カテゴリー「「祐徳院」らくがきメモ」の17件の記事

2022年4月 1日 (金)

言葉足らずだったかな……しばしお待ちを

昨日の記事をアップしたあと、幸い、それなりの訪問者があり、閲覧してくださっているのがわたしの神秘主義的感性に伝わってきた。

しかし、引用した萬子媛の言葉に疑問や反感を抱いたかたもおられたようだ。

萬子媛は仏教の基本的な教えに沿って述懐なさっていたにすぎないのだが……。

一般的日本人であれば、「愛」すなわち「渇愛」であり、これが苦しみの原因であるという仏教由来の考え方があることは何となく知っているのだとばかり思っていた。

夫は知っていたが、「俺たちは、年寄りだから知っているだけだよ」という。ああそうか。

きちんと説明しようと思えば、阿含経(初期仏教経典。阿含はアーガマの音写。アーガマは伝来の意)にある十二縁起(十二因縁)を説明しなければならなくなる。否、「縁起(因縁)」の説明から必要だろうか。そもそも、反感を抱いたかたは二度とわたしのブログへはお越しにならないかもしれないけれど、中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫 - 講談社、2009)を再読して出直すことにした(ここからの引用になりそう)。

萬子媛は子供を亡くすという強烈な喪失感を通して、仏教の基本的教えを嫌というほど実体験なさったわけである。仏教でいわれる「愛」はキリスト教でいわれる「愛」とは全く異なる哲学概念だ。

萬子媛は俗世界の因縁から解き放たれ、現在はボランティア集団のリーダーとして太陽の光のような圧倒的なオーラを放っていらっしゃる。その本質は、いわば、キリスト教でいわれるところの愛そのもの、無償の愛、アガペーであろう。

加筆しますので、しばしお待ちを(二度とお越しにならないかもしれないけれど……)。

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2022年3月31日 (木)

萬子媛の言葉

昨日、「祐徳稲荷神社参詣記(16)」をはてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたのですが、何か足りない気がして、改めて「祐徳開山瑞顔大師行業記」を読んでいました。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)には21の著作が収められています。「祐徳開山瑞顔大師行業記」はそのうちの一編です。

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、文人大名として知られた義理の息子、鍋島直條(1655 - 1705)によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述されたといわれています。

郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料です。

原文は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の1頁分しかありません。現代人にもわかるように編集された文章を読んでいると(これは2頁あります)、かぎ括弧が使われた3箇所のうちの2箇所が萬子媛の言葉となっており、その貴重さが胸に迫ってきました。

萬子媛の二人のお子さんが早逝してしまわれたため、萬子媛は深く悲しみ悼んで、日夜泣き叫ばれました。そして喪が明けました。次の文章が続きます。

一旦慨念、愛為苦本、愛若断時、苦自何而生。况生平承誨和尚。失之今日者、不亦自愧乎。

一旦(あるひ)、慨[なげ]きて(ため息をついて)念[おも]う、「愛は苦の本為[た]り。愛若[も]し断つ時は、苦は何[いず]こ自[よ]り生ぜん。況[いわ]んや(ましてや)生平(日ごろ)誨[おしえ]を和尚に承[う]く。これを今日に失うは、亦[ま]た自ら愧[は]じざらんや」

この文章は萬子媛の心のうちが文学的に描き出されたものかもしれませんが、筆者の直條、あるいは出家している兄の格峯(断橋、鍋島直孝)に対して萬子媛が真情を吐露された言葉なのかもしれません。

ある日、大師(※萬子媛のこと――引用者)はため息をついて、思われました。「愛は苦しみの原因ですものね。愛をもし断つ時は、苦しみはどこから生じるのでしょう。ましてや日ごろ和尚様から教えを受けておりましたのに。これを今日に失うのは、全く自分を恥ずかしいと思わないかといえば、いいえ、思いますとも」

もう1箇所を引用します。ここでは明確に、萬子媛の格峯に対する言葉として書かれています。

大師一日、語吾兄格峰禅師云、念對境起、塵中决不可處也。願栖遅巗壑、以儘餘喘。

大師、一日、吾[わ]が兄(珠龍海の兄弟子)格峯禅師に語りて、云[い]う、「念、境(対象)に対して塵中[じんちゅう](俗世界)に起これば、決して処するべからず。願わくは、巌壑[がんがく]に棲遅[せいち](隠居)し、以[もっ]て余喘[よぜん(のこりの命)を尽さん」

