カテゴリー「芥川賞・三田文學新人賞・織田作之助青春賞」の58件の記事

2023年11月 7日 (火)

Mさん、お誕生日おめでとうございます

Mさん

お誕生日おめでとうございます

来年1月から放送される大河ドラマ。NHK は次のように宣伝しています

大河ドラマ「光る君へ」は、平安中期に、のちに世界最古の長編小説といわれる「源氏物語」を生み出した、紫式部の人生を描きます。武家台頭の時代を目前に、華やかにひらいた平安文化の花。きらびやかな平安貴族の世界と、懸命に生きて書いて愛した女性の一生に挑戦する大河ドラマです。

紫式部像が歪められなければいいが……と戦々恐々としておりますが、ドラマ関連作として書店の平台に置かれていた三枝和子先生の『小説 紫式部(河出文庫)』(河出書房新社、2023)を見かけました。未読だったので、購入しました。

わたしが取り組んでいる人物――祐徳稲荷神社の創建者である祐徳院(萬媛)――は花山院定好の娘で、紫式部と同じ藤原北家の人です。

わたしは過去記事で、紫式部の優れた小説の技法を考察して次のように書きました。

藤壺の宮に対して紫式部は距離を置いた描きかたで、その結果すりガラスを通して見るような、伝聞のような効果が出ている。

藤壺は光源氏に次ぐ――紫の上以上の――重要人物であるにも拘わらず、その人の感情や考えが行動を通してしかわからないために、読者は隔靴掻痒の焦れったさを覚える場合があるかもしれない。『源氏物語』が苦手な人の中にはそういった人々もいるのではないか。

その書き方を通せば、紅茶をすぐに茶碗に注ぐよりもポットの中で茶葉を蒸してから注ぐほうが香りも味も引き立つように、むしろ高貴さが香り立つように思う。

登場回数では紫の上のほうが多いのに藤壺の存在感が薄らぐことがないのは、紫式部がこうした技法上の効果を「雲隠」の手前まで持続させているからに他ならない。

また、紫式部は時々こうした技法を無視したかのように接写しているが、これも同じ技法に含まれるものと考えられ、そうすることによって印象が際立つ。

三枝先生がご健在であれば、こうした技法上のことも含めて色々とお話ししたかったと思わずにいられません。

満身創痍に見える日本文学ですが、Mさんのように変わらぬ志で書き手を育てる人と、変わらぬ志で書く人が存在する限り、文運隆盛の世はまた巡ってくることでしょう。

ご健康と益々のご活躍をお祈りしております

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2023年5月18日 (木)

第29回三田文學新人賞 受賞作鳥山まこと「あるもの」、第39回織田作之助青春賞 受賞作「浴雨」を読んで

第29回三田文學新人賞 受賞作鳥山まこと「あるもの」、第39回織田作之助青春賞 受賞作「浴雨」を読んだ。

● あるもの

主な登場人物は、堀内、桑原さん、有村さん。

介護職から事務職兼町民支援センターの通称「町の何でも相談係」に転職した女性――堀内の視点で作品は描かれる。

彼女には、ずっとこの田舎町で生きてきた課長にも同僚達にも見えない巨大な塔が見えるという設定。塔は、日常生活という結界を越えた区域に存在し、長尾山トンネル、いくつもの里山を過ぎた集落の広大な田畑の先に聳えている。

堀内は子供のいない中年女性で、夫がいる。家庭生活は申し訳程度に出てくる。塔が見える以外は、彼女は常人という印象である。

デスクワークに優れ、クールな男性――桑原さん。あらゆる空間に観葉植物を置くことのできるスマホアプリの栽培ゲームに熱中している。アプリを通して本来はそこにないはずの観葉植物を見る桑原さんに堀内は期待を寄せ、機会をつくって一緒に塔を見に行くが、残念ながら桑原さんには見えない。

堀内が「町の何でも相談係」として担当している70代の女性――有村さん。視力と記憶力の衰えを自覚している。町内の至る所に土地を所有する、町では有名な地主。

「有村さんにも子供がいなかった」という記述からすれば、夫に先立たれたのだろうか。

一人暮らしかどうか、一人暮らしであれば安全に生活できるレベルがどうか……それは支援センターの役割としては重要な情報だと思われるが、その辺りがぼかして描かれているために、読みながらわたしは苛々した。

有村さんは昔話をして、その中に出てくる思い出の場所がどうなっているか見てきてほしいと堀内に依頼する。同様の依頼が何件も溜まっていく。そうした場所は一つとして見つからない。なぜか堀内と有村さんが一緒に確認に出かけることはない。

ここで、私事になるが、最近、長崎在住の従兄――わたしとは親子ほど年齢差がある――が惚けてきたようだ。

妹である従姉の話によると、とうの昔に更地にして駐車場にしている佐賀の生家跡だが、従兄の「現実」ではまだ生家があって、そこに在りし日の家族――健在である従姉も含まれる――が住んでいるのだという。

従姉がいくら本当の「現実」を説いても通じず、長崎から佐賀まで彼の「現実」を確かめに来たそうだ。

戦後、満鉄に勤務していた従兄の父親は引き揚げて来る途中で妻を亡くし、幼い兄妹が残された。数年後に再婚した父親は慣れない炭鉱の仕事が応えて病み、亡くなった。従兄姉には義理の妹ができていた。

中学生だった従兄は「なぜ俺を残して死んだんや」と号泣したという。従兄の生家には、まだ未婚だったわたしの母が一緒に暮らしていた。従兄の父親は長男で、母は末っ子だった。従兄は母を姉のように慕っていた。

母の姉(従兄からいえば伯母)夫婦も満州からの引き揚げ組で、夫は三菱の商社マンだったが、脱サラして満州で手広く製麺業を始め、大成功していたという。その伝手だったのか、中学を卒業した従兄は長崎にある三菱の会社に入社した。

