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2022年3月31日 (木)

萬子媛の言葉

昨日、「祐徳稲荷神社参詣記(16)」をはてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたのですが、何か足りない気がして、改めて「祐徳開山瑞顔大師行業記」を読んでいました。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)には21の著作が収められています。「祐徳開山瑞顔大師行業記」はそのうちの一編です。

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、文人大名として知られた義理の息子、鍋島直條(1655 - 1705)によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述されたといわれています。

郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料です。

原文は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の1頁分しかありません。現代人にもわかるように編集された文章を読んでいると(これは2頁あります)、かぎ括弧が使われた3箇所のうちの2箇所が萬子媛の言葉となっており、その貴重さが胸に迫ってきました。

萬子媛の二人のお子さんが早逝してしまわれたため、萬子媛は深く悲しみ悼んで、日夜泣き叫ばれました。そして喪が明けました。次の文章が続きます。

一旦慨念、愛為苦本、愛若断時、苦自何而生。况生平承誨和尚。失之今日者、不亦自愧乎。

一旦(あるひ)、慨[なげ]きて(ため息をついて)念[おも]う、「愛は苦の本為[た]り。愛若[も]し断つ時は、苦は何[いず]こ自[よ]り生ぜん。況[いわ]んや(ましてや)生平(日ごろ)誨[おしえ]を和尚に承[う]く。これを今日に失うは、亦[ま]た自ら愧[は]じざらんや」

この文章は萬子媛の心のうちが文学的に描き出されたものかもしれませんが、筆者の直條、あるいは出家している兄の格峯(断橋、鍋島直孝)に対して萬子媛が真情を吐露された言葉なのかもしれません。

ある日、大師(※萬子媛のこと――引用者)はため息をついて、思われました。「愛は苦しみの原因ですものね。愛をもし断つ時は、苦しみはどこから生じるのでしょう。ましてや日ごろ和尚様から教えを受けておりましたのに。これを今日に失うのは、全く自分を恥ずかしいと思わないかといえば、いいえ、思いますとも」

もう1箇所を引用します。ここでは明確に、萬子媛の格峯に対する言葉として書かれています。

大師一日、語吾兄格峰禅師云、念對境起、塵中决不可處也。願栖遅巗壑、以儘餘喘。

大師、一日、吾[わ]が兄(珠龍海の兄弟子)格峯禅師に語りて、云[い]う、「念、境(対象)に対して塵中[じんちゅう](俗世界)に起これば、決して処するべからず。願わくは、巌壑[がんがく]に棲遅[せいち](隠居)し、以[もっ]て余喘[よぜん(のこりの命)を尽さん」

大師がある日、わたしの兄の格峯におっしゃいました。「対象に対する思いが俗世界で起きたなら、決して、それに応じた行動をとってはなりませんね。願いが叶うのであれば、わたくしは岩屋に隠棲して余命を全うするつもりです」

ですが、このときの出家したいという萬子媛の思いは、親戚に反対されて叶いませんでした。見かねた格峯が義理の母の願いを叶えようと、自分の住まいであった祐徳院をお譲りになったのでした。

義理の息子たちに助けられて萬子媛の出家の願いは叶い、萬子媛の小伝も残されたのでした。おなかを痛めた二人のお子さんは亡くされたけれど、それを補って余りある素晴らしい関係を萬子媛は義理の息子たちとの間に築いておられたのです。

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2022年2月20日 (日)

モンタニエ博士の「水は情報を記憶する」という研究内容から連想したブラヴァツキー夫人の文章

モンタニエ博士の「水は情報を記憶する」という研究内容から連想したブラヴァツキー夫人の文章を紹介したいと思います。あくまで、わたしの個人的な連想にすぎません。

神智学に関するわたしの考えには間違っていることも多く混じっていると思いますので、書籍や神智学協会の動画を参考になさってくだされば幸いに思います。

神智学協会ニッポン・ロッジのチャンネルがYouTubeに開設されており、現時点で15本の動画が公開されています。

神智学協会
https://www.youtube.com/channel/UCzZCXhRNoZZ7DkMcIkJpAwQ

わたしが行う引用については、故田中会長に引用の許可を伺い、黙認して貰っていたという経緯があります。はい、あくまで 黙認 にすぎないものです。

田中恵美子先生とジェフ・クラークさんの翻訳はすばらしく、ここで日本語の神智学用語が確立されたといってもいいでしょう。

その貴重な邦訳書から引用させていただくことは畏れ多いことですが、現代科学とリンク……といわないまでも連想させられる内容については、わたしのような未熟な者でも発信しないことには、知られないままで終わってしまうのでは……という懸念を覚えるのです。

一方では、ブラヴァツキー夫人が述べてもいない荒唐無稽な思想が夫人と関係があるかのようにあまりにも堂々と横行しており、この傾向にささやかにでも対抗するには、夫人の香気ある、なまの論文を読んでいただくのが一番だと考えました。

わたしの考えが間違っていたとしても、たとえ引用という形であれ夫人の論文の断片が存在すれば、それを読んでいただき、読まれたかたが邦訳書や原書を追跡なさることによって正しく判断していただくことが可能となります。

本当は、大学のような研究機関において高度な研究がなされるべきです。ブラヴァツキー夫人の文章は一般人には難解ですし、夫人の論文内容をまともに研究するには、強靱な知性と美しい心、そして膨大な資料(資金)が必要でしょうから。

その間に合わせのような、おかしなことを、わたしのような無知なおばさんがするべきではないことは重々承知の上ですが、どなたもあまりしてくださるふうではないので、わたしがあくまで個人的なメモとして書くしかないという事情をわかっていただきたいと思います。

サイト「ブラヴァツキー研究センター」はブラヴァツキー情報の宝庫です。

Blavatsky Study Center
https://blavatskyarchives.com/

以下の動画では、ここの資料へリンクさせていただいています。

「原子の無限の分割性」とブラヴァツキー夫人は言う
2020/10/23
https://youtu.be/c54EEOWPngo

ところで、新型コロナワクチンに警鐘を鳴らし続けたフランスのウイルス学者リュック・アントワーヌ・モンタニエ博士(Luc Antoine Montagnier,1932年8月18日 - 2022年2月8日)の急逝について、以下の記事で採り上げました。

2022年2月13日 (日)
モンタニエ博士の急逝。世界では薄れてきたワクチン信仰、それなのに日本ではガンガン打っている理由。危険なロット番号。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-d3e0ba.html