大師がある日、わたしの兄の格峯におっしゃいました。「対象に対する思いが俗世界で起きたなら、決して、それに応じた行動をとってはなりませんね。願いが叶うのであれば、わたくしは岩屋に隠棲して余命を全うするつもりです」

ですが、このときの出家したいという萬子媛の思いは、親戚に反対されて叶いませんでした。見かねた格峯が義理の母の願いを叶えようと、自分の住まいであった祐徳院をお譲りになったのでした。

義理の息子たちに助けられて萬子媛の出家の願いは叶い、萬子媛の小伝も残されたのでした。おなかを痛めた二人のお子さんは亡くされたけれど、それを補って余りある素晴らしい関係を萬子媛は義理の息子たちとの間に築いておられたのです。

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2022年2月 2日 (水)

祐徳院について、新発見あり。尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです。

今日もブログを書く時間が思うように取れず、イベルメクチン、ワクチン関係の記事も書けていないのですが、昨夜、祐徳院関係の考察で新発見がありましたので、とりあえずメモしておきます。

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは昨日の記事で次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年2月 1日 (火)
祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-54e709.html

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、以下の過去記事では次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年1月17日 (月)
萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/01/post-51f4bc.html

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。前掲記事ではうっかりして禪を禅と書きましたが、禪という旧字体が使われています。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禅尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禅尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

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2022年2月 1日 (火)

祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。

地震以降、とにかく雑用や家事に時間がとられて、時間がつくれません。メモだけでもしておかないと、書かないままに終わってしまいそうです。紹介したいレシピと、命に関わるワクチン関係の記事を優先するはずでしたが、先に、祐徳院について。

いや、その前にイベルメクチンとワクチン後遺症について、ごく簡単に。

興和が「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認したとのニュースを、珍しいことにロイターが報じました。
また、京都大学のコンピュータによる研究(査読前論文)で、イベルメクチンはオミクロンに対して最も有効という結論が出たそうです。

興和、「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認(ロイター)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4924fb35eaa89d16884e9562defa71572857e2f7

京都大学の論文へのリンクです。
https://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/2201/2201.08176.pdf

また、これは過去記事で紹介したことがあると思いますが、コロナやワクチンの後遺症として、狂牛病(牛海綿状脳症)、あるいはアルツハイマー病のような症状が起きることがあるという疑いです。

それについての新情報をkazuchan-coconeさんがツイートしてくださっています。その論文へのリンクです。

Innate Immune Suppression by SARS-CoV-2 mRNA Vaccinations: The role of G-quadruplexes, exosomes and microRNAs
https://www.authorea.com/users/455597/articles/552937-innate-immune-suppression-by-sars-cov-2-mrna-vaccinations-the-role-of-g-quadruplexes-exosomes-and-micrornas

以上のイベルメクチン、ワクチン関係は別記事で、詳しく書きます。

さて、祐徳院について、です。

祐徳院の二代庵主様の御子孫であられる愛川様が送ってくださった貴重な資料について、「お渡しした資料は、萬子姫を調べるツールとしていかようにも使って頂いて結構です」とのご許可をくださったので、当ブログにエッセーの下書きをまだ続けるかもしれませんが、なるべく早いうちに「祐徳稲荷神社参詣記(17)」にまとめたいと考えています。

愛川様にはコロナ終息時にはお目にかかりたいという気持ちでいっぱいですが(江戸時代に祐徳院の二代目庵主を務められた無著庵慧泉宲源禅尼の面影がおありかも……)、娘が病院勤務であるため、家族にもやんわり規制がかかっている状態で、県越えが難しいです。

送っていただいた資料の中には、歴史研究家にお渡ししたほうがいいのではないだろうかと思える、巻物に記されていたという自筆履歴の写しがあります。漢文です。

それは、過去記事でも触れましたが、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にした愛川春碩というかたの貴重な自筆履歴の写しです。

今日、それを確認していたところ、その自筆履歴原稿の下のほうが切れてしまっていることがわかりました。コピーを取られるときに切れてしまったのでしょうか。近いうちに、愛川様にお尋ねしてみようと思います。

