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2018年10月10日 (水)

シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書

10月5日に「アルベール・カミュのシモーヌ・ヴェイユに関する文章」というタイトルの記事をアップしましたが、ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に収録するに当たり、大幅に加筆を行いましたので、過去記事を削除し、前掲ブログにアップしたエッセー 86 「シモーヌ・ヴェイユと母セルマとガリマール書店の〈希望〉叢書」を転載します。

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シモーヌ・ヴェイユ(不詳)
出典:Wikimedia Commons

図書館から借りた『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に、アルベール・カミュがシモーヌ・ヴェイユに関して書いた短い文章が収録されていた。

アルベール・カミュ(Albert Camus,1913 - 1960)はフランス領アルジェリアの出身で、純文学小説『異邦人』、哲学的エッセー『シーシュポスの神話』で有名になったフランスの作家である。カミュは不条理という言葉を『シーシュポスの神話』で鮮烈に用い、その後、この言葉は実存主義の用語となった。不条理とは、人間存在の根源的曖昧さ、無意味さ、非論理性に由来する絶望的状況を意味する言葉とされる。

わたしの大学のころ――40年ほども昔の話になる――には、第二次大戦後にフランスからサルトルなどによって広まった実存主義はまだ流行っていた。

否、今でも哲学的主流はこのあたりに停滞していて、現代哲学は唯物論に依拠して局部的、細部的分析に終始しているのではないだろうか。

カミュは自分では実存主義者ではないとしているが、その思想傾向からすれば、実存主義者に分類されていいと思われる。

カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909 - 1943)はパリでユダヤ系の両親から生まれ、晩年、キリスト教的神秘主義思想を独自に深めていったが、しばしば実存主義哲学者に分類される。だが、そのシモーヌも、ジャン・ヴァールへの手紙で次のように書いて、実存主義に警戒心を抱いていたようである。シモーヌ・ペトルマン(田辺保訳)『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』(勁草書房、1978)より、引用する。

<ここから引用>
わたしは、《実存主義》的な思想の流れは、自分の知るかぎりにおいて、どうやらよくないものの側に属するように思えますことを、あなたに隠しておくことができません。それは、その名が何であれ、ノアが受け入れ、伝えてきた啓示とは異種の思想の側に、すなわち、力の側に属するように思われます。*1
<ここまで引用>

実存主義はマルクス主義の影響を受けた思想で、唯物論的であり、マルクス主義の流行とも相俟って一世を風靡した。しかし、一端、唯物論的袋小路へ入り込んでしまうと、自家中毒を起こし、下手をすれば阿片中毒者のような廃人になってしまう危険性さえある。

村上春樹のムーディ、曖昧模糊とした小説はこうした不条理哲学の子供――ただし、カミュの作品が持つ聡明さ、誠実さを欠いた子供といえる。戦後、日本はGHQによる洗脳工作(WGIP)や公職追放*2などもあって、唯物主義、物質主義が優勢となったのだった。

わたしが「カミュに発見されたといってよい女性哲学者シモーヌ・ヴェイユ」と先に述べたのは、シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』(勁草書房、1976)の訳者あとがきで述べられている、次の文章を根拠としたものだった。

<ここから引用>
ガリマール社版のシモーヌ・ヴェイユの著作はほとんどすべて、本書と同じ「希望[エスポワール]」双書に収められているが、この双書はアルベール・カミュ(1913―60)によって創設された。第二次大戦下の英国において、34歳で死んだ、当時まったく無名だったといっていいシモーヌ・ヴェイユを、戦後のフランスの思想界に紹介した大きい功績は、当然第一にカミュに帰せられるべきであるが、本書の編集も(明記されてはいないが)、カミュであるとみなすことは充分に可能である。*3
<ここまで引用>

現在60歳のわたしが、『超自然的認識』によってシモーヌ・ヴェイユの思想に触れたのは大学時代だった。この本には「プロローグ」というタイトルで、シモーヌ・ヴェイユの有名な美しい断章が紹介されていた。『超自然的認識』の新装版がアマゾンに出ていたので、紹介しておく。

超自然的認識
シモーヌ・ヴェイユ (著), 田辺 保 (翻訳)
出版社: 勁草書房; 改装版 (2014/5/1)