よく引用させていただくインディープさんの記事を閲覧していました。

興味の方向性が似ているなあと思って閲覧させていただいていると、時々、シュタイナーの著作からの引用に出合います。ああそうか、やはり方向性が似ているんだと思いました。

新型コロナが流行するようになって、インディープさんの記事を閲覧する医学の専門家が増えたようです。そのかたがたのツイートに引用があるのです。原文に当たって、きちんと紹介されているので、専門性が高いインディープさんのサイトです。

In Deep
https://indeep.jp/

ウイルス学者として知られるモンタニエ博士が光学生物物理学というジャンルにも偉大な足跡を残されたことを、インディープさんの以下の記事で知りました。

「生体の光」「水の記憶」「DNA」で人間の多くの病気を治癒する技術をほぼ完成していた矢先のモンタニエ博士の死。その「光学生物物理学」の歴史
投稿日:2022年2月19日
https://indeep.jp/dr-montagnier-s-revolutions-in-optical-biophysics/

インディープさんの記事によると、モンタニエ博士は、実験によって次のようなことを立証しました。

  • DNA の情報は、電磁波として水に転写される
  • 水はその DNA の情報を(DNAが消えた状態でも)記憶する
  • そして、その水に転写された DNA の情報は(そこに何もないのに)元の DNA と同じ電磁波信号を発し、(そこには何もなかったのに)DNAが検出された

また、同様の研究をしているかたの論文の抄録を読みました。そこには次のようなことが書かれていました。

水の情報記憶について
Memory of Water
根本 泰行
https://ci.nii.ac.jp/naid/130005253316

…(前略)…従来科学においては、「水の情報記憶」について、なかなか認められず、結果として「『水からの伝言』は非科学的である」との批判を受けてきた。ところが過去10年ほどの間に、世界のトップレベルの科学者たちから、「水は情報を記憶する」ということを示唆する証拠が提示されてきている。 ワシントン大学のジェラルド・ポラック博士は、水には固体・液体・気体の他に、「第四の水の相」とでも呼ぶべき特殊な「相」があることを発見した。そして博士は「『第四の水の相』を考慮すると、『水からの伝言』で示されている現象を初めて科学的に説明できる可能性がある」という趣旨の発言をしている。その理由として、博士は以下の2つ―すなわち「水が凍る時、水は必ず『第四の水の相』を通過する」ということと、「『第四の水の相』は、水分子がランダムに動いている従来の液体の水のイメージと異なり、極めて秩序正しい形になっているので、実際に情報を記憶する能力を持っている可能性がある」ということ―を挙げている。…(後略)…

こうした分野の研究全体については、わたしにはちんぷんかんぷんです。

そういえば、息子が大学、修士、博士課程を通して――社会人ドクターとして頑張りましたが、卒論の仕上げにかける時間がとれず中退しました――師事していた教授は水の研究で世界的に有名なかたですが、こうした研究とは全く異なる方面の研究なのでしょうか?

いずれにせよ、わたしには難解なのですが、前掲二つの記述からブラヴァツキー夫人の次の文章を連想せずにはいられませんでした。1831年に生まれたブラヴァツキー夫人は1891年――和暦では明治24年――に亡くなっていますから、現代の科学用語を駆使するわけにはいかなかったことを頭に置いて読んでいただきたいと思います。

氷は素晴らしい魔法使いであり、エーテルと同じように、その性質がほとんど知られていません。それはアストラル光とオカルト的な関係があり、ある状態の下で目に見えないアストラル領域からあるイメージを反射することもあります。ちょうど光と感光板は望遠鏡でさえも見えない星を反射することができるのと同じようなことです。…(略)…とにかく氷は光の或る状況の下でその表面に印象づけられたもののイメージを保存する特性が確かにあり、溶けるまでそのイメージを目に見えぬままで守ります。高質の鋼も同じ特性をもっていますが、氷ほどオカルト的な性質ではありません。氷を表面から見たら、これらのイメージは見えないでしょう。しかし、熱で氷を分解させて、そこに印象づけられていた力やものを扱うようになると、氷は印象づけられていたイメージを投げ出し、その形が現れるのを観察できます。それは別の環に至る一つの環にしかすぎません。もちろんこれはすべて近代科学ではありませんが、それでも事実であり、真実です。
(H・P・ブラヴァツキー著、田中恵美子&ジェフ・クラーク訳『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ、1989、「議事録」729頁)

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2022年2月 2日 (水)

祐徳院について、新発見あり。尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです。

今日もブログを書く時間が思うように取れず、イベルメクチン、ワクチン関係の記事も書けていないのですが、昨夜、祐徳院関係の考察で新発見がありましたので、とりあえずメモしておきます。

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは昨日の記事で次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年2月 1日 (火)
祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-54e709.html

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、以下の過去記事では次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年1月17日 (月)
萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/01/post-51f4bc.html

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。前掲記事ではうっかりして禪を禅と書きましたが、禪という旧字体が使われています。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禅尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禅尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

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2022年1月19日 (水)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。(1月24日に加筆訂正、赤字)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。

昨年12月に愛川様から衝撃的な内容のメールを頂戴したことは、以下の記事に書いています。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

届いたばかりの書類に関しては、まだお礼のメールも出していないので、ざっとご報告しておきます。

引用させていただきたい箇所を特定してから、今日中にはお礼のメールをしようと考えています。

永久保存と書かれた文書中、無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

このような貴重な文書から断片的な引用が許されるのかどうかわかりませんが、お尋ねしてみたいと思います。

「鹿島藤津郡医会師よりコピー(原文ママ)」と手書きメモのある資料には、「愛川伯斉」の紹介に「三代藩主直朝に仕えた愛川伯順以来の藩医の家である」とあります。※1月22日に拝受したメール、24日にいただいたお電話でも確認しましたが、「鹿島藤津医会史」とご訂正ください、とのことでした。

愛川様のメモによると、愛川の名は『鹿島藩日記』『鹿島役所日記』『鹿島市史、中巻』『医業免礼制度』に出てくるそうです。

『鹿島藩日記』には、二巻、四巻、五巻に出てくるとあり、何頁に出てくるかもメモして下さっているので、わたしが持っている二巻をさっそく見たところ、興味深い日記の内容でした(わたしが購入したのは一巻と二巻です)。

愛川様の御先祖、愛川伯準(『鹿島藤津医会史』では伯順となっています)というお名前が出て来るのは、『鹿島藩日記 第二巻』所収「日々萬控帳 宝永二年乙酉ノ六月五日ヨリ 同三年戌九月四日迄」中、宝永二年七月十五日の日記(p.527)です。

切腹しかけた人があり、そこに派遣されたお医者様のうちのお一人が愛川伯準でした。「薬こう薬等」で治療されたようです。この箇所はノートにまとめるときに引用します。

確か、日本で初めて殉死禁止令を出したのは、佐賀藩主の鍋島光茂公ではなかったかと思います。

2014年5月13日 (火)
初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2014/05/272-bfac.html

田中耕作『初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども』(佐賀新聞社、2000)によると、この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

何にせよ、このとき愛川伯準が手当てをなさった与兵衛という人は、法を犯して殉死しようとしたのですね。いや、殉死のために切腹を意図したとは限りません。何のために切腹しようとしたのでしょうか?

