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2019年12月 4日 (水)

(補足)歴史短編1のために #44 鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達 その1

以下の記事の引用部分に補足したい。

2018年8月26日 (日)
歴史短編1のために #44 鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達 その1
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/08/6-d602.html
食材は豊富である。こんにゃくにも、「こんにゃく」「白こんにゃく」「佐賀こんにゃく」「氷こんにゃく」が出てくる。氷こんにゃくを試しにググってみると、文字通りこんにゃくを凍らせたものがダイエットによいということで流行っているようだが、宝永のころの氷こんにゃくとは別物だろうか。

実は、その補足のための作業に倦み、萬子媛に関する調べものを中断していた。

萬子媛のような人物を生み出した背景を知りたいと思って読んでいる『鹿島藩日記』だが、候文や変体仮名の知識に乏しく、江戸時代の歴史・文化についてもずぶの素人にすぎないわたしは困惑し、途方に暮れてしまうことも多い。

「マダムNの神秘主義的エッセー」にまとめる場合は、ここで「御霊供 幷 格峯様御料理物」「右ハ御膳方 次料理物」としてリストアップされているものを紹介したいと思う。主に食材で、精進料理を調理するためのものと思われる。

何を指すのか推測したものは「?」、見当がつかなかったものは「!?」で表した。

<ここから引用>‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

五月十五日
一、(略)
一、(略)
一、(略)
一、(略)
一、(略)
一、右御三十五日ニ付而、格峯様昨晩景より、古江田御庵御越被遊候、今朝御相伴恵達・石柱被仰付、御料理二汁八菜・次料理一汁五菜、右ハ御庵中比丘尼・男女下〻迄、右御料理物左ニ書載、

    御霊供 幷 格峯様御料理物*1

    一、しいたけ 四合*2/ 一、はいも*3(!?) 六手/ 一、漬松茸 六本/ 一、なすひ(茄子か?) 六ツ/ 一、干かふ(干し蕪か?)/ 一、竹ノ子 四本/ 一、干わらひ(干し蕨か?) 弐組/ 枝さんせう(枝山椒か?) 少シ/ 一、山いも 弐本/ 一、黒豆 弐合/ 一、きんあん*4 弐合/ 一、中くり 九ツ/ 一、佐賀こんにゃく 四丁/ 一、五分麩 四ツ/ 一、梅干 六ツ/ 一、干瓢 六手/ 一、めのは*5 少/ 一、六てう(!?) 弐ツ/ 一、ひろうば(!?) 弐枚/ 一、はせうか(葉生姜か?)/ 一、うり 四ツ/ 一、大こん 弐本/ 一、きくらけ(木耳[きくらげ]か?) 少/ 一、しそたて(!?) 少/ 一、はしかん(!?) 少/ 一、ほしこんふ(干し昆布か?) 弐枚/ 一、白こんにゃく 弐丁/ 一、夕かを(夕顔か?*6) 弐ツ/ 一、かんてん(寒天か?) 弐わ/ 一、なら漬 弐かわ/ 一、大根漬 弐本/ 一、くす(!?) 弐合/ 一、わさひ(山葵[わさび]か?) 壱本/ 一、丸山とうふ 弐丁分/ 一、紫のり 弐枚/ 一、梅仁*7 少/ 一、たうふ(豆腐か?) 弐丁/ 一、こまもち*8 十ヲ/ 一、らくがん(落雁*9 か?) 十ヲ/ 一、御米 三升*10

     右ハ御膳方
      次料理物

   一、からし 弐合/ 一、諸白かす*11(諸白粕[もろはくかす]か?) 弐升/ 一、しいたけ 五合*2/ 一、な 弐手/ 一、とうふ 拾挺/ 一、こんふ(昆布か?) 三枚/ 一、白こんにゃく 七丁/ 一、木くらげ 五合/ 一、干かふ(干し蕪か?) 十五/ 一、梅干 三拾/ 一、竹の子 拾五本/ 一、氷こんにゃく 十五丁/ 一、黒まめ 五合/ 一、夕かを(夕顔か?*6) 七ツ/ 一、こんにゃく 五丁/ 一、とつさか(!?) 弐合半/ 一、きうり(胡瓜[きゅうり]か?) 十ヲ/ 一、大こん 十五本/ 一、なら漬 三かわ/ 一、しやうゆ(醤油か?) 弐升/ 一、諸白さし酒*11 壱升五合/ 一、塩 壱升/ 一、赤みそ 五升/ 一、白みそ 壱升/しやうか(生姜か?) 弐合/ 一、こま(胡麻[ごま]か?) 弐合/ 一、枝さんせう(枝山椒か?) 少/ 一、白はし(白箸か?) 五十人前/ 一、あけ油(揚げ油か?) 五合/ 一、白米 壱斗*12/ 一、薪 三荷    

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥<ここまで引用>三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979、pp.438-442)


*1 幷の音読みはヘイ。訓読みはあわ(せる)。字義を『角川漢和中辞典』から引用すると、①わせる(あは・す)。かねる。➁おなじ。一致する。あう(合)。➂ならぶ。ならびに。…… 貝塚茂樹 ほか編『角川漢和中辞典』(角川書店、1967・65版)

*2 この合は、ふたのある容器を数える助数詞ではないだろうか。

*3   「葉芋」と書くのだろうか。里芋や蓮芋の葉柄[ようへい]、芋茎[ずいき]のことではないかと思うが、憶測の域を出ない。

*4 「金あん」についての記述がある。魚山人. “和食用語「葛餡」”. 手前板前. 2019. https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/7_E/013.html, (参照 2019-12-03).

*5 ワカメを洗い干した、「板わかめ」のことか?

*6 ユウガオの実はかんぴょう(干瓢)の原料となる。生育は極めて旺盛でつるの長さは20mにも達する。日本国内では、栽培は廃れる傾向にあるものの、新潟県や栃木県、山形県、山梨県(富士北麓地域)などで栽培が行われている。岩手県でも、カツオの生利(なまり)節等と一緒に油いためでよく食されている。青森県むつ市では8月半ば近く~8月下旬の期間に¥300~500/本程度で販売され、皮と内側の綿を取り除き破棄し、身の部分を幅5~8㎝・厚さ5㎜程度で切り、だしを入れた醤油ベースの油炒めでよく食されている。「ユウガオ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月19日 11:24 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

*7 梅の種を割ると出てくるのが梅仁。梅仁で杏仁豆腐のような梅仁豆腐を作ることができるらしいが、ここではどのような使われかたをしたのだろうか。

*8 鹿児島では高麗餅と書いて「これもち」、宮崎県では「これがし」と呼ばれる、古くから伝わる郷土菓子があるが、ここに出てくる「こまもち」とは無関係だろうか。胡麻餅[ごまもち]なども連想される。

*9 落雁は干菓子。

*10 1升は1斗の10分の1、1合の10倍、1.8039リットル、約1.5kg。

*11 諸白[もろはく] とは、日本酒の醸造において、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名。または、その製法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のこと。「諸白」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年12月7日 14:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

*12 1斗は1升の10倍、約18.039リットル、約15kg。

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2019年11月26日 (火)

田中保善『泣き虫軍医物語』に見る第二次大戦の諸相 ①映画「タイタニック」ばりの脱出劇と醤油樽(加筆あり、赤字)

