カテゴリー「芥川賞・三田文學新人賞・織田作之助青春賞」の52件の記事

2019年11月 7日 (木)

Mさん、お誕生日おめでとうございます

Mさん、お誕生日おめでとうございます

 

日本の文学のために、健康に気をつけて、よい書き手を育ててください。ご文運をお祈り致します。

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2019年8月15日 (木)

ツイッターで問題となっている、芥川賞候補作「百の夜は跳ねて」(古市憲寿)。8月15日に追記あり、赤字。

芥川賞候補となった古市憲寿「百の夜は跳ねて」がツイッターで話題になっていました。

古市氏の小説の最後に「参考文献」として、『文學界』2012年10月号に掲載された木村友祐氏の短編小説「天空の絵描きたち」が挙げられているそうです。

誰かの小説を読んで、その中の素材に興味を持ち、自分で調べ直して独自の小説を書くということはあると思いますが、その場合、資料として挙げるのは小説ではなく、調べた文献なのではないでしょうか。

以下の、参考にされた小説の作者・木村友祐氏のツイートによると、木村氏が古市氏に窓拭きの達人を紹介したそうなので、その取材をもとに独自の書き方がなされていれば、問題ないはずです。

しかし、選考委員たちの書きぶりからすると、文章表現などのオリジナルな部分が参考に、というより盗られていることを疑います。以下の記事が参考になります。

【追記あり】古市憲寿さんが芥川賞選考委員にいろいろ言われちゃってる件」『はてな匿名ダイアリー』。2019年08月12日、URL: https://anond.hatelabo.jp

わたしは以前から、直木賞作家・恩田陸氏が得意としている「オマージュ」というフランス語でごまかしたパクリに似た手法に疑問を抱いてきました。純文学界にもその手法が「導入」されたのではないかと危惧します。

尤も、文学賞が文学性を競うものではなく、アイディア戦になり下がったのは随分前からのように記憶しています。

2011年8月 8日 (月)
文藝春秋「文學界 平成二十三年八月号」 ‐ 「新人小説月評」に対する私的不信感
https://elder.tea-nifty.com/blog/2011/08/post-723d.html

わたしが「新人小説月評」に関する前掲記事の感想を書いたのが2011年。古市氏に参考にされた木村氏の短編は、2012年の掲載です。同じ商業雑誌『文學界』。

今回の件から、左派に牛耳られた文学界では才能のある作家がなかなか世に出られないだけでなく、その作家たちは飼い殺されて、防衛本能すらなくしているのではないかという別の危惧も生じました。

追記: 木村氏のツイッターを閲覧させていただくと、集英社、新潮社、未来社などの有名出版社から5冊ほども出版しておられました。報われない才能ある普通の日本人作家が世に出られないまま飼殺されて、防衛本能を失くしているのかと勝手に妄想していました。そんな日本人作家を複数知っているものですから、つい。いずれにしても、作品も読まずに、申し訳ありませんでした。こういういい方は語弊があると思いますが、仲間内での出来事であった様子が窺えました。左派村では安倍総理は本当に人気がありませんね。

そういえば、2018年の第159回芥川賞(平成30年上半期)の候補作になった北条裕子『美しい顔』にも盗作疑惑があったような……

2018年、小説『美しい顔』で講談社の第61回群像新人文学賞を受賞。この作品は第159回芥川龍之介賞の候補にも選ばれたが、主要な参考文献を明記しておらず、他の作家の先行作品と類似している箇所が複数あることが指摘され、謝罪文と参考文献が『群像』2018年8月号に掲載されることとなった。
「北条裕子 (小説家)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年11月6日 18:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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2019年8月 7日 (水)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その5。津田氏のゲンロン仲間、東浩紀氏は「文學界」(文藝春秋)新人賞の選考委員。

カテゴリー「あいちトリエンナーレ」

これはツイッターにも書いたことですが、「あいちトリエンナーレ」津田大介氏(芸術監督)のゲンロン仲間である東浩紀氏は、何と「文學界新人賞」(文藝春秋)の選考委員です。ずっと購読していなかったので、これまで気づきませんでした。

言論をゲンロンとカタカナ書きにしたのは、揶揄しているわけではありません。

ウィキペディア「ゲンロン」によると、2010年東浩紀氏は、インテリアデザイナーで建築家の浅子佳英、空間デザイナーの李明喜らと共に東京都新宿区四谷に合同会社コンテクチュアズ(Contectures, LLC.)として設立しており、2011年に代表に就任、2012年に株式会社ゲンロンに社名変更、社外取締役として津田大介・福嶋麻衣子を迎えています。

「文學界新人賞」を受賞した作品の多くが芥川賞候補になります。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われるからです。

一昔前、「文學界」には、およそ文学的でない左翼知識人である柄谷行人の論文がよく載っていて辟易させられました。東浩紀氏はその柄谷氏の出来の悪い弟子らしいですね。その頃「文學界」では、すさんだ作風の在日文学も大流行りで、これにも辟易させられ、わたしは定期購読をやめました。