その経緯についても詳しく書かれているようですが、素人のわたしの読解力では内容を理解するのに時間がかかります。

鹿島藤津医会史』に「元禄十三年(1700)四月十三日の鹿島請役日記より」と書かれた引用箇所及び解説を見ると、萬子媛と同じ頃に亡くなられた鍋島直條公のご病気が何であったのかがわかります。腹部に腫瘍のある疾患だったようです。

直條公は5年後に江戸で亡くなっていますから、5年以上、腹部の悪性腫瘍に悩まされていたことになります。病身に鞭打って鹿島鍋島藩主としての仕事を続けていられたのでしょう。

この鹿島請役日記は『鹿島藩日記 第一巻』で見た記憶があったので、開いて見ると、やはり収録されていました(『鹿島藤津医会史』の引用に該当するのはpp.502-503)。

ここではお名前が「白順」とあり(水川)とありますが、これは愛川伯順(あるいは伯準)でしょう。

昔の文書には当て字が多く、素人は面食らうことがしばしばです。

鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われた愛川春碩というかたに関する資料も大変貴重です。その御子孫の愛川様にぜひ作品としてまとめていただきたいです。

昨年の12月下旬、愛川様にお電話する前の検索で、愛川様が古代史研究家で邪馬台国に関する研究をなさっていることがわかりました。講師もなさっているようです。お電話したときにそのお話もしたので、邪馬台国に関する作品のコピーも送って下さいました。

沢山の贈り物に驚くばかりですが、とりあえず、お尋ねしたいことをまとめて、早くお礼のメールをしなくては……

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2022年1月17日 (月)

萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)

らくがきメモ9に加えておきたいことが2件出てきました。

前記事同様にノートのためのノートというまどろこしさですが、いきなりノートとして書くには引用したり参照したり整理したりといったことに時間がかかるので、こうなってしまいます。主婦は物書きとしては恵まれた立場ですが、ただ休日というものがなく、まとまった時間のとれないのが難点です。

2017年に佐賀大学地域学歴史文化研究センターから購入した井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)を改めて見ていると、21番目の資料として、「普明寺禅寺過去帖」がこの資料集の最後を飾っていることに気づきました。

郷土史家の迎昭典先生から貴重な資料を沢山送っていただいており、購入した時点では、ある程度の整理はついていました。

佐賀県鹿島市大字古枝字久保山にある普明寺は黄檗宗の寺院で、鍋島直朝公の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳性幢が開山となって創建されました。以後、鹿島鍋島家の菩提寺となります。祐徳院は普明寺の子院でした。

普明寺を見学したときのことは、以下のエッセーに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

断橋は義理の母である萬子媛に祐徳院を譲って、ご自分は普明寺に移られたのでした。普明寺は祐徳稲荷神社にほど近い場所にあります。

といっても、整備された今の道路を車で行くから近く感じられるのであって、当時の道路事情はどうだったのでしょう?

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

前掲エッセーで、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)の中の宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記を引用しているのですが、その記述の中で蘭契という人物が祐徳院は山中にあると述べておられます。

当時は、奥深い山の中を歩いて行き来するという感じだったのでしょうか?

蘭契という尼僧が萬子媛の後継となって祐徳院の庵主となった人物ではないか――と憶測していたところ、御先祖様が第二代庵主を勤められたという愛川様からメールを頂戴し、電話してお話を伺ったのでした。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

第二代庵主の出家前の姓は愛川、出家後は「無著庵慧泉宲源」だそうです(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。フォントによってこの漢字は表示されたり文字化けしたりします)。尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。

そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に登場する蘭契というかたかどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われました。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでしたから。

鹿島市民図書館の学芸員は、祐徳院のその後について、以下のエッセーで採り上げた電話取材で、次のようにおっしゃいました。

88 祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/07/205602

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

この電話取材以前に、わたしは『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収の「普明禅寺過去帖」にざっと目を通していたはずでしたが、そのときは学芸員がこの過去帖を根拠として、祐徳院というお寺の歴史を推測なさっていることに気づきませんでした。学芸員は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の著者のお一人なのですから、著作の内容にお詳しくて当然なのです。

今回『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」を再読して、注目した箇所を引用します。

  寶永 宝永八年改元正徳 (※引用者註 最初の宝永のホウは旧字体)

……(略)……

祐徳院殿瑞顔實麟大師
  二年四月十日 直朝公後室開山和尚剃度為尼改正六月一日 前左大臣定好卿娘塔於祐徳院万子(p.179)

……(略)……

祐徳院前住入祠堂(後補)(※引用者註 玄の次の漢字は、うかんむりに呆)
絶玄宲仙禅師 五年十二月十七日
  天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始(p.181)
……(略)……

  寛政 十三年改元享和

 宝石二代 桃洲源和尚 七年七月四日
            初住大興後迁化祐徳院塔当山
(p.193 ※引用者註 「宝石二代」は小さな字で宝石と二代が二行に分けて書かれています。初住大興後の次の漢字は「千」にしんにょう)

……(略)……

祐徳九代
 前監西洲玄璨和尚 十一年七月廿二日
(p.193 ※引用者註 玄の次の漢字はおうへんに粲[サン])

このように普明寺の過去帖に、子院である祐徳院に関する記述があるのです。素人のわたしにはうまく解読できませんが、学芸員がおっしゃったように祐徳院は推移したのではないかと思います。

「天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始」とあります。「後補」は「後世の補修」という意味で使われるようですから、天明七年五月二日にその加筆が行われたということでしょうか。

