カテゴリー「「祐徳院」らくがきメモ」の20件の記事

2022年9月10日 (土)

神秘主義的エッセーブログに「118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」をアップしました

※ 23時ごろ、加筆修正を行いました。

昨年12月の話題に遡りますが、福岡にお住まいの愛川順一様から伺った祐徳院に関するお話及び送っていただいた資料に関して、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただき、5回にわけて当ブログにノートしました。

頂戴したメールから、改めてここに引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

ずっと、萬子媛亡き後の祐徳院がどうなったのか、知りたいと思っていたわたしには、衝撃的な内容のメールでした。

当ブログのノートをまとめたものにすぎませんが、それをとりあえず、以下で公開中です。

2022-09-10
118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/09/10/182421

 目次

  1. 祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました(2021年12月24日)
  2. 萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(2022年1月17日)
  3. 愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料(2022年1月19日)
  4. 二代目庵主様の肖像画を撮影した不鮮明な写真、そして明治期の神仏分離令の影響(2022年2月 1日)
  5. 新発見あり、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです(2022年2月 2日)

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2022年8月24日 (水)

能楽の参考書。書きかけの小説(No.2)

なかなか創作の時間がとれません。早く萬子媛関係の執筆に戻りたい。能楽の勉強は、漫画で続けています。

朝の祈願時、萬子媛に「能楽に関するわかりやすい参考書があればどんなにか」、と思わずつぶやいたら、その直後、別のことでネット検索中にたまたま『花よりも花の如く』に出くわしたのでした。ヨドバシカメラの通販で、とりあえず13巻まで揃えたところです。

話題は変わって、以下は書きかけの小説中の文章、つまりフィクション、作り話ですので、お間違えのないように。よほど興味のある人以外はスルーでしょうが、非公開の下書きだけではつまらないので。まだ粗描の段階ということもありますが、年寄りしか出てこないのはつまらないですね。でも、もうロマンスなんか、書けなくなっちゃいました。

「婚家問題の解決には、相当に時間がかかりそうです。

義妹夫婦(※義妹の夫―仮名X―と限定すべきか。この独特のキャラに関しては克明な描写が必要)にこれまで利用されるだけ利用されてきた、まだ健在である義父母の財産の、どうやら番犬になったわたしは戌年なので、本望といいましょうか。ウー、ワンワン。

78歳まで経理部長として中小企業に勤務した義父は、退職後にXに、本来はXが代表となるべき商事会社(※具体的な内容は取材後に詳細に書く)の社長に据えられ、Xは一切の責任を義父に負わせました。その小規模な商事会社は、旧帝大を出て大手某商社に商社マンとして勤務したXが、早期退職後に再就職対策として起ち上げた会社でした。

大手商事会社に勤務する、出世できなかった商社マンの寿命は短いのです。義父の退職金はそっくり、その小さな商事会社が吸い尽くしたようです。わたしたち夫婦には、その事実が今日まで、完全に隠蔽されていました。

義妹夫婦が婚家に居座り、わたしたちを冷遇するだけ冷遇して寄せ付けまいとしたのは、邪魔が入るのを恐れたためでしょう。

義父は認知症を発症して、名ばかりの社長職から退きました。そして、現在は有料老人ホームで暮らしています。高齢となった義母はぎりぎりまで自宅で暮らすことを望んでいましたが、Xに追い立てられるように身辺整理をさせられ、X夫妻の家で暮らし始めました。楽しい同居のためとはいいがたい状況にあります。

Xは今暮らしている自宅の他に2軒の家を所有していますが、義父母にかかる出費は全て義父母の貯蓄と年金で賄い、びた一文も自分のお金を使うつもりはないのです。お金が出来次第、義母は老人ホーム行きの運命ですが、何とかできないかと模索しています。

というのも、惚けた義父は、健康なころの寡黙な人とは見違えるように、老人ホームでは社交的で案外楽しんでいるようですが(自分の妻も子供も誰だかわからないにも拘わらず)、極めて頭のしっかりしている、どこか内向的な義母はたぶん、そのようなところは苦手……。

こんなことになるのなら、もっと早く準備すべきでしたが、彼らが利用するために義父母の家に居座っているのではなく、甘えている……従って、両親が老いても――婚家を二世帯に改装したりして――一緒に睦まじく暮らしていくのだとばかり思っていたのでした。

義父母が老いたとき、義妹夫婦は遠方に裏山付きの中古住宅を買い、好きに改装して、そこで暮らし始めました。

Xは自分には資格がないにも拘わらず、妻である義妹の名で成年後見制度を利用しようと考えました。義父母の土地家屋を好きなように売却するためです。裁判所の管理下で、義父のためなら土地家屋の売却は可能となるでしょう。

ただ、Xは先に述べたように、本来は資格がないはずなのに、私物化もいいところなのですが、それには親族の1人である夫の意見書が必要でした。

ここで、嫌でも腹黒いXとの接点ができました。Xの成年後見制度の理解は間違っているね、と夫と話しましたが、夫は意見書に記入し、賛意を表しました。ところがXは成年後見の案を放り出し、闇売買に手を出しかけたのでした。既に医師の診断書まで取り寄せているのに、です。長谷川式で5点ですよ。(※認知症をスクリーニングすることを目的とした簡易的な認知機能テスト「長谷川式認知症スケール」について詳しく解説する)

というのも、その闇売買にも司法書士を守るためのルールがあって、認知症との診断を受けてしまってはまずいのです。また、親族の同意も必要でした。医師だけが作成できる診断書を司法書士が作成することからして、この売買の違法性ははっきりしていました。

(※成年後見制度と闇売買について、詳しい解説をここに挿入する)

バレれば、訴えられる可能性がありました。そのとき、Xはおそらく義妹の陰に隠れたまま、夫を前面に押し出すに違いありません。

戌年のわたしは、Xに向かって、猛烈に吠え立てました。」(「書きかけの小説 No.2」ここまで)

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2022年5月28日 (土)

拙はてなブログより「116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②」を紹介

「116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月」『マダムNの神秘主義的エッセー』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/05/26/011329

 目次

  1. 思想界を二分した儒仏二道(2014年1月13日、23日)
  2. 能の五番立(2021年11月7日)
  3. 天上界的な美を表現することの難しさ(2022年1月3日)
  4. 謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)


