ついにわかりました! いや、憶測にすぎないことではありますが……(祐徳院三代庵主の痕跡を求めて)
2023年2月5日の過去記事で、次のように書きました。
祐徳院に関する覚書を以下にメモしてきましたが、この辺りでまとめて電子書籍にしておきたいと考えています。一太郎で作成することになりそうですが、iPadに入っているPagesが電子書籍作成に便利だと知り、どちらを使うか検討中です。
「カテゴリー: 祐徳稲荷神社参詣記」『マダムNの神秘主義的エッセー』
このPagesは最近のiPadのアップデートの後で使えなくなったので、削除してしまっていいか調べたところ、なかなか使えることがわかりました。一旦削除してインストールし直したら、使えるようになりました。
ただ、一太郎、Pagesどちらを使うにしても面倒な長期作業になることは間違いありません。
また、2023年6月4日の過去記事では、次のように書きました。
また日が空きました。小説に没頭していたわけではありません。祐徳院に関するエッセーをまとめるに当たり、神秘主義的要素を抜こうかどうしようかと迷い続けていたのです。抜けば、世間に出しやすいものになります。しかし、そうすれば、神秘主義的感性なしでは解けなかった謎のいくつかを書くことが難しくなるのです。また、生前から優れた神秘的な能力を発揮された萬媛を表面的にしか扱えなくなります。いつまでも結論が出ず、かったるくなりました。
そして、遡ること2022年9月10日、はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に公開したエッセー118「祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」では、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのではないかと書いています。
普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。
そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。
「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。
だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。……(略)……
萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。
祐徳院について、エッセーとしてまとめる計画が頓挫したようになっていた原因には前述したような執筆者であるわたしの神秘主義的考察を消すか、そのままにしておくかといった私的迷いもありましたが、もう一つ、三代庵主の存在が祐徳稲荷神社に見当たらないのはおかしいのでは……という漠然とした疑問がわたしの中にあったためでした。
それが、重い腰を上げてとりあえずエッセー「あかぬ色香は昔にて」(仮題)に取り組むことにし、「はじめに」の部分から書き始めたときに、もしかしたらと思ったことがありました。
後で改稿するかもしれませんが、その「はじめに」の下書きを以下に紹介します(アメーバブログに下書きした「はじめに」はブログとしてのものなので、内容が異なります)。
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あかぬ色香は昔にて
祐徳稲荷神社の尼寺としての前身「祐徳院」に関する研究日記
※タイトルは、萬媛の愛された皇太后宮大夫俊成女の歌「梅の花あかぬ色香も昔にておなじ形見の春の夜の月」から採ったもの。
※萬子媛という呼び名は明治以降のものと思われるので、存命時の呼び名の一つであった可能性の高い「萬媛」に統一したい。このことについては次の記事を参照されたい。
「115 祐徳稲荷神社参詣記 (16)萬子媛の呼び名。初婚だったのか、再婚だったのか。直朝公の愛。」『マダムNの神秘主義的エッセー』
● はじめに
佐賀県鹿島市古枝に鎮座する祐徳稲荷神社は、日本三大稲荷の一つともいわれ、商売の神様として知られている。祐徳稲荷神社の公式ホームページによると、参拝者は年間300万人に達する。当稲荷神社は、貞享4年(1687)に、肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請されたものだという。
祀られている神様は、衣食住を司る生活全般の守護神「倉稲魂大神(ウガノミタマノオオカミ)」、天照大神が隠れてしまわれた岩戸の前で舞を舞われた、技芸上達の神あるいは福徳円満の神として信仰される「大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)」、高千穂の峯に天孫降臨された天孫瓊瓊杵命(テンソンニニギノミコト)の先導役をつとめられた故事から水先案内の神、交通安全の神として信仰される猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)である。
ここで、境内摂末社及び祀られている神様に注目したい。
石壁神社 萬媛命(祐徳院殿)
命婦社 命婦大神
岩本社 岩本大神
岩崎社 岩崎大神
若宮社 文丸命、朝清命
石壁神社
どのようないきさつで、創建者が石壁神社に「萬媛命」として祀られているのだろうか? それについて、前掲ホームページ「石壁社(せきへきしゃ)・水鏡」 の「ご祭神 萬子媛(祐徳院殿)」には次のように書かれている。
萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘でありますが、寛文2年直朝公にお輿入れになりました。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されました。萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、二人のお子様をもうけられましたが、不幸にしてお二人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。萬子媛ご入定の後も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われております。諡を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と申しましたが、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称されました。