細井秀雄氏が編集長だったころは、文芸評論家であり保守論客であった江藤淳氏の作品がよく掲載されていました。江藤淳『占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間』(文春文庫 - 文藝春秋、1994)は日本人必読の書です。

その細井氏から、「九州芸術祭文学賞」で地区優秀作をとったわたしの作品について、懇親会の席でですが、「ああいったことは書かんがいい」と忠告されました。大したことは書いていなかったんですけれどね。その後、「織田作之助賞」で最終候補になったときの懇親会だったか、その席で「今後は児童文学作品を書こうと思っています」というと、心底ホッとした表情をなさいました。

そのころは、文學界の舞台裏をろくに知りませんでした。文学仲間を通して情報を集めた今では、下手に賞なんかとらなくてよかったと思っています。尤も、才能に乏しいので、その心配はいらなかったのでしょうが。

現在、純文学界に在日外国人でも帰化人でもない日本人作家は何割くらいいるのでしょうか、疑問です。

最近では特に、日本文化を貶めているとしか思えない、文学作品の体すら成していない作品が芥川賞をとる傾向にあります。日本人であろうと、外国人であろうと、日本文化を愛する人間にはとても作りえないようなストーリー、無神経な表現が頻出しています。

前出の細井氏は現在、平山周吉という筆名で、作家活動をなさっているようです。アマゾンに読んでみたいと思う作品がありました。幸い図書館にあるようなので、借りて読んでみたいと思います、購入するには、専業主婦のわたしには高価ですから。3,996円。

江藤淳は甦える
平山 周吉 (著)
出版社: 新潮社 (2019/4/25)
ISBN-10: 4103524715
ISBN-13: 978-4103524717

今思えば、江藤淳氏が生きていらしたころは、文学界、日本の言論空間は、まだしもまともでした。

次のツイートで紹介されている動画内容は結構怖い、その次のツイートで出ている情報にはなるほどねと思わせられます。

こうした人々に好き放題されたら、日本は本当に日本ではなくなってしまいます。

芸術家でない大したキャリアもない津田氏がなぜ、こんな大役を任せられたのでしょうか? 反日ネットワークの存在を考えれば、別に不思議ではない気もしますが、武田邦彦氏の語る動画が出てきました。

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2019年7月21日 (日)

第161回(2019年上半期)芥川受賞作家、今村夏子の文学的成立条件を欠いた世界

以下の過去記事で、第159回(2018年上半期)芥川賞を受賞した 高橋弘希「送り火」の感想の続きを書きかけ、放置してしまっていた。

2018年9月 3日 (月)
リンチを遊びとすり替える芥川賞受賞作家。それは犯罪者心理だ(作品「送り火」を文章から考察する)。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/09/post-fdd8.html

感想の続きを書くには作品を読み返すことが必要だったが、作中の凄惨な場面を思うと、読み返すことがわたしにはできなかった。

第160回(2018年下半期)の上田岳弘「ニムロッド」、町屋良平「1R1分34秒」は読んでいない。

第161回(2019年上半期)の芥川賞が7月17日、今村夏子「むらさきのスカートの女」に決定した。

そのうち図書館から借りて読むつもりだったが、書店に出かけたら、今村夏子氏の単行本『父と私の桜尾通り商店街』から2作品を収録した「take free」の小冊子が置かれていた。

いただいていいのでしょうか、と心弾む思いで清算カウンターで尋ね、どうぞ、との返事を貰い、小冊子を持って帰った。

芥川賞受賞作には失望することの連続だったが、もしかしたら名作、あるいは名作とはいえないまでも光る鉱石のような作品に出合えるかもしれないという期待は、常にある。

小冊子に収録されているのは、単行本収録作品「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」「父と私の桜尾通り商店街」のうち、「ひょうたんの精」と「父と私の桜尾通り商店街」である。

簡単な感想を書いておく。一部ネタバレありです、未読のかたはご注意ください。

ひょうたんの精

登場人物の内面が描かれない。掘り下げられない。背景描写もほとんどない。

ストーリーだけで成立させようとした小説で、作者が手の内を明かさないというただそのことで、作品を謎めいて見せる詐欺まがいの手法がとられている。

唯物主義的価値観が生んだ索漠とした、登場人物が作者に操られるだけの世界。

登場人物は狂言回し的に利用されているだけである。

もはや文学とも思えない。

なるみ先輩という主要人物は、超がつくくらいの「すごいデブ」だった。その後、一時期は「チアリーダーいち美人でスレンダー」だったのだが、現在は一般的「すごいデブ」である。

「チアリーダーいち美人でスレンダー」だった一時期というのは実は、なるみ先輩が寄生虫としかいいようのない「七福神」に寄生された不健康な時代だった。しかし、一方では、その時期はチアリーダーとして輝いてもいられた健康な時代だったともいえる。

作者は、スト―リーを自分に都合よく進めるためか無意識的にか、健康と不健康を混同させ、論理的整合性を無視している。

「大玉ころがしをする」大玉に譬えられるほど太っていた、なるみ先輩。その異常な太りかたは、わたしのような医学に無知な人間にも、あるホルモン系の病気を真っ先に連想させる。

