カテゴリー「エッセー「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ」」の3件の記事

2006年5月 7日 (日)

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)

当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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  『ノルウェイの森』の主な登場人物

●ワタナベ君……主人公。神戸高校を出、東京の私大に進学。●キズキ……主人公の高校時代の友人。高校在学中に自殺。動機は不明。●直子……主人公に恋される女性。キズキの幼ななじみであり、恋人でもあった。東京の女子大に進学するが、精神を病むようになる。療養施設に入るが、やがて自殺。●永沢……主人公が寮で知り合いになったハイセンスな年上の男性。東大卒業後、外務省。その後ドイツへ。●ハツミ……永沢の恋人。永沢がドイツへ行ったあと「ふと思いついたみたいに」自殺。●緑……主人公と大学が同じで、同じ授業を受講したことから恋人同士になる。実家は書店を経営していたが、父親が亡くなり、姉と決めて店を閉じる。●レイコ……精神療養施設で直子の同室者。ピアニストを志すが挫折。ピアノ教師をしていたときに教え子の少女の悪意から社会的迷惑を被り、精神を病む。

 『ノルウェイの森』の主な登場人物を一応挙げてみたが、いざ挙げようとして戸惑った。というのも、主な登場人物ともそうではないともどちらともいえない登場人物が多いからだ。

 例えば、小説の始まりの部分で、37歳になった主人公がドイツのハンブルク行きの飛行機の中でBGM『ノルウェイの森』を聴いて動揺を覚え、顔を覆う場面に登場するスチュワーデス。主人公を気遣って言葉をかけるのだが、一度離れたあとで再び主人公のもとへやってきて、隣に腰を下ろしてまで気遣う。

 「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから」と主人公がいうと、スチュワーデスは「そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります」といい、立ち上がって素敵な微笑を主人公に向ける。

 このスチュワーデスがなぜ主な登場人物ともそうでないともいえないのかというと、『ノルウェイの森』に登場する女性はほぼ全員がこのスチュワーデスと同質の役割を担っていて、主人公の慰安――性的処理が含まれる場合もある――を司る存在であり、そういった意味において象徴的な存在ともいえるからなのだ。

 女性たちは過剰なまでに、ときには異様なまでに主人公に理解を示す存在として描かれる。ある女性で足りなければ別の女性が追加され、それでも足りなければさらに追加されるという風だ。物語のスタート地点にスチュワーデスがいるとするなら、ラスト地点でタオルをひろげて主人公を待つのはレイコという女性だ。主人公にとって必要がなくなれば、彼女たちはタイミングよくどこへともなく消えていったり、死んでいったりする。

 『ノルウェイの森』はリアリズムの手法で書かれているといわれるが、これでもそうといえるのだろうか。現実には、物事はそう都合よく運ばないものだと思う。頁を多く割いて語られ、主人公を最も悩ませる存在であるはずの直子も自殺を遂げて消えていくし、最終的に主人公が女性たちのあいだから選択したといえる――直子と一見対照的に映る――溌剌とした前向きな女性である緑でさえ、同じ運命をたどることが暗示されていないでもない。

 小説の終わりの部分で、主人公が緑に電話をかける場面が出てくる。主人公は「何もかもを君と二人で最初から始めたい」という。すると緑は長いあいだ電話の向こうで黙り、沈黙を続けたあとで「あなた、今どこにいるの?」と静かな声で問いかける。主人公はそれに対して、答えることができないのだ。自分がどこにいるのか認識できない。認識できないまま緑を呼び続けるという主人公の心象風景だけが描かれて小説は終わっている。

 その後、主人公と緑の仲はどうなったのか。それが読者に明かされることはなく、18年という月日が経過し、初めの飛行機の中の場面となるわけなのだ。緑もまた他の女性たちと同様、消えていったとも考えられる。そう考えれば、この小説は一見ノスタルジックな繊細なムードをまとっているようでありながら、実際には死屍累々たる小説だといえる。勿論、そうしたのは作者以外にありえない。

 男性たちは不必要だからか、極めて存在感に乏しい。主な登場人物として挙げていいのかどうか迷ったくらいだ。わたしは先に、村上春樹の小説は哲学的な構築がなされていず、日常的な思考域の中での思いつきを綴り合わせたにすぎないと放言したけれど、人物の気ままな扱い方からも、そうとしか思えなかった。

 ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。

〔いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。〕

 『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。

〔ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。〕

 このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。『海辺のカフカ』については、また別に見ていきたいと思っている。

 ただここでわたしは、『海辺のカフカ』で猫が殺害される場面を読みながら、それに、『ノルウェイの森』で直子がワタナベ君にフェラチオをする場面が奇妙にも重なってしまったことに触れておきたい。

 恋愛小説には型というものがあり、『ノルウェイの森』とバルザックの『谷間の百合』は類似したスタイルをとっている。『ノルウェイの森』の主人公ワタナベ君も、『谷間の百合』の主人公フェリックスも共に、甚だ障害の多い叶えることが困難な恋愛をする。ワタナベ君の場合は精神を病む直子が相手であり、フェリックスの場合は2人の子持ちの人妻モルソフ夫人(アンリエット)が相手だ。

 そして両者が相手を裏切ることは共通しているが、その内容にはかなりの違いがある。フェリックスの場合は単純に肉欲に負けてしまう。モルソフ夫人は敬虔なキリスト教徒で、彼に決して肉体を与えようとしないことから、乗馬とセックスの達人ダドレー夫人との肉欲に溺れてしまうのだ。それが原因で、フェリックスは全てを失くす。彼には仕事が絡んだ社会的な立場の確保、維持ということの大変さが常につきまとっている。モルソフ夫人はこの点でも、こよなき助言者だったから、フェリックスは二重三重の苦境を味わうのだ。

 フェリックスのあやまちに対して、周囲の人間たちは皆、非情すぎるくらいに非情だった。『イブの娘』という別の作品でバルザックは、フェリックスのその後の姿を描いている(随分昔邦訳されたことはあるようだが、わたしは梗概しか知らない。現在娘が英語版からの訳を試みていて、悪戦苦闘中)。その作品では今度はフェリックスが妻に苦杯を嘗めさせられることになるのだが、そのときの彼は人間的に成熟していて経験ゆたかな動きを見せるようだ。ここにかつての愛人ダドレー夫人の復讐が執拗に絡んでくるところも、芸が細かい。

 一方ワタナベ君も肉欲に負けるが、この場合は当の直子にフェラチオをして貰い、直子の恋敵である緑にも手で射精に導いて貰うという奇怪な展開となっている。直子は膣が乾いていてペニスを挿入できない状態にあり、緑に対しては、彼女との希望に満ちた関係を再スタートさせるまで挿入しない決意を固めていたため、どちらとも性交しない結果となったのだった。彼はのうのうと次のように物語る。

〔僕が最初に思ったのは、直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。〕  

 そして、感傷的に完結することができる程度の精神的な痛手を被ったことを別にすれば、彼が健康的で日向的な志向性を持つ緑を選んだことで被った損害は大したことがないように思える。作者は、直子に本当はワタナベ君を愛してはいないということを繰り返しいわせて、主人公を罪の意識から遠ざける仕掛けさえほどこしている。これを直子の恋ごころの綾ととれないこともないが、もしそうだとすると、主人公の鈍感さは歯痒いばかりだ。 

 直子が自殺したことの喪失感すら主人公は、直子と療養施設で同室だったレイコから手紙を贈られたりセックスをして貰うことで、慰められる。主人公との最後の夜、直子はどう読んでも、やむなくフェラチオをしたというのにだ。直子は、自分が捨てられようとしていることを予感していたため、乾いていたのではないだろうか。

 いずれにせよ、乾いているにも拘らず直子が自ら性的な行為に及んだのは、自己犠牲から以外は考えられない。『海辺のカフカ』で猫が殺害される場面にこの彼女の自己犠牲が重なるのは、この場面を描くときの作者の姿勢にあるのだろうと思う。この場面を描くときの作者の筆遣いは極めて軽快で、即物的な無邪気さを湛えている。だからこちらも軽く読んでしまうのだが、あとになってなぜか残酷な場面として甦るのだ。女ごころはこんなものではないと感じられるからだろうか。

 ただ、こうして直子が不感症になったりならなかったりするのも不自然な話ではある。直子の幼ななじみで元々の恋人だった本当に愛していたというキズキに対しては不感症、直子の20歳の誕生日にワタナベ君とセックスしたときはそうではないのに(このとき直子にはもう精神疾患の徴候があらわれている)、療養施設ではまた不感症となっている。不感症になったりならなかったりと、作者の勝手な都合で操作されているとしか思えない不自然さだ。

