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2022年11月 4日 (金)

神秘主義エッセーブログより、改稿済み「71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」を紹介

「71 祐徳稲荷神社参詣記 (2)2016年6月15日」『マダムNの神秘主義的エッセー』。URL: https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/06/30/172355

 

2018年8月に、『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)を祐徳博物館から購入した。それを読むと、萬子媛は病死なさったのではないか――との推測が成り立つ。一方では、萬子媛には断食入定の伝承があり、その可能性も否定し去ることはできないと思われるので、当エッセーの記述は訂正せず、そのままにしておくことをお断わりしておく。(2018年10月14日、筆者)

目次

  1. 萬子媛について復習
  2. 2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学する
  3. 萬子媛の身長
  4. わたしが萬子媛を高級霊と疑わない理由
  5. 断食入定の伝承
  6. 何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉
  7. カーマ・ルーパという、物質に関するあらゆる欲望によって作られた主観的な形体
  8. どのような地位にある教師なのかは知りようがない


萬子媛について復習

もしかしたら、自分ではその自覚がなくとも、誰にでもあるはずの霊媒性質が強まったがために低級霊と縁ができてしまったのかもしれないという可能性を排除せず、緊張の中で参拝してきた。

しかし、これまでの経験から、強まったのは霊媒性質ではなく、健全な神秘主義的感受性だと確信し、今回わたしは警戒心よりも、神様と呼ばれる、生前から徳と神通力で知られた方に再会できる期待感で胸を膨らませながら出かけた。

深窓の麗人を訪問するような気持になる一方では、これまでのこと全てが夢だったのではないか、もし夢でなかったとしても萬子媛はわたしのことを覚えていてくださるだろうか……という甘美な期待感と恐ろしさに似た気持ちとが交錯した。

ところで、昔の日本の系図には女性の名前は書かれていないことが多く、実は萬子媛の名前もわからない。郷土史家の迎昭典氏が、こうした基本的なことから御教示くださった。

史料から判明しているのは、剃髪して尼となり、瑞顔実麟大師と号したこと。また、謚が祐徳院殿瑞顔実麒大師というくらいである。

萬子媛は佐賀県鹿島市にある祐徳稲荷神社の創建者として知られているが、祐徳稲荷神社の寺としての前身は祐徳院である。

明治政府によって明治元年(1868)に神仏分離令が出されるまで、神社と寺院は共存共栄していたのだった。祐徳院は日本の三禅宗の一つである黄檗宗の禅寺で、義理の息子・断橋に譲られて萬子媛が主宰した尼十数輩を領する尼寺であった。

ここでざっと萬子媛について復習しておこう。

萬子媛は、公卿で前左大臣・花山院定好を父、公卿で前関白・鷹司信尚*1の娘を母とし、1625年誕生。2歳のとき、母方の祖母である後陽成天皇第三皇女・清子内親王の養女となる。

1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。直朝は再婚で41歳、最初の妻・彦千代は1660年に没している。

父の花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。1673年、文丸(文麿)、10歳で没。1687年、式部朝清、21歳で没。

朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳。

1705年閏4月10日、80歳で没。諡、祐徳院殿瑞顔実麟大師。遺命に依りて院中の山上石壁に葬られた。


2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学する

2016年6月15日、祐徳稲荷神社に参拝し、祐徳博物館を見学した。

地上と本殿をつなぐエレベーターができていた。階段での移動が大変な人や移動するエレベーターの中から景色を眺めたい人には便利だ。

萬子媛はあの世の方だから、お元気でないことはないと思うが、それでも変わりなくボランティアを続けていらっしゃることを確認できることは嬉しいことだし、高級霊としての品格を本当にさりげなく伝えていただき、出かけるたびに萬子媛が好きになる。

高級霊と書いたが、地上から離れられずにいる低級霊とは到底考えられない高貴さを感じるから高級霊と書いた。

参拝者を母親のように見守り、太陽の光のようなオーラで抱擁してくださる萬子媛のような方を長い時間をかけて日本人自身が育んできたことを思えば、祐徳稲荷神社のような文化財は本当に日本の宝物だと思う。

今回、萬子媛の御遺物が収められた祐徳博物館に長居した。メモをとるためにあまりに長い時間いたので、夫と娘はソファで寝てしまっていた。

博物館を出るときに長居の失礼をお詫びするつもりだったけれど、男女の職員のお二人が事務所の中から優しい快い表情を浮かべてこちらを見てくださったので、感謝のお辞儀をして出た。

前に博物館を見学したのがいつだったか、正確には思い出せない。そのときの見学で記憶に残っていたのは扇面和歌、大和物語を書写したもの、御掻巻といった僅かな品だった。今回はじっくり見ることができたので、小説に手を加える際の参考になる。

遺愛の名琴と説明のある楽器を見、感激した。小説の第一稿を書いているときに、気品の高い女性が筝を弾いている姿が目に浮かび、その場面を取り入れた。萬子媛は本当に箏を弾かれていたようだ。琴と普段呼ばれている楽器は音楽専門サイトによると筝であるようだが(琴には柱がない)、小説にはどちらの表現を使うかで迷う。

前の訪問時には見落としていたのか、僧侶姿の萬子媛の肖像画をじっくり見ることができた。郷土史家からいただいた資料の中にこの萬子媛の肖像画の写真のコピーがあり、嬉しくてよく眺めていた。

現物はずっと大きく、色合いもこまやかなため、わたしの中で萬子媛の容貌が修正された。厳めしい印象だったのが、もっと軽やかな、優しい、明るい表情に見えた。わたしが思い描くイメージにぴったりだ。貼りついたように肖像画の前を動くことができなかった。

やはり、若いころは相当な美人だったのではないだろうか。老境に入ってさえ、色白で卵形のお顔に鼻筋が通り、如何にも聡明そうな目は高齢のせいで形がはっきりしないが、奥二重か二重だろう。ほどよく小さめの口、薄めの唇、凜とした口元。

家内安全の御祈願をお願いした。たっぷり30分、神楽殿で御祈願していただいた。巫女さんの御神楽もあった。

御祈願していただいている間中ずっと、わたしは背後に、萬子媛を中心にして、生きているときは女性であったと思える方々が端然と立っていられるのをほのかに感じていた。すぐ後ろにいらっしゃるのが萬子媛だとなぜかわかった。

寒いくらいにクーラーが利いていたのだが、背中がずっと温かく、萬子媛から放射されるオーラの温もりだと感じた。太陽さながらの萬子媛だ。

しかし、神秘主義的な現象だったためか、今回も夫はずっと寒かったといった。娘も温かいとは思わなかったようだ。わたしは汗が出るくらいだった。暑い日だったから、もしクーラーが効いていなかったら、こんな確認もできなかったことだろう。


萬子媛の身長

萬子媛を背後に感じていたとき、江戸時代に生きた萬子媛はもしかしたら小柄だったのでは、と思った。わたしは夫と娘に挟まれて長椅子の真ん中に座っていた。萬子媛はわたしのすぐ後ろに立っていらっしゃる気配があったのだ。

このときまで、わたしは萬子媛を長身だと思い込んでいた。前に石壁社を参拝したときの圧倒的なイメージがあったためだろう。小説にも長身のイメージで書いたものの、萬子媛の身長についてはずっと気にかかっていた。

まるで、その疑問に答えるかのように、萬子媛がわたしのすぐ後ろに江戸時代の御姿で立っていらっしゃるのが心の鏡にほのかに映って見えたのが神秘的だった。

石壁社で初めて萬子媛に語りかけ、わたしの語りかけに驚かれた萬子媛が後ろから圧倒的なまでのオーラを放射されたとき、まるで女巨人のような気がした。

あの世ではどんな御姿でいらっしゃるのかわからないが、この世に通勤(?)なさるときは、地上のイメージに合わせて、江戸時代の御姿をとっていらっしゃるような気がする。

「江戸時代がわかるお役立ちサイト 江戸時代 Campus」*2に、江戸時代の人の平均身長は「調査した学者によって異なりますが、だいたい男性は155cm~157cm、女性は143cm~145cmほどであったと考えられています」とあって、それからすると萬子媛の身長は平均身長くらいだったのではないだろうか。小柄なわたしが小柄と感じたくらいだから、それくらいだと思えた。

こういう場所での30分という時間は半端ではなく、萬子媛の臨在を感じていながらふと緊張感の途切れる瞬間が何度もあり、あれこれ雑念が浮かんだ。

あまりに色々なことを心の中でつぶやいていたので、微笑まれる気配や微かに戦慄される気配の伝わってきた瞬間があった。

「日本は今、危険な状況にあると思います。どうか日本をお守りください」とつぶやいたとき、萬子媛が微かに戦慄なさるのが伝わってきた。萬子媛の最も近くに控えていた方が頷かれたような気配も、ほのかに伝わってきた。

萬子媛がボランティア集団を組織なさっているとわたしが想像するのは、萬子媛を囲むように一緒にいるあの世の方々を感じることがあるからだ。萬子媛が黄檗宗の禅院を主宰なさっていたときにそこに所属していた尼僧たちなのかどうかはわからない。

