カテゴリー「神秘主義」の298件の記事

2019年12月 9日 (月)

「100 祐徳稲荷神社参詣記 (12)祐徳院における尼僧達」を神秘主義エッセーブログにアップしました

「マダムNの神秘主義的エッセー」の「100」は当ブログの過去記事に加筆訂正したものです。

目次の 4 は全文加筆であるうえに、「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたあと、訂正しています。

 4 では、萬子媛の研究に自身の神秘主義的な考察を加える理由について書いています。

神秘主義的な考察を加えることで、この研究全体がトンデモ扱いされる可能性が高くなるだろうことは研究に入った段階から考慮済みでした。真実の追究ということに関しては、世間の扱いなどに構っていられないのです。

時代の趨勢に応じて、神秘主義に対する世間の反応は如何様にでも変化します。以下の引用をご覧ください。

58 神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ①ハンス・カロッサ(追記)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/06/27/064748

空疎な唯物論は、さいわいにして、ようやく没落し、今では神智学という立派な信頼すべき学問が存在している」(カロッサ、国松孝二訳『指導と信徒』岩波文庫 - 岩波書店、2012、pp.39-40)

ドイツの良心的な作家として知られるカロッサのこの言葉、また以下のエッセーで引用したH・P・ブラヴァツキー「ベールをとったイシス」に対する当時の報道機関の反応を読むと、現代とは神智学に対する扱いが相当異なっていることに気づかされます。

77 前世療法は、ブラヴァツキーが危険性を警告した降霊術にすぎない
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/11/16/195219

『ベールをとったイシス』は、ブラヴァツキーの著作の中で最も有名な『シークレット・ドクトリン』の前に書かれた、これも代表作の一つである。ジルコフ「前書きにかえて」には、当時の報道機関の反応が複数引用されている。その中のトップに来ている、当時の最も有能な文芸評論家の一人シェルトン・マッケンジー博士は『フィラデルフィア・プレス』に次のように書いたという。

それは,考えの独創性,研究の徹底性,哲学的説明の深さ,学識の多彩さと広がりといった点で,遠い過去まで遡っても最高に非凡な著作の一つである」(H・P・ブラヴァツキー、ボリス・デ・ジルコフ編、老松克博訳『ベールをとったイシス 第1巻 科学 上』竜王文庫、2010、前書きにかえてp.2)

科学の進歩によって神秘主義理論の古いことが証明された――というわけではありません。戦後なぜか世界を席巻したマルクス系唯物主義の言論人が神秘主義の論文をろくに読みもせず、そういっているだけの話です。神秘主義が保管してきた膨大な知識は古びる性質のものではありません。

また、科学と神秘主義は対立するものではなく、このことはブラヴァツキーの次の言葉からも明らかです。神秘主義者が古代から続けてきたのは、科学的な探究です。

神智学の教えは霊と物質の同一性を主張し、霊は潜在的な物質であり、物質は結晶化した霊にすぎないと言います。
H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995改版、p.42)

スピリチュアル・ブームを惹き起こしたのは、マルクス系唯物主義者だとわたしは考えています。彼らは自分達に都合のよいところだけを神秘主義から盗って商業的に利用したり、神秘主義を貶めることで自分の株を上げようと学術を装って低レベルの論文を発表したりしています。

日本で大流行しているオーラ診断、前世療法などはその最たるもので、この二つは明らかにエドガー・ケーシーを真似ており、わたしの見る限りでは、そうしたものはインチキか危険かのどちらかです。

エドガー・ケーシーは善良であったとしても霊媒だったと考えられるので、それを真似るというのはちょっと考えただけでも危険なことですし、その危険を冒すメリットがあるとはわたしには全く思えません。

前置きが長くなりましたが、目次 4 とつながりのある 目次 3 から当ブログにアップしておきます。

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100 祐徳稲荷神社参詣記 (12)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

目次

  1. 布施の記録
  2. 三十五日に供された精進料理
  3. 蘭契という名の僧侶
  4. 神秘主義者としての私見

 

3. 蘭契という名の僧侶

「蘭契」という名が女性的だな、とわたしは思った。果たして、この蘭契が他でも出てくる。「蘭契」という名が出てくるのは、宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記*15である。

素人解読なので間違っているかもしれないが、大体次のようなことが書かれているのではないかと思う。

……佐賀の御親類方より勝屋伊右衛門まで、祐徳院様の御中陰は何日より何日まで御執行でしょうかとの問い合わせがあり、こちらに言ってよこされた。それについて、外記より蘭契まで伺ったところ、御中陰というのはなく、御葬礼が行われたことで、儀式は済みました。(略)尼達と相談して申し上げますが、殊に山中ということもありますので、御名代などを送って寄越すには及びません、伊右衛門よりそのようにお口添え下さるのがよいでしょう、とのこと。……

わたしの憶測でしかないが、蘭契という尼僧が萬子媛亡き後、代表者的、長的な役割を果たしたのではないだろうか。その代表者に、外記が問い合わせたと考えるのが自然だと思う。

その蘭契という人物が、祐徳博物館で伺った、萬子媛に仕えて岩本社に祀られたという尼僧かどうかはわからない。72 「祐徳稲荷神社参詣記 ③2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)」を参照されたい。

前述したように萬子媛の葬礼は簡素だったようだ。五月十五日(1705年7月5日)の日記に記された三十五日についても、格峯(鍋島直孝、断橋)が恵達(慧達)、石柱を帯同して祐徳院に一泊し、御霊供膳と皆に振る舞う料理を用意させているが、目立った儀式はなかった模様だ。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名(蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、𫀈要)。萬子媛がいらっしゃったときは総勢 18 名だったことになる。

萬子媛の小伝といってよい『祐徳開山瑞顔大師行業記』は、義理の息子・鍋島直條(鹿島藩第4代藩主)がまだ萬子媛が存命中の元禄17年(1704)――萬子媛が亡くなる一年前――に著述したものとされている。

郷土史家・迎昭典氏はわたし宛の私信で、「萬子媛についての最も古くて上質の資料は『祐徳開山瑞顔大師行業記』だろうと思います」とお書きになっている。

その『祐徳開山瑞顔大師行業記』*16には、萬子媛が尼十数輩を率いたとあるので、人数的には合う。

求道者らしいストイックな暮らしをなさっていたと想像できる祐徳院所属の尼僧達。五月十五日に料理を振る舞うことで、格峯は尼僧達をねぎらったのだろうか。

彼女達がその後どうなられたかが気になるところだ。

 

4. 神秘主義者としての私見

ところが、わたしは神秘主義者として知っている。

祐徳院のその後の歴史とは次元の異なる話になるが、江戸時代に亡くなった彼女達は、彼の世で萬子媛を長とするボランティア集団を形成し、中心的役割を果たしておられるのだ。カルマに障らないような、高度なボランティアを手がけておられることが窺える。

萬子媛は太陽さながら、豊麗なオーラを放射されるのだが、その光が如何にすばらしいものであったとしても、そのやりかたはわたしが神秘主義者として竜王会、神智学協会ニッポン・ロッジで理論的に学び、また前世での男性僧侶としての修行や今生での独習から会得した技法と同じだと思う。

それは、この世でも彼の世でも通じるやりかたなのだとわかった。誰もができるやりかたのはずだ。この世の出来事に囚われ、その技法を磨くことを怠ってきたけれど、このことが確信できただけでも、わたしにとっては大きな進歩であった。

今、技法を磨くことを怠ってきたと書いたけれど、これは今生で三浦関造先生のような師に出会わなかったことから、意図的にそうしてきたことでもあった。

スピリチュアル・ブームの中で瞑想を含めた身体的技法、また前世療法などの神秘主義的観点からは黒魔術に属する催眠療法(ピプノセラピー)が商業的に拡散している。このような傾向はひじょうに危険なことであるので、避けるべきであるからだ。独習と書いたのも、前世で修行したきたことが自然に表れたことを、このように書いたまでである。