慰安婦問題、植民地支配、日本軍の残虐性――といったジャパンバッシングの根拠とされてきた歴史的事象が、少なくとも、飾らぬ心情が吐露された、底抜けに明るく、お人好し、その一方では思慮深く果敢な一人の大日本帝国軍人の人間像が立ち現れてくる一冊の本『泣き虫軍医物語』を読む限りにおいては、真っ赤な嘘、捏造にすぎず、第二次大戦は日本人にとってはまさに大東亜戦争であったことが明白にわかる内容となっている。

そうした意味において、このコンパクトな本は期せずして、第二次大戦における大日本帝国軍人の行動様式、思考傾向を如実に示した、一歴史資料と見なすに足る性格を備えているといえよう。

本書、田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は、第二次大戦末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録である。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の『泣き虫軍医物語』が上梓されたのは、それを13年遡る昭和55年(1980)のことであった。

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田中保善氏は、別の本『鹿島市史 真実の記録』(1990)で、戦時中は祐徳稲荷大神及び萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっていた。萬子媛を研究中のわたしは、当然ながらそうした内容を期待して『泣き虫軍医物語』を注文したのだった。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品だった。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出した。

小学校だったか中学校だったかは忘れたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔だった。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではない……

プロフィールから引用する。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応召。同21年4月復員。(後略)

期待に反して、『泣き虫軍医物語』には命拾いした事実が事実のままに活写されているだけで、それを祐徳稲荷大神及び萬子媛に結び付けるという宗教的評価はなされておらず、それが窺えるような心情的反応も記述されていない。

あからさまな神秘体験の記述は全くないのだ。命拾いした出来事と稲荷大神及び萬子媛とが結び付けられたのは、どの時点であったのか。それは不明である。

しかし、次のような故郷の芳香漂う出来事を、故郷を見守っておられる神々の神慮によってもたらされた奇跡的体験といわずして、何といおう? 田中氏は後年の著書で、そのように解釈されているのである。

それは映画「タイタニック」ばりの脱出劇の中で起きた。話が前後することになるが、そのハイライトシーンをまず紹介しておこう。

簡単にそのときの状況を説明しておくと、田中軍医は、久留米陸軍病院から南方派遣部隊に編入された。太平洋の島々は次々と連合軍に占領されて戦局は重大化。サイパン島は昭和19年7月7日に玉砕。この時期に南方に派遣されることは死を意味していた。

駆逐艦、水雷艇、駆潜艇、飛行機に護衛された船団12隻は9月10日、門司港を出港し、朝鮮海峡、東シナ海と南下するにつれて沢山の輸送船団の往来に出会う。台湾の基隆沖に差しかかった。

夜10時頃、ドスーンと腸に響く大音響。夜空に火花を上げながら、船尾を真っ逆さまにして沈んでゆく、後続の輸送船。いわゆる轟沈であった。

四千名以上の兵隊が何らなす術もなく海底に呑み込まれたに違いない。いかに戦争とはいえ悲惨極まりなく、初めて体験した死の恐怖に心臓も凍る思いであった。(田中,1980,p.28)

船団は2日後、高雄港へ。行手には潜水艦が待ち受ける、魔のバシー海峡。

船団は飛行機と艦艇に守られながら強行突破。船団が進む間に、友軍機と艦艇は合計4隻を撃沈。船団が比島(フィリピン諸島)に近づくにつれて沈んだ輸送船の残骸が多くなった。

魔のバシー海峡を無事に乗り切り、高雄港を発って3日目の30日、リエンガエン湾のサンフェルナンド港に到着。 

久留米部隊は港から8キロ離れた海岸へ向けて出発。その行軍が身体にこたえた田中軍医は不覚にも、自らが患者第一号となってしまう。幸い、軽症だった。

背嚢を当番兵に持ってもらって歩いていると、垣根に真っ赤なハイビスカスの花の咲き乱れる家々があり、予定の海岸に辿り着く。ヤシの林の中に点々と民家があり、その中の一軒を医務室にする。クリスチャン農家らしかった。

「家の中の物を荒らしてはいけない。何も盗んではいけない」と田中軍医は皆に注意する。医務室に配給の砂糖1俵と缶詰5箱が届いた。食事もすんだ頃に家の主人らしい比島人が来て英語で話しかけたが、田中軍医には解せない。

主人は、家の内外を見て回り、何も荒らされていないのを喜び、すっかり信頼して、両手いっぱいの卵を差し出した。

田中軍医は、何もいらないから壁の棚に置かれていた発火道具を譲ってくれ、と日本語で頼む。スコールでマッチが駄目になったときのために必要だった。主人は希望を了解して承知してくれた。

当地区の司令官から、サンフェルナンド地区は国道の沿線は安全だが、国道から4キロ離れた密林中には米軍大佐の率いる5千名のゲリラが国道筋をうかがっているとの通達があった。比島は全部平定されて、攻撃して来る米軍のみが敵だと思っていた田中軍医は、「安全なのは点と線だけなのか」(田中,1980,p.34)と思う。

翌日、異動命令があり、サンフェルナンドの街はずれに移った。軍医一行はエジプトの街のように石造りの家が並ぶ街を見物し、コーヒーを飲もうと思い、コーヒー店の前に行列を作って順番を待った。

焼けつくような暑さにコーヒーを諦めて、横の丘に登る。そこには、バシー海峡で救助された兵隊達やら群馬県出身の若い女性たちがいた。

女性たちは、南方のジャワ、スマトラ、昭南(現在シンガポール)等の商社や軍関係の偕行社の女子事務員として、赴任途中だったという。救助された兵隊達は満州国境から南方へ派遣された部隊であった。

魚雷を食って全員が退船した時、一名の兵の姿が見えなかった。中隊長は皆が危険だからと止めるのもきかず、その兵隊を求めて輸送船に引き返し、捜しているうちに船もろとも沈んでしまった。部下思いの中隊長を偲んで兵達は涙ぐんでいた。日露戦争の旅順港口封鎖作戦における広瀬中佐と杉野兵曹長の話とそっくりである。
 それに引き替え、部隊長と船長はボートに乗り移り、兵隊も乗ろうとすると、沢山乗ってはボートが沈むと、ボートに掴まった兵隊の手を払い除けて海に突き落として漕ぎ去った。泳ぎながらこれを見ていた兵隊達は、陸へ上がってからも部隊長と船長の態度を非難し続けた。私はこの話を聞いて、もし自分がそうなった時は、兵隊から非難されるようなことは絶対にしないと心に誓った。(田中,1980,p.36)

すぐ後に、田中軍医は同様の惨事に身を置くことになる。

10月10日午前11時、サンフェルナンド港を出航した12隻の輸送船団は比島西岸を海岸沿いに南下。今度は護衛艦が半減し、飛行機の援護もなかった。田中軍医の乗船「江尻丸」(貨物船、7千トン)は第四番船で、煙突に「4」の字が大きく書いてあった。縁起が悪いと兵隊たちは心配する。

12時頃、右側を護衛していた駆逐艦が急に面舵を取り、「右舷前方二時の方向に魚跡、魚跡!」とけたたましい叫び声が上がった。

このときは魚雷をうまくかわした江尻丸だったが、2時半ごろ、また突然「魚雷、魚雷!」の叫び声がした。田中軍医は便所で放尿中だった。江尻丸は今度はかわしきれなかった。

