カテゴリー「神秘主義」の327件の記事

2024年3月18日 (月)

長引いたコロナ。舅の死(ある因縁話)。百貨店でオーラの話。(19日に加筆あり)

カテゴリー「新型コロナ対策: イベルメクチン」記事一覧
https://elder.tea-nifty.com/blog/index_ivermectin_madame-n-blog.html

前記事で家族全員、コロナかインフルかはわかりませんが――たぶんコロナ――風邪症状が長引いたと書きました。イベルメクチンを使ったわりには長引いたので、何だったのだろうと思っています。普段であれば、翌日には風邪症状が消えるのです。

先週わたしは循環器クリニックの受診でしたが、体調は爽快で、結果もよいものでした。風邪症状に悩まされた10日ほどでしたが、綺麗に治ってホッとしました。

風邪症状が出たとき、左胸全体が点状にチクチクするような奇妙な痛みがありました。普段心臓の痛みは乳房の間――胸のど真ん中――で起きるので、筋肉痛なのかなと思いました。このような症状が出たのはわたしだけでした。そのあと、熱が出始めましたが、顎から頭に突き抜けるような痛みが間欠的に起きました。

コロナの前にはなかった症状が起きるので、気持ち悪いと思います。

夫は三半規管をやられたのか、視力がおかしかったといいました。これは相当に危ない出来事だったと思います。

その夜、夫は定年退職後から勤務しているホテルの夜間フロント・警備の仕事がありました。微熱があったので休まなくていいか尋ねると、「食欲もあるし、行けるよ」といいました。確かに見た目は元気そうだったので、わたしは「運転中少しでもおかしなことがあれば、安全なところで止めて、運転代行を頼むなりしてね」といいました。「うん」と夫。

ところが、運転を始めたところ、こちらに向かってきている1台のトラックが2台に見えたり、二車線が五車線に見えたりしたそうです。さすがにおかしいと思いながら、なんとか職場に行き着いたとか。

その異常な症状は、職場でイベルメクチンを服用したら治ったそうです(夫も娘も職場で何かあったときのための予備のイベルメクチンを携帯しています)。

「病院に行かなくていいいの?」とわたし。「さすがにおかしな症状が出たときは耳鼻科に行かなきゃと思ったけれど、イベルメクチンですぐに綺麗に治ったんだよ。帰宅時の運転にも全く問題なかった」と夫。

わたしにはメニエールの持病があるので、そんなにすぐに治るのだろうかと不安で、様子を窺っていました。

ただ病院に出かけたところで、コロナに関してはイベルメクチン以上の薬に出合えるとは思えなかったので、FLCCCのホームページで改めて「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の予防と治療に関するプロトコル」を閲覧しました。

娘とわたしは治ったはずの風邪症状が1度ぶりかえしました。「まさかレプリコンワクチンを治験した人からのシェディングではないよね」と話したりしましたが、2度目のぶりかえしはなかったので、ホッとしました。

アビガンも持っていますが(狂犬病ウイルスの話題が出たときに購入したのです)、素人が自己責任で使用するにはリスクが大きいと思いました。

イベルメクチンが効かないときは、増やすと大抵、効きます。これ以上の常備薬があるとはもはや思えません。薬局で買えるようになればいいのですが……。

風邪症状に見舞われる前に娘がわたしの誕生日の2月21日にお祝いに買って来てくれていた花束がずっと咲いていて(水を染みこませた土台に植え込んでありました)、仕舞にはドライフラワーになりました。この花のお陰で、風邪症状がいくらか和らいだ気がします。

Birthday221


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ところで、前回の記事から日が空いたのは、舅(夫の父親)が亡くなったからです。97歳の舅には血液疾患がありましたが、こんなに早く亡くなるとは思いませんでした。

亡くなる5日前くらいから、これまでには体験したことのなかった心霊現象めいた心象風景(?)を見ました。白い天井を包むようにふわふわとしたグレーっぽい黒雲が見えたのです。

昔からご訪問くださっているかたはご存じだと思いますが、わたしは神秘主義者ですので、空間に赤、黄、青、紫、黒、銀色、金色などの光の点や黒い浮遊物を霊的な視力で見ることは珍しくありません。エレナ・レーリッヒの文章に、わたしの見るものにそっくりな描写があるので、以下の記事のように何度か引用してきました。

2008年5月17日 (土)
第44回総選挙のときに見た不吉な兆し
https://elder.tea-nifty.com/blog/2008/05/12200510_ed30.html

英語で書かれたブラヴァツキー夫人の『シークレット・ドクトリン』をロシア語に訳したエレナ・レーリヒは、わたしもしばしば見る空間に見える光についていろいろと解説していますが、アグニヨガ協会訳で、ここにその断片をご紹介します。

……(引用ここから)……大抵黒い点は暗黒、又は混沌的なエネルギーの接近を意味する。その場合、万事に注意したほうが良い。だから私は小さな黒い点を見ると、それらが度々、困難の来ることを示したり、又は健康について警告していることを知るのである。点が大きければ大きい程、多ければ多い程、もっと注意を払うべきである。

時々、空間の中を泳いでいる大きなビロードのような黒い点を見ることができる。紫、青、銀色、そして金色の点は、いつもよい使者たちであり、あるいは師匠のご放射が近いことを示すものである。

黄色の点は、危険の警告である。赤い点は、大気の中の大変な緊張を示し、その時、地震や嵐や革命さえも予期できる。……(引用ここまで)……

わたしの場合、空間に届く青い点は、1995年にお亡くなりになった神智学の先生からの光のお手紙であることが多いように感じています。とても高貴にきらめく紫、銀色、金色の点はどなたからのものなのかわかりませんが、高揚感がもたらされ、すばらしい贈り物のように感じます。

黄、赤は警告を感じさせられるものです。黒い点及び浮遊物は幸いめったに見ることがありませんが、何か低級な世界と関係がある表示のように感じられます。

白い天井をふわふわと包むように現れたグレーがかった淡い黒い雲のようなものが何であるのか、さっぱりわかりませんでした。見間違いかと思い、何度も目をこすりましたが、5日間くらいは見えました。

そして8日の午前3時頃のこと、わたしはまだ起きていました。そのとき、窓が開いていないのに、室内を風が吹き抜け、動物は飼っていないのに仔犬か何かが家具にぶつかったような音がしました。

舅の亡くなったのがその頃だと知り、あのグレーがかった雲や風や物音は舅と関係があったのかもしれないと思いました。

もっとはっきりとした挨拶にお見えになるかたも珍しくないのですが、その方々は神智学の先生、カトリック教徒であったフランス文学者、熱心な浄土真宗の門徒であった中学校の校長を務めたかたでした。

昔、葬式に行った夫に就いてきた亡くなったばかりの叔父さん。●●ちゃんと昔と同じ声で呼びかけてきたわたしの幼なじみ、自分の贈った人形を見に来た大学時代からの友人(「わたしが死んだら髪の毛が伸びるわよ」と彼女はいいましたけれど、伸びませんでした)。そういえばフランス文学者もわたしの蔵書を見に来られたので、「昼下がりのカタルシス」という短編小説にしました(その場面を除けば、内容は完全なフィクションです)。

別れの挨拶に見える死者は全員、肉体を喪失していられるので、透明です(透明なのに、わたしにはどなたかわかることがほとんどです。尤も、オーラが見えたかたもありました)。その軽やかさを楽しんでいられるかたもあり、普通に歩いていられるかたもあり。

ですが、今回のような体験は初めてでした。舅はもしかしたら、いくらか霊媒気質だったのかもしれないとわたしの勝手な想像ですが、思いました。

夫の実家でひどい嫁いびりをしていた人々(義父母、よく滞在していた義妹家族)には案外霊媒気質が揃っていて、質の悪いカーマ・ルーパ(死者が脱ぎ捨てていった物質に関する精神的、肉体と欲望によって作られた主観的な形体※H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版の用語解説「カーマ・ルーパ」を参照されたい)の悪影響を受けていたのかもしれません。生きている人々は今も。

わたしのハートはその汚くよどんだ雰囲気に耐えられなくなり、心臓を悪くして、子供たちが中学生のころにはわたしは夫の実家には行かなくなっていました。子供たちも行かなくなり、夫は時々行っていましたが、だいたい不機嫌な顔で帰ってきました。次第に夫もほとんど行かなくなっていましたが、時々義母に呼ばれます。

距離を置いて正解だったと今は思っています。源平、元寇時代に遡る因縁があるようにも思われます。

義妹のご主人は平家の子孫を根絶やしにするために遣わされた源氏系の人々が住んだと伝えられる集落辺りの出身です。そして、夫の祖父は自分は平家の子孫だといっていたそうです。夫は半信半疑。「ただの海賊か、平家よりは源氏の側ではなかったの?」などといいます。

源氏と平家は出自がわからなくなるくらい入り乱れていたりしますが、夫の先祖が平家と関係がなかったとはいいきれません。夫の亡くなった親友は間違いなく平家の子孫で、まだ続いている一門の集まりに呼ばれるといっていました。

しかも、わたしの先祖は少弐氏の部下として(わたしの母方の先祖は江上氏と関係が深いようです)、夫の先祖は松浦軍の一派として、共に元寇を戦い抜いたことがだいたいわかっています。

何にせよ、まだ彼ら――特に義妹夫婦――とのおつきあいは残っていて、義父の死後、さっそく彼らが法的常識をはみ出すようなことをいってきました。もはや旧帝大を出たエリート商社マンだったとは思えない義妹のご主人。夫と一緒にわたしたちは法律を参照して、常識的な判断に従うだけだと思っています。

これを読んでくださっているかたは、因縁話を絡めた昔話にうんざりなさったでしょう。小説の下書きとでも思ってください。

話が逸れましたが、いずれにせよ、初七日ごろ、皆さんどこかへ行かれます。皆さん無事に成仏なさったと感じています。

神秘主義的な話題になったついでに、先日百貨店へ娘と出かけたときのこと。物産展のティー売り場で色々と試飲させていただき、その中から3種類買い求め、そこを離れました。娘は別の階へ行く用事があり、あとでまた物産展で待ち合わせようということになりました。

人が少なくなっていました。娘はまだだろうかと思いながら歩いていると、ティー売り場の年輩の売り子さんに呼び止められました。

そのかたの目が星のように輝いているではありませんか。「あなた、先ほどいらしたかたよね? でも何だか違った人に見えるわ。普通、ほとんどの人には見えないと思うけれど、もうあなたは圧倒的なんですよ。それが他の誰にもわからないのが不思議なくらい。こちらに歩いてこられたとき、スポットライトの中を燦然と輝きながら歩いてくる女優さんみたいに見えました。何て綺麗なオーラなんでしょう……」とそのかたが囁くようにおっしゃったので、びっくりしました。

竜王会の大会で、一緒に参加した複数の人々からオーラが綺麗だと褒められたことがありましたが、それはずっと昔のことでしたし、今ではわたしはおばあさん。本当に驚きました。わたしは「実はわたしにもオーラが時々見えるのですよ」と打ち明けて、お別れしました。

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2023年8月 6日 (日)

小指が立つ癖。モーツァルトのロンド(ニ長調 K 485)、パッヘルベル「カノン」。ピタゴラスは弟子たちの魂を音楽によって矯正しました。

電子ピアノ(ピアノのお稽古ごっこ)の話題です。

以下の過去記事で、夫のまむし指の問題を書きましたが、それは直りました。

2023年7月13日 (木)
ピアノの「まむし」指
https://elder.tea-nifty.com/blog/2023/07/post-1d8572.html

すると、今度は、弾いていない左手の小指を立てる癖が表れました。注意すると、すぐに直りましたけれど、「どうしても、力が入ってしまうんだ」と夫は自分で原因を分析していました。

以下の記事を閲覧すると、夫の分析は的を射たものであるようです。

ピアノを弾くときに小指が立つ!立たないようにする練習法」『だいすきおんがく!』
https://daisukiongaku.com/pinky-when-playing-the-piano/

そのあとはスムーズにいきました。

丹内真弓「ピアノの教科書」(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2019)の練習曲5《よろこびのうた/作曲:ベートーヴェン》Part2 は合格しました。その次の練習は自分でかなりやっていたので、ここも合格。

練習曲6《よろこびのうた/作曲:ベートーヴェン》Part3 に入りました。左手の伴奏が複雑になります。全部で3ページあります。まずは1ページ。夫は新しい顔をした「よろこびのうた」に新鮮さを覚えると同時に緊張しているようで、わたしも思わず緊張しましたが、ここまで来た歓びを共有していました。

わたしは45年ぶりくらいのピアノの再開を独学でするに当たり、浦島太郎状態でしたから、楽譜も気ままな選び方でした。

  • 丹内真弓「ピアノの教科書」(ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス、2019)
  • エルネスト・ヴァン・ド・ヴェルド著、安川加壽子訳「新版 メトードローズ・ピアノ教則本 ピアノの1年生」(‎音楽之友社、2022)
  • 「ソナチネ・アルバム 1」(音楽之友社、1955)
  • 市田儀一郎「J.S.バッハインヴェンションとシンフォニア」(全音楽譜出版社、1987)

「ピアノの教科書」「メトードローズ」は自己卒業(?)しました。昔弾いたバイエル、ツェルニー30番、ハノン、ブルグミュラーは、迷いつつスルーしています。急がば回れで、ハノンのような指の訓練はすべきかもしれませんが、あくまで楽しみとして続けたいので、自分が弾きたいものを弾くことを優先したいと考えています。

ブルグミュラーもすべきだと感じましたが、昔は大好きだったブルグミュラーがなぜか今は嫌いになってしまったのです。それはわたしが子供だったころとは違って、文学に没頭した長い年月があるためか、タイトル通りの曲の作りが何かもう意外性がなさすぎて耐えられないのです。

ブルグミュラーはどれも美しい曲なのに、こんなこと書いてしまって、すみません。でも、偽らざる感想です。そういう意味では弾くたびにどこか意外性があり、底知れない深みを感じさせられるバッハが昔も今も好きでたまりません。

インヴェンションの2番はまだ自己合格できていません。急ぐ必要はないので、ちゃんと弾けるようになるまで、頑張りたいと思います。

「ソナチネ・アルバム 1」(音楽之友社、1955)の18番から最後の30番までは、古典およびロマン派の代表的作曲家の小品が収められていると解説にあり、18番は《平均律クラヴィーア曲集》の第1巻,第1番のプレリュードです。現在の課題である2番そっちのけで弾きたくなり、自己合格しました。

2番はまだ第1楽章を弾いています。弾いているうちにこの曲に魅了されるようになりましたが、わたしには難しいです。もう少しすらすら弾けるようにならないと、第2楽章に進めません。