萬子媛に関する記述に神秘主義的な私見の混じることにご不快の向きもあろうかと思うが、如何に現代社会が唯物論的価値観で動いていようと、萬子媛の晩年が宗教の核たる神秘主義的体験を通して深められていったことは間違いない。

萬子媛の晩年の生きかたに迫るには、神秘主義者でなければ不可能だと考え、幸いにしてその感性と知識に恵まれたわたしであるから、あえて神秘主義的観点を支柱として考察してきたことをお断りしておきたい。

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2019年11月26日 (火)

田中保善『泣き虫軍医物語』に見る第二次大戦の諸相 ①映画「タイタニック」ばりの脱出劇と醤油樽(加筆あり、赤字)

慰安婦問題、植民地支配、日本軍の残虐性――といったジャパンバッシングの根拠とされてきた歴史的事象が、少なくとも、飾らぬ心情が吐露された、底抜けに明るく、お人好し、その一方では思慮深く果敢な一人の大日本帝国軍人の人間像が立ち現れてくる一冊の本『泣き虫軍医物語』を読む限りにおいては、真っ赤な嘘、捏造にすぎず、第二次大戦は日本人にとってはまさに大東亜戦争であったことが明白にわかる内容となっている。

そうした意味において、このコンパクトな本は期せずして、第二次大戦における大日本帝国軍人の行動様式、思考傾向を如実に示した、一歴史資料と見なすに足る性格を備えているといえよう。

本書、田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は、第二次大戦末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録である。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の『泣き虫軍医物語』が上梓されたのは、それを13年遡る昭和55年(1980)のことであった。

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田中保善氏は、別の本『鹿島市史 真実の記録』(1990)で、戦時中は祐徳稲荷大神及び萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっていた。萬子媛を研究中のわたしは、当然ながらそうした内容を期待して『泣き虫軍医物語』を注文したのだった。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品だった。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出した。

小学校だったか中学校だったかは忘れたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔だった。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではない……

プロフィールから引用する。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応召。同21年4月復員。(後略)

期待に反して、『泣き虫軍医物語』には命拾いした事実が事実のままに活写されているだけで、それを祐徳稲荷大神及び萬子媛に結び付けるという宗教的評価はなされておらず、それが窺えるような心情的反応も記述されていない。

あからさまな神秘体験の記述は全くないのだ。命拾いした出来事と稲荷大神及び萬子媛とが結び付けられたのは、どの時点であったのか。それは不明である。

しかし、次のような故郷の芳香漂う出来事を、故郷を見守っておられる神々の神慮によってもたらされた奇跡的体験といわずして、何といおう? 田中氏は後年の著書で、そのように解釈されているのである。

それは映画「タイタニック」ばりの脱出劇の中で起きた。話が前後することになるが、そのハイライトシーンをまず紹介しておこう。

簡単にそのときの状況を説明しておくと、田中軍医は、久留米陸軍病院から南方派遣部隊に編入された。太平洋の島々は次々と連合軍に占領されて戦局は重大化。サイパン島は昭和19年7月7日に玉砕。この時期に南方に派遣されることは死を意味していた。

駆逐艦、水雷艇、駆潜艇、飛行機に護衛された船団12隻は9月10日、門司港を出港し、朝鮮海峡、東シナ海と南下するにつれて沢山の輸送船団の往来に出会う。台湾の基隆沖に差しかかった。

夜10時頃、ドスーンと腸に響く大音響。夜空に火花を上げながら、船尾を真っ逆さまにして沈んでゆく、後続の輸送船。いわゆる轟沈であった。

四千名以上の兵隊が何らなす術もなく海底に呑み込まれたに違いない。いかに戦争とはいえ悲惨極まりなく、初めて体験した死の恐怖に心臓も凍る思いであった。(田中,1980,p.28)

船団は2日後、高雄港へ。行手には潜水艦が待ち受ける、魔のバシー海峡。

船団は飛行機と艦艇に守られながら強行突破。船団が進む間に、友軍機と艦艇は合計4隻を撃沈。船団が比島(フィリピン諸島)に近づくにつれて沈んだ輸送船の残骸が多くなった。

魔のバシー海峡を無事に乗り切り、高雄港を発って3日目の30日、リエンガエン湾のサンフェルナンド港に到着。 

久留米部隊は港から8キロ離れた海岸へ向けて出発。その行軍が身体にこたえた田中軍医は不覚にも、自らが患者第一号となってしまう。幸い、軽症だった。

背嚢を当番兵に持ってもらって歩いていると、垣根に真っ赤なハイビスカスの花の咲き乱れる家々があり、予定の海岸に辿り着く。ヤシの林の中に点々と民家があり、その中の一軒を医務室にする。クリスチャン農家らしかった。

「家の中の物を荒らしてはいけない。何も盗んではいけない」と田中軍医は皆に注意する。医務室に配給の砂糖1俵と缶詰5箱が届いた。食事もすんだ頃に家の主人らしい比島人が来て英語で話しかけたが、田中軍医には解せない。

主人は、家の内外を見て回り、何も荒らされていないのを喜び、すっかり信頼して、両手いっぱいの卵を差し出した。

田中軍医は、何もいらないから壁の棚に置かれていた発火道具を譲ってくれ、と日本語で頼む。スコールでマッチが駄目になったときのために必要だった。主人は希望を了解して承知してくれた。

当地区の司令官から、サンフェルナンド地区は国道の沿線は安全だが、国道から4キロ離れた密林中には米軍大佐の率いる5千名のゲリラが国道筋をうかがっているとの通達があった。比島は全部平定されて、攻撃して来る米軍のみが敵だと思っていた田中軍医は、「安全なのは点と線だけなのか」(田中,1980,p.34)と思う。

翌日、異動命令があり、サンフェルナンドの街はずれに移った。軍医一行はエジプトの街のように石造りの家が並ぶ街を見物し、コーヒーを飲もうと思い、コーヒー店の前に行列を作って順番を待った。

焼けつくような暑さにコーヒーを諦めて、横の丘に登る。そこには、バシー海峡で救助された兵隊達やら群馬県出身の若い女性たちがいた。

女性たちは、南方のジャワ、スマトラ、昭南(現在シンガポール)等の商社や軍関係の偕行社の女子事務員として、赴任途中だったという。救助された兵隊達は満州国境から南方へ派遣された部隊であった。

魚雷を食って全員が退船した時、一名の兵の姿が見えなかった。中隊長は皆が危険だからと止めるのもきかず、その兵隊を求めて輸送船に引き返し、捜しているうちに船もろとも沈んでしまった。部下思いの中隊長を偲んで兵達は涙ぐんでいた。日露戦争の旅順港口封鎖作戦における広瀬中佐と杉野兵曹長の話とそっくりである。
 それに引き替え、部隊長と船長はボートに乗り移り、兵隊も乗ろうとすると、沢山乗ってはボートが沈むと、ボートに掴まった兵隊の手を払い除けて海に突き落として漕ぎ去った。泳ぎながらこれを見ていた兵隊達は、陸へ上がってからも部隊長と船長の態度を非難し続けた。私はこの話を聞いて、もし自分がそうなった時は、兵隊から非難されるようなことは絶対にしないと心に誓った。(田中,1980,p.36)

すぐ後に、田中軍医は同様の惨事に身を置くことになる。

10月10日午前11時、サンフェルナンド港を出航した12隻の輸送船団は比島西岸を海岸沿いに南下。今度は護衛艦が半減し、飛行機の援護もなかった。田中軍医の乗船「江尻丸」(貨物船、7千トン)は第四番船で、煙突に「4」の字が大きく書いてあった。縁起が悪いと兵隊たちは心配する。