中学卒で苦労したとは思えない品のよさ、頭のよさを感じさせた従兄。海外からのお客を英語で案内するのが苦手だと語っていた。社交ダンスが趣味で、達筆だった。年賀状が来なくなったので、従姉に電話して事情を知った。

義理の母と妹達を生家に残して就職した従兄は、後ろ髪引かれる思いだったろう。その頃の記憶が、認知機能の衰えていく中で強く甦ってきたのではないだろうか。

せつない話で、有村さんの「現実」を読みながら従兄のことを連想した。有村さんは現在、天涯孤独なのだろうか? その辺りの情報が読者に何も与えられない不自然さがある。

いずれにせよ、昔話のこと以外にも有村さんの物忘れは度を越している。受診を勧めて、一人暮らしであれば、それが可能かどうか確認するくらいのことは、支援センターであれば、するのではないだろうか。

心情的に共感を覚え、寄り添っていればいいというものではないだろう。

しかし、相手が認知機能に問題のある人物であったとしても、これまで主人公にしか見えなかった塔が有村さんにも見えた、という話の流れである。そのために、作者は有村さんが必要だっただけなのかもしれない。

限られた複数人に見えるということであれば、それは現在の自然科学では合理的な説明のできない、いわゆる超常現象の類いか?

その人にしか見えないのであれば、幻覚だろう。

有村さんは堀内の話に合わせて妄想を膨らませているだけかもしれない。有村さんの塔は夜になると光るという。

堀内はついに塔が現実にあるのか、確かめに行く。塔はあった。しかし、光るような設備はない。

塔を出た堀内は「この塔は私にしか見えない塔なのだとしたら、有村さんにしか見えない塔もどこかに立っているのかもしれない」と結論づける。

作者には文章力があり、応募時30歳とは思えない成熟度を感じさせる。有村さんの昔話もよく書けている。

ただ、万人受けするようなパーツを集め器用に組み立てただけで終わっているような読後感で、そこが残念だ。

塔は何の象徴だろうか? それには、面倒でも堀内の現在の家庭生活に踏み込まなければだめだろう。

いつ頃からか、このような、純文学小説の体裁を整えた、空疎な作品が多く発表されるようになって、受賞するのは大抵このような作品である。

分岐点は、大道珠貴さんが芥川賞を受賞したあのころだったとわたしは考えている。2014年に出した拙Kindle本『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 ―2012』の「はじめに」でわたしは次のように書いた。

(引用ここから)……純文学は次第に伝統性も、真の意味での実験的要素もなくし、つまらないものになっていった印象がありますが、第128回(2000年下半期)芥川賞を受賞した 大道珠貴「しょっぱいドライブ」は忘れられない作品です。
 その作品自体をというよりは、それが大道珠貴さんの作品だったからで、わたしの作品が平成11年度第31回九州芸術祭第30回文学賞地区優秀作に選ばれたとき、大道さんの「裸」と同じ最終選考の俎上にのり、大道さんはその作品でデビューされました。「しょっぱいドライブ」が芥川賞に与えた影響からすれば、大道さんの作品は純文学と大衆文学の間の垣根を完全に取り払ったということがいえるでしょう。
 そして、芥川賞に選ばれる作品は今や大衆文学でもないと思えます。面白さをプロフェッショナルに追求する大衆文学にもなりえていないからです。
 大手出版社の文学賞や話題作りが、日本の文学を皮相的遊戯へ、日本語を壊すような方向へと誘導しているように思えること、作家も評論家も褒め合ってばかりいること(リップサービスと区別がつかない)、反日勢力に文学作品が巧妙に利用されている節があること……そうしたことが嫌でも感じられ、長年文学の世界を傍観してきましたが、このまま行けば日本の文学は確実に駄目になってしまうという怖ろしさを覚えます。……(引用ここまで)

この文章を書いてから10年近く経ってしまった。三田文學は純文学の最後の砦だと思われるので、期待しているのだ。

● 浴雨

漁師父子の物語。高校生の子の進学問題を中心にストーリーは展開する。友人の視点で描かれる作品。

まず、変な文章が目につく。

例えば、近くに雷が落ちたときの描写だが、「強い光がその場の全員の目を焼いた」というと、全員が失明したかと思ってしまう(そうではない)。光が目を射た――であれば、強い光が目を照らしたという意味になる。

「涙が風に乗って後ろへ飛んでいく、それを目で追ったとき、」という表現は、現実にはありそうにない奇妙な光景である。

創作に必要な下調べをほとんどしていないことも、すぐにバレる。

漁業といっても沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業などがあるが、どれなのか。

漁法による分類では網漁業・釣漁業・雑漁業の3種に分けられるそうだが、どれの設定か? 

父親は何を獲っているのか? 逆にいえば、この情報があれば、作品に登場する島がどの辺りにある島か、読者に推測可能となる。島の描写はないといってよい。

それを曖昧にしなければならない理由は、作風からしてなさそうだ。単に作者が調べたり、取材に行ったりするのが面倒なだけだったと憶測する。

丁寧な取材ができれば、漁村の描写が加わって作品の説得力は増すだろうし、いくらか島を見下したような作者の意識が変化して別の展開となる可能性すら出てくる。

いずれにしても、嵐の前の漁師は大切な漁船を守るための対策で多忙に違いない。そんなときに、漁師父子の今更ながらの親子喧嘩は不自然である。

息子は嵐の中、飛び出していくが、そもそも風圧でドアが開かないのではないか?