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

鍋島直朝公の後継として藩主となった文学肌の直條公が『祐徳開山瑞顔大師行業記』(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収)を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかったでしょう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだといわれています。その直條公も萬子媛と同じ頃(宝永二年四月三十日(5月22日))亡くなったわけですが、少なくとも『祐徳開山瑞顔大師行業記』著述時までは、「尼十数輩」が祐徳院で修行なさっていたのです。

二代庵主の庵主としての期間は短かったかもしれませんが、萬子媛とおそらく一緒に出家されて、それから20数年、技芸の神様として祀られるような勤めを果たされて亡くなったのでしょう。

萬子媛が62歳で出家し、80歳で亡くなったことから考えると、萬子媛の降嫁の際に京都から付き添ってきた従事者がそう何人も残っておられたとは考えにくく、尼寺だったときの祐徳院には地元の女性も尼僧として在籍し、修行しておられたのかもしれないとわたしは考えています。

そして、二代目が亡くなった後、三代目になれるような女性は残念ながらおられなかったのではないでしょうか。

萬子媛が亡くなってから九代が亡くなるまでに、94年経過しています。

とんでもない間違ったことを書いているかもしれません。素人芸ですので、参考にはなさらないでください。

普明寺の過去帖は昭和まで記述があります。

愛川様は祐徳院に関する資料をまとめてくださっているようです。大変な作業でしょうね。それによって、何かわかることがあるかもしれません。

もう一つわかったことがあります。萬子媛が鹿島鍋島家に降嫁された背景に藤原氏という共通するカラーがあったのではないかということです。

萬子媛は、鍋島直朝公の継室として京都から嫁がれました。正室は1660年に32歳で亡くなった彦千代(寿性院)というかたでした。彦千代の母は龍造寺政家の娘だったそうです。

ふと、龍造寺氏の出自はどのようなものだったのだろうと思い、ウィキを見ると、諸説あるようですが、藤原北家と関係があるようです。

萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たる公家です。

鍋島氏の出自にも諸説あり、藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられるとウィキにあります。

龍造寺氏は少弐氏を破り、鍋島氏に敗れたわけですが、少弐氏は藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族だということですから、何だか藤原色が濃い中での争いだったのですね。

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2021年12月24日 (金)

祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました

福岡にお住まいの愛川順一様から伺ったお話を、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただきましたので、メモのまとめとしてのエッセーを公開するのは年明けになるかと思いますが、まだ興奮冷めやらぬ中で、ご報告だけしておきます。

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

このような貴重な内容のメールを頂戴しておきながら、メールフォームの新着表示に気づかず、10日ほども放置していました。

わたしのようなずぶの素人がこのような申し出を受けていいのだろうか、と畏れ多いことに思いました。でも、おそらく祐徳院の第一代庵主[あんじゅ]であった萬子媛とその後継として第二代庵主を勤められた愛川様の御先祖様のお計らいだろうと考え、取る物も取り敢えず、返信しました。

お目にかかってお話を伺いたいと思いましたが、娘の勤務する病院ではコロナ対策としての県外への移動の縛りが解けておらず、決して強制というわけではありませんが、その対策はやんわりと家族にも及びます。

わたしはイベルメクチンで予防しているので、移す心配も移される心配もないと思っていますが、とりあえず、電話でお話を伺うことになりました。コロナ対策の縛りが解けたら、ぜひお会いしたいと思っています。岩本社に祀られている神様の御子孫ですよ、胸が高鳴るではありませんか。

わたしは尼寺としての祐徳院や岩本社に祀られているかたに思いをめぐらせ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に以下のエッセーを書きました。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

萬子媛亡き後、尼寺としての祐徳院がどうなったのか、知りたくてたまりませんでした。その答えは、愛川様のお話から半分ほどは得られたように思います。

第二代庵主の出家前の姓は愛川、戒名は「無著庵慧泉宲源」だそうです。※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。

尼寺としての祐徳院が第二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に記述のある蘭契という尼僧かどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われます。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでした。

鹿島市民図書館の学芸員がおっしゃっていたように、その後は男性僧侶の修行の場として続いたのかもしれません。いつまで続いたのでしょう? 廃仏毀釈まででしょうか。

萬子媛は花山院家のお生まれですが、後陽成天皇の第3皇女であった清子内親王(1593-1674)の養女となっています。

清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号しました。清子内親王は28歳で未亡人となっています。萬子媛誕生のとき、大鑑院は32歳でした。大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とし、82歳で亡くなりました。

萬子媛が育った鷹司[たかつかさ]家は、藤原北家嫡流近衛家の分流で公家の五摂家の一つですから、最高クラスの貴族の家柄です。愛川様の御先祖様はその家で萬子媛に仕え、降嫁に伴い鹿島に一緒に来られたのでしょう。萬子媛の結婚は37歳のときです。祐徳院で萬子媛の後継を勤められたのですから、萬子媛より若かったのでしょうね。

そして、京都の愛川家から萬子媛の降嫁に付き添ってきたのは、第二代庵主になられた女性だけではなく、他にもおられたとのことです。

萬子媛は寛永二年(1625年)に生まれ、宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)入定なさっていますが、鹿島史の1700年に、愛川という名が近従として出てくるそうです。このかたは男性で、愛川家は代々医者の家系だそうですから、萬子媛近く仕えたこのかたはお医者様であった可能性が高いように思われます。

亡き母のお友達にキクヨさんというかたがいらして、そのかたのお家――中野家は代々鹿島鍋島家の御殿医でした。

87 祐徳稲荷神社参詣記 (8)鹿島鍋島家の御殿医
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/10/14/042302

数名のお医者様に看取られて、萬子媛は亡くなったのでしょう。

89 祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/22/004109

愛川春碩というかたは、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にしたのだそうです。このかたはこの事業を行うために鹿島を離れ、佐賀へ。愛川家が福岡に移住したのは明治維新後のことだそうです。

愛川家と祐徳院とのつながりは、戦後まであったのだとか。

愛川氏、鍋島氏、祐徳院の三者が集い、お祭りが行われていたといいます。これは、祐徳稲荷神社で行われているお祭りとは異なるものであるようです。諸々の事情があって、現在、愛川家は祐徳院との縁が切れた形となってしまい、平成13年にお亡くなりになった愛川太朗氏が祐徳院に関するメモを残されたとか。