病的なほどではない太りかたであれば、栄養の偏りやストレスなどを原因として考える。

だが、この短編の世界で、医学的観点や医療、現実的なダイエット法などが登場人物にもたらされることはない。

もたらされるのは、七福神グッズの装いの凝らされた寄生虫である。それをもたらしたのは、蝉を常食する、ホームレスとも見なされる神社の女性「住職」である。

その寄生虫を、ネットの知識から得た文言によって駆除することで、なるみ先輩は不健康な「スレンダー」から一般的「すごいデブ」にまで太り具合を回復する。

小説の最後で作者は、痩せた人間はあたかもこの寄生虫に寄生された不健康な人間であるかのような見方をオチとして用意している。

作者のお手軽なオチは一方的に読者に押し付けられるだけなので、それを何らかの象徴的考察や警告、ましてやユーモアと捉えるには内容があまりにも薄っぺらで一方的で、説得力をもたらす展開が完全に欠落している。

作者がただ書きたいことを書いているとしか捉えることはできず、文学作品としての成立条件をさえ欠いているように思える。趣味の世界といえばいいのだろうか。

父と私の桜尾通り商店街

「父と私の桜尾通り商店街」も「ひょうたんの精」と同工異曲の小説だった。

感じのよい新しいパン屋さん(女性)は、おそらく、古くからのパン屋であった父を亡くした娘(主人公であり語り手でもある)がアルバイトに応募すれば、採用するだろう。

そして今後、新しいパン屋さんは主人公にストーカーされ続ける運命を辿るのだろうか……

何しろ、「ストーカー規制法」も警官も存在しないのではないかと思わせられる、天意も正義も真の人情も存在を許さない、作者の都合で操作されるだけの人工的世界なのである。

この、最後で足をひっかけられるような、底意地の悪い結末を読んだあとに作者、今村夏子氏の記者会見を視聴すると、芥川龍之介の作品を読んだことがないという彼女の無邪気な文学的無知は、もしかしたら、無知に見せかけた、意図的な芥川の権威落としではないか――という、穿った見方もできるような気がする。

両作品には「いじめ」の問題がまぎれもなく存在している。しかしながら、作者は「いじめ」に光を当てようとはしていない。逆に、いじめの世界を作り出すことに執心している。嬉々として。これが文学だろうか。

芥川賞受賞作品「むらさきのスカートの女」を図書館から借りる気がしなくなった。

芥川賞は、どこまで日本文学の伝統を破壊するつもりなのだろうか。知的、精神的に低下しつつある日本人にわが国の文学界の与えるものが七福神の装いを凝らした寄生虫では……

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2018年11月 7日 (水)

Mさん、お誕生日おめでとうございます

Mさん、お誕生日おめでとうございます

 

ご健康とさらなる飛躍をお祈りしております

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2018年9月 9日 (日)

盗用疑惑が持ち上がった芥川賞候補作「美しい顔」。東日本大震災のニュースで観た犬のその後。

芥川賞受賞作「送り火」の感想の続きが途中ですが、リンチシーンを再読したくなくて、まだ書いていません。萬子媛ノートの続きがあるのに。

芥川賞候補作となった北条裕子「美しい顔」には、選考前から盗用疑惑が持ち上がっていたと知り、呆れました。

別に新人賞を受賞した作品でないと、芥川賞候補になれないというわけではないのだから、もう一、二作書かせてみて、優れた作品が仕上がれば、芥川賞候補に選べばいいだけの話です。

芥川賞をとらせたくてたまらなかった事情があったとしか思えません、わたしには。

東日本大震災をモチーフとした作品のようですが、前の記事に書いた拙児童小説『すみれ色の帽子』に、東日本大震災のニュースで観た犬に登場して貰ったことを思い出しました。

『すみれ色の帽子』は日記体児童小説で、「(11)ポセイドンの気まぐれ」にその犬が登場します。

テレビのニュースで視聴したものであり、作品にもテレビで見たと書いているので、発信元を書く必要はないと思い、書いていません。ただ、その中にギリシア神話事典からの引用があるので、引用元を明記し、そのまま引用しています。

犬の話題に入る前に、一家でギリシア神話に出てくるポセイドンを話題にする場面があります。Kindle版だと頁を明記できないのが不便ですね。児童小説なのでルビを振っていますが、省略します。

<ここから引用>
 わたしは、地震と大津波が起きたときの様子を、テレビで見ました。
 波がまるで生き物のように、道路をかけのぼっていました。行く手をはばむいっさいを、なぎたおし、のみこみながら。
 画面がかわって、めちゃくちゃになった沿岸部がうつりました。がらくたのようになった家や塀や車にまじって、船がありました。船は海にいるのが自然なので、それは異様な光景でした。
 また画面がかわり、今度は、闇のなかに、まっ赤なほのおが見えました。このほのおも、あの波の仲間に思え、飢えた怪物のように見えました。何もかものみこもうとしているかのようで、ぞっとしました。
 火災は石油のコンビナートで起きたものだと、アナウンサーが説明しました。


