいことをまとめて、早くお礼のメールをしなくては……

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2022年1月17日 (月)

萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)

らくがきメモ9に加えておきたいことが2件出てきました。

前記事同様にノートのためのノートというまどろこしさですが、いきなりノートとして書くには引用したり参照したり整理したりといったことに時間がかかるので、こうなってしまいます。主婦は物書きとしては恵まれた立場ですが、ただ休日というものがなく、まとまった時間のとれないのが難点です。

2017年に佐賀大学地域学歴史文化研究センターから購入した井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)を改めて見ていると、21番目の資料として、「普明寺禅寺過去帖」がこの資料集の最後を飾っていることに気づきました。

郷土史家の迎昭典先生から貴重な資料を沢山送っていただいており、購入した時点では、ある程度の整理はついていました。

佐賀県鹿島市大字古枝字久保山にある普明寺は黄檗宗の寺院で、鍋島直朝公の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳性幢が開山となって創建されました。以後、鹿島鍋島家の菩提寺となります。祐徳院は普明寺の子院でした。

普明寺を見学したときのことは、以下のエッセーに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

断橋は義理の母である萬子媛に祐徳院を譲って、ご自分は普明寺に移られたのでした。普明寺は祐徳稲荷神社にほど近い場所にあります。

といっても、整備された今の道路を車で行くから近く感じられるのであって、当時の道路事情はどうだったのでしょう?

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

前掲エッセーで、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)の中の宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記を引用しているのですが、その記述の中で蘭契という人物が祐徳院は山中にあると述べておられます。

当時は、奥深い山の中を歩いて行き来するという感じだったのでしょうか?

蘭契という尼僧が萬子媛の後継となって祐徳院の庵主となった人物ではないか――と憶測していたところ、御先祖様が第二代庵主を勤められたという愛川様からメールを頂戴し、電話してお話を伺ったのでした。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

第二代庵主の出家前の姓は愛川、出家後は「無著庵慧泉宲源」だそうです(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。フォントによってこの漢字は表示されたり文字化けしたりします)。尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。

そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に登場する蘭契というかたかどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われました。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでしたから。

鹿島市民図書館の学芸員は、祐徳院のその後について、以下のエッセーで採り上げた電話取材で、次のようにおっしゃいました。

88 祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/07/205602

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

この電話取材以前に、わたしは『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収の「普明禅寺過去帖」にざっと目を通していたはずでしたが、そのときは学芸員がこの過去帖を根拠として、祐徳院というお寺の歴史を推測なさっていることに気づきませんでした。学芸員は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の著者のお一人なのですから、著作の内容にお詳しくて当然なのです。

今回『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」を再読して、注目した箇所を引用します。

  寶永 宝永八年改元正徳 (※引用者註 最初の宝永のホウは旧字体)

……(略)……

祐徳院殿瑞顔實麟大師
  二年四月十日 直朝公後室開山和尚剃度為尼改正六月一日 前左大臣定好卿娘塔於祐徳院万子(p.179)

……(略)……

祐徳院前住入祠堂(後補)(※引用者註 玄の次の漢字は、うかんむりに呆)
絶玄宲仙禅師 五年十二月十七日
  天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始(p.181)
……(略)……

  寛政 十三年改元享和

 宝石二代 桃洲源和尚 七年七月四日
            初住大興後迁化祐徳院塔当山
(p.193 ※引用者註 「宝石二代」は小さな字で宝石と二代が二行に分けて書かれています。初住大興後の次の漢字は「千」にしんにょう)

……(略)……

祐徳九代
 前監西洲玄璨和尚 十一年七月廿二日
(p.193 ※引用者註 玄の次の漢字はおうへんに粲[サン])

このように普明寺の過去帖に、子院である祐徳院に関する記述があるのです。素人のわたしにはうまく解読できませんが、学芸員がおっしゃったように祐徳院は推移したのではないかと思います。

「天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始」とあります。「後補」は「後世の補修」という意味で使われるようですから、天明七年五月二日にその加筆が行われたということでしょうか。

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

鍋島直朝公の後継として藩主となった文学肌の直條公が『祐徳開山瑞顔大師行業記』(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収)を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかったでしょう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだといわれています。その直條公も萬子媛と同じ頃(宝永二年四月三十日(5月22日))亡くなったわけですが、少なくとも『祐徳開山瑞顔大師行業記』著述時までは、「尼十数輩」が祐徳院で修行なさっていたのです。

