たまたま昔々の学研・高3コース「前登志夫の文芸ノート『詩』」と題された投稿欄を読み返し、ああこの人はどうしているのだろう、と思った女性の投稿者がありました。
その人もわたしも高3の夏以降に集中的に投稿したようで、優れた投稿詩の沢山ある中、なぜか、その人の詩と名前が印象に残っていました。
その人の戦歴は、五席、二席、二席。わたしは六席、四席、三席。
実は、そのときもピアノと同じように詩はわたしの表現形式にはなりえない、と何となく感じてはいました。
しかし、もう少し詩の可能性を追ってみたくて、大学で文芸部に入部しました。
学力という点で、レベル的にはもう一つと思われた大学の文芸部に、大した期待もせずに入ったわけですが、これがわたしには圧倒的なところでした。
今思い返してみても、福大の文芸部は当時は充実した、レベルの高い活動をしていたと思います。
その文芸部で、左サイドバーに紹介記事へのリンクを設けている、天性の詩人と思われた行織沢子さん(ペンネーム)はじめ、優れた才能を秘めた部員たちとの交流が始まり、わたしも沢山書きましたが、その結果、自分に詩の才能のないことがはっきりしました。
はっきりするまで、書きに書いたので、むしろ爽やかな自覚でした。
創作は、インスピレーションと知的作業の協力で成り立ちますが、詩をわたしは頭だけで――勿論、イメージはわくのですが――作ってしまうのです。
というのも、他の形式では、小鳥のように降りてきてくれるインスピレーションも、どういうわけか詩では全然降りてきてくれないからなのです。
わたしに合わないと感じる形式は短歌、詩、推理小説(どうしても殺害行為を描けない)です。
純文学小説は、何ともいえません。
合うと感じるのは、俳句、児童小説、童話(幼児向きの童話に関しては今後の課題)、評論、エッセーです。
どの作品も、というわけにはいきませんが、これらでは――作品の最終的な出来不出来は別として――頑張っていれば大抵、インスピレーションが降りてきてくれます。ミューズの管轄が違うのかしらね。ミューズは9人いらっしゃいますから。
童謡も書けるのではないかと思っていますが……どうでしょう。作曲家や挿し絵画家とコンビを組んで仕事をするのが夢です。
歴史小説は、ぜひ挑戦してみたい形式ですが、時間と取材資金がありません。
晩年になったら、俳句に打ち込みたいなあ!
で、話を戻しますと、「高3コース」で印象に残っていた詩は、文芸部で圧倒されたような異質のまばゆいタイプのものではなく、わたしの作品よりも洗練され、スケールの大きさを感じさせるけれど、わたしが作っていた詩に近い自然体(?)の作風で親しみがわき、加えて精神の活性化を促してくれるような好ましさを持っていました。
それが、深夜戯れに、その人の名前でググってみたところ……続きは次の記事で(少し時間を置きます)。
※追記
あとで、「高2文芸『詩』中江俊夫・選」にも、その人の詩を見つけました。その号で、その人の詩は入選、12名中10人目に登場。佳作29名。
「高1文芸『詩』選と評◆吉野弘」(学研・高1コース)、「高2文芸『詩』中江俊夫・選」(学研・高2コース)、「前登志夫の文芸ノート『詩』」(学研・高3コース)のページは、遡るほど、保存ができていないので、他にもあったのかもしれません。その人は、わたしよりずいぶん前から、頑張って投稿していたのでしょうね。