これだけでも難しいのに、解説を読んでいるうちに、23番に収められているモーツァルトのロンド(ニ長調 K 485)を弾きたくなってしまいました。解説にはこのように紹介されています。

……(引用ここから)……

このニ長調のロンドは初歩の学習用教材としてもっとも親しまれている曲です。また,そればかりでなくモーツァルトの独特の明快さ,優美さ,そして気品の高さすべて感じさせる名曲として,この曲は演奏会のプログラムの中で,大曲のあいだにひかれても決して聞き劣りのしない曲でしょう。

……(引用ここまで)……

確かに、ちょっと検索しただけでも、ギーゼキング、アラウ、ホロヴィッツ、アリシア・デ・ラローチャ、内田光子……など名だたるピアニストの演奏が出てきます。聞き比べたところでは、わたしはアリシア・デ・ラローチャの落ち着きと輝かしさのある演奏が好きです。

以下の長井充氏の演奏も大好きです。

Mozart Rondo in D-Dur KV485 (Nagai)
2525sagi
https://youtu.be/bxH5dfPRt3c

一見、簡単に見えたので、弾きたいと思ったということもありますが、すぐに難しいことがわかり、もう少しソナチネの他の曲を勉強してからにすればよかったと後悔しました。

モーツァルトは転調の実験をしているのか、面白がっているのか、曲想が必然的にそうさせたのかはわかりませんが、うーん、めまぐるしくて難しい。難易度はDです。

装飾音の勉強からしなくては。以下の記事、動画は参考になりました。

「装飾音」「装飾記号」に関する基礎知識を理解しよう!」」『OTO×NOMA』
https://kensukeinage.com/musical_grammar_grace_note_symbol/

トリルのコツ【トリルの正体】
こっこのピアノ
https://youtu.be/hUSqBJsUaPw

モーツァルトのトリル/上から弾くの?下から弾くの?両手の合わせ方練習など
こっこのピアノ
https://youtu.be/co5LT3JBfjs

とりあえず最初の2ページ、弾いています。

「オトナの簡単ピアノ がんばらずに弾ける初心者のクラシック」(シンコーミュージック、2021)の中の「主よ、人の望みの喜びよ(バッハ)」を練習の度に弾いていると前に書きましたが、もう一曲、「カノン(パッヘルベル)」が加わりました。

ピタゴラスは弟子たちの魂を音楽によって矯正した――とイアンブリコスは書いています(水地宗明訳『ピタゴラス的生き方』京都大学学術出版会、2011、6ページ)。

バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」やパッヘルベル「カノン」を弾いていると、本当に魂が矯正され、浄化されるような感じがします。以下の動画の概要欄に楽譜のPDFを無料でダウンロードできるとあったので、ダウンロードさせていただき、プリントアウトして弾いてみました。「オトナの簡単ピアノ……」のより少し難しいですが、弾きやすいです。


パッヘルベルのカノン(ピアノ楽譜)
StudioMahoroba
https://youtu.be/5NwKUr646Bk

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2022年12月20日 (火)

年賀状を用意する時期になりました。スペース座談会「第一回ワクチン後遺症を語る会〜メディアでは報道されない真実〜」。コオロギせんべい(グレート・リセット関連)。魂の無い機械人間?(ツイッターでのやりとり)

もう12月になってしまいました。散々な年でしたね。日本がどう散々だったかは整理しておく必要があると考えていますが、今年のワタクシ的宿題が、まだ手さえつけていない有様です。

それでも、来年への期待を込めて年賀状は出したいと考えています。これまでに紹介してきた年賀状素材サイトを回ってみたところ、充実した素材が発表されていました。

今年はまだ紹介記事を書いていませんが、以下の記事からリンク先のサイトをご訪問になってみてください。市販の年賀状にはなかなかない、こだわりと精神性を感じさせられる素材との出合いが待っていますよ。

ラベル『おすすめ年賀状テンプレート・イラスト』の投稿「Nのめもちょう」

どうしても気になるのが、ワクチン問題、グレート・リセット問題です。

それから安倍元総理の暗殺も未解決のまま、早くも事件そのものを葬り去ろうとしているかのような動きが気になります。そのような中、果敢に謎ーー闇ーーに挑戦なさっている方々がおられます。これは別記事になるでしょう。

ワクチン関係では、長尾和宏医師主催の第一回ワクチン後遺症を語る会〜メディアでは報道されない真実〜がスペースでありました。わたしはまだ全部を視聴できていませんが、接種者も非接種者もぜひ御視聴ください。

Trilliana 華@Trilliana_z·15時間
昨夜収録された長尾和宏医師主催の第一回ワクチン後遺症を語る会〜メディアでは報道されない真実〜が凄すぎます。
何と一晩で13万人視聴!国内スペース史上新記録。全国民が報らなくてはならない驚愕の現実。まだまだ拡散をお願いします!

娘の勤務する病院には、先日、19歳の脳梗塞患者が来たそうです。19歳ですよ! ワクチンとの関係は不明ですが、2回接種しているそうです。

そして我が国の経済問題を考える上で、グレート・リセット問題を含めないわけにはいきません。

ダボス会議_岸田首相特別講演「今、我々は、グレート・リセットの先の世界を描いて行かなければなりません」
Mayo97 Published January 22, 2022
https://rumble.com/vt1yn4-48800416.html

これについては以下の拙過去記事をご参照ください。

グレート・リセットの目標は、資本主義と民主主義をリセットして全体主義的な高度管理社会への移行を実現することだそうで、早い話が、今の中国がある程度実現しているデジタル共産主義を推し進めた社会と考えたらいいでしょうね。以下のニュース記事参照。

グレート・リセットの提唱者クラウス・シュワブや組織の誕生を支えた他のグローバルエリートの背景を紹介した貴重な動画を紹介します。

グレート・リセット ドキュメンタリー (エピソード1)_v1.2
Mayo97 Published August 13, 2022
https://rumble.com/v1fu659--1-v1.2.html

人口削減やムーンショット計画と関係があるといわれているワクチン推進、昆虫食など推進している彼らは、気違いとしか思えません。確か、無印食品が既にコオロギせんべいを販売しています。

過日、駅で、娘と見た袋ラーメンの催し物にあったラーメンの中に、スープの素にコオロギの粉末の入ったラーメンがさりげなく混じっていました。ゾッとしながら、美味しく安全そうな「すみれ」ラーメンを3袋買い、家族で美味しくいただきましたが、あのコオロギラーメンのことが忘れられません。

ブックマークし忘れましたが、コオロギの外骨格には発がん性があり、免疫系を誘発する可能性があるという研究報告へのリンクのあるツイートが流れてきました。アレルギー体質の方は特に要注意かと思います。

で、遺伝子ワクチンを接種することによって、以下のようなことに怯えている方々がいたので、思わず書き込んでしまいました。

ベガ@5mBI5W8AoElYCKd
日本人の約8割が接種済みです。しかも2回接種だけでなく接種率、接種回数が世界一です。
これはもう手が付けられない状態です。
そしてこれを接種し遺伝子が変わった両親から生まれてくる子供たちの遺伝子も変わってしまう可能性があります。そうなると、未来の日本人はこれまでの日本人の遺伝子とは異
午後2:34 · 2022年12月14日

ニョキッ@6HM598U0BT2FKy6·12月14日
返信先: @5mBI5W8AoElYCKdさん
ハイブリット なってしまったものは仕方ないヒューマノイドとの共存を考えねばなりません でもこの進化形というのはある意味すごくないですか?人類史上初めてで体調さえ崩さなければ私には興味の対象です

ベガ@5mBI5W8AoElYCKd·12月15日
返信先: @6HM598U0BT2FKy6さん
いいえ!恐怖でしかありません。自分の意思がなくなり
ロボット化するようですよ。魂の無い機械人間とでもいえるのでは?!ヒットラーの予言通り。

tsuyoshi@oyatuyo·12月15日
返信先: @5mBI5W8AoElYCKdさん
残念ながら、それが今回の計画の本丸だと思っていました。遺伝子に目をつけられましたね。

naotsuka_maki@NaotsukaM
返信先: @oyatuyoさん, @5mBI5W8AoElYCKdさん @6HM598U0BT2FKy6 さん

神秘主義的観点から考えれば、如何にデジタル支配が進んでも、物質次元の低級な出来事にすぎませんから、魂なし人間にはならないでしょうが、デジタル支配によって、霊媒状態に陥いることが考えられます。この世での霊的進歩が阻害され、人類の退化現象が起きるでしょう。
午後0:00 · 2022年12月15日

これは神智学の教えを参考にした、わたしの考えにすぎませんが。

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2022年11月 4日 (金)

神秘主義エッセーブログより、改稿済み「71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」を紹介

「71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」『マダムNの神秘主義的エッセー』。URL: https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

 

2018年8月に、『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)を祐徳博物館から購入した。それを読むと、萬子媛は病死なさったのではないか――との推測が成り立つ。一方では、萬子媛には断食入定の伝承があり、その可能性も否定し去ることはできないと思われるので、当エッセーの記述は訂正せず、そのままにしておくことをお断わりしておく。(2018年10月14日、筆者)

目次

  1. 萬子媛について復習
  2. 2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学する
  3. 萬子媛の身長
  4. わたしが萬子媛を高級霊と疑わない理由
  5. 断食入定の伝承
  6. 何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉
  7. カーマ・ルーパという、物質に関するあらゆる欲望によって作られた主観的な形体
  8. どのような地位にある教師なのかは知りようがない


萬子媛について復習

もしかしたら、自分ではその自覚がなくとも、誰にでもあるはずの霊媒性質が強まったがために低級霊と縁ができてしまったのかもしれないという可能性を排除せず、緊張の中で参拝してきた。

しかし、これまでの経験から、強まったのは霊媒性質ではなく、健全な神秘主義的感受性だと確信し、今回わたしは警戒心よりも、神様と呼ばれる、生前から徳と神通力で知られた方に再会できる期待感で胸を膨らませながら出かけた。

深窓の麗人を訪問するような気持になる一方では、これまでのこと全てが夢だったのではないか、もし夢でなかったとしても萬子媛はわたしのことを覚えていてくださるだろうか……という甘美な期待感と恐ろしさに似た気持ちとが交錯した。

ところで、昔の日本の系図には女性の名前は書かれていないことが多く、実は萬子媛の名前もわからない。郷土史家の迎昭典氏が、こうした基本的なことから御教示くださった。

史料から判明しているのは、剃髪して尼となり、瑞顔実麟大師と号したこと。また、謚が祐徳院殿瑞顔実麒大師というくらいである。

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。

明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

ここでざっと萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚*1の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。

1705年閏4月10日、80歳で没。諡、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。


2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学する

2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学した。

地上と本殿をつなぐエレベーターができていた。階段での移動が大変な人や移動するエレベーターの中から景色を眺めたい人には便利だ。

萬子媛はあの世の方だから、お元気でないことはないと思うが、それでも変わりなくボランティアを続けていらっしゃることを確認できることは嬉しいことだし、高級霊としての品格を本当にさりげなく伝えていただき、出かけるたびに萬子媛が好きになる。

高級霊と書いたが、地上から離れられずにいる低級霊とは到底考えられない高貴さを感じるから高級霊と書いた。

参拝者を母親のように見守り、太陽の光のようなオーラで抱擁してくださる萬子媛のような方を長い時間をかけて日本人自身が育んできたことを思えば、祐徳稲荷神社のような文化財は本当に日本の宝物だと思う。

今回、萬子媛の御遺物が収められた祐徳博物館に長居した。メモをとるためにあまりに長い時間いたので、夫と娘はソファで寝てしまっていた。

博物館を出るときに長居の失礼をお詫びするつもりだったけれど、男女の職員のお二人が事務所の中から優しい快い表情を浮かべてこちらを見てくださったので、感謝のお辞儀をして出た。

前に博物館を見学したのがいつだったか、正確には思い出せない。そのときの見学で記憶に残っていたのは扇面和歌、大和物語を書写したもの、御掻巻といった僅かな品だった。今回はじっくり見ることができたので、小説に手を加える際の参考になる。

遺愛の名琴と説明のある楽器を見、感激した。小説の第一稿を書いているときに、気品の高い女性が筝を弾いている姿が目に浮かび、その場面を取り入れた。萬子媛は本当に箏を弾かれていたようだ。琴と普段呼ばれている楽器は音楽専門サイトによると筝であるようだが(琴には柱がない)、小説にはどちらの表現を使うかで迷う。

前の訪問時には見落としていたのか、僧侶姿の萬子媛の肖像画をじっくり見ることができた。郷土史家からいただいた資料の中にこの萬子媛の肖像画の写真のコピーがあり、嬉しくてよく眺めていた。

現物はずっと大きく、色合いもこまやかなため、わたしの中で萬子媛の容貌が修正された。厳めしい印象だったのが、もっと軽やかな、優しい、明るい表情に見えた。わたしが思い描くイメージにぴったりだ。貼りついたように肖像画の前を動くことができなかった。

やはり、若いころは相当な美人だったのではないだろうか。老境に入ってさえ、色白で卵形のお顔に鼻筋が通り、如何にも聡明そうな目は高齢のせいで形がはっきりしないが、奥二重か二重だろう。ほどよく小さめの口、薄めの唇、凜とした口元。

家内安全の御祈願をお願いした。たっぷり30分、神楽殿で御祈願していただいた。巫女さんの御神楽もあった。

御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。

寒いくらいにクーラーが利いていたのだが、背中がずっと温かく、萬子媛から放射されるオーラの温もりだと感じた。太陽さながらの萬子媛だ。

しかし、神秘主義的な現象だったためか、今回も夫はずっと寒かったといった。娘も温かいとは思わなかったようだ。わたしは汗が出るくらいだった。暑い日だったから、もしクーラーが効いていなかったら、こんな確認もできなかったことだろう。


萬子媛の身長

萬子媛を背後に感じていたとき、江戸時代に生きた萬子媛はもしかしたら小柄だったのでは、と思った。わたしは夫と娘に挟まれて長椅子の真ん中に座っていた。萬子媛はわたしのすぐ後ろに立っていらっしゃる気配があったのだ。

このときまで、わたしは萬子媛を長身だと思い込んでいた。前に石壁社を参拝したときの圧倒的なイメージがあったためだろう。小説にも長身のイメージで書いたものの、萬子媛の身長についてはずっと気にかかっていた。