漁師の息子は、映画を撮りたいから島を出て専門学校に行きたいようだが、父親の仕事にまるで関心がなく無知で、海岸で遊ぶ事しか知らない。

小遣いから買ったのか、大量のDVDを所有し視聴した形跡があるわりには鑑賞眼が育まれたふうでもない。お気に入りのDVDの内容も変だ。

DVDは明治時代の日本が舞台で、主人公は美しく、よく出来た娘。趣味は雨を浴びること。しかし、花魁みたいな髪型をして明るい黄色の着物を着て雨を浴びているとなると、世間では気が触れていると勘違いされるだろう(気が触れている設定ではなさそうだ)。

漁業の跡継ぎか進学か、そのような選択が成立しないほどのぼんくら息子には島を出て行って貰ったほうがむしろ親のためかもしれない。

親の育てかたが悪かったのか、息子自身の問題なのか、作品からはわからないが、ぼんくら息子に苦悩する父親の視点から描けば、それなりに面白い小説になるかもしれない。

しかし、作者としての客観性を持てず、ひたすら息子の心情に寄り添おうとする作者に、そのような作品を書くのは無理だろう。

もし創作を続けたいのであれば、読書から始めたほうがいいのではないだろうか。よい作品に感化されなければ、よい作品は書けない。

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2022年11月 7日 (月)

Mさん、お誕生日おめでとうございます

Mさん、お誕生日おめでとうございます


まずは達者でいてくださること。第二に、これまでとお変わりない歩調で、よい書き手を育ててくださることが望みです。

Truth is stranger than fiction. 英国の詩人バイロンのこの言葉「事実は小説よりも奇なり」をこのごろ頻りに思い出します。

日本は今後どうなるのだろう、果たして世界は……と考えるとき、ややもすれば暗澹とした気持ちになりますが、文学の灯火を守り続けていられるMさんに想いを馳せますと、安心立命が得られます。

日本では一般的に高齢者というと「65歳以上」とされることが多いそうです(法律によって高齢者の定義は異なるとか)。

だとすれば、Mさんは立派な高齢者であり、わたしはかろうじて高齢者ではありません。そして、わたしは世の中のことが漸くわかってくる高齢の域からこそが創作の本番だと思っています。

しかし、若い才能の発掘は大事ですね。Mさんの一年間の成果、あなたに見出された才能……未読だった作品をこれから読みます。

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2021年7月20日 (火)

日本色がない無残な東京オリンピック、芥川賞、医学界(またもや鹿先生のYouTube動画が削除対象に)。

無残な、日本色がない東京オリンピック!

無残な、赤い在日外国人村のイベントと化した芥川賞! 

わたしの怒り。

媚中派でいらっしゃる菅首相にツイートしても虚しいだけだが、それでもツイートしてみる。なぜなら……以下、ウィキペディアより引用(赤字引用者)。

ウィキペディア「財団法人」

公益財団法人
一般社団・財団法人法に基づいて設立された一般財団法人で、公益法人認定法に基づいて公益性を認定された財団法人を公益財団法人という。

独立した合議制機関の答申に基づいて内閣総理大臣又は都道府県知事の認定が必要となり、特定公益増進法人の一つとして一定の要件を満たす寄附金は、税額控除の対象となる。

カテゴリー「芥川賞・三田文學新人賞・織田作之助青春賞」の55件の記事
https://elder.tea-nifty.com/blog/cat23116495/index.html

無残な医学界、鹿先生のYouTubeの動画がまたもや削除対象に!

YouTubeはお客様の動画を削除いたしました
2021/07/19
JPSikaDoctor
https://youtu.be/wyWtDq1KpqA

 

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2021年3月29日 (月)

第164回芥川賞受賞作品、宇佐見りん「推し、燃ゆ」を読んで

この作品には、語り手を選択する時点での問題がある。呆れたことに、このことを指摘した選考委員はいない。

発達障害のある若い女性「あかり」が、一人称の語り手として設定されている。ここに無理がありはしないだろうか。

あかりに発達障害があると作中で明記されているわけではないのだが、高校中退に至る経緯や、「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの、知らないの。あたし普通じゃないんだよ」といった言葉などから、そのように推測できる。

わたしは作者が発達障害の持ち主ではないことを前提として話を進めるが、その場合、発達障害を持つ人物になりきるための困難さが伴う。

それを克服しながら創作を進めたとしても、書く内容にかなりの制限が加わってくることが予測できる。従って、発達障害のある人物を語り手とするには創作技法上のリスクが高いように思われるのだ。

発達障害は人によって症状は様々であり、個人差が大きいようだが、たまたま、娘の前職場での相棒――同僚――が発達障害の持ち主で、対応に苦慮していた娘から彼女の話をよく聞かされたため、わたしは期せずして発達障害の特徴を学習したのであった。

娘が当時、勤務していた病院にわたしは通院しており、その発達障害の若い20代の女性と接したことが何度かあるため、描写することはできる。発達障害を、ではなく、発達障害を抱えた彼女という人を描写することはできる。

これが家族とか友人であれば、当人が気づかない部分を克明に描写することも可能となってくるだろう。

そのような視点で――家族や友人、あるいは作者自らを語り手として――描くほうが主人公あかりを純文学的に深く扱えるのではないだろうか。

あかりに合わせた工夫なのか、雑然とした汚い――といっては語弊があろうが――文章がだらだらと続く中に、作者本来の文章かと思わせるカラーの異なる文章が混じるという違和感も、語り手の選択によってはなくすことが可能である。

純文学小説の持ち味である、文章の冴えを発揮するためにも、語り手の選択には慎重さが要求されるはずだ。

「原級留置」と言われた高校からの帰途で、あかりと母親は「実際には泣かなかったものの、二人とも泣き疲れたような顔をして歩いた」。落胆ぶりが鮮やかに表現されている。このような冴えた表現、彫琢した文章で作品を埋め尽くしてほしいものである。

「作者が発達障害の持ち主でない前提として話を進める」と冒頭で断ったのは、斑のある文章から作者があかりになりきれていないことが感じとれ、作者にはそうした障害はないに違いないと確信したためである。

尤も、作者本来の文章と思った部分に編集者の手が加わっていたとしたら、話は違ってくる。というのも、自身が発達障害であることを公表している小説家もおられるからである。まあ、インタビューからすると、完全な創作であるようだ。

病院勤めとなる以前には書店員だった娘がいうには、発達障害のある人物が登場するライトノベルは多いそうで、一種のブームを形成したという。

あかりは地下アイドルに夢中になっている。ここでも娘に教わった。地下アイドルとは、マイナーなアイドルのことらしい。作中では、友人成美の言葉を借りて、「触れ合えない地上より触れ合える地下」と解説されている。