というわけで、コロナ縛りが解けたら、祐徳稲荷神社と祐徳博物館にもなるべく早いうちに行きたいと考えています。

わたしは過去記事で、次のように書きました。

永久保存と書かれた無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

ニュースによると、このときの宮司さんは息子さんと交替なさったようですが、祐徳院二代庵主様に関する永久保存版文書は神社のどこかに、あるいは宮司さんが保管なさっているのでしょうか。

普明寺を管理されている女性に尋ねたところでは、祐徳院関係のものは普明寺には何もないということでしたから、文書が存在するとすれば、祐徳博物館ということになりますが、もしそうだとすれば、岩本社について教えてくださった女性職員のかたが教えてくださったはずなので、祐徳博物館に行ったらそのことも尋ねようと考えていますが、祐徳博物館にはないのかもしれません。

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

愛川様によると、そのような掛け軸を見たことはないそうです。現在、存在するとすれば祐徳博物館以外考えられませんが、そのような掛け軸を博物館で観た記憶がありませんし、もしどこかに収められていたなら、やはり女性職員のかたが教えてくださったに違いないと思うのです。

祐徳院及び、そこで修行されたかたがたがおられなければ、祐徳稲荷神社はありませんでした。もしあったとしても、鹿島稲荷神社とか鍋島稲荷神社といった名で呼ばれる稲荷神社の一つにすぎなかったでしょう。

明治期の神仏分離令の影響は、想像した以上に大きく、わたしは今それをひしひしと感じています。

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2022年1月19日 (水)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。(1月24日に加筆訂正、赤字)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。

昨年12月に愛川様から衝撃的な内容のメールを頂戴したことは、以下の記事に書いています。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

届いたばかりの書類に関しては、まだお礼のメールも出していないので、ざっとご報告しておきます。

引用させていただきたい箇所を特定してから、今日中にはお礼のメールをしようと考えています。

永久保存と書かれた文書中、無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

このような貴重な文書から断片的な引用が許されるのかどうかわかりませんが、お尋ねしてみたいと思います。

「鹿島藤津郡医会師よりコピー(原文ママ)」と手書きメモのある資料には、「愛川伯斉」の紹介に「三代藩主直朝に仕えた愛川伯順以来の藩医の家である」とあります。※1月22日に拝受したメール、24日にいただいたお電話でも確認しましたが、「鹿島藤津医会史」とご訂正ください、とのことでした。

愛川様のメモによると、愛川の名は『鹿島藩日記』『鹿島役所日記』『鹿島市史、中巻』『医業免礼制度』に出てくるそうです。

『鹿島藩日記』には、二巻、四巻、五巻に出てくるとあり、何頁に出てくるかもメモして下さっているので、わたしが持っている二巻をさっそく見たところ、興味深い日記の内容でした(わたしが購入したのは一巻と二巻です)。

愛川様の御先祖、愛川伯準(『鹿島藤津医会史』では伯順となっています)というお名前が出て来るのは、『鹿島藩日記 第二巻』所収「日々萬控帳 宝永二年乙酉ノ六月五日ヨリ 同三年戌九月四日迄」中、宝永二年七月十五日の日記(p.527)です。

切腹しかけた人があり、そこに派遣されたお医者様のうちのお一人が愛川伯準でした。「薬こう薬等」で治療されたようです。この箇所はノートにまとめるときに引用します。

確か、日本で初めて殉死禁止令を出したのは、佐賀藩主の鍋島光茂公ではなかったかと思います。

2014年5月13日 (火)
初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2014/05/272-bfac.html

田中耕作『初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども』(佐賀新聞社、2000)によると、この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

何にせよ、このとき愛川伯準が手当てをなさった与兵衛という人は、法を犯して殉死しようとしたのですね。いや、殉死のために切腹を意図したとは限りません。何のために切腹しようとしたのでしょうか?