1. 思想界を二分した儒仏二道(2014年1月13日、23日)

わたしは日本史が嫌いだった。それは江戸以降の歴史が何となく嫌いだったからだ。匂いが嫌といったらいいのか。

特に江戸儒学の匂い。知りもしないのに、アレルギー反応が起きてしまっていた。あの人工臭がたまらないと感じられた。

しかしながら、小泉政権による構造改革以降、日本がみっともなく崩れてくると、わたしの目には崩れゆく日本の背後に江戸の姿が蜃気楼のように見え出した。

それでも、江戸時代を知ることを拒み続けていたのだが、その時代を生きた萬子媛にアプローチしようと思えば、江戸期の骨格ともいえる江戸儒学(朱子学派)を知らないわけにはいかない。

朱子学派と林家[りんけ]は切り離せない。林家とは、林羅山を祖とする儒学者・朱子学者の家系をいう。

そして、萬子媛の義理の息子直條は、林家の三代林鳳岡と親交があった。

一方の萬子媛は、清新の気に満ちていたころの黄檗禅に帰依した。黄檗禅は西方浄土的かつ密教的であったという。

開祖隠元の日本渡来は1654年のことで、仏教界への影響は大きかった。ちなみに木魚は黄檗禅から広がったものだそうだ。

エッセー 115 で紹介させていただいた「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」というタイトルの動画によると、明末清初の動乱期に中国から文化人や文物が流出したが、当時鎖国体制をとっていた江戸幕府はそれを歓迎したのである。

「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」
2021/01/19
ecollege setagaya(21世紀アジア学部 佐野 実)
https://youtu.be/MDQxEKgiLEY

長崎が受け入れの窓口となった。中国人社会が形成され、それが長崎中華街の元祖となったということである。

高僧の誉れ高い隠元はこのような時期に、江戸時代初期の日本に招かれた。当時、長崎には中国人が住職を務めるお寺がいくつもあったという。隠元は30名の弟子と共に来日した。

隠元が長崎から江戸に出たことで、当時最先端だった中国文化文物が日本中に拡散した。

大きいテーブルを大勢で囲むスタイルが隠元から伝わり、ちゃぶ台となる。それまで日本では箱膳で、食器を洗う習慣がなく、皆でテーブルを囲むという習慣も隠元が持ってきたのだった。

普茶料理(卓袱料理)、煎茶文化と茶店が誕生した(それまではお茶というと高級品で薬っぽいイメージがあり、日常的に嗜む習慣はなかった)。

隠元ら中国の僧侶らが着ていた僧侶用の服が歌舞伎に取り入れられ、隠元が後水尾法皇から下賜された袖を感激して頭に被ったことから隠元頭巾(お高祖頭巾)が流行った。

明朝時代に中国でできた写経用の字体が明朝体、フォーマットが原稿用紙として流行った。

美術面でも大きな影響を与えた。写実的でカラフルな表現。建築面ではじゃばら天井、勾欄[こうらん]、円窓など。……

ところで、江戸時代、女性は文学には参加しなかったのだろうかとずっと不審に思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

門玲子『江戸女流文学の発見』(藤原書店、新版2006)では、平安女流文学の伝統的文体を身につけた上に中国の論語、中庸、文選、史記などから縦横に引用できるだけの教養を備えた『松陰日記』の著者、正親町[おおぎまち]町子について、まる一章が割かれている。町子は公家の娘である。

萬子媛も公家に生まれた才色兼備の女性であり、降嫁した地で別格の人として敬われ、慕われていたことから考えると、正親町町子のような高い教養を身につけていた可能性が高い。

萬子媛は1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)は10歳で没。1687年、式部朝清が21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳だった。

萬子媛の慟哭はわかるにしても、夫を置いての出家は特殊なことに思われたし、断食入定という伝承は壮絶に感じられたが、黄檗禅に密教的要素があったことを考えると、断食入定もありえたことといえるのかもしれない(※その後の調査により、萬子媛は病死された可能性の高いことがわかった。エッセー89「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」を参照されたい)。

前掲書『江戸女流文学の発見』には、了然尼[りょうねんに](1646 - 1711)という、これまた壮絶な歌人であり尼僧であった人物が登場する。

「主要人物注」*1には、了然尼について、「はじめ東福院に仕え、のち儒医松田晩翠に嫁いだ。夫に妾を置いて家を出た。美貌のため出家を拒まれたので、顔を焼いて出家をとげ、ふたつの寺の住職をつとめた。漢詩、和歌、書をよくした」とある。

夫に妾を置いて出家というのは、あっぱれというべきか、夫を下半身のみの生き物と独断する絶望的解釈というべきか。

ここでわたしは、萬子媛が鍋島直朝との子(文丸)を初めて出産した同じ寛文4年(1664)に、側室もまた男の子を出産したことを思い出した。側室という存在が跡継ぎを絶やさないための工夫であることは承知済みであったとしても、側室や妾といった存在が女性の側[がわ]に何の憂いももたらさないとは考えられない。

了然尼が「美貌のため出家を拒まれた」というのはよくわからないが、その障害を乗り越えるために顔を焼いた――という行為には言葉をなくす。いずれにしても、その頃の女性の扱われ方の一端を見る思いがする。

諸説ある江戸時代の区分法のうち、将軍で分ける以下の説をとりあえず採用してみたが、これに関しては江戸時代の勉強後に再検討したい。

  • 前期 1603年 - 1709年
    江戸幕府初代将軍・家康から第5代将軍・綱吉まで。
  • 中期 1709年 - 1786年
    第6代将軍・家宣が将軍から第10代将軍・家治まで。
  • 後期 1787年 - 1867年
    第11代将軍・家斉から第15代将軍・慶喜まで。

萬子媛は1625年に生まれ、1705年閏4月10日に没した。了然尼は1646年に生まれ、1711年に没しているから、時代的には重なる。

前掲区分で見ると、二人が生きた時代は江戸前期に当たる。幕藩体制が確立し、江戸文化が開花しようとする頃である。

3代将軍家光の時代まで武断政治が行われたが、家光が死去した年に由井正雪ら浪人による慶安事件が起きたのをきっかけとして、幕政方針は4代将軍家綱の時代から文治政治への転換を図った。