二代庵主の庵主としての期間は短かったかもしれませんが、萬子媛とおそらく一緒に出家されて、それから20数年、技芸の神様として祀られるような勤めを果たされて亡くなったのでしょう。

萬子媛が62歳で出家し、80歳で亡くなったことから考えると、萬子媛の降嫁の際に京都から付き添ってきた従事者がそう何人も残っておられたとは考えにくく、尼寺だったときの祐徳院には地元の女性も尼僧として在籍し、修行しておられたのかもしれないとわたしは考えています。

そして、二代目が亡くなった後、三代目になれるような女性は残念ながらおられなかったのではないでしょうか。

萬子媛が亡くなってから九代が亡くなるまでに、94年経過しています。

とんでもない間違ったことを書いているかもしれません。素人芸ですので、参考にはなさらないでください。

普明寺の過去帖は昭和まで記述があります。

愛川様は祐徳院に関する資料をまとめてくださっているようです。大変な作業でしょうね。それによって、何かわかることがあるかもしれません。

もう一つわかったことがあります。萬子媛が鹿島鍋島家に降嫁された背景に藤原氏という共通するカラーがあったのではないかということです。

萬子媛は、鍋島直朝公の継室として京都から嫁がれました。正室は1660年に32歳で亡くなった彦千代(寿性院)というかたでした。彦千代の母は龍造寺政家の娘だったそうです。

ふと、龍造寺氏の出自はどのようなものだったのだろうと思い、ウィキを見ると、諸説あるようですが、藤原北家と関係があるようです。

萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たる公家です。

鍋島氏の出自にも諸説あり、藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられるとウィキにあります。

龍造寺氏は少弐氏を破り、鍋島氏に敗れたわけですが、少弐氏は藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族だということですから、何だか藤原色が濃い中での争いだったのですね。

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2021年12月24日 (金)

祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました

福岡にお住まいの愛川順一様から伺ったお話を、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただきましたので、メモのまとめとしてのエッセーを公開するのは年明けになるかと思いますが、まだ興奮冷めやらぬ中で、ご報告だけしておきます。

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

このような貴重な内容のメールを頂戴しておきながら、メールフォームの新着表示に気づかず、10日ほども放置していました。

わたしのようなずぶの素人がこのような申し出を受けていいのだろうか、と畏れ多いことに思いました。でも、おそらく祐徳院の第一代庵主[あんじゅ]であった萬子媛とその後継として第二代庵主を勤められた愛川様の御先祖様のお計らいだろうと考え、取る物も取り敢えず、返信しました。

お目にかかってお話を伺いたいと思いましたが、娘の勤務する病院ではコロナ対策としての県外への移動の縛りが解けておらず、決して強制というわけではありませんが、その対策はやんわりと家族にも及びます。

わたしはイベルメクチンで予防しているので、移す心配も移される心配もないと思っていますが、とりあえず、電話でお話を伺うことになりました。コロナ対策の縛りが解けたら、ぜひお会いしたいと思っています。岩本社に祀られている神様の御子孫ですよ、胸が高鳴るではありませんか。

わたしは尼寺としての祐徳院や岩本社に祀られているかたに思いをめぐらせ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に以下のエッセーを書きました。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

萬子媛亡き後、尼寺としての祐徳院がどうなったのか、知りたくてたまりませんでした。その答えは、愛川様のお話から半分ほどは得られたように思います。

第二代庵主の出家前の姓は愛川、戒名は「無著庵慧泉宲源」だそうです。※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。

尼寺としての祐徳院が第二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に記述のある蘭契という尼僧かどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われます。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでした。

鹿島市民図書館の学芸員がおっしゃっていたように、その後は男性僧侶の修行の場として続いたのかもしれません。いつまで続いたのでしょう? 廃仏毀釈まででしょうか。

萬子媛は花山院家のお生まれですが、後陽成天皇の第3皇女であった清子内親王(1593-1674)の養女となっています。

清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号しました。清子内親王は28歳で未亡人となっています。萬子媛誕生のとき、大鑑院は32歳でした。大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とし、82歳で亡くなりました。

萬子媛が育った鷹司[たかつかさ]家は、藤原北家嫡流近衛家の分流で公家の五摂家の一つですから、最高クラスの貴族の家柄です。愛川様の御先祖様はその家で萬子媛に仕え、降嫁に伴い鹿島に一緒に来られたのでしょう。萬子媛の結婚は37歳のときです。祐徳院で萬子媛の後継を勤められたのですから、萬子媛より若かったのでしょうね。