その経緯についても詳しく書かれているようですが、素人のわたしの読解力では内容を理解するのに時間がかかります。

鹿島藤津医会史』に「元禄十三年(1700)四月十三日の鹿島請役日記より」と書かれた引用箇所及び解説を見ると、萬子媛と同じ頃に亡くなられた鍋島直條公のご病気が何であったのかがわかります。腹部に腫瘍のある疾患だったようです。

直條公は5年後に江戸で亡くなっていますから、5年以上、腹部の悪性腫瘍に悩まされていたことになります。病身に鞭打って鹿島鍋島藩主としての仕事を続けていられたのでしょう。

この鹿島請役日記は『鹿島藩日記 第一巻』で見た記憶があったので、開いて見ると、やはり収録されていました(『鹿島藤津医会史』の引用に該当するのはpp.502-503)。

ここではお名前が「白順」とあり(水川)とありますが、これは愛川伯順(あるいは伯準)でしょう。

昔の文書には当て字が多く、素人は面食らうことがしばしばです。

鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われた愛川春碩というかたに関する資料も大変貴重です。その御子孫の愛川様にぜひ作品としてまとめていただきたいです。

昨年の12月下旬、愛川様にお電話する前の検索で、愛川様が古代史研究家で邪馬台国に関する研究をなさっていることがわかりました。講師もなさっているようです。お電話したときにそのお話もしたので、邪馬台国に関する作品のコピーも送って下さいました。

沢山の贈り物に驚くばかりですが、とりあえず、お尋ねしたいことをまとめて、早くお礼のメールをしなくては……

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2022年1月17日 (月)

萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)

らくがきメモ9に加えておきたいことが2件出てきました。

前記事同様にノートのためのノートというまどろこしさですが、いきなりノートとして書くには引用したり参照したり整理したりといったことに時間がかかるので、こうなってしまいます。主婦は物書きとしては恵まれた立場ですが、ただ休日というものがなく、まとまった時間のとれないのが難点です。

2017年に佐賀大学地域学歴史文化研究センターから購入した井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)を改めて見ていると、21番目の資料として、「普明寺禅寺過去帖」がこの資料集の最後を飾っていることに気づきました。

郷土史家の迎昭典先生から貴重な資料を沢山送っていただいており、購入した時点では、ある程度の整理はついていました。

佐賀県鹿島市大字古枝字久保山にある普明寺は黄檗宗の寺院で、鍋島直朝公の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳性幢が開山となって創建されました。以後、鹿島鍋島家の菩提寺となります。祐徳院は普明寺の子院でした。

普明寺を見学したときのことは、以下のエッセーに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

断橋は義理の母である萬子媛に祐徳院を譲って、ご自分は普明寺に移られたのでした。普明寺は祐徳稲荷神社にほど近い場所にあります。

といっても、整備された今の道路を車で行くから近く感じられるのであって、当時の道路事情はどうだったのでしょう?

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

前掲エッセーで、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)の中の宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記を引用しているのですが、その記述の中で蘭契という人物が祐徳院は山中にあると述べておられます。

当時は、奥深い山の中を歩いて行き来するという感じだったのでしょうか?

蘭契という尼僧が萬子媛の後継となって祐徳院の庵主となった人物ではないか――と憶測していたところ、御先祖様が第二代庵主を勤められたという愛川様からメールを頂戴し、電話してお話を伺ったのでした。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

第二代庵主の出家前の姓は愛川、出家後は「無著庵慧泉宲源」だそうです(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。フォントによってこの漢字は表示されたり文字化けしたりします)。尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。

そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に登場する蘭契というかたかどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われました。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでしたから。

鹿島市民図書館の学芸員は、祐徳院のその後について、以下のエッセーで採り上げた電話取材で、次のようにおっしゃいました。

88 祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/07/205602

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

この電話取材以前に、わたしは『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収の「普明禅寺過去帖」にざっと目を通していたはずでしたが、そのときは学芸員がこの過去帖を根拠として、祐徳院というお寺の歴史を推測なさっていることに気づきませんでした。学芸員は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の著者のお一人なのですから、著作の内容にお詳しくて当然なのです。

今回『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」を再読して、注目した箇所を引用します。

  寶永 宝永八年改元正徳 (※引用者註 最初の宝永のホウは旧字体)

……(略)……

祐徳院殿瑞顔實麟大師
  二年四月十日 直朝公後室開山和尚剃度為尼改正六月一日 前左大臣定好卿娘塔於祐徳院万子(p.179)

……(略)……

祐徳院前住入祠堂(後補)(※引用者註 玄の次の漢字は、うかんむりに呆)
絶玄宲仙禅師 五年十二月十七日
  天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始(p.181)
……(略)……

