急性の書きたくない病に罹った昨日とバルザックの悲鳴。スタインベック『白いウズラ』を読んで。
昨日は、2ヶ月で完成させ、120枚となる予定の児童文学作品のメモの整理とプロット設定に入るはずだった。ところが、急性の書きたくない病に罹り、サボった一日……そのとき、バルザックを連想したのは僭越な話だが、過激な執筆の合間に書かれた悲痛な手紙を思い出して、あのバルザックも人間だった、と自らを慰めたのだった。
現在のわたしにとって、書いていられる時間というのは、かけがえのないものであることを実感していながら、書きたくないときは書きたくないのだ。いくら赤ん坊が可愛くても、ときには育児から解放されたいと思う母親の気持ちと似たようなものだろう。まだ、疲れがとれていないせいかもしれない。
そういえば、女性革命家として有名だったローザ・ルクセンブルクは、疲れたら、一層働くことで疲れを癒したそうだ。ローザは革命の闘士とは思えない繊細な感受性を持ち合わせた人で、獄中で、自然や人生の機微に触れた数々の美しい手紙を書いた。
バルザックの話題に戻り、悲痛な手紙の文面をクルティウス『バルザック論』(大矢タカヤス監修,小竹澄栄訳、みすず書房、1990年)から抜書きしておきたい。
- 私には生活する暇がありません。
- 彼は日夜働いているのだと、ご自分にいい聞かせてください。そうしたら、ひとつのことにだけ驚かれるでしょう。私の死亡通知がまだ届かないこと。
- 私はペンとインクに繋がれた、ガレー船の奴隷なのです。
- 私は、人間と事物と私との間に繰り広げられるこの果てしない闘いに疲れきってしまいました。
- 私はペンとインクに対する恐怖症です。それが昂じて肉体的苦痛を感ずるまでになりました。
- (坐ったきりの生活のおかげで、彼は太った。すると、新聞がこれをからかった。)
これがフランスです。美しいフランスです。そこでは仕事が原因で振りかかった不幸が嘲笑されるのです。私の腹が笑い物になっています! 勝手にするがいい、彼らにはそれしか能がないのですから。 - 私は知性の戦闘のさなかに斃れるでしょう。
- 私はまるで鉛球に鎖で縛りつけられた囚人のようです。
- 私の望みは柩に入れられてゆっくり休息することだけです。でも仕事は美しい経帷子です。
- 私の生活は、ただ単調な仕事一色に塗り潰されています……時折私は立ち上がり、私の窓を士官学校から……エトワール広場まで埋め尽くしている家々の海原を眺めます。そうして一息つくと、また仕事にかかるのです。
- 仕事がきっと私の生命を奪ってしまうだろうと、私は確信しています。
- 今や私は、全く実りなき仕事に十年間をつぶしてしまったのです。もっとも確実な収穫は、中傷、侮辱、訴訟等々。
- 絶え間なく、そして次第に烈しさを増す我が伴侶、窮乏夫人の抱擁。
- 神よ、私のための人生はいつ始まるのでしょう! 私は今日まで誰よりも苦しんできたのです。
- 私は自分に暗澹たる運命を予見しています。私は私の望みの一切が実現する日の前日に、死ぬことになるでしょう。
- そうです、自分の体全体を頭に引きずり込んでおいて、罰を受けずにいる者はいません。私はただただそう痛感するばかりです。
- 私はもう自分の状態を、疲労とはいえません。私は文章作成機になってしまいました。私は自分が鋼鉄製のような気がします。
- 私はもう一行も頭から引き出せません。私には勇気も力も意欲もありません。
いつも陽気だったといわれるバルザックが人知れず上げ続けた悲鳴。悲鳴を上げてやめるのではなく、悲鳴を上げながら書き続けたところがあっぱれだ。彼が天才であったことは間違いのないところだが、手紙の悲鳴からは、あの超人的な仕事が凄まじい自己犠牲によって成し遂げられたものであったのだとわかる。
バルザックの崇高な仕事に比べたら、わたしの書くものは「へのへのもへじ」の段階にすぎないが、それでも書くことが遊びとしか認められていないことには異議があり、世に出られない不満からゴミ箱のために書いているのではないと誰かにいいたくなることがあるが、ゴミ箱行き程度でしかないのだろうかとふと思うこともある。
でも、バルザックを想えば、諸々のことがただ恥ずかしくなり、さあ書こうと思うだけだ。