惨事、と一言でいえないほど、海と船と魚跡と船内の様子を活写する著者の描写は絵画的ですばらしいが、引用の制限もあって、全部は伝えきれない。

船が爆発して沈む前に退船しなければ死ぬ。部屋に降りて軍刀、図嚢、軍医携帯嚢を取り出したかった田中軍医は果たせず、かろうじて拾った救命胴衣を着用し、海に飛び込むために左舷へ急いだ。

船は惰力で進み、艦橋から全員退船の命令を伝える進軍ラッパが鳴り響いていた。敵の魚雷は、戦車を積んである船倉に命中していた。

その爆発で船倉の上にいた沢山の兵隊達は、粉々になった戦車の破片とともに肉体もバラバラになり、噴き上げられて船内各所に落ちてくる。私の胴衣にも灼熱した戦車の破片が飛来して、襦袢を通して右脇腹に食い込んだ。灼けつくようにチリチリと痛い。私は右脇腹の傷はそのままにして甲板を左舷へ急いだ。無電のアンテナを張ってある針金に兵隊の胸部だけが引っかかっている。首も両手も腹から下もない。剣道道具の胴が引っかかっているようであった。肉片が甲板に落ちて、それを兵隊があわてて踏みつけ、バナナの皮を踏みつけて滑って転ぶように甲板上に転がる。海へ飛び込もうと兵隊はひしめきあい、それにつまずき折り重なって倒れる。(田中,1980,p.38)

前後左右の兵隊にはさまれ、足が甲板につかないまま引きずられていき出した田中軍医は、いつしか兵隊たちの頭の上に転がされてしまう。左舷は遠ざかっていた。

弾薬をいっぱい積んだ船倉に燃え移ったら船もろとも爆発して死ぬことになるので、田中軍医は自分から兵隊の頭の上を転がっていき、やっと甲板の橋の鉄の鎖に掴まった。ここで著者は、「私の左右で次々と兵隊達は元気に飛び込んでいる」と書く。読みながら、まるで水泳の授業が描かれているような錯覚に陥った。

海面まではめまいがするほど高かったが、水泳に自信のある田中軍医は思い切って飛び込んだ。

グングンと一直線に海底に向かって沈んで行き、早く浮上したくとも、高所からの飛び込みであったため、沈下が止まらない。これ以上もたないくらいになってやっと沈下が止まった。浮上しようにも呼吸が苦しくなり、思うように力が出なかった。

船体から離れた45度くらいの角度で浮上したつもりが船尾に近く、船尾にはスクリューが回っていた。渾身の力でクロールで泳いで、船体から離れた。夢中で泳ぎ、泳ぎをやめてみると、救命胴衣の浮揚力が大したものではないことに田中軍医は気づいた。2、3時間もつかどうかだった。

立ち泳ぎをしていると、顔に水筒が当たってうるさい。時計は中が水浸しになりながらもまだ動いており、12時45分。海岸までは1キロくらい。引き潮で海水は沖へ向かって流れていて、思うように進めなかった。

爆発で海中に散らばったいろいろな物が流れてきた。そのとき、驚くべきものを田中軍医は発見するのである。

なかでも私がびっくりしたのは「佐賀県藤津郡吉田村」と墨で書かれた空の醤油樽であった。はるか故郷を離れた南海で、しかも海に投げ出されて藁をも掴む気持ちでいる時に、故郷鹿島町の隣の吉田村と書かれた醤油樽が流れてきたのである。急に故郷に残してきた母や妻子を思い出し、なんとかして助からねばと思い、その醤油樽を拾って麻縄で腰にくくり付けた。浮揚力は救命胴衣よりもずっと強い。(田中,1980,p.41)

ここがハイライトシーンである。

神秘主義者の目で見ると、これは偶然の出来事ではない。高級霊がカルマとのバランスを考えながらなさる、典型的な救助例の一つといってよい。それは、偶然を装って行われるのが常なのだ。

爆発したのは貨物船だったのだから、その中に醤油樽が混じっていたとしてもおかしくはないが、溺死しそうなこの窮地で故郷の名を記した醤油樽が流れてくるなど、いくつもの偶然が重なるのでなければ、起きることではない。

「萬子媛、大戦中もよいお仕事をなさっていますね。さすがです」とわたしは半ば呆れた。醤油樽は使命を帯びていた。そのとき、大海原に降り立っておられたに違いない、萬子媛のオーラの輝きがわたしには見えるような気がする。

この脱出劇には続きがある。前述のバシー海峡で起きたボートの一件に酷似した状況が、田中軍医をめぐって発生したのだった。

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2019年10月30日 (水)

あいちトリエンナーレと同系のイベント「ジャパン・アンリミテッド」。ツイッターからの訴えが国会議員、外務省を動かす。

カテゴリー「あいちトリエンナーレ/ジャパン・アンリミテッド」
https://elder.tea-nifty.com/blog/cat24228090/index.html

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あいちトリエンナーレと同意企の美術展示会「JAPAN UNLIMITED(ジャパン・アンリミテッド)」(9月26日~11月24日)が、オーストリアで、在オーストリア(ウィーン)日本国大使館の公式イベントとして開催されています。日本オーストリア友好150周年事業と位置づけられているものです。

その17」で書いたように、わたしはこのことを、これまでのようにツイッターで知りました。

shin (@shin_shr190506) さんがずいぶん精力的に動いてくださって、わたしに確認できたところでは、安倍首相、茂木外務大臣、若宮外務副大臣、大西宏幸議員、長尾たかし議員、板東忠信さん、小野田紀美議員、上念司さん、高須克弥先生といった方々に働きかけていらっしゃいました。

その中で、小野田紀美議員が自民外交部会でこの件を問題提起され、また自民党の大西議員から外務省に問い合わせが行われたことは「その17」で書いた通りです。

shinさんが最新状況をツイートしてくださったので、お伝えしておきます。

shinさんが働きかけられた前掲の人々の中の自民党・長尾たかし議員が追及しておられ、また外務省も動いているとのことです。

以下が、shinさんに対する長尾たかし議員の返信ツイートです。

ただ、「使用許可のハードルが低いロゴマーク」という長尾議員の認識に対しては、「日本オーストリア友好150周年事業の公募ガイドライン 平30年7月23日」に照らして考えると、疑問が湧きます。shinさんも以下の2点について、長尾議員に注意を呼びかけておられます。

① 【日本オーストリア友好150周年事業の公募ガイドライン】の記載要項によると、ロゴ使用は容易ではなく二週間の審査が必要では?

②「JAPAN UNLIMITED」はこの応募要項に則らず、簡単にロゴ使用を認められたのか?