まるで、その疑問に答えるかのように、萬子媛がわたしのすぐ後ろに江戸時代の御姿で立っていらっしゃるのが心の鏡にほのかに映って見えたのが神秘的だった。

石壁社で初めて萬子媛に語りかけ、わたしの語りかけに驚かれた萬子媛が後ろから圧倒的なまでのオーラを放射されたとき、まるで女巨人のような気がした。

あの世ではどんな御姿でいらっしゃるのかわからないが、この世に通勤(?)なさるときは、地上のイメージに合わせて、江戸時代の御姿をとっていらっしゃるような気がする。

「江戸時代がわかるお役立ちサイト 江戸時代 Campus」*2に、江戸時代の人の平均身長は「調査した学者によって異なりますが、だいたい男性は155cm~157cm、女性は143cm~145cmほどであったと考えられています」とあって、それからすると萬子媛の身長は平均身長くらいだったのではないだろうか。小柄なわたしが小柄と感じたくらいだから、それくらいだと思えた。

こういう場所での30分という時間は半端ではなく、萬子媛の臨在を感じていながらふと緊張感の途切れる瞬間が何度もあり、あれこれ雑念が浮かんだ。

あまりに色々なことを心の中でつぶやいていたので、微笑まれる気配や微かに戦慄される気配の伝わってきた瞬間があった。

「日本は今、危険な状況にあると思います。どうか日本をお守りください」とつぶやいたとき、萬子媛が微かに戦慄なさるのが伝わってきた。萬子媛の最も近くに控えていた方が頷かれたような気配も、ほのかに伝わってきた。

萬子媛がボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の方々を感じることがあるからだ。萬子媛が黄檗宗の禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちなのかどうかはわからない。

わたしの願い事に萬子媛がなぜ微かに戦慄なさったのかはわからなかった。日本が本当に危ないからなのか、萬子媛の守備範囲を超えた願事をしたからなのか、あるいは真剣に受けとめられた武者震いのようなものなのか……

もう一度、微かな戦慄が伝わってきたのは、「萬子媛の小説を書きました。手直しが必要だと思っていますが、もしこの小説に価値がないのであれば、決して世に出ることがありませんように。でも、価値があるのでしたら、世に出ることができますように。わたしは萬子媛のような方の存在を日本ばかりか世界にも知らしめたい……」とつぶやいたときだった。

加筆修正が必要な段階でどうかとは思いつつも、ご報告までと思い、プリントアウトした小説を持参し、御祈願の間ずっと背後にいらっしゃる萬子媛の方に向けて膝に置いていた。

微笑まれたのは、「祐徳稲荷神社に少しは寄付できるくらいのお金があったらな……」と、これは雑念だったが、思わず心の中でつぶやいてしまったときだった。

相手が生きてる人であろうとあの世の人であろうと、神秘主義者にとっては神智学でいわれるように、同じように「思いは生きている」ので、相手の反応が伝わってくることがある。


わたしが萬子媛を高級霊と疑わない理由

わたしが萬子媛を高級霊と疑わないのは、江戸時代の人でいらしたときの豊かな情緒、優れた知性をおそらくは基本として、あの世から人類のためにボランティアをしている方々に特有の、といいたくなるような、完璧といってよい自己管理能力を感じさせられるからだ。

萬子媛の気配を感じるのはわたしの感受性が優れているためであって(?)、萬子媛に隙があるわけではないと思う。

その全てのほのかな気配が何ともいえない優美さ、快い率直さで、392年前に地上に誕生して生きていらしたときの個性を感じさせられる。お亡くなりになったときは高齢だったけれど、わたしに伝わってくるのは妙齢のご婦人を連想させられる若々しい印象だ。

312年前に入寂された方を取材できるなんて、神秘主義者の特権だ。萬子媛が神様と呼ばれるにふさわしい高級霊だと確信できなければ、この世で働いているあの世的な存在を観察しようなんて思わなかっただろう。

これまでの経験から推測するに、萬子媛の御公務は御祈願の窓口が開いている間だと思われる。それ以外の時間はあの世にいらっしゃるのだろう。御祈願が終わるころ、側に控えていた方に促されるようにして去っていかれた気配を感じた。

前回参拝したときもそうだったのだが、童謡「夕焼け小焼け」が流れたあとに萬子媛が祀られた石壁社にお参りしても、何も感じられなかった。哀しいくらいに空っぽに感じられた。


断食入定の伝承

ところで、わたしの歴史小説の初稿を読み、「なぜ、萬子媛は餓死したの?」と尋ねた友人がいた。「えっ?」と、わたしは言葉をなくした。

わたしは歴史小説の中で、萬子媛の断食入定を――それは伝承によるものだが――クライマックスと位置づけ、詳しく書いたつもりだった。さらに丁寧に書くべきか?

「萬子媛の入定がわかりにくかったみたい。あれじゃ、わからなかった?」と夫に尋ねると、「わかるも何も、説明がなくったって、坊主が食を断って亡くなったと聞けば、即身成仏だと思うだろ、普通」

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といえるものが『祐徳開山瑞顔大師行業記』で、文人大名として有名だった義理の息子直條によって、萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述された。

郷土史家が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料である。直條の記述を生かしたいと思い、『祐徳開山瑞顔大師行業記』から引用したりしたのが、難しかったのだろうか。

あるいは、断食入定を決意するまでの心情表現が不足していて、なぜ断食入定にまで至ったのかが理解できなかったということかもしれない。禅院での生活にもっと踏み込む必要がありそうだ。入定について、ウィキペディア「入定」の解説を引用しておこう。

入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。永遠の瞑想に入ることを言う。
原義としての「入定」(単に瞑想に入ること)と区別するため、生入定(いきにゅうじょう)という俗称もある。
密教の教義において、僧は死なず、生死の境を超え弥勒出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入ると考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ち仏になるため、即身仏と呼ばれる。
……(中略)……
江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。

……(中略)……
生入定を作ることは、現在では自殺幇助罪または死体損壊罪・死体遺棄罪に触れるため、事実上不可能になっている。

 

修行方法

まず、木食修行を行う。
死後、腐敗しないよう肉体を整える。
米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。
次に、土中入定を行う。
土中に石室を設け、そこに入る。
竹筒で空気穴を設け、完全に埋める。
僧は、石室の中で断食をしながら鐘を鳴らし読経するが、やがて音が聞こえなくなり、長い歳月の後(約56億7000万年後)に弥勒菩薩と共に姿を現すとされる。
*3

わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛には深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な、高級霊の雰囲気が伝わってくる。

それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧達ではないかとどうしても思えてくるのだ。

萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。

何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

こうした神秘主義的感性で取材したことを参考にすれば、禅院の生活やムードをもう少し踏み込んで描けるかもしれない。次に祐徳稲荷神社に行くときは、鹿島藩鍋島家の菩提寺「普明寺」にも行きたいと考えている。

普明寺は、鍋島直朝の長男・断橋の開基により、師僧・桂厳性幢に開山となって貰い、創建された寺である。断橋は鍋島直孝の僧名。

普明寺の見学動画が出て来ないか検索していたら、祐徳稲荷神社の動画が沢山出てきた。前に検索したときはもっと少なかった気がする。

そうした動画の一つに、読経(般若心経?)する白装束の人々が映し出されていた。2012年の12月に公開された「祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)」というタイトルの動画である。*4

4:28 ごろから萬子媛(御神名萬媛命)をお祀した石壁社が出てくる。読経する人々が登場するのは 5:13 ごろから。

神社で般若心経が唱えられることがあるとは知っていたが、実際にそうしている人々を見たのは初めてだったので、驚いた。これは明治政府によって禁止された神仏習合の名残りと考えていいのだろうか? 

前掲のウィキペディア「入定」によると、入定とは「僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする」行為である。

であるならば、入定を果たした萬子媛は、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるのだと思われる。

博物館で見学した萬子媛の御遺物の中で、僧侶時代のものと思われるものに、御袈裟(みけさ)と鉄鉢があった。御袈裟には「御年60才のころ、普明寺の末寺として祐徳院を草創、出家せられた」と説明があった。

御遺物の中でも最も印象的だったのが、畳まれてひっそりと置かれたこの御袈裟だった。褪せているが、色は鬱金色(うこんいろ)、蒸栗色(むしぐりいろ)といったもので、萬子媛の肖像画を連想させた。

素材は麻のように見えた。夏用なのだろうか。冬にこれでは寒いだろう。意外なくらいに慎ましく見える萬子媛の尼僧時代の衣服から、しばし目が離せなかった。

鉄鉢は「てっぱつ」と読むようだ。鉄鉢とは、「托鉢(タクハツ)僧が信者から米などを受ける。鉄製のはち」(『新明解国語辞典 第五版(特装版)』三省堂、1999)のことだそうだ。

また、金字で書写された「金剛般若波羅蜜経」があった。「臨済禅、黄檗禅 公式サイト」*5によると、臨済宗・黄檗宗でよく誦まれるお経には次のようなものがある(他にも、各派本山のご開山の遺誡や和讃なども含め、多くのお経が誦まれるという)。

開経偈
懺悔文
三帰戒
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
消災妙吉祥神呪(消災呪)
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
大悲円満無礙神呪(大悲呪)
開甘露門(施餓鬼)
仏頂尊勝陀羅尼
金剛般若波羅蜜経(金剛経)
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
延命十句観音経
四弘誓願文
舎利礼文
白隠禅師坐禅和讃

このうち、経名を含めてわずか276文字の『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経) (まかはんにゃはらみたしんぎょう)』は宗派を問わず広く誦まれるお経で、仏さまの教えのエッセンスともいえ、この題目は「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されるという。

『金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみきょう)』は般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているもの。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ誦むのだそうだ。

博物館で見学したときに見た、この般若経典のことが記憶に残ったためか、見学後に神楽殿で30分間家内安全の御祈願をしていただいていたときのことだった。

前述したように、わたしたち家族は長椅子に座っていたのだが、その背後に萬子媛を中心に見えない世界の大勢の方々――ボランティア集団と呼びたくなる統一感のある方々――のいらっしゃるのがわかった(お仕事の一環のような感じであった)。

映像的には内的鏡にはほんのり映ったような気がするだけなのだが、なぜかそうした方々の挙動や心の動き、そして萬子媛のオーラは――色彩より熱として――鮮明に感じられた。


何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉

前述したように、わたしが心の中でつぶやいたことは筒抜けで、それに対する萬子媛やその近くにいる方々の反応が伝わってきた瞬間が何度かあった(願い事も雑念も筒抜けであるから、参拝するときは願い事の整理ときよらかな心持ちが肝要)。

博物館で見た般若経典のことが頭をよぎり、わたしはふと「波羅蜜多」と2回心の中でつぶやいた。わたしが見たのは『金剛般若波羅蜜経』だったのだが、つぶやきの対象は『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の方だった。

つぶやいたとき、萬子媛から、すぐさま動揺の気配が伝わってきて、精妙な情感が音楽のように流れてきた。郷愁の交じった、きよらかな心の動きが感じられた。こうした心の動きという点では、生きている人間もあの世の方々も変わらない。

これも前述したことで、高級霊は自己管理能力に優れていることを感じさせる――幼い頃からわたしを見守っていてくださっている方々もそうである――が、情感という点ではわたしが知っているこの世の誰よりもはるかに豊かで、香り高い。

心の動きのえもいわれぬ香しさが伝わってくるために、蜜蜂が花に惹かれるようにわたしは萬子媛に惹かれるのだ。

萬子媛はもっと聴こうとするかのように、こちらへ一心に注意を傾けておられるのがわかった。

『金剛般若波羅蜜経』は御遺物にあったのだから愛誦なさっていたのは当然のこととして、『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』という言葉に強く反応されたのは、それだけ生前、般若心経を愛誦なさっていたからだろう。

神様として祀られるようになった萬子媛は、生死の境を超えて衆生救済を目的とする入定を果たした方らしく、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるように思われる。

しかしながら、萬子媛の生前は大名の奥方でありながら出家し、晩年の20年を禅院を主宰して入定まで行った僧侶だったのだ。わたしが何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉に、それが甘露か何かであるかのように反応なさった萬子媛、否、瑞顔実麟大師がどれほど僧侶に徹した方だったのかということが自ずと想像された。

わたしは萬子媛が愛誦し指針とされたに違いない『般若心経』を暗記することにした。

ちなみに、このあとで「オウム、アモギャーヴァイロウ、キャーナーマハムドラ、マニペードム、デュヴァラー、プラヴァルスターヤー、ウーン」という竜王会で教わったマントラムを意図的につぶやいてみたのだが、こちらのほうは反応が感じられなかった。

萬子媛を囲むように控えている大勢の方々に幾分白けたような気配さえ漂ったところからすると、マントラムは意味不明な言葉と受け取られたのだと思われる。

現代人と変わりないように感じられるのに、やはり江戸時代に生きた方々ということなのだろうか。現代人であれば、マントラムの内容はわからなくとも、こうした言葉がインド由来の真言であることぐらいの察しはつくだろうから。

エッセー 59 「神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ②ハッチ判事」で紹介したエルザ・バーカー(宮内もとこ訳)『死者Xから来た手紙―友よ、死を恐れるな』(同朋社、1996)には、次のようなことが書かれている。

物質界と霊界が交流するとき、物質界にいるきみたちは、霊界にいるわれわれがなんでも知っていると思いがちだ。きみたちは、われわれが占い師のように未来を予言し、地球の裏側でおきていることを教えてくれると思っている。まれにできることもあるが、ふつうわれわれにはそういうことはできない。*6

あの方々の端然とした統一感のとれているところが、地上界のためにボランティア活動を行っているあの世の方々の特徴なのか、かつて江戸時代に生きた方々ならではの特徴なのか、わたしにはわからない。

いずれにしても、萬子媛の清麗な雰囲気こそは、高級霊のしるしだとわたしは考えている。

御祈願が終わるころ、萬子媛は近くに控えている方々に促されるようにして、どこかへ去って行かれた。全員がさーっと……一斉に気配が消えた。『竹取物語』の中の昇天するかぐや姫を連想してしまった。上方へ消えて行かれた気がしたのだ。


カーマ・ルーパという、物質に関するあらゆる欲望によって作られた主観的な形体

そういえば、石壁社で萬子媛に語りかける以前に参拝したとき、高いところから夫を見てハッと警戒した方々がいたのを感じたことがあった。

上空を漂いながら警備している天上的な女性的な方々――といった映像を、わたしは内的鏡で見たように思った。そのときはその場面が何を意味するのかがわからなかった。あのころはまだ亡き義祖父のカーマ・ルーパが夫に憑依していたから、そのことが関係していたのではないだろうか。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「カーマ・ルーパ」によれば、カーマ・ルーパとは次のようなものである。

形而上的に言えば、また我々の哲学的観点からすると、物質に関するあらゆる精神的、肉体的欲望と思いによって作られた主観的な形体をいう。この形体は肉体の死後生き残る。……(中略)……高級自我は新たな化身の時が来るまでデヴァチャンの状態にいる。以前の人格の影は、その新しい住み処であるカーマ・ローカに取り残される。かつて人間であった時のかすかな写しであるこの影は、しばらくの間生き延びるが、その期間は影に残る物質性の要素によって異なり、それは故人の生き方が決定するのである。……(後略)……*7