わたしの願い事に萬子媛がなぜ微かに戦慄なさったのかはわからなかった。日本が本当に危ないからなのか、萬子媛の守備範囲を超えた願事をしたからなのか、あるいは真剣に受けとめられた武者震いのようなものなのか……

もう一度、微かな戦慄が伝わってきたのは、「萬子媛の小説を書きました。手直しが必要だと思っていますが、もしこの小説に価値がないのであれば、決して世に出ることがありませんように。でも、価値があるのでしたら、世に出ることができますように。わたしは萬子媛のような方の存在を日本ばかりか世界にも知らしめたい……」とつぶやいたときだった。

加筆修正が必要な段階でどうかとは思いつつも、ご報告までと思い、プリントアウトした小説を持参し、御祈願の間ずっと背後にいらっしゃる萬子媛の方に向けて膝に置いていた。

微笑まれたのは、「祐徳稲荷神社に少しは寄付できるくらいのお金があったらな……」と、これは雑念だったが、思わず心の中でつぶやいてしまったときだった。

相手が生きてる人であろうとあの世の人であろうと、神秘主義者にとっては神智学でいわれるように、同じように「思いは生きている」ので、相手の反応が伝わってくることがある。


わたしが萬子媛を高級霊と疑わない理由

わたしが萬子媛を高級霊と疑わないのは、江戸時代の人でいらしたときの豊かな情緒、優れた知性をおそらくは基本として、あの世から人類のためにボランティアをしている方々に特有の、といいたくなるような、完璧といってよい自己管理能力を感じさせられるからだ。

萬子媛の気配を感じるのはわたしの感受性が優れているためであって(?)、萬子媛に隙があるわけではないと思う。

その全てのほのかな気配が何ともいえない優美さ、快い率直さで、392年前に地上に誕生して生きていらしたときの個性を感じさせられる。お亡くなりになったときは高齢だったけれど、わたしに伝わってくるのは妙齢のご婦人を連想させられる若々しい印象だ。

312年前に入寂された方を取材できるなんて、神秘主義者の特権だ。萬子媛が神様と呼ばれるにふさわしい高級霊だと確信できなければ、この世で働いているあの世的な存在を観察しようなんて思わなかっただろう。

これまでの経験から推測するに、萬子媛の御公務は御祈願の窓口が開いている間だと思われる。それ以外の時間はあの世にいらっしゃるのだろう。御祈願が終わるころ、側に控えていた方に促されるようにして去っていかれた気配を感じた。

前回参拝したときもそうだったのだが、童謡「夕焼け小焼け」が流れたあとに萬子媛が祀られた石壁社にお参りしても、何も感じられなかった。哀しいくらいに空っぽに感じられた。


断食入定の伝承

ところで、わたしの歴史小説の初稿を読み、「なぜ、萬子媛は餓死したの?」と尋ねた友人がいた。「えっ?」と、わたしは言葉をなくした。

わたしは歴史小説の中で、萬子媛の断食入定を――それは伝承によるものだが――クライマックスと位置づけ、詳しく書いたつもりだった。さらに丁寧に書くべきか?

「萬子媛の入定がわかりにくかったみたい。あれじゃ、わからなかった?」と夫に尋ねると、「わかるも何も、説明がなくったって、坊主が食を断って亡くなったと聞けば、即身成仏だと思うだろ、普通」

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といえるものが『祐徳開山瑞顔大師行業記』で、文人大名として有名だった義理の息子直條によって、萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述された。

郷土史家が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料である。直條の記述を生かしたいと思い、『祐徳開山瑞顔大師行業記』から引用したりしたのが、難しかったのだろうか。

あるいは、断食入定を決意するまでの心情表現が不足していて、なぜ断食入定にまで至ったのかが理解できなかったということかもしれない。禅院での生活にもっと踏み込む必要がありそうだ。入定について、ウィキペディア「入定」の解説を引用しておこう。

入定(にゅうじょう)とは、真言密教の究極的な修行のひとつ。永遠の瞑想に入ることを言う。
原義としての「入定」(単に瞑想に入ること)と区別するため、生入定(いきにゅうじょう)という俗称もある。
密教の教義において、僧は死なず、生死の境を超え弥勒出世の時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入ると考えられている。僧が入定した後、その肉体は現身のまま即ち仏になるため、即身仏と呼ばれる。
……(中略)……
江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。

……(中略)……
生入定を作ることは、現在では自殺幇助罪または死体損壊罪・死体遺棄罪に触れるため、事実上不可能になっている。

 

修行方法

まず、木食修行を行う。
死後、腐敗しないよう肉体を整える。
米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。
次に、土中入定を行う。
土中に石室を設け、そこに入る。
竹筒で空気穴を設け、完全に埋める。
僧は、石室の中で断食をしながら鐘を鳴らし読経するが、やがて音が聞こえなくなり、長い歳月の後(約56億7000万年後)に弥勒菩薩と共に姿を現すとされる。
*3

わたしの神秘主義的感性が捉えた萬子媛には深窓の麗人のような趣があり、無垢で高雅で率直な、高級霊の雰囲気が伝わってくる。

それに対して、萬子媛を囲むように一緒に整然と行動している女性的な方々の一歩引いたような、それでいて萬子媛を促がしたりもする雰囲気からすると、大勢の中で中心的役割を果たしている女性的な方々は生前、萬子媛と寝起きを共にした尼僧達ではないかとどうしても思えてくるのだ。

萬子媛の最も近くに控えている毅然とした感じの女性的な方は、もしかしたら京都から萬子媛が嫁いで来られたときに一緒に鹿島にやってきた侍女かもしれない。萬子媛が出家したときに一緒に出家したのでは……あくまで想像にすぎないが、小説であれば、想像を書いてもいいわけだ。

何にしても、萬子媛の一番近くにいる女性は身辺の護衛でも司っていそうな、シャープな雰囲気のある女性なのだ。わたしの内的鏡にほのかに映った気がする程度のものなのだが、萬子媛の圧倒的な雰囲気とはまた別種の矜持と気品とがまぎれもなく感じられて、興味深い。

こうした神秘主義的感性で取材したことを参考にすれば、禅院の生活やムードをもう少し踏み込んで描けるかもしれない。次に祐徳稲荷神社に行くときは、鹿島藩鍋島家の菩提寺「普明寺」にも行きたいと考えている。

普明寺は、鍋島直朝の長男・断橋の開基により、師僧・桂厳性幢に開山となって貰い、創建された寺である。断橋は鍋島直孝の僧名。

普明寺の見学動画が出て来ないか検索していたら、祐徳稲荷神社の動画が沢山出てきた。前に検索したときはもっと少なかった気がする。

そうした動画の一つに、読経(般若心経?)する白装束の人々が映し出されていた。2012年の12月に公開された「祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)」というタイトルの動画である。*4

4:28 ごろから萬子媛(御神名萬媛命)をお祀した石壁社が出てくる。読経する人々が登場するのは 5:13 ごろから。

神社で般若心経が唱えられることがあるとは知っていたが、実際にそうしている人々を見たのは初めてだったので、驚いた。これは明治政府によって禁止された神仏習合の名残りと考えていいのだろうか? 

前掲のウィキペディア「入定」によると、入定とは「僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする」行為である。

であるならば、入定を果たした萬子媛は、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるのだと思われる。

博物館で見学した萬子媛の御遺物の中で、僧侶時代のものと思われるものに、御袈裟(みけさ)と鉄鉢があった。御袈裟には「御年60才のころ、普明寺の末寺として祐徳院を草創、出家せられた」と説明があった。

御遺物の中でも最も印象的だったのが、畳まれてひっそりと置かれたこの御袈裟だった。褪せているが、色は鬱金色(うこんいろ)、蒸栗色(むしぐりいろ)といったもので、萬子媛の肖像画を連想させた。

素材は麻のように見えた。夏用なのだろうか。冬にこれでは寒いだろう。意外なくらいに慎ましく見える萬子媛の尼僧時代の衣服から、しばし目が離せなかった。

鉄鉢は「てっぱつ」と読むようだ。鉄鉢とは、「托鉢(タクハツ)僧が信者から米などを受ける。鉄製のはち」(『新明解国語辞典 第五版(特装版)』三省堂、1999)のことだそうだ。

また、金字で書写された「金剛般若波羅蜜経」があった。「臨済禅、黄檗禅 公式サイト」*5によると、臨済宗・黄檗宗でよく誦まれるお経には次のようなものがある(他にも、各派本山のご開山の遺誡や和讃なども含め、多くのお経が誦まれるという)。

開経偈
懺悔文
三帰戒
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
消災妙吉祥神呪(消災呪)
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
大悲円満無礙神呪(大悲呪)
開甘露門(施餓鬼)
仏頂尊勝陀羅尼
金剛般若波羅蜜経(金剛経)
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
延命十句観音経
四弘誓願文
舎利礼文
白隠禅師坐禅和讃

このうち、経名を含めてわずか276文字の『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経) (まかはんにゃはらみたしんぎょう)』は宗派を問わず広く誦まれるお経で、仏さまの教えのエッセンスともいえ、この題目は「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されるという。

『金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみきょう)』は般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているもの。禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ誦むのだそうだ。