そのメモのコピーを送ってくださるそうです。

廃仏毀釈の影響もあるのかもわかりませんが、愛川氏のお話では、昭和24年の祐徳院の火災で、祐徳院に関する貴重な史料の失われた可能性が高いです。田中保善氏の御著書『鹿島市史真実の記録』にも、祐徳稲荷神社の火災は出てきます。

以上、ざっとしたご報告で、間違いがあるかもしれません。年明けに、きちんとしたエッセーにする予定です。

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2021年12月14日 (火)

大分トリニータ、天皇杯決勝戦進出。札付き巨大製薬会社ファイザー、アストラゼネカの10年前の行状。「ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する」を再公開。

コロナ禍の影響など、色々あって、J2降格が決まっている大分トリニータですが、12日に行われたサッカー天皇杯の準決勝で守りに徹して延長戦に持ち込み、延長戦では互角の戦いとなってPK戦へともつれ込んだ末、何と川崎フロンターレを下して初の決勝進出を決めました。

片野坂監督、素敵です。還暦過ぎのわたしはすっかり高校生くらいの気持ちになって、片野坂監督の姿を追い求めながらテレビ観戦しました。片野坂監督、大分トリニータ監督を辞めないで!

これ、亀記事もいいところですね。この記事は大分トリニータの決勝進出の直後にアップするつもりだったのですが、ネット接続が不安定で、原因究明に追わていました。

でも、まだ解決していません。今はたまたま調子がいいだけでしょうね。

原因は、レンタルしているモデム(ONU)の経年劣化だと思うので、交換してほしいのですが、すんなり交換して貰えるのかどうか。

とりあえずフレッツ光西日本の故障時サポート(録音受付)に夫が昨日の午前中に電話し、午後3時になっても電話がかかってこなかったので、再度、用件を録音したにもかかわらず、今に至るまで応答なし。以前も何かの問い合わせで、なかなかつながらず、困ったことがありましたっけ。

BUFFALOのWi-Fiルーターも買い替え時だとは思っていますが、あれこれやってみたところではやはり、モデム。7~10年程度で寿命らしく、それからすると、うちのは寿命を越えた長寿モデムとなっております。

話題は執筆関係に移りますが、現在、図書館から借りたユング関係の著作を数冊借りて精読しています。その中でもリチャード・ノル(老松克博訳)『ユングという名の〈神〉―秘められた生と教義』(新曜社、1999)は封印されてきたユングの一面を生々しく伝える貴重な著作内容で、この本が邦訳されたことの意義は大きいと思われます。

そう思うだけに、前に借りたときのようにざっと読んだだけではいけない、精読しなければと思い、読んでいるのですが、以下の冒頭部分からしてわたしは脱力し、読書が進みません。

チューリヒ湖の上流側の岸辺、ボーリンゲンの閑静な地にユングの「塔」として知られる石造りの建物があり、今でも巡礼のように訪れる人が絶えない。1923年、ユングはそこにささやかで素朴な隠れ家を建てはじめた。ひとりきりで過ごす円い器としてである。後年それは増築されて塔になり、聖域となった。彼はそこで、みずからの経験したヴィジョンを壁に描いたり、石に刻んで保存したりすることができた。それはまた、性の空間、異教的な背徳の祭壇にもなっていた。ユングはキュスナハトの妻や家族、あるいはチューリヒの弟子たちから離れ、深い仲であったトニー・ヴォルフと思う存分享楽の時を過ごした。(ノル,老松訳、1999,p.3)

「何やっとるんだね、チミは?」といいたくなります。

ユングの行為が単にプライベートなものだとするなら、どうでもいい話ですけれど(趣味の塔づくりをしようが何しようが)、ユングの解釈による異教的意味づけをした上での行為であれは、それは神秘主義とは真逆の何かです。その真逆の何かと心霊主義を一緒にして、ユングは心理学に持ち込んだわけです。

聖域にカーマ(欲望)を持ち込むなど、神秘主義ではありえないことですけれど、ユングの「聖域」にはヴィジョンを通して出逢ったユングの導師フィレモン(ヘレニズム時代からやって来た超個人的実体で、長く白い髭と翡翠の翼を持つ老人)が描かれているとか。

老人の奇怪な姿は、カーマ・ローカの幽霊がユングの好みに合わせた扮装でしょうか。どことなく子供じみた「超個人的実体」ですね。

「マダムNの神秘主義的エッセー」で一旦公開し、その後非公開設定したエッセーは、とりあえず、そのまま再公開しました。

2021-11-23
113 ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2021/11/23/030326

目次

  1. 神秘主義=心霊主義ではない
  2. 前世療法やオーラ診断が連想させる、眠れる予言者エドガー・ケーシー
  3. ヨガ行者パラマンサ・ヨガナンダと前世療法における「前世の記憶」の様態の決定的違い
  4. 降霊術のとりこだったユングの影響
  5. 2021年11月25日における追記: 心理クラブの影響を受けたヘッセ、神智学及び人智学の影響を受けたカロッサ
  6. 2021年11月30日における追記: ヘッセの代表作『デミアン』に登場するアプラクサスとイルミナティの神、そしてユングの神々

今後ユングについて書きたいことが出てきたときは、別のエッセーにします。

ところで、積ん読の山を何気なく眺めていたら、内海聡『精神科は今日も、やりたい放題 ―医者が教える、過激ながらも大切な話―』(PHP文庫 - ‎ PHP研究所、2018) が目に留まりました。

ワクチン懸念派のツイートで、そのお名前をたびたび見たことがあったからです。

娘は書店員時代に内海氏の著作を数冊、内容確認のためにざっと読んだことがあったといいました。悪い読後感ではなかったようでした。

昨日読んだわたしには、全編通して共鳴できる内容でした。それについては、当記事では触れません。プロフィール欄に、この作品は「2012年4月」に刊行されたものを再編集したものとありました。10年近く前の作品なのですね。

この本に、新型コロナウイルスワクチンで馴染み深い製薬会社となったファイザー社、アストラゼネカ社が出てきます。

アストラゼネカ社は、「今やドル箱となった抗精神薬の違法な市場拡大に対する連邦の捜査で、金銭の支払いを行った巨大製薬企業は、過去3年間でアストラゼネカ社が4社目となる。ロンドンに拠点を置く同社は、『セロクエル』に都合のよい研究データだけを誇張し、リスクを適切に開示せず、医師や患者を欺いたとして告訴もされている。現在もアストラゼネカ社は、薬剤のリスクを開示しなかったとして2万5000件に上る患者側からの民事訴訟を抱えている」(内海,2018,p.66-67)