デヴァチャンとは極楽。カーマ・ローカとは黄泉、冥界、ハデスのことである。

遠い昔――わたしより七つ上の夫が中学生のころ――亡くなり、従ってわたしが会ったこともなかった義祖父が死後、地上に残していったカーマ・ルーパとの戦いで、わたしの新婚生活はスタートした。

影のように夫に寄り添う、目には見えない何者かの存在をしばしば感じずにはいられなかった。映像的には、内的鏡にはほんのり映ったような気がすることもあった。いずれにせよ、その存在の悪影響は目に余るものだった。

カーマ・ルーパには高級な知性も霊性もないので、説得は無意味である。結局のところは、それに取り憑かれている人間が変わるしかない。

アルコール中毒になるほどの酒飲みではなくとも、習慣的な飲酒が霊媒体質の強化に関係しがちなことは間違いない。

この現象が稀なことだとは思われない。何かの依存症になっている人は、自らが霊媒体質を作り出してカーマ・ルーパを招いているのではないかと疑ったほうがよい。

以前であれば、神社に行くのが嫌そうな夫だった。ところが、義祖父がめでたくあの世で目覚めた後の参拝だった今回は何のこだわりもなく一緒に出かけて、それが自然な行動と映った。萬子媛を描いた短編小説を気に入ってくれた夫はむしろ今回の参拝を楽しみにしていたほどだった。

義祖父がめでたくあの世で目覚めたと書いたが、俗にこれを成仏というのだろう。それまではどうもあの世では昏睡状態だったようである。夫から離れたカーマ・ルーパがその後どうなったかは知らない。

変われば変わるものだ。改善されたいくつかの傾向を夫に認めるとき、義祖父の死後残していったカーマ・ルーパとの長い戦いがわたしの妄想ではなかったことを確信させるのである(義祖父の成仏については エッセー 47及び60で公開したが、一旦閉じて改稿中)。

話が脱線したが、萬子媛を囲むように控えていた方々の中には、あのとき上空からの警備を担当していた方々もおられたに違いない(もしかしたらこのときも警備中で、神楽殿にはおられなかったのかもしれないけれど)。


どのような地位にある教師なのかは知りようがない

あの方々の行動から推測すれば、地上界での一日の仕事が終われば全員があの世へ帰宅なさるのだろう。まさか、あの世の方々が地上界の人間と同じようなスケジュールで行動なさっているなど想像もしなかった。

前掲書には次のようなことも書かれている。

 大師を信じることを恐れてはいけない。大師は最高の力を手にした人だ。彼らは、肉体をもっていてもいなくても、こちらの世界と地上を意志の力で自由に行き来できるのだ。
 だがわたしは、彼らが二つの世界を行き来する方法を世間に教えるつもりはない。大師以外の者がその方法を試そうとすれば、行ったきり戻れなくなる恐れがあるからだ。知は力なり。それは事実だが、ある種の力は、それに見合うだけの英知をもたない者が行使すると、危険な事態を招く場合がある。……(中略)……
 こちらの世界でわたしを指導している師は大師である。
 地上の世界に教授より地位の低い教師がいるのと同じで、こちらの世界には大師でない教師もいる。……(中略)……
 わたしは、死と呼ばれる変化のあとで迎える生の実態を人々に伝えようとしているわけだが、師はその試みを認めてくれていると言ってよいと思う。もし師が反対するなら、わたしはその卓越した英知に従うしかない。*8

萬子媛や三浦関造先生がどのような地位にある教師なのか、わたしには知りようがない。

ただ、萬子媛にしても三浦先生にしても、生前からその徳を慕われ、また神通力をお持ちだった。現在はどちらも肉体を持っておられない。そして、お二方が二つの世界を自由に行き来なさっていることは間違いのないところだ。

わたしは前世から三浦先生とはつながりがあったと感じている。だからこそ、先生のヴィジョンを見たのだと思っている。萬子媛にはそのような縁を感じたことはない。

だが、萬子媛を知り、作品に描くことは、この世に降りてくるときの計画にあったのではないかと考えたりしている。駄作のままではだめだとの衝動を覚えるのだ。

 


マダムNの覚書、2016年6月17日 (金) 18:33,2016年8月18日 (木) 12:58,2016年8月21日 (日) 07:24,2016年10月13日 (木) 19:15,2017年6月 6日 (火) 20:08

*1:鷹司家は五摂家の一つ。

*2:<http://www.edojidai.info/sinntyou.html>(2017/06/29アクセス)

*3:「入定」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月7日 18:49 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org

*4:<https://youtu.be/jV4qeCYEu8g>(2017/06/06アクセス)

*5:<http://www.rinnou.net/>(2016/8/20アクセス)

*6:バーカー,宮内訳,1996,p.25

*7:ブラヴァツキー, 田中訳,1995,用語解説 p.24

*8:バーカー,宮内訳,1996,pp..203-204

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2022年6月22日 (水)

神秘主義をテーマとしていたはずのツイッターでのやりとりが、難問(?)に答える羽目になりました

サル痘に関して、何か動きがあれば、以下の記事の冒頭に書いた(タイトルにそれに関するものは無し)、サル痘にもイベルメクチンが有効という情報を紹介しようと思っています。

2022年6月17日 (金)
母の日のお花。レモン鶏そぼろ寿司(NHK「きょうの料理ビギナーズ」)、鶏ひき肉とカリフラワーのクリーム煮(ふれ愛交差点 クッキングガイド)、塩昆布入り豆乳スープご飯(こんぶネット)、琵琶(e-ながさきドットコム)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/06/post-fc5db1.html

ここへきて、「やはり……しかし、ここまで……」と思うようなニュースをIn Deepさんが紹介してくださっています。この件も様子見です。

当記事では、ツイッターでのやりとりを記録しておきたいと思います。このやりとりが生産的なものであったかどうかは別として、こうしたやりとりの中で、改めて自らの体験によって裏打ちされた知識の重要さということを認識しました。

萬子媛の言葉にあった仏教用語としての「愛」の説明をしたいと思いながら、わたしには荷が重く、渋々という感じで参考文献として選んだ、以前ざっと目を通したはずの中村元・三枝満悳『バウッダ〔佛教〕(講談社学術文庫)』(講談社、2009)を再読していました。

第一部は三宝――全仏教の基本――の解説です。

井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一 編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)に収められた萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」に、萬子媛が「いまだ笄せざるより、早くも三宝の敬すべきを知り」と書かれていたことを思い出しました。

三宝とは仏・法・僧に帰依することをいいます。萬子媛及び祐徳院で一緒に修行を積まれた方々のことを想いながら読んでいくと、霧が晴れるような思いがしました。

高い目的のために協力する仏教修行者たちの「つどい」である僧(サンスクリック語でサンガ)は、もとは「集まり」「団体」を意味していたそうです。

祐徳院で修行していた方々はまさに高い目的のために協力する仏教修行者たちであり、死後も、その高い目的のために彼の世でつどわれたのです。

わたしは萬子媛が成人前から三宝を敬うべきことを会得しておられたという記述は、失礼ながら誇張かと思っていたのですが、決して決して、そうではなかったのです。

このことに気づいたのも、わたしが萬子媛御一行の動向をインスピレーションによって知るという体験があったればこそでした。

この続きは専用カテゴリーで書きます。

以下はツイッターでのやりとりです。神秘主義をテーマとしていたはずなのに、なぜ、このようなお題に答える必要があるのかと思い、受け流そうとも思いつつ、お題に自分なりに――わかって貰えるかどうかは別として――応えていました。ちょっかいを出したのはわたしのほうでしたし。

立野"🕊"恵祐(tatenokeisuke)|ただいま商店街(🛵)@tadaima_group·6月20日
直感は2つあるんです👍
神の啓示
悪魔の囁き

神は自由意志なので特定の条件でないと啓示を示さないので

ほとんどの直感は悪魔の囁きなんですよw

これから大麻を解禁する理由は自分軸直感教をふやすため

宇宙の有無を確認出来るのはDSのみです。確認できないものを信じるのは神秘主義といいます

naotsuka_maki@NaotsukaM·6月20日
立野様、DS様の宇宙の定義って、どんなものですか? お金が中心の天動説?
確認できないものを信じるのは神秘主義ではなく、一般大衆では? ワクチンの中身を自分で確認できないのに、漠然と科学医学か、ワクチンの過去の実績か、政府か、彼らの信仰の対象かを信じて、どんどん打っちゃったからね!

立野"🕊"恵祐(tatenokeisuke)|ただいま商店街(🛵)@tadaima_group·6月20日
ビックバン。という仮説を真実と決定したのは現在の支配者です👍

量子力学の基本原理(世界は粒子で出来てて現実は変わる)という仮説を今拡めてるのも現在の支配者です👍

エジプト神秘主義、ユダヤ神秘主義、スピリチュアル...神秘主義の歴史は古く一貫してるのは神秘(創造主を隠す)なのでふ👍

naotsuka_maki@NaotsukaM·21時間
①立野様の表現にどうしても引っかかるところがあるので、再度、書き込ませていただきますが、お忙しいでしょうから、返信を期待してのことではありませんので…(^_^;)

スピリチュアルとは、キリスト教スピリチュアリティ、心霊主義、ニューエイジのどれを指すのかわかりませんが、
②へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·21時間
②心霊主義とニューエイジは神秘主義の伝統には属さないと思いますよ。
神秘主義は科学(秘教科学)ですから、その伝えるところは当然ながら一貫しています。伝統的です。

「創造主を隠す」の意味がわかりかねますが、ユダヤ神秘主義(カバラ)では、最高神を認識不可能な原理と考えますね。
③へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·21時間
③エホバ(IHVH)は最高神ではなく、第三位の発散という位置づけです。

ところで、「現在の支配者」とは、DSすなわち悪魔教徒達のことですか? わたしの調べた限りではDSはフリーメーソンを侵食したイルミナティに属しており、悪魔教徒です。

「105 トルストイ『戦争と平和』…⑥テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界」『マダムNの神秘主義的エッセー』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2020/10/11/220929

立野"🕊"恵祐(tatenokeisuke)|ただいま商店街(🛵)@tadaima_group·19時間
makiさんは

ナイフを振り回す子どもをちゃんと叱れますか?
万引きした中学生をビンタして泣けますか?
自殺しようとしてる友人を殴ってでも止めますか?

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
①立野様、ご質問が難問というより抽象的すぎますが……

ナイフを振り回している時点で、相手が子供か大人か動物か機械かは関係なく、身の安全の確保が第一です。第二は、その子の興奮が鎮まるのを待つことでしょうか。第三は――わたしは神秘主義者なので、その方面の知識も総動員しての――
②へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
②状況分析です。それ以上は答えようがありません。

短期間ですが、子供相手の仕事をしていました。わたしは児童小説を書いていますが、自分の子や仕事していたときの子たちに対する万感の思いがあるからです。ナイフを振り回している子がいれば、それはある意味で窮地に陥った自分です。
③へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
③店の人に知らせます。自分が店員なら、流通業に勤務した経験からもマニュアルに従います。筋骨隆々たる中学生やグルーブで犯罪行為をたくらむ中学生もいます。その背後にヤクザがついていることすらあります。素人判断は危険な時代となってしまいました。日本がこうなった原因は複雑です。
④へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
④自殺未遂を繰り返した女性を亡くなるまでの34年間、時に無力感に苛まれながらも支える――というより、友人として共に生きました。
彼女は非常に知的で詩の才能のある人でしたが、大学時代から統合失調症を患っていました。晩年は糖尿病など煩い、死は還暦を前にして急に訪れました。
⑤へ

naotsuka_maki@NaotsukaM·20分
⑤お父様のお話によると、優しい穏やかな死に顔だったそうで、長い交友に何度もありがとうとおっしゃいました。
わたしは翌年、神秘主義的観点からの考察を交えた、彼女に捧げる『詩人の死』という題の日記体小説を書き、Kindle出版しました。
彼女を殴りませんでしたが、結果的に自殺を止めたかな。
午前10:26 · 2022年6月22日

詩人のことを思い出し、涙が出てきました。美意識の高かった彼女は彼の世で楽しく暮らしていることでしょう!

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2022年6月 1日 (水)

「西方浄土」という表現に関する私的発見。オーラに関する補足。

FLCCCの「ワクチン後遺症プロトコル」が先月下旬に情報公開されています。→ https://covid19criticalcare.com/wp-content/uploads/2022/05/An-Approach-to-Vac-Injured-FINAL-May24-1.pdf

翻訳機能を使い、コピペして出てきた邦訳文を読んでいったのですが(DeepLは優秀だけれど、複数の訳の示されることが多々あり、Google訳と比較して見て、英和辞典まで見たりしていると、やたらと時間がかかります)、そもそも医学には無知なわたしなので、半分くらい読んだところで疲れてしまい、ああそうだ、Alzhackerさんが訳してくださっているに違いないと思い、検索すると、出てきました。ホモサピエンス・ネアンデルターレンシスさんが紹介してくださっているツイートも出てきました。

非常に貴重な文書だと思うので、先にこれについて書くつもりでしたが、太陽の沈む方向にある光を帯びた雲の美しさをうっとり眺めていて、ふとメモしておきたいことが出てきました。

私的メモですが、忘れたらいけないので、こちらを優先します。

全く別分野の話題になりますが、西の方角の空を眺めていたわたしは、ふいに以下の記事に書いたことを思い出したのでした。

エッセー 116「祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月」
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/05/26/011329

目次 4.謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)

……謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出す。どこへお帰りになるのかはわからなかったが、上のほう、雲の彼方のどこかだろう。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのだろうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書かなかった。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書いた。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていた。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないだろうか?……

なぜ西方浄土というのだろう、とわたしはずっと不思議に思ってきました。浄土は日の昇ってくる東の方角にあるとしたほうが清浄感が出る気がするのだけれど……あくまで象徴的な表現だと考えていたので、このような批評(?)が自分の中から出てきたのでした。

「コトバンク」には次のように書かれています。

「西方浄土(読み)さいほうじょうど」『コトバンク』。2022年6月01日(水) 10:18 UTC、URL:
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%B5%84%E5%9C%9F-508462

精選版 日本国語大辞典「西方浄土」の解説
さいほう‐じょうど サイハウジャウド【西方浄土】
〘名〙 仏語。阿彌陀仏の浄土。この娑婆世界から西方に十万億の仏土を隔てたかなたにあるという安楽の世界。極楽浄土。西方極楽。西方安楽国。西方安養世界。西方世界。西方。……

萬子媛御一行は、前掲エッセーでも書いたように、沈みかけた太陽の光に溶け込むように昇天された――つまり、一日のお務めを終えられた高貴な方々は、西の方角の遠い彼方にある世界へ行かれるように思われたのです。