博物館で見学したときに見た、この般若経典のことが記憶に残ったためか、見学後に神楽殿で30分間家内安全の御祈願をしていただいていたときのことだった。

前述したように、わたしたち家族は長椅子に座っていたのだが、その背後に萬子媛を中心に見えない世界の大勢の方々――ボランティア集団と呼びたくなる統一感のある方々――のいらっしゃるのがわかった(お仕事の一環のような感じであった)。

映像的には内的鏡にはほんのり映ったような気がするだけなのだが、なぜかそうした方々の挙動や心の動き、そして萬子媛のオーラは――色彩より熱として――鮮明に感じられた。


何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉

前述したように、わたしが心の中でつぶやいたことは筒抜けで、それに対する萬子媛やその近くにいる方々の反応が伝わってきた瞬間が何度かあった(願い事も雑念も筒抜けであるから、参拝するときは願い事の整理ときよらかな心持ちが肝要)。

博物館で見た般若経典のことが頭をよぎり、わたしはふと「波羅蜜多」と2回心の中でつぶやいた。わたしが見たのは『金剛般若波羅蜜経』だったのだが、つぶやきの対象は『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の方だった。

つぶやいたとき、萬子媛から、すぐさま動揺の気配が伝わってきて、精妙な情感が音楽のように流れてきた。郷愁の交じった、きよらかな心の動きが感じられた。こうした心の動きという点では、生きている人間もあの世の方々も変わらない。

これも前述したことで、高級霊は自己管理能力に優れていることを感じさせる――幼い頃からわたしを見守っていてくださっている方々もそうである――が、情感という点ではわたしが知っているこの世の誰よりもはるかに豊かで、香り高い。

心の動きのえもいわれぬ香しさが伝わってくるために、蜜蜂が花に惹かれるようにわたしは萬子媛に惹かれるのだ。

萬子媛はもっと聴こうとするかのように、こちらへ一心に注意を傾けておられるのがわかった。

『金剛般若波羅蜜経』は御遺物にあったのだから愛誦なさっていたのは当然のこととして、『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』という言葉に強く反応されたのは、それだけ生前、般若心経を愛誦なさっていたからだろう。

神様として祀られるようになった萬子媛は、生死の境を超えて衆生救済を目的とする入定を果たした方らしく、稲荷神社という大衆的な形式を衆生救済の場として最大限に活用していらっしゃるように思われる。

しかしながら、萬子媛の生前は大名の奥方でありながら出家し、晩年の20年を禅院を主宰して入定まで行った僧侶だったのだ。わたしが何気なくつぶやいた「波羅蜜多」という言葉に、それが甘露か何かであるかのように反応なさった萬子媛、否、瑞顔実麟大師がどれほど僧侶に徹した方だったのかということが自ずと想像された。

わたしは萬子媛が愛誦し指針とされたに違いない『般若心経』を暗記することにした。

ちなみに、このあとで「オウム、アモギャーヴァイロウ、キャーナーマハムドラ、マニペードム、デュヴァラー、プラヴァルスターヤー、ウーン」という竜王会で教わったマントラムを意図的につぶやいてみたのだが、こちらのほうは反応が感じられなかった。

萬子媛を囲むように控えている大勢の方々に幾分白けたような気配さえ漂ったところからすると、マントラムは意味不明な言葉と受け取られたのだと思われる。

現代人と変わりないように感じられるのに、やはり江戸時代に生きた方々ということなのだろうか。現代人であれば、マントラムの内容はわからなくとも、こうした言葉がインド由来の真言であることぐらいの察しはつくだろうから。

エッセー 59 「神智学をさりげなく受容した知識人たち――カロッサ、ハッチ判事 ②ハッチ判事」で紹介したエルザ・バーカー(宮内もとこ訳)『死者Xから来た手紙―友よ、死を恐れるな』(同朋社、1996)には、次のようなことが書かれている。

物質界と霊界が交流するとき、物質界にいるきみたちは、霊界にいるわれわれがなんでも知っていると思いがちだ。きみたちは、われわれが占い師のように未来を予言し、地球の裏側でおきていることを教えてくれると思っている。まれにできることもあるが、ふつうわれわれにはそういうことはできない。*6

あの方々の端然とした統一感のとれているところが、地上界のためにボランティア活動を行っているあの世の方々の特徴なのか、かつて江戸時代に生きた方々ならではの特徴なのか、わたしにはわからない。

いずれにしても、萬子媛の清麗な雰囲気こそは、高級霊のしるしだとわたしは考えている。

御祈願が終わるころ、萬子媛は近くに控えている方々に促されるようにして、どこかへ去って行かれた。全員がさーっと……一斉に気配が消えた。『竹取物語』の中の昇天するかぐや姫を連想してしまった。上方へ消えて行かれた気がしたのだ。


カーマ・ルーパという、物質に関するあらゆる欲望によって作られた主観的な形体

そういえば、石壁社で萬子媛に語りかける以前に参拝したとき、高いところから夫を見てハッと警戒した方々がいたのを感じたことがあった。

上空を漂いながら警備している天上的な女性的な方々――といった映像を、わたしは内的鏡で見たように思った。そのときはその場面が何を意味するのかがわからなかった。あのころはまだ亡き義祖父のカーマ・ルーパが夫に憑依していたから、そのことが関係していたのではないだろうか。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1987初版、1995改版)の用語解説「カーマ・ルーパ」によれば、カーマ・ルーパとは次のようなものである。

形而上的に言えば、また我々の哲学的観点からすると、物質に関するあらゆる精神的、肉体的欲望と思いによって作られた主観的な形体をいう。この形体は肉体の死後生き残る。……(中略)……高級自我は新たな化身の時が来るまでデヴァチャンの状態にいる。以前の人格の影は、その新しい住み処であるカーマ・ローカに取り残される。かつて人間であった時のかすかな写しであるこの影は、しばらくの間生き延びるが、その期間は影に残る物質性の要素によって異なり、それは故人の生き方が決定するのである。……(後略)……*7

デヴァチャンとは極楽。カーマ・ローカとは黄泉、冥界、ハデスのことである。

遠い昔――わたしより七つ上の夫が中学生のころ――亡くなり、従ってわたしが会ったこともなかった義祖父が死後、地上に残していったカーマ・ルーパとの戦いで、わたしの新婚生活はスタートした。

影のように夫に寄り添う、目には見えない何者かの存在をしばしば感じずにはいられなかった。映像的には、内的鏡にはほんのり映ったような気がすることもあった。いずれにせよ、その存在の悪影響は目に余るものだった。

カーマ・ルーパには高級な知性も霊性もないので、説得は無意味である。結局のところは、それに取り憑かれている人間が変わるしかない。

アルコール中毒になるほどの酒飲みではなくとも、習慣的な飲酒が霊媒体質の強化に関係しがちなことは間違いない。

この現象が稀なことだとは思われない。何かの依存症になっている人は、自らが霊媒体質を作り出してカーマ・ルーパを招いているのではないかと疑ったほうがよい。

以前であれば、神社に行くのが嫌そうな夫だった。ところが、義祖父がめでたくあの世で目覚めた後の参拝だった今回は何のこだわりもなく一緒に出かけて、それが自然な行動と映った。萬子媛を描いた短編小説を気に入ってくれた夫はむしろ今回の参拝を楽しみにしていたほどだった。

義祖父がめでたくあの世で目覚めたと書いたが、俗にこれを成仏というのだろう。それまではどうもあの世では昏睡状態だったようである。夫から離れたカーマ・ルーパがその後どうなったかは知らない。

変われば変わるものだ。改善されたいくつかの傾向を夫に認めるとき、義祖父の死後残していったカーマ・ルーパとの長い戦いがわたしの妄想ではなかったことを確信させるのである(義祖父の成仏については エッセー 47及び60で公開したが、一旦閉じて改稿中)。

話が脱線したが、萬子媛を囲むように控えていた方々の中には、あのとき上空からの警備を担当していた方々もおられたに違いない(もしかしたらこのときも警備中で、神楽殿にはおられなかったのかもしれないけれど)。


どのような地位にある教師なのかは知りようがない

あの方々の行動から推測すれば、地上界での一日の仕事が終われば全員があの世へ帰宅なさるのだろう。まさか、あの世の方々が地上界の人間と同じようなスケジュールで行動なさっているなど想像もしなかった。

前掲書には次のようなことも書かれている。

 大師を信じることを恐れてはいけない。大師は最高の力を手にした人だ。彼らは、肉体をもっていてもいなくても、こちらの世界と地上を意志の力で自由に行き来できるのだ。
 だがわたしは、彼らが二つの世界を行き来する方法を世間に教えるつもりはない。大師以外の者がその方法を試そうとすれば、行ったきり戻れなくなる恐れがあるからだ。知は力なり。それは事実だが、ある種の力は、それに見合うだけの英知をもたない者が行使すると、危険な事態を招く場合がある。……(中略)……
 こちらの世界でわたしを指導している師は大師である。
 地上の世界に教授より地位の低い教師がいるのと同じで、こちらの世界には大師でない教師もいる。……(中略)……
 わたしは、死と呼ばれる変化のあとで迎える生の実態を人々に伝えようとしているわけだが、師はその試みを認めてくれていると言ってよいと思う。もし師が反対するなら、わたしはその卓越した英知に従うしかない。*8