 それに対して、モルソフ夫人が今わの際でフェリックスに対して示す愛欲の念は、わたしには自然に感じられるのだ。以下にその部分を引用(石井晴一訳、新潮文庫)してみたい。

〔私の目に涙がにじんできました。私は花を眺めるふりをして、つと窓の方に顔を向けました。ビロドー師は急いでそばにやってきて、花束の上に身をかがめながら「涙をお見せになってはいけません」と私の耳にささやきました。

「アンリエット、それでは私たちの谷間がもうおきらいになったのですか」私は自分の不意な動作をつくろうように彼女にいいました。

「いいえ、好きですわ」彼女は甘えるように、私の唇に額をさしだしながら言いました。「でも、あなたがいらっしゃらないと、谷間もひどく物悲しくて……そう、私のひとがいてくれないと」彼女はその燃えるような唇で、私の耳にかるくふれながら、この最後の言葉を溜息のようにささやきました。

 二人の神父の恐ろしい話を上まわる、この狂おしいばかりの愛のしぐさに、私は思わずぞっとさせられました。〕

 ぞっとさせられたというフェリックスの言葉に、わたしも共感できる。モルソフ夫人が気品に満ちた女性であることを知っているからだ。同様に、直子も病んでいるとはいえ――病んでいるからこそかもしれないが――精神性の勝った、繊細で、透明感のある女性であることも知っている。だからこそ、心理的に今わの際にあったといっていい状況でフェラチオをする直子にいたたまれなくなるのだ。だが、その痛みを最も感じうるはずの作者が感じていない。

 『ノルウェイの森』は、日本の伝統的な娼婦小説の系譜に連なる作品といえないこともない。近頃では女性自ら、娼婦小説を書くのはどういう訳だろう? そうした男性の性に媚びたような作品に、文学賞の最終選考でわたしはいつも蹴落とされる。

  ざっと『ノルウェイの森』を見てきたが、気力が回復すれば続いて『海辺のカフカ』を見ていきたい。露骨な表現の散見されるエッセーになってしまったことを、お許し願いたい。〔了〕

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2006年5月 5日 (金)

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)

当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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 ここで少し話が横道に逸れてしまうが、昨日、文庫本上下で出ていた「海辺のカフカ」を購入した。まだ読み終えてはいないのだが、この時点でもこれだけはいえると思う。これはゲーム本のような書かれ方をしている。要所で、世界的に著名な古今の哲学や文学の本からの引用が行われるが、それらは徹頭徹尾アイテム、便利な道具として使われているのだ。悪用されているといえる。

 プラトンの「饗宴」、バートン版「千夜一夜物語」、フランツ・カフカ「流刑地にて」、夏目漱石「坑夫」、「源氏物語」、ソフォクレス「エレクトラ」「オイディプス王」、T・S・エリオット、上田秋成「雨月物語」、ヘーゲル、アントン・チェーホフ、ジャン・ジャック・ルソー……哲学、文学ばかりではない。音楽も、映画も。

 村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか! これらについては、一つ一つ細かくチェックしていく必要がある。評論家たちは、一体何をしているのだろう。勢力のある作家、それと同じ匂いのする新人をよいしょする以外に、仕事はないとでもいうのか?

 これがカフカ賞? ノーベル賞の可能性? 全くぞっとする。これはもやは社会問題ではないだろうか……! 村上春樹はこれを娯楽小説として書いたのだろうか、純文学作品として書いたのだろうか? 仮に娯楽小説として書いたとしても、娯楽小説であれば、何を書いてもどんな書き方をしてもいいというのだろうか。

 オウム真理教が惹き起こした地下鉄サリン事件の被害者たちへのインタビューを行ったのは、この人ではなかったか。その当時、なぜ村上春樹がそこまでするのだろうと怪訝に思ったものだが、今はなるほどと思う。オウム真理教の教祖麻原彰晃(松本智津夫)と村上春樹の物の考え方には共通点があるからだ。先に挙げた引用の仕方などは、まさにそうだ。一方が引用を小説を書くためのアイテムとし、他方が聖典からの引用を説教するためのアイテムとしたという違いがあるだけなのだ。