『超自然的認識』を読んだときから、シモーヌの作品の邦訳版を読み漁り、またシモーヌとカミュとの接点を求めて、あれこれ読んだ。カミュがシモーヌを発見した人物であることを雄弁に物語っているような文章には、出合えなかった。

邦訳されていないだけだと思っていたのだが、『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行人・鈴木宏、水声社、2017)に収録されたアルベール・カミュの文章、及び解説を読んで、シモーヌの母セルマの関与が浮かび上がってきた。

訳出されたカミュの文章は、竹内修一氏の解説によると、『NRF出版案内』1949年6月号に発表された「シモーヌ・ヴェイユ」と題された文章だという。

カミュがシモーヌの発見者であるにしては、その文章の内容からしてシモーヌを高く評価していることに間違いはないにせよ、短いというだけでなく、いささか精彩を欠くものであるようにわたしには思える。竹内氏は述べている。

<ここから引用>
1943年8月、ロンドン郊外のサナトリウムで死したとき一般の人々にはほとんど知られていなかったシモーヌ・ヴェイユが、戦後これほど有名になるためには、彼女が「生涯のあいだ頑なに拒否した「第一級の地位」を獲得するためには、みずからが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書から彼女の著作を次々に刊行したカミュの功績があったのである。*4
<ここまで引用>

ところが、この叢書が1946年3月に創刊されたとき、カミュはヴェイユのことをほとんど知らなかったばかりか、シモーヌの遺作の出版は全く予定されていなかったというのだ。

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シモーヌ・ヴェイユの歴史的・政治的著作の初版のカバー
出典:Wikimedia Commons

カミュの文章「シモーヌ・ヴェイユ」は本来なら〈希望〉叢書の9冊目の書物『根をもつこと』のための序文として書かれたものだった。それがヴェイユの遺産相続者――シモーヌの父母なのか、兄アンドレなのかは不明――の依頼によるものか、あるいは何らかのトラブルによって、この文章は別個に発表された。『根をもつこと』は序文も注釈もなしに出版されたのだそうだ。

1960年にカミュが自動車事故で死んだとき、〈希望〉叢書24作品のうちの7つの作品がシモーヌ・ヴェイユの著作だった。カミュの死後も2つのシモーヌの作品が出版された。

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シモーヌ・ヴェイユの署名
出典:Wikimedia Commons

竹内氏の解説中、ギー・バッセによれば、〈希望〉叢書から出版されるシモーヌの著作に無署名の「刊行者のノート」が付されたとすれば、それはカミュではなく、母セルマが作成したものだという。

シモーヌ・ヴェイユの兄アンドレ・ヴェイユの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(春秋社、2011)の中で、シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じたと述べている。シモーヌの死後、ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたそうだ。

シルヴィはその著書で、「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*5と述べている。

また、エッセー 22 「グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に」で採り上げたフランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイは、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

これはわたしの憶測にすぎないが、シモーヌ・ヴェイユの母セルマは、豊かな財力によってカミュが監修していたガリマール書店の〈希望〉叢書の9つの出版枠を買い取ったのではないだろうか。

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シモーヌ・ヴェイユの墓
出典:Wikimedia Commons

我が身に自ら拘束帯をつけたかのような、ストイックすぎる生きかたをしたシモーヌ・ヴェイユ。高純度の思想を書き残したシモーヌと母セルマを思うとき、一卵性親子と呼ばれた美空ひばり(加藤和枝)と母・加藤喜美枝を連想してしまう。

セルマには、シモーヌをプロデュースしたステージママのような一面があったように思う。シモーヌは哲学者となり、兄のアンドレは高名な数学者となった。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅰ・Ⅱ』『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』を読むと、セルマの並外れた母親ぶりに圧倒される。

わたしはエッセー 23 「ミクロス・ヴェトー(今村純子訳)『シモーヌ・ヴェイユの哲学―その形而上学的転回』から透けて見えるキリスト教ブランド」で、次のように書いた。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは、おそらく母親の偏愛――シモーヌ・ヴェイユが理想とする愛とはあまりにもかけ離れたものを含む現象――を感じ、その呪縛性を知りつつも、それをそっとしておき、恭順の意さえ示している。キリスト教に対する態度も同じだったように思える。