12時頃、右側を護衛していた駆逐艦が急に面舵を取り、「右舷前方二時の方向に魚跡、魚跡!」とけたたましい叫び声が上がった。

このときは魚雷をうまくかわした江尻丸だったが、2時半ごろ、また突然「魚雷、魚雷!」の叫び声がした。田中軍医は便所で放尿中だった。江尻丸は今度はかわしきれなかった。

惨事、と一言でいえないほど、海と船と魚跡と船内の様子を活写する著者の描写は絵画的ですばらしいが、引用の制限もあって、全部は伝えきれない。

船が爆発して沈む前に退船しなければ死ぬ。部屋に降りて軍刀、図嚢、軍医携帯嚢を取り出したかった田中軍医は果たせず、かろうじて拾った救命胴衣を着用し、海に飛び込むために左舷へ急いだ。

船は惰力で進み、艦橋から全員退船の命令を伝える進軍ラッパが鳴り響いていた。敵の魚雷は、戦車を積んである船倉に命中していた。

その爆発で船倉の上にいた沢山の兵隊達は、粉々になった戦車の破片とともに肉体もバラバラになり、噴き上げられて船内各所に落ちてくる。私の胴衣にも灼熱した戦車の破片が飛来して、襦袢を通して右脇腹に食い込んだ。灼けつくようにチリチリと痛い。私は右脇腹の傷はそのままにして甲板を左舷へ急いだ。無電のアンテナを張ってある針金に兵隊の胸部だけが引っかかっている。首も両手も腹から下もない。剣道道具の胴が引っかかっているようであった。肉片が甲板に落ちて、それを兵隊があわてて踏みつけ、バナナの皮を踏みつけて滑って転ぶように甲板上に転がる。海へ飛び込もうと兵隊はひしめきあい、それにつまずき折り重なって倒れる。(田中,1980,p.38)

前後左右の兵隊にはさまれ、足が甲板につかないまま引きずられていき出した田中軍医は、いつしか兵隊たちの頭の上に転がされてしまう。左舷は遠ざかっていた。

弾薬をいっぱい積んだ船倉に燃え移ったら船もろとも爆発して死ぬことになるので、田中軍医は自分から兵隊の頭の上を転がっていき、やっと甲板の橋の鉄の鎖に掴まった。ここで著者は、「私の左右で次々と兵隊達は元気に飛び込んでいる」と書く。読みながら、まるで水泳の授業が描かれているような錯覚に陥った。

海面まではめまいがするほど高かったが、水泳に自信のある田中軍医は思い切って飛び込んだ。

グングンと一直線に海底に向かって沈んで行き、早く浮上したくとも、高所からの飛び込みであったため、沈下が止まらない。これ以上もたないくらいになってやっと沈下が止まった。浮上しようにも呼吸が苦しくなり、思うように力が出なかった。

船体から離れた45度くらいの角度で浮上したつもりが船尾に近く、船尾にはスクリューが回っていた。渾身の力でクロールで泳いで、船体から離れた。夢中で泳ぎ、泳ぎをやめてみると、救命胴衣の浮揚力が大したものではないことに田中軍医は気づいた。2、3時間もつかどうかだった。

立ち泳ぎをしていると、顔に水筒が当たってうるさい。時計は中が水浸しになりながらもまだ動いており、12時45分。海岸までは1キロくらい。引き潮で海水は沖へ向かって流れていて、思うように進めなかった。

爆発で海中に散らばったいろいろな物が流れてきた。そのとき、驚くべきものを田中軍医は発見するのである。

なかでも私がびっくりしたのは「佐賀県藤津郡吉田村」と墨で書かれた空の醤油樽であった。はるか故郷を離れた南海で、しかも海に投げ出されて藁をも掴む気持ちでいる時に、故郷鹿島町の隣の吉田村と書かれた醤油樽が流れてきたのである。急に故郷に残してきた母や妻子を思い出し、なんとかして助からねばと思い、その醤油樽を拾って麻縄で腰にくくり付けた。浮揚力は救命胴衣よりもずっと強い。(田中,1980,p.41)

ここがハイライトシーンである。

神秘主義者の目で見ると、これは偶然の出来事ではない。高級霊がカルマとのバランスを考えながらなさる、典型的な救助例の一つといってよい。それは、偶然を装って行われるのが常なのだ。

爆発したのは貨物船だったのだから、その中に醤油樽が混じっていたとしてもおかしくはないが、溺死しそうなこの窮地で故郷の名を記した醤油樽が流れてくるなど、いくつもの偶然が重なるのでなければ、起きることではない。

「萬子媛、大戦中もよいお仕事をなさっていますね。さすがです」とわたしは半ば呆れた。醤油樽は使命を帯びていた。そのとき、大海原に降り立っておられたに違いない、萬子媛のオーラの輝きがわたしには見えるような気がする。

この脱出劇には続きがある。前述のバシー海峡で起きたボートの一件に酷似した状況が、田中軍医をめぐって発生したのだった。

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2019年11月14日 (木)

大嘗祭がはじまりました。12日には、出雲大社の上空に鳳凰に見える雲。

天皇陛下の即位に伴う一世に一度の伝統儀式「大嘗祭」の中心儀式「大嘗宮の儀」がはじまりました。

NHKの解説。

12日には、出雲大社の上空に鳳凰に見える雲がかかったそうです。確かに、鳳凰に見えます。

10月22日に「即位礼正殿の儀」がはじまったときにかかった虹、富士山の初冠雪が話題になりましたが、これもすばらしい現象ですね。

2019年10月23日 (水)
天も祝福した「即位礼正殿の儀」。天皇という存在の本質をついた、石平氏の秀逸な論考。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2019/10/post-501c00.html

ところで、本日の参議院・法務委員会で、小野田紀美(自由民主党・国民の声)による重要な質疑が行われました。あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」やウィーン芸術祭の「ジャパン・アンリミテッド」とも関係してくる質疑内容でしたので、これについては記事を改めます。

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2019年10月 3日 (木)

萬媛の三番目物ノート ①大まかなあらすじ

わたしは田中保善氏のご著書『鹿島市史 真実の記録』(1990)の中の萬子媛に関する伝記的記述を読み、子供のころから何となく心惹かれていた萬子媛に一層興味を持つようになりました。

わたしなりの萬子媛のイメージ像をシテ(主人公)として新作能を書いてみたいという大それた望みは先月の25日に生まれたばかりです。アマチュア物書きのわたしがそれを書いたところで何になる、などとは不思議にも全く思いません。書けるかどうかは別として、書いてみたいという強い思いが湧き起こっています。

ワキ(シテの相手役)は、前掲の田中氏がモデルです。

『鹿島市史 真実の記録』には、先の大戦中、軍医として出征した出来事が綴られています。田中氏は出征前、祐徳稲荷神社に参詣したそうです。

倉稲魂大神(田中氏の研究ではインドの夜叉・荼枳尼天だそうです)にお願いすると同時に、「荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦[まけいくさ]で戦死するのが当たり前ですが、何卒御助け下さいと御願いした」(157頁)そうです。

危機一髪で奇跡的に助かったエピソードが五つ紹介されていますが、そのようなことがまだ何回もあったそうです。インディージョーンズより凄い! 例えば次のエピソード。

敵地巡回診察中、敵戦斗機三機に狙われ機銃掃射を受け終に私の腰部に命中したが、私の軍刀の鞘にあたり、鞘はえぐり取られたけれど私の腰は無事で助かった。(158頁)

戦争を知らないわたしが戦争を書くことになるとは想像もしませんでした。

ですが、一応平和とされている現代においても、また田中氏が体験された戦争においても、おそらくは萬子媛はお亡くなりになった江戸時代からずっと今日まで、日本に生きる人間たちを毎日欠かさず見守ってこられたのだと思うと胸が熱くなり、田中氏の劇的な体験を参考にさせていただいて萬子媛を描いてみたいと思うに至りました。

田中氏の他のご著書『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は未読でした。幸いアマゾンに中古で出ていたので、注文したところです。このご著書も参考にさせていただくことになるだろうと思います。