この了然尼と、井上通女(1660 - 1738)の間に起きた論争について触れられた箇所は興味深いので、以下に引用させていただく。井上通女は『処女賦』『深闇記』を著した。

朱子学を深く学んでいる通女にむかって、了然尼があなたは現世の学問ばかりに熱心であるが、来世のことは気になりませんか、彼岸の浄土に済度してもらう菩薩の舟を求めませんか、と詰問した。……(略)……了然尼の、人生の根本に触れるこの問いにたいして通女は、生きがいを持たない人はこの世を憂き世と思い、尼の乗る救いの舟を慕わしく思うのでしょう、私はこの世をいかに生きるかということで充実しています、という歌で正面から切り返したのであった。
 当時の思想界を二分する儒仏二道の、女性によるドラマチックな対決である。通女の思想が付焼刃ではなく、実践を重んじる朱子学の本道をいくものであったことをしめしている。*2

ここを読んで、わたしは戦後日本人は、無意識的に先祖返りして江戸儒教の精神に生きているのかもしれないと思った。

GHQの洗脳と資本主義とマルキシズムだけでは説明のつかない現世主義があると怪訝に思ってきたのだった。江戸時代は長かった。日本人の骨の髄まで染み込んだものがあるに違いない。

萬子媛の義理の息子の一人は黄檗宗の僧侶に、もう一人は大名になって江戸儒学の家系と親交を深めた。「当時の思想界を二分する儒仏二道」という言葉を形にしたような義理の息子たちの選択である。

その義理の息子の兄の方は萬子媛が出家するにあたっての導師役を務め、弟の方はそのような萬子媛のことを「祐徳開山瑞顔大師行業記」という小伝に書き残したのであった。

マダムNの覚書 2014年1月13日 (月) 10:51、マダムNの覚書 2014年1月23日 (木) 05:36


2. 能の五番立(2021年11月7日)

「蔵出し名舞台 名人の芸で観る能の五番立」『にっぽんの芸能』(NHK)――初回放送日: 2021年8月27日――を視聴した。

『にっぽんの芸能』の能を採り上げた回は勉強になるので、よく視聴しているのだが、この回は録画したまま未視聴だった。もっと早く視聴しておけばよかったと思った次第であった。能の五番立の解説がとてもわかりやすかった。ノートしておこう。

能の五番立

  • 神[しん]
    天下泰平、国土安穏[あんのん]を祈り祝う神の姿を描く。「高砂」「鶴亀(月宮殿)」等。
  • 男[なん]
    主に武将が死後、修羅道という地獄で苦しむ様子を描く。「清経」「実盛」等
  • 女[にょ]
    多くは女性を主人公とした、美しく幻想的な能。「羽衣」「熊野(湯谷)」等。
  • 狂[きょう]
    心乱れた人々や怨霊、異国のものを描く。「隅田川(角田川)」「葵の上」等。
  • 鬼[き]
    鬼や獅子、天狗などが登場する華やかなフィナーレ。「石橋[しゃっきょう]」「大江山」等。

江戸時代、能は武家の式楽(公式芸能)と定められていた。萬子媛の夫であった鍋島直朝公が能を嗜まれた背景として、こうした幕府の方針があり、加えて萬子媛の影響もあったのではないかとわたしは見ている。

先月、『多田富雄新作全集』が3,000円台で2点出ていた。新品もあるが、9,240円もする。図書館から度々借りていたので、できれば入手したいと思っていた。中古品だと、汚れていないか心配になる。安い値段だとその心配も強まる。くずくずしているうちに安いほうは売り切れてしまった。

3,300円の本が残っていた。汚れている箇所が写真に撮られ、表示されていた。箱入りの本で、汚れているのは箱のようだった。中身は無事なのだろうか? 多田氏の作品の内容にはやや疑問があるのだが、とても勉強になる本であることは間違いない。今後、ここまで安い中古品が出るとは限らない。注文した。

多田富雄著、笠井賢一編『多田富雄新作能全集』(藤原書店 、2012)

多田富雄氏の三回忌を記念して上梓されたもので、 「現代的課題に斬り込んだ全作品を集大成」したという貴重な一冊である。
多田氏は免疫学の世界的権威として活躍する一方では、新作能の創作に精力的に取り組まれた。

届いた本は、確かに箱の一箇所が汚れていたが、気になる汚れかたではなかった。中身は新品同然だった。注文カードが挟まれたままで、栞紐が使われたことのないまま二つ折りになって挟まっていた。藤原書店の小冊子「機」も挟まっていた。

嬉しかった。本が汚くなっていると、せっかく購入しても放置状態になってしまうことがあるのだ。図書館から借りる本はありがたいことに、新品同然のものばかり。たまに大衆受けするタイプの本を借りると、あまりの汚さに愕然となる。

多田氏の能作品を再読したが、内容にはやはり疑問が残った。エッセー 111「祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い」の目次 3「新作能を読んだ感想」-3「多田富雄新作能全集」を参照されたい。

だが、11編の能作品には創作ノート、構成、あらすじなど付いていて、とても勉強になるのである。海外公演のための英訳詞章集も付いているではないか。

そういえば、イェーツが能の影響を受けた書いた一幕物詩劇「鷹の井戸」が青空文庫で読めたので、印刷して読んだ。独特の雰囲気は出ているが、内容的には痩せている。

マダムNの覚書 2021年11月 7日 (日) 19:48


3. 天上界的な美を表現することの難しさ(2022年1月3日)

ノート① では田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面を書いた。

年末に考えていたのは、故郷の名を記した醤油樽に縋り付いているワキ(田中軍医をモデルとした人物)に萬子媛が出現する場面だった。

これに先立つ出来事として、ワキが前ジテに船中で出逢う(ワキの乗る江尻丸という貨物船は魚雷にやられて爆発する運命にある)。そのときの萬子媛は生前の老尼僧の姿で、気高くは見えても普通の人としての姿である。