今頃になって、突然、合点しました。ああそういうことか、と思いました。科学的に、地理学的に、事実がそうだからなのでしょう。たぶん。

ああそれから、前にわたしはオーラの光を連想させるものはこの世ではオーロラしかないと書きましたが、純白の雲を浸して柔らかに迸る神々しい光もオーラを連想させます。

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2022年1月14日 (金)

間が空きました

用事が重なり、ご無沙汰しました。

6日に前記事を公開したあと、キンドルストアで販売中の児童小説『田中さんちへやってきたペガサス』を今年中にはアマゾンのオンデマンド出版サービスを使って出したいと思っているので、その計画を検討しました。表紙含めて自分で手がけるか、表紙だけ有料サービスを利用するか、あるいはPDF化全部をプロに頼むか、迷うところです。

田中さんちにやってきたペガサス
(Kindle版,ASIN: ‎B00BEMD5ZK)

いずれにしても、表紙はプロのデザインを購入することになるかなあ。

そこまでするのであれば、改稿したい気もしてきます。続編を書きたくなったりもします。

いやいや、いけない。今年はそれより新作能の創作を第一にしなくては。そこで、謡曲集を読み、以下の文章を下書きしたところで、用事の津波に呑まれました。

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

夫が行ってくれた。外出すると、好きな場所であってもどうしても疲れて家事に障るので、夫が快く行ってくれて助かっている。特に創作を応援してくれているということはないが、こういう形で応援して貰っているとはいえる。大学で同じ文芸部だったからこそ、こんなことが頼めもする。

『謡曲集一』をあれこれ見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

昔話の『羽衣』は、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を頼んでしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』の核となる一文。

ここまで書いて中断していました。「祐徳院」らくがきメモ9で、続きを書きます。といっても、また新しい用事ができたので、これもアップには少し時間がかかりそう。

コロナワクチンに関するニュースにも見逃せないものが2件あるので、先にその記事からのアップとなるかもしれません。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出します。どこへお帰りになるのかはわかりませんでしたが、上のほう、雲の彼方のどこかです。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのでしょうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書きませんでした。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書きました。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていました。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないでしょうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのでしょうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU 

心の鏡でしか見たことのない萬子媛と太陽の光と区別のつかなかった圧倒的なオーラの記憶が映像に重なり、涙が出てきます。ああ、懐かしい。もうずいぶん、行っていないなあ。

謡曲『羽衣』には、核となる一文があります。文学作品は、その核となる一文がなければ失敗作となりますから、わたしの新作能作品にもその一文――オリジナルな一文――が必要です。見つからなければ、いつまで経っても仕上がらないでしょう。

萬子媛をモデルとした歴史小説もどきには、その一文がなかったので、作品としては下書きの域を出ませんでした。あの時点では、萬子媛が断食入定なさったのかどうかに確信が持てず、萬子媛観が相当に揺らいでいました(その事実があったかどうかを歴史的事実として検証したエッセー89「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」をご参照ください)。

らくがきメモ9で、萬子媛にまつわる最近起きた、あわい神秘主義的体験についても記そうと思います。この体験は夫も共有しています。夫も、その霊妙な鈴の音とも鐘の音ともつかない音色を聴いたのでした。その音色は、祐徳稲荷神社に参詣しようとしていたときに聴いた音色と同じでした。

わたしが「高級霊ウォッチャー」よろしく探ろうとして近づくと、「緊急避難」もしくは「煙幕を張って」全力で一切の気配を消そうとなさるのに、わたしの真摯な問いかけにはそれとない形で応答してくださるのが感じられていました。

耳に聴こえる音として応答があったのは、二度目でした。前回は問いかけに対する応答としてではなく、「急いで」という注意としてでしたが……(らくがきメモ9では、そのことを書いたエッセーにリンクします)。今回はわたしの深い疑問に対する応答ではなかったかと考えています。で、何を疑問に思っていたかというと……

ここまで書いてしまいましたが、続きはやはりらくがきメモ9で。その記事とダブる部分は、あとで削除します。

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2021年10月29日 (金)

児童文学作家アストリッド・リンドグレーンにかかりきりの2日間。

ちょっと加筆するつもりが、アルバムを読み直したりして、リンドグレーンにかかりきりの2日間でした。もうへとへと。わたしにとって、リンドグレーンの存在はかくも大きい。

一番新しい加筆は、リンドグレーンの死のイメージに関する部分です。

神秘主義者であるわたしにとっても死は光のイメージだが、その光のイメージは自然光ではなく、圧倒的だが精妙なオーラの光のイメージである。ストレムステッドのいう「アストリッド自身の夜明けへ向かう光」というのが内的な光のことだとすれば、オーラの光は内的な光といってよい性質のものだから、同種のイメージといってよいのかもしれない。

「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録すべき内容となってきました。そちらにも収録するか迷っています。

リンドグレーンの作品には内的な光が沁み通っていると改めて思いました。だから、子供の頃から大好きなのです。

「The Essays of Maki Naotsuka」で公開中のアストリッド・リンドグレーンに関する記事です。

30 アストリッド・リンドグレーン (1)ワイルドなピッピに漂う憂愁の影 2010.4.23
https://naotsukas-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/29/050704

49 アストリッド・リンドグレーン (2)『はるかな国の兄弟』を考察する 2014.4.30
https://naotsukas-essays.hatenablog.jp/entry/2021/10/28/055154

50 アストリッド・リンドグレーン (3)愛蔵版アルバムで紹介された『はるかな国の兄弟』と関係のあるエピソード 2015.9.14
https://naotsukas-essays.hatenablog.jp/entry/2021/10/28/064213

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2021年10月 9日 (土)

神秘主義エッセーブログに「112 祐徳稲荷神社参詣記 (15)新作能「祐徳院」創作ノート ①2020年7月~10月 」をアップしました

やはり新作能にチャレンジすることにし、これまで当ブログに綴ってきた新作能に関する覚書を2本の記事にまとめ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録することにしました。1本目の公開はご報告済みでした。2本目も公開しました。若干手を加えましたので、当ブログに転載しておきます。

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112 祐徳稲荷神社参詣記 (15)新作能「祐徳院」創作ノート ①2020年7月~10月
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2021/10/06/195736

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龍右衛門作と伝えられる「雪の小面」を江戸時代初期に写したもの。
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

 目次

  1. 「断り書き」ノート、曲名の第一候補、「ワキ〈名ノリ〉」ノート1、(2020年7月25日)
    ● 「断り書き」ノート
    ● 曲名の第一候補
    ● 「ワキ〈名ノリ〉」ノート1
  2. 挿入する和歌、経典の断章(2020年7月28日)
  3. 作中に挿入する経典の断章として外せない『般若心経』(2021年9月22日)
  4. あの世の涼しき観点から眺めれば、この世の出来事は一幕の芝居(2020年10月31日)


1.「断り書き」ノート、曲名の第一候補、「ワキ〈名ノリ〉」ノート1、(2020年7月25日)

「断り書き」ノート

当作品は、田中保善著『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980年)に触発されて執筆したものです。執筆にあたり、「本音と建前」の章「キャプテン・ラスト」の節の中の41頁の記述をモチーフとさせていただきました。

『泣き虫軍医物語』の内容については、著者あとがきに「この本は太平洋戦争末期の昭和19年7月、町の一開業医だった私がにわか軍医として応召、戦地ボルネオを中心に体験した記録である」とあります。

曲名の第一候補

祐徳院

「ワキ〈名ノリ〉」ノート1

○○軍医(ワキ)は、戦場ボルネオへ向かう貨物船の通路で尼僧達(前ジテとツレ)に出遭う。出遭うはずのない人々であった。

尼僧達は求法のために船に乗ったという。

軍医の疑問に対して、前ジテは「法[のり]の舟さしてゆく身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1922)*1、「しるべある時にだに行け極楽[ごくらく]の道にまどへる世の中の人」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1923)*2という歌を答えの代わりとして、尼僧一行は何処にか姿を消す。

ツレの人数が問題だ。わたしはエッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (12)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」で次のように書いた。

もし、萬子媛の葬礼のときの布施の記録に名のあった僧侶達の中で、蘭契からが祐徳院に属した尼僧達だとすれば、17 名。
蘭契、満堂、蔵山、亮澤、大拙、瑞山、眠山、石林、観渓、英仲、梅点、旭山、仙倫、全貞、禅国、智覚、●要(※ ●は「しめすへん」に「同」)。
萬子媛の存命中は総勢 18 名だったことになる。

この方々をツレのモデルとするつもりなので、17名全員登場させたいところなのだが、さすがに多すぎる。登場人物の多い「安宅(あたか)」では、義経の家来だけでも10名ほど登場するが、それでも10名ほどだ。

人数をぐっと絞って蘭契1人にするか、3名ほどにするか、多く登場させるか(それでも17名は無理)、うーん、それが問題だ。

○○軍医は里に妻子を残してきており、幼子は重態であった。

船が爆発し、○○軍医が飛び込んだ大海原。流れてきた里の樽に縋り付いて命拾いした○○軍医に、神々しい姿となって登場する後ジテは、自分が我が子を亡くしたことから出家した身であることを明かす。

能向きの文章に調えるのは後にして、まずは、へんてこな文章になるのを怖れず、サクサク書いていこう。

ワキ〈名ノリ〉

これは肥前国鹿島より出でたる大日本帝国陸軍軍医にて候。このたびの東亜細亜の大事を計らひ、ちはやぶる天下を和(やは)さんと、わが大日本帝国は米國また英國へ宣戦を布告せり。
初めつ方は時つ風吹けども、やうやう勢ひのしづまれり。
赤紙来たれば、地区一同各戸総出にて、われの武運長久の祈願祭を祐徳稲荷の社にいとなみたまひて、其の後に地区有志はなむけの会を開きたまひき。
国に留め置きつる妻子あり。明日打ち出でんとての夜、子とみに病ひづきて候。子の病ひ、軽からねば、われは後ろ髪を引かるる思ひなり。
わが船団十二隻は門司の泊まりを発向致し候。駆逐艦、水雷艇、駆潜艇、飛行機に守られて、朝鮮海峡、東支那海と南下すれど、鬼神よりは凄まじき敵は取り掛けき。其をからうじて交はして、魔のバシー海峡凌ぎけり。

『泣き虫軍医物語』によると、田中氏が出発する直前に発病した4歳になる長女は、鶏のもも肉に当たったらしい。病名は疫痢(幼児の赤痢)と書かれている。幸い、病気は治った。

『泣き虫軍医物語』で、ボルネオにいた兵隊達がよく罹患していたのはマラリアだ。用いられていた薬はキニーネである。田中軍医は、宿舎付近の藪を切り払い、水溜まりをなくして蚊の発生を防ぎ、残った水溜まりにはカルキを散布、夜は必ず蚊帳を使用させている。

マラリアの他に病名で目につくのは、赤痢、肝炎、栄養失調症、脚気である。外科的なものでは、外傷のほか虫垂炎。時々、性病患者も出ている。

兵隊達が息を引き取る時は「天皇陛下万歳」、「お母さん」といったり、あるいは色々とつぶやいたり、また叫んだりして死んでいったと書かれている。


2.挿入する和歌、経典の断章(2020年7月28日)

能作品には、歌がよく引用される。

万葉集。山家集。古今和歌集、千載和歌集、新古今和歌集、玉葉和歌集……等の勅撰和歌集。和漢朗詠集(漢詩・漢文・和歌を集めた、朗詠のための詩文集)。

今昔物語、伊勢物語、大和物語、源氏物語、平家物語もよく引用され、また、経典からも当然のように引用される。

わたしは、神秘主義エッセーブログのエッセー 78 「祐徳稲荷神社参詣記 (5)扇面和歌から明らかになる宗教観」で、次のように書いた。

神社外苑にある祐徳博物館には、萬子媛遺愛の品々を展示したコーナーがある。初めてそこを訪れたとき、わたしにとって最も印象深かったものは、萬子媛の遺墨、扇面和歌だった。

金箔を張った扇面の馥郁と紅梅が描かれた扇面に、新古今和歌集からとった皇太后宮大夫俊成女(藤原俊成女)の歌が揮毫されている。

萬子媛は花山院家の出で、花山院家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・笙・筆道だから、萬子媛が達筆なのも当然といえば当然というべきか。

元禄9年(1696)――出家後の71歳のころ――に揮毫されたものだ。揮毫されたのは、藤原俊成女の次の歌である。

  梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月

藤原俊成女は鎌倉時代前期の歌人で、皇太后宮太夫俊成女、俊成卿女の名で歌壇で活躍した。藤原俊成女は藤原定家の姪だった。

萬子媛の扇面和歌が出家後に揮毫されたものであることから考えると、僧侶としての生活の一端も見えてくる気がする。修行生活は、芸術(文芸)などを通して培われる類の情緒的豊かさを犠牲にする性質のものではなかったということだ。

一方では、『祐徳開山瑞顔大師行業記』の中の記述からすると、萬子媛の修行には男性を凌駕するほどの厳しい一面があったと考えられる。

その二つがどのように共存していたのだろうか。いえることは、だからこそ、わたしの神秘主義的感性が捉える萬子媛は今なお魅力的なかただということである。

萬子媛遺愛の品々の中には、二十一代巻頭和歌の色紙もあった。萬子媛が愛読愛蔵されたものだと解説されていた。

二十一代集(勅撰和歌集)とは、平安時代に勅撰和歌集として最初に編纂された古今和歌集(905)から室町時代に編纂された新続古今和歌集(1439)までの534年間に編纂された21の勅撰和歌集のことで、合わせて23万44首といわれる。

二十一代集は、平安時代から室町時代までの文化史が歌という形式で表現されたものということもできる。そこからは日本人の精神構造が読みとれるばすで、宗教観の変遷などもわかるはずである。

二十一代集の巻頭和歌を愛読された萬子媛は、和歌そのものを愛されたといってよいのではないかと思う。

昔の日本人の宗教観は凛としている。洗練された美しさがあり、知的である。

平安時代末期に後白河法皇によって編まれた歌謡集『梁塵秘抄』を読んだときに思ったことだが、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が貴族から庶民層にまで浸透しているかのようだ(エッセー 74 「祐徳稲荷神社参詣記 (4)神仏習合」を参照されたい)。