新作能の曲名は未定です。2007年10月に上梓された絵本『萬媛[まんひめ]』(文:梶田聡実、絵:寺田亜衣・杉本国子・中島健一・古賀沙織、監修:荒木博申、企画:吉岡満雄・佐藤三郎、編集・印刷:サガプリンティング)とかぶるとよくないでしょうから、かぶることにはならないようにしたいと考えています。

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おおまかなあらすじ

開戦の詔勅から時間が経過し、日本軍の敗色が濃くなったころ、○○(ワキ ※ワキの名は未定)に招集礼状が来る。○○は軍医として出征するに際して、神社に参詣し、稲荷大神と萬媛(註1)に加護を祈念する。

○○はかねてより神社の研究をしており、信心は篤かった。○○には守るべき母、妻、子があった。

マニラ丸でボルネオへ向かう途中、船は敵の砲弾を受ける。海中に放り出された○○の目に、天より舞ひ降りて来し白銀の一団(シテ、シテツレ、トモ)が映った。中心のひときわ輝かしい姿が目に入る。

従者のように見える天人の一人(シテツレ)がいう。

自分達は仏果を得た者であるが、(神社に伝えられる)天明8年に京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移ったとき、鎮火に現れた白衣の一団とは実は自分達であったのだ――と。

中心の輝かしい御姿(シテ)が、萬媛は自分だと告げる。

後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘として生まれた萬媛のこの世に在りし日々が語られる。

※在りし日々で採り上げるエピソードに関しては未定

萬媛の入寂と昇天の舞が重なる中、神々しい萬媛の舞に見とれているうちに○○は意識を回復する。そこは、ボルネオのコタブルト(註2)のアバラ屋に日本軍が設けた医務室だった。その後もいくつかの危機を奇跡的に脱し、終戦の詔勅からほどなく復員を果たした○○は、神社に参詣する。

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註1 鹿島市民図書館学芸員T氏によると、剃髪前の萬子媛は「萬媛」と呼ばれていた可能性が高い。

歴史短編1のために #47 落胆と取材の成果 (2)早逝した長男の病名、萬子媛の結婚後の呼び名
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/10/post-55cb.html
日本では、身分の高い人の実名を生存中は呼ぶことをはばかる風習があり、複名(一人物が本姓名以外に複数の呼称を併せもつこと)が多い。滝沢馬琴は没後の法名まで含めると、35の名を持った。ただし、本人は滝沢馬琴という筆名は用いていず、これは明治以降に流布した表記だという。
萬子媛の名が史料に出てきにくいのも、このような日本特有の事情によるものだということが、学芸員のお話を拝聴する中でわかった。結論からいえば、萬子という名はおそらく明治以降に流布した呼び名で、子のつかない「萬」が結婚するときにつけた名であっただろうとのことだった。
萬子媛に関する興味から江戸時代を調べるようになってからというもの、わたしは、男性の複名の多さに閉口させられてきたのだったが、学芸員のお話によると、女性のほうがむしろ名が変わったという。
生まれたとき、髪を上げるとき(成人するとき)、結婚するとき、破談となったとき、病気したときなども、縁起のよい名に変えたそうである。また、女性の名に「子」とつくのは、明治以降のことらしい。
そこから、萬子媛は結婚するときに「萬」と名を変え、結婚後は「御萬」あるいは「萬媛」と呼ばれていたのではないか――というお話だった。

註2 コタブルトはコタッ・ブルッのこと。コタ・ブルッ(Kota Belud)は東マレーシア・ボルネオ島北端のサバ州にある町。「コタ・ブルッ」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年10月16日 11:04 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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参考資料メモ1

  • 開戦の詔勅、終戦の詔勅
  • 田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)、『鹿島市史 真実の記録』(1990)
  • 郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察
  • 祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員T氏、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話
  • 三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)
  • 新古今和歌集
  • 大和物語
  • 拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」(カテゴリー「祐徳稲荷神社参詣記」)

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拙はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」より

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)

神社という聖域には、実際に萬子媛のような高級霊が地上界を見守っていらっしゃるケースがあるということを、わたしは神秘主義的見地から確認してきた。

萬子媛のようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本は持つことがなかったわけである。

わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。すると、時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

宗教的装いは違っても、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている萬子媛のようなかたが存在することをわたしは知ったのだった。

この純正ボランティア精神が生じた背景を知りたい。このかたはどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることでもあるのだ……

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を率いる尼寺であった。

ざっと、萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入った。このとき、63歳。1705年閏4月10日、80歳で没。

萬子媛の兄弟姉妹は、花山院家を継いだ定誠以外は、円利は禅寺へ、堯円は浄土真宗へ入って大僧正に。姉は英彦山座主に嫁ぎ、妹は臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。定誠、武家に嫁いだ萬子媛も結局は出家している……

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78 祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

田渕句美子『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今和歌集(角川選書536)』(KADOKAWA、2014)によると、平安末期から鴨倉初期に歌壇を先導した歌人が藤原俊成(1114 - 1204)で、定家はその子、藤原俊成女は孫娘に当たる。

藤原俊成女は父の政治的不運により、祖父母に引きとられ、俊成夫妻の膝下[しっか]で定家らと共に育てられたという。しかし、定家と藤原俊成女の間には確執が生じたようだ。

平安末期から鎌倉初期にかけて在位(1183 - 1198)した第82代後鳥羽天皇(1180生 - 1239崩御)は、院政時代に後鳥羽院歌壇を形成した。
その後鳥羽院の招きに応じ、活躍した女性歌人が、式子内親王[しきしないしんのう]、宮内卿[くないきょう]、藤原俊成女だった。

それぞれに際立った個性があり、わたしは三人共好きだ。(略)

幽玄美を提唱して『新古今和歌集』の歌人を育てた藤原俊成、『新古今和歌集』の撰者の一人であった定家、藤原俊成女らは藤原北家の人々で、花山院家は藤原北家だから、萬子媛にとっては『新古今和歌集』という存在そのものが望郷の念を誘うものだったのかもしれない。

そういえば、『源氏物語』を著した紫式部も藤原北家の人だった。藤原北家は右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系で藤原四家の一つである。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。

修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。
その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

こうした複合的、統一感のある宗教観こそが歌謡集から勅撰和歌集まで、そこに集められた歌に凛とした気品と陰翳と知的洗練をもたらしたのだと考えられる。

江戸初期から中期にかかるころに生きた萬子媛が二十一代巻頭和歌を愛読されていたということは、二十一代集に通底する宗教観を萬子媛も共有していたということではないかと思う。

ちょっと注目したいのは、次の歌である。作者は前述した皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)。

   皇太后宮大夫俊成『新古今和歌集』巻第十九神祇歌
春日野のおどろの道の埋[うも]れ水すゑだに神のしるしあらはせ
(この春日野の、公卿の家筋を暗示するおどろの路の、埋もれ水のごとく世に沈んでいる自分である。今はとにかく、せめて子孫なりとも、わが祈りの験[しるし]をもって、世に現わし栄達させ給え。「春日野」は春日神社を示し、自身も藤原氏でその神の末であることとを余情とした詞。「おどろ」は、草むらの甚だしいもので、「路」の状態とするとともに、公卿の位地を示す語。)*10

子孫の出世を願う、切実ながらいささか世俗臭のする歌だと考えられるが、俊成は藤原北家の人で、萬子媛も藤原北家の花山院家の出であるから、神のしるしどころか、文字通り祐徳稲荷神社の神々の中の一柱となられた萬子媛は、子孫の栄達を祈った俊成の願いを最高に叶えた子孫といえるのではあるまいか。

*10:窪田訳,1990,p.443

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2019年9月27日 (金)

夫の鼻の手術(祝・トンネル開通)