萬子媛や三浦関造先生がどのような地位にある教師なのか、わたしには知りようがない。

ただ、萬子媛にしても三浦先生にしても、生前からその徳を慕われ、また神通力をお持ちだった。現在はどちらも肉体を持っておられない。そして、お二方が二つの世界を自由に行き来なさっていることは間違いのないところだ。

わたしは前世から三浦先生とはつながりがあったと感じている。だからこそ、先生のヴィジョンを見たのだと思っている。萬子媛にはそのような縁を感じたことはない。

だが、萬子媛を知り、作品に描くことは、この世に降りてくるときの計画にあったのではないかと考えたりしている。駄作のままではだめだとの衝動を覚えるのだ。

 


マダムNの覚書、2016年6月17日 (金) 18:33,2016年8月18日 (木) 12:58,2016年8月21日 (日) 07:24,2016年10月13日 (木) 19:15,2017年6月 6日 (火) 20:08

*1:鷹司家は五摂家の一つ。

*2:<http://www.edojidai.info/sinntyou.html>(2017/06/29アクセス)

*3:「入定」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年10月7日 18:49 (UTC)、URL: http://ja.wikipedia.org

*4:<https://youtu.be/jV4qeCYEu8g>(2017/06/06アクセス)

*5:<http://www.rinnou.net/>(2016/8/20アクセス)

*6:バーカー,宮内訳,1996,p.25

*7:ブラヴァツキー, 田中訳,1995,用語解説 p.24

*8:バーカー,宮内訳,1996,pp..203-204

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2022年9月10日 (土)

神秘主義的エッセーブログに「118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)」をアップしました

※ 23時ごろ、加筆修正を行いました。

昨年12月の話題に遡りますが、福岡にお住まいの愛川順一様から伺った祐徳院に関するお話及び送っていただいた資料に関して、お名前を含め、ブログに書いていいとの御許可をいただき、5回にわけて当ブログにノートしました。

頂戴したメールから、改めてここに引用させていただきます。

実は、私の祖先が佐賀、祐徳院の2代庵主として、
岩本社に祀られていると聞いており、
萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた
従事者だったと聞いております。

ブログを拝見させて頂き、
非常に興味深く読まさせて頂きました。
付きましては、叶うなら一度お目にかかり、
お話をさせて頂きたく存じ上げます。

ずっと、萬子媛亡き後の祐徳院がどうなったのか、知りたいと思っていたわたしには、衝撃的な内容のメールでした。

当ブログのノートをまとめたものにすぎませんが、それをとりあえず、以下で公開中です。

2022-09-10
118 祐徳稲荷神社参詣記 (18)萬子媛亡き後の祐徳院(二代庵主の御子孫から届いたメール)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/09/10/182421

 目次

  1. 祐徳院の第二代庵主を勤められた尼僧様の御子孫からメールを頂戴し、電話で貴重なお話を伺いました(2021年12月24日)
  2. 萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(2022年1月17日)
  3. 愛川様がお送りくださった祐徳院関係の貴重な資料(2022年1月19日)
  4. 二代目庵主様の肖像画を撮影した不鮮明な写真、そして明治期の神仏分離令の影響(2022年2月 1日)
  5. 新発見あり、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです(2022年2月 2日)

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2022年6月 1日 (水)

「西方浄土」という表現に関する私的発見。オーラに関する補足。

FLCCCの「ワクチン後遺症プロトコル」が先月下旬に情報公開されています。→ https://covid19criticalcare.com/wp-content/uploads/2022/05/An-Approach-to-Vac-Injured-FINAL-May24-1.pdf

翻訳機能を使い、コピペして出てきた邦訳文を読んでいったのですが(DeepLは優秀だけれど、複数の訳の示されることが多々あり、Google訳と比較して見て、英和辞典まで見たりしていると、やたらと時間がかかります)、そもそも医学には無知なわたしなので、半分くらい読んだところで疲れてしまい、ああそうだ、Alzhackerさんが訳してくださっているに違いないと思い、検索すると、出てきました。ホモサピエンス・ネアンデルターレンシスさんが紹介してくださっているツイートも出てきました。

非常に貴重な文書だと思うので、先にこれについて書くつもりでしたが、太陽の沈む方向にある光を帯びた雲の美しさをうっとり眺めていて、ふとメモしておきたいことが出てきました。

私的メモですが、忘れたらいけないので、こちらを優先します。

全く別分野の話題になりますが、西の方角の空を眺めていたわたしは、ふいに以下の記事に書いたことを思い出したのでした。

エッセー 116「祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月」
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/05/26/011329

目次 4.謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)

……謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出す。どこへお帰りになるのかはわからなかったが、上のほう、雲の彼方のどこかだろう。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのだろうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書かなかった。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書いた。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていた。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないだろうか?……

なぜ西方浄土というのだろう、とわたしはずっと不思議に思ってきました。浄土は日の昇ってくる東の方角にあるとしたほうが清浄感が出る気がするのだけれど……あくまで象徴的な表現だと考えていたので、このような批評(?)が自分の中から出てきたのでした。

「コトバンク」には次のように書かれています。

「西方浄土(読み)さいほうじょうど」『コトバンク』。2022年6月01日(水) 10:18 UTC、URL:
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%B5%84%E5%9C%9F-508462

精選版 日本国語大辞典「西方浄土」の解説
さいほう‐じょうど サイハウジャウド【西方浄土】
〘名〙 仏語。阿彌陀仏の浄土。この娑婆世界から西方に十万億の仏土を隔てたかなたにあるという安楽の世界。極楽浄土。西方極楽。西方安楽国。西方安養世界。西方世界。西方。……

萬子媛御一行は、前掲エッセーでも書いたように、沈みかけた太陽の光に溶け込むように昇天された――つまり、一日のお務めを終えられた高貴な方々は、西の方角の遠い彼方にある世界へ行かれるように思われたのです。

今頃になって、突然、合点しました。ああそういうことか、と思いました。科学的に、地理学的に、事実がそうだからなのでしょう。たぶん。

ああそれから、前にわたしはオーラの光を連想させるものはこの世ではオーロラしかないと書きましたが、純白の雲を浸して柔らかに迸る神々しい光もオーラを連想させます。

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2022年5月28日 (土)

拙はてなブログより「116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②」を紹介

「116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月」『マダムNの神秘主義的エッセー』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/05/26/011329

 目次

  1. 思想界を二分した儒仏二道(2014年1月13日、23日)
  2. 能の五番立(2021年11月7日)
  3. 天上界的な美を表現することの難しさ(2022年1月3日)
  4. 謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)


1. 思想界を二分した儒仏二道(2014年1月13日、23日)

わたしは日本史が嫌いだった。それは江戸以降の歴史が何となく嫌いだったからだ。匂いが嫌といったらいいのか。

特に江戸儒学の匂い。知りもしないのに、アレルギー反応が起きてしまっていた。あの人工臭がたまらないと感じられた。

しかしながら、小泉政権による構造改革以降、日本がみっともなく崩れてくると、わたしの目には崩れゆく日本の背後に江戸の姿が蜃気楼のように見え出した。

それでも、江戸時代を知ることを拒み続けていたのだが、その時代を生きた萬子媛にアプローチしようと思えば、江戸期の骨格ともいえる江戸儒学(朱子学派)を知らないわけにはいかない。

朱子学派と林家[りんけ]は切り離せない。林家とは、林羅山を祖とする儒学者・朱子学者の家系をいう。

そして、萬子媛の義理の息子直條は、林家の三代林鳳岡と親交があった。

一方の萬子媛は、清新の気に満ちていたころの黄檗禅に帰依した。黄檗禅は西方浄土的かつ密教的であったという。

開祖隠元の日本渡来は1654年のことで、仏教界への影響は大きかった。ちなみに木魚は黄檗禅から広がったものだそうだ。

エッセー 115 で紹介させていただいた「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」というタイトルの動画によると、明末清初の動乱期に中国から文化人や文物が流出したが、当時鎖国体制をとっていた江戸幕府はそれを歓迎したのである。

「江戸時代初期の日中文化交流 ~『隠元』というカルチャーショック~」
2021/01/19
ecollege setagaya(21世紀アジア学部 佐野 実)
https://youtu.be/MDQxEKgiLEY

長崎が受け入れの窓口となった。中国人社会が形成され、それが長崎中華街の元祖となったということである。

高僧の誉れ高い隠元はこのような時期に、江戸時代初期の日本に招かれた。当時、長崎には中国人が住職を務めるお寺がいくつもあったという。隠元は30名の弟子と共に来日した。

隠元が長崎から江戸に出たことで、当時最先端だった中国文化文物が日本中に拡散した。

大きいテーブルを大勢で囲むスタイルが隠元から伝わり、ちゃぶ台となる。それまで日本では箱膳で、食器を洗う習慣がなく、皆でテーブルを囲むという習慣も隠元が持ってきたのだった。

普茶料理(卓袱料理)、煎茶文化と茶店が誕生した(それまではお茶というと高級品で薬っぽいイメージがあり、日常的に嗜む習慣はなかった)。

隠元ら中国の僧侶らが着ていた僧侶用の服が歌舞伎に取り入れられ、隠元が後水尾法皇から下賜された袖を感激して頭に被ったことから隠元頭巾(お高祖頭巾)が流行った。

明朝時代に中国でできた写経用の字体が明朝体、フォーマットが原稿用紙として流行った。

美術面でも大きな影響を与えた。写実的でカラフルな表現。建築面ではじゃばら天井、勾欄[こうらん]、円窓など。……

ところで、江戸時代、女性は文学には参加しなかったのだろうかとずっと不審に思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