彼女はキリスト教というブランドを非難しつつも、それに屈し、媚びてさえいる。その恭順の姿勢ゆえに、シモーヌ・ヴェイユという優等生は西洋キリスト教社会では一種聖女扱いされてきたということがいえると思う。
<ここまで引用>

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-159)によると、セルマは演劇的な人物だった。シモーヌの死後は聖女の母という役を演じて能力を開花させ、修道女のような態でシモーヌの賞賛者である限られた数人の聖職者たちと亡き娘の部屋に籠っていたという。

シルヴィ(稲葉訳,2011,pp.157-176)はまた、17歳のセルマが母親ジェルトルード宛の手紙に「使用人と類する人たち」に対する嫌悪感を綴ったこと、その同じ人物が第一次大戦後ほどなくヴァカンスで過ごした豪奢なホテルのサロンにあるピアノで「革命家インターナショナル」を笑いながら自慢げに演奏し、組合主義者の教師となったシモーヌが右翼メディアに「赤い聖処女」と採り上げられたときには、その赤い聖処女の母という役回りに愉悦していたという事実が信じられないと語る。

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シモーヌ・ヴェイユと生徒(ル・ピュイ)
出典:Wikimedia Commons

完全主義者で所有欲が強く、演劇的で矛盾に満ち、絶え間なくシモーヌを見守った――ある意味で操ったとさえいえる――セルマは、どこか世俗キリスト教と重なる。

『詳伝 シモーヌ・ヴェイユ Ⅱ』の著者シモーヌ・ペトルマンは、ヴェイユの最も親密な友人の一人であったそうだが、「日本語版によせて」の最後に、次のように書いている。

<ここから引用>
シモーヌ・ヴェイユは宗教問題に深い関心を寄せていましたが、それはキリスト教の限界を越えるものだったことを、もう一度思い出しておきたいと思います。特に彼女は、禅仏教に強い興味を示していました。フランスにおいて、禅なんてほとんどまったく知られずにいた時代のことでした。
*6
<ここまで引用>

その禅とは、鈴木大拙の著書を通したものだったと考えてよい。シモーヌ・ヴェイユは、ペトルマン宛の手紙で次のように書いている。

<ここから引用>
英語で書かれた、禅仏教に関する、哲学者鈴木テイタロー[大拙、仏教哲学者]の著書をおすすめします。とてもおもしろいわよ。*7
<ここまで引用>

エッセー 24 「ルネ・ゲノンからシモーヌ・ヴェイユがどんな影響を受けたかを調べる必要あり」で書いたように、鈴木大拙は神智学協会の会員だったから、シモーヌ・ヴェイユは大拙の著作を通して近代神智学思想に触れたといえるかもしれない。

しかし、その同じシモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンという、極めて混乱した宗教観と貧弱な哲学しか持ち合わせないばかりか、近代神智学の母と謳われるブラヴァツキーの代表的著作すらろくに読んだ形跡がないにも拘わらず、神智学批判を行った――これは誹謗中傷というべきだろう――人物の著作の愛読者だったそうだから、わたしはあれほどまでに輝かしい知性の持主のシモーヌがなぜ……と、違和感を覚えずにはいられない。

それは、シルヴィが祖母セルマに感じたのと同じような、信じられない思いである。

…………………………

*1:ペトルマン,田辺訳,1978,p.370

*2:わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。20万人以上もの公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

*3:ヴェイユ,田辺訳,1976,訳者あとがきpp.409-410

*4:『別冊水声通信 シモーヌ・ヴェイユ』(編集発行・鈴木宏、水声社、2017、p.49)

*5:シルヴィ、稲葉訳、2011、p.152

*6:ペトルマン,田辺訳,1978,日本語版によせてp.433

*7:ペトルマン,田辺訳,1978,p.323

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2017年4月25日 (火)

左派の源流となったイルミナティ ①創立者アダム・ヴァイスハウプトの天敵、神智学(26日に再加筆あり)