そして、京都の愛川家から萬子媛の降嫁に付き添ってきたのは、第二代庵主になられた女性だけではなく、他にもおられたとのことです。

萬子媛は寛永二年(1625年)に生まれ、宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)入定なさっていますが、鹿島史の1700年に、愛川という名が近従として出てくるそうです。このかたは男性で、愛川家は代々医者の家系だそうですから、萬子媛近く仕えたこのかたはお医者様であった可能性が高いように思われます。

亡き母のお友達にキクヨさんというかたがいらして、そのかたのお家――中野家は代々鹿島鍋島家の御殿医でした。

87 祐徳稲荷神社参詣記 (8)鹿島鍋島家の御殿医
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/10/14/042302

数名のお医者様に看取られて、萬子媛は亡くなったのでしょう。

89 祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/22/004109

愛川春碩というかたは、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にしたのだそうです。このかたはこの事業を行うために鹿島を離れ、佐賀へ。愛川家が福岡に移住したのは明治維新後のことだそうです。

愛川家と祐徳院とのつながりは、戦後まであったのだとか。

愛川氏、鍋島氏、祐徳院の三者が集い、お祭りが行われていたといいます。これは、祐徳稲荷神社で行われているお祭りとは異なるものであるようです。諸々の事情があって、現在、愛川家は祐徳院との縁が切れた形となってしまい、平成13年にお亡くなりになった愛川太朗氏が祐徳院に関するメモを残されたとか。

そのメモのコピーを送ってくださるそうです。

廃仏毀釈の影響もあるのかもわかりませんが、愛川氏のお話では、昭和24年の祐徳院の火災で、祐徳院に関する貴重な史料の失われた可能性が高いです。田中保善氏の御著書『鹿島市史真実の記録』にも、祐徳稲荷神社の火災は出てきます。

以上、ざっとしたご報告で、間違いがあるかもしれません。年明けに、きちんとしたエッセーにする予定です。

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2021年12月14日 (火)

大分トリニータ、天皇杯決勝戦進出。札付き巨大製薬会社ファイザー、アストラゼネカの10年前の行状。「ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する」を再公開。

コロナ禍の影響など、色々あって、J2降格が決まっている大分トリニータですが、12日に行われたサッカー天皇杯の準決勝で守りに徹して延長戦に持ち込み、延長戦では互角の戦いとなってPK戦へともつれ込んだ末、何と川崎フロンターレを下して初の決勝進出を決めました。

片野坂監督、素敵です。還暦過ぎのわたしはすっかり高校生くらいの気持ちになって、片野坂監督の姿を追い求めながらテレビ観戦しました。片野坂監督、大分トリニータ監督を辞めないで!

これ、亀記事もいいところですね。この記事は大分トリニータの決勝進出の直後にアップするつもりだったのですが、ネット接続が不安定で、原因究明に追わていました。

でも、まだ解決していません。今はたまたま調子がいいだけでしょうね。

原因は、レンタルしているモデム(ONU)の経年劣化だと思うので、交換してほしいのですが、すんなり交換して貰えるのかどうか。

とりあえずフレッツ光西日本の故障時サポート(録音受付)に夫が昨日の午前中に電話し、午後3時になっても電話がかかってこなかったので、再度、用件を録音したにもかかわらず、今に至るまで応答なし。以前も何かの問い合わせで、なかなかつながらず、困ったことがありましたっけ。

BUFFALOのWi-Fiルーターも買い替え時だとは思っていますが、あれこれやってみたところではやはり、モデム。7~10年程度で寿命らしく、それからすると、うちのは寿命を越えた長寿モデムとなっております。

話題は執筆関係に移りますが、現在、図書館から借りたユング関係の著作を数冊借りて精読しています。その中でもリチャード・ノル(老松克博訳)『ユングという名の〈神〉―秘められた生と教義』(新曜社、1999)は封印されてきたユングの一面を生々しく伝える貴重な著作内容で、この本が邦訳されたことの意義は大きいと思われます。

そう思うだけに、前に借りたときのようにざっと読んだだけではいけない、精読しなければと思い、読んでいるのですが、以下の冒頭部分からしてわたしは脱力し、読書が進みません。