  寛政 十三年改元享和

 宝石二代 桃洲源和尚 七年七月四日
            初住大興後迁化祐徳院塔当山
(p.193 ※引用者註 「宝石二代」は小さな字で宝石と二代が二行に分けて書かれています。初住大興後の次の漢字は「千」にしんにょう)

……(略)……

祐徳九代
 前監西洲玄璨和尚 十一年七月廿二日
(p.193 ※引用者註 玄の次の漢字はおうへんに粲[サン])

このように普明寺の過去帖に、子院である祐徳院に関する記述があるのです。素人のわたしにはうまく解読できませんが、学芸員がおっしゃったように祐徳院は推移したのではないかと思います。

「天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始」とあります。「後補」は「後世の補修」という意味で使われるようですから、天明七年五月二日にその加筆が行われたということでしょうか。

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

鍋島直朝公の後継として藩主となった文学肌の直條公が『祐徳開山瑞顔大師行業記』(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収)を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかったでしょう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだといわれています。その直條公も萬子媛と同じ頃(宝永二年四月三十日(5月22日))亡くなったわけですが、少なくとも『祐徳開山瑞顔大師行業記』著述時までは、「尼十数輩」が祐徳院で修行なさっていたのです。

二代庵主の庵主としての期間は短かったかもしれませんが、萬子媛とおそらく一緒に出家されて、それから20数年、技芸の神様として祀られるような勤めを果たされて亡くなったのでしょう。

萬子媛が62歳で出家し、80歳で亡くなったことから考えると、萬子媛の降嫁の際に京都から付き添ってきた従事者がそう何人も残っておられたとは考えにくく、尼寺だったときの祐徳院には地元の女性も尼僧として在籍し、修行しておられたのかもしれないとわたしは考えています。

そして、二代目が亡くなった後、三代目になれるような女性は残念ながらおられなかったのではないでしょうか。

萬子媛が亡くなってから九代が亡くなるまでに、94年経過しています。

とんでもない間違ったことを書いているかもしれません。素人芸ですので、参考にはなさらないでください。

普明寺の過去帖は昭和まで記述があります。

愛川様は祐徳院に関する資料をまとめてくださっているようです。大変な作業でしょうね。それによって、何かわかることがあるかもしれません。

もう一つわかったことがあります。萬子媛が鹿島鍋島家に降嫁された背景に藤原氏という共通するカラーがあったのではないかということです。

萬子媛は、鍋島直朝公の継室として京都から嫁がれました。正室は1660年に32歳で亡くなった彦千代(寿性院)というかたでした。彦千代の母は龍造寺政家の娘だったそうです。

ふと、龍造寺氏の出自はどのようなものだったのだろうと思い、ウィキを見ると、諸説あるようですが、藤原北家と関係があるようです。

萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たる公家です。

鍋島氏の出自にも諸説あり、藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられるとウィキにあります。

龍造寺氏は少弐氏を破り、鍋島氏に敗れたわけですが、少弐氏は藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族だということですから、何だか藤原色が濃い中での争いだったのですね。

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2022年1月14日 (金)

間が空きました

用事が重なり、ご無沙汰しました。

6日に前記事を公開したあと、キンドルストアで販売中の児童小説『田中さんちへやってきたペガサス』を今年中にはアマゾンのオンデマンド出版サービスを使って出したいと思っているので、その計画を検討しました。表紙含めて自分で手がけるか、表紙だけ有料サービスを利用するか、あるいはPDF化全部をプロに頼むか、迷うところです。

田中さんちにやってきたペガサス
(Kindle版,ASIN: ‎B00BEMD5ZK)

いずれにしても、表紙はプロのデザインを購入することになるかなあ。

そこまでするのであれば、改稿したい気もしてきます。続編を書きたくなったりもします。

いやいや、いけない。今年はそれより新作能の創作を第一にしなくては。そこで、謡曲集を読み、以下の文章を下書きしたところで、用事の津波に呑まれました。

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

夫が行ってくれた。外出すると、好きな場所であってもどうしても疲れて家事に障るので、夫が快く行ってくれて助かっている。特に創作を応援してくれているということはないが、こういう形で応援して貰っているとはいえる。大学で同じ文芸部だったからこそ、こんなことが頼めもする。