この二点を、外務省や大使館に確認すべきと考えます。

「ジャパン・アンリミテッド」の件に関しては、shinさんがおっしゃるように、ツイッターからの訴えが国会議員と外務省を動かしたのです。

shinさんの熱誠なる働きかけに感動したわたしは、感謝の気持ちを込めてメッセージを送りました。「shinさんのご尽力に感謝、感動しています。日本の名誉を守り、芸術や国際交流を大切にしようという熱い思いが伝わってきます。小野田議員が自民外交部会でこの件を問題提起され、大西議員から外務省に問い合わせが行われたのは、shinさんの働きかけあってのことでした。ツイッターって使えるんですね

純文学界が完全に左傾化しており、そのことに日本文学の危機を覚えたわたしは、文学運動――というと大げさですが、問題提起となるような同人雑誌が作れないかと思い、仲間を探しました。ですが、賞狙いに勤しむ人々ばかりで、一人も見つけることができませんでした。

真剣に純文学のことを思っている人が日本にいないわけではないでしょうが、わたしは巡り会えませんでした。

そのようなわたしには、shinさんの存在がとても清々しく感じられました。

ところで、一連の今回の事件で敵(?)ながらあっぱれと思ったことがありました。文化庁など公的機関が行う企画や助成などの利用が上手であるということです。彼らの場合はそれが悪用になってしまっているからいけないのですが、正しく利用できれば、大きな力となります。

一般の個々の創作者はどの芸術分野においても、組織作りや連携が苦手なように見えます。この点だけは左派を見習うべきでしょうね。

祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をシテとした新作能のプランは、何しろずぶの素人ですから、まだ候文の書き方を勉強している段階です。

候文には鹿島藩日記を読むことでいくらかは慣れ、それほど難しくはないはずですが、これをいざ書くとなると難しいかもしれません。

そうろ・う【候う】サウラフ
〔古〕
㊀〘自四〙「ある」の意の丁重語。あります。また、「おる」「いる」の意の丁重語。おります。
「それがしはこちらに━」
㊁〘補動四〙《「に(て)」「で」や形容詞(型活用語の)連用形を受けて》「ある」の意の丁寧語。…ございます。…あります。…です。
「御帰国された次第に━」「御相談申し上げたく━」
㊂〘助動 四型〙《動詞の連用形に付いて》丁寧の意を表す。…ます。
「大慶に存じ━」
◆「候(そろ)」とも。
[表記]終止・連体形では慣用的に「候」のように、送りがなをつけないことも多い。
北原保雄 (編)『明鏡国語辞典 第二版』(大修館書店; 第二版 、2010)

話が脇道へ逸れました。当ブログにアップしている萬子媛の研究ノートで、はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしていないものをまとめてアップしておかなければと思っています。その作業に入ります。

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2019年10月21日 (月)

葵家やきもち総本舗の「京おはぎ味くらべセット」。謡曲集で何度も読んでいた「高砂」「初雪」。

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娘が「京都展に行ったら美味しそうだったから、買ってきたよ」といって、葵家やきもち総本舗の「京おはぎ味くらべセット」と「やきもち」を買ってきました。

前掲の写真が「京おはぎ味くらべセット」です。あん、きな粉、ごま、抹茶、いもの5個入りです。

わたしはおはぎは嫌いではありませんが、昔はどちらかといえば、ありふれた(?)食べ物だったので、へえーと感動なく思った程度でした。ところが、きな粉を一口いただいたところ、何という絶妙な、ほどよい甘さ、もち米の軽みのある粘り気でしょう。

感動のあまり変な表現になりましたが、いくつでもいただけそうな美味しさでした。やきもちも美味しく、これはお取り寄せ可能のようです。

葵家やきもち総本舗
公式オンラインショップ
https://www.aoiya.jp/

話は変わりますが、謡曲集を読んでいます。以前はさほど興味のなかった作品で、世阿弥作と考えられている有名な「高砂」が気に入り、何度も読んでいました。

NHKで1987年1月1日に放送された金春信高の名演を収録した「能楽 観阿弥・世阿弥 名作集 DVD-BOX」が出ています。

昔の結婚披露宴では、謡の上手な年寄りが3人で「高砂」を謡ってくれるのが恒例となっていましたが、今はあまり聴かないようです。

「高砂」を改めて読み、こんなに美しい文章だったのか、こんなお話だったのか、と感動した次第です。

金春禅鳳[こんぱるぜんぽう]の作とされる「初雪」はテレビでも観たことがありませんが、ちょっと悲しい可憐なお話で、これも何度も読んでいました。

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2019年10月15日 (火)

軌道修正したらしいノーベル文学賞。2018年オルガ・トカルテュク(ポーランド)、2019年ペーター・ハントケ(オーストリア)。

2016年、ノーベル文学賞はシンガーソングライターのボブ・ディラン(アメリカ合衆国)が受賞した。翌2017年もノーベル文学賞は迷走を続けて、純粋な芸術性を目的として創作される純文学の作家ではなく、一般大衆を対象とした娯楽的要素の強い大衆文学の作家として人気の高いカズオ・イシグロ(イギリス)が受賞した。

何しろ、従来とは異なるジャンルへの授与が2年続いたのだから、個々の作品に対する評価は別として、これまでのノーベル文学賞とはいえなかった。

そして、昨年2018年はノーベル文学賞の選考機関スウェーデン・アカデミーに問題が起き、選考・発表が見送られた。もうノーベル文学賞は終わった……とわたしは思い、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で以下のエッセーを公開した。

64 2016年に実質的終焉を告げたノーベル文学賞
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/10/16/191359

75 ノーベル文学賞の変節、及び古代アレクサンドリアにおけるミューズ
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/10/08/150033

だから、今年のノーベル文学賞の発表のことはすっかり忘れていて、ツイッターでそのニュースが流れてきたとき、もうその時期なのかとびっくりした。

2018年 オルガ・トカルテュク(ポーランド)
2019年 ペーター・ハントケ(オーストリア)

以上のような結果だった。

ペーター・ハントケという名には記憶があった。

ペーター・ハントケ(Peter Handke, 1942年12月6日 - )はオーストリア出身の現代作家。小説、戯曲、詩から放送劇、フランス文学の翻訳まで幅広く活動。現在フランスのシャヴィーユ在住。(……)
孤児が言葉を知ることによって社会にとらわれていく様を幾つもの断章を用いて描いた戯曲『カスパー』(1967年)や、殺人者が次第に言葉や社会とのつながりを失っていく小説『ペナルティキックを受けるゴールキーパーの不安』(1970年)など、当初は社会に溶け込めない個人を主題とした実験的なものが多かったが、70年代から80年代から次第に肯定的、総合的な作風へ移行して行き、前年の母親の自殺を扱った『幸せではないが、もういい』(1972年)や、『ゆるやかな帰郷』(1979年)、母方の祖父の故郷スロヴェニアを旅する『反復』(1986年)といった自伝的な作品も手がけるようになった。またヴィム・ヴェンダースと組んでの映画製作が知られており、自作が原作の『ゴールキーパーの不安』(映画は1971年)『まわり道』(同1974年)や『ベルリン・天使の詩』で脚本を書いている。
「ペーター・ハントケ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月10日 14:53 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

映画『ベルリン・天使の詩』で脚本を手がけた人物だという。わたしは観ていないが、映画雑誌「スクリーン」だったか、「ロードショー」だったかで採り上げられていたのを覚えている。

オルガ・トカルチュク(ポーランド語: Olga Nawoja Tokarczuk[ɔlga tɔˈkart͡ʂuk] , 1962年1月29日 - )はポーランドの小説家、エッセイスト。スレフフ出身。
ワルシャワ大学で心理学を専攻。1993年にデビュー。文学専門の出版社「ruta」を設立し、2003年以降は執筆に専念する。2008年にポーランド文学最高峰のニケ賞を受賞し、現代ポーランドを代表する作家として注目されるようになった。『逃亡派』で2018年ブッカー国際賞受賞。
「オルガ・トカルチュク」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年10月10日 14:48 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

オルガ・トカルチュクの作品も未読だった。行きつけの図書館にあったのは、オルガ・トカルチュクは次の2冊。

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)
オルガ トカルチュク (著), 小椋 彩 (翻訳)
出版社: 白水社 (2010/10/19)

逃亡派 (EXLIBRIS)
オルガ トカルチュク (著), 小椋 彩 (翻訳)
出版社: 白水社 (2014/2/25)