当記事は、過去記事「左派のグランパ、アダム・ヴァイスハウプト(イルミナティ創立者) ①天敵のプラトン系神智学」に加筆したものです。

…………………………

世界中に浸透した左派の影響力を、ここ数年で思い知らされた気がする。共産圏の人々と左派だけが影響されているのではなかった。

左派の原理原則となってきたのが、1776年に現在の南ドイツでイルミナティを創立したアダム・ヴァイスハウプトの著作であることを知ったときの驚き。

イルミナティなんて、オカルト情報誌『ムー』が情報提供する都市伝説にすぎないと思っていたから。左派の中のどれくらいの人々が、ヴァイスハウプトの思想について知っているのだろうか。

サイト「隠された真実」から、引用させていただく。

結社結成の日、ヴァイスハウプトは『Novus Ordo Seclorum』というタイトルの本を出版している。このラテン語の意味は「新世界秩序」。
ヴァイスハウプトの掲げたイルミナティの行動綱領は以下の通り。

  1. すべての既成政府の廃絶とイルミナティの統括する世界単一政府の樹立。
 2. 私有財産と遺産相続の撤廃。

 3. 愛国心と民族意識の根絶。

 4. 家族制度と結婚制度の撤廃と、子供のコミューン教育の実現。

すべての宗教の撤廃。

これらの行動網領が、後の共産主義の原型となった。

<https://sites.google.com/site/uranenpyou/home/illuminati>(2017/4/20アクセス)

イルミナティの行動綱領を著作で確かめられないのは惜しいが(『Novus Ordo Seclorum』も邦訳してほしい)、邦訳版の出ているアダム・ヴァイスハウプト(副島隆彦・解説、芳賀和敏・訳)『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』(ベストセラーズ、2013)を読んで、この行動綱領の出てきた背景――、つまりヴァイスハウプトの思想を検証することは可能である。

イルミナティの行動綱領を、共産主義がそっくり借用したようである。ならば、いささか遅きに失した感はあるけれど、共産主義の本質を知るためにイルミナティの原典を学術研究する必要があるのではないだろうか。

夫は保守系カラーの大学で――当然、その大学ではマイナーだった――マルクス経済学を専攻したが、ゼミでイルミナティのイの字も聞いたことはなかったそうだ。

ちなみに夫の政治思想自体は、バランスを重んじるところから、一般日本人に多い中道右派といったところだろうか。わたしも政治思想的にはそうだが、わたしの場合は神秘主義者であるために、物事の判断の基準が一般人とは異なる場合がある。

植田樹『ロシアを動かした秘密結社――フリーメーソンと革命家の系譜』(彩流社、2014)によると(35頁)、秘密結社「イルミナティ教団(Iluminati)」が1776年、パヴァリア(現ドイツ・バイエルン州)で、大学の哲学教授アダム・ヴァイスハウプトによって、組織された。

『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』の「訳者あとがき」には、ヴァイスハウプトの学位、肩書きについて、次のように書かれている。

ヴァイスハウプトはインゴルシュタットに生まれ、この地の大学で哲学博士の学位を得た後、法学の員外教授をへて弱冠25歳で法学部の教会法正教授となっている。専攻分野は、はっきりと哲学であった彼が法学部正教授となった経緯は不明であるが、父親が(彼が5歳のときにすでに没している)インゴルシュタットの法律学の正教授であったことと関係があるかもしれない。正教授(プロフェソル・オルディナリス)といえば今日の我が大学教授とは比べものにならないほどのステータスである。さらに25歳といえばかなり俊足のエリートというべきか。しかも教会法といえばカノン法、カトリックの教会法ではないか(教会法に対して世俗法といえばローマ法で、この二つの法を法学生は学ぶのである)。この分野の正教授がカトリックに楯突いたのだ」(ヴァイスハウプト、芳賀訳、2013、「訳者あとがき」211~212頁)

前掲書『ロシアを動かした秘密結社――フリーメーソンと革命家の系譜』によると、イルミナティは、「『理性に支配される独裁的な共和政治』をめざす社会改革を唱えた。組織は軍隊組織のような下位の会員の上位者への絶対服従、部外者への秘密保持、会話や通信における会員同士の間での偽名と暗号の使用を義務づけ、狭量な民族主義や愛国心を否定する国際主義を唱えていた。また『目的達成のためならあらゆる手段が正当化される』と説いていた」(植田、2014、36頁)