最近、夫が鼻の手術を受けました。慢性副鼻腔炎、鼻茸(鼻ポリープ)の手術です。

昨日が退院でした。わたしは夫のスースー、ゴゴゴゴ、ピー……といった、鼻が立てる音をバックミュージックにして長年創作してきたので、昨夜、パソコンに向かいながら、寝ている夫から何の音もしないことに驚きました。

夫が起きていても、呼吸と共に何らかの音のすることが当たり前の現象となっていました。今思えば異常な話ですが、鼻の悪い人はわたしの友人の中にも何人かいたので、鼻の悪い人というのはこんなものだろうと思っていたのです。

入院の翌日が手術で、それから1週間後に退院でしたから、入院期間は9日間でした。

夫は小学生のときに鼻茸、中学生のときに慢性副鼻腔炎の手術を受けたそうで、「副鼻腔炎は治っている」といっていました。でも、大学時代に文芸部でなぜか7歳も上の夫と出会ったときから、鼻声が特徴的でした。結婚してみると、ますます、治っているようには思えませんでした。

手術が成功したとしても、体質や鼻の形によっては再発することがあるらしいので、そのケースなのかもしれません。何にしても、夫は耳鼻科に行きたがりませんでした。それというのも、昔の副鼻腔炎の手術はとても怖ろしいものだったそうで、すっかりトラウマになっていた様子です。

上の歯茎からメスを入れて頬の骨を削り、副鼻腔の膿をとり出すというものだったそうです。

何しろ 50 年以上も前の話です。局部麻酔だったために、土木工事さながらの手術の過程が全てわかり(わたしも検査のために局部麻酔で頭蓋骨抉られたときは自分自身が工事中の建物になったような気がしましたっけ)、麻酔がうまく効かず、相当に痛かったとのことです。

現在でも歯茎や頬からメスを入れる手術は行われているようですが、おそらく昔のように怖ろしいものではないでしょうね。

そのころ夫は、父親の転勤で北九州市にいました。黒崎の個人病院に夏休みを使って入院し、丸ひと月入院していたそうです。術後、夫は顔がひどく腫れ、鼻より両頬が高くなったため容貌が変わり、お見舞いに来てくれた友人は2回も夫の顔を見ていながら、夫とは気づかずに探し回ったとか。

退院したとき、二度と耳鼻咽喉科には足を踏み入れまいと誓ったそうです。

ところが、最近、両鼻孔に鼻茸が「充満」していることがわかって、ついに手術するはめになったのでした。相当に、怯えていましたね。

でも、現在では内視鏡下での手術であることが多くて安全性も高く、それほど怖がる必要はなくなったようです。ネットサーフィンしてそのような情報を仕入れ、安心させようとしても、夫は暗い雰囲気を纏って落ち着かず、不機嫌でした。

夫が自分で選んだ総合病院の耳鼻咽喉科は、面会に通うには交通の便がよくないところでした。耳鼻咽喉科の担当医は一人みたいだし、自宅に近い総合病院のほうがいいのではないかと思い、ググると、論文が出てきて、担当医の得意分野がわかりました。

手術経験の豊富なベテランみたいで、脂がのった年齢域のようでもあり(精力的に手術をこなせるだけの若さがある)、夫の選択を尊重しようと思いました。

事前に「高額療養費」を申請しました。健康保険の窓口に申請すると、1週間程度で「限度額適用認定証」が 届きます。 申請した窓口で、「傷病手当金」を受けられると教わりました。夫は有給休暇の消化で対応して貰うことにしたので、傷病手当金は申請しませんでした。

全身麻酔による内視鏡下副鼻腔手術は午前中で、2時間の予定でした。手術室に近い待機用の待合室では、他に待っている人が結構いました。

夫が聞いた担当医の話では、鼻茸が、とるには危険な場所にある場合は無理をしないとのことでした。安全にとりきれたらいいけれど、と思いながら、緊張して娘と椅子に座っていました。

緊張を有意義な方向に持って行くために、わたしは神秘主義者として、例の、結果として役に立たなかったように思えることがあるかもしれないけれど(カルマなどありますから)、やらないよりは絶対にいいと思う、患部に想像の白い光を送る方法を試みました。

普通の人には見えないかもしれませんが、清浄な白い光を想像すると、オーラにその光が現れます。その光を想像の中で自分の望む場所に送るのです。こんなよけいなことをされると嫌な人がいるかもしれないので、わたしはごく限定的にしか行いません。夫は嫌がりません、というより、ほとんど気にしていませんし、基本的にわたしを信頼してくれています。

自分自身が自らの内的な白い光に包まれるだけでも、精神安定の効果があります。わたしは、手術室で頑張ってくださっているドクターに助太刀しているつもりでした。

手術の終了までに残すところ半時間ほどになったので、わたしはトイレへ行っておくことにしました。娘はトイレが遠いほうです。

トイレへ行って待合室に戻ると、娘が立ち上がっていいました。「半時間早く終わって、もう担当医から別室で説明も受けたよ。手術は成功したって。とりにくい場所にあったものも、何とかとりきれて、両方とも通ったんだって。鼻茸のサンプルも、嫌だったけど、遠目に見た……」

拍子抜けしましたが、成功してよかったと思いました。「説明はママが来るまで待って貰おうと思ったけれど、先生が忙しそうだったから、一人で受けた」と娘。

術後の痛みは軽く、ただ、ガーゼをとるときに痛くて涙が出たと夫はいいました。退院するとき、薬は何も出ませんでした。次第に間遠くなっていくらしい通院があります。

まだ血や何やらが出るらしいのですが、ドロッとした何か(膿?)が出れば出るほど、鼻は回復していくそうです。鼻が通ったのは、記憶にないくらい昔らしく、夫は感激しています。

一方、夫が留守で、昼間一人きりでいた間の空気の清浄さに、わたしは驚いていました。これは正真正銘の自身の汚れなきオーラの美しさであり、その反映です。

一人きりでいたら、内的な光がこぼれ溢れてきます。家族がいるとついイライラ、ガミガミ、口うるさくなりがちで、オーラもそれ相応の低下したものになってしまうのでしょうが、本来の自分はこのようであることを忘れないように、これを励みに日々頑張ろうと思いました。

前の記事で書いた新作能の本を借りてきたので、最初に読んだ瀬戸内寂聴の作品から感想を書こうと思っていましたが、記事を改めます。メアリー・ポピンズ、臓器移植のことなど神秘主義の観点から書きたい記事があり、忘れたわけではありません。いずれ書きます。

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2019年8月27日 (火)

ツイッターから拾った、中共の臓器ビジネス関連の三記事

8月末までに済ませておきたい宿題の一つに、中共の臓器ビジネスに関する神秘主義的考察がありました。以下は、それに関するメモ的過去記事です。

2019年7月14日 (日)
創作が滞っています。脳死について。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2019/07/post-ea1718.html

2019年6月15日 (土)
香港デモと中共の闇の深さ、そしてブラヴァツキー夫人の心臓に関する注目すべき美しい文章
https://elder.tea-nifty.com/blog/2019/06/post-3bace0.html

以下は、2016年に拙「マダムNの神秘主義的エッセー」にまとめた記事へのリンクです。

48 失われたと思っていた中国五千年の芳香
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/04/29/075132

ブラヴァツキー夫人の神智学では、人間の七本質の一つはカーマ(欲望)です。死に際して、カーマはカーマ・ルーパ(欲望体)を形成するといわれます。

死後、七本質のうちの三つの高級本質は一つの組になってデヴァチャン(天国、極楽)状態に入りますが、以前の人格我の影であるカーマ・ルーパはカーマ・ローカという物質界とデヴァチャンの間にある状態に取り残されます。

