村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)
当小論をもとにした評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』
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●ワタナベ君……主人公。神戸高校を出、東京の私大に進学。●キズキ……主人公の高校時代の友人。高校在学中に自殺。動機は不明。●直子……主人公に恋される女性。キズキの幼ななじみであり、恋人でもあった。東京の女子大に進学するが、精神を病むようになる。療養施設に入るが、やがて自殺。●永沢……主人公が寮で知り合いになったハイセンスな年上の男性。東大卒業後、外務省。その後ドイツへ。●ハツミ……永沢の恋人。永沢がドイツへ行ったあと「ふと思いついたみたいに」自殺。●緑……主人公と大学が同じで、同じ授業を受講したことから恋人同士になる。実家は書店を経営していたが、父親が亡くなり、姉と決めて店を閉じる。●レイコ……精神療養施設で直子の同室者。ピアニストを志すが挫折。ピアノ教師をしていたときに教え子の少女の悪意から社会的迷惑を被り、精神を病む。
『ノルウェイの森』の主な登場人物を一応挙げてみたが、いざ挙げようとして戸惑った。というのも、主な登場人物ともそうではないともどちらともいえない登場人物が多いからだ。
例えば、小説の始まりの部分で、37歳になった主人公がドイツのハンブルク行きの飛行機の中でBGM『ノルウェイの森』を聴いて動揺を覚え、顔を覆う場面に登場するスチュワーデス。主人公を気遣って言葉をかけるのだが、一度離れたあとで再び主人公のもとへやってきて、隣に腰を下ろしてまで気遣う。
「大丈夫です、ありがとう。ちょっと哀しくなっただけだから」と主人公がいうと、スチュワーデスは「そういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります」といい、立ち上がって素敵な微笑を主人公に向ける。
このスチュワーデスがなぜ主な登場人物ともそうでないともいえないのかというと、『ノルウェイの森』に登場する女性はほぼ全員がこのスチュワーデスと同質の役割を担っていて、主人公の慰安――性的処理が含まれる場合もある――を司る存在であり、そういった意味において象徴的な存在ともいえるからなのだ。
女性たちは過剰なまでに、ときには異様なまでに主人公に理解を示す存在として描かれる。ある女性で足りなければ別の女性が追加され、それでも足りなければさらに追加されるという風だ。物語のスタート地点にスチュワーデスがいるとするなら、ラスト地点でタオルをひろげて主人公を待つのはレイコという女性だ。主人公にとって必要がなくなれば、彼女たちはタイミングよくどこへともなく消えていったり、死んでいったりする。
『ノルウェイの森』はリアリズムの手法で書かれているといわれるが、これでもそうといえるのだろうか。現実には、物事はそう都合よく運ばないものだと思う。頁を多く割いて語られ、主人公を最も悩ませる存在であるはずの直子も自殺を遂げて消えていくし、最終的に主人公が女性たちのあいだから選択したといえる――直子と一見対照的に映る――溌剌とした前向きな女性である緑でさえ、同じ運命をたどることが暗示されていないでもない。
小説の終わりの部分で、主人公が緑に電話をかける場面が出てくる。主人公は「何もかもを君と二人で最初から始めたい」という。すると緑は長いあいだ電話の向こうで黙り、沈黙を続けたあとで「あなた、今どこにいるの?」と静かな声で問いかける。主人公はそれに対して、答えることができないのだ。自分がどこにいるのか認識できない。認識できないまま緑を呼び続けるという主人公の心象風景だけが描かれて小説は終わっている。
その後、主人公と緑の仲はどうなったのか。それが読者に明かされることはなく、18年という月日が経過し、初めの飛行機の中の場面となるわけなのだ。緑もまた他の女性たちと同様、消えていったとも考えられる。そう考えれば、この小説は一見ノスタルジックな繊細なムードをまとっているようでありながら、実際には死屍累々たる小説だといえる。勿論、そうしたのは作者以外にありえない。
男性たちは不必要だからか、極めて存在感に乏しい。主な登場人物として挙げていいのかどうか迷ったくらいだ。わたしは先に、村上春樹の小説は哲学的な構築がなされていず、日常的な思考域の中での思いつきを綴り合わせたにすぎないと放言したけれど、人物の気ままな扱い方からも、そうとしか思えなかった。
ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。
〔いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。〕
『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。
〔ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。〕
このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。『海辺のカフカ』については、また別に見ていきたいと思っている。
ただここでわたしは、『海辺のカフカ』で猫が殺害される場面を読みながら、それに、『ノルウェイの森』で直子がワタナベ君にフェラチオをする場面が奇妙にも重なってしまったことに触れておきたい。
恋愛小説には型というものがあり、『ノルウェイの森』とバルザックの『谷間の百合』は類似したスタイルをとっている。『ノルウェイの森』の主人公ワタナベ君も、『谷間の百合』の主人公フェリックスも共に、甚だ障害の多い叶えることが困難な恋愛をする。ワタナベ君の場合は精神を病む直子が相手であり、フェリックスの場合は2人の子持ちの人妻モルソフ夫人(アンリエット)が相手だ。