イルミナティは本来フリーメーソンの結社ではなかったが、1782年にフリーメーソンの作家フォン・クニッゲ男爵が加入したのを契機に文豪ゲーテ、ドイツ諸侯、貴族ら多くのフリーメーソン会員が加わった結果、イルミナティの結社とフリーメーソンは会員構成で一体化してしまった。

こうしてイルミナティの結社はフリーメーソンの一組織に混淆、変容していき、クニッゲは追放され、大方の貴族が去った一方では、残ったイルミナティの結社員は急進的な政治傾向を強めていった。

パヴァリア選挙侯カルル・テオドルによって、1785年、イルミナティの結社は解散させられた。しかし、「この秘密結社の思想や掟は組織の解散後も各国の革命結社の規範の雛形として取り入れられていく。フランス革命の源流の一つにもなった」(植田、2014、36頁)

イルミナティの思想はイタリア統一運動にも取り込まれた。その中心的役割を荷ったのはカルボナリ党で、フリーメーソンとイルミナティ団の組織や規範を取り込んでいた。ロシアの無政府主義の革命家バクーニンも、この組織に関わった一時期があった。

イルミナティの信奉者はその後、パリで急進的な政治傾向の『親友同盟』の主導権を握り、そこからイルミナティ派の『社会主義サークル』が派生した。

彼らの規律は二十世紀の様々なテロの秘密結社の内部規律に取り込まれ、革命運動の組織に多大の影響を及ぼすことになる。カール・マルクスはこれを『共産主義思想を実現するための最初の革命的組織』と評した」(植田、2014、37頁)

このようにカール・マルクスは、パリで派生したイルミナティ派の社会主義サークルを共産主義の源流として評価しているのである。

左派によってヴァイスハウプトの思想は拡散していったのだが、その工作の陰険、周到、執拗であるさまが露骨に目につき出したのは、日本では民主党政権のころからだった。

海外、特にアメリカではそれがわが国以上の猛威であったと知ったのは、ようやく今度のトランプ大統領誕生のころからだった。

こうした現象を、自分なりにいくらかでも分析し、整理してしまわなければ、落ち着いて創作に向かえない。第二次世界大戦後にGHQによって左傾化させられたわが国の大学の研究室でイルミナティが研究されるようになるには、まだ時間がかかるだろうから。

なぜ左派がイルミナティを研究してこなかったのかは疑問であるが、イルミナティを研究するにはイルミナティの攻撃の対象となったキリスト教や神秘主義をも研究せざるをえないからではないかと思う。それらをヴァイスハウプトに無条件に従って全否定するほうが結束が乱れないことは確かであり、しかし、もしそうだとすれば、それは盲目的信仰以外の何ものでもない。

ヴァイスハウプトがあたかも天敵であるかのように攻撃したのが、プラトンの流れを汲む神智学だった。もっとも、その神智学とはブラヴァツキー以前の神智学である。

1748年に生まれたヴァイスハウプトは、1830年に死去している。近代神智学運動の母となったブラヴァツキーが南ロシアで生まれたのは、その翌年の1831年のことだからである。

ヴァイスハウプトは『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』の中で、教会法の正教授に就任した人物とも思えない悪態をついている。何しろ章のタイトルが「神秘主義に傾倒するすべての成員に告ぐ」である。

あんこの足りないくそ坊主どもの戯れ言に他ならぬ現代の伝説というかメルヘンがある。これは、哲学というジャンルに、継承されている。というよりは異なる教説としてあからさまに、表明され含まれているものなのだ。この学説ほど、誤ったものは人間悟性の歴史のなかで他にない。こんなものに熱狂するのは、グノーシス派、折衷派、カバラ主義者くらいで、この連中の先には度はずれた大バカ、腐れ頭人間が待っている。後代の神知学者や神秘主義者は、桁外れのおバカ加減では誰にもひけを取らず、何人たりともこいつらに並ぶのはまだしも、凌駕するなどとんでもない。なんといっても馬鹿さ加減こそやつらの本領なのだから。このセクトは、そのご同類であるグノーシス派とユダヤ派のカバラ姉妹があることと並んで、たくさん麗しい性格の著作がある。身の毛のよだついやらしさの極致なのだが、これらは、いずれ偽造か古代の人物、その名のでっち上げで、連中の絵空事が受け入れられ、おおいに賞賛されるように目論まれていた。たとえばモーセ、アブラハム、ヘルメース、オルペウス、ゾロアスター、ピタビラス等など。(ヴァイスハウプト、芳賀訳、2013、170頁)