 自分の話になってしまうが、わたしは神智学を知りたいと思い、もうお亡くなりになったが、当時の神智学協会ニッポンロッジ長に手紙を書いたのがきっかけとなって、長年文通していた。会長は、わたし以外の会員たちともよく文通されていたようだ。その文通の中でだったと思うが、彼女に注意を促がされて、記憶に焼きついたことがある。

 それは引用の仕方に関することで、引用というものは、引用しようとする著作を背負ってなされなければならず、著作全体の意味合いとのバランスを考えてなされなければならないということだった。自分の都合で勝手な引用をしてはいけません、ということだろう。

 そういわれても、現実にはなかなか難しい。悪用する動機からでなかったとしても、自分ではその著作を理解しているつもりで実は理解できていないということがあるだろうし、そうすれば結果的に悪用することになってしまい、もし完全に理解するまで引用してはならないというのであれば、わたしなどは死ぬまで引用することができないだろう。

 そこでわたしは必要を覚えたら引用してしまうことにしているのだが、そうしようとするたびに彼女の警告の言葉が頭の中で鳴り響く。図書館へ行かなくてはならなくなる。畏怖の念を覚えながら、こわごわ引用する(それくらいでは軽率さは否めないのだが)。

 ありがたい忠告だったと思う。これは自分自身との関係も含まれる対人関係についてもいえることで、人間理解の鉄則でもあるだろうから。ある人の一面だけを見て、決めつけたり利用したりしてはならないということ。いや、人間についてばかりではない。動物、自然、大宇宙、次元の異なる世界についても同様に……。観察力を研ぎ澄ませ、注意深くあろうと努めることは、様々なものとのバランス、可能な限りの共存という点で、無意味ではない。

 バルザックは、人間を描く場合でも、容貌から生い立ち、時代背景、何を食べ何を着、どんなところに住んでいるかまで細密に描くことから始めた。導入部の長さから退屈だといわれ、現代では敬遠されがちな作家であるが、退屈ならいくらか飛ばしながらでも構わない、先へ先へと読んでいくと、そのうち視界がひらけて、やがて、この世で体験できるとは予想だにしなかった光と影、香りを知り、甘露が味わえるのだ。

 村上春樹は人物であろうが状況であろうが、お気に入りを手軽に拾ってくる。そして彼の作品の特徴は断言と断定で、それが日常的な些細な事柄でも思想を語る場合でも、同じ調子で繰り返し行われる。全く同じ調子で――というのが、際立った特徴となっている。一種悟りをひらいた人の言葉であるかのような装飾がほどこされているのだ。

 だが、そうされることによって、こちらの既にひらけていた視界、ひらけようとしていた視界は閉ざされ、先へ先へと読み進むほどに閉じていくばかりの世界を体験していくことになる。そして読後に味わうのは、虚無感、倦怠感だ。尤も、これはわたしの特異な感じ方にすぎないのかもしれない。何しろハンバーガーが売れるように売れる人気作家なのだから。

 ただ、わたしが思うには、村上春樹は「ノルウェイの森」を書いた時点ではどちらに行くこともできたはずだった。精神を病む直子の描写は丁寧で繊細、その筆遣いは時に抒情味を帯びて美しくさえあり、わたしの友人に統合失調症の女性がいるけれど、病態の特徴がよく捉えられていると思う。この場合も、捉え方が一面的にすぎる嫌いはあるのだが。

 ここで話を元に戻して、「ノルウェイの森」の主な登場人物を挙げてみたい。〔

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2006年5月 3日 (水)

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)

当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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 村上春樹の「ノルウェイの森」が発売され、ブームを巻き起こしたとき、わたしの妹もそれを買い、読んで感動したと語った。上下2巻、赤と緑で装丁されたその本を自分で買って読んだのか、妹に借りて読んだのかがどうしても思い出せない。いつの間にか、本はなくなっていた。その後、研究したい気持ちに駆られて既に文庫になっていた「ノルウェイの森」を買った。

 村上春樹の本は、1988年10月に講談社から書き下ろしとして出版された「ダンス・ダンス・ダンス」くらいまでは読んでいる。少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがあるという点で、次々に読みたくなったのだった。

 居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店を行きつけとしていた時期があったといったら、いいだろうか。あくまで気晴らし、怖いもの見たさといった気分から出かけていたのだ。わたしには帰る家はちゃんとあったのだから。バルザック・パパのいる家が。その喫茶店は、グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家のようでもあり、人さらいのいるサーカス小屋のようでもあり、着飾った女性たちのいる遊郭のようでもあった。

 こんなわたしの読み方、感じ方は特異すぎるだろうか?