ペーター・ハントケは次の4冊。

左ききの女 (新しいドイツの文学シリーズ)
ペーター ハントケ (著), 池田 香代子 (翻訳)
出版社: 同学社 (1989/11/1)

反復
ペーター・ハントケ (著), 阿部 卓也 (翻訳)
出版社: 同学社 (1995/1/1)

空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から問いかける (『新しいドイツの文学』シリーズ)
ペーター ハントケ (著), Peter Handke (原著), 元吉 瑞枝 (翻訳)
出版社: 同学社 (2001/07)

ドン・フアン(本人が語る)
ペーター ハントケ (著), 阿部 卓也 (翻訳), 宗宮 朋子 (翻訳)
出版社: 三修社 (2011/10/21)

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オルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』について、訳者あとがきには「本書を構成する111の挿話は、主人公の日常生活、日記、伝説、聖人伝、料理のレシピ、隣人のうわさ話など、それぞれが独立したものでありながら、互いがゆるやかに連関している」(小椋彩、P.378)と解説されている。

独立したものを、なぜバラバラの断章にしてパラレルな形式にするのかわからない。連載物を掲載した雑誌を発行された順に綴じたような、不親切な体裁なのだ。

例えば、パトハリス修道士の物語はまとまって読むほうがわかりやすいだろうに、キノコのレシピや日記などの間に挟まれている。

わたしには必然性が感じられず、全体としてまとまりのない、統一されない内容のものを、統一感のある、意味のある集積に見せかけるためのまやかしの手法に思えた。

出典も、わざとわからなくしているのだとしか思えない。これも、作者がコレクションした文章の寄せ集めをオリジナル性の高いものに見せかけるための誤魔化しではないだろうか。

引用箇所や参考文献がどことわかるように明記してあれば、作者の改変や潤色がどの程度加わっているのか、いないのか、その引用や参考の仕方が適切なのかどうかを調べることができるのだが、それができず、わが国で流行っているパクリと見分けのつかない、フランス語で誤魔化した「オマージュ」という怪しい手法を連想して、わたしは苛立ってしまう。

というのも、「家」をモチーフとしたカリール・ジブラーンの詩の一部は、トカルチュクの小説の扉に置かれているときとジブラーンの詩の中に置かれているときとでは、別物としか思えないからだ。異なる観点から「家」というモチーフが使われ、「家」は異なる意味合いを持っているということである。

また、例えば、『逃亡派』に出てくる「ショパンの心臓」の話は実話だが、作者の解剖学趣味とショパンの心臓の話は全く意味合いの異なるもので、この作品の中に目玉商品のように置かれるのは、わたしの感覚からすれば、ショパンに対する冒涜でしかない。

作品から見る限り、トカルチュクは自然科学的というよりは即物的で、決して宗教的でも、神秘主義的でもない。ご都合主義な、ごたまぜのスピリチュアル風俗に生きる人なのだ。

わたしがトカルチュクの作品に神経質になってしまうのは、ジェイムズ・ジョイスの恣意的な手法を連想してしまうからで、その手法に対する不審感を拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた。

96 ジェイムズ・ジョイス (1)『ユリシーズ』に描かれた、ブラヴァツキー夫人を含む神智学関係者5名
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/06/02/004130

97 ジェイムズ・ジョイス (2)評伝にみるジョイスのキリスト教色、また作品の問題点 
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/06/18/200850

オルガ・トカルチュクの作品を読み込んでいる時間的ゆとりがないので、ジョイスの手法に似て見えるという点だけ、指摘しておきたい。

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ぺーター・ハントケの作品は、池田香代子訳で、『左ききの女』(同学社、1989)を読んだところだ。読み始めると先が気になって、一気読みした。

絶対音感という音楽用語があるけれど、これは絶対情感の世界とでもいうべきか、よくも悪くも夾雑物が一切ないクリアな世界である。邦訳文はそれを的確に感じとらせてくれ、読みやすい。

孤独がテーマなのだろう。

※以下、ネタバレあり。これからハントケの小説をお読みになるかたは、ここまでになさってくださいますように。

女主人公マリアンネには子供が一人いて、彼女は夫ブルーノに別居したい旨を告げる。

小説だが、映像的で、ほぼ会話と描写から成立しており、ハントケが脚本家でもあるという肩書きはなるほどと思わせられる。

女主人公の孤独だけでなく、登場人物全員の孤独が捉えられている。客観的視点を持ちながら、作者は自身を登場人物全員に重ねている。

別居した夫が、腹立ちまぎれにマリアンネにいう。

君はどんどん年をとっていく。たいしたことじゃないわ、とかなんとかいいながら。そしてある日首を吊るんだ。墓に入っても、君の生きざまにお似合いの下品な臭いをぷんぷんさせる。その日まで、君はどうやって過ごすんだ? おおかた、ぼけっと坐りこんで爪でも噛んでるのが落ちだ。そうだろ?(ハントケ,池田訳,1989,pp.82-83)

ハントケの母親は1971年に自殺しており、このことを扱ったという『幸せではないが、もういい』が出たのは、翌1972年のことだった。『左ききの女』が出たのは1976年である。

女性の孤独を濃密に扱ったこの作品にも、母親のことが投影されているのではないだろうか。図書館にペーター・ハントケ(元吉瑞枝訳)『幸せではないが、もういい』(同学社、2002)がなくて残念だ。

作者の視点は小説に登場する子供の視点と重なりながらマリアンネを観察し分析し、彼女の輪郭を顕微鏡にかけるかのように外側から克明に描写する。

マリアンネがおかしくなりそうなクライマックスで、彼女の父親が登場し、よい味を出す。父親は往年の流行作家で、今は雑文書きとなっている。この父親に娘のマリアンネは似ており、彼は娘の指標となりうる人物なのだ。

父親の登場で、マリアンネは救われたといっていいだろう。

作者ハントケは無力な子供シュテファンとしてマリアンネを見つめる一方では、滋味に溢れた物書きの父親となって、マリアンネを見つめる。

息詰まるようなストーリー展開であるにも拘わらず、途中で読むのが嫌にならないのは、作者の真摯さ、誠実さ、人間的な温かさが読者にも伝わってくるからだろう。

マリアンネが父親に再会して再生のきっかけを掴むように、読者も作者から言葉にできない何か確かなものを受けとる。

それは孤独を課題として引き受けて身じろぎもしない、作者の誠実な創作姿勢及び不撓不屈の精神性であるかもしれない。

父親と別れたマリアンネは、息子と山登りをする。風景描写が美しい。

下の方では煤に点々と汚れていた積雪もこのあたりでは純白だった。犬の足跡に代わって鹿の足跡があった。
 二人は下生えをかきわけて登って行った。いたるところ鳥の声に満ちていた。雪解け水が小さな流れを作って音たてていた。樫の幹からか細い枝が生え、干涸らびた葉が数枚そよいでいた。白樺の幹には白い樹皮が縞模様をなして垂れ下がり、震えていた。
 二人は木立が疎らになったところを行き過ぎた。空き地の縁には鹿が群れていた。それほど深くもない雪からは枯れ草の先がのぞき、草になびいていた。(ハントケ,池田訳,1989,pp.119-120)  

頂上で、焼いたじゃがいもを食べ、魔法瓶の熱いコーヒーを飲みながら母子は思い出を語り、ふとマリアンネはイエス・キリストの十字架への道行きのいろんな留[りゅう]のシーンを描いた絵の話をする。その話が印象的だ。