大した騒ぎである。神秘主義をこのように嫌う人物が薔薇十字団系のロッジなどもあるフリーメーソンの結社に入ったのは、組織をのっとるためという目的以外には考えられない。

ウィキペディア「イルミナティ」には次のように書かれている。

1777年、ヴァイスハオプト自身もフリーメイソンになっており、並行してフリーメイソンだった者も多かったウィキペディアの執筆者. “イルミナティ”. ウィキペディア日本語版. 2017-02-24. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3&oldid=63134666, (参照 2017-02-24).

『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』には、現代の編者F・W・シュミットによって書かれた「はじめに」がおかれている。それには、次のように書かれている。

イルミナティの発展は、フリーメイソンのグループによって行われた。フリーメイソンの多くが、イルミナティにリクルートされたので、折に触れてフリーメイソンのある支部(ロッジ)はイルミナティの手中にあると言われるようになった。しかし『両者の意図と目的は一致しない』となった。このことをルートヴィヒ・アドルフ・クリスティアン・フォン・グロルマン[1741-1809 ギーセンの法学者]という人が、1793年12月のフリーメイソン支部における演説で強調した。その演説は、身分秩序を脅かし宗教(キリスト教の信仰)を危険な状態に陥れるイルミナティへの激しい非難を含んでいた。フォン・グロルマンの目には禁止後もイルミナティは、諸国政府に遍(あまね)く浸透しており、至る所で活動していると見られていた」((ヴァイスハウプト、芳賀訳、2013、シュミット「はじめに」37~38頁)

トルストイは『戦争と平和』で、ロシアのフリーメーソンのロッジがイルミナティにのっとられる過程をよく描いていると思う。

ヴァイスハウプトは『秘密結社イルミナティ入会講座<初級篇>』の中で、プラトンを最も罵倒している。『ティマイオス』しか読んでいないかのような、長い引用と短絡的な解釈が特徴的である。

尤も、『ティマイオス』は重要な作品らしい。大学時代にシモーヌ・ヴェイユの著作で『ティマイオス』を知り、そのころから読みたかったのだが、果たせていなかった。文庫では出ていなかったのだ。

ヴァイスハウプトには、プラトン用語の意味がよく呑み込めていないのではないか。反抗期の少年のように字面だけを読んで納得できないと、すぐに断罪し、悪態をつくのである。それをそっくり真似て、左派がブラヴァツキーをバッシングする。純粋理性を重んじているようなことを書きながら、行動が伴っていない気がする。

ブラヴァツキーの著作ではあちこちでプラトンが出てくる。『ティマイオス』にも言及があるので、ヴァイスハウプト、ブラヴァツキー、シモーヌ・ヴェイユが『ティマイオス』をどう読んだかの比較をしたくなった。

改めて、『ティマイオス』が邦訳で出ていないか、図書館検索で調べると、利用している二つの図書館にはなかった。

アマゾンで調べると、プラトン( 種山恭子・田之頭安彦訳)『プラトン全集〈12〉ティマイオス・クリティアス 』(岩波書店、1975)が中古で21,393円! もう1冊、プラトン(岸見一郎訳)『ティマイオス/クリティアス』(白澤社、2015)が2,376円。

翻訳者である岸見氏は、『ティマイオス/クリティアス』の発売元である白澤社ブログの記事「岸見一郎訳『ティマイオス/クリティアス』刊行の経緯」によると、「ギリシア哲学研究の大家・故藤澤令夫氏に師事しただけではなく、岩波版『プラトン全集』の『ティマイオス』の訳者・故種山恭子氏の教えもうけた」かただとか。

夫が誕生日に贈ってくれた図書券を使って購入することにした。注文したばかりで、まだ届いていない。読んだら、続きを書きたい。予定が目白押しなので、また間が空くかもしれないけれど。

当ブログにおける関連記事:

2016年10月 6日 (木)
トルストイ『戦争と平和』  ⑤テロ組織の原理原則となったイルミナティ思想が行き着く精神世界
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/10/post-7e01.html

2016年9月12日 (月)
トルストイ『戦争と平和』  ④破壊、オルグ工作の意図を秘めたイルミナティ結成者ヴァイスハウプトのこけおどし的な哲学講義
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/09/post-6501.html

2016年9月 8日 (木)
トルストイ『戦争と平和』 ③イルミナティ……主人公ピエールとローゼンクロイツェル系フリーメーソンの長老
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/09/post-7878.html

2016年9月 6日 (火)
トルストイ『戦争と平和』 ②ロシア・フリーメーソンを描いたトルストイ
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/09/post-a87e.html

2016年9月 5日 (月)
トルストイ『戦争と平和』 ①映画にはない、主人公ピエールがフリーメーソンになる場面
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/09/post-c450.html

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2015年9月15日 (火)

ルネ・ドーマル(巖谷國士訳)『空虚人(うつろびと)と苦薔薇(にがばら)の物語』(風濤社、2014年)

ルネ・ドーマル(巖谷國士訳)『空虚人(うつろびと)と苦薔薇(にがばら)の物語』(風濤社、2014年)を読んだ。感想はブクログに書いた。

(橋本一明ほか訳)『シモーヌ・ヴェーユ著作集 Ⅱ ある文明の苦悶―後期評論集―』(春秋社、1968年) を再読していたとき、「解説2」の156頁に、シモーヌがルネ・ドーマルを通してインド思想に触れたと書かれている箇所に目がとまり、その関連からこの本を図書館から借りて読んだ。
「あとがき」によると、ルネ・ドーマルの絶筆となった未完の小説『類推の山』に挟まれるいくつかの「話中話」の一話で、小説ではどこかの高山の伝説として紹介されているそうだ。人気の高い小話らしい。
しかしわたしの読後感としては、これだけでは何ともいえない感じだ。作中作として十全に機能している小話もあることを考えれば、読者任せにすぎる小話なのではあるまいか。
象徴的な道具が複数使われているわりには、それらが何の機能も果たしていず、ただ装飾として利用されているという残念な印象を受けた。無意味に技巧の凝らされた(シュルレアリズムはそんなものではあるが)、思わせぶりな掌編という感想しか持てなかった。
道具に寄りかかりすぎではないだろうか。これを読んで読者が勝手に楽しむのは自由だが、果たして作中作としてはどうか。この小話を包み込む『類推の山』自体への関心も薄れてしまった。

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2015年9月10日 (木)

ルネ・ゲノンからシモーヌ・ヴェイユがどんな影響を受けたかを調べる必要あり

新ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」にエッセー「22 グレイ 著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に」を公開したあとも、ずっとシモーヌのことが頭を離れなかった。

東洋思想に関心がありながら、なぜあのような考えになるのだろうと思えるところがあり、また死に方についても、戦争中の過酷な状況、拒食症、あるいはカタリ派に対する関心など原因を探ってみても、どうも納得いかないものがあった。

シモーヌ・ヴェイユはブラヴァツキーの神智学には近づかなかったのだろうか、気づくこともなかったのか。

このことについては今後も考えていくことになると思うが、(橋本一明ほか訳)『シモーヌ・ヴェーユ著作集 Ⅱ ある文明の苦悶―後期評論集―』(春秋社、1968年) を再読していたとき、「解説2」の156頁に、シモーヌがルネ・ドーマルを通してインド思想に触れたことが書かれている箇所に目がとまった。

ウィキペディアでルネ・ドーマルを閲覧すると、「3人の友人たちとシュルレアリスムやダダイスムに対抗して文芸雑誌「Le Grand Jeu」を設立した」「ドーマルは独学でサンスクリットを学び、仏教の三蔵をフランス語に翻訳した。また、日本の禅学者、鈴木大拙の本も訳している」とある。

鈴木大拙は神智学協会の会員だったので、ルネ・ドーマルもそうだったのだろうか、と思って調べていると、ルネ・ドーマルはルネ・ゲノンの影響を受けているらしいことがわかった。