娘の仕事上の相棒には、ほとんど崇拝といっていいような想いを向けている同性の友人がいた。元々彼女は美しい人が、あたかも美の象徴と捉えているかのように好きであり、美しい人には至極優しく接するという。そこに、同性愛――肉欲的――色彩はおそらくない。

観念的というか、精神至上主義的といえばいいのか、自身の気高い部分を託した存在とでもいうべきか。小学校高学年から精々中学1年くらいまでは、わたしにもそうした部分があった。

そのときとおそらくは同じで部分でわたしは、お亡くなりになった神智学の先生をご存命中と同じく敬愛し、霊感的に察知する萬子媛にもまた同様の想いがあるが、このかたがたは指針であり、理想像ではあるにしても、同じ女性としての経験から理想化もほどほどといった手加減が加わっているのである。

自分がなくしたものを彼女は思い出させてくれる。俗にいうなら、彼女は年齢より幼い印象を抱かせる。

病院の某科受付で彼女に接したとき、彼女のこうした精神傾向を垣間見た気がする。

初めて彼女に接し、娘がお世話になっている旨挨拶したとき、流し目でこちらを窺ってきた。「家政婦は見た!」というドラマを連想させるような、若い華奢な女性から勢い、おばさん臭さ、詮索臭さが匂って、それはそれは強烈な印象だった。

事務処理が済むのを――このときは娘が担当――受付で待っていると、ふと視線を感じた。彼女が離れたところからこちらをまっすぐに見ていた。

澄んだ、意志的なまなざしだった。一点の曇りも交えず、観察されていたに違いない。目が逸らされるまでのほんの一瞬のことだった。崇拝する女友達にはこの鉄壁な守りが花弁のようにほころびるのだろう。

わたしは『詩人の死』という日記体の短編小説を書いたことがある。障害を抱えた人の中にはこのような、ハッとさせられるまなざしを持つ人がいて、わたしが作品の中で詩人と呼んだ女性もそうだった。

健常人にはない類いの凝縮力、集中力、何か透徹した意識の存在が娘の仕事上の相棒と共通している。信頼できる、全身全霊を捧げ得る人を、彼女たちは血眼になって探してきたのだろう。

あかりのアイドルに対する想いには、そこまでのものはなく、もっとずっと俗っぽい感じを受ける。

わたしは娘の仕事上の相棒の内面世界に物書きとしての興味を持った。しかし、彼女は仕事上の相棒を次々と追い出す強者であり、一緒に取り組んだ「傾向と対策」のお陰か、あの病院で娘が彼女と最長期間を過ごした相棒となった。

一日でやめた人があり、「やめてほしい」と彼女に懇願した人があり、体調を崩してやめた人があり、といった具合だったのだ。契約期間が切れるころに転職先が見つかればいいと思っていた娘も結果的に――たまたま正社員の口があったからではあるが――、転職が早まったといえる。

感情の制御が効かないところがあって、そのとき彼女は小さな怪獣のようであるという。受付に気に入らない患者が来たあとは、紙をいつまでも切り刻んでいたり、ボールペンをノートに力任せに突き立てたり、汚い言葉を吐いたり、とめどなく自分のことをしゃべり続けたり………しかし、それは二人きりのときだけで、全く制御が効かないわけではないようだ。

一種の八つ当たりといえるのかもしれない。

受付の向こうでパソコンに向かっている彼女は背中がリラックスしていて、幸福そうに見えた。娘に、彼女は事務仕事が好きではないかと訊くと、得意だという。

一方的なことかもしれないが、受付の近くにいた間、わたしには彼女の感情がインスピレーションとしてよく伝わってきたのである。濁りのない意識、子供のように直情的だが、それこそが障害から来たものなのかもしれない。

前述したように、わたしは娘の仕事上の相棒の内面世界に物書きとしての興味を持ったが、小説「推し、燃ゆ」の語り手あかりには何の興味も持てなかった。

あかりという人物の輪郭がはっきりしない。作者に、それくらいの文章力しかないということである。

地下アイドルが引退するからといって、自分も「推し」(いわゆる、追っかけ)を卒業しなければならないと思うところに、わたしは異議がある。

選考委員の一人、吉田修一氏の「そもそも推しに依存して生きる人生の何がいけないのか、わからない」という言葉に同感である。

あかりにとって、「推し」に値するアイドルは、あくまで、「触れ合えそう」な存在でなければいけないということだろうか。娘の解説では「推し」には、地下アイドルを有名アイドルに育てる期待感も伴うものらしい。

いずれにせよ、あかりが執着した地下アイドルの描写はそれほど多いわけではなく、表現も陳腐で、あかり自身のことが雑な文章で延々と語られる部分が作品の大半を占めるため、読了するのが苦痛だった。

世慣れたおばさんが、趣味で――頭の中の整理がつかないまま――書いた小説のようだ。若い人の作品にしばしば秘められている、年寄りをときめかせるものがここにはなかった。

純文学的発見のないところに、純文学的収穫はなく、当作品を純文学小説と呼べるのか、わたしには甚だ疑問である。芥川賞は完全に村のイベントと化した。

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2020年5月 4日 (月)

第36回織田作之助青春賞 受賞作(丸井常春)『檻の中の城』を読んで。コロナ禍で人気の名作2編『ペスト』。

亀感想だが、自分のための覚え書きとして、簡単に感想をメモしておきたいと思う。

先に、第26回三田文学賞新人賞 受賞作(小森隆司)『手に手の者に幸あらん』を読んだ。

『手に手の者に幸あらん』は、純文学界でずっと流行が続いている作風で、南の国で行方不明になった熱帯植物研究会の副会長を務めている妻を探しに冒険の旅に出かけた男性を主人公とする冒険ファンタジー小説。

完全な空想小説でも、冒険小説でもない、曖昧な……ああ、またこの手の小説か、と思いたくなる作風だ。織田作之助青春賞とは異なり、応募者の年齢に幅のある三田文学新人賞。受賞者は応募時60歳とあり、年齢にふさわしい手練れの文章家である。