『謡曲集一』をあれこれ見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

昔話の『羽衣』は、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を頼んでしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』の核となる一文。

ここまで書いて中断していました。「祐徳院」らくがきメモ9で、続きを書きます。といっても、また新しい用事ができたので、これもアップには少し時間がかかりそう。

コロナワクチンに関するニュースにも見逃せないものが2件あるので、先にその記事からのアップとなるかもしれません。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出します。どこへお帰りになるのかはわかりませんでしたが、上のほう、雲の彼方のどこかです。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのでしょうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書きませんでした。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書きました。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていました。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないでしょうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのでしょうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU 

心の鏡でしか見たことのない萬子媛と太陽の光と区別のつかなかった圧倒的なオーラの記憶が映像に重なり、涙が出てきます。ああ、懐かしい。もうずいぶん、行っていないなあ。

謡曲『羽衣』には、核となる一文があります。文学作品は、その核となる一文がなければ失敗作となりますから、わたしの新作能作品にもその一文――オリジナルな一文――が必要です。見つからなければ、いつまで経っても仕上がらないでしょう。

萬子媛をモデルとした歴史小説もどきには、その一文がなかったので、作品としては下書きの域を出ませんでした。あの時点では、萬子媛が断食入定なさったのかどうかに確信が持てず、萬子媛観が相当に揺らいでいました(その事実があったかどうかを歴史的事実として検証したエッセー89「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」をご参照ください)。

らくがきメモ9で、萬子媛にまつわる最近起きた、あわい神秘主義的体験についても記そうと思います。この体験は夫も共有しています。夫も、その霊妙な鈴の音とも鐘の音ともつかない音色を聴いたのでした。その音色は、祐徳稲荷神社に参詣しようとしていたときに聴いた音色と同じでした。

わたしが「高級霊ウォッチャー」よろしく探ろうとして近づくと、「緊急避難」もしくは「煙幕を張って」全力で一切の気配を消そうとなさるのに、わたしの真摯な問いかけにはそれとない形で応答してくださるのが感じられていました。

耳に聴こえる音として応答があったのは、二度目でした。前回は問いかけに対する応答としてではなく、「急いで」という注意としてでしたが……(らくがきメモ9では、そのことを書いたエッセーにリンクします)。今回はわたしの深い疑問に対する応答ではなかったかと考えています。で、何を疑問に思っていたかというと……

ここまで書いてしまいましたが、続きはやはりらくがきメモ9で。その記事とダブる部分は、あとで削除します。

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2022年1月 3日 (月)

『祐徳院』らくがきメモ 8)ワキが後ジテに出逢う場面での美の表現の難しさ。二日に一句。

創作の計画立てし二日かな

新作能の執筆は初めてということで、自分を甘やかしてきたが、できれば年内に仕上げたいと考えている。昨日、そのための計画をざっと立てた。

ノート7では、田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面を書いた。

2021年12月16日 (木)
『祐徳院』らくがきメモ 7)田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-b59f41.html

年末に考えていたのは、故郷の名を記した醤油樽に縋り付いているワキ(田中軍医をモデルとした人物)に萬子媛が出現する場面だった。

これに先立つ出来事として、ワキが前ジテに船中で出逢う(ワキの乗る江尻丸という貨物船は魚雷にやられて爆発する運命にある)。そのときの萬子媛は生前の老尼僧の姿で、気高くは見えても普通の人としての姿である。

それに対して、後ジテとしてワキに出現する萬子媛は女神としての神々しく若々しい姿だ。かといって、それは人を脅かす異形の姿ではない。

ここをどう表現するかで迷っているうちに年末年始の慌ただしさにどっぷり漬かってしまい、中断してしまっていた。

生死の海に漂ひて、残り少しと身を思ふ際[きは]に、あら、きらきらしき女性[にょしゃう]一人[いちにん]さしぐみに現れ給ふは、如何なる御方にてましますぞ。

芹生公男『現代語から古語を引く辞典』(三省堂、2018)には、「美しい」を意味する古語には沢山あるのだが、これはどうだろうと古語辞典を引いてみると、わたしのイメージとはずれがあったり、現代語とのイメージ的乖離があったりで、選択に迷う。