昨日気晴らしに、ポプラ社から出ている「百年文庫 15 庭」に収録されたスタインベックの『白いウズラ』を読んだ。同じものが他の人の訳で岩崎書店「ジュニア版 世界の文学4 赤い小馬」に収録されていて、昔読んだ記憶がぼんやりとあった。
中学生にはわからなかったのではないだろうか。『赤い小馬』のほうがわかりやすかったせいか、印象に強い。ただ『白いウズラ』が深みのある作品だということはわかり、大学に入ってから、スタインベックに熱中した一時期があった。
ネタバレになるが、粗筋をいうと、メアリーは家を持つ前から自分の庭についてあれこれ考え、細かなところまでイメージを作り上げてしまっていた。それは楽しみの域を超え、彼女の内なる生命の象徴となるほどだった。結婚相手の選択についても、庭がその男性を気に入るかどうか、庭にとって男性がふさわしいかどうかが重要だった。
結婚して実際に庭を持ったメアリーは寛大な夫ハリーに見守られて、庭作りを完璧に行う。メアリーの空想の中では、芝生の端に一列に植えられたフクシアは、外敵から庭を守る役割を果たすことになっていた。無数の妖精が庭の空気を変えていると想い、小鳥たちのために作った池に白ウズラが混じってやって来たことに過度の意味づけをなす。
「あれは私のエキス、完全な純粋さまで煮詰められたエキスよ。ウズラの女王にちがいないわ。あのウズラは、これまで私の身に起きたすべてのすてきなことをひとつにしてくれたのよ」
「これはすべてが美しかったころの私なの。これは私の中心、私の心なの」
と思うのだ。
ハリーには白ウズラがアルビーノ(白子)の普通のウズラにしか見えない。そんなとき、庭に猫が侵入した。彼女はヒステリーの発作を起こす。ハリーに猫の毒殺を頼む。夫は空気銃で脅すだけにしたいという。
だが、メアリーはあくまで殺してほしいのだ。というのも、白ウズラは彼女だったのだから。猫はメアリーを狙い、殺そうとしていたのだから、毒をしかけてほしいのだという。ハリーは早朝に空気銃で猫に痛い目をあわせてやると約束して、何とかなだめる。
翌朝、ハリーは庭に出た。庭に降り立った小さな茶色い一団の中に白いウズラが混じっていた。ハリーは銃を持ち上げ、何と白ウズラを狙い――殺すつもりではなかったが、結果的に殺してしまい、死んだウズラを埋めた。
メアリーは白いウズラが殺されたことには気づいていない。ハリーが自責の念に駆られるところで物語は終わっている。
1935年に書かれたとは思えない、現代的なセンスの短編ではないだろうか。結婚以前から病的な何かがメアリーには潜んでいる。結婚生活がそれを助長した。伏線がさりげなく張られているところにスタインベックの確かな手腕を感じさせる。例えば、贈り物というものは見かけほどではないものだと考えてしまう癖があるとか、ハリーの仕事をメアリーが気に入ってなさそうといったようなことだ。
短編小説として完璧だと思う。しかし、バルザックを読み馴れたわたしには物足りなさがある。バルザックであれば、現象を描写することでは終わらず、不幸な人々の原因を何とか探ろうとしたに違いない。
そして、メアリーとハリーの個人的な特徴の分析を生い立ちから始めて、2人が属する地域全体の歴史、当時のアメリカ社会の病巣に至るまで、様々な角度から分析してみせただろう。また、悲劇性の中にも、人間的な温もりのある滑稽味を見つけ出して微笑ませてくれただろう。
わが国の現代小説は、よく書けていてもスタインベック的なアメリカ文学風なものが多い。袋小路で終わるのだ。尤も、スタインベックほど完璧には書けないからか、あるいは袋小路が息苦しいからか、壊せばよくなると思っているかのように、壊したり寄せ集めたりすることに夢中なお子さまな文学となっている。
スタインベックのような小説のよさは勿論あるけれど、今こそもう一度バルザックのような小説の書き方に注目すべきときが来ているのではないかとわたしは思う。バルザックの書き方を学ぶのは苦労、というより不可能に近い大変さがあるに違いない。それでも、突破口はバルザックのような書き方にしかない気がする。
これから来年の9月までは児童文学作品に熱中することになるが、それが終わったら、一度小説を書こうと思う。
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