カーマ・ルーパはしだいにしぼんで崩壊するはずのものですが、この魂殻がどれくらいの期間生き延びるかは、故人の生き方が決定するといわれています。

一般に、幽霊といわれているものの正体は、このカーマ・ルーパです。

わたしは夫の父方の義祖父のカーマ・ルーパが夫の依存症体質(霊媒体質)に惹き付けられて憑依しているのを新婚時代から察知し、何とかしようと試みました。

が、カーマ・ルーパは、本来、義祖父が持っているはずの高級な知性も霊性も奪われているため、カーマ・ルーパに対する説得は無意味です。

夫が憑依を免れるには、自ら依存症体質を克服する以外ありませんでしたが、カーマ・ルーパを通したわたしの説得は、あの世で眠っている義祖父に、34年かかって何とか届いたようでした。

あの世で義祖父が目覚めたそのときが、義祖父の成仏のときだったと考えています。

わたしは義祖父のカーマ・ルーパが夫を離れたのを感じました。ですが、それが崩壊したのか、はたまた、どこか別の憑依先を見つけたのかは神のみぞ知るです。

世界的に索漠とした刹那的な傾向が強まる中で、自覚のないまま、このようなカーマ・ルーパに憑依されている人は多いと思いますが、神秘主義者としてのわたしのカーマ・ルーパ体験は今のところ、この一件だけです。

この出来事を通じて、ブラヴァツキー夫人の説が如何に正しいかを学びました。

唯物主義的な欲望を強めるほどに、カーマ・ルーパは有害な要素を強めるのではないでしょうか。そして、誘惑に弱い人間を餌食とするのです。餌食となった人間は、悪くすれば人生を棒に振り、死ぬと自らも有害なカーマ・ルーパを残しがちになるのかもしれません。

わたしは義祖父があの世で長い眠りから覚める、ありありとした夢を見、正夢だと判断しましたが、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995改版)には、あの世で死んだように眠る唯物論者について解説されています。

その唯物論者が天国状態を楽しまずに――楽しめずに――眠っているのは、「あの世の人生は、人間が信じ、期待していた通りになる」(ブラヴァツキー,田中訳,1995,p.167)からにすぎません。そして、唯物論者が永遠の中で自分自身に気づいたとき、そのように眠って過ごしたことを悔いる日がくるかもしれないとブラヴァツキー夫人はいいます。

中共の唯物主義は欠陥思想でありましたが、今やブレーキが利かなくなって暴走中です。

以下のツイートを読むと、わが国でもようやく、中共が行っている臓器移植について、動きが出てきているようです。

アメリカも関与し始めました。

中共の臓器移植がどのような目的で始まったのか、以下のツイートからニュース記事を読んで唖然としました。中国高官が憧れた「延命」や「若返り」のためだったというのです。本当にこの世しか眼中にないのですね。

不老長生・現世利益は中国の伝統的な価値観のようですが、それが唯物論と結びつくと、ここまでグロテスクになるのですね(絶句)。人食い人種とか吸血鬼を連想してしまいます。生きているうちから既に、高級な知性も霊性もなくしたカーマ・ルーパのようです。

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2019年8月19日 (月)

原田マハ『楽園のカンヴァス』を読んで気になった、嘘。神秘家だったアンリ・ルソー。

「あいちトリエンナーレ」問題に続いて、古市憲寿「百の夜は跳ねて」のパクリ疑惑など出てきて、夏休みの宿題(?)ができなかった。

家族でショッピングモールへ、恒例となっているコーヒー豆の買い出しに出かけた。夫は映画、わたしと娘はショッピング。帰りに書店に寄った。

美術館勤務の経験があるという、原田マハ『楽園のカンヴァス』(新潮文庫: 新潮社、2014)が目に留まった。アンリ・ルソーの名画「夢」をめぐる美術ミステリーという。ベストセラーらしい。

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アンリ・ルソー(1844 – 1910)「夢」ニューヨーク近代美術館、1910

本物はなかなか観る機会がないけれど、アンリ・ルソーは学生の頃から好きで、40年以上のファンだ。「あいちトリエンナーレ」問題では美術界に疑問が湧いたが、その疑問をいくらか払拭できるかもしれないという期待感も高まった。

この種の売れていそうな本は図書館から借りると大抵汚されていることを思えば、買ってしまおうと思い、買った。手の出ない、ほしい本はいくらでもあるというのに、魔が差したというべきか。

美術畑、また音楽畑の人の文芸作品もそうだが、エッセイなど読むと、文章が洗練されていて、論旨も明快、さすがは芸術家の文章と感心させられることが多いものだ。

ところが、帰宅後、本を開いて、冒頭の一行目を目にしたとたん、早くも読む気が削がれてしまった。わたしとしたことが、冒頭も確認せず、購入してしまったとは。

ここに、しらじらと青い空気をまとった一枚の絵がある。(原田,2014,p.7)

「しらじら」というのは、「しらじらと夜が明ける」というように、夜が次第に明けていくさまを意味することが多いと思うが、如何にも白く見えるさまもいう。興ざめなさまもいう。

しかし、次に「青」とある。一体、白なのか、青なのか。二つを混ぜて水色というわけではあるまい。それとも、何か興ざめな感じがあるのだろうか。そして、その青と形容されたものは空気であって、その空気(雰囲気の意か)を一枚の絵が纏っているのだという。

ここに一枚の絵があることはわかるのだが、その絵がどう見えるのかがもう一つはっきりしない。

先を読めば、「それぞれの身体[からだ]はパウダーをはたいたように白く透明だ」とか「それほどまでに青く、白く、まぶしい画面だ」とあるので、どんな色調の絵であるのかが次第にわかってはくる。

アンリ・ルソーの絵の話なのかと思って読み進めると、そうではなく、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌが1866年に描いた絵なのだそうだ。シャヴァンヌがアンリ・ルソーにこの後、関わってくるのだろうと思ったが、これきりだった。

作者は、大原美術館を小説に出したかったのだろう。ストーリーからすれば、必ずしも必要のない設定に思える。いずれにせよ、冒頭に出てくる絵は、大原美術館所蔵のピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ作「幻想(Fantasy)」である。

なるほど、その絵は、青色と白色が優劣つけ難いあざやかさで、観る者を圧倒する。

実際に観れば、ペガサス、女性、子供のそれぞれの身体はパウダーをはたいたように見えるのだろう。だが、パウダーをはたけば、その部分は他の部分の色合いに比べて白さが際立つか、元の色が殺されて朧気に見えるだろうが、透明には見えない気がする。

作者は、絵の各部分から受けた異なる印象を一気に描写しようとする。それで、自家中毒を起こしたように意味不明な表現となっているのだ。子供が見たものを一気に伝えようとして、息せき切っておしゃべりするときのようだ。

美術畑で働いたことのある人にしては、全体に稚拙な文章である。読みながら、美内すずえの少女漫画を連想した。漫画の原作を想わせる小説なのだ。恩田陸の小説に似ている。

漫画の原作であれば、漫画家が人物に表情をつけて内面まで見せてくれるだろうが、単独で書くからには、作者が内面描写まで行わなければならない。その描写があまりに平板であるため、どの人物にも魅力がない。

あちこち引っかかりながら読み進めると、次の箇所がどうにも気になった。

 画家を知るには、その作品を見ること。何十時間も何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。
 そういう意味では、コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいないと思うよ。
 キュレーター、研究者、評論家。誰もコレクターの足もとにも及びないだろう。
 ああ、でも、ーー待てよ。コレクター以上に、もっと名画に向き合い続ける人もいるな。
 誰かって? ――美術館の監視員[セキュリティスタッフ]だよ。(原田,2014,pp.10-11)

コレクター、キュレーター、研究者、評論家、監視員では、役割――専門――の違いから、絵を見る姿勢が異なるはずである。それに、時間さえかければいいというものでもあるまい。

作者は、優劣つける必要のないものに、優劣つけようとする。それは、作品のテーマに関わる部分でもそうで、ピカソとルソーを比べ、競わせようとする。

そして、作者は明らかにピカソをルソーの上に位置付けている。美術市場ではそうだからだろう。ルソーをことさら、不遇で評価の定まらない画家であると強調するのは、作者自身が市場――世俗といい換えてもよい――の価値観――を、市場が作り出すヒエラルキーを、高く評価し、信じているからに他ならない。