ファイザー社については、デッチアゲ研究が紹介されています。「捜査機関が発表したところによると、ファイザー社が販売する「ガバペンチン」(てんかん薬)のマーケットの拡大に不都合な研究結果の揉み消しや改竄を同社が行っていたことを示す社内文書が見つかり、製薬会社でどのように科学研究の操作が行われているかを知る機会を提供する結果となった」(内海,2018,p.92-93)

札付きの巨大製薬会社のワクチンを高い値段で膨大な量、買わされた日本政府。「日本は世界における抗精神薬の在庫処分場と化しており、たとえば、ベンソジアゼピン系(安定剤、睡眠薬として用いられる種類)でみれば、どの国と比べても世界一の精神薬消費国となっている」(内海,2018,p.68)と書かれています。日本がワクチンの在庫処分場となっているというツイートを目にしたことを思い出しました。さもありなん、です。

 

カテゴリー「新型コロナ対策: イベルメクチン」記事一覧

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2021年11月30日 (火)

リチャード・ノル『ユングという名の〈神〉』を読んでいるところ

リチャード・ノル(老松克博訳)『ユングという名の「神」―秘められた生と教義』 (新曜社、1999)を読んでいるところだ。

ユングは降霊術を信奉し、カーマ・ローカの夥しいアストラル幻影に振り回されていたようにわたしには思えるが、本人が真面目だったのか、遊び(興味)半分だったのか、わたしには判断しかねる。

神秘主義の象徴的な用語が、バーゲンセールに出たように散りばめられたユングの著作。そのユングを描いたノルの著作も、肝心のところがぼかされたまま、次の話題に慌ただしく移ってしまうので、前に図書館から借りてざっと目を通しただけだったときのように、今回も大事な箇所をうっかり読み飛ばしてしまいそうだ。

この本には、フリーメーソンもイルミナティもアブラクサスも出てくるが、ユングがそれらに興味を持ったということしかわからず、フリーメーソンだったのか、イルミナティだったのかも不明である(読み落としたのだろうか?)。

ゲーテに関しては、はっきりとしたことが書かれている。ゲーテは――イルミナティにのっとられてしまっていたと思われる――フリーメーソン・アマリア集会所の会員になりマスターになった。そして、イルミナティの高位の内部集団に入るところまで登りつめている。

しかしゲーテはフリーメーソン(イルミナティ)に幻滅したらしい。「その集団には、実はもっと卑しい金銭的な動機が働いていたのだ」(ノル,老松訳,1999,p.25)

フリーメーソンは各集会所によって、やっていることに違いがあり、またイルミナティがフリーメーソンという巨大な――ある意味ではまとまりを欠いた――組織全体に浸透していたとは思えないのだが、集会所がフリーメーソン的にはもぬけの殻となってしまっていて、代わりにそこに居座ったイルミナティにはお金が大好きなロスチャイルド家の息がかかっていたのだから、ゲーテの幻滅も当然のことだっただろう。

アブラクサスはただの短い説明に終わっていて、イルミナティの神なのかどうか、ここからは全く読みとれない。

そして、この本を今読んでいても、わたしがエッセー 91「C・G・ユングの恣意的な方法論と伝統的な神秘主義」で述べたような印象は変わらない。ユングは神秘主義に強い興味があったとしても、あくまで傍観的、趣味的、剽窃的、誇大妄想的であり、降霊術に対する熱心な姿勢から、心霊主義者だったとしか思えない。

神秘主義=心霊主義ではないのである。両者は両立しない。この基本的なことさえ、ユングにはわかっていなかったとしか思えない。霊媒は、神秘主義の前庭までしか行けない。ユングの凄まじい幻覚や勝手な意味づけ自体が、彼が神秘主義者ではなかったことを示している。

広場恐怖症だったロックフェラー家の女性エディスが夫ハロルド共々ユングの分析にはまったのだが(広場恐怖症は治らず、のちにハロルドとは離婚した)、それに対するジョン・D・ロックフェラーの懸念が如何にもまともに思える。

ロックフェラーはそこで懸念を表明していたのだ。分析は「布教」の一形態であって、ハロルドとエディスはいい加減な宗教的カルトに捕まったのではないか、と。そういうロックフェラー自身は浸礼派のキリスト教徒であり、今ではハロルド、エディス両者が非キリスト教的な熱狂を見せているように思われて落ち着かなかった。(ノル,老松訳,1999,p.362)

宗教と呼ぶには何やら騒々しく、中身が空疎すぎるので、「いい加減な宗教的カルト」という表現は秀逸である。

6回もの心臓移植を受けて101歳で亡くなったジョン・D・ロックフェラーの孫のデイヴィッド・ロックフェラーも敬虔なクリスチャンだったということだが、デイヴィッドがそうだったとは到底信じられない。

小木曽由佳『ユングとジェイムズ ――個と普遍をめぐる探求――』(創元社、2014)、他2冊、ユング関係の本を借りた。

エッセー「ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する」の再公開にはもう少し時間がかかりそうだ。

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2021年11月28日 (日)

ヘッセの代表作「デミアン」に登場するアプラクサスとイルミナティの神、そしてユングの神々

「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開した「ワイス博士の前世療法の問題点について、神秘主義的観点から考察する」という記事にちょっと加筆するつもりが(一旦この記事は閉じている)、とんだことになってしまった! 不気味な闇の中を彷徨っていたような数日間だった。

ワイス博士の前世療法には分析心理学を創始したユングの影響が当然あるはずで、そのユングが降霊術のとりこだったことはリチャード・ノル(老松克博訳)『ユングという名の「神」―秘められた生と教義』 (新曜社、1999)で知った。

ユングは若い頃から降霊術に熱中しており、生涯にわたって、降霊術に出現する死者の国の霊や神々に相談し、それを他人にも相談するよう教えたというのである。(ノル,老松訳、1999,p.37)

ユングがロックフェラー家の助力で設立した心理学クラブを訪れていたヘッセ。

わたしは前記事で採り上げたヘッセの代表作「デミアン」に出てくるアプラクサスが気になった。「神的なものと悪魔的なものを結合する象徴的な使命を持つ」神として、アプラクサスは登場する。