門玲子『江戸女流文学の発見』(藤原書店、新版2006)では、平安女流文学の伝統的文体を身につけた上に中国の論語、中庸、文選、史記などから縦横に引用できるだけの教養を備えた『松陰日記』の著者、正親町[おおぎまち]町子について、まる一章が割かれている。町子は公家の娘である。

萬子媛も公家に生まれた才色兼備の女性であり、降嫁した地で別格の人として敬われ、慕われていたことから考えると、正親町町子のような高い教養を身につけていた可能性が高い。

萬子媛は1662年、37歳で佐賀藩の支藩である肥前鹿島藩の第三代藩主・鍋島直朝と結婚。1664年に文丸(あるいは文麿)を、1667年に藤五郎(式部朝清)を出産した。

1673年、文丸(文麿)は10歳で没。1687年、式部朝清が21歳で没。朝清の突然の死に慟哭した萬子媛は翌年の1988年、剃髪し尼となって祐徳院に入り、瑞顔実麟大師と号した。このとき、63歳だった。

萬子媛の慟哭はわかるにしても、夫を置いての出家は特殊なことに思われたし、断食入定という伝承は壮絶に感じられたが、黄檗禅に密教的要素があったことを考えると、断食入定もありえたことといえるのかもしれない(※その後の調査により、萬子媛は病死された可能性の高いことがわかった。エッセー89「祐徳稲荷神社参詣記 (10)萬子媛の病臥から死に至るまで:『鹿島藩日記 第二巻』」を参照されたい)。

前掲書『江戸女流文学の発見』には、了然尼[りょうねんに](1646 - 1711)という、これまた壮絶な歌人であり尼僧であった人物が登場する。

「主要人物注」*1には、了然尼について、「はじめ東福院に仕え、のち儒医松田晩翠に嫁いだ。夫に妾を置いて家を出た。美貌のため出家を拒まれたので、顔を焼いて出家をとげ、ふたつの寺の住職をつとめた。漢詩、和歌、書をよくした」とある。

夫に妾を置いて出家というのは、あっぱれというべきか、夫を下半身のみの生き物と独断する絶望的解釈というべきか。

ここでわたしは、萬子媛が鍋島直朝との子(文丸)を初めて出産した同じ寛文4年(1664)に、側室もまた男の子を出産したことを思い出した。側室という存在が跡継ぎを絶やさないための工夫であることは承知済みであったとしても、側室や妾といった存在が女性の側[がわ]に何の憂いももたらさないとは考えられない。

了然尼が「美貌のため出家を拒まれた」というのはよくわからないが、その障害を乗り越えるために顔を焼いた――という行為には言葉をなくす。いずれにしても、その頃の女性の扱われ方の一端を見る思いがする。

諸説ある江戸時代の区分法のうち、将軍で分ける以下の説をとりあえず採用してみたが、これに関しては江戸時代の勉強後に再検討したい。

  • 前期 1603年 - 1709年
    江戸幕府初代将軍・家康から第5代将軍・綱吉まで。
  • 中期 1709年 - 1786年
    第6代将軍・家宣が将軍から第10代将軍・家治まで。
  • 後期 1787年 - 1867年
    第11代将軍・家斉から第15代将軍・慶喜まで。

萬子媛は1625年に生まれ、1705年閏4月10日に没した。了然尼は1646年に生まれ、1711年に没しているから、時代的には重なる。

前掲区分で見ると、二人が生きた時代は江戸前期に当たる。幕藩体制が確立し、江戸文化が開花しようとする頃である。

3代将軍家光の時代まで武断政治が行われたが、家光が死去した年に由井正雪ら浪人による慶安事件が起きたのをきっかけとして、幕政方針は4代将軍家綱の時代から文治政治への転換を図った。

この了然尼と、井上通女(1660 - 1738)の間に起きた論争について触れられた箇所は興味深いので、以下に引用させていただく。井上通女は『処女賦』『深闇記』を著した。

朱子学を深く学んでいる通女にむかって、了然尼があなたは現世の学問ばかりに熱心であるが、来世のことは気になりませんか、彼岸の浄土に済度してもらう菩薩の舟を求めませんか、と詰問した。……(略)……了然尼の、人生の根本に触れるこの問いにたいして通女は、生きがいを持たない人はこの世を憂き世と思い、尼の乗る救いの舟を慕わしく思うのでしょう、私はこの世をいかに生きるかということで充実しています、という歌で正面から切り返したのであった。
 当時の思想界を二分する儒仏二道の、女性によるドラマチックな対決である。通女の思想が付焼刃ではなく、実践を重んじる朱子学の本道をいくものであったことをしめしている。*2

ここを読んで、わたしは戦後日本人は、無意識的に先祖返りして江戸儒教の精神に生きているのかもしれないと思った。

GHQの洗脳と資本主義とマルキシズムだけでは説明のつかない現世主義があると怪訝に思ってきたのだった。江戸時代は長かった。日本人の骨の髄まで染み込んだものがあるに違いない。

萬子媛の義理の息子の一人は黄檗宗の僧侶に、もう一人は大名になって江戸儒学の家系と親交を深めた。「当時の思想界を二分する儒仏二道」という言葉を形にしたような義理の息子たちの選択である。

その義理の息子の兄の方は萬子媛が出家するにあたっての導師役を務め、弟の方はそのような萬子媛のことを「祐徳開山瑞顔大師行業記」という小伝に書き残したのであった。

マダムNの覚書 2014年1月13日 (月) 10:51、マダムNの覚書 2014年1月23日 (木) 05:36


2. 能の五番立(2021年11月7日)

「蔵出し名舞台 名人の芸で観る能の五番立」『にっぽんの芸能』(NHK)――初回放送日: 2021年8月27日――を視聴した。

『にっぽんの芸能』の能を採り上げた回は勉強になるので、よく視聴しているのだが、この回は録画したまま未視聴だった。もっと早く視聴しておけばよかったと思った次第であった。能の五番立の解説がとてもわかりやすかった。ノートしておこう。

能の五番立

  • 神[しん]
    天下泰平、国土安穏[あんのん]を祈り祝う神の姿を描く。「高砂」「鶴亀(月宮殿)」等。
  • 男[なん]
    主に武将が死後、修羅道という地獄で苦しむ様子を描く。「清経」「実盛」等
  • 女[にょ]
    多くは女性を主人公とした、美しく幻想的な能。「羽衣」「熊野(湯谷)」等。
  • 狂[きょう]
    心乱れた人々や怨霊、異国のものを描く。「隅田川(角田川)」「葵の上」等。
  • 鬼[き]
    鬼や獅子、天狗などが登場する華やかなフィナーレ。「石橋[しゃっきょう]」「大江山」等。

江戸時代、能は武家の式楽(公式芸能)と定められていた。萬子媛の夫であった鍋島直朝公が能を嗜まれた背景として、こうした幕府の方針があり、加えて萬子媛の影響もあったのではないかとわたしは見ている。

先月、『多田富雄新作全集』が3,000円台で2点出ていた。新品もあるが、9,240円もする。図書館から度々借りていたので、できれば入手したいと思っていた。中古品だと、汚れていないか心配になる。安い値段だとその心配も強まる。くずくずしているうちに安いほうは売り切れてしまった。

3,300円の本が残っていた。汚れている箇所が写真に撮られ、表示されていた。箱入りの本で、汚れているのは箱のようだった。中身は無事なのだろうか? 多田氏の作品の内容にはやや疑問があるのだが、とても勉強になる本であることは間違いない。今後、ここまで安い中古品が出るとは限らない。注文した。

多田富雄著、笠井賢一編『多田富雄新作能全集』(藤原書店 、2012)

多田富雄氏の三回忌を記念して上梓されたもので、 「現代的課題に斬り込んだ全作品を集大成」したという貴重な一冊である。
多田氏は免疫学の世界的権威として活躍する一方では、新作能の創作に精力的に取り組まれた。

届いた本は、確かに箱の一箇所が汚れていたが、気になる汚れかたではなかった。中身は新品同然だった。注文カードが挟まれたままで、栞紐が使われたことのないまま二つ折りになって挟まっていた。藤原書店の小冊子「機」も挟まっていた。

嬉しかった。本が汚くなっていると、せっかく購入しても放置状態になってしまうことがあるのだ。図書館から借りる本はありがたいことに、新品同然のものばかり。たまに大衆受けするタイプの本を借りると、あまりの汚さに愕然となる。

多田氏の能作品を再読したが、内容にはやはり疑問が残った。エッセー 111「祐徳稲荷神社参詣記 (14)新作能への想い」の目次 3「新作能を読んだ感想」-3「多田富雄新作能全集」を参照されたい。

