第29回三田文學新人賞 受賞作鳥山まこと「あるもの」、第39回織田作之助青春賞 受賞作「浴雨」を読んだ。
● あるもの
主な登場人物は、堀内、桑原さん、有村さん。
介護職から事務職兼町民支援センターの通称「町の何でも相談係」に転職した女性――堀内の視点で作品は描かれる。
彼女には、ずっとこの田舎町で生きてきた課長にも同僚達にも見えない巨大な塔が見えるという設定。塔は、日常生活という結界を越えた区域に存在し、長尾山トンネル、いくつもの里山を過ぎた集落の広大な田畑の先に聳えている。
堀内は子供のいない中年女性で、夫がいる。家庭生活は申し訳程度に出てくる。塔が見える以外は、彼女は常人という印象である。
デスクワークに優れ、クールな男性――桑原さん。あらゆる空間に観葉植物を置くことのできるスマホアプリの栽培ゲームに熱中している。アプリを通して本来はそこにないはずの観葉植物を見る桑原さんに堀内は期待を寄せ、機会をつくって一緒に塔を見に行くが、残念ながら桑原さんには見えない。
堀内が「町の何でも相談係」として担当している70代の女性――有村さん。視力と記憶力の衰えを自覚している。町内の至る所に土地を所有する、町では有名な地主。
「有村さんにも子供がいなかった」という記述からすれば、夫に先立たれたのだろうか。
一人暮らしかどうか、一人暮らしであれば安全に生活できるレベルがどうか……それは支援センターの役割としては重要な情報だと思われるが、その辺りがぼかして描かれているために、読みながらわたしは苛々した。
有村さんは昔話をして、その中に出てくる思い出の場所がどうなっているか見てきてほしいと堀内に依頼する。同様の依頼が何件も溜まっていく。そうした場所は一つとして見つからない。なぜか堀内と有村さんが一緒に確認に出かけることはない。
ここで、私事になるが、最近、長崎在住の従兄――わたしとは親子ほど年齢差がある――が惚けてきたようだ。
妹である従姉の話によると、とうの昔に更地にして駐車場にしている佐賀の生家跡だが、従兄の「現実」ではまだ生家があって、そこに在りし日の家族――健在である従姉も含まれる――が住んでいるのだという。
従姉がいくら本当の「現実」を説いても通じず、長崎から佐賀まで彼の「現実」を確かめに来たそうだ。
戦後、満鉄に勤務していた従兄の父親は引き揚げて来る途中で妻を亡くし、幼い兄妹が残された。数年後に再婚した父親は慣れない炭鉱の仕事が応えて病み、亡くなった。従兄姉には義理の妹ができていた。
中学生だった従兄は「なぜ俺を残して死んだんや」と号泣したという。従兄の生家には、まだ未婚だったわたしの母が一緒に暮らしていた。従兄の父親は長男で、母は末っ子だった。従兄は母を姉のように慕っていた。
母の姉(従兄からいえば伯母)夫婦も満州からの引き揚げ組で、夫は三菱の商社マンだったが、脱サラして満州で手広く製麺業を始め、大成功していたという。その伝手だったのか、中学を卒業した従兄は長崎にある三菱の会社に入社した。
中学卒で苦労したとは思えない品のよさ、頭のよさを感じさせた従兄。海外からのお客を英語で案内するのが苦手だと語っていた。社交ダンスが趣味で、達筆だった。年賀状が来なくなったので、従姉に電話して事情を知った。
義理の母と妹達を生家に残して就職した従兄は、後ろ髪引かれる思いだったろう。その頃の記憶が、認知機能の衰えていく中で強く甦ってきたのではないだろうか。
せつない話で、有村さんの「現実」を読みながら従兄のことを連想した。有村さんは現在、天涯孤独なのだろうか? その辺りの情報が読者に何も与えられない不自然さがある。
いずれにせよ、昔話のこと以外にも有村さんの物忘れは度を越している。受診を勧めて、一人暮らしであれば、それが可能かどうか確認するくらいのことは、支援センターであれば、するのではないだろうか。
心情的に共感を覚え、寄り添っていればいいというものではないだろう。
しかし、相手が認知機能に問題のある人物であったとしても、これまで主人公にしか見えなかった塔が有村さんにも見えた、という話の流れである。そのために、作者は有村さんが必要だっただけなのかもしれない。
限られた複数人に見えるということであれば、それは現在の自然科学では合理的な説明のできない、いわゆる超常現象の類いか?