家にあるジョン・R・ヒネルズ編(佐藤正英監訳)『世界宗教事典』(青土社、1991)にアプラクサスの項目はなかった。あれこれ調べたが、家にあるものからは出て来なかった。コトバンクに解説があった。

ヘレニズム時代に,アレクサンドリアを中心にして,一部の人たちが最高神を呼ぶときに使った名称。しばしば鶏の頭をもち,右手に盾,左手にむちをかざし,両足が蛇で,4頭立ての馬車に乗った姿であらわされている。鶏は予見と用心深さを意味する鳥であり,盾は知恵,むちは力を意味し,2匹の蛇であるヌースとロゴス,すなわち霊性と理解とに支えられ,宇宙の四つの方向をめぐって支配する神とされる。ABRAXASの7文字は,七つの光,または数理的に365を意味し,紀元2世紀のアレクサンドリアに在住したグノーシス派のバシレイデスBasileidēsによれば,この宇宙は365の層をなす天によって構成され,その最下層の神がアブラクサスであって,地球や人類を創りだし,七つの属性によってこの世を支配している。

平凡社. “世界大百科事典 第2版「アブラクサス」の解説: アブラクサス【Abraxas[ギリシア]】”. コトバンク. https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B9-1143525, (参照 2021-11-27).

ウィキペディアには次のようなことが書かれている(出典が書かれていない)。

アブラクサスはエジプト神話においてイシスの眷属だったらしく、さらにペルシア起源のミトラ神信仰とも関係があったが、この宗教はローマにおいて、はじめの400年間、キリスト教の最大の対抗勢力であった。……(略)……アブラクサスは物質界を創造し、悪魔的な性質を持つ旧約聖書の神(実際は創造された存在で、高位のアイオーンであるソフィアの息子)に同化していった。
中世には、アブラクサスは正統派のキリスト教によってデーモンとみなされ、崇拝者は異端とされた。

関連項目
・イルミナティ

ウィキペディアの執筆者. “アブラクサス”. ウィキペディア日本語版. 2021-03-18. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B9&oldid=82510531, (参照 2021-11-28).

「イルミナティ アブラクサス」で検索すると、「バーバリアン・イルミナティ: イルミナティに罪をなすりつけてきた黒魔術団」という記事がヒットした。

バヴァリアン・イルミナティ(Bavarian Illuminati)の7位階の人々によって運営されている、正真正銘のイルミナティの啓蒙サイト「啓明:「秘密の宗教-神になるには(Illumination: the Secret Religion - How to become God)」から、翻訳紹介した文章のある「バーバリアン・イルミナティ: イルミナティに罪をなすりつけてきた黒魔術団」という記事だった。

その記事に「アブラクサス」という記述があったのである。「プロローグ全文翻訳」からその箇所を引用させていただく。

私たちはイルミナティです。

私たちは、真の神のメッセンジャーです。

私たちの神聖な任務は、人類と神の神々しい本質との間には、もはや少しの差異もない、という本当の神との全体的合一の中に、人類を導くことです。

どのようにして、このことが達成できるのかは、アインシュタインの相対性理論と量子力学の理論を使うことによって、はっきり見ることができるのです。
もう、人類は、しっかり目を見開いて、この神聖な光を見るべき時なのです。

私たちの宗教は、イルミネーション(Illumination=啓明)と呼ばれています。
私たちは、この無知で開かれていない世界に、真の神、アブラクサス(Abraxas)の光を当てるために影の世界から出てきた者です。
すべての人たちに、啓明の光、覚醒の光をもたらすために。

大谷弘仁. “バーバリアン・イルミナティ: イルミナティに罪をなすりつけてきた黒魔術団”. 備忘録ノート. http://bibourokunote.blogspot.com/2011/06/blog-post_14.html, (参照 2021-11-26).

アブラクサスが「真の神」と呼ばれている。そして、イルミナティのグランド・マスターだったアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)の紹介の後に、以下のユングの言葉が引用されているのである。

「私が15歳のとき、聖杯伝説を読んで以来、それは私にとって、もっとも重要なことになったのである。聖杯伝説の背後には、大いなる秘密が隠されていることを感じ取ったからである」  カール・ユング

同上 (参照 2021-11-26).

前掲「プロローグ全文翻訳」にはグランド・マスターの名前も挙げられている。

イルミナティのもっとも有力なグランド・マスターは以下のとおりです。
・背教者ソロモン王(King Solomon the Apostate)
・ピタゴラス(Pythagoras)
・ヘラクレイトス(Heraclitus)
・エンペドクレス(Empedocles)
・シモン・マグス(Simon Magus)
・ヒュパティア(Hypatia)
・ライプニッツ(Leibniz)
・アダム・ヴァイスハウプト( Adam Weishaupt)
・ゲーテ(Goethe)
・ヘーゲル(Hegel)
以上の10人です。

同上 (参照 2021-11-26).

アダム・ヴァイスハウプト(1748 - 1830)以降のゲーテ(1749 - 1832)、ヘーゲル(1770 - 1831)はイルミナティだったのだろう。

イルミナティのサイトに引用されているユングも、イルミナティだったのだろうか? ユングの影響を受けたヘッセは「デミアン」で主人公シンクレールをアプラクサスに捧げるという行為を創作上の行為とはいえ、やってのけているのだから、イルミナティだった可能性もある。

薔薇十字団、フリーメーソン、フリーメーソンを侵食したイルミナティはキリスト教の弾圧を怖れて地下に潜り、秘密結社となった。その弾圧がなくなった現代、秘密結社は地上に出てきたのだろうか? 前掲記事で紹介されているイルミナティのサイトは真正なものなのだろうか?