それに対して、後ジテとしてワキに出現する萬子媛は女神としての神々しく若々しい姿だ。かといって、それは人を脅かす異形の姿ではない。

ここをどう表現するかで迷っているうちに年末年始の慌ただしさにどっぷり漬かってしまい、中断してしまっていた。

生死の海に漂ひて、残り少しと身を思ふ際[きは]に、あら、きらきらしき女性[にょしゃう]一人[いちにん]さしぐみに現れ給ふは、如何なる御方にてましますぞ。

芹生公男『現代語から古語を引く辞典』(三省堂、2018)には、「美しい」を意味する古語には沢山あるのだが、これはどうだろうと古語辞典を引いてみると、わたしのイメージとはずれがあったり、現代語とのイメージ的乖離があったりで、選択に迷う。

「きらきらし」には、

きらきらと輝いている。
端正である。(容姿が)整って美しい。
堂々として威厳がある。
きわだっている。

といった意味がある(宮腰賢・石井正巳・小田勝『全訳古語辞典』旺文社、第五版小型版2018)。

後ジテの萬子媛は文字通り、きらきらと輝き、美しく、堂々として威厳があり、際立っておられるのだからこの古語でいい気もするが……まだ迷っている。

マダムNの覚書、2022年1月 3日 (月) 02:34


4. 謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

『謡曲集一』を見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

しかし、昔話の『羽衣』のほうは、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になってくる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を借りてしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。鈴木啓吾氏は観世流シテ方能楽師だそうである。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』では、漁夫白龍(ワキ)が松に美しい衣のかかっているのを見つけ、持ち帰ろうとする。それは天人の衣であった。白龍が衣を返さないので、天人(シテ)は嘆き悲しむ。そのあわれな様子に、衣を返すことにするが、舞を所望する。

天人は月の宮殿の周囲で演ずる舞曲を舞って見せて、世の悩める人々に伝えることにしようという。しかしそれも、羽衣がなければできないことなので、衣を返してくれるよう訴える。

すると、白龍はいう。「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給ふべき」その白龍の世俗的な疑いに対して、天人は次のように諭すのである。「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」

天人のこの言葉が謡曲『羽衣』の核となる一文である。天人の天人らしさがこの言葉に凝縮されている。

白龍は恥ずかしくなって、羽衣を返すのである。羽衣を着た天人はすばらしい舞を繰り広げながら、しだいに大空の霞の中に見えなくなってしまう。

天人の言葉についての『謡曲集一』の頭註を見ると、次のように解説されている。

『丹後国風土記』逸文に「天女いひしく、凡そ天人の志は、信をもちて本となす。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざると。老夫答へていひしく、疑い多くして信なきは率土[ひとのよ]の常なり。かれ、この心をもちて、許さじとおもひしのみと」とある。*3

謡曲『羽衣』は『丹後国風土記逸文』から天女の言葉を採用したのだろうが、この後の展開があまりに異なる。

『丹後国』の老父は白龍とは異なり、衣を返すも、天女を自宅に連れ帰り、10余年共に住んだのだった。その後も話は続く。

前掲書『続・能のうた』によると、昔話としては『風土記逸文』に三種の羽衣伝説「駿河国・三保の松原」「近江国・伊香の小江」「丹後国・奈具の社」があるという。

和銅6年(713)、元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂した地誌『風土記』は『古風土記』ともいわれ、完本といってよいのは天平3年(733)に成立した『出雲国風土記』のみである。播磨国、肥前国、常陸国、豊後国のものが欠損状態で残っている。他の地域のもので、他誌に引用されたことで断片が残った逸文を『風土記逸文』という。

駿河国、近江国、丹後国に登場する天女は、いずれも漁夫と夫婦とならざるをえなかった。謡曲では天人は天人ならではの気韻――それを描ききる芸術が能楽なのだ――を失わずに済んだが、昔話では見る影もない落ちぶれようを晒して、不幸な人間の女と何の変わりもなく、痛ましい限りである。

謡曲『羽衣』では羽衣が天人の属性(オーラを連想する)であるかのようだが、昔話では天翔る道具、財産ともなる物品にすぎないかのようだ。

ただ、『風土記逸文』の三種の羽衣伝説からは、世界各地に伝わる異類婚姻譚の類型を見い出すことができる。話の盛りかたがそれぞれに異なり、興味深い。

例えば、「駿河国・三保の松原」では、漁夫と夫婦になった神女[しんにょ]はある日、羽衣を取って雲に乗って去り、その漁夫も千人となって天に昇ってしまう。

中国清代の作家である蒲松齢(ほ・しょうれい 1640 - 1715)が著した『聊斎志異[りょうさいしい]』は有名な怪異短編小説集であるが、確かこの中に、妻に釣られるかのように天に昇った夫の話があったように思う。こうした結末は道教の影響を感じさせるものである。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出す。どこへお帰りになるのかはわからなかったが、上のほう、雲の彼方のどこかだろう。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのだろうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書かなかった。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書いた。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていた。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないだろうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのだろうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU

マダムNの覚書 2022年1月14日 (金) 14:36

 

*1:門,2006,P.339

*2:門,2006,P.54

*3:小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973、p.356、頭註一)

 

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2022年4月 1日 (金)

言葉足らずだったかな……しばしお待ちを

昨日の記事をアップしたあと、幸い、それなりの訪問者があり、閲覧してくださっているのがわたしの神秘主義的感性に伝わってきた。

しかし、引用した萬子媛の言葉に疑問や反感を抱いたかたもおられたようだ。

萬子媛は仏教の基本的な教えに沿って述懐なさっていたにすぎないのだが……。

一般的日本人であれば、「愛」すなわち「渇愛」であり、これが苦しみの原因であるという仏教由来の考え方があることは何となく知っているのだとばかり思っていた。

夫は知っていたが、「俺たちは、年寄りだから知っているだけだよ」という。ああそうか。

きちんと説明しようと思えば、阿含経(初期仏教経典。阿含はアーガマの音写。アーガマは伝来の意)にある十二縁起(十二因縁)を説明しなければならなくなる。否、「縁起(因縁)」の説明から必要だろうか。そもそも、反感を抱いたかたは二度とわたしのブログへはお越しにならないかもしれないけれど、中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫 - 講談社、2009)を再読して出直すことにした(ここからの引用になりそう)。