そして両者が相手を裏切ることは共通しているが、その内容にはかなりの違いがある。フェリックスの場合は単純に肉欲に負けてしまう。モルソフ夫人は敬虔なキリスト教徒で、彼に決して肉体を与えようとしないことから、乗馬とセックスの達人ダドレー夫人との肉欲に溺れてしまうのだ。それが原因で、フェリックスは全てを失くす。彼には仕事が絡んだ社会的な立場の確保、維持ということの大変さが常につきまとっている。モルソフ夫人はこの点でも、こよなき助言者だったから、フェリックスは二重三重の苦境を味わうのだ。
フェリックスのあやまちに対して、周囲の人間たちは皆、非情すぎるくらいに非情だった。『イブの娘』という別の作品でバルザックは、フェリックスのその後の姿を描いている(随分昔邦訳されたことはあるようだが、わたしは梗概しか知らない。現在娘が英語版からの訳を試みていて、悪戦苦闘中)。その作品では今度はフェリックスが妻に苦杯を嘗めさせられることになるのだが、そのときの彼は人間的に成熟していて経験ゆたかな動きを見せるようだ。ここにかつての愛人ダドレー夫人の復讐が執拗に絡んでくるところも、芸が細かい。
一方ワタナベ君も肉欲に負けるが、この場合は当の直子にフェラチオをして貰い、直子の恋敵である緑にも手で射精に導いて貰うという奇怪な展開となっている。直子は膣が乾いていてペニスを挿入できない状態にあり、緑に対しては、彼女との希望に満ちた関係を再スタートさせるまで挿入しない決意を固めていたため、どちらとも性交しない結果となったのだった。彼はのうのうと次のように物語る。
〔僕が最初に思ったのは、直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のように感じられてしまうのだ。〕
そして、感傷的に完結することができる程度の精神的な痛手を被ったことを別にすれば、彼が健康的で日向的な志向性を持つ緑を選んだことで被った損害は大したことがないように思える。作者は、直子に本当はワタナベ君を愛してはいないということを繰り返しいわせて、主人公を罪の意識から遠ざける仕掛けさえほどこしている。これを直子の恋ごころの綾ととれないこともないが、もしそうだとすると、主人公の鈍感さは歯痒いばかりだ。
直子が自殺したことの喪失感すら主人公は、直子と療養施設で同室だったレイコから手紙を贈られたりセックスをして貰うことで、慰められる。主人公との最後の夜、直子はどう読んでも、やむなくフェラチオをしたというのにだ。直子は、自分が捨てられようとしていることを予感していたため、乾いていたのではないだろうか。
いずれにせよ、乾いているにも拘らず直子が自ら性的な行為に及んだのは、自己犠牲から以外は考えられない。『海辺のカフカ』で猫が殺害される場面にこの彼女の自己犠牲が重なるのは、この場面を描くときの作者の姿勢にあるのだろうと思う。この場面を描くときの作者の筆遣いは極めて軽快で、即物的な無邪気さを湛えている。だからこちらも軽く読んでしまうのだが、あとになってなぜか残酷な場面として甦るのだ。女ごころはこんなものではないと感じられるからだろうか。
ただ、こうして直子が不感症になったりならなかったりするのも不自然な話ではある。直子の幼ななじみで元々の恋人だった本当に愛していたというキズキに対しては不感症、直子の20歳の誕生日にワタナベ君とセックスしたときはそうではないのに(このとき直子にはもう精神疾患の徴候があらわれている)、療養施設ではまた不感症となっている。不感症になったりならなかったりと、作者の勝手な都合で操作されているとしか思えない不自然さだ。
それに対して、モルソフ夫人が今わの際でフェリックスに対して示す愛欲の念は、わたしには自然に感じられるのだ。以下にその部分を引用(石井晴一訳、新潮文庫)してみたい。
〔私の目に涙がにじんできました。私は花を眺めるふりをして、つと窓の方に顔を向けました。ビロドー師は急いでそばにやってきて、花束の上に身をかがめながら「涙をお見せになってはいけません」と私の耳にささやきました。
「アンリエット、それでは私たちの谷間がもうおきらいになったのですか」私は自分の不意な動作をつくろうように彼女にいいました。
「いいえ、好きですわ」彼女は甘えるように、私の唇に額をさしだしながら言いました。「でも、あなたがいらっしゃらないと、谷間もひどく物悲しくて……そう、私のひとがいてくれないと」彼女はその燃えるような唇で、私の耳にかるくふれながら、この最後の言葉を溜息のようにささやきました。
二人の神父の恐ろしい話を上まわる、この狂おしいばかりの愛のしぐさに、私は思わずぞっとさせられました。〕
ぞっとさせられたというフェリックスの言葉に、わたしも共感できる。モルソフ夫人が気品に満ちた女性であることを知っているからだ。同様に、直子も病んでいるとはいえ――病んでいるからこそかもしれないが――精神性の勝った、繊細で、透明感のある女性であることも知っている。だからこそ、心理的に今わの際にあったといっていい状況でフェラチオをする直子にいたたまれなくなるのだ。だが、その痛みを最も感じうるはずの作者が感じていない。
『ノルウェイの森』は、日本の伝統的な娼婦小説の系譜に連なる作品といえないこともない。近頃では女性自ら、娼婦小説を書くのはどういう訳だろう? そうした男性の性に媚びたような作品に、文学賞の最終選考でわたしはいつも蹴落とされる。
ざっと『ノルウェイの森』を見てきたが、気力が回復すれば続いて『海辺のカフカ』を見ていきたい。露骨な表現の散見されるエッセーになってしまったことを、お許し願いたい。〔了〕
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