 地震が発生したときのジグザグにゆれる地面が、何度も、何度も、うつります。
「ポセイドンだわ!」
 わたしがさけぶと、ママは、
「えっ?」
 といって、わたしを見ました。
 でも、パパはいいました。
「そうだ、ポセイドンだ。」
 そして、ずり落ちたメガネを指で押し上げると、だまってテレビを見つめていました。
 ママは、いいました。
「ポセイドンですって? あれはギリシア神話に出てくる神さまでしょう? ギリシアの神さまが日本に祟って、あんなことになったなんて、いわないでちょうだいね。」


 わたしはママの言葉にいらいらして、頭をふりました。すると、ポニーテールにした髪のたばが自分の頭をぶったわ。

 ママは、ギリシア神話をよくは知らないのでしょうね。よく知っていれば、ポセイドンが大震災におおいに関係があると、わかるはずです。
 いいえ、ママのように疑いぶかい人には、こういってやらなくてはならないわ。大震災におおいに関係のある何かを、古代のギリシア人はポセイドンとよんだのだ――と。
 昨年の一年間、わたしは壁新聞の係でした。その壁新聞で、ギリシア神話の神々を紹介したので、あのかたたちのことなら、よく知っているというわけなの。


 先生が、バーナード・エヴスリンという人の書いた『ギリシア神話小事典』②(※脚注)という本をかしてくださったので、わたしはその本のなかから、毎月、壁新聞を作るたびに、これは、と思った神さまをとりあげました。
 この日本という国は、海にかこまれていて、ポセイドンは海の神さまだもの、紹介しないわけにはいかないじゃない?
 本に書いてあったポセイドンのことが、テレビで震災のようすを見たときに、頭に浮かびました。

<ここまで引用>

その次の文章が引用になるのですが、Kindle版では引用とわかるように工夫し、脚注で「バーナード・エヴスリン著(ちょ)『現代教養文庫(げんだいきょうようぶんこ) 1000 ギリシア神話(しんわ)小(しょう)事典(じてん)』(小林稔(こばやしみのる)訳(やく)、社会思想社(しゃかいしそうしゃ)、1979年)」という風に引用元を明記しています。ルビを加えたので(ルビ引用者)と断っています。

物書きが、引用していながら、そう書くのを忘れることがあるのかなあと不思議に思います。引用であれば、カギカッコで括るなり、行を下げるなり、するはずです。

自分がギリシア神話を研究したり、翻訳したりしたわけではないのですから、自分がそうしたように装い、自分のものとして書くなんて、怖ろしいことはできません。

『ギリシア神話小事典』を参考にして自分の言葉で書いたのであれば、参考文献として挙げることになります。この二つを混同しますか? 

わたしがここであえて引用という方法を選んだのは前掲書に「ポセイドンはたいへん気まぐれな神で、かんしゃくと愛情、残酷と親切が同居していた」(『ギリシア神話小事典』248頁)という説明があったからで、ここに日記の書き手である少女・瞳なら強い印象を受けると思い、そのまま引用しようと考えたのでした。

東日本大震災のニュースで視聴した犬のことは、次の箇所で出てきます。

<ここから引用>
 ね、あれは、ポセイドンのしわざだったのだと思わざるをえないじゃない?

 そのあと、もう一度、ポセイドンを思い出させるニュースを見ました。
 漂流する住宅の屋根の上に犬がいるのを、海上保安庁のヘリコプターが見つけ、犬はぶじに助け出されたというのです。
 犬は、三週間も、こわれた住宅の屋根にのっかって、海の上をただよっていたことになるわね。
 犬は海をただよいながら、どんな空をながめていたのかしら? 夜は寒かったでしょうね。おなかもすいたことでしょう。もし、犬に文字が書けたとしたら、きっとロビンソンのように、漂流記を書くと思うわ。
 たぶん、ポセイドンの気まぐれだったのでしょうが、海の上をただよっている犬には、彼はやさしかったのでしょうね。


 犬は、三日後に、飼い主に再会することができました。
 飼い主の女の人は、大きな犬をあかんぼうをだくようにだいて、もう二度とはなれないというように、犬と一つとなっていました。
 そのようすを、おおぜいの人間がニュースをとおして見ていたわけですが、それは、だれしも見とれてしまうような、おかしがたい、うつくしい情景でした。

<ここまで引用>

もし、ニュース記事をまる写ししたのであれば、引用元を明記したでしょうけれど、ここでは必要ないでしょう。

「美しい顔」を全文読んだわけではありませんが(講談社が全文公開していたようですが、もう消えてしまっています)、感想を書いている人は沢山いて、引用もされているので、どのような作品であるかはだいたいわかりました。

それから推測すると、引用部分がごく一部書き変えられただけで、引用元の明記もなく、作品に挿入されているようです。何箇所も。

尤も、引用であれば、書き変えてはいけません。引用といわれないように、ごく一部を書き変えたのでしょうか。

過去記事で、拙小説『台風』から引用しましたが、あれがそのままどなたかの文章に挿入され、その作品が新人賞をとったり、芥川賞候補になったりしたとすれば、心穏やかではいられないでしょうね。泥棒、と叫びます。