萬子媛は子供を亡くすという強烈な喪失感を通して、仏教の基本的教えを嫌というほど実体験なさったわけである。仏教でいわれる「愛」はキリスト教でいわれる「愛」とは全く異なる哲学概念だ。

萬子媛は俗世界の因縁から解き放たれ、現在はボランティア集団のリーダーとして太陽の光のような圧倒的なオーラを放っていらっしゃる。その本質は、いわば、キリスト教でいわれるところの愛そのもの、無償の愛、アガペーであろう。

加筆しますので、しばしお待ちを(二度とお越しにならないかもしれないけれど……)。

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2022年3月31日 (木)

萬子媛の言葉

昨日、「祐徳稲荷神社参詣記(16)」をはてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたのですが、何か足りない気がして、改めて「祐徳開山瑞顔大師行業記」を読んでいました。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)には21の著作が収められています。「祐徳開山瑞顔大師行業記」はそのうちの一編です。

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、文人大名として知られた義理の息子、鍋島直條(1655 - 1705)によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述されたといわれています。

郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料です。

原文は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の1頁分しかありません。現代人にもわかるように編集された文章を読んでいると(これは2頁あります)、かぎ括弧が使われた3箇所のうちの2箇所が萬子媛の言葉となっており、その貴重さが胸に迫ってきました。

萬子媛の二人のお子さんが早逝してしまわれたため、萬子媛は深く悲しみ悼んで、日夜泣き叫ばれました。そして喪が明けました。次の文章が続きます。

一旦慨念、愛為苦本、愛若断時、苦自何而生。况生平承誨和尚。失之今日者、不亦自愧乎。

一旦(あるひ)、慨[なげ]きて(ため息をついて)念[おも]う、「愛は苦の本為[た]り。愛若[も]し断つ時は、苦は何[いず]こ自[よ]り生ぜん。況[いわ]んや(ましてや)生平(日ごろ)誨[おしえ]を和尚に承[う]く。これを今日に失うは、亦[ま]た自ら愧[は]じざらんや」

この文章は萬子媛の心のうちが文学的に描き出されたものかもしれませんが、筆者の直條、あるいは出家している兄の格峯(断橋、鍋島直孝)に対して萬子媛が真情を吐露された言葉なのかもしれません。

ある日、大師(※萬子媛のこと――引用者)はため息をついて、思われました。「愛は苦しみの原因ですものね。愛をもし断つ時は、苦しみはどこから生じるのでしょう。ましてや日ごろ和尚様から教えを受けておりましたのに。これを今日に失うのは、全く自分を恥ずかしいと思わないかといえば、いいえ、思いますとも」

もう1箇所を引用します。ここでは明確に、萬子媛の格峯に対する言葉として書かれています。

大師一日、語吾兄格峰禅師云、念對境起、塵中决不可處也。願栖遅巗壑、以儘餘喘。

大師、一日、吾[わ]が兄(珠龍海の兄弟子)格峯禅師に語りて、云[い]う、「念、境(対象)に対して塵中[じんちゅう](俗世界)に起これば、決して処するべからず。願わくは、巌壑[がんがく]に棲遅[せいち](隠居)し、以[もっ]て余喘[よぜん(のこりの命)を尽さん」

大師がある日、わたしの兄の格峯におっしゃいました。「対象に対する思いが俗世界で起きたなら、決して、それに応じた行動をとってはなりませんね。願いが叶うのであれば、わたくしは岩屋に隠棲して余命を全うするつもりです」

ですが、このときの出家したいという萬子媛の思いは、親戚に反対されて叶いませんでした。見かねた格峯が義理の母の願いを叶えようと、自分の住まいであった祐徳院をお譲りになったのでした。

義理の息子たちに助けられて萬子媛の出家の願いは叶い、萬子媛の小伝も残されたのでした。おなかを痛めた二人のお子さんは亡くされたけれど、それを補って余りある素晴らしい関係を萬子媛は義理の息子たちとの間に築いておられたのです。

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2022年2月 2日 (水)

祐徳院について、新発見あり。尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです。

今日もブログを書く時間が思うように取れず、イベルメクチン、ワクチン関係の記事も書けていないのですが、昨夜、祐徳院関係の考察で新発見がありましたので、とりあえずメモしておきます。

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは昨日の記事で次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年2月 1日 (火)
祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-54e709.html

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、以下の過去記事では次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年1月17日 (月)
萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/01/post-51f4bc.html

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。前掲記事ではうっかりして禪を禅と書きましたが、禪という旧字体が使われています。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禅尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禅尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

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2022年2月 1日 (火)

祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。

地震以降、とにかく雑用や家事に時間がとられて、時間がつくれません。メモだけでもしておかないと、書かないままに終わってしまいそうです。紹介したいレシピと、命に関わるワクチン関係の記事を優先するはずでしたが、先に、祐徳院について。

いや、その前にイベルメクチンとワクチン後遺症について、ごく簡単に。

興和が「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認したとのニュースを、珍しいことにロイターが報じました。
また、京都大学のコンピュータによる研究(査読前論文)で、イベルメクチンはオミクロンに対して最も有効という結論が出たそうです。

興和、「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認(ロイター)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4924fb35eaa89d16884e9562defa71572857e2f7

京都大学の論文へのリンクです。
https://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/2201/2201.08176.pdf

また、これは過去記事で紹介したことがあると思いますが、コロナやワクチンの後遺症として、狂牛病(牛海綿状脳症)、あるいはアルツハイマー病のような症状が起きることがあるという疑いです。

それについての新情報をkazuchan-coconeさんがツイートしてくださっています。その論文へのリンクです。

Innate Immune Suppression by SARS-CoV-2 mRNA Vaccinations: The role of G-quadruplexes, exosomes and microRNAs
https://www.authorea.com/users/455597/articles/552937-innate-immune-suppression-by-sars-cov-2-mrna-vaccinations-the-role-of-g-quadruplexes-exosomes-and-micrornas

以上のイベルメクチン、ワクチン関係は別記事で、詳しく書きます。

さて、祐徳院について、です。

祐徳院の二代庵主様の御子孫であられる愛川様が送ってくださった貴重な資料について、「お渡しした資料は、萬子姫を調べるツールとしていかようにも使って頂いて結構です」とのご許可をくださったので、当ブログにエッセーの下書きをまだ続けるかもしれませんが、なるべく早いうちに「祐徳稲荷神社参詣記(17)」にまとめたいと考えています。