しかし、この作風ではその文章力がもったいない。純文学の書き手なら挑戦すべき内的探究をお預けにしたまま、ファンタジーに逃げているのが感じられるからだ。

純文学界に居座った集団マンネリズム。集団エゴイズムというべきかもしれない。それに忠実な作風で選考委員を安心させる者が仲間に加えられることが繰り返されてきた、純文学界の荒廃。仲間内で利益を分かち合うための巧妙な仕組み。

いつまでこれが続くのだろうか、許されるのだろうか? それに対する抵抗感よりも最近ではこの成り行きを見定めたい思いのほうが強くなった。

読者を内省の深みへと誘う小説と暇つぶしにしかならない小説とでは、月と鼈、生死を一つにする瞑想的読書と生死を分離させる単なる娯楽的読書との違いがある。

神秘主義者としていわせて貰えるなら、前者は後者に比べて、死後に味わえる世界が桁違いに違ってくるのだ、といいたい。なぜなら死後の世界とは、ある意味で、内的世界そのものだからである。

冒険小説といえば、イギリスの作家ダニエル・デュフォー(Daniel Defoe,1660 - 1731)の『ロビンソン・クールソー』には、子供のころ、夢中になった。

何回読み返したか、わからないほど。手に汗握るスリリングな場面は勿論好きだったが、子供のわたしに印象的だったのは、主人公が海亀の卵を料理して食べる場面だった。とてつもなく美味しそうで、食いしん坊のわたしはその場面を涎を垂らさんばかりにして読んだ。

横道に逸れるが、そのダニエル・デュフォーに『ペスト』という作品があるとは知らなかった。

清教徒革命を経て王政復古後のロンドンで1665年に流行し(en:Great Plague of London)、およそ7万人が亡くなった。1666年に大火(ロンドン大火)が起こり全市が焦土と化したことでノミやネズミがいなくなり流行は終息した。(後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年刊)という小説で当時の状況を克明に描いた)。
「ペスト」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2020年4月30日 10:51 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

ペストがロンドンで流行った年、デュフォーは5歳だから、丹念な取材と調査を基に書かれたのだろう。この小説がコロナ禍のわが国で人気だそうで、大層面白いらしい。

ペスト (中公文庫)
ダニエル デフォー (著), Daniel Defoe (原著), 平井 正穂 (翻訳)
出版社: 中央公論新社; 改版 (2009/7/25)

Kindle版の無料サンプルをダウンロードして読むと、畳みかけるような事実の報告と感じさせられる筆致に迫力があり、確かに面白そうだ。文庫本でも出ており、読みたい。

同じタイトルの小説に、フランスのノーベル文学賞作家アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)の『ペスト』がある。これを大学時代に読んだわたしがコロナ禍で思い出したのは、こちらの『ペスト』である。ペストのためにロックダウンされたオランの町が描かれている。

ペスト (新潮文庫)
カミュ (著), 宮崎 嶺雄 (翻訳)
出版社: 新潮社; 改版 (1969/10/30)

今回のコロナ禍でわたしが何よりも驚いたのは、日本人がかくも外向的な国民になってしまっているということだった。この国の人々は、以前はもっと内省的なところがあったのではなかったか。楽しみも喜びも、外部に求めることしか知らない、外部依存症ともいうべき状態に陥っているのではないか。

引きこもりはその裏返しともいえよう。

前述したように、読書習慣があったとしても、娯楽的読書に慣らされた人々にとっての読書体験は内的自己と深く関わることのないま終わってしまうため、外部依存症が強まるにすぎないのだ。

詰まるところ、この国の多くの人々が、自己の内面を見つめる習慣を終ぞ持たないまま死んでいくのだろう。

もしそうだとしたら、それは文学の責任といえる。衰えた宗教哲学のせいともいえよう。神秘主義者であり、世に知られることのない物書きの一人として、痴呆的になったこの国の前途をわたしは今、深く憂慮する。

カミュの『ペスト』は象徴性を宿したリアリズム小説といわれるが、デュフォーの『ペスト』と比較すると観念的といえる。だが、カミュの人間社会を見つめる目は鋭く、そこにカミュのリアリストとしての側面が感じられる。

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アルベール・カミュ(1957),出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

戦後、欧米の影響を強く受けた日本国民の姿は、カミュの描いたオラン市の人々に似ている。小説は次のように始まる。

ある町を知るのに手頃な一つの方法は、人々がそこでいかに働き、いかに愛し、いかに死ぬかを調べることである。われわれのこの小さな町では、風土の作用か、それがすべていっしょくたに、みんな同一の熱狂的でしかもうつろな調子で行われる。という意味は、人々はたいくつしており、そして習慣を身につけることにこれ努めているのである。(略)たしかに、人々が朝から晩まで働き、さてそれから、生きるために残された時間を、みずから選んでカルタに、カフェに、またおしゃべりに空費する光景ほど、こんにち、自然なものはない。しかし、人々がときおりはまた別なものの存在をそれとなく感じてもいるような、町や国もある。一般には、それが彼らの生活を変えはしない。ただ、それにしても感じることは感じたのであり、つねにそれだけの収穫にはなっている。オランはこれに反して、明らかにそんな感知など存在しない町、換言すればまったく近代的な町である。したがって、この町で人々が愛し合う、その愛し方を明確に描くことはかならずしも必要でない。男たちと女たちは、愛欲の営みと称せられるもののなかで急速に食い尽くし合うか、さもなければ二人同士のながい習慣のなかにはまりこむかである。(カミュ,宮崎訳,1969,pp.6-7)