「きらきらし」には、

  1. きらきらと輝いている。
  2. 端正である。(容姿が)整って美しい。
  3. 堂々として威厳がある。
  4. きわだっている。

といった意味がある(宮腰賢・石井正巳・小田勝『全訳古語辞典』旺文社、第五版小型版2018)。

後ジテの萬子媛は文字通り、きらきらと輝き、美しく、堂々として威厳があり、際立っておられるのだからこの古語でいい気もするが……まだ迷っている。

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2021年12月24日 (金)

祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました

福岡にお住まいの愛川順一様から伺ったお話を、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただきましたので、メモのまとめとしてのエッセーを公開するのは年明けになるかと思いますが、まだ興奮冷めやらぬ中で、ご報告だけしておきます。

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

このような貴重な内容のメールを頂戴しておきながら、メールフォームの新着表示に気づかず、10日ほども放置していました。

わたしのようなずぶの素人がこのような申し出を受けていいのだろうか、と畏れ多いことに思いました。でも、おそらく祐徳院の第一代庵主[あんじゅ]であった萬子媛とその後継として第二代庵主を勤められた愛川様の御先祖様のお計らいだろうと考え、取る物も取り敢えず、返信しました。

お目にかかってお話を伺いたいと思いましたが、娘の勤務する病院ではコロナ対策としての県外への移動の縛りが解けておらず、決して強制というわけではありませんが、その対策はやんわりと家族にも及びます。

わたしはイベルメクチンで予防しているので、移す心配も移される心配もないと思っていますが、とりあえず、電話でお話を伺うことになりました。コロナ対策の縛りが解けたら、ぜひお会いしたいと思っています。岩本社に祀られている神様の御子孫ですよ、胸が高鳴るではありませんか。

わたしは尼寺としての祐徳院や岩本社に祀られているかたに思いをめぐらせ、「マダムNの神秘主義的エッセー」に以下のエッセーを書きました。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

萬子媛亡き後、尼寺としての祐徳院がどうなったのか、知りたくてたまりませんでした。その答えは、愛川様のお話から半分ほどは得られたように思います。

第二代庵主の出家前の姓は愛川、戒名は「無著庵慧泉宲源」だそうです。※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。

尼寺としての祐徳院が第二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に記述のある蘭契という尼僧かどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われます。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでした。

鹿島市民図書館の学芸員がおっしゃっていたように、その後は男性僧侶の修行の場として続いたのかもしれません。いつまで続いたのでしょう? 廃仏毀釈まででしょうか。

萬子媛は花山院家のお生まれですが、後陽成天皇の第3皇女であった清子内親王(1593-1674)の養女となっています。

清子内親王は鷹司信尚に嫁ぎ、信尚没後、大鑑院と号しました。清子内親王は28歳で未亡人となっています。萬子媛誕生のとき、大鑑院は32歳でした。大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とし、82歳で亡くなりました。

萬子媛が育った鷹司[たかつかさ]家は、藤原北家嫡流近衛家の分流で公家の五摂家の一つですから、最高クラスの貴族の家柄です。愛川様の御先祖様はその家で萬子媛に仕え、降嫁に伴い鹿島に一緒に来られたのでしょう。萬子媛の結婚は37歳のときです。祐徳院で萬子媛の後継を勤められたのですから、萬子媛より若かったのでしょうね。

そして、京都の愛川家から萬子媛の降嫁に付き添ってきたのは、第二代庵主になられた女性だけではなく、他にもおられたとのことです。

萬子媛は寛永二年(1625年)に生まれ、宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)入定なさっていますが、鹿島史の1700年に、愛川という名が近従として出てくるそうです。このかたは男性で、愛川家は代々医者の家系だそうですから、萬子媛近く仕えたこのかたはお医者様であった可能性が高いように思われます。

亡き母のお友達にキクヨさんというかたがいらして、そのかたのお家――中野家は代々鹿島鍋島家の御殿医でした。

87 祐徳稲荷神社参詣記 (8)鹿島鍋島家の御殿医
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/10/14/042302

数名のお医者様に看取られて、萬子媛は亡くなったのでしょう。

89 祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/22/004109

愛川春碩というかたは、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にしたのだそうです。このかたはこの事業を行うために鹿島を離れ、佐賀へ。愛川家が福岡に移住したのは明治維新後のことだそうです。