だが、11編の能作品には創作ノート、構成、あらすじなど付いていて、とても勉強になるのである。海外公演のための英訳詞章集も付いているではないか。

そういえば、イェーツが能の影響を受けた書いた一幕物詩劇「鷹の井戸」が青空文庫で読めたので、印刷して読んだ。独特の雰囲気は出ているが、内容的には痩せている。

マダムNの覚書 2021年11月 7日 (日) 19:48


3. 天上界的な美を表現することの難しさ(2022年1月3日)

ノート① では田中軍医をモデルとしたワキが、萬子媛をモデルとしたシテ(前ジテ)に出逢う場面を書いた。

年末に考えていたのは、故郷の名を記した醤油樽に縋り付いているワキ(田中軍医をモデルとした人物)に萬子媛が出現する場面だった。

これに先立つ出来事として、ワキが前ジテに船中で出逢う(ワキの乗る江尻丸という貨物船は魚雷にやられて爆発する運命にある)。そのときの萬子媛は生前の老尼僧の姿で、気高くは見えても普通の人としての姿である。

それに対して、後ジテとしてワキに出現する萬子媛は女神としての神々しく若々しい姿だ。かといって、それは人を脅かす異形の姿ではない。

ここをどう表現するかで迷っているうちに年末年始の慌ただしさにどっぷり漬かってしまい、中断してしまっていた。

生死の海に漂ひて、残り少しと身を思ふ際[きは]に、あら、きらきらしき女性[にょしゃう]一人[いちにん]さしぐみに現れ給ふは、如何なる御方にてましますぞ。

芹生公男『現代語から古語を引く辞典』(三省堂、2018)には、「美しい」を意味する古語には沢山あるのだが、これはどうだろうと古語辞典を引いてみると、わたしのイメージとはずれがあったり、現代語とのイメージ的乖離があったりで、選択に迷う。

「きらきらし」には、

きらきらと輝いている。
端正である。(容姿が)整って美しい。
堂々として威厳がある。
きわだっている。

といった意味がある(宮腰賢・石井正巳・小田勝『全訳古語辞典』旺文社、第五版小型版2018)。

後ジテの萬子媛は文字通り、きらきらと輝き、美しく、堂々として威厳があり、際立っておられるのだからこの古語でいい気もするが……まだ迷っている。

マダムNの覚書、2022年1月 3日 (月) 02:34


4. 謡曲『羽衣』の核となる一文(2022年1月)

大雑把な構成しかできていないので、そろそろしっかりしたものを考えないと……と思い、参考のために、小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973)を開いた。『謡曲集二』は持っていないので、図書館から借りた。

『謡曲集一』を見ていった。『羽衣』は何度読み返しても美しい作品だと思う。

しかし、昔話の『羽衣』のほうは、読んでつらくなるような俗っぽいお話で、天女が可哀想になってくる。

これも図書館から借りた鈴木啓吾『続・能のうた――能楽師が読み解く遊楽の物語―― 新典社選書 95』(新典社、2020)だが、間違って続を借りてしまったのが却ってよく、『羽衣』成立の背景がわかりやすく解説されている。鈴木啓吾氏は観世流シテ方能楽師だそうである。

伝説を織り込んだ昔話――風土記逸文――と謡曲『羽衣』を比較してみると、謡曲『羽衣』の際立った美しさがはっきりする。

謡曲『羽衣』では、漁夫白龍(ワキ)が松に美しい衣のかかっているのを見つけ、持ち帰ろうとする。それは天人の衣であった。白龍が衣を返さないので、天人(シテ)は嘆き悲しむ。そのあわれな様子に、衣を返すことにするが、舞を所望する。

天人は月の宮殿の周囲で演ずる舞曲を舞って見せて、世の悩める人々に伝えることにしようという。しかしそれも、羽衣がなければできないことなので、衣を返してくれるよう訴える。

すると、白龍はいう。「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上がり給ふべき」その白龍の世俗的な疑いに対して、天人は次のように諭すのである。「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」

天人のこの言葉が謡曲『羽衣』の核となる一文である。天人の天人らしさがこの言葉に凝縮されている。

白龍は恥ずかしくなって、羽衣を返すのである。羽衣を着た天人はすばらしい舞を繰り広げながら、しだいに大空の霞の中に見えなくなってしまう。

天人の言葉についての『謡曲集一』の頭註を見ると、次のように解説されている。

『丹後国風土記』逸文に「天女いひしく、凡そ天人の志は、信をもちて本となす。何ぞ疑心多くして、衣裳を許さざると。老夫答へていひしく、疑い多くして信なきは率土[ひとのよ]の常なり。かれ、この心をもちて、許さじとおもひしのみと」とある。*3

謡曲『羽衣』は『丹後国風土記逸文』から天女の言葉を採用したのだろうが、この後の展開があまりに異なる。

『丹後国』の老父は白龍とは異なり、衣を返すも、天女を自宅に連れ帰り、10余年共に住んだのだった。その後も話は続く。

前掲書『続・能のうた』によると、昔話としては『風土記逸文』に三種の羽衣伝説「駿河国・三保の松原」「近江国・伊香の小江」「丹後国・奈具の社」があるという。

和銅6年(713)、元明天皇の詔により各令制国の国庁が編纂した地誌『風土記』は『古風土記』ともいわれ、完本といってよいのは天平3年(733)に成立した『出雲国風土記』のみである。播磨国、肥前国、常陸国、豊後国のものが欠損状態で残っている。他の地域のもので、他誌に引用されたことで断片が残った逸文を『風土記逸文』という。

駿河国、近江国、丹後国に登場する天女は、いずれも漁夫と夫婦とならざるをえなかった。謡曲では天人は天人ならではの気韻――それを描ききる芸術が能楽なのだ――を失わずに済んだが、昔話では見る影もない落ちぶれようを晒して、不幸な人間の女と何の変わりもなく、痛ましい限りである。

謡曲『羽衣』では羽衣が天人の属性(オーラを連想する)であるかのようだが、昔話では天翔る道具、財産ともなる物品にすぎないかのようだ。

ただ、『風土記逸文』の三種の羽衣伝説からは、世界各地に伝わる異類婚姻譚の類型を見い出すことができる。話の盛りかたがそれぞれに異なり、興味深い。

例えば、「駿河国・三保の松原」では、漁夫と夫婦になった神女[しんにょ]はある日、羽衣を取って雲に乗って去り、その漁夫も千人となって天に昇ってしまう。

中国清代の作家である蒲松齢(ほ・しょうれい 1640 - 1715)が著した『聊斎志異[りょうさいしい]』は有名な怪異短編小説集であるが、確かこの中に、妻に釣られるかのように天に昇った夫の話があったように思う。こうした結末は道教の影響を感じさせるものである。

謡曲『羽衣』を読むと、神社でのお仕事を終えてお帰りになる萬子媛ご一行が、「萬子媛~!」というわたしの心の中での呼びかけに応えて、雲の中から光を投げて寄越された情景を思い出す。どこへお帰りになるのかはわからなかったが、上のほう、雲の彼方のどこかだろう。よほどの上空に、肉眼では決して見えない高級世界が重なるように存在するのだろうか。

前にこのときのことを書いたエッセーでは、ここまでは書かなかった。

確か、ありふれた景色がえもいわれぬ美しい景色に感じられたのは、お帰りになる萬子媛のオーラが日の光に混じっていたからではないか――と書いた。

本当のことをいえば、『羽衣』さながらの情景がわたし――の心の鏡――にははっきりと見えていた。『羽衣』や『かぐや姫』を書いた人は、わたしのような神秘主義者だったのではないだろうか?

そして、萬子媛ボランティアご一行が出勤するためにこの世に下りてこられるときは、この動画のような感じなのだろうか?

空から見た秋の祐徳稲荷神社 ドローン映像
2013/12/17
dragonflyservice ドラゴンフライサービス
https://youtu.be/d38PbrpYAgU

マダムNの覚書 2022年1月14日 (金) 14:36

 

*1:門,2006,P.339

*2:門,2006,P.54

*3:小山弘志・佐藤喜久雄・佐藤健一郎 校註・訳『謡曲集一 日本古典文学全集 33』(小学館、1973、p.356、頭註一)

 

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神秘主義的エッセーブログを更新「116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②」。アメーバブログ開設のお知らせ。

当ブログに綴ったノートから、はてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、萬子媛の言葉にある仏教用語としての「愛」の解説(これはまだ当ブログにもノートなし)、祐徳院のまとめをする予定ですが、その前にまとめておきたいノートがあったので、こちらを優先しました。

116 祐徳稲荷神社参詣記 (17)新作能「祐徳院」創作ノート ②2014年1月、2021年11月、2022年1月
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/05/26/011329

当ブログのノートをまとめたものですが、大幅な加筆がありますので、次の記事に転載します。

ノートの数も増えると、はてなブログに連載エッセーとしてまとめた、そのまた、まとめが必要になってきました。この関係のものだけをまとめるために、登録したものの長いこと未使用だったアメーバブログを使うことにしました。

あかぬ色香も昔にて
https://ameblo.jp/ovale-03/

はじめに
2022年05月15日(日) 16時10分00秒

祐徳稲荷神社を創建した祐徳院(鹿島藩主鍋島直朝公夫人であった花山院萬子媛 1625 - 1705)に関する研究を、ココログブログ『マダムNの覚書』、はてなブログ『マダムNの神秘主義エッセー』においてノート及び連載エッセーの形式で綴ってきました。