冒頭で引用したリチャード・ノルの文章にユングが「降霊術に出現する死者の国の霊や神々に相談」したとあるのが気にかかる。もし神々を招喚する魔術を行っていたのだとすれば、ユングは精神医学者の仮面を被った黒魔術師ではないか。あるいは、降霊会に神の名を騙るカーマ・ローカの幽霊たちが出現した、それを「神々」と呼んでいるだけなのかもしれないが。

いずれにせよ、もしノルの記述が本当だとしたら、それは精神医学を中世の闇に引き戻した、信じられない所業である。

マダムNの神秘主義的エッセー」における関連記事:

69 革命結社の雛形となったイルミナティの思想と掟、イルミナティ用語としての「市民」
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/19/183509

77 前世療法は、ブラヴァツキー夫人が危険性を警告した降霊術にすぎない
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/11/16/195219

80 トルストイ『戦争と平和』… ①映画にはない、主人公ピエールがフリーメーソンになる場面
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/04/03/200934

81 トルストイ『戦争と平和』… ②ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/04/05/151342

82 トルストイ『戦争と平和』… ➂18世紀のロシア思想界を魅了したバラ十字思想
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/05/05/221437

83 トルストイ『戦争と平和』… ④フリーメーソンとなったピエールがイルミナティに染まる過程
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/05/24/200700

91 C・G・ユングの恣意的な方法論と伝統的な神秘主義
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/01/13/170110

104 トルストイ『戦争と平和』…⑤イルミナティ創立者ヴァイスハウプトのこけおどしの哲学講義
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2020/10/11/220247

105 トルストイ『戦争と平和』…⑥テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界
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2021年11月17日 (水)

瀬戸内寂聴の死――日本文学の凋落を招いた坊主コスプレ女性は死後、何処へ?

瀬戸内寂聴が99歳で亡くなった。

中学時代から63歳になる今日まで、50年間文学界を傍観してきたわたしは、瀬戸内晴美・寂聴(1922年5月15日 - 2021年11月9日)なる女性が、大物作家の死去するごとに存在感を強めていく姿を見てきた。いつのまにか、寂聴は大御所的存在となっていた。

彼女こそ、日本文学が左傾化、低俗化、在日化する原因をつくった人物であり(別に日本の純文学界は日本人で固めなければならないなどといっているのではない。日本人が日本で純文学作家になりにくい状況をつくったことに疑問があるだけだ)、そうした爆弾を次々に投下されて日本文学は焼け野原になってしまった。

呆然として、その焼け野原にたたずむばかりである。そして、日本文学の凋落を招いた坊主コスプレ女性は死後、何処へ? と思う次第。

元々、小説家としての瀬戸内寂聴に興味があったわけではない。岡本かの子(1889年3月1日 - 1939年2月18日)に興味があった。

かの子は男性との関係において破天荒なところがあったが(夫の一平にも変わったところがあった)、彼女の作品は性愛を描きながらも知的で、清流のような自然の神秘性が香り、気品のある筆致である。人物造形も巧みだ。

かの子は仏教に傾倒し、仏教研究家でもあった。芸術家の岡本太郎は息子である。

それで、寂聴による岡本かの子に関する評伝『かの子撩乱』を読んだのだった。資料に基づいて書かれた部分は労作と感じさせられ、面白かったが、寂聴の「かの子」像は妙に生臭く幼稚で、閉口した。

作家としての寂聴の力量に疑問が湧いた。

あれこれ読んでみると、寂聴の人物像はどの作品でも金太郎飴のようで、漏れなく寂聴色に染められている。人物像が単調である。人間観察ができていないように思われた。

瀬戸内寂聴に関しては、既に分析済みで「今東光が訳した神智学書籍と日教組批判活動」というエッセーを書いている。その後も寂聴関係のニュースには目を通してきたが、わたしの寂聴観に今のところ変化はない。

ただし今は、日本の文学界を操った寂聴をさらに背後で操った存在について、憶測している。

「68 今東光が訳した神智学書籍と日教組批判活動( 2017-06-03)」『マダムNの神秘主義的エッセー』。URL: https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/03/201119

目次

  1. 今東光を師僧として得度した瀬戸内寂聴
  2. 文学界における寂聴の影響
    ・平野啓一郎のデビューと寂聴
    ・僧侶のコスプレをした、巧妙な仲介業者
  3. テロリストの新左翼活動家と寂聴
  4. 代行者による寂聴の得度式
  5. 神智学との関係が深かった今東光の父親
  6. 赤旗のはためきの中、日教組を叱咤し、教育の正常化を訴えた今東光
  7. 追記:神智学の影響が感じられる今東光の著作

わたしはどうしても批判的な目で見てしまうが、ファンの中には寂聴グッズがほしいというかたもいるのだろう。以下の通販サイトで購入できるようだ。

ほほえみ倶楽部
https://www.onsei.co.jp/hohoemi/index.html

「縁起が良い人気色 長財布」って、風水みたいだ。「寂聴さん限定カラー 長財布ぱーぷる」もある。過去の商品には寂聴Tシャツがあった。ファンクラブそのものだなあ。「寂聴さんの静電気除去ストール」はアイディア商品の部類か? 中高年の女性ファンをターゲットにしたものだろうが、多彩な商品の品揃えに驚かされる、立派な雑貨通販サイトである。

Yahoo!ニュースで閲覧した京都新聞の訃報は次のようなものだった。

「瀬戸内寂聴さん死去 作家・僧侶、99歳 文化勲章受章者」『京都新聞』。
11/11(木) 12:51、URL: https://news.yahoo.co.jp/articles/b02f1d51ed2096bdef0924ae96cfa0f367d491f7

「夏の終(おわ)り」「美は乱調にあり」など、情熱的な愛と生をつづった小説や、法話などの活動で知られる作家で僧侶の瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市内の病院で死去したことが11日分かった。99歳。……(略)……
徳島市の神仏具商の次女に生まれ、東京女子大在学中に結婚。卒業後、夫の赴任先の北京に渡るが、夫の教え子と恋に落ち、3歳の娘を残して家を出た。離婚後、少女小説や童話で生計を立てる。
 1957年「女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)」で新潮社同人雑誌賞を受賞。
……(略)……執筆活動と並行して、信仰に生きた。51歳で出家し、京都・嵯峨野に寂庵を結ぶ。後に岩手県二戸市の天台寺住職も兼ね、京都と往来しながら、荒廃した寺の復興に尽力した。寂庵や天台寺では定期的に法話を開き、孤独や病、家族不和などに悩む人への思いに耳を傾け、励ました。
 社会的な活動や平和への行動にも力を注いだ。湾岸戦争の救援活動や米中枢同時テロへの報復停止を祈る断食を敢行した。東日本大震災時は原発再稼働に抗議し、89歳の時には東京の経済産業省前でハンガーストライキに参加。東北にも足を運んで、被災者を支援した。

優れた文化人であるかのように持ち上げられた寂聴の表の顔に世間は騙されているのかと思っていたが、厳しいコメントの数々を閲覧して、世間は案外鋭く見ていたのだ――と驚いた。勿論、敬愛し、哀惜する声も多数ある。

表に出るのは後者の見方ばかりなので、ここでは批判的なコメントの一部を「続き」に紹介しておきたい。

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