長い脱線になった。

第36回織田作之助青春賞 受賞作(丸井常春)『檻の中の城』では、熊本地震がモチーフとなっている。

熊本地震(くまもとじしん)は、2016年(平成28年)4月14日(木)21時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生した地震。
気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜(前記時刻)および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生している。日本国内の震度7の観測事例としては、4例目(九州地方では初)および5例目に当たり、一連の地震活動において、現在の気象庁震度階級が制定されてから初めて震度7が2回観測された。また、熊本県益城町で観測された揺れの大きさは計測震度6.7で、東北地方太平洋沖地震の時に宮城県栗原市で観測された揺れ(計測震度6.6)を上回り、国内観測史上最大となった。また、一連の地震回数(M3.5以上)は内陸型地震では1995年以降で最多となっている。

「熊本地震 (2016年)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2020年4月16日 11:35 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

このとき、隣県に暮らすわたしのところも長期間揺れた。娘とわたしは寝室に寝るのが怖くて、すぐに逃げ出せるように玄関前の廊下に寝具を持ち込み、そこで2週間ほどだったか、寝ていた。

その後、熊本市に住む友達と会ったとき、マンションに入った亀裂の話を聞き、熊本城の写真を見せて貰った。熊本城の被災に対する彼女のショックは伝わってきたが、痛ましいお城の写真を目にしても、どこか他人事としてしか受け止められないことがもどかしかった。

『檻の中の城』にも被災した熊本城が登場する。

かつて緻密に並んでいたはずの石は崩れ落ち、意味を持たない塊[かたまり]となって散乱している。構造物という概念は失われ、まるで柄のないジグソーパズルのようだった。月明かりが瓦に鈍く反射して露呈した土塊[つちくれ]が輝く。そんな光景を包みこむように、春夜[しゅんや]の風が吹き抜ける。(三田文學2020年冬季号 №140,第36回織田作之助青春賞,196頁)

友人の見せてくれた写真よりも、この描写のほうが崩れた熊本城の雰囲気を伝えてくれる。冷たい石や土塊に触れ、それらの匂いを嗅いだような錯覚を覚えた。

作者はこのようなしっかりした文章が書けるのに、しばしば、稚拙な文章になる。冒頭でもそうで、読むのを止めようかと思ったほどだった。

ばあちゃんが、マンションの駐車場に集まる鳩に、パンくずをやっていた。その姿を見てホッとした。とても久しぶりの光景だったから。(三田文學2020年冬季号 №140,第36回織田作之助青春賞,193頁)

語り手の「タカ君」は小学生かと思っていたら、男子高校生なのである。そして、タカの祖母は「直角に曲がった腰」をし、「歯のない口」をしている。

老婆はこんなものだろうという既成の見方で設定された登場人物にしか思えないのは、熊本城に対するような独自の見方が欠落しているからだろう。

話もわかりづらく、短い小説ではそれは致命的である。

離婚している両親。タカは商社マンの父と暮らしていたが、小学二年生のときに父がアフリカのどこかに転勤になった。父は熊本の実家に息子を預け、ホームヘルパーを送り込んできた。

タカはヘルパーに対して、「祖父母に育てられた僕にとっては、キヨさんがお母さんみたいなもの」との思いを抱いているらしく、ガタイのよいキヨさんに違和感を抱くこともなかった。

しかし、キヨさんは実は男性であり、よくありがちなジェンダーの悩みを抱えてもいる。熊本城に過度に執着する祖母は、認知症の初期が疑われる状態にある。

熊本地震(熊本城)、ジェンダー問題、認知症といった今日的な材料を使って、作者がよくできた短編小説を書こうと頑張っているのが見てとれるわ、文章はしばしば稚拙になるわ、となると、うんざりしてしまう。

それでも読むのを止めなかったのは、4頁目に出てくる熊本城の描写に惹かれたからだろう。

そして、我慢して読んでいると、なぜタカが祖母ではなく男性であるキヨさんを母のように慕うのか、説得力があると思える場面に出くわした。

キヨさんは、濃やかな心配りをする人物として描かれている。それは気分的なものではなく、多分にプロフェッショナルな意識から来ている。タカの心情を汲み取る術に長けるキヨさんは、祖母のことでも優れた処理能力を発揮して彼の心配を和らげてみせる。

ヘルパーの中で一番優秀な人物を寄越させたのは、父だった。つまり、タカにとって冷淡に見えていた父がそうではないことがわかるようなストーリー展開となっている。

祖母は認知症の初期という要素があったとしても、あまりに地味で生彩を欠いている。それが祖母を差し置いて、キヨさんを母代わりとして立てるための作者の工夫なのか、単に描写力がないだけなのか、わたしにはわからない。

失恋したキヨさん、認知症の疑われる祖母、祖母の病気が気が気でないタカ。

それぞれに傷ついている三人は、熊本城が修復される様子をベランダから眺める。熊本城はこれまでに何度も壊れてきたのだが、その度に長い年月をかけて直してきたのだと祖母は二人に話して聞かせる。読者に希望を印象づける終わり方となっている。

モチーフにもテーマにも目新しいものは何もないのだが、作者が純文学界の集団マンネリズムに感染していないことが感じられた。それだけでも貴重であり、文体やストーリーの不安定さ、危うさが、逆に成長への期待を抱かせもする。

コロナ禍にあって、ほのかな希望の灯をともしてくれた作者に、文学愛好者の一人として感謝したい。

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2019年11月 7日 (木)

Mさん、お誕生日おめでとうございます

Mさん、お誕生日おめでとうございます

 

日本の文学のために、健康に気をつけて、よい書き手を育ててください。ご文運をお祈り致します。

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2019年8月15日 (木)

ツイッターで問題となっている、芥川賞候補作「百の夜は跳ねて」(古市憲寿)。8月15日に追記あり、赤字。

芥川賞候補となった古市憲寿「百の夜は跳ねて」がツイッターで話題になっていました。

古市氏の小説の最後に「参考文献」として、『文學界』2012年10月号に掲載された木村友祐氏の短編小説「天空の絵描きたち」が挙げられているそうです。

誰かの小説を読んで、その中の素材に興味を持ち、自分で調べ直して独自の小説を書くということはあると思いますが、その場合、資料として挙げるのは小説ではなく、調べた文献なのではないでしょうか。