愛川家と祐徳院とのつながりは、戦後まであったのだとか。

愛川氏、鍋島氏、祐徳院の三者が集い、お祭りが行われていたといいます。これは、祐徳稲荷神社で行われているお祭りとは異なるものであるようです。諸々の事情があって、現在、愛川家は祐徳院との縁が切れた形となってしまい、平成13年にお亡くなりになった愛川太朗氏が祐徳院に関するメモを残されたとか。

そのメモのコピーを送ってくださるそうです。

廃仏毀釈の影響もあるのかもわかりませんが、愛川氏のお話では、昭和24年の祐徳院の火災で、祐徳院に関する貴重な史料の失われた可能性が高いです。田中保善氏の御著書『鹿島市史真実の記録』にも、祐徳稲荷神社の火災は出てきます。

以上、ざっとしたご報告で、間違いがあるかもしれません。年明けに、きちんとしたエッセーにする予定です。

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2021年12月16日 (木)

『祐徳院』らくがきメモ 7)田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面

田中保善著『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980年)に触発されて執筆中の新作能「祐徳院(仮題)」。執筆にあたり、「本音と建前」の章「キャプテン・ラスト」の節の中の41頁の記述をモチーフとさせていただいている。

「ワキ〈名ノリ〉」を書いたところで、中断していた。

ワキ〈名ノリ〉

これは肥前国鹿島より出でたる大日本帝国陸軍軍医にて候。このたびの東亜細亜の大事を計らひ、ちはやぶる天下を和(やは)さんと、わが大日本帝国は米國また英國へ宣戦を布告せり。
初めつ方は時つ風吹けども、やうやう勢ひのしづまれり。
赤紙来たれば、地区一同各戸総出にて、われの武運長久の祈願祭を祐徳稲荷の社にいとなみたまひて、其の後に地区有志はなむけの会を開きたまひき。
国に留め置きつる妻子あり。明日打ち出でんとての夜、子とみに病ひづきて候。子の病ひ、軽からねば、われは後ろ髪を引かるる思ひなり。
わが船団十二隻は門司の泊まりを発向致し候。駆逐艦、水雷艇、駆潜艇、飛行機に守られて、朝鮮海峡、東支那海と南下すれど、鬼神よりは凄まじき敵は取り掛けき。其をからうじて交はして、魔のバシー海峡凌ぎけり。

前記事にモデム(ONU)の調子が悪いと書いたが、状況の変化はなく、NTTからの返事を待っているところなので、モデムの調子は戻っていない。インターネットにつながったりつながらなかったりなので(有線はつながらなくなった)、このノートを公開後に「直ちに書き直したい」と思っても、それができなくなる可能性もあるが、公開しておこう。

インターネットが不安定になってからは紙のノートに手書きでの作業だった。むしろ集中できてはかどる気がしているのだが、紙に書いたままだと、自分で書いた文章なのに、読み返しても頭にスムーズに入って来ない。

「ワキ〈名ノリ〉」を書いたときのように、能向きの文章に調えるのは後にして、へんてこな文章になるのを怖れずに書いていこうと思う。

田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面

時は、昭和19年神無月(10月)10日、午[うま]の刻の初刻(11時)。リエンガエン湾サンフエルナンドの泊まりを発向致し候。われらを乗せたる貨物船「江尻丸」は、縁起の悪しき第4番船なり。
船中にて、われは尼僧なる衆に行き合ひき。奇しきことにて候。
その中に、いみじう気高う清げに御座[おは]する年高き尼僧(老尼僧)が、ゆくりかに(思いがけなく)歌を詠じて、差し過ぎき。

「しるべある時にだに行け極楽[ごくらく]の道にまどへる世の中の人」(新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1923)*訳者代表 窪田空穂『日本古典文庫12 古今和歌集・新古今和歌集』(河出書房新社、1988、P.447)

いや、ちょっと待てよ。2020年7月28日に書いたノートでは、ワキとのやりとりがあったはず。

尼僧の歌に不吉なものを感じたワキが尼僧を呼び止める形にするか、2020年7月28日のノートのように、出逢った時点で会話を始める形にするか、それが問題だ。

呼び止める形にするほうがいいかもしれない。

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