『イエス、十字架より下ろさる』はほとんど真っ黒で、その次の最後の留、イエスがお墓に葬られるシーンはまた真っ白なの。そこからがおかしな話なんだけど、お母さんはゆっくりと絵の前を歩いていたのね。その最後の真っ白の絵の前に立ったとき、突然、白い絵と重なってほとんど真っ黒のさっきの絵が、数秒間残像になって見えた。それから真っ白な絵が見えた。(ハントケ,池田訳,1989,pp.123)

このような、宗教に属するモチーフは、作品の中でふいに顔を出す。

宗教がマリアンネにとってかけがえのないものであり、彼女の意識が純粋に向かう対象であって、日々の営みの通奏低音となっていることがわかる。読者にその感覚の共有を強いるようなものではない。ハントケは読者を信頼して、彼の大切なものを女主人公に分かち与えたのだ。

その後、父親を除く大人の登場人物がマリアンネに誘われて集合し、ホームパーティーとなる。夫ブルーノ、マリアンネの友達で教師をしているフランツィスカ、マリアンネがブルーノのセーターを買ったブティックの女性店員、マリアンネを翻訳者として雇っている社長とその運転手、マリアンネに言い寄る俳優――といった人々である。

各人が自分の孤独を身の内に宿したまま大団円を迎え、パーティーは御開きとなる。

これは未だ初期の作品で、後半部は幾分緊張感が緩み、結末を急ぎすぎた感もあるが、純文学作品らしい手応えのある作品である。

ひとまず、ノーベル文学賞が軌道修正したことに万歳といいたい。おめでとうございます、ペーター・ハントケ。疑問点はあるけれど、おめでとうございます、オルガ・トカルチュク。

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2019年10月 8日 (火)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その15。10月8日午後再開。河村市長の座り込み抗議、赤に白一点のフォーラム。田中保善『泣き虫軍医物語』。

物議を醸し続けている「あいちトリエンナーレ 2019」の企画展「表現の不自由展・その後」ですが、本日――10月8日午後、再開の予定だそうです。

これに異を唱えてきた名古屋市の河村たかし市長が、その再開に合わせて、抗議の座り込みをなさるそうです。また、河村市長は7日、18日が支払い期限の市が負担する開催費用の一部約3380万円について、支払い留保の考えを記者団に明らかにしました。

入場者には教育プログラムを受けさせるのだそうです。このやりかたは石平氏がおっしゃる通り、共産党の洗脳を連想させます。

 

「ひろしまトリエンナーレ2020」のプレイベントにあたる企画展が10月5日、広島県尾道市の離島、百島で始まったそうで、これも大同小異のひどいものであるようです。わたしも、西村氏のご意見に同感です。

あいちトリエンナーレのあり方検討委員会とあいちトリエンナーレ実行委員会が主催する国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」の第1日「表現の自由と芸術、社会」が2019年10月5日(土)13時から17時まで、愛知芸術文化センターで開かれました。

それを記録した動画の中で、「国家や一部の人々を傷つけたり驚かせたり混乱させるものも表現の自由として保証される」などという、司会者のとんでもない発言がありました。日本国憲法第12条に真っ向から挑戦する発言であり、これはもはや芸術とは無関係なテロリストの発想です。 

第一二条[自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任]この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

フォーラムの最後で良識的な発言がありました。それを司会者が潰した格好でフォーラムは終了し、芸術監督・津田大介氏がオマケの大あくびをしました。

日本人が大東亜戦争と呼び、終戦後、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、太平洋戦争などと呼ばれるようになった先の戦争を、左翼がプロパガンダに絶賛活用中です。

彼らの脳内では、その戦争において、大日本帝国軍人は天皇陛下の命により、植民地戦争を繰り広げて残虐行為を行ったということになっています。そして、これら軍人の性の相手を朝鮮人の従軍慰安婦がさせられ、ひどい扱いを受けたということにもなっています。

「表現の不自由展・その後」の展示作品も、この二点に依拠したものです。この二点が覆ってもなお芸術作品として何か優れたものが残る作品が一点でもあるのでしょうか。

そもそも、どなたの御写真であろうが、それを焼いたり踏みつけたりする行為、また死者を冒涜する行為は、日本人の感性には到底馴染まないものです。日本人は古来、礼節を尊ぶ国民性です。

祐徳稲荷神社の創健社、花山院萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっている田中保善氏の御著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、昭和55年)が届きました。

戦争末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録です。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品でした。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出しました。

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔です。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではありませんが……

プロフィールから引用します。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応招。同21年4月復員…

まだ読んでいる途中なので、記事を改めてレビューを書きたいと思っています。

ちょっとだけ書いておくと、従軍慰安婦は出てきませんが、慰安婦(公娼)は結構出てきます。日本の娘だけでなく、「朝鮮や台湾の娘もおり、時にはジャワ島から来たジャワ娘もいた」(73頁)とあります。連れてこられたではなく、「来た」とありますよ。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の御著書が上梓されたのはそれを遡ること13年、昭和55年(1980)です。率直でユーモラスな筆致が特徴的なこの体験記には、様々なことが赤裸々に書かれています。

慰安婦達との恋愛遊戯のようなこともよくあったようで、田中氏は千代龍という美女に一目惚れ。こんなことを書いて、奥様に叱られなかったでしょうか。千代龍というのは源氏名でしょう。

日本軍がクダット地区を撤退するとき、酋長は部下幹部と共に涙を流して悲しみ、次のように言ったと書かれています。

クダットを撤退するのは思いとどまって下さい。他の新鋭部隊でなく今のあなた達でよい。日本軍がいなくなって、またもし白人が来たら、我々はまた人間扱いはされない。日本軍は私達を同等に扱ってくれた。我々と同じ物を食べ、一緒に同席してくれた。また赤十字をつけた兵隊さんからは我々の仲間が病気を治療してもらって沢山助けられている。どうか日本軍の皆さん、クダットに残っては下さらないでしょうか。日本軍の代わりに白人が来たら、我々はまた奴隷にされてしまいます。(131~132頁)

田中氏のこの御著書だけでも、左翼がしがみついている前掲二点を覆すことができます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」といいますけれど、勝った側って、本当に嘘つきですね。

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2019年10月 3日 (木)

萬媛の三番目物ノート ①大まかなあらすじ

わたしは田中保善氏のご著書『鹿島市史 真実の記録』(1990)の中の萬子媛に関する伝記的記述を読み、子供のころから何となく心惹かれていた萬子媛に一層興味を持つようになりました。

わたしなりの萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)として新作能を書いてみたいという大それた望みは先月の25日に生まれたばかりです。アマチュア物書きのわたしがそれを書いたところで何になる、などとは不思議にも全く思いません。書けるかどうかは別として、書いてみたいという強い思いが湧き起こっています。

ワキ(シテの相手役)は、前掲の田中氏がモデルです。

『鹿島市史 真実の記録』には、先の大戦中、軍医として出征した出来事が綴られています。田中氏は出征前、祐徳稲荷神社に参詣したそうです。

倉稲魂大神(田中氏の研究ではインドの夜叉・荼枳尼天だそうです)にお願いすると同時に、「荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦[まけいくさ]で戦死するのが当たり前ですが、何卒御助け下さいと御願いした」(157頁)そうです。