以下の、参考にされた小説の作者・木村友祐氏のツイートによると、木村氏が古市氏に窓拭きの達人を紹介したそうなので、その取材をもとに独自の書き方がなされていれば、問題ないはずです。

しかし、選考委員たちの書きぶりからすると、文章表現などのオリジナルな部分が参考に、というより盗られていることを疑います。以下の記事が参考になります。

【追記あり】古市憲寿さんが芥川賞選考委員にいろいろ言われちゃってる件」『はてな匿名ダイアリー』。2019年08月12日、URL: https://anond.hatelabo.jp

わたしは以前から、直木賞作家・恩田陸氏が得意としている「オマージュ」というフランス語でごまかしたパクリに似た手法に疑問を抱いてきました。純文学界にもその手法が「導入」されたのではないかと危惧します。

尤も、文学賞が文学性を競うものではなく、アイディア戦になり下がったのは随分前からのように記憶しています。

2011年8月 8日 (月)
文藝春秋「文學界 平成二十三年八月号」 ‐ 「新人小説月評」に対する私的不信感
https://elder.tea-nifty.com/blog/2011/08/post-723d.html

わたしが「新人小説月評」に関する前掲記事の感想を書いたのが2011年。古市氏に参考にされた木村氏の短編は、2012年の掲載です。同じ商業雑誌『文學界』。

今回の件から、左派に牛耳られた文学界では才能のある作家がなかなか世に出られないだけでなく、その作家たちは飼い殺されて、防衛本能すらなくしているのではないかという別の危惧も生じました。

追記: 木村氏のツイッターを閲覧させていただくと、集英社、新潮社、未来社などの有名出版社から5冊ほども出版しておられました。報われない才能ある普通の日本人作家が世に出られないまま飼殺されて、防衛本能を失くしているのかと勝手に妄想していました。そんな日本人作家を複数知っているものですから、つい。いずれにしても、作品も読まずに、申し訳ありませんでした。こういういい方は語弊があると思いますが、仲間内での出来事であった様子が窺えました。左派村では安倍総理は本当に人気がありませんね。

そういえば、2018年の第159回芥川賞(平成30年上半期)の候補作になった北条裕子『美しい顔』にも盗作疑惑があったような……

2018年、小説『美しい顔』で講談社の第61回群像新人文学賞を受賞。この作品は第159回芥川龍之介賞の候補にも選ばれたが、主要な参考文献を明記しておらず、他の作家の先行作品と類似している箇所が複数あることが指摘され、謝罪文と参考文献が『群像』2018年8月号に掲載されることとなった。
「北条裕子 (小説家)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2018年11月6日 18:09 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

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2019年8月 7日 (水)

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」中止のその後 その5。津田氏のゲンロン仲間、東浩紀氏は「文學界」(文藝春秋)新人賞の選考委員。

カテゴリー「あいちトリエンナーレ」

これはツイッターにも書いたことですが、「あいちトリエンナーレ」津田大介氏(芸術監督)のゲンロン仲間である東浩紀氏は、何と「文學界新人賞」(文藝春秋)の選考委員です。ずっと購読していなかったので、これまで気づきませんでした。

言論をゲンロンとカタカナ書きにしたのは、揶揄しているわけではありません。

ウィキペディア「ゲンロン」によると、2010年東浩紀氏は、インテリアデザイナーで建築家の浅子佳英、空間デザイナーの李明喜らと共に東京都新宿区四谷に合同会社コンテクチュアズ(Contectures, LLC.)として設立しており、2011年に代表に就任、2012年に株式会社ゲンロンに社名変更、社外取締役として津田大介・福嶋麻衣子を迎えています。

「文學界新人賞」を受賞した作品の多くが芥川賞候補になります。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われるからです。

一昔前、「文學界」には、およそ文学的でない左翼知識人である柄谷行人の論文がよく載っていて辟易させられました。東浩紀氏はその柄谷氏の出来の悪い弟子らしいですね。その頃「文學界」では、すさんだ作風の在日文学も大流行りで、これにも辟易させられ、わたしは定期購読をやめました。

細井秀雄氏が編集長だったころは、文芸評論家であり保守論客であった江藤淳氏の作品がよく掲載されていました。江藤淳『占領軍の検閲と戦後日本 閉された言語空間』(文春文庫 - 文藝春秋、1994)は日本人必読の書です。

その細井氏から、「九州芸術祭文学賞」で地区優秀作をとったわたしの作品について、懇親会の席でですが、「ああいったことは書かんがいい」と忠告されました。大したことは書いていなかったんですけれどね。その後、「織田作之助賞」で最終候補になったときの懇親会だったか、その席で「今後は児童文学作品を書こうと思っています」というと、心底ホッとした表情をなさいました。

そのころは、文學界の舞台裏をろくに知りませんでした。文学仲間を通して情報を集めた今では、下手に賞なんかとらなくてよかったと思っています。尤も、才能に乏しいので、その心配はいらなかったのでしょうが。

現在、純文学界に在日コリアンでも帰化人でもない日本人作家は何割くらいいるのでしょうか、疑問です。

最近では特に、日本文化を貶めているとしか思えない、文学作品の体すら成していない作品が芥川賞をとる傾向にあります。日本人であろうと、外国人であろうと、日本文化を愛する人間にはとても作りえないようなストーリー、無神経な表現が頻出しています。

前出の細井氏は現在、平山周吉という筆名で、作家活動をなさっているようです。アマゾンに読んでみたいと思う作品がありました。幸い図書館にあるようなので、借りて読んでみたいと思います、購入するには、専業主婦のわたしには高価ですから。3,996円。

江藤淳は甦える
平山 周吉 (著)
出版社: 新潮社 (2019/4/25)
ISBN-10: 4103524715
ISBN-13: 978-4103524717