書いている本人には、引用、参考、創作の区別が明確についているはずです。その区別もつかないような物書きの作品に、文学賞が授与されるなんて、あんまりですから。

でも、盗用が意図的な行為であれば悪質で、尚更、文学賞に値しないと考えるのが常識だと思うのですが、選考委員達は盗用など気にする必要がないかのように、引用と参考の区別を曖昧にし、作品を褒めちぎります。芥川賞は授与されなかったものの……腐敗しきった文学界。

一つ前の記事で書いたように、盗用は、「芸術の一分野としての純文学的動機からというのは考えられません。自分ならではの発見と独自の表現こそ、物書きが求めるものであることを思えば。目的は別のところにあるのでしょう」としか、同じ物書きとして想像できません。

ところで、わたしは東日本大震災のニュースで視聴した犬のこと、そして飼い主との美しい再会の場面を忘れたくなかったので作品に書いたのですが、今回改めて調べてみたら、あのとき助かった犬はその後、事故で死んでいたことがわかりました。ショックでした。

2015年11月2日のJ-CASTニュースの記事で知りました。⇒https://www.j-cast.com/2015/11/02249623.html?p=all

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2018年9月 7日 (金)

高橋弘希「送り火」の感想が中断しています。「虎ノ門ニュース」に安部総理が出演(9月3日収録)。

自然災害が続きますね。関西への台風に次いで、北海道での地震。

外国からの旅行者も多い中、そうした人々が空港で途方に暮れている様子がニュースで流れました。

安倍政権は成長戦略の一つに「観光立国」政策を掲げているのですから、こうした非常時に対応できる、外国人旅行者専用の窓口をすぐに立ち上げることができるような体制づくりが望まれます。

そういえば、ネットのDHCテレビの番組「虎ノ門ニュース」に安部総理が出演なさっていますね。9月3日の収録。⇒https://youtu.be/zE5_Xm6RN0w

印象操作なしの安倍総理の素顔を観ることができます。北方領土、拉致問題、アベノミクス、(懸念する人も多い)外国人労働者の受け入れ政策などについて、語っておられます。

安倍総理は政治家の家に生まれて、子供の頃から将来の職業として当然ながら政治家を意識していたそうですが、映画監督になりたいという思いもあったとか。

ゴルフで、トランプ大統領に勝つこともあるそうですよ。トランプ大統領はプロ並みの腕といいますから、安倍総理も見かけによらず(?)、ゴルフは相当にお上手だということですね。

トランプ大統領が各国首脳とゴルフをしまくっているという話は聞かないので、トランプ大統領にしてみれば、よいゴルフ仲間を見つけてラッキーという感じでしょうか。勿論、仕事の話を内密にできる機会づくりとしてのゴルフなのでしょうけれど。

ところで、第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した高橋弘希「送り火」(『文藝春秋』(平成30年9月号))の感想の続きを書くつもりで、今日も書いていません。もう少し分析しておきたいので、再読しなければならないのですが、リンチのシーンを再読するのが億劫です。

日本人は生活が上向かない中で、自然災害も増えて、気持ちの沈むことも多いというのに、こうした作品が求められているとは思えません。リンチの起きる背景を純文学的手法で追究した作品であればまだわかるのですが、リンチという自覚も持てない作者が執拗に描写するリンチ――作者にいわせれば、遊び――の場面。

他に、第159回芥川賞の候補になった北条裕子「美しい顔」にパクリ疑惑があるということで、調べていました。講談社が全文公開していたようですが、もう消えてしまっています。

感想を書いている人は沢山いて、引用もされているので、どのような作品であるかはだいたいわかりました。

パクリが流行っているようですね。無意識的に、というのでなければ、芸術の一分野としての純文学的動機からというのは考えられません。自分ならではの発見と独自の表現こそ、物書きが求めるものであることを思えば。目的は別のところにあるのでしょう。

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2018年9月 3日 (月)

リンチを遊びとすり替える芥川賞受賞作家。それは犯罪者心理だ(作品「送り火」を文章から考察する)。

本日、赤字部分を加筆しました。2018年8月1日2時22分にアップした記事でした。次の記事でもう少し、作品を分析したいと考えています。

第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した高橋弘希「送り火」(『文藝春秋』(平成30年9月号))の感想の続きです。

関連記事:
8月28日: 神事、そして文学に対する冒涜でしかない高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)
8月29日: 芥川賞受賞作「送り火」のちゃんとした感想を、次の記事で(青字部分、加筆)

○o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*

選考委員によれば、作者は描写力があるそうだが、文章を見てみよう。冒頭。

<ここから引用>
欄干の向こうに、川沿いの電柱から電柱へと吊るされた提灯が見え、晃が語っていた習わしを思い出し、足を止めた。河へ火を流すというのは、例えば灯篭流しのようなものだろうか――、(322頁 ※「習わし」のルビの位置に「、、、」。引用者)
<ここまで引用>