危機一髪で奇跡的に助かったエピソードが五つ紹介されていますが、そのようなことがまだ何回もあったそうです。インディージョーンズより凄い! 例えば次のエピソード。

敵地巡回診察中、敵戦斗機三機に狙われ機銃掃射を受け終に私の腰部に命中したが、私の軍刀の鞘にあたり、鞘はえぐり取られたけれど私の腰は無事で助かった。(158頁)

戦争を知らないわたしが戦争を書くことになるとは想像もしませんでした。

ですが、一応平和とされている現代においても、また田中氏が体験された戦争においても、おそらくは萬子媛はお亡くなりになった江戸時代からずっと今日まで、日本に生きる人間たちを毎日欠かさず見守ってこられたのだと思うと胸が熱くなり、田中氏の劇的な体験を参考にさせていただいて萬子媛を描いてみたいと思うに至りました。

田中氏の他のご著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は未読でした。幸いアマゾンに中古で出ていたので、注文したところです。このご著書も参考にさせていただくことになるだろうと思います。

新作能の曲名は未定です。2007年10月に上梓された絵本『萬媛[まんひめ]』(文:梶田聡実、絵:寺田亜衣・杉本国子・中島健一・古賀沙織、監修:荒木博申、企画:吉岡満雄・佐藤三郎、編集・印刷:サガプリンティング)とかぶるとよくないでしょうから、かぶることにはならないようにしたいと考えています。

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おおまかなあらすじ

開戦の詔勅から時間が経過し、日本軍の敗色が濃くなったころ、○○(ワキ ※ワキの名は未定)に招集礼状が来る。○○は軍医として出征するに際して、神社に参詣し、稲荷大神と萬媛(註1)に加護を祈念する。

○○はかねてより神社の研究をしており、信心は篤かった。○○には守るべき母、妻、子があった。

マニラ丸でボルネオへ向かう途中、船は敵の砲弾を受ける。海中に放り出された○○の目に、天より舞ひ降りて来し白銀の一団(シテ、シテツレ、トモ)が映った。中心のひときわ輝かしい姿が目に入る。

従者のように見える天人の一人(シテツレ)がいう。

自分達は仏果を得た者であるが、(神社に伝えられる)天明8年に京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移ったとき、鎮火に現れた白衣の一団とは実は自分達であったのだ――と。

中心の輝かしい御姿(シテ)が、萬媛は自分だと告げる。

後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘として生まれた萬媛のこの世に在りし日々が語られる。

※在りし日々で採り上げるエピソードに関しては未定

萬媛の入寂と昇天の舞が重なる中、神々しい萬媛の舞に見とれているうちに○○は意識を回復する。そこは、ボルネオのコタブルト(註2)のアバラ屋に日本軍が設けた医務室だった。その後もいくつかの危機を奇跡的に脱し、終戦の詔勅からほどなく復員を果たした○○は、神社に参詣する。

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註1 鹿島市民図書館学芸員T氏によると、剃髪前の萬子媛は「萬媛」と呼ばれていた可能性が高い。

歴史短編1のために #47 落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-55cb.html
日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。
萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。
萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。
生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。
そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

註2 コタブルトはコタッ・ブルッのこと。コタ・ブルッ(Kota Belud)は東マレーシア・ボルネオ島北端のサバ州にある町。「コタ・ブルッ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年10月16日 11:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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参考資料メモ1

  • 開戦の詔勅、終戦の詔勅
  • 田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)、『鹿島市史 真実の記録』(1990)
  • 郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察
  • 祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話
  • 三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)
  • 新古今和歌集
  • 大和物語
  • 拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」(カテゴリー「祐徳稲荷神社参詣記」)

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拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」より

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)

神社という聖域には、実際に萬子媛のような高級霊が地上界を見守っていらっしゃるケースがあるということを、わたしは神秘主義的見地から確認してきた。

萬子媛のようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本は持つことがなかったわけである。

わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。すると、時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

宗教的装いは違っても、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている萬子媛のようなかたが存在することをわたしは知ったのだった。

この純正ボランティア精神が生じた背景を知りたい。このかたはどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることでもあるのだ……

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を率いる尼寺であった。

ざっと、萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している……

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78 祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成(1114 - 1204)で、定家はその子、藤原俊成女は孫娘に当たる。

藤原俊成女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と藤原俊成女の間には確執が生じたようだ。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。
その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、藤原俊成女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。(略)

幽玄美を提唱して『新古今和歌集』の歌人を育てた藤原俊成、『新古今和歌集』の撰者の一人であった定家、藤原俊成女らは藤原北家の人々で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今和歌集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。藤原北家は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つである。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。
その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

こうした複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

ちょっと注目したいのは、次の歌である。作者は前述した皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)。

   皇太后宮大夫俊成『新古今和歌集』巻第十九神祇歌
春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)*10

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院家の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神々の中の一柱となられた萬子媛は、子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

*10:窪田訳,1990,p.443

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あらすじ、できました。新作能を読んだ感想。

昨日、萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)とした新作能(三番目物)のおおまかなあらすじができた。そのノートは、次の記事にアップする。

何しろ、能を観たのは3回だけで、あとはテレビでの鑑賞、謡曲集の読書くらい。それで、新作能を書こうというのだから、無知とは怖ろしいものだ。あらすじができたあとで、せっせと勉強することなる。その勉強によって、あらすじ自体が変わる可能性はある。

母がお謡を習っていたのに、無関心で、からかっていただけだったことが悔やまれる。母が生きていたら、教わることも多かっただろうにと思う。

当市には能楽堂があり、3回観た舞台のうち1回はこの能楽堂で観たものだ。

舞台を観なくてはと思う。ホームページを観たが、今年中にはそれらしいものがない。何にせよ、ここの能楽堂と福岡の大濠公園能楽堂の催事情報はこまめにチェックする必要がある。能鑑賞貯金もしなくては。その貯金箱の一つを、一昨日夫がうっかり割ってしまったわ (T^T) 

石牟礼道子『石牟礼道子全集 不知火 第16巻』(藤原書店、2013)の中のエッセイで、石牟礼氏の「台本を書くまでにお能といえば二度しか見たことがありませんでした」(75頁)という記述に救われる思いがした。

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  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

以上の本のうち、読んだ作品の感想を書いておこう。

瀬戸内寂聴「虵」

鎌倉時代前期の仏教説話集、鴨長明編『発心集』の中の説話「母、女[むすめ]を妬[ねた]み、手の指虵[くちなは]に成る事」を基にした新作能である。

「発心集」の説話を紹介すると、娘のある女が年下の男と結婚し、老いの不安から娘と男を強いて夫婦にしたまではよかったが、女は一室でのどかに隠居するどころか、嫉妬のあまり両手の親指がくちなわになってしまうという話。

惑乱した娘は尼に、男は法師に、女も尼になる。それでようやく女の指は元の指になり、後には京で乞食になったという。

両手の親指がくちなわになるというグロテスクさ。娘も男も女のいいなりで、狂言回しに使われているだけだ。

女が後に乞食になったとあるのは、どういうことだろう? 