こうした宗教観は鎌倉時代初期の勅撰和歌集『新古今和歌集』にも通底しており、森羅万象に宿る神性、神仏一如、輪廻観、一切皆成仏といった宗教観が読みとれる。

萬子媛をシテのモデルとした今回の作品では、新古今和歌集から多く引用したい。黄檗宗の僧侶として入定されたので、経典からの引用も当然ながら……

萬子媛が愛された前掲歌「梅の花あかぬ色香も昔にて同じ形見の春の夜の月」を後ジテの過去を物語るものとして、引用したい。

前に書いたことと重複するが、○○軍医(ワキ)が戦場ボルネオへ向かう貨物船の通路での場面。

○○軍医(ワキ)は、戦場ボルネオへ向かう貨物船の通路で、尼僧達(前ジテとツレ)に出合う。出合うはずのない人々であった。尼僧達は求法のために船に乗ったという。

軍医の疑問に対して、前ジテは「法[のり]の舟さして行く身ぞもろもろの神も仏もわれをみそなへ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1922)*3、「しるべある時にだに行け極楽[ごくらく]の道にまどへる世の中の人」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1923)*4という歌を答えの代わりとして、尼僧一行は何処にか姿を消す。

尼僧から死を覚悟せよと諭された――と解釈するワキの心境を物語るものとしては、この歌がいい。「極楽へまだわが心行きつかず羊[ひつじ]の歩みしばしとどまれ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1934)*5

歌の意味を、訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988)から引用する。

極楽へは、わが心の修行は、まだ行き着いていない。死すべき者は、屠所の羊であるが、その歩みの命数は、修行の間のしばらくは留まっていてくれ。*6

そして、大海原で船が爆発して海に投げ出された兵隊達が波間に浮き沈みする戦火の光景を天空からご覧になる、生死を超越した神的な観点からは――想像するのも畏れ多いことではあるが――おそらく、この歌がふさわしい。「春秋[はるあき]も限らぬ花におく露はおくれ先立つ恨みやはある」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1940)*7
歌の意味を同書から引用する。

春とも、秋とも限らない、永久の極楽の蓮華の花に置く露の命である人の命は、現世の命の、消えるに遅れたり先だったりするような恨みがあろうか、ない。*8

江戸時代からこの世の人間達のために働いていらっしゃる萬子媛のような方々の御心を畏れ多くも憶測すれば、次の歌が目に留まる。

「立ちかへり苦しき海におく綱も深き江にこそ心引くらめ」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1940)*9

※わたしは新古今和歌集を、訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988)と久保田淳 訳注『新古今和歌集 上下』(角川文庫 - 角川書店、2007)で読んでいるが、両書で歌の番号の異なる場合がある。

歌の意味を久保田淳 訳注『新古今和歌集 下』(角川文庫 - 角川書店、2007)から引用する。

漁師は立ち戻って海にしかけておいた綱を深い入り江で引くのであろう。聖衆は煩悩に苦しむ人間の世界に立ち帰って、深い因縁があって人々を極楽へと引き取ろうと努めるのであろう。*10

聖衆、という表現は、あの方々にぴったりだと思う!


3.作中に挿入する経典の断章として外せない『般若心経』(2021年9月22日)

エッセー 71 「祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」を参考にすれば、作品に挿入する経典の断章として外せないのは、般若心経』である。エッセー 71 から引用する。

博物館で見学した萬子媛の御遺物の中で、僧侶時代のものと思われるものに、御袈裟[みけさ]と鉄鉢があった。御袈裟には「御年60才のころ、普明寺の末寺として祐徳院を草創、出家せられた」と説明があった。

御遺物の中でも最も印象的だったのが、畳まれてひっそりと置かれたこの御袈裟だった。褪せているが、色は鬱金色[うこんいろ]、蒸栗色[むしぐりいろ]といったもので、萬子媛の肖像画を連想させた。素材は麻のように見えた。夏用なのだろうか。冬にこれでは寒いだろう。意外なくらいに慎ましく見える萬子媛の尼僧時代の衣服から、しばし目が離せなかった。

鉄鉢[てっぱつ]も印象が強かった。

鉄鉢とは、「托鉢(タクハツ)僧が信者から米などを受ける。鉄製のはち」(『新明解国語辞典 第五版(特装版)』三省堂、1999)のことだそうだ。

また、金字で書写された「金剛般若波羅蜜経」の前からもしばし動けなかった。

「臨済禅、黄檗禅 公式サイト」*11によると、臨済宗・黄檗宗でよく誦まれるお経には次のようなものがある(他にも、各派本山のご開山の遺誡や和讃なども含め、多くのお経が誦まれるという)。

 
 開経偈
 懺悔文
 三帰戒
 摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
 消災妙吉祥神呪(消災呪)
 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
 大悲円満無礙神呪(大悲呪)
 開甘露門(施餓鬼)
 仏頂尊勝陀羅尼
 金剛般若波羅蜜経(金剛経)
 大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
 延命十句観音経
 四弘誓願文
 舎利礼文
 白隠禅師坐禅和讃


このうち、経名を含めてわずか276文字の『摩訶般若波羅蜜多心経[まかはんにゃはらみたしんぎょう](般若心経)』は宗派を問わず広く誦まれるお経で、仏さまの教えのエッセンスともいえ、この題目は「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されるという。

『金剛般若波羅蜜経[こんごうはんにゃはらみきょう](金剛経)』は般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているもの。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ誦むのだそうだ。


博物館で見学したときに見た、この般若経典のことが記憶に残ったためか、見学後に神楽殿で30分間家内安全の御祈願をしていただいていたときのことだった。

前述したように、わたしたち家族は長椅子に座っていたのだが、その背後に萬子媛を中心に見えない世界の大勢の方々――ボランティア集団と呼びたくなる統一感のある方々――のいらっしゃるのがわかった(お仕事の一環のような感じであった)。
映像的には内的鏡にはほんのり映ったような気がするだけなのだが、なぜかそうした方々の挙動や心の動き、そして萬子媛のオーラは――色彩より熱として――鮮明に感じられた。
前述したように、わたしが心の中でつぶやいたことは筒抜けで、それに対する萬子媛やその近くにいる方々の反応が伝わってきた瞬間が何度かあった(願い事も雑念も筒抜けであるから、参拝するときは願い事の整理ときよらかな心持ちが肝要)。

博物館で見た『般若経典』のことが頭をよぎり、わたしはふと「波羅蜜多」と2回心の中でつぶやいた。わたしが見たのは『金剛般若波羅蜜経』だったのだが、つぶやいたのは『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の方だった。

つぶやいたとき、萬子媛から、すぐさま動揺の気配が伝わってきて、精妙な情感が音楽のように流れてきた。郷愁の交じった、きよらかな心の動きが感じられた。こうした心の動きという点では、生きている人間もあの世の方々も変わらない。

これも前述したことで、高級霊は自己管理能力に優れていることを感じさせる――幼い頃からわたしを見守っていてくださっている方々もそうである――が、萬子媛は情感という点ではわたしが知っているこの世の誰よりもはるかに豊かで、香り高い。心の動きのえもいわれぬ香しさが伝わってくるために、蜜蜂が花に惹かれるようにわたしは萬子媛に惹かれるのだ。

萬子媛はもっと聴こうとするかのように、こちらへ一心に注意を傾けておられるのがわかった。

『金剛般若波羅蜜経』は御遺物にあったのだから愛誦なさっていたのは当然のこととして、『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』という言葉に強く反応されたのは、それだけ生前、般若心経を愛誦なさっていたからだろう。

神様として祀られるようになった萬子媛は、衆生救済を目的とする入定を果たした方らしく、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるように思われる。

しかしながら、萬子媛の生前は大名の奥方でありながら出家し、晩年の20年を禅院を主宰して入定された僧侶だったのだ。

わたしが何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉に、それが甘露か何かであるかのように反応なさった萬子媛、否、瑞顔実麟大師がどれほど僧侶に徹した方だったのかということが自ずと想像された。

わたしは萬子媛が愛誦し指針とされたに違いない『般若心経』を暗記することにした。

ちなみに、このあとで「オウム、アモギャーヴァイロウ、キャーナーマハムドラ、マニペードム、デュヴァラー、プラヴァルスターヤー、ウーン」という竜王会で教わったマントラムを意図的につぶやいてみたのだが、こちらのほうは反応が感じられなかった。

萬子媛を囲むように控えている大勢の方々に幾分白けたような気配さえ漂ったところからすると、マントラムは意味不明な言葉と受け取られたのだと思われる。

現代人と変わりないように感じられるのに、やはり江戸時代に生きた方々ということなのだろうか。現代人であれば、マントラムの内容はわからなくとも、こうした言葉がインド由来の真言であることぐらいの察しはつくだろうから。

エッセー 59 「神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ②ハッチ判事」で紹介したエルザ・バーカー(宮内もとこ訳)『死者Xから来た手紙―友よ、死を恐れるな』(同朋社、1996)には、次のようなことが書かれている。

物質界と霊界が交流するとき、物質界にいるきみたちは、霊界にいるわれわれがなんでも知っていると思いがちだ。きみたちは、われわれが占い師のように未来を予言し、地球の裏側でおきていることを教えてくれると思っている。まれにできることもあるが、ふつうわれわれにはそういうことはできない。*12

あの方々の端然とした統一感のとれているところが、地上界のためにボランティア活動を行っているあの世の方々の特徴なのか、かつて江戸時代に生きた方々ならではの特徴なのか、わたしにはわからない。

いずれにしても、萬子媛の清麗な雰囲気こそは、高級霊のしるしだとわたしは考えている。

御祈願が終わるころ、萬子媛は近くに控えている方々に促されるようにして、どこかへ去って行かれた。全員がさーっと……一斉に気配が消えた。『竹取物語』の中の昇天するかぐや姫を連想してしまった。上方へ消えて行かれた気がしたのだ。……(略)……
あの方々の行動から推測すれば、地上界での一日の仕事が終われば全員があの世へ帰宅なさるのだろう。まさか、あの世の方々が地上界の人間と同じようなスケジュールで行動なさっているなど想像もしなかった。

前掲書には次のようなことも書かれている。

 大師を信じることを恐れてはいけない。大師は最高の力を手にした人だ。彼らは、肉体をもっていてもいなくても、こちらの世界と地上を意志の力で自由に行き来できるのだ。
 だがわたしは、彼らが二つの世界を行き来する方法を世間に教えるつもりはない。大師以外の者がその方法を試そうとすれば、行ったきり戻れなくなる恐れがあるからだ。知は力なり。それは事実だが、ある種の力は、それに見合うだけの英知をもたない者が行使すると、危険な事態を招く場合がある。……(略)……
 こちらの世界でわたしを指導している師は大師である。
 地上の世界に教授より地位の低い教師がいるのと同じで、こちらの世界には大師でない教師もいる。……(略)……
 わたしは、死と呼ばれる変化のあとで迎える生の実態を人々に伝えようとしているわけだが、師はその試みを認めてくれていると言ってよいと思う。もし師が反対するなら、わたしはその卓越した英知に従うしかない。*13

萬子媛や三浦関造先生がどのような地位にある教師なのか、わたしには知りようがない。

ただ、萬子媛にしても三浦先生にしても、生前からその徳を慕われ、また神通力をお持ちだった。現在はどちらも肉体を持っておられない。そして、お二方が二つの世界を自由に行き来なさっていることは間違いのないところだ。


4.あの世の涼しき観点から眺めれば、この世の出来事は一幕の芝居(2020年10月31日)

「江戸の女性が芝居見物で楽しんだ幻の重箱弁当が200年ぶりに復活!?……(以下略)……」という番組予告に心惹かれて録画しておいたNHKの選・スペシャル - 美の壺「日本のお弁当」。

夫から頼まれた『カサブランカ』を忘れないうちにダビングしておこうと思い、視聴を中断したので、まだ最初のほうしか観ていないのだが、歌舞伎の幕間に食べるから「幕の内」弁当と名付けられた弁当に施された華やかさの演出、一口で食べられる工夫……といったエピソードに早くも魅了された。

江戸時代、紅葉狩りのときに持って行った弁当箱が紹介され、その中に黒漆金蒔絵で水面に落ちる紅葉が描かれているものがあった。その風雅な美しさといったら、溜息が出るほどだ。

文化の担い手であった公家にとって、四季の行楽は大切な行事の一つで、それは遊びであり、また仕事でもあった。萬子媛も嫁入り前は四季の行楽を楽しみ、愛でられていたに違いない。京都でのそうした日々をいくらかでも再現したいという思いがおありになったのだろう。田中保善『鹿島市史真実の記録』(1990)に次のような記述がある。

花頂山の下に水を湛えた大きな水梨堤があるが、これを京都の暮しを思い出すために直朝公にせがんで萬子姫が、近江の国琵琶湖畔に見立てて近江八景の雛形を作って楽しんでいたという事である。*14

直朝公は萬子媛を娶ってから文化的に感化され京風が好きになられたらしいが、大名は、陣法など学ぶ以外に、色々と身につける必要があったらしく、大変だ。『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収、普明寺蔵『鹿島家正系譜』収載「直朝公」より引用する。

候、陣法(陣立の仕方)を堀江甚三郎重治に問い、神道を惣社宮内昌賢より伝え、禅は桂老和尚に参じ、書を光源院に学ぶ。又た飛鳥井雅章郷を師として、和歌道・臨池法(書道)・蹴鞠を受く。戯(戯曲)は、観世七大夫を師として曲舞(足利時代の舞曲)に巧みなり。在府(江戸滞在中)の時、即ち、光茂公と往々(しばしば)歌会あり。*15

この「直朝公」には七十歳の誕生日に「申楽(能楽)を花頂山に奏す」*16と書かれている。このときの能楽の舞台では、直朝公自ら能を舞われたのだろうか。

能楽は美の世界だと思う。悲惨な、あるいは荒涼、索漠とした場面に、美的幻影が紗のように重なる世界である。その美的幻影の多くがシテの在りし日の思い出を宿している。

戦場となった海原に、萬媛である後ジテ[のちじて]がツレである尼僧達(後ツレとして見れば天人達)を伴い、大海原に降り立つ……と設定している場面では、当然ながら、天華が海面に散り敷くことになる。

わたしは水面に散る紅葉を描いた弁当箱を観ながら、その場面のことを考えていた。

田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)によると、田中軍医の乗る貨物船が戦地に向かう途中の海域で、戦車を積んだ船倉に魚雷が命中した。炎が弾薬をいっぱい積んだところに燃え移ったら一巻の終わりだから、思い切って海に飛び込み、船尾の渦に巻き込まれる難も逃れたものの、救命胴衣の浮力は頼りなく、溺れ死にそうであった。

藁にもすがりたいときに、郷里(鹿島市の隣の吉田村)の名入りの醤油樽が流れてきたという出来事は、作り話ではなく、現実だったのだから、本当に神秘的だ。貨物船だったのだから醤油樽があったとしても不思議ではないといえないこともないが、やはり不思議である。

何しろ、貨物船がリエンガン湾のサンフェルナンド港を出港して、比島(フィリピン諸島)西岸を海外沿いに南下していたところだったのである。岸まで1キロくらいだった。

そんな海で、偶然も偶然、積まれていた郷里の名入りの醤油樽が敵の攻撃でバラバラにもならず、沈みもせず、また、よそへ流れて行ったりもせず、まるで飼い犬のように溺れそうな田中軍医のところに流れてきたのだが、その醤油樽はあたかも名札を自慢する小学生のように郷里の名を見せて流れ着いたのだ。田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)より引用する。

海岸までは一キロくらいである。海岸へ上陸しようと泳いでみたが、引き潮で海水は沖へ向かって流れていて、思うように進めない。そのうち爆発で海中に散らばったいろいろな物がわたしの周りに流れてきた。なかでも私がびっくりしたのは「佐賀県藤津郡吉田村」と墨で書かれた空の醤油樽であった。はるか故郷をはなれた南海で、しかも海に投げ出されて藁をも掴む気持ちでいる時に、故郷鹿島市の隣の吉田村と書かれた醤油樽が流れてきたのである。急に故郷に残してきた母や妻を思い出し、なんとかして助からねばと思い、その醤油樽を拾って麻縄で腰にくくり付けた。浮揚力は救命胴衣よりもずっと強い。それで、気をよくしていると、運のよい時は重なるもので、今度は大きな厚い板が流れてきた。*17

この場面をどう描こう?