研究は続いていますが、当ブログでは作品化を目的として、これらをまとめてみたいと思っています。

まだ形になっていない段階ですので、引用・リンクはお控えくださいますようお願い致します。

冒頭で萬子媛と書きましたが、この呼び名は明治以降のものと思われるので、これ以降は萬子媛存命時の呼び名の一つであった可能性の高い「萬媛」に統一したいと思います。このことについては次の記事をご参照ください。

「115 祐徳稲荷神社参詣記 (16)萬子媛の呼び名。初婚だったのか、再婚だったのか。直朝公の愛。」『マダムNの神秘主義的エッセー』
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2022/03/30/071733

ブログのタイトルは、萬媛の愛された皇太后宮大夫俊成女の歌「梅の花あかぬ色香も昔にておなじ形見の春の夜の月」から採ったものです。 

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2022年4月 1日 (金)

言葉足らずだったかな……しばしお待ちを

昨日の記事をアップしたあと、幸い、それなりの訪問者があり、閲覧してくださっているのがわたしの神秘主義的感性に伝わってきた。

しかし、引用した萬子媛の言葉に疑問や反感を抱いたかたもおられたようだ。

萬子媛は仏教の基本的な教えに沿って述懐なさっていたにすぎないのだが……。

一般的日本人であれば、「愛」すなわち「渇愛」であり、これが苦しみの原因であるという仏教由来の考え方があることは何となく知っているのだとばかり思っていた。

夫は知っていたが、「俺たちは、年寄りだから知っているだけだよ」という。ああそうか。

きちんと説明しようと思えば、阿含経(初期仏教経典。阿含はアーガマの音写。アーガマは伝来の意)にある十二縁起(十二因縁)を説明しなければならなくなる。否、「縁起(因縁)」の説明から必要だろうか。そもそも、反感を抱いたかたは二度とわたしのブログへはお越しにならないかもしれないけれど、中村元・三枝充悳『バウッダ[佛教]』(講談社学術文庫 - 講談社、2009)を再読して出直すことにした(ここからの引用になりそう)。

萬子媛は子供を亡くすという強烈な喪失感を通して、仏教の基本的教えを嫌というほど実体験なさったわけである。仏教でいわれる「愛」はキリスト教でいわれる「愛」とは全く異なる哲学概念だ。

萬子媛は俗世界の因縁から解き放たれ、現在はボランティア集団のリーダーとして太陽の光のような圧倒的なオーラを放っていらっしゃる。その本質は、いわば、キリスト教でいわれるところの愛そのもの、無償の愛、アガペーであろう。

加筆しますので、しばしお待ちを(二度とお越しにならないかもしれないけれど……)。

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2022年3月31日 (木)

萬子媛の言葉

昨日、「祐徳稲荷神社参詣記(16)」をはてなブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップしたのですが、何か足りない気がして、改めて「祐徳開山瑞顔大師行業記」を読んでいました。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)には21の著作が収められています。「祐徳開山瑞顔大師行業記」はそのうちの一編です。

萬子媛を知る人間によって書かれた唯一の萬子媛の小伝といってよい「祐徳開山瑞顔大師行業記」は、文人大名として知られた義理の息子、鍋島直條(1655 - 1705)によって、まだ萬子媛が存命中――逝去の1年前――の元禄17年(1704年)に著述されたといわれています。

郷土史家でいらっしゃる迎昭典氏が「萬子媛についての最も古くて上質の資料」とおっしゃる萬子媛に関する第一級の資料です。

原文は『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』の1頁分しかありません。現代人にもわかるように編集された文章を読んでいると(これは2頁あります)、かぎ括弧が使われた3箇所のうちの2箇所が萬子媛の言葉となっており、その貴重さが胸に迫ってきました。

萬子媛の二人のお子さんが早逝してしまわれたため、萬子媛は深く悲しみ悼んで、日夜泣き叫ばれました。そして喪が明けました。次の文章が続きます。

一旦慨念、愛為苦本、愛若断時、苦自何而生。况生平承誨和尚。失之今日者、不亦自愧乎。

一旦(あるひ)、慨[なげ]きて(ため息をついて)念[おも]う、「愛は苦の本為[た]り。愛若[も]し断つ時は、苦は何[いず]こ自[よ]り生ぜん。況[いわ]んや(ましてや)生平(日ごろ)誨[おしえ]を和尚に承[う]く。これを今日に失うは、亦[ま]た自ら愧[は]じざらんや」

この文章は萬子媛の心のうちが文学的に描き出されたものかもしれませんが、筆者の直條、あるいは出家している兄の格峯(断橋、鍋島直孝)に対して萬子媛が真情を吐露された言葉なのかもしれません。

ある日、大師(※萬子媛のこと――引用者)はため息をついて、思われました。「愛は苦しみの原因ですものね。愛をもし断つ時は、苦しみはどこから生じるのでしょう。ましてや日ごろ和尚様から教えを受けておりましたのに。これを今日に失うのは、全く自分を恥ずかしいと思わないかといえば、いいえ、思いますとも」

もう1箇所を引用します。ここでは明確に、萬子媛の格峯に対する言葉として書かれています。

大師一日、語吾兄格峰禅師云、念對境起、塵中决不可處也。願栖遅巗壑、以儘餘喘。

大師、一日、吾[わ]が兄(珠龍海の兄弟子)格峯禅師に語りて、云[い]う、「念、境(対象)に対して塵中[じんちゅう](俗世界)に起これば、決して処するべからず。願わくは、巌壑[がんがく]に棲遅[せいち](隠居)し、以[もっ]て余喘[よぜん(のこりの命)を尽さん」

大師がある日、わたしの兄の格峯におっしゃいました。「対象に対する思いが俗世界で起きたなら、決して、それに応じた行動をとってはなりませんね。願いが叶うのであれば、わたくしは岩屋に隠棲して余命を全うするつもりです」

ですが、このときの出家したいという萬子媛の思いは、親戚に反対されて叶いませんでした。見かねた格峯が義理の母の願いを叶えようと、自分の住まいであった祐徳院をお譲りになったのでした。

義理の息子たちに助けられて萬子媛の出家の願いは叶い、萬子媛の小伝も残されたのでした。おなかを痛めた二人のお子さんは亡くされたけれど、それを補って余りある素晴らしい関係を萬子媛は義理の息子たちとの間に築いておられたのです。

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2022年3月15日 (火)

姑から貰った謡本(この記事は書きかけです)

Utaibon2022315_2

姑からごっそり貰った謡本。わたしが貰わなければ捨てるということでした。

姑が母親から貰ったらしい、昭和25年ごろの古い謡本も数冊混じっており、姑は長いこと仕舞を稽古していたのに全部捨てるとは……と困惑しましたけれど、要するにマイブームが去ったということらしく、現在のマイブームはアートフラワーと水彩画だそうです。

ネットで調べたところでは、貰った謡本は、二十四世 観世左近『大成版観世流謡本 93冊』(檜書店、1972)だと思います。

「羽衣」「熊野」なども入っているはずですが、見当たりません。紛失したのでしょうか、残念です。

写真の向かって右上に置いた「杜若」は、わたしが初めて観能に出かけたときの印象的な演目でした。チケットは姑が行けなくなったということで貰ったのでした。

かなり練習したのか、書き込みが相当あります。「杜若」は当然、姑も観たかったようで、当時、わたしがとてもよかったとの感想を述べると、「わたしも観たかった……」と残念そうでした。

昨日から、謡本がもたらしてくれる世界に浸っていました。作者、資材、構想、曲趣、節譜解説、舞台鑑賞、辞解とわかりやすくまとめられています。イラストも入っています。

観世流の謡本ですから、観世流の世界観が表現されているものだといえます。

わたしが貰わなければ捨てられた謡本……縁があって、わたしのところへ来てくれました。幾人もの高貴なお客様を迎え入れたような緊張感があります。

萬子媛から「それでもっと勉強してください」と叱咤激励されたような気がしました。

そういえば、過去記事で、羽衣について書きかけていたことがありました。今は時間がないので、あとでまた。

※この記事は書きかけです。

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2022年2月 2日 (水)

祐徳院について、新発見あり。尼寺としての祐徳院は三代まで続いたようです。

今日もブログを書く時間が思うように取れず、イベルメクチン、ワクチン関係の記事も書けていないのですが、昨夜、祐徳院関係の考察で新発見がありましたので、とりあえずメモしておきます。

愛川様から送っていただいた資料の中の祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に宛てられた文書、愛川太朗 調査記録「(永久保存)祐徳稲荷神社内、岩本社、並びに、円福山、普明寺の無著庵慧泉宲源禪尼 由来調べ」(平成13年12月20日)はいずれ全文か一部を紹介させていただきたいと思っていますが、わたしは昨日の記事で次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年2月 1日 (火)
祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/02/post-54e709.html

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

また、以下の過去記事では次のようなことを書きました(太字引用者)。

2022年1月17日 (月)
萬子媛関連で、新たにわかったこと2件(18日に加筆、19日に加筆緑字、20日に加筆訂正赤字)
https://elder.tea-nifty.com/blog/2022/01/post-51f4bc.html