愛川様にはコロナ終息時にはお目にかかりたいという気持ちでいっぱいですが(江戸時代に祐徳院の二代目庵主を務められた無著庵慧泉宲源禅尼の面影がおありかも……)、娘が病院勤務であるため、家族にもやんわり規制がかかっている状態で、県越えが難しいです。

送っていただいた資料の中には、歴史研究家にお渡ししたほうがいいのではないだろうかと思える、巻物に記されていたという自筆履歴の写しがあります。漢文調で書かれています。

それは、過去記事でも触れましたが、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にした愛川春碩というかたの貴重な自筆履歴の写しです。

今日、それを確認していたところ、その自筆履歴原稿の下のほうが切れてしまっていることがわかりました。コピーを取られるときに切れてしまったのでしょうか。近いうちに、愛川様にお尋ねしてみようと思います。

というわけで、コロナ縛りが解けたら、祐徳稲荷神社と祐徳博物館にもなるべく早いうちに行きたいと考えています。

わたしは過去記事で、次のように書きました。

永久保存と書かれた無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

ニュースによると、このときの宮司さんは息子さんと交替なさったようですが、祐徳院二代庵主様に関する永久保存版文書は神社のどこかに、あるいは宮司さんが保管なさっているのでしょうか。

普明寺を管理されている女性に尋ねたところでは、祐徳院関係のものは普明寺には何もないということでしたから、文書が存在するとすれば、祐徳博物館ということになりますが、もしそうだとすれば、岩本社について教えてくださった女性職員のかたが教えてくださったはずなので、祐徳博物館に行ったらそのことも尋ねようと考えていますが、祐徳博物館にはないのかもしれません。

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

愛川様によると、そのような掛け軸を見たことはないそうです。現在、存在するとすれば祐徳博物館以外考えられませんが、そのような掛け軸を博物館で観た記憶がありませんし、もしどこかに収められていたなら、やはり女性職員のかたが教えてくださったに違いないと思うのです。

祐徳院及び、そこで修行されたかたがたがおられなければ、祐徳稲荷神社はありませんでした。もしあったとしても、鹿島稲荷神社とか鍋島稲荷神社といった名で呼ばれる稲荷神社の一つにすぎなかったでしょう。

明治期の神仏分離令の影響は、想像した以上に大きく、わたしは今それをひしひしと感じています。

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2022年1月19日 (水)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。(1月24日に加筆訂正、赤字)

愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料が届きました。お礼のメールはまだこれからです。

昨年12月に愛川様から衝撃的な内容のメールを頂戴したことは、以下の記事に書いています。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

頂戴したメールから引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

衝撃的な内容でした。

届いたばかりの書類に関しては、まだお礼のメールも出していないので、ざっとご報告しておきます。

引用させていただきたい箇所を特定してから、今日中にはお礼のメールをしようと考えています。

永久保存と書かれた文書中、無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

このような貴重な文書から断片的な引用が許されるのかどうかわかりませんが、お尋ねしてみたいと思います。

「鹿島藤津郡医会師よりコピー(原文ママ)」と手書きメモのある資料には、「愛川伯斉」の紹介に「三代藩主直朝に仕えた愛川伯順以来の藩医の家である」とあります。※1月22日に拝受したメール、24日にいただいたお電話でも確認しましたが、「鹿島藤津医会史」とご訂正ください、とのことでした。

愛川様のメモによると、愛川の名は『鹿島藩日記』『鹿島役所日記』『鹿島市史、中巻』『医業免礼制度』に出てくるそうです。

『鹿島藩日記』には、二巻、四巻、五巻に出てくるとあり、何頁に出てくるかもメモして下さっているので、わたしが持っている二巻をさっそく見たところ、興味深い日記の内容でした(わたしが購入したのは一巻と二巻です)。

愛川様の御先祖、愛川伯準(『鹿島藤津医会史』では伯順となっています)というお名前が出て来るのは、『鹿島藩日記 第二巻』所収「日々萬控帳 宝永二年乙酉ノ六月五日ヨリ 同三年戌九月四日迄」中、宝永二年七月十五日の日記(p.527)です。

切腹しかけた人があり、そこに派遣されたお医者様のうちのお一人が愛川伯準でした。「薬こう薬等」で治療されたようです。この箇所はノートにまとめるときに引用します。

確か、日本で初めて殉死禁止令を出したのは、佐賀藩主の鍋島光茂公ではなかったかと思います。

2014年5月13日 (火)
初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2014/05/272-bfac.html

田中耕作『初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども』(佐賀新聞社、2000)によると、この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

何にせよ、このとき愛川伯準が手当てをなさった与兵衛という人は、法を犯して殉死しようとしたのですね。いや、殉死のために切腹を意図したとは限りません。何のために切腹しようとしたのでしょうか?

その経緯についても詳しく書かれているようですが、素人のわたしの読解力では内容を理解するのに時間がかかります。

鹿島藤津医会史』に「元禄十三年(1700)四月十三日の鹿島請役日記より」と書かれた引用箇所及び解説を見ると、萬子媛と同じ頃に亡くなられた鍋島直條公のご病気が何であったのかがわかります。腹部に腫瘍のある疾患だったようです。

直條公は5年後に江戸で亡くなっていますから、5年以上、腹部の悪性腫瘍に悩まされていたことになります。病身に鞭打って鹿島鍋島藩主としての仕事を続けていられたのでしょう。

この鹿島請役日記は『鹿島藩日記 第一巻』で見た記憶があったので、開いて見ると、やはり収録されていました(『鹿島藤津医会史』の引用に該当するのはpp.502-503)。

ここではお名前が「白順」とあり(水川)とありますが、これは愛川伯順(あるいは伯準)でしょう。

昔の文書には当て字が多く、素人は面食らうことがしばしばです。

鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われた愛川春碩というかたに関する資料も大変貴重です。その御子孫の愛川様にぜひ作品としてまとめていただきたいです。

昨年の12月下旬、愛川様にお電話する前の検索で、愛川様が古代史研究家で邪馬台国に関する研究をなさっていることがわかりました。講師もなさっているようです。お電話したときにそのお話もしたので、邪馬台国に関する作品のコピーも送って下さいました。