文章が頭に入ってこない。冒頭がこれではわかりにくい。

わたしは提灯に火が入っているのだと思ってしまった。しかし、続く文章から、時間的に、提灯にはまだ火が入っていないと思われる。

冒頭の作者の文章が「河へ火を流すというのは」と続いているので、提灯には火が入っており、その提灯を舟に積んで河へ流すのだと勘違いしたのだった。

後のほうを読むと、そうではないようだ。その習わしというのは、急流の中を、集落の若衆が帆柱に火を灯した三艘の葦船を引いていくというものらしい。まぎらわしい書きかたである。

また、後のほうに、市街地の祭りとは別に河へ火を流す習わしがあり、提灯はその習わしの準備だと書かれている。提灯の色は茜色とある。

欄干の向こうに、提灯が見えた。茜色の提灯が、川沿いの電柱から電柱へと吊るされているのだ。晃が語っていた習わしを思い出した。河へ火を流すという習わしなのだが、それは灯篭流しのようなものだろうか。

ここで、提灯の茜色を出しておいてもいいのではないか。もし提灯に火が入っているとすると、提灯自体の色よりも明かりの色が目に映るものなので、提灯が茜色と書けば、昼間で、提灯には火が入っていないとわかる。

「足を止めた」は余計だと思う。「晃が語っていた習わし」と「足を止めた」の二方向に、読者の注意が分散されてしまうからだ。ここで重要なのは、前者のほうではないかと思うので、それのみを生かすほうがいいのではないだろうか。そうすれば、強調の「、、、」は必要ない。

もう一つ、先のほうに取り出しやすい文章があるので、見てみよう。

<ここから引用>
その簡素な祠には、赤い前掛けをした地蔵菩薩が祀られていた。夏蜜柑が二つ供えてある。五穀豊穣を願ったものだろうか――。(323頁)
<ここまで引用>

ここも説明的で、映像的に入ってこない。夏蜜柑がここでは鍵となる。

その簡素な祠には、地蔵菩薩が祀られていた。赤い前掛けをしている。お供えの夏蜜柑が二つ。

地蔵菩薩というと、わたしには子供の守り仏というイメージなのだが、五穀豊穣の願いが感じられるというのであれば、夏蜜柑を瑞々しく描けば、効果的だと思う。野菜を豊かに盛った籠を置いたなら、より「五穀豊穣」を願う場としての雰囲気が出る。

夏蜜柑といっても、どこにでもある夏蜜柑というものは本来ないのだ。どの夏蜜柑も、他の夏蜜柑とは違う。

地蔵菩薩の前に置かれた夏蜜柑が萎びていたなら、どこか哀しい。

実際には、地蔵菩薩の赤い前掛けが鮮やかだったり、色あせていたり、お顔もくっきりとしていたり、目鼻が消えかかっていたりで、一様ではない。容貌も様々だ。作者の描きかたでは一般的な地蔵菩薩の域を出ず、小説に出せる状態ではない。

地蔵菩薩が置かれているということだけを印象づけたければ、「その簡素な祠には、地蔵菩薩が祀られていた」だけでいいと思う。

作者の文章はわたしにはわかりにくく、描写力があるとは思えない。

弱者がリンチを受ける場面は生々しく、一見、描写力があると思わせられるが、即物的で、どこかで読んだような文章である。ここにしかない蜜柑を、作者はどこにでもある蜜柑のように描くが、それと同じ印象を受ける。

大衆週刊誌の事件簿、エンター系バイオレンス小説を連想させられる。否、実際のバイオレンス小説の描写はこれほどくどくない。案外あっさりしているので、夫の本棚にあっても気にならない。

「送り火」は、これでもかこれでもかといわんばかりである。リンチを受け続ける稔は、医学的に見れば、もう何回か死んでいるのではないだろうか。

明らかにリンチ殺人事件として報道されるような暴力沙汰であるのに、発表誌『文藝春秋』(平成30年9月号)の受賞インタビューで、高橋氏は次のように話している。

<ここから引用>
物語の最後に、‟サーカス”という遊びを描きました。‟サーカス”が乱暴な色合いの濃い遊びなので、彼は日常的にもう少しマイルドな遊びをやってただろうなと思って、四種類くらいの遊びを考えた。(略)ただ自分としては、殊更に子どもたちの凄惨さを書こうと考えたわけではないです。この年頃の男子ってけっこうバイオレンス好きだと思うんで、だから、物語の中の彼らも、普段から度胸試しというか、チキンレースのような遊びを日常的に行っているだろうと思って。(前掲誌320頁)
<ここまで引用>

「すると、稔は卒倒し、地べたに蹲った。白目を剥いて泡を噴き痙攣すると、低い鼾をかき始めた。ズボンの股当りが濡れて染みになっている。観客から次々に野次が飛ぶ。立ち上がらねぇぞ、演技ばしてら。汚ぇ、小便もらしてら。バケツだ、バケツの水ばかけろじゃ」(前掲誌376頁)