その人にしか見えないのであれば、幻覚だろう。
有村さんは堀内の話に合わせて妄想を膨らませているだけかもしれない。有村さんの塔は夜になると光るという。
堀内はついに塔が現実にあるのか、確かめに行く。塔はあった。しかし、光るような設備はない。
塔を出た堀内は「この塔は私にしか見えない塔なのだとしたら、有村さんにしか見えない塔もどこかに立っているのかもしれない」と結論づける。
作者には文章力があり、応募時30歳とは思えない成熟度を感じさせる。有村さんの昔話もよく書けている。
ただ、万人受けするようなパーツを集め器用に組み立てただけで終わっているような読後感で、そこが残念だ。
塔は何の象徴だろうか? それには、面倒でも堀内の現在の家庭生活に踏み込まなければだめだろう。
いつ頃からか、このような、純文学小説の体裁を整えた、空疎な作品が多く発表されるようになって、受賞するのは大抵このような作品である。
分岐点は、大道珠貴さんが芥川賞を受賞したあのころだったとわたしは考えている。2014年に出した拙Kindle本『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む 2007 ―2012』の「はじめに」でわたしは次のように書いた。
(引用ここから)……純文学は次第に伝統性も、真の意味での実験的要素もなくし、つまらないものになっていった印象がありますが、第128回(2000年下半期)芥川賞を受賞した 大道珠貴「しょっぱいドライブ」は忘れられない作品です。
その作品自体をというよりは、それが大道珠貴さんの作品だったからで、わたしの作品が平成11年度第31回九州芸術祭第30回文学賞地区優秀作に選ばれたとき、大道さんの「裸」と同じ最終選考の俎上にのり、大道さんはその作品でデビューされました。「しょっぱいドライブ」が芥川賞に与えた影響からすれば、大道さんの作品は純文学と大衆文学の間の垣根を完全に取り払ったということがいえるでしょう。
そして、芥川賞に選ばれる作品は今や大衆文学でもないと思えます。面白さをプロフェッショナルに追求する大衆文学にもなりえていないからです。
大手出版社の文学賞や話題作りが、日本の文学を皮相的遊戯へ、日本語を壊すような方向へと誘導しているように思えること、作家も評論家も褒め合ってばかりいること(リップサービスと区別がつかない)、反日勢力に文学作品が巧妙に利用されている節があること……そうしたことが嫌でも感じられ、長年文学の世界を傍観してきましたが、このまま行けば日本の文学は確実に駄目になってしまうという怖ろしさを覚えます。……(引用ここまで)
この文章を書いてから10年近く経ってしまった。三田文學は純文学の最後の砦だと思われるので、期待しているのだ。
● 浴雨
漁師父子の物語。高校生の子の進学問題を中心にストーリーは展開する。友人の視点で描かれる作品。
まず、変な文章が目につく。
例えば、近くに雷が落ちたときの描写だが、「強い光がその場の全員の目を焼いた」というと、全員が失明したかと思ってしまう(そうではない)。光が目を射た――であれば、強い光が目を照らしたという意味になる。
「涙が風に乗って後ろへ飛んでいく、それを目で追ったとき、」という表現は、現実にはありそうにない奇妙な光景である。
創作に必要な下調べをほとんどしていないことも、すぐにバレる。
漁業といっても沿岸漁業、沖合漁業、遠洋漁業などがあるが、どれなのか。
漁法による分類では網漁業・釣漁業・雑漁業の3種に分けられるそうだが、どれの設定か?
父親は何を獲っているのか? 逆にいえば、この情報があれば、作品に登場する島がどの辺りにある島か、読者に推測可能となる。島の描写はないといってよい。
それを曖昧にしなければならない理由は、作風からしてなさそうだ。単に作者が調べたり、取材に行ったりするのが面倒なだけだったと憶測する。
丁寧な取材ができれば、漁村の描写が加わって作品の説得力は増すだろうし、いくらか島を見下したような作者の意識が変化して別の展開となる可能性すら出てくる。
いずれにしても、嵐の前の漁師は大切な漁船を守るための対策で多忙に違いない。そんなときに、漁師父子の今更ながらの親子喧嘩は不自然である。
息子は嵐の中、飛び出していくが、そもそも風圧でドアが開かないのではないか?
漁師の息子は、映画を撮りたいから島を出て専門学校に行きたいようだが、父親の仕事にまるで関心がなく無知で、海岸で遊ぶ事しか知らない。
小遣いから買ったのか、大量のDVDを所有し視聴した形跡があるわりには鑑賞眼が育まれたふうでもない。お気に入りのDVDの内容も変だ。
DVDは明治時代の日本が舞台で、主人公は美しく、よく出来た娘。趣味は雨を浴びること。しかし、花魁みたいな髪型をして明るい黄色の着物を着て雨を浴びているとなると、世間では気が触れていると勘違いされるだろう(気が触れている設定ではなさそうだ)。
漁業の跡継ぎか進学か、そのような選択が成立しないほどのぼんくら息子には島を出て行って貰ったほうがむしろ親のためかもしれない。
親の育てかたが悪かったのか、息子自身の問題なのか、作品からはわからないが、ぼんくら息子に苦悩する父親の視点から描けば、それなりに面白い小説になるかもしれない。
しかし、作者としての客観性を持てず、ひたすら息子の心情に寄り添おうとする作者に、そのような作品を書くのは無理だろう。
もし創作を続けたいのであれば、読書から始めたほうがいいのではないだろうか。よい作品に感化されなければ、よい作品は書けない。