沢山の贈り物に驚くばかりですが、とりあえず、お尋ねしたいことをまとめて、早くお礼のメールをしなくては……

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2022年1月17日 (月)

萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)

らくがきメモ9に加えておきたいことが2件出てきました。

前記事同様にノートのためのノートというまどろこしさですが、いきなりノートとして書くには引用したり参照したり整理したりといったことに時間がかかるので、こうなってしまいます。主婦は物書きとしては恵まれた立場ですが、ただ休日というものがなく、まとまった時間のとれないのが難点です。

2017年に佐賀大学地域学歴史文化研究センターから購入した井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一編『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(佐賀大学地域歴史文化研究センター、2016)を改めて見ていると、21番目の資料として、「普明寺禅寺過去帖」がこの資料集の最後を飾っていることに気づきました。

郷土史家の迎昭典先生から貴重な資料を沢山送っていただいており、購入した時点では、ある程度の整理はついていました。

佐賀県鹿島市大字古枝字久保山にある普明寺は黄檗宗の寺院で、鍋島直朝公の長男・断橋(鍋島直孝)の開基により、桂厳性幢が開山となって創建されました。以後、鹿島鍋島家の菩提寺となります。祐徳院は普明寺の子院でした。

普明寺を見学したときのことは、以下のエッセーに書いています。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

断橋は義理の母である萬子媛に祐徳院を譲って、ご自分は普明寺に移られたのでした。普明寺は祐徳稲荷神社にほど近い場所にあります。

といっても、整備された今の道路を車で行くから近く感じられるのであって、当時の道路事情はどうだったのでしょう?

100 祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2019/12/08/233845

前掲エッセーで、三好不二雄(編纂校註)『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社 宮司・鍋島朝純、1979)の中の宝永二年閏四月廿日(1705年6月11日)の日記を引用しているのですが、その記述の中で蘭契という人物が祐徳院は山中にあると述べておられます。

当時は、奥深い山の中を歩いて行き来するという感じだったのでしょうか?

蘭契という尼僧が萬子媛の後継となって祐徳院の庵主となった人物ではないか――と憶測していたところ、御先祖様が第二代庵主を勤められたという愛川様からメールを頂戴し、電話してお話を伺ったのでした。

2021年12月24日 (金)
祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました
https://elder.tea-nifty.com/blog/2021/12/post-2e4d5d.html

第二代庵主の出家前の姓は愛川、出家後は「無著庵慧泉宲源」だそうです(※泉の次の漢字は、うかんむりに呆です。フォントによってこの漢字は表示されたり文字化けしたりします)。尼寺としての祐徳院が二代までは確かに続いたことが、愛川様のお話ではっきりしました。

そのかたが『鹿島藩日記 第二巻』に登場する蘭契というかたかどうかはわかりませんが、そのかたである可能性は高いように思われました。当時、名前が複数あることは不思議ではありませんでしたから。

鹿島市民図書館の学芸員は、祐徳院のその後について、以下のエッセーで採り上げた電話取材で、次のようにおっしゃいました。

88 祐徳稲荷神社参詣記 (9)核心的な取材 其の壱(註あり)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/11/07/205602

尼寺としての在り方はたぶん、祐徳院さんが死んで10年20年くらいしか持たなかった……比較的早い段階で男性の方が入るということに。

祐徳院さんが京都から連れてきたような人たちや祐徳院に女中として仕えたような人たち――祐徳院に入って一緒に修行したような人たち――が、やはり祐徳院と直接の接点を持っている人たちが死に絶えていくと、新しい尼さんを供給するということができなかった。

あくまで祐徳院さんとの関わりで入った方ということになってくるので。鹿島のどこからか女の人を連れてきて、黄檗僧として入れるというものでもないと思うので。

黄檗宗の修行が相当厳しいものにはなってくるので、そこらへんに耐えうる女性というところはなかなか、祐徳院さんの信仰心に直接接点を持っていた方以外にはそこまでやり遂げる力というのはなかったのかなというところだとは思うんですよ。

祐徳院さんがお子さんたちを亡くして悲嘆に暮れている様子に直接接した記憶がある人たちは、祐徳院さんの気持ちに最後まで添い遂げようとはされるとは思うんですけれども。そこが直接接点を持たない人たちになると、ちょっと意味合いが変わってしまうのかなというところだと思うんですけれどもね。

この電話取材以前に、わたしは『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収の「普明禅寺過去帖」にざっと目を通していたはずでしたが、そのときは学芸員がこの過去帖を根拠として、祐徳院というお寺の歴史を推測なさっていることに気づきませんでした。学芸員は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の著者のお一人なのですから、著作の内容にお詳しくて当然なのです。

今回『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収「普明禅寺過去帖」を再読して、注目した箇所を引用します。

  寶永 宝永八年改元正徳 (※引用者註 最初の宝永のホウは旧字体)

……(略)……

祐徳院殿瑞顔實麟大師
  二年四月十日 直朝公後室開山和尚剃度為尼改正六月一日 前左大臣定好卿娘塔於祐徳院万子(p.179)

……(略)……

祐徳院前住入祠堂(後補)(※引用者註 玄の次の漢字は、うかんむりに呆)
絶玄宲仙禅師 五年十二月十七日
  天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始(p.181)
……(略)……

  寛政 十三年改元享和

 宝石二代 桃洲源和尚 七年七月四日
            初住大興後迁化祐徳院塔当山
(p.193 ※引用者註 「宝石二代」は小さな字で宝石と二代が二行に分けて書かれています。初住大興後の次の漢字は「千」にしんにょう)

……(略)……

祐徳九代
 前監西洲玄璨和尚 十一年七月廿二日
(p.193 ※引用者註 玄の次の漢字はおうへんに粲[サン])

このように普明寺の過去帖に、子院である祐徳院に関する記述があるのです。素人のわたしにはうまく解読できませんが、学芸員がおっしゃったように祐徳院は推移したのではないかと思います。

「天明七年五月二日(後補)祐徳院男僧住持従此人始」とあります。「後補」は「後世の補修」という意味で使われるようですから、天明七年五月二日にその加筆が行われたということでしょうか。