参考文献の筆頭に、岡谷公二『アンリ・ルソー 楽園の謎』(平凡社ライブラリー、2006)が挙げられている。わたしは中公文庫(中央公論社)から1993年に出た版で当時読み、大変な感銘を受けた。

だから、原田マハ(2014,p.288)が「史実通りに物語が進めば、ルソーはほとんど誰にも顧みられぬまま、この世を去る」と書いた箇所を読むと、岡谷氏の評伝を読んでいながら、なぜこんな嘘をつくのだろうと思う。

その理由として、わたしは前述したように、ピカソをルソーの上に位置付けるためだと考えたのだった。

岡谷氏によると、ルソーは晩年、真の成功に近づいていたという。「夢」の批評は『ニューヨーク・ヘラルド』をはじめとする21紙に載り、その大半は好意的だった。1910年は、亡くなる前月の8月までに、3,590フランを絵の代金として得た。しかし金は、消えた。最後の恋人レオニーに貢いだためだった。

讃美者も増えていた。

ウーデ、ドローネ、ブリュメルに次いで、この年さらに三人の若い讃美者がルソーに近づく。未来派の画家で、著作家でもあったイタリア人のアンデンゴ・ソフィッチ、セルジュ・フェラの名で知られた、ロシア生まれの画家ヤストルブゾフ、その従妹で、のちにロック・グレーの名でルソーの画集を出版するエッチンゲン男爵夫人である。(岡谷,1993,p.276)

小説はフィクションだからいい加減に書いていい、というわけではない。フィクションであればなおさら、事実を踏まえるべきところはそうすべきである。この場合は、作者は参考文献を毀損している。

作品を彩るはずのニューヨーク近代美術館のキュレーター、ティム・ブラウンと日本人研究者・早川織絵のロマンスは安手な印象で、退屈だった。

ミステリーの部分は作りすぎで、説得力を欠く。

『楽園のカンヴァス』が子供の推薦図書だったとのレビューを読んだ。最近ではライト・ノベルを推薦図書に選ぶのだろうか。昔の大衆小説家のように文章がしっかりしていればいいのだが、この作品における原田マハの文章はチープで粗い。

ここで、『楽園のカンヴァス』を離れようと思う。

今回、岡谷公二『アンリ・ルソー 楽園の謎』(中公文庫: 中央公論社、1993)を再読し、神秘家としてのルソーが印象的だった。ルソーはインタビューの中で、次のようにいう。

私はいつも描く前から、絵をはっきり見るんです。とても複雑な絵の場合だってそうです。ただ描いている間に、自分でもびっくりするようなことが出てきて、それはとても楽しいですね。(岡谷,1993,p.275)

岡谷氏(1993,p.193)によれば、ルソーはフリーメーソンに加入していた。薔薇十字団員、降霊術術者たちとの交わりもあった。

近代神智学運動の母ブラヴァツキー夫人は1831年に生まれ、1891年に亡くなっている。ルソーは1844年の生まれで、1910年に亡くなった。世代的には案外近い。当時は降霊術が流行っていたのだ。ブラヴァツキー夫人はその降霊術を批判して、心霊主義者たちの攻撃の的となった。

ルソーのお化け話は有名だったそうで、『アンリ・ルソー 楽園の謎』にはわたしを不安にさせる記述がある。幸い、ルソーの芸術の力が勝ったのだろう。死は、ルソーを平和裡に訪れたようである。

ルソーは、臨終まぎわの譫言[うわごと]の中で、父なる神や天使たちの姿を見、「ヴィオラとハープとリュートから成る天上のオーケストラ」のしらべを聞いたと浮かされたようにして語り、また、これから星や青空を描くのだと言ったと伝えられている。(岡谷,1993,p.286)

YouTubeで公開されていた動画 Henri Rousseau "El Aduanero"

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2019年8月 5日 (月)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その3。良識的河村市長と偏向的大村知事、ダークな祭典の核心にあるもの。

 

以下は、高橋洋一氏の「検閲」に関する解説。

今回の左派が起こした事件は、まるで敵対国の思惑を代弁したかのようです。

公共施設で、反日プロパガンダでしかない醜悪なオブジェを展示し、その行為を芸術とのたまった。夏休みを狙ったのは、子供たちの洗脳を目的としていたからでしょうか。

このような、芸術離れしたオブジェを芸術だというような人物がよくもまあ芸術監督というポストに就けたものだと呆れ、ウィキペディアを見ると、大学教授なども勤めた輝かしい経歴ではありませんか。

津田 大介(つだ だいすけ、1973年11月15日 - )は、早稲田大学文学学術院教授(任期付)、有限会社ネオローグ代表取締役、一般社団法人インターネットユーザー協会代表理事。
大阪経済大学情報社会学部客員教授、朝日新聞社論壇委員、新潟日報特別編集委員も兼任している。関西大学総合情報学部特任教授、京都造形芸術大学芸術学部文芸表現学科客員教授、東京工業大学リベラルアーツセンター非常勤講師、ネットランナー編集部、上智大学文学部新聞学科非常勤講師等を歴任した。

東京都北区滝野川出身。父親公男は社会主義協会派の活動家で、日本社会党(現:社民党)の副委員長高沢寅男の議員秘書も務めた。しんぶん赤旗にて、中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったと述べている。
「津田大介」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年8月5日 02:08 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

経歴と今回の事件が結びつかず、不審感を深めていたところ、別の一面を描写した記事に出合いました。

今回の事件の裏には、周到に計画した大きな組織が隠れているのではないでしょうか。彼は使い走り役を務めたわけですね。京アニ事件も変ですよね。

複雑な背景はあるでしょうが、核心にあるのは、マルクシズム的唯物論だと思います。これはもう古いのです。人間のうちに潜む高貴な面を全く説明できず、無視するか、否定することしかできないのですから。

ところが、マルクシズムによって否定され、貶められた近代神智学は、全然古びていません。伝統的でありながら新しいのです。

心理学でいう情操は、ブラヴァツキーの神智学でいえば、高級マナス(マナスは「心」の意)の影響を帯びた上へ向かう感情で、カーマ(欲望)へと下へ向かう低級マナスの影響を帯びた感情とは区別されるべきものです。

情操に訴えかけるものだけが芸術といえる性質のものであることは、神智学を知り、宇宙と人間の七本質への理解が深まれば、図式的にわかります。オーラや想念形体が見えれば、一層――実感的に――理解が深まります。

わたしは文学、美術、音楽などの芸術的な作品に触れることで、内的に成長し、オーラや想念形体が時々見えるようになりました。誰のうちにも潜む、胸の奥から迸る光はたとえようもない美しさで、めくるめく美の世界です。

霊媒能力とは違い、この能力は生まれ変わっても消えることはないそうです。生まれ変わるごとに、再獲得する必要はあるようですが。

芸術祭を騙る、ダークな祭典にだまされてはいけません。

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2019年7月14日 (日)

創作が滞っています。脳死について。

萬子媛をモデルとした歴史小説を忘れたわけではないのですが、臓器ビジネス及びブラヴァツキー夫人の心臓に関する記事を神秘主義エッセーブログにアップしようと資料漁りをし、メアリー・ポピンズの物語への神智学の影響を調べかけたところで、予定が滞っています。

どちらもちょっと書いておくつもりだったのが、そのちょっと書くだけでも難しくて書きあぐねていました。

メアリー・ポピンズのシリーズの最初の二冊に神智学の影響が見られ、『帰ってきたメアリー・ポピンズ』では赤ん坊のアナベルが鳥たちに自分は闇の中から来たという場面があります。はじまりはそこからとアナベルはいうのです。