此方へ流れ来たるは、国方(くにがた=郷里)の名のある醤油樽ではござらぬか。

それとも……。

それがしへ流れ来ぬるは、国(くに=郷里)の名を記せし醤油樽にて御座候。

あるいは……。

あれに見ゆるは樽なり。(悲惨な場面だけに、逆に滑稽味を持たせて)いざいざ、此方来[こ]。やや、これは如何な事。国の名の記されし醤油樽かな。

醤油樽に意志があるのでなければ、醤油樽を操る存在がいたとしか思えないではないか。

田中軍医は『泣き虫軍医物語』を上梓した10年後に著した『鹿島市史真実の記録』で、次のようにお書きになっている。

第二次世界大戦では日本軍の敗色歴然たる時、国民兵の私にも召集令状が来た。昭和十九年七月十五日軍医として入営である。その出発前に、地元の若殿分区全員が祐徳稲荷神社に参詣して、私の武運長久の祈願祭を開いてくれた。
私は以前より祐徳稲荷神社を研究していたので、私は私なりに神通力のある荼枳尼天の倉稲魂大神に御願いすると同時に、荼枳尼天と同等に神通力を有しておられる萬子姫の霊たる祐徳院殿瑞顔大師に御助け下さいと御願いした。母親に甘えるだだっ子のように罪深き卑怯者の私をどうか御助け下さい。私には母も妻も子供もおります。今度の戦争は敗戦で戦死するのが当り前ですが、何卒御助け下さいと御願いした。*18

あの世の涼しき観点から眺めれば、この世の出来事は、一幕の芝居のように映るのではないだろうか。

そして、遠い異国で前世のわたしは前世の萬子媛と接点があり(共にモリヤ大師の大勢の弟子達の中にいた)、何の用事でか、まるで田中軍医の許へ流れ着いた郷里の名入りの醤油樽のように、江戸中期に死去したはずの萬子媛が、今なお神霊(高級霊)としてボランティアのために毎日清浄なあの世と不浄なこの世を往来していられる鹿島市へ流れ着いた(生まれた)のではないだろうか? 

いや、勿論、これはワタクシ的空想のお遊びにすぎない。萬子媛とは何らかの縁があるような感じを抱いているのは事実であるが。

 

*1:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*2:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*3:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*4:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

*5:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、p.449)

*6:窪田,1988,p.449

*7:訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、p.451)

*8:窪田,1988,p.451

*9:久保田淳 訳注『新古今和歌集 下』(角川文庫 - 角川書店、2007、P.394)

*10:久保田,2007,p.395

*11:<http://www.rinnou.net/>(2016/8/20アクセス)

*12:バーカー,宮内訳,1996,p.25

*13:バーカー,宮内訳,1996,pp.203-204

*14:田中,1990,p.145

*15:p.59

*16:p.58

*17:田中,1980,p.41

*18:田中,1990,p.157

 

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2021年9月25日 (土)

神秘主義エッセーブログに「111 祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い 」をアップしました

どうやらぎっくり腰は治りました。癖になっているようです。次回なったときは(なりたくないけれど)、整形外科で診ていただこうと思います。

それから、創作に関してですが、やはり新作能にチャレンジすることにしました。時間がかかっても、とりあえずは駄作でもいいので、何とか仕上げまで持って行きたいです。

そのための下準備として、これまで当ブログに綴ってきた新作能に関する覚書を2本の記事にまとめ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録することにしました。1本目は既に公開済みです。加筆がありますので、当ブログに転載しておきます。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥+

111 祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2021/09/23/190905
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広島県廿日市市の厳島神社で演じられる能
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

目次

  1. 観能記「船弁慶」(2007年10月)
  2. この世ならぬ現象を描くにふさわしい形式(2019年9月)
  3. 新作能を読んだ感想(2019年9月)
    ・瀬戸内寂聴「虵」
    ・石牟礼道子「不知火」
    ・多田富雄新作能全集
  4. ぎっくり腰になってしまったが、いざ能楽堂へ(2020年1月)


1.  観能記「船弁慶」(2007年10月)

当地に引っ越してきたとき、能楽堂があることに驚いた。

九州の能楽堂といえば、福岡の大濠公園能楽堂が有名だか、九州には少ないのではないだろうか。

公益社団法人「能楽協会」公式サイト(https://www.nohgaku.or.jp/)の能楽堂検索で検索したところによると、九州は8件ヒットした。

大濠公園能楽堂
〒810-0051 福岡県福岡市中央区大濠公園1-5
092・715・2155
定席470席

森本能舞台
〒810-0023 福岡県福岡市中央区警固3-8-1
092・711・8888
250席

白金能楽堂
〒810-0012 福岡県福岡市中央区白金1-8-16
092・522・0658
250席

井内能舞台
〒840-0831 佐賀県佐賀市松原4-5-13
0952・26・5378
300席

平和市民公園能楽堂
〒870-0924 大分県大分市牧緑町1-30
0975・51・5511
定席500席

青島神社能楽殿
〒889-2162 宮崎県宮崎市青島2-13-1
0985・65・1262
250席

住吉能楽堂
〒812-0018 福岡県福岡市博多区住吉3-1 住吉神社境内
092・291・2670
600席

かごしま県民交流センター 県民ホール能舞台
〒892-0816 鹿児島県鹿児島市山下町14-50
099・221・6600
690席

わたしが初の観能体験をしたのは30代。福岡県飯塚市にあるホールで「杜若」を観、夢心地に誘われた。

それに触発されて、思わず短編幻想小説「杜若幻想」「牡丹」を書いたほどだった。

直塚万季 幻想短篇集(1)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JBORIOM

世阿弥の『風姿花伝』『花鏡』を読んでもう恍惚となり、ますますのめり込んで、前掲の大濠公園能楽堂にも出かけたりしたが、その後パッタリ行けなかった。

この街に能楽堂があると知り、行きたいと心は逸ったものの、またのめり込むことにでもなれば、楽しい反面辛いな……という思いもあった。

しかし、昨日、ついに出かけてしまったのだ。40代も終ろうとするときになって……ああ、いつか新作能の脚本を書いてみたいなあ。

能は謡・舞・囃子から構成される歌舞劇で、室町時代に大成された総合芸術であるが、新作能とは一般には明治維新以降に創作された能のことである。

新作能を書いてみたいなどといえば、ろくに能のことを知りもしないくせにと叱られそうだが、神秘主義者のわたしにはぴったりくる世界であるし、古典、新作、どちらの脚本を読んでみても大した長さではなく、俳句と同じで、ある型にはめ込めばよい気楽さがありそうで(などといっては、ますます叱られそう)、文体も頑張れば何とかなるのではないだろうか。数年間、しっかり勉強し、取り組めば。

前置きが長くなった。

能を鑑賞して不思議なのは、いつまでも余韻の消えないときがあることだ。最初に観た「杜若」の装束の匂い立つような美しさは、今もはっきりと記憶にある。

今回鑑賞した演目は、見所の多い「船弁慶」だった。それが、舞台を観ているときはあの一瞬、この一瞬が印象に残った程度で、実はわたしは失望していたのだった。

シテ(主役)が予想外に小柄で、まるで女性のよう。芸も大人しすぎるように思えた。前ジテは静(源義経の恋人、静御前)、後ジテは平知盛の怨霊で、演じたのは同じ人である。

長身の役者が凛々しい静と勇壮な怨霊を演ずるーーといった類の派手な芸を勝手に期待していたわたしは、期待が裏切られた恨めしさを覚えながら能楽堂を出、がっかりして帰宅したのだった。

ところが、不思議なことに、時間が経つごとに、橋掛かりに佇む前ジテの無言の姿がいじらしい、かけがえのないものとして脳裏に浮かび上がるのである。繰り返し、何度も。

それとダブるように、後ジテが物柔らかな舞の中からこちらに面を向けたときの突如露わになった狂気の表情の記憶が甦って、戦慄させられた。否、能面が表情を変えるわけはないので、わたしは観能時に、気の触れた人の金光りする目を確かに見たような錯覚を覚えていたということになる。

そうした記憶のフラッシュバックする中で、それに被さるように、後ジテの絢爛豪華な装束の白銀の輝きが意識にクローズアップされるのだ。その白銀の輝きは、あたかも浄化の焔のようである。

感激は、何て遅れてやってきたことだろう! 

ところで、神秘主義では、高貴な影響力ほど、鈍重できめの粗いこの現実世界(物質世界)で実現するには時間がかかるといわれている。

固定観念に囚われていたわたしが、シテを演じた役者のまさに幽玄の美というべき高級な情趣を実感するには、時間が必要だったということだろう。

わたしは自分が期待したタイプではない役者から、期待したようでない「船弁慶」の解釈を贈られて困惑し、一旦は拒絶したけれど、時間が経ってそれを享け入れたということもできよう。

結果的に、新しい感覚を身につけることができたような気がしている。いくらか生まれ変わった気がするほどである。シテを演じた武田志房氏――すばらしい能楽師である!

義経は子供が演じる。

子方を演じた鷹尾雄紀くんは、小学校の中学年くらいだろうか。子供とは思えない落ち着きで、上手だった。顔立ちもなかなかのハンサムボーイであり、将来が楽しみだ。「その時義経少しも騒がず」というセリフ、可愛らしかった。

船頭を演じた野村万禄氏は、狂言『附子』のシテとしても活躍された。

一緒に出かけた娘とわたしは万禄氏に魅了され、ずっと彼を褒めていて、「でも、船弁慶のシテはもう一つだったわね。重要無形文化財保持者だなんて本当かしら」などと、失礼極まることをいっていたのだった。

それが、あとになって陶然となるという得がたい体験をした。

ちなみに、入場料は一般・全席自由で4,000円、学生席で1,000円だった。「船弁慶」のあらすじを「NHK 日本の伝統芸能 能・狂言鑑賞入門」(日本放送出版協会、1990)から紹介しておく。

源義経は、讒言によって頼朝から疑われ、兄弟不和となります。そこで西国へ落ちのびるため、弁慶ら家来を作って津の国大物浦へ到着します。そこに静御前が義経を慕って来たので、弁慶は義経の了解を得て静を訪ねます。

義経に帰京を言い渡された静は、別れの悲しさに涙します。名残の酒宴が催され、静は勧められるままに、中国の越王勾践と陶朱公の故事をひきつつ、別れの舞を舞い、泣く泣く一行を見送ります。

別れの悲しさに出発をためらう義経をはげまし、弁慶は出航を命じます。船が海上に出たところで、にわかに風が変わり波が押し寄せます。船頭が必死で船を操っていると、海上に平家一門の幽霊が現れます。

中でも平知盛の怨霊は、自分が沈んだように義経をも海に沈めようと、長刀を持って襲いかかって来ます。義経は少しも騒がず、刀を抜いて知盛の怨霊と戦います。

そこを弁慶が押し隔て、相手は亡霊だからと言い、数珠を揉んで神仏に祈ると、知盛の怨霊はしだいに遠ざかり、ついに見えなくなってしまうのでした。

(2007年10月17日)


2.  この世ならぬ現象を描くにふさわしい形式(2019年9月)

能に詳しいわけでもないのに、「新作能の脚本を書いてみたいなあ」などと過去記事で恥ずかしいことを書いた……と思いながら、小学館と岩波書店の『謡曲集』2冊を開いた。すると、熱心にこうした本を読んでいたころの記憶が甦ったのである。

確かに、能を含む古典にはまっていたあのころであれば、新作能の脚本を書けそうな気がしたのもわかるような気がした。そして、今回連想したのは、第2稿に一向に入れない、祐徳稲荷神社を創建した花山院萬子媛をモデルとした歴史小説のことだった。

歴史小説にするには、何か、そぐわないものがあるのである。

わたしは、神秘主義者に特徴的な精緻な感性によって、萬子媛及び彼女を取り巻く一群の存在――と解釈するしかない特異な存在を捉えた。

こうした存在からもたらされた、この世ならぬ高雅な現象を書きたいのであって、結婚前のことが判然としない萬子媛の生前のあれやこれやではないのだ。

いや、あれやこれやにも興味があるから、研究ノートを「マダムNの覚書」に綴り、それを不定期更新のエッセーとして「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録してきたわけであるが、そのノートは萬子媛のこの世ならぬ現象を表現できてこそ存在価値があるのだ(ノートはいずれ「萬子媛研究」といった形にまとめたいと考えている)。

その表現にふさわしい形式は、新作能以外にありえない気がしてきた。

残念ながら、古典にはまっていない現在、新作能を書けそうな気がしない。勉強すれば、書けるだろうか。

何しろ、能舞台を生で観たのは3回だけで、あとはテレビでの鑑賞と謡曲集の読書くらいがわたしの能楽体験である。それで、新作能を書こうというのだから、無知とは怖ろしいものだ。

母がお謡を習っていたのに、無関心で、からかっていただけだったことが悔やまれる。母が生きていたら、教わることも多かっただろうにと思う。

当地には能楽堂があり、3回観た舞台のうち1回はこの能楽堂で観たものだ。

舞台を観なくてはと思う。ホームページを閲覧したところでは、今年中にはそれらしいものがない。何にせよ、これからは当地の能楽堂と福岡の大濠公園能楽堂の催事情報をこまめにチェックしなくてはならない。能鑑賞貯金もしなくては。その貯金箱を、一昨日夫がうっかり割ってしまったのよ……(T_T) 