これがサーカスという遊びで遊ぶ「子どもの情景」というのだ。おぞましい血みどろの場面が長々と続く。

最終的に、稔は「バケモン」になる。「確かにその姿は人間には見えなかった。稔の肉の形をした人外にしか見えない」(掲誌376頁)

これを遊びと表現する高橋氏は、頭がどうかしているとしか思えない。作品がどうの、という以前の深刻な問題があるように思える。

作者は明らかに、暴力シーンを見せ場としている。誇示している。暴力を、リンチを賛美しているのだ。だから、作者にとってはどこにでもある田舎の神事を適当に持ってきて、場面を盛り上げることも厭わない。これが純文学小説であるはずがない。

リンチを遊びとすり替えるな。それは犯罪者の心理だ。

作者がリンチ――作者にいわせれば、遊び――という状況下に、主人公を執拗に追い込んでいることが小説をよく読めば、わかる。

ノンフィクション的に、そのような状況下に至った経緯を描いているのではない。作者が神――鬼神――となって、そのような宿命を主人公に押し付けているのだ。これが芸術の一分野である純文学の創作とは別物の、趣味、それも悪質な趣味でしかないとわたしが考えるのは、それが理由である。

祭りも、そうした主人公の運命操作に使われている。祭りをそのように使うとは、作者は地域の祭りに参加したことがないのだろうか。帰国子女か? 

高橋氏の前作は戦争文学だそうだが、その内容は「送り火」から推して知るべし。

芥川賞は、壊れた日本語で書かれた小説や、異常な人物の出てくる不快な小説を量産して、日本文学を、日本文化を破壊するつもりか? 

 まとめるには、時間がかかりそうなので、後回しにするかもしれません。候文は難解ですが、『鹿島藩日記』が美しく見えます。そこに戻りたい。

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2018年8月29日 (水)

芥川賞受賞作「送り火」のちゃんとした感想を、次の記事で(青字部分、加筆)

前の記事で、第159回芥川賞(平成30年上半期)を受賞した「送り火」の感想を書いたが、乱暴な感想になってしまったので、次の記事か拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で、もう少し丁寧なものを書こうと思う。

なぜ、「送り火」を神事、文学に対する冒涜と考えたのかの説明もろくに行っていないし、神秘主義的考察が唐突に出てくる。

小説では、神事で使用される道具や用語がアイテムとして出てきてリンチが行われ、神秘主義的な知識なしでは考察できない領域に作者が無知な状態で安易に踏み込んでいたため、不快感と懸念から、つい説明もなしに書いてしまった。

1人の弱者が、6人からなる中学生男子集団(弱者と主人公を含む)とその上部組織とでもいっていいような何人かのヤクザな男達からなる集団から凄惨なリンチを受け、最終的にはその弱者が復讐鬼と化し、主人公にムカついていたといって襲いかかる。

「バケモンだ」「あだま狂ったじゃ」「神降ろしばしでしまっだ、彼岸様ァ、此岸さおいでになられた!」と、ヤクザな男達が恐怖に駆られて叫ぶ。

主人公は都会的で、幾分偽善的なところはあるが、それは誰にでもある長所、短所の域を出ない程度のものにすぎない。弱者へのリンチが加害者の身勝手な理由でなされたのと同様の身勝手さから、被害者であった弱者は加害者へと豹変して主人公を攻撃する。

彼らは餌食を探しているだけであって、相手がどうであろうと、どうでもいいのだ。草食動物を餌食にする肉食動物は、草食動物の個性に立腹して襲うわけではない。仕留めやすそうな草食動物を狙うだけだ。それは自然の営みの一環なのであるが、リンチする者達はこの自然、この地上の営みに属しない忌まわしい性格を帯びている。

「送り火」の文章を借りるなら、彼らはこのとき、神秘主義的にいえば、彼らが「バケモン」とも「彼岸様」とも呼ぶ、普通の人間の肉眼には見えない低級な別世界に属する者達に憑依されているのだ。

小説ではそれが、人間的知性と危機感を帯びて表現されているわけではない。作者の意識はむしろ忌まわしいあちら側にあって、むしろ楽しんでいる。

そのことが、良心的な読者に嫌悪感を惹き起こすのだ。選考委員の中では唯一、高樹のぶ子氏だけがそうだった。他の選考委員はリンチをゆとりをもって傍観している、あちら側に属する者達にわたしには見える。

発表誌『文藝春秋』(平成30年9月号)に掲載されている受賞者インタビューが、それを裏付けている。

インタビュアーは表現を和らげて「リンチにもつながりかねない危険な遊戯」といい、作者がそうしたものを「沢山創作なさっています」といっている。

リンチにもつながりかねない危険な遊戯どころか、警察に通報しなければならないような犯罪性のある、まぎれもないリンチであるのに、作者がそれを「遊び」というので、インタビュアーはそれに合わせているのだ。

書店勤務の娘に、作者がリンチを描いて楽しんでいるようにしか思えない、それによる社会的影響を考えているようには全く思えないと嘆くと、「そういうの、エンター系ではいっぱい出てるよ。例えば、山田悠介とか」といった。