それに続けてアナベルは色々なことをいい、総合すると神智学の影響は疑いのないものとなりますが、この闇の性格が旧約聖書に出てくる闇や子宮の中の闇とはどう違うのかを説明しようとすると、厄介で、つい後回しに。

先に臓器ビジネスに関する記事の続きを書こうとして、渾身のルポ、城山英巳『中国臓器市場』(新潮社、2008)を読むと、もう衝撃を受けるばかり。これで11年も前の作品です。ルポは、日本人ブローカーとの出会いの話から始まります。

脳死移植はキリスト教社会で発達したもので、儒教的考えの残る中国では日本と同じように両親から授かった自分の体を完全な状態で火葬したいという伝統的価値観が浸透しているため、臓器提供に積極的でないとあります。

それなのになぜ、中国がアメリカに次ぐ移植大国となったのか(11年も前に既にそうです)。以下のニュースには、2020年には中国が世界一の臓器移植大国になるとあります。2017年、中国人体臓器提供・移植委員会の黄潔夫委員長の弁です。

中国、2020年に世界一の臓器移植大国に―中国メディア
人民網日本語版 配信日時:2017年8月9日(水) 5時50分
https://www.recordchina.co.jp/b186821-s10-c30-d0035.html
「中国には現在、1900人あまりの臓器提供・移植コーディネーターがおり、近く5千人にまで増やす計画だ。現在、臓器移植手術を実施している病院は173軒あるが、年内に200軒、2020年までに300軒まで増やすことを目指している」。

日本では、本人が提供拒否の意思を示していない限りは家族の同意が得られれば脳死移植が認められるようになり、また高額医療制度が利用できるようになったりしていますが、このまま臓器移植の道を突っ走っていいのでしょうか。

ブラヴァツキー夫人の心臓に関する言葉を引用するまでもなく、小松美彦・市野川容孝、田中智彦編『いのちの選択――今、考えたい脳死・臓器移植(岩波ブックレット782)』(岩波書店、2010)を読むと、脳死移植に疑問が湧きます。

脳死者から臓器を切り出すときには麻酔や筋肉弛緩剤が投与されるそうです。「脳死者に深くメスを入れただけで、脈拍や血圧が急上昇するばかりか、暴れ出して摘出手術どころではなくなってしまうからです」(15頁)とあります。

ずいぶん活発な死体ですね。科学に無知な人間は、驚かされることばかりです。次のようなニュース記事もあります。

心肺停止後、5分は意識がある!? 最新の脳神経学で分かった「死」
ニューズウィーク日本版 2018年3月6日(火)19時30分
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/03/5-40.php
心肺停止後、5分は意識がある!? 最新の脳神経学で分かった「死」
心臓が止まったり生命の兆しが見られなくなったりした後でも、脳内では3〜5分間ほど脳細胞や神経細胞が活動していることが分かった。

ブラヴァツキー夫人は、心臓に最後に死ぬ点があると書いており、ヨギが土中に埋められ肉体のすべての部分が死んでしまっても、この点が生きている限り、ヨギは復活することができると書いています。

心肺の停止が先か脳の活動の停止が先か……いずれにしても、最後に死ぬ一点が生きている限りは、ブラヴァツキー夫人の説に従えば、死んだように見えていたとしても、それは死ではないということになります。

ブラヴァツキー夫人のような日本でいえば江戸末期に生まれ明治時代に亡くなった人の説を持ってくるまでもなく、現代科学においてもこれほど不確かな「死」。臓器の必要に駆られて死んだかどうかわからないものを死と決めつけなければならないとしたら、これほど非科学的な話もないでしょう。

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2019年7月12日 (金)

緊迫感のあった安倍総理の街頭演説。ハイタッチはできなかったけれど……。

娘から前日、「安倍総理の街頭演説が明日(11日)あるよ。ポスターが貼ってあった」と聞き、3年前のことを思い出しました。わたしは、そのときと全く同じことを考え、迷いました。

2016年6月14日 (火)
街頭演説会で目撃した安倍首相、ハイタッチしたときの手の感触
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/06/post-39fb.html
自民党の党員ではないし、自民党が移民政策に舵を取り出したことには断固反対です。
また、「1億総活躍社会」にも反対で、結婚している2人のうちどちらか一方は家庭にいて、家庭生活を充実させ、地域や日本文化を豊かにすることができるような政策転換を求めたいのです。
このままでは治安は悪化する一方、家族や地域のつながりはバラバラになるばかり、日本文化は内部から崩壊してしまいます。

新自由主義政策が推し進められる中、安倍総理はそれを懸命に修正しようと頑張ってこられましたが、穴の開いたバケツに水ではないかと思ってしまいます。どこかで方向転換が必要だとしか思えません。

新自由主義もグローバリズムも共産主義も、所詮は国際金融家が作り出したプロジェクト名のようなものにすぎず、人類は彼らに操られてきた……という説が堂々と、国内外の識者たちによって語られるようになりました。以前であれば、出典はオカルト情報誌『ムー』かしらと思ったでしょう。

方向転換が必要だとしても、難しい問題です。

安倍総理の街頭演説は、経済問題と安全保障問題が主なテーマでした。憲法に自衛隊を明記する必要性を訴えて、説得力がありました。緊迫感に満ちた、迫力のある演説でした。今の日本を守ってくれる政治家は安倍総理以外にいないと思われました。

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ガラケーで撮ったので、ズームアップしてもこれで精一杯でした。かなりボケてしまいました。「皆さん、どんどん写真を撮って、SNSなどで拡散してください」とおっしゃっていたので、遠慮なく、撮ることができました。

安倍総理が応援なさったのは、自民現職の礒崎陽輔氏(61)です。総理の向かって右側にいらっしゃいます。

安倍総理の今回のハイタッチは前回より時間的に短く、わたしは前方の右端にいたので、お顔はよく見えたものの、ハイタッチは無理でした。その代わりにといってはナンですが、オーラが見えました。

そのかたの高級我が見せてくださったとしか思えないようなありありとした見えかたではなく、一般的な見えかたでもと申しましょうか。世間ではこの手前に見えるオーラ(発散物)を見て(オーラは奥が深いのです)、あれこれアドバイスしているようですね。

確かに、この段階のオーラを見ると、知的傾向や精神状態がある程度わかるようにも思えますが、何しろオーラは奥が深いものなのに、よくあれこれいえるものだなと思ってしまいます。

同一人物のオーラであっても、奥の領域のオーラに比べると、これは紺碧の空の遥か下界に見える雲のようなものかもしれませんが、それでも肉眼で見える色彩とは違い、ある一つの色で表現できたとしても、透明度や精妙度は千差万別です。

わたしには主に三つの色が見えました。一つの色が基調をなしており、もう一つの色がそれに微妙に溶けあったり浮かび上がったりしていて、残る一つの色はオーラというより想念形体というべきもので、特徴的な形体をしていました。この想念形体は一時的に見えました。

しかし、オーラに関することは個人情報(?)に類することだと思うので、このような抽象的な書きかたはできても、特定の個人と結び付けて具体的な色や形体を公開することはできません(例外的に、個人名を特定せずに言及したことはありましたが)。

オーラや想念形体の色は、色自らが雄弁にその意味を語っているように思えますが、神智学叢書の中のアニー・ベサントとリードビーターによる著書が参考になります。

過去記事でも紹介しましたが、アニー・ベサントとC・W・リードビーターの共著による“Thought‐Forms”(田中恵美子訳『―想念形体―思いは生きている』神智学協会日本ロッジ、1983)には、観察された沢山の想念形体のイラストがあり、解説がほどこされています。

それによると、あらゆる想念形体が出来る場合には、思いの特性は色を、思いの性質は形を、思いの確実さは輪郭の明瞭さを決定するという三つの一般的な原則があるそうです。

政治の話題がいつのまにか神秘主義的話題に。

2017年11月22日 (水)
リードビーターの講演の様子がわかる貴重な動画。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2017/11/post-dee3.html

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