女が尼になったのは怪奇現象を起こした指を元に戻すことだけが目的で、純粋な信仰心などはなく、目的達成後に尼をやめたということなのか。

尼であれば托鉢であって、乞食とはいうまい。それとも、この「乞食」とは仏教用語「こつじき」、すなわち托鉢のことなのだろうか。こつじきが転じて物乞いする行為「乞食」となった。

尼としての矜持を感じさせる暮らしであれば、いずれにせよ、その部分だけが強調されることはないだろう。

俗人が俗欲に終始した、実も花もないお話。

瀬戸内氏は、男を仏師にすることで、作品の俗っぽさを一層強めている。能の形式上、男と女は成仏した格好だが、成仏はしていまい。

それが小説「虵」になると、表現がリアルであるだけにいよいよ救いがたい結末となっている。尼となった女が老い、見世物小屋でくちなわの指を見世物にしていたというエピソードが語られるのだ。

能舞台となれば美しいのかもしれないが、作品として読むと、あまりにも救いがなさすぎる。登場人物の魅力が微塵も感じられない。

石牟礼道子「不知火」

石牟礼道子氏の新作能「不知火」は流麗な文章で、情緒に満ちて美しいというだけでなく、偏頗な文明に対する作者の危機意識が伝わってくる。入魂の作品という印象を受けた。この曲が水俣で演じられることは意義深いことだろう。

たが、わたしにはこのストーリーがうまく理解できない。

竜神の娘・不知火[しらぬひ]には、海霊[うみだま]の宮の斎女として久遠の命が与えられているにも拘わらず、生類の定命衰滅に向かえば、不知火の命もこれに殉ずるという。

竜神の息子・常若は父に命じられて生類の世を遍歴し終えた。

姉と弟は海と陸からこの世の水脈を豊かにすることに携わってきたが、この世の初めからあった真水が霊性を徐々に喪い、生類を養う力が衰えて、姉弟共に身毒が極まり、余命わずかとなった。

慕い逢う二人は、息絶え絶えとなりながら、恋路が浜に辿り着く。そして姉のほうは死んだ(弟も?)。

こうした一切を見ているのは、隠亡[おんぼう]の尉[じょう](じつは末世に顕れる菩薩)。

わたしには二人の勤めの内容がよくわからない。人間の罪業が重なったために毒変した海を浚えて浄化するとあるから、いわば濾過装置のような役割を果たしてきたということだろうか? 竜神の子たちの勤めかたにしては、人間の労働臭い。苦役そのものである。

そして、亡き妻を含む竜神一家は、末世の菩薩の秘命の下に働いてきたというのである。

その菩薩の助力もあって不知火は生き返り、二人の結婚を祝うために中国から楽祖(じつは木石の怪にして魍魎の祖)が招かれる。

楽祖が磯の石を手にとって打ち鳴らせば、浜で惨死した猫たち、百獣が神猫となり、胡蝶となり、舞う、橘香る夜となる……海も陸も再生したのだろう。

水俣病問題は産業における人為的ミスに社会的要因が絡んで被害が拡大し、社会問題となった。

その問題を石牟礼氏は現世と来世が重なり合う宇宙空間、悠久の時間の流れの中に直に置こうとしたため、一つの作品として見るとき、整合性のとれない部分が出てきたように思う。

多田富雄新作能全集

脳死(「無明の弁」)、朝鮮人の強制連行(「望恨歌」※最近の検証により、朝鮮人の強制連行はなかったことが判明した―ブログ管理人N)、原爆投下(「原爆忌」「長崎の聖母」)、相対性原理を題材とした能(「一石仙人」)、沖縄戦(「沖縄残月記」)、横浜に因んだ能(「横浜三時空」)、白州正子さんを題材とした能(「花供養」)、(「生死の川――高瀬舟考」)、子供能チャレンジのための能(「蜘蛛族の逆襲――子供能の試み」)。

時事的な題材が多い。構成も文章も端正だが、これらの能は地上界から一歩も出ていないような感じがする。異世界に触れることによる浄化現象は期待できない。

まだざっと読んだだけなので、読み込めばまた違った感想が生まれるのかもしれない。そのときは別の記事にしたい。

ただ、能に関して右も左もわからないわたしのような人間には、参考になる。能舞台を観たあとで購入したのかどうかは覚えていないが、多田富雄 監修『あらすじで読む 名作能50』(世界文化社、2005)を再読している。わかりやすい。

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2019年9月29日 (日)

借りてきた新作能の本、三冊 

最近の過去記事で、わたしは萬子媛をモデルとした作品について、次のようなことを書いた。

歴史小説にするには、何か、そぐわないものがあるのです。
わたしは神秘主義者として萬子媛を通して感じることのできた高雅な現象を書きたいのであって、よくわかりもしない萬子媛の生前のあれやこれやではないのです。
いや、あれやこれやにも興味があるから研究ノートを当ブログにアップし、そのまとめをエッセーとして「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録してきたわけですが、そのノートは、萬子媛の高雅な現象を表現できてこそ存在価値があるのです(エッセーは「萬子媛研究」といったような形にまとめたいと考えます)。
その表現にふさわしい形式は、新作能以外にありえない気がしてきました。

ノートは萬子媛をモデルとした作品が完成するまで、取り続ける予定。前述したように、いずれ「萬子媛研究」のような形にまとめたいと思っている。

ノートには、郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察、また祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話など、慎重に扱わなければならない情報があるので、まとめる作業には日数がかかると思う。

新作能を書きたいなどと大それたことを思い、三冊借りて読んでいるところだが、いや、本当に何だか書けそうな気がしてきた。テーマや雰囲気からすれば、過去に書いた「牡丹」という短編は、新作能にすることができるのではないかと思う。

萬子媛をモデルに、そのイメージ像をシテとする新作能を書きたい思いはあるが、まずは戯曲を、と思っている。逸る気持ちを抑えて、まずは新作能の研究からだ。

借りてきた三冊は以下。

  • 瀬戸内寂聴の新作能 虵 夢浮橋
  • 石牟礼道子全集・不知火 第16巻 〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))
  • 多田富雄新作能全集

瀬戸内寂聴氏を知らない人は少ないだろう。石牟礼道子氏は、2018年にお亡くなりになったが、水俣病を扱った代表作「苦海浄土」でとても有名なかたである。多田富雄氏は免疫学者、文筆家として活躍された。

多田氏の新作能をざっと見ると、脳死、原爆、朝鮮人の強制連行(※最近の検証では強制連行はなかったとされているーブログ管理人N)を扱ったものなど多作なかたである。

力作揃いなのだろうが、わたしが馴染んできた古典の曲とはテーマ自体が違う気がした。

瀬戸内氏の「虵」からまず読んだ。感想は別の記事にします。

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2019年9月17日 (火)

前記事「あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その13」に貼ったツイート「不登校の東大生」に加筆

前記事「あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その13」に「不登校の東大生」のツイートを貼り付けていましたが、コメントを書き込んだので、差し替えました。

コメントをつなげることができると知ったので、つないでみました。ツイッターの登録は2017年ですが、使い始めたのは最近なので、まだ使い慣れません。

書き込んだ拙コメントは以下。

「天皇制は宗教だ!」そうですが、「天皇制」というのはそもそも左翼用語です(1932年にコミンテルンで決定された通称「32年テーゼ」にあった文言を邦訳)。
左翼系「天皇制廃止論」は珍しくもありませんが、東大ブランドを利用するなら、東大の名に恥じない論文を書き、それから動画作成しては。
天皇のありかたを考察すれば、統治者の理想的なありかたとして聖なる不在を説いた老子に行き着かざるをえないとわたしは考えていますが、何にしても、こうした伝統の粋ともいえるテーマを論ずるには、まず膨大な歴史の勉強が必要ですね。宗教の定義も半端ではいけません。

「天皇制は宗教だ!」という文章は、動画の中に貼り付けてありました。

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