今思えば、江藤淳氏が生きていらしたころは、文学界、日本の言論空間は、まだしもまともでした。

次のツイートで紹介されている動画内容は結構怖い、その次のツイートで出ている情報にはなるほどねと思わせられます。

こうした人々に好き放題されたら、日本は本当に日本ではなくなってしまいます。

芸術家でない大したキャリアもない津田氏がなぜ、こんな大役を任せられたのでしょうか? 反日ネットワークの存在を考えれば、別に不思議ではない気もしますが、武田邦彦氏の語る動画が出てきました。

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2019年7月21日 (日)

第161回(2019年上半期)芥川受賞作家、今村夏子の文学的成立条件を欠いた世界

以下の過去記事で、第159回(2018年上半期)芥川賞を受賞した 高橋弘希「送り火」の感想の続きを書きかけ、放置してしまっていた。

2018年9月 3日 (月)
リンチを遊びとすり替える芥川賞受賞作家。それは犯罪者心理だ(作品「送り火」を文章から考察する)。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/09/post-fdd8.html

感想の続きを書くには作品を読み返すことが必要だったが、作中の凄惨な場面を思うと、読み返すことがわたしにはできなかった。

第160回(2018年下半期)の上田岳弘「ニムロッド」、町屋良平「1R1分34秒」は読んでいない。

第161回(2019年上半期)の芥川賞が7月17日、今村夏子「むらさきのスカートの女」に決定した。

そのうち図書館から借りて読むつもりだったが、書店に出かけたら、今村夏子氏の単行本『父と私の桜尾通り商店街』から2作品を収録した「take free」の小冊子が置かれていた。

いただいていいのでしょうか、と心弾む思いで清算カウンターで尋ね、どうぞ、との返事を貰い、小冊子を持って帰った。

芥川賞受賞作には失望することの連続だったが、もしかしたら名作、あるいは名作とはいえないまでも光る鉱石のような作品に出合えるかもしれないという期待は、常にある。

小冊子に収録されているのは、単行本収録作品「白いセーター」「ルルちゃん」「ひょうたんの精」「せとのママの誕生日」「モグラハウスの扉」「父と私の桜尾通り商店街」のうち、「ひょうたんの精」と「父と私の桜尾通り商店街」である。

簡単な感想を書いておく。一部ネタバレありです、未読のかたはご注意ください。

ひょうたんの精

登場人物の内面が描かれない。掘り下げられない。背景描写もほとんどない。

ストーリーだけで成立させようとした小説で、作者が手の内を明かさないというただそのことで、作品を謎めいて見せる詐欺まがいの手法がとられている。

唯物主義的価値観が生んだ索漠とした、登場人物が作者に操られるだけの世界。

登場人物は狂言回し的に利用されているだけである。

もはや文学とも思えない。

なるみ先輩という主要人物は、超がつくくらいの「すごいデブ」だった。その後、一時期は「チアリーダーいち美人でスレンダー」だったのだが、現在は一般的「すごいデブ」である。

「チアリーダーいち美人でスレンダー」だった一時期というのは実は、なるみ先輩が寄生虫としかいいようのない「七福神」に寄生された不健康な時代だった。しかし、一方では、その時期はチアリーダーとして輝いてもいられた健康な時代だったともいえる。

作者は、スト―リーを自分に都合よく進めるためか無意識的にか、健康と不健康を混同させ、論理的整合性を無視している。

「大玉ころがしをする」大玉に譬えられるほど太っていた、なるみ先輩。その異常な太りかたは、わたしのような医学に無知な人間にも、あるホルモン系の病気を真っ先に連想させる。

病的なほどではない太りかたであれば、栄養の偏りやストレスなどを原因として考える。

だが、この短編の世界で、医学的観点や医療、現実的なダイエット法などが登場人物にもたらされることはない。

もたらされるのは、七福神グッズの装いの凝らされた寄生虫である。それをもたらしたのは、蝉を常食する、ホームレスとも見なされる神社の女性「住職」である。

その寄生虫を、ネットの知識から得た文言によって駆除することで、なるみ先輩は不健康な「スレンダー」から一般的「すごいデブ」にまで太り具合を回復する。

小説の最後で作者は、痩せた人間はあたかもこの寄生虫に寄生された不健康な人間であるかのような見方をオチとして用意している。

作者のお手軽なオチは一方的に読者に押し付けられるだけなので、それを何らかの象徴的考察や警告、ましてやユーモアと捉えるには内容があまりにも薄っぺらで一方的で、説得力をもたらす展開が完全に欠落している。

作者がただ書きたいことを書いているとしか捉えることはできず、文学作品としての成立条件をさえ欠いているように思える。趣味の世界といえばいいのだろうか。

父と私の桜尾通り商店街

「父と私の桜尾通り商店街」も「ひょうたんの精」と同工異曲の小説だった。

感じのよい新しいパン屋さん(女性)は、おそらく、古くからのパン屋であった父を亡くした娘(主人公であり語り手でもある)がアルバイトに応募すれば、採用するだろう。

そして今後、新しいパン屋さんは主人公にストーカーされ続ける運命を辿るのだろうか……

何しろ、「ストーカー規制法」も警官も存在しないのではないかと思わせられる、天意も正義も真の人情も存在を許さない、作者の都合で操作されるだけの人工的世界なのである。

この、最後で足をひっかけられるような、底意地の悪い結末を読んだあとに作者、今村夏子氏の記者会見を視聴すると、芥川龍之介の作品を読んだことがないという彼女の無邪気な文学的無知は、もしかしたら、無知に見せかけた、意図的な芥川の権威落としではないか――という、穿った見方もできるような気がする。

両作品には「いじめ」の問題がまぎれもなく存在している。しかしながら、作者は「いじめ」に光を当てようとはしていない。逆に、いじめの世界を作り出すことに執心している。嬉々として。これが文学だろうか。

芥川賞受賞作品「むらさきのスカートの女」を図書館から借りる気がしなくなった。

芥川賞は、どこまで日本文学の伝統を破壊するつもりなのだろうか。知的、精神的に低下しつつある日本人にわが国の文学界の与えるものが七福神の装いを凝らした寄生虫では……

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