 そんな遊びごころも、「ダンス・ダンス・ダンス」を読んだときにさめた。これはとって食われると、本当に恐ろしくなったのだった。とって食うものの正体を見究めるには、きちんと研究する必要があるだろう。

 研究するには全部を読まなければならない。時間がもったいないだけでなく、村上春樹の本を読むと、セックスをしたあとのような倦怠感に囚われるのが嫌だ。カフカ賞を受賞したという彼が、本当にノーベル賞をとることにでもなれば、嫌でも全部を読み、研究しなければならないとの危機感を覚えるだろうが……。そうならないことをミューズに祈り、ここではとりあえず「ノルウェイの森」にのみ焦点をあて、感じたことを書いてみたい。

                          ★

 文庫本の帯に「限りない喪失と再生を描く究極の恋愛小説」(上)「激しくて、物静かで哀しい、100パーセントの恋愛小説!」と謳われている「ノルウェイの森」。新聞広告でも、「ノルウェイの森」の読者から賛辞が沢山寄せられ、その多くがそのような読み方をしているだろうことを物語っていた。

 だが果たして、この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか? もし本当に恋愛小説として読まれているとするなら、ハーレークインロマンスのようにだろうか、純文学作品のようにだろうか?

 「ノルウェイの森」は、乳の匂いのする独特の雰囲気を持つ小説だ。それというのも、作者が、物語の語り手であり主人公でもある《ワタナベ君》を終始、良識的な第一級の人物として扱っていて、万感を籠めた信頼を寄せているからだ。この関係は、息子を溺愛しすぎて、自分の物の見方も息子の物の見方も共に見失った母親のようだ。

 ワタナベ君にわからないことは作者にもわからないし、作者が作品全体を通して読者に語りかけるという純文学作品ならではの読書の妙味や芳醇な味わいなどはこの作品では体験できない。そうしたものは期待するだけ間違っている。そこに読んだままのことしか存在しないのだ。だが、期待させるだけの変に飾った雰囲気をこの作品はまとっている。

 作者と語り手の距離感のなさは、「ノルウェイの森」が日常的な思考域での思いつきを綴り合せたにすぎないことを示している。純文学作品において不可欠な、哲学的構築ということが考慮されていないのだ。ここのところが実は、娯楽作品と芸術作品を分ける分岐点なのだが……。

  村上春樹がカフカ賞を受賞し、さらにノーベル賞受賞の可能性を取り沙汰されるに及んでわたしが驚いたのは、これが理由だった。勿論、ノーベル賞が娯楽小説に与えられる賞に変ったというのであれば、話は別だ。

 ところで、ワタナベ君であるが、彼が誰かに似ているとずっとわたしは思っていて、思い出せなかった。ところがつい最近になって、思い出した。ワタナベ君は「源氏物語」に登場する人物中、最も魅力に欠ける男――続編「宇治十帖」に登場する――薫に似ているのだ。

 いや、優柔不断で、恋する女性が最も精神的なつながりを求めているとき、その女性にフェラチオをさせて平然としている男、そして、その場面を美しく謳いあげることすらするような男が魅力的だと大方の人は思うのかもしれない。(さすがに「宇治十帖」では露骨な描写はないが、薫は優柔不断で甚だ頼りないにも拘らず、がめつくとるものはとる、つまりセックスだけはしてしまうような男だ)。

 恋愛小説にセックスの気配が漂うのは当たり前の話だ。それはときに宝物のように扱われ、ときには瘴気を漂わせるに任される。それは微妙なもので、一応恋愛関係にある男女の場合であっても、ふたりの意識に乖離がありすぎる場合のセックスは、悲哀や失望をもたらし、程度が甚だしい場合には強姦に似たものとすらなるだろう。

 どう描かれようと大抵恋愛小説にはなるのだが、「ノルウェイの森」の場合には、そこのところさえ危ぶまれるのだ。なぜなら、作者の意図と作中の女性の意識が甚だずれているように感じられるからだ。

 登場人物である男女ふたりの意識がいくらずれていようと一向に構わないのであるが、ここでも作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。

 もう少し丁寧に作品を見ていこう。〔

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