萬子媛が亡くなったのは宝永二年閏四月十日(1705年6月1日)です。絶玄宲仙禅師が亡くなったのは宝永五年十二月十七日(1709年1月27日)。「祐徳院男僧住持従此人始」に該当するのが絶玄宲仙禅師でしょうか。

「絶玄」という僧侶の名は、前掲エッセー100「祐徳稲荷神社参詣記 (13)祐徳院における尼僧達:『鹿島藩日記 第二巻』」に引用した布施の記録に出てきます。「蘭契」からが尼僧ではないかというわたしの推測が正しければ、「絶玄」は「蘭契」より前に出てくるので、男性僧侶だったということになります。

布施の記録に出てくる僧侶のうち、桂巌は普明寺の開山、月岑は普明寺第二代(貞享四年、1687年)、慧達は第三代(元禄十三年、1700年。元禄十六年に月岑、普明寺再住)、石柱は前出の慧達と共に、五月十五日(1705年7月5日)の日記に出てきます。

五月十五日は萬子媛の三十五日に当たり、格峯(鍋島直孝、断橋)が前日の晩景(夕刻)から古江田御庵(古枝にある祐徳院)を訪れました。格峯はこのとき、恵達(慧達)、石柱を同行させています。そして、御庵中比丘尼・男女下々まで、精進料理が供されました。

蘭契より前に名の出てくる僧侶達は皆、普明寺関係の男性僧侶と考えられます。

「絶玄」すなわち五年十二月十七日に亡くなった「絶玄宲仙禅師」は普明寺から派遣された僧侶で、このかたから尼寺だった祐徳院が男性僧侶の所属する寺となった――のではないでしょうか。

いずれにしても、萬子媛亡き後の尼寺としての祐徳院は非常に短命だったように思われます。二代目が亡くなった後は尼寺としての在り方は終焉を迎え、残る尼僧たちは解散ということになったのでしょうか。

祐徳院自体は、九代までは続いたのでしょう。その人物――前監西洲玄璨和尚は、寛政十一年七月廿二日(1799年8月22日)に亡くなっています。

普明寺に安置されていた8柱の位牌の中に、萬子媛の謚「祐徳院殿瑞顔実麟大師」はありません。萬子媛を加えれば禅寺「祐徳院」が九代続いたという推測に信憑性が出てきます。

そして、改めて位牌の表面に記されてあったという謚を見ると、「無著庵慧泉宲源禪尼」の位牌の他にもう1柱、注目すべき謚が記されているではありませんか。前掲記事ではうっかりして禪を禅と書きましたが、禪という旧字体が使われています。

「深※庵主知宗宲則別号禪関禪尼」(※は、くにがまえに古)という謚は、明らかに尼僧だったと思われるかたの謚です。

だとすれば、尼寺としての祐徳院は三代まで続いたのです。このかたの肖像画(掛け軸)も、否、かつては九代全員の肖像画が存在したのではないでしょうか。

ただ写真の掛け軸の肖像画はやはり、無著庵慧泉宲源禅尼と考えていいでしょう。永久保存版文書のタイトルにあるように、無著庵慧泉宲源禅尼に的を絞った愛川太朗氏の調査と記録なのですから。

萬子媛入定後、短期間に祐徳院の庵主がめまぐるしく交替したことになります。愛川様の御先祖であられる無著庵慧泉宲源禅尼と同じく、三代庵主も「萬子媛降嫁の折、京都から付き添ってきた従事者」(愛川様のメールにあった文章)であったとしたら高齢であった可能性は高く、在職期間が短かったことも不自然ではないでしょう。

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2022年2月 1日 (火)

祐徳院について、二代目庵主様の肖像画の不鮮明な写真。イベルメクチンがオミクロンに有効との朗報とアルツハイマーのような症状が起きることのあるワクチン後遺症について、ごく簡単に。

地震以降、とにかく雑用や家事に時間がとられて、時間がつくれません。メモだけでもしておかないと、書かないままに終わってしまいそうです。紹介したいレシピと、命に関わるワクチン関係の記事を優先するはずでしたが、先に、祐徳院について。

いや、その前にイベルメクチンとワクチン後遺症について、ごく簡単に。

興和が「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認したとのニュースを、珍しいことにロイターが報じました。
また、京都大学のコンピュータによる研究(査読前論文)で、イベルメクチンはオミクロンに対して最も有効という結論が出たそうです。

興和、「イベルメクチン」のオミクロン株への抗ウイルス効果を確認(ロイター)
https://news.yahoo.co.jp/articles/4924fb35eaa89d16884e9562defa71572857e2f7

京都大学の論文へのリンクです。
https://arxiv.org/ftp/arxiv/papers/2201/2201.08176.pdf

また、これは過去記事で紹介したことがあると思いますが、コロナやワクチンの後遺症として、狂牛病(牛海綿状脳症)、あるいはアルツハイマー病のような症状が起きることがあるという疑いです。

それについての新情報をkazuchan-coconeさんがツイートしてくださっています。その論文へのリンクです。

Innate Immune Suppression by SARS-CoV-2 mRNA Vaccinations: The role of G-quadruplexes, exosomes and microRNAs
https://www.authorea.com/users/455597/articles/552937-innate-immune-suppression-by-sars-cov-2-mrna-vaccinations-the-role-of-g-quadruplexes-exosomes-and-micrornas

以上のイベルメクチン、ワクチン関係は別記事で、詳しく書きます。

さて、祐徳院について、です。

祐徳院の二代庵主様の御子孫であられる愛川様が送ってくださった貴重な資料について、「お渡しした資料は、萬子姫を調べるツールとしていかようにも使って頂いて結構です」とのご許可をくださったので、当ブログにエッセーの下書きをまだ続けるかもしれませんが、なるべく早いうちに「祐徳稲荷神社参詣記(17)」にまとめたいと考えています。

愛川様にはコロナ終息時にはお目にかかりたいという気持ちでいっぱいですが(江戸時代に祐徳院の二代目庵主を務められた無著庵慧泉宲源禅尼の面影がおありかも……)、娘が病院勤務であるため、家族にもやんわり規制がかかっている状態で、県越えが難しいです。

送っていただいた資料の中には、歴史研究家にお渡ししたほうがいいのではないだろうかと思える、巻物に記されていたという自筆履歴の写しがあります。漢文調で書かれています。

それは、過去記事でも触れましたが、鍋島藩最後の殿様――鍋島直大公と一緒に医療改革を行われ、日本で最初に、それまで家業であった医療制度を改革して免許制度にした愛川春碩というかたの貴重な自筆履歴の写しです。

今日、それを確認していたところ、その自筆履歴原稿の下のほうが切れてしまっていることがわかりました。コピーを取られるときに切れてしまったのでしょうか。近いうちに、愛川様にお尋ねしてみようと思います。

というわけで、コロナ縛りが解けたら、祐徳稲荷神社と祐徳博物館にもなるべく早いうちに行きたいと考えています。

わたしは過去記事で、次のように書きました。

永久保存と書かれた無著庵慧泉宲源禅尼について記された箇所を読めば、どのような経緯で無著庵慧泉宲源禅尼が祐徳院の二代庵主だったことが判明したのか、また岩本社が建立された理由についてもわかります。

調査記録者は、無著庵慧泉宲源禅尼の御子孫に当たる愛川太朗氏。

この文書には太朗氏の署名捺印がなされ、祐徳稲荷神社宮司 鍋島朝倫氏に送られて拝受の言葉と共に署名捺印がなされています。この文書は祐徳稲荷神社と普明寺に現存するはずです。

ニュースによると、このときの宮司さんは息子さんと交替なさったようですが、祐徳院二代庵主様に関する永久保存版文書は神社のどこかに、あるいは宮司さんが保管なさっているのでしょうか。

普明寺を管理されている女性に尋ねたところでは、祐徳院関係のものは普明寺には何もないということでしたから、文書が存在するとすれば、祐徳博物館ということになりますが、もしそうだとすれば、岩本社について教えてくださった女性職員のかたが教えてくださったはずなので、祐徳博物館に行ったらそのことも尋ねようと考えていますが、祐徳博物館にはないのかもしれません。

永久保存版文書には、当時、普明寺に安置されていた位牌の写真(文書の説明によると、位牌は8柱あります)、二代庵主様と思われる尼僧の肖像画である掛け軸の写真、墓石の写真をコピーしたものがありました。

萬子媛の肖像画とは見分けがつきます。萬子媛は履き物を脱いでおられるからです。肖像画の写真が鮮明であれば、二代庵主様の容貌や掛け軸に書かれている文章もわかったでしょう。

愛川様によると、そのような掛け軸を見たことはないそうです。現在、存在するとすれば祐徳博物館以外考えられませんが、そのような掛け軸を博物館で観た記憶がありませんし、もしどこかに収められていたなら、やはり女性職員のかたが教えてくださったに違いないと思うのです。

祐徳院及び、そこで修行されたかたがたがおられなければ、祐徳稲荷神社はありませんでした。もしあったとしても、鹿島稲荷神社とか鍋島稲荷神社といった名で呼ばれる稲荷神社の一つにすぎなかったでしょう。

明治期の神仏分離令の影響は、想像した以上に大きく、わたしは今それをひしひしと感じています。

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