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

鍋島直朝公の後継として藩主となった文学肌の直條公が『祐徳開山瑞顔大師行業記』(『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』所収)を書き遺してくれていなければ、後世の人間が萬子媛の出家の動機について知ることはできなかったでしょう。

『祐徳開山瑞顔大師行業記』は萬子媛が亡くなる1年前に著述されたものだといわれています。その直條公も萬子媛と同じ頃(宝永二年四月三十日(5月22日))亡くなったわけですが、少なくとも『祐徳開山瑞顔大師行業記』著述時までは、「尼十数輩」が祐徳院で修行なさっていたのです。

二代庵主の庵主としての期間は短かったかもしれませんが、萬子媛とおそらく一緒に出家されて、それから20数年、技芸の神様として祀られるような勤めを果たされて亡くなったのでしょう。

萬子媛が62歳で出家し、80歳で亡くなったことから考えると、萬子媛の降嫁の際に京都から付き添ってきた従事者がそう何人も残っておられたとは考えにくく、尼寺だったときの祐徳院には地元の女性も尼僧として在籍し、修行しておられたのかもしれないとわたしは考えています。

そして、二代目が亡くなった後、三代目になれるような女性は残念ながらおられなかったのではないでしょうか。

萬子媛が亡くなってから九代が亡くなるまでに、94年経過しています。

とんでもない間違ったことを書いているかもしれません。素人芸ですので、参考にはなさらないでください。

普明寺の過去帖は昭和まで記述があります。

愛川様は祐徳院に関する資料をまとめてくださっているようです。大変な作業でしょうね。それによって、何かわかることがあるかもしれません。

もう一つわかったことがあります。萬子媛が鹿島鍋島家に降嫁された背景に藤原氏という共通するカラーがあったのではないかということです。

萬子媛は、鍋島直朝公の継室として京都から嫁がれました。正室は1660年に32歳で亡くなった彦千代(寿性院)というかたでした。彦千代の母は龍造寺政家の娘だったそうです。

ふと、龍造寺氏の出自はどのようなものだったのだろうと思い、ウィキを見ると、諸説あるようですが、藤原北家と関係があるようです。

萬子媛は花山院定好の娘で、花山院家は藤原北家師実流の嫡流に当たる公家です。

鍋島氏の出自にも諸説あり、藤原秀郷流少弐氏の子孫とも伝えられるとウィキにあります。

龍造寺氏は少弐氏を破り、鍋島氏に敗れたわけですが、少弐氏は藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族だということですから、何だか藤原色が濃い中での争いだったのですね。

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2022年1月14日 (金)

間が空きました

用事が重なり、ご無沙汰しました。

6日に前記事を公開したあと、キンドルストアで販売中の児童小説『田中さんちへやってきたペガサス』を今年中にはアマゾンのオンデマンド出版サービスを使って出したいと思っているので、その計画を検討しました。表紙含めて自分で手がけるか、表紙だけ有料サービスを利用するか、あるいはPDF化全部をプロに頼むか、迷うところです。

田中さんちにやってきたペガサス
(Kindle版,ASIN: ‎B00BEMD5ZK)

いずれにしても、表紙はプロのデザインを購入することになるかなあ。

そこまでするのであれば、改稿したい気もしてきます。続編を書きたくなったりもします。

いやいや、いけない。今年はそれより新作能の創作を第一にしなくては。そこで、謡曲集を読み、以下の文章を下書きしたところで、用事の津波に呑まれました。

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

夫が行ってくれた。外出すると、好きな場所であってもどうしても疲れて家事に障るので、夫が快く行ってくれて助かっている。特に創作を応援してくれているということはないが、こういう形で応援して貰っているとはいえる。大学で同じ文芸部だったからこそ、こんなことが頼めもする。

『謡曲集一』をあれこれ見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

昔話の『羽衣』は、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を頼んでしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』の核となる一文。

ここまで書いて中断していました。「祐徳院」らくがきメモ9で、続きを書きます。といっても、また新しい用事ができたので、これもアップには少し時間がかかりそう。

コロナワクチンに関するニュースにも見逃せないものが2件あるので、先にその記事からのアップとなるかもしれません。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出します。どこへお帰りになるのかはわかりませんでしたが、上のほう、雲の彼方のどこかです。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのでしょうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書きませんでした。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書きました。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていました。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないでしょうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのでしょうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU 

心の鏡でしか見たことのない萬子媛と太陽の光と区別のつかなかった圧倒的なオーラの記憶が映像に重なり、涙が出てきます。ああ、懐かしい。もうずいぶん、行っていないなあ。

謡曲『羽衣』には、核となる一文があります。文学作品は、その核となる一文がなければ失敗作となりますから、わたしの新作能作品にもその一文――オリジナルな一文――が必要です。見つからなければ、いつまで経っても仕上がらないでしょう。

萬子媛をモデルとした歴史小説もどきには、その一文がなかったので、作品としては下書きの域を出ませんでした。あの時点では、萬子媛が断食入定なさったのかどうかに確信が持てず、萬子媛観が相当に揺らいでいました(その事実があったかどうかを歴史的事実として検証したエッセー89「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」をご参照ください)。

らくがきメモ9で、萬子媛にまつわる最近起きた、あわい神秘主義的体験についても記そうと思います。この体験は夫も共有しています。夫も、その霊妙な鈴の音とも鐘の音ともつかない音色を聴いたのでした。その音色は、祐徳稲荷神社に参詣しようとしていたときに聴いた音色と同じでした。

わたしが「高級霊ウォッチャー」よろしく探ろうとして近づくと、「緊急避難」もしくは「煙幕を張って」全力で一切の気配を消そうとなさるのに、わたしの真摯な問いかけにはそれとない形で応答してくださるのが感じられていました。

耳に聴こえる音として応答があったのは、二度目でした。前回は問いかけに対する応答としてではなく、「急いで」という注意としてでしたが……(らくがきメモ9では、そのことを書いたエッセーにリンクします)。今回はわたしの深い疑問に対する応答ではなかったかと考えています。で、何を疑問に思っていたかというと……

ここまで書いてしまいましたが、続きはやはりらくがきメモ9で。その記事とダブる部分は、あとで削除します。

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