後陽成天皇は曾祖父、公卿であった花山院定好が父である。母が天皇の血筋で、母にとって後陽成天皇は祖父だった。萬媛に兄弟姉妹はいたのだろうか。
萬媛の嫁ぎ先は武家であった。肥前国鹿島に置かれた佐賀藩の支藩、鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝に嫁いだ。降嫁後の萬媛はよき妻で、二児をもうけた。不幸にもその子らが早世したことから、62歳で鹿島藩領古枝に祐徳院を創立、神仏に仕えた。80歳の4月、石壁山山腹の寿蔵にて断食入定。諡、祐徳院殿瑞顔実驎大姉。
遺徳をしのぶ参拝者は引も切らず、明治期の神仏分離令により萬媛命の神号を贈られた。
このようにまとめてみたが、疑問が湧いたのは、萬媛の出家の動機が二児の早世によるものだとしたら、そのときから年月が流れすぎているのではないか、本当に二児の早世が動機だろうかということだった。二児がそれぞれ何歳で亡くなったのか、調べなくてはならないと思った。
祐徳院を、庵のような、茶室のような小さな家のようなものだと想像した。
また、わたしは萬媛の断食入定を疑わなかったが、前掲「ご祭神 萬子媛(祐徳院殿)」をよく読むと、「断食入定」とはどこにも書かれていない。断食行と入定を切り離して考える発想はこのときのわたしにはなかった。
命婦社
前掲ホームページ「命婦社」より次に引用する。
稲荷大神の神令使(お使い)である白狐の霊を、お祀りしている御社である。
光格天皇天明8年(1788)京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移った時、白衣の一団が突如現れて、すばやく屋根に登り敢然と消火にあたり、その業火も忽ち鎮火した。
この事に花山院公は大変喜ばれ、厚くお礼を述べられこの白衣の一団に尋ねられた。
「どこの者か?」
答えて言うには、
「肥前の国鹿島の祐徳稲荷神社にご奉仕する者でございます。花山院邸の危難を知り、急ぎ駆けつけお手伝い申し上げただけでございます。」……(略)……
花山院内大臣はこれは不思議なことだ、奇蹟だと内々に光格天皇に言上されると、天皇は命婦の官位を授ける様勅を下され、花山院内大臣自ら御前において【命婦】の二字を書いて下賜されたといわれる。
ここに書かれた「白衣の一団」とは、もしかしたらこの白狐の霊として祀られている方々は……と後にわたしは考えるようになった。
岩本社
前掲ホームページ「岩本社」に、岩本社のご祭神が、岩本大神という技芸上達の神様と説かれても、祐徳院を庵のようなのものと考えていたわたしには出家後の萬媛との関係など想像できず、弁財天を連想しただけで、よくわからない神様だった。祐徳博物館の女性職員からお話を伺い、ある貴重なメールが届くまでは……。
岩崎社
前掲ホームページ「岩崎社」に、「縁結びの神様として祀ってあります」と書かれている。「縁結びの神様を祀ってあります」とは書かれていないことに、ふと気づいた。
若宮社
前掲ホームページ「若宮社」に、ご祭神の文丸命、朝清命がどのような神様かは書かれていない。このことは、萬媛を調べ始めてすぐに明らかになった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+(引用ここまで)
思わせぶりな書きかたとなっているのは、本文で謎を解き明かす設定であるためです。
命婦社の御由緒に書かれている「白衣の一団」をわたしは萬媛と共にご奉仕くださっている、かつては尼僧であった方々ではないかと憶測しています(眷属の存在を否定しているわけではありません)。
萬媛と共に修行し尼寺を構成した方々について、2019年12月8日のエッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に、次のように書きました。
萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名。
蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈(ねへんに「同」)要。萬子媛の存命中は総勢 18 名だったことになる。
萬子媛の小伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』は、義理の息子・鍋島直條(鹿島藩第4代藩主)がまだ萬子媛が存命中の元禄17年(1704)――萬子媛が亡くなる一年前――に著述したものとされている。郷土史家・迎昭典氏はわたし宛の私信で、「萬子媛についての最も古くて上質の資料は『祐徳開山瑞顔大師行業記』だろうと思います」とお書きになっている。
その『祐徳開山瑞顔大師行業記』*16(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016))には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。
その方々の痕跡が明治期の神仏分離令後の祐徳稲荷神社にないと考えるより、あくまで憶測にすぎませんが、命婦社にあるのではないかとわたしは考えています。
岩本社については、前掲はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に公開したエッセー118「祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」 をご参照ください。
岩本社に二代庵主の痕跡があるのなら、三代庵主の痕跡がないのは不自然です。岩崎社がそうではないかと、これも憶測にすぎませんが、わたしは考えています。
若宮社に祀られている文丸命、朝清命は萬媛の御子息です。
萬媛は1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産しています。
1673年、文丸(文麿)は10歳で没。1687年、式部朝清が21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬媛は翌年の1688年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号しました。このとき、63歳でした。※「薙染[ちせん](髪をおろし僧となる)し、以[もっ]て志す所を遂ぐ。実に貞享戊辰[つちのえたつ](五年、一六八八)夏四月なり」(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016、「一二 祐徳開山瑞顔大師行業記」72頁を参照)