「純文学なんて、ない」といって純文学排斥運動の行われた結果が、これだ。芥川賞は純文学作品ともエンター系作品ともいえない、バケモンを産出するようになってしまった。

娘のいう山田悠介は、登場人物の生命を賭け金代わりにする「死のゲーム」というジャンル(そんなジャンルが存在するとは!)の作家であるようだ。現実にも、死のゲームのような忌まわしい事件が起きている。以前、海外のニュースで見た記憶がある。

そう、あれは、ロシア発「青いクジラ」(2017年頃の発祥だという)という名のSNSを利用した、参加者を自殺に導く死のゲームだった。世界のあちこちで多くの犠牲者を出し、社会問題化した。

作家がそうした風潮を安易に作品づくりに利用しているのかもしれないが、ならばそれは純文学作品であろうと、エンター系作品であろうと、死の灰だ。

「送り火」で見られる単純なリンチといわゆる「死のゲーム」とでは性質の違いがあるが、生命を軽視しているというところに共通点がある。いずれにせよ、本物の純文学作家であれば、そうした風潮の解明にこそ、腕を揮うはずであるのに。

芥川賞は過去の業績から国内では権威ある文学賞であり、そのブランド性が信頼されて、読書感想文の課題に選ばれたり、翻訳されて海外に紹介されたりする。

まさか、日本の神事が「送り火」にあるようなものだとは海外の読者も思わないだろうが――そう信じたい。もはや芥川賞は弊害でしかない。

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2018年8月28日 (火)

神事、そして文学に対する冒涜でしかない高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)

ノーベル文学賞は終わった感があるが、『文藝春秋』(平成30年9月号)に発表された高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)を読んで、芥川賞もとうとうここまで冒涜的、おぞましいシロモノを日本社会に送り出すようになったか、と脱力感を覚える中で思った。

書きかけだった「鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達」の続きがまだだし、トルストイ『戦争と平和』に関するエッセーも「マダムNの神秘主義的エッセー」に連載中で時間がないのに、今日はこれを読まされた(絶賛されていたのだから、「読まされた」だ)。

高橋氏の文章は描写力があって素晴らしいそうだが、誉めすぎだ。描写力というほどの印象的な描写はなく、くどくどしく説明が重ねられているだけで、どちらかというと平板な文章である。

ただ、過去記事で書いたように、わたしは文学界に新星が現れたと確信したので、日本文学が終わったとは思っていない。この希望の光がなければ、不快感、絶望感で今日は何もできなかったかもしれない。

2018年5月12日 (土)
「三田文學」(第24回三田文学新人賞)から新星あらわる
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/05/24-98ca.html

選評の中では、高橋のぶ子「青春と暴力」だけがまともで、他の選考委員の選評は批評能力以前に常識を疑う。

高樹氏の選評のタイトルに青春とあるが、複数の中学生、そして後半は複数の大人が主体となるリンチ事件(殺人になったかどうかがストーリー上は不明)を長々と描いたものが、青春文学などであるはずがない。

しかも、このリンチ事件には神事を――ミサの倒錯であるかのような黒ミサに匹敵するおぞましさで――絡めてあるのだ。虚構なら、何を書いてもいいというわけではないだろう。

実際にも報道されることのある、凄惨なリンチ事件を神秘主義的に見れば、凶悪な低級霊の憑依事例といえそうであるが、話が文学から離れるので、これ以上は追究しない。

ただ、果たして「送り火」が文学といえるだけの資格を備えているかどうかといえば、微妙である。

高樹氏の選評に同感の部分を以下に引用したい(前掲誌309~310頁)。高樹氏が選考委員の中にいてくれたことは芥川賞にとって、わずかな救いだった。そうでなければ、芥川賞の名を辱めただけで終わっただろう。

<ここから引用>
けれど受賞作「送り火」の十五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。〔略〕文学が読者を不快にしても構わない。その必要が在るかないかだ。読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。
<ここまで引用>

懸念されるのは、あれだけの冒涜、暴力を描きながら(そこでは平板な文章が活気づいている)、受賞者インタビューに「暴力性と言われますけど、自分としては男の子たちが皆でお祭りでワイワイしている様子を描こうと思ったのが最初です」という自覚のなさだったことである。

村上春樹の創作姿勢にも、わたしは同様の疑問を覚えた。過去記事「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)」から以下に引用する。

<ここから引用>
 ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。
いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。
 『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。
ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。
このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。

<ここまで引用>

神秘主義的に考えれば、作家が質〔たち〕の悪い低級霊に憑依され、そのような低級霊の影響下で書かれた作品が流行病のように広がることだって、ある。売れているからといって、有名な賞を受賞しているからといって、油断してはならない。娯楽や慰めのために読む本の影響を、わたしたちは学問的な読書のとき以上に受けると思うべきだ。

勿論、村上氏や高橋氏を霊媒作家というのではない。作家の姿勢次第で、読者は思わぬところへ導かれることがあるということを警告したいだけだ。

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