とりあえず、戯曲にしてみてはどうか? 戯曲なら書いたことがあるから、書けるはずだ。いきなり新作能が書ければいいが、わたしにはハードルが高いに違いない。

とりあえず戯曲にしてみようかと思った瞬間、脳裏に百花繚乱の情景が匂うばかりに広がった。そう、描き出したい「絵」はもう見えているのだ。

萬子媛に関する研究ノートを一つの作品としてまとめるには、郷土史家・迎昭典氏から送っていただいた貴重な史料のコピー及び迎氏のご考察、また祐徳博物館の職員のかた、鹿島市民図書館学芸員のかた、黄檗宗の大本山である萬福寺宝物館の和尚様から伺ったお話など、慎重に扱わなければならない情報があるので、作業には時間がかかるだろう。

新作能の研究のために、図書館から3冊借りた。

  • 瀬戸内寂聴著『瀬戸内寂聴の新作能 : 蛇・夢浮橋』(集英社、2003)
  • 石牟礼道子著『石牟礼道子全集 : 不知火 16巻〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕 (石牟礼道子全集・不知火(全17巻・別巻一))』(藤原書店、2013)
  • 多田富雄著、笠井賢一編『多田富雄新作能全集』(藤原書店、2012)

瀬戸内寂聴氏を知らない人は少ないだろう。石牟礼道子氏は2018年にお亡くなりになったが、水俣病を扱った代表作「苦海浄土」でとても有名なかたである。多田富雄氏は免疫学者、文筆家として活躍された。

多田氏の新作能をざっと見ると、脳死、第二次大戦における諸問題、物理学の法則を扱ったものなど多作なかたである。

石牟礼道子『石牟礼道子全集 : 不知火 16巻〔新作 能・狂言・歌謡ほか〕』所収のエッセイに、「台本を書くまでにお能といえば二度しか見たことがありませんでした」(75頁)という記述があり、わたしは石牟礼氏のこの言葉に救われる思いがした。


3.  新作能を読んだ感想(2019年9月)

図書館から借りた前掲本のうち、読んだ作品の感想を書いておく。

瀬戸内寂聴「虵」

鎌倉時代前期の仏教説話集、鴨長明編『発心集』の中の説話「母、女[むすめ]を妬[ねた]み、手の指虵[くちなは]に成る事」を基にした新作能である。

「発心集」の説話を紹介すると、娘のある女が年下の男と結婚し、老いの不安から娘と男を強いて夫婦にしたまではよかったが、女は一室でのどかに隠居するどころか、嫉妬のあまり両手の親指がくちなわになってしまうという話。

惑乱した娘は尼に、男は法師に、女も尼になる。それでようやく女の指は元の指になり、後には京で乞食になったという。

両手の親指がくちなわになるというグロテスクさ。娘も男も女のいいなりで、狂言回しに使われているだけだ。

女が後に乞食になったとあるのは、どういうことだろう? 

女が尼になったのは怪奇現象を起こした指を元に戻すことだけが目的で、純粋な信仰心などはなく、目的達成後に尼をやめたということなのか。

尼であれば托鉢であって、乞食とはいうまい。それとも、この「乞食」とは仏教用語「こつじき」、すなわち托鉢のことなのだろうか。こつじきが転じて物乞いする行為「乞食」となった。

尼としての矜持を感じさせる暮らしであれば、いずれにせよ、その部分だけが強調されることはないだろう。

俗人が俗欲に終始した、花も実もないお話である。

瀬戸内氏は、男を仏師にすることで、作品の俗っぽさを一層強めている。能の形式上、男と女は成仏した格好だが、成仏はしていまい。

それが小説「虵」になると、表現がリアルであるだけにいよいよ救いがたい結末となっている。尼となった女が老い、見世物小屋でくちなわの指を見世物にしていたというエピソードが語られるのだ。

能舞台となれば美しいのかもしれないが、作品として読むと、あまりにも救いがなさすぎる。登場人物の魅力が微塵も感じられなかった。

石牟礼道子「不知火」

石牟礼道子氏の新作能「不知火」は流麗な文章で、情緒に満ちて美しいというだけでなく、偏頗な文明に対する作者の危機意識が伝わってくる。入魂の作品という印象を受けた。この曲が水俣で演じられることは意義深いことだろう。

たが、わたしにはこのストーリーがうまく理解できない。

竜神の娘・不知火[しらぬひ]には、海霊[うみだま]の宮の斎女として久遠の命が与えられているにも拘わらず、生類の定命衰滅に向かえば、不知火の命もこれに殉ずるという。

竜神の息子・常若は父に命じられて生類の世を遍歴し終えた。

姉と弟は海と陸からこの世の水脈を豊かにすることに携わってきたが、この世の初めからあった真水が霊性を徐々に喪い、生類を養う力が衰えて、姉弟共に身毒が極まり、余命わずかとなった。

慕い逢う二人は、息絶え絶えとなりながら、恋路が浜に辿り着く。そして姉のほうは死んだ(弟もか?)。

こうした一切を見ているのは、隠亡[おんぼう]の尉[じょう](じつは末世に顕れる菩薩)である。

わたしには二人の勤めの内容がよくわからない。人間の罪業が重なったために毒変した海を浚えて浄化するとあるから、いわば濾過装置のような役割を果たしてきたということだろうか? 竜神の子たちの勤めかたにしては、人間の労働臭い。苦役そのものである。

そして、亡き妻を含む竜神一家は、末世の菩薩の秘命の下に働いてきたというのである。

その菩薩の助力もあって不知火は生き返り、二人の結婚を祝うために中国から楽祖(じつは木石の怪にして魍魎の祖)が招かれる。

楽祖が磯の石を手にとって打ち鳴らせば、浜で惨死した猫たち、百獣が神猫となり、胡蝶となり、舞う、橘香る夜となる……海も陸も再生したのだろう。

水俣病問題は産業における人為的ミスに社会的要因が絡んで被害が拡大し、社会問題となった。

その問題を石牟礼氏は現世と来世が重なり合う宇宙空間、悠久の時間の流れの中に直に置こうとしたため、一つの作品として見るとき、整合性のとれない部分が出てきたように思う。

多田富雄新作能全集

収録された作品は、脳死(「無明の弁」)、朝鮮人の強制連行(「望恨歌」※ 最近の検証により、朝鮮人の強制連行はなかったことが判明した――引用者)、原爆投下(「原爆忌」「長崎の聖母」)、相対性原理を題材とした能(「一石仙人」)、沖縄戦(「沖縄残月記」)、横浜に因んだ能(「横浜三時空」)、白州正子さんを題材とした能(「花供養」)、(「生死の川――高瀬舟考」)、子供能チャレンジのための能(「蜘蛛族の逆襲――子供能の試み」)と多彩である。

わたしが馴染んできた古典の曲とはテーマ自体が違う気がした。時事問題的な題材が多い。構成は巧みで、文章も端正なのだが、悪くいえばプロパガンダ的であり、唯物的世界観によって閉じられている。

これらの能は、地上界から一歩も出ていないように感じられるのである。異世界に触れることによる浄化現象は期待できない。

まだざっと読んだだけなので、読み込めばまた違った感想が生まれるのかもしれない。そのときは別の記事にしたい。

ただ、能に関して右も左もわからないわたしのような人間には、参考になる。観能のあとで購入したのかどうかは覚えていないが、多田富雄 監修『あらすじで読む 名作能50』(世界文化社、2005)を再読している。わかりやすい。

(2019年9月25日、29日)


4.  ぎっくり腰になってしまったが、いざ能楽堂へ(2020年1月)

娘と観能に出かける前日、ちょっとした動作をした拍子に腰がギクッとして、たぶん、ぎっくり腰である。

どうもわたしにはこの種の身体トラブルが多い。副甲状腺ホルモンの過剰な分泌で、骨、関節が弱っているのかもしれない。椎間板ヘルニアや圧迫骨折なら困ると思ったが、ぎっくり腰と思われた。

強烈な痛みと疲労感で横になろうとしたけれど、痛くて無理だった。座るのも痛い。まだ立っている方がよかったが、腰が不安定でまたギクッとやりそうで、やはり痛く、横になりたい。

痛いので何度も寝返りを打ちながら(その寝返りするのも痛い)、必死でオーラビームを試みるも、痛みのためか、新型コロナウイルスについて調べすぎた疲れのためか集中できず、なかなか痛みが消えなかった。

オーラビームとは当方の命名で、神秘主義的な技法であるが、修行者だった前世の習慣が元となった多分に我流なところがあるため、勝手にこのように呼んでいる。ハートの光を患部に放射するやりかただ。

翌朝になっても痛みは引かず、整形外科を予約外受診するか観能かで迷った。整形外科にはいつでも行けるけれど(?)、観能の機会は少ない。新作能にチャレンジするからには、今年中にできれば2回は観たいと思っていた。

当地に能楽堂があるのは本当に恵まれたことだ。一流の能楽師が一堂に会する能楽の祭典はこの能楽堂最高のイベントであるはずで、年に1回ではなかったか。見逃せば後悔するだろう。

椅子に座れば痛みが増すのではないかと不安になりつつも、出かけた。娘がドーナツクッションを持って行こうと提案してくれたが、むしろ腰が不安定になってギクッとなりそうな気がしたので、断った。痛みに我慢できなければ、狂言と能の上演の間の休憩時間に帰るつもりだった。

幸い椅子は柔らかい割には腰が沈み込むほどではなく、ぎっくり腰にも快適な座り心地で腰が安定した。自宅に持って帰りたいほどにぎっくり腰向きの(?)椅子であった。

演目は「玄象」。観世流以外では「弦上」と書かれるという。

シテとは主人公のことだが、前ジテは尉(老翁)、後ジテは村上天皇。演ずるは、観世流シテ方能楽師・馬野正基。

ツレとはシテに従属する役で、ツレは藤原師長[ふじわらのもろなが]である。

後半部で、萬子媛が背後にいらっしゃるような気配を感じたのは、気のせいだったろうか。神社で感じたように、背中から太陽の光を浴びたように温かくなり、えもいわれぬ清浄な気を感じた。能楽堂が交錯するオーラの光で満ちていた。

それまでは、堂内に充満した加齢臭にちょっと堪え難い気がしていた。老人がぎっしりで……自分ももう老人の域である癖にである。

「玄象」について、ウィキペディアから引用しておこう。

『絃上』(げんじょう / けんじょう)は、能の演目。観世流では『玄象』と書かれる。藤原師長が音楽を志して南宋に旅立つ途中、摂津国須磨の浦で村上天皇の霊に押し止められたという逸話が題材となっている。
八大龍王を助演者に村上天皇が舞う早舞が見所。颯爽とした余韻を残す演目である。
題名の絃上は村上天皇愛用の琵琶の名称であり、曲中でも度々琵琶を演奏している場面があるが、舞台の上では演奏は抽象化されており、特殊な演出を除いて実際に弾くことはない。*1

藤原師長は平安時代末期の公卿で、藤原北家御堂流、左大臣藤原頼長の長男である。源博雅と並ぶ、平安時代を代表する音楽家だという。箏や琵琶の名手として知られた。

花山院萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たるから、萬子媛と縁のある能ともいえる。音楽を好まれたことでも縁がある。

祐徳博物館で見た、萬子媛遺愛の楽器「雁[かり]が音の琴」を思い出す。「万媛遺愛の名琴で、黄金を以て雁一双、家紋並に唐詩和歌を象眼[ぞうがん]した鹿島鍋島家の家宝で累[るい]代公夫人に伝わり……(後略)……」と説明があった。

また、萬子媛は後陽成天皇の曾孫女だから、村上天皇とも縁がおありなわけである。村上天皇の霊が昇天の前に舞う場面の素晴らしさ。

村上天皇について、ウィキペディアから引用する。

村上天皇(むらかみてんのう、926年7月14日〈延長4年6月2日〉- 967年7月5日〈康保4年5月25日〉)は、日本の第62代天皇(在位: 946年5月23日 〈天慶9年4月20日〉- 967年7月5日〈康保4年5月25日〉)。諱は成明(なりあきら)。
第60代醍醐天皇の第十四皇子。母は藤原基経女中宮穏子。第61代朱雀天皇の同母弟。
……(略)……
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めた。文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。*2

祐徳博物館を見学すると、萬子媛が如何に歌を愛されたかがわかるのだが、村上天皇は歌と音楽に造詣の深い人物であった。

実はわたしは創作の参考のために鬘物(女性をシテとする曲)を観たいと思っていたため、思いが叶わなかったと思い、あまり期待していなかった。

ところが、以前、金春信高演ずる 「高砂」の映像に惹かれて、何度も観、その度に生で観たかったと思っていたその映像を連想させる、村上天皇の霊が舞う場面ではないか。魅了された。

白色の袖は、秘密を開示するかのように、抱擁するかのように、何度も大きく広げられた。その袖が光を受けて、白銀に輝いて見えるのが崇高な感じを与える。

威厳と品のあるシテを演じたのがお年寄りではなく、1965年のお生まれで、わたしより七つもお若いとは意外だった。

世阿弥は、野上豊一郎・西尾実 校訂『風姿花伝』(岩波文庫 - 岩波書店、1958)で、老人を演ずるときの注意として、その振りや動作を少し遅れがちにするようにと説く。そして、その他のことは世の常に、如何にも如何にも華やかにすべし、というのである。これを「老人の、花はありて年寄りと見ゆるる口傳」という。

わたしは若い頃、世阿弥の『風姿花伝』『花鏡』を興奮のうちに読み終えた。どちらもとにかくすばらしかったが、最も印象に残ったのがこの「老人の、花はありて年寄りと見ゆるる口傳」だった。

能に観る老人は、世阿弥の美学の一結晶であり、気品に満ちてすばらしいのである。作者不詳の「玄象」を観ながら、この曲にも染み渡っている世阿弥の美学の鋭さ、哲学的奥深さを改めて感じた。

観能中、萬子媛の気配を感じたように思ったのは、10分くらいだっただろうか。観能の間に腰の痛みがほとんどよくなったので、中心街に出、また娘と夜まで歩き回ってしまった(夫には外食してくれるよう頼んで出かけていた)。

帰宅後、明らかに悪化。何回かオーラビームをやったというのに(参考のために、エレナ・レーリッヒの『ハート』*3を再読した後、三浦関造先生の技法を『マニ光明ヨガ』*4で確認した)、まだ痛みが残っている。ちょっと咳したりクシャミするにも勇気がいる。それでも、かなりよくなったと思う。

(2020年1月27日)

*1:「絃上 (能)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2017年4月8日 12:45 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

*2: 「村上天皇」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2019年7月14日 04:03 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

*3:田中恵美子訳、アグニ・ヨガ協会編『ハート: アグニ・ヨガ叢書 第8輯(平成17年9月1日コピー本復刻)』(竜王文庫、2005)

*4:三浦関造『マニ光明ヨガ』(竜王文庫、1981-第5版)

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