チューリヒ湖の上流側の岸辺、ボーリンゲンの閑静な地にユングの「塔」として知られる石造りの建物があり、今でも巡礼のように訪れる人が絶えない。1923年、ユングはそこにささやかで素朴な隠れ家を建てはじめた。ひとりきりで過ごす円い器としてである。後年それは増築されて塔になり、聖域となった。彼はそこで、みずからの経験したヴィジョンを壁に描いたり、石に刻んで保存したりすることができた。それはまた、性の空間、異教的な背徳の祭壇にもなっていた。ユングはキュスナハトの妻や家族、あるいはチューリヒの弟子たちから離れ、深い仲であったトニー・ヴォルフと思う存分享楽の時を過ごした。(ノル,老松訳、1999,p.3)

「何やっとるんだね、チミは?」といいたくなります。

ユングの行為が単にプライベートなものだとするなら、どうでもいい話ですけれど(趣味の塔づくりをしようが何しようが)、ユングの解釈による異教的意味づけをした上での行為であれは、それは神秘主義とは真逆の何かです。その真逆の何かと心霊主義を一緒にして、ユングは心理学に持ち込んだわけです。

聖域にカーマ(欲望)を持ち込むなど、神秘主義ではありえないことですけれど、ユングの「聖域」にはヴィジョンを通して出逢ったユングの導師フィレモン(ヘレニズム時代からやって来た超個人的実体で、長く白い髭と翡翠の翼を持つ老人)が描かれているとか。

老人の奇怪な姿は、カーマ・ローカの幽霊がユングの好みに合わせた扮装でしょうか。どことなく子供じみた「超個人的実体」ですね。

「マダムNの神秘主義的エッセー」で一旦公開し、その後非公開設定したエッセーは、とりあえず、そのまま再公開しました。

2021-11-23
113 ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2021/11/23/030326

目次

  1. 神秘主義=心霊主義ではない
  2. 前世療法やオーラ診断が連想させる、眠れる予言者エドガー・ケーシー
  3. ヨガ行者パラマンサ・ヨガナンダと前世療法における「前世の記憶」の様態の決定的違い
  4. 降霊術のとりこだったユングの影響
  5. 2021年11月25日における追記: 心理クラブの影響を受けたヘッセ、神智学及び人智学の影響を受けたカロッサ
  6. 2021年11月30日における追記: ヘッセの代表作『デミアン』に登場するアプラクサスとイルミナティの神、そしてユングの神々

今後ユングについて書きたいことが出てきたときは、別のエッセーにします。

ところで、積ん読の山を何気なく眺めていたら、内海聡『精神科は今日も、やりたい放題 ―医者が教える、過激ながらも大切な話―』(PHP文庫 - ‎ PHP研究所、2018) が目に留まりました。

ワクチン懸念派のツイートで、そのお名前をたびたび見たことがあったからです。

娘は書店員時代に内海氏の著作を数冊、内容確認のためにざっと読んだことがあったといいました。悪い読後感ではなかったようでした。

昨日読んだわたしには、全編通して共鳴できる内容でした。それについては、当記事では触れません。プロフィール欄に、この作品は「2012年4月」に刊行されたものを再編集したものとありました。10年近く前の作品なのですね。

この本に、新型コロナウイルスワクチンで馴染み深い製薬会社となったファイザー社、アストラゼネカ社が出てきます。

アストラゼネカ社は、「今やドル箱となった抗精神薬の違法な市場拡大に対する連邦の捜査で、金銭の支払いを行った巨大製薬企業は、過去3年間でアストラゼネカ社が4社目となる。ロンドンに拠点を置く同社は、『セロクエル』に都合のよい研究データだけを誇張し、リスクを適切に開示せず、医師や患者を欺いたとして告訴もされている。現在もアストラゼネカ社は、薬剤のリスクを開示しなかったとして2万5000件に上る患者側からの民事訴訟を抱えている」(内海,2018,p.66-67)

ファイザー社については、デッチアゲ研究が紹介されています。「捜査機関が発表したところによると、ファイザー社が販売する「ガバペンチン」(てんかん薬)のマーケットの拡大に不都合な研究結果の揉み消しや改竄を同社が行っていたことを示す社内文書が見つかり、製薬会社でどのように科学研究の操作が行われているかを知る機会を提供する結果となった」(内海,2018,p.92-93)

札付きの巨大製薬会社のワクチンを高い値段で膨大な量、買わされた日本政府。「日本は世界における抗精神薬の在庫処分場と化しており、たとえば、ベンソジアゼピン系(安定剤、睡眠薬として用いられる種類)でみれば、どの国と比べても世界一の精神薬消費国となっている」(内海,2018,p.68)と書かれています。日本がワクチンの在庫処分場となっているというツイートを目にしたことを思い出しました。さもありなん、です。

 

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