ルネ・ゲノンについてウィキペディアを閲覧すると、いろいろと気になることが書かれていた(ウィキペディアをよく利用するが、ブラヴァツキーについてはどなたがお書きになったのか、あれはひどい。Jさんのような神智学に詳しい人が書いてくださらないものだろうか)。

ルネ・ジャン・マリー・ジョゼフ・ゲノン(René Jean Marie Joseph Guénon, 1886年11月15日 - 1951年1月7日)

1886年にブロワに生まれる。若い頃に「グノーシス教会」などの数々のオカルティズムのグループと交流を持っていたが、後にオカルティズムを断罪した。1916年、ソルボンヌで哲学修士号を得た後、教職に就いていたが、職を離れて、1921年に最初の著作『ヒンドゥー教義研究のための一般的序説』を発表した。その後、ブラヴァツキーらの神智学や心霊術について批判的な著作を発表した(『神智主義:ある疑似宗教の歴史』『心霊術の誤り』)。ゲノンはこれらの運動を物質主義的な観点から出てきた擬似的な精神主義であるとみなしていた

ゲノンは今日に至るまで形而上学・エゾテリスム研究の分野で大きな影響を及ぼし続けており、「伝統主義学派」と呼ばれる一群の思想家・知識人達の代表者と見なされている

宗教学の泰斗ミルチャ・エリアーデは著作において何度かルネ・ゲノンに言及しているが、彼の学問的アイデアの多くはゲノンからの影響を受けていたことが近年の複数の研究によって指摘されている

シモーヌ・ヴェイユは、学友ルネ・ドーマルとともにゲノンの著作の愛読者であった

特に気になる箇所に下線を引かせて貰った。

プラグマティズムのウィリアム・ジェームズ(William James, 1842年 - 1910年)だけではなかったか……ジェームズのあとにゲノンが現れてブラヴァツキー糾弾の急先鋒に立った?

ルネ・ゲノンの写真がパブリック・ドメインであった。 

Reneguenon1925
シモーヌがルネ・ドーマルと共にブラヴァツキーの神智学について知っていた可能性はあると思う。だが、彼女は神智学には深入りしなかったのだろう。シモーヌには、過去記事で書いたような一面があるとわたしは見ているからである。

  • 2013年2月 7日 (木)
    ミクロス・ヴェトー『シモーヌ・ヴェイユの哲学―その形而上学的転回』を読書中
    https://elder.tea-nifty.com/blog/2013/02/post-3751.html
     キリスト教というブランドが絶対的な価値と殺傷力を持つ世界では、表立って証言することが許されなかったので、古代からプラトニズムを継承し、プラトニズムに徹底して生きてきた西洋の神秘主義者は、地下に潜るしかなかったのだ。
     そして、表立って証言する勇気を持ち得たブラヴァツキーのような人物は、著作を読む能力すら持ち合わせない人々の不当な攻撃に晒され、辱められてきた。
     シモーヌ・ヴェイユは、おそらく母親の偏愛――シモーヌ・ヴェイユが理想とする愛とはあまりにもかけ離れたものを含む現象――を感じ、その呪縛性を知りつつも、それをそっとしておき、恭順の意さえ示している。キリスト教に対する態度も同じだったように思える。
     彼女はキリスト教というブランドを非難しつつも、それに屈し、媚びてさえいる。その恭順の姿勢ゆえに、シモーヌ・ヴェイユという優等生は西洋キリスト教社会では一種聖女扱いされてきたということがいえると思う。

ゲノンは日本での影響もあるようなので、慎重に調べる必要があるが、検索したところ、図書館には『世界の終末』があった。それしかない。

ミルチャ・エリアーデの影響を受けたと自ら語った平野啓一郎は『日蝕』で神学僧の神秘体験を描いて芥川賞を受賞したが、あの小説は神秘主義についての悪意をこめた戯画化――というより内容の程度の低さから悪ふざけ――だとわたしは思ったのだが、真面目に書かれたものなのだろうか。

何にしてもエリア―デもゲノンの影響を受けたらしい。あれほど心霊主義の危険性を警告したブラヴァツキーの神智学が、心霊主義の同義語のような扱いを受けることをおかしな現象だと思ってきたのだが、その原因にはジェームズやマルクス主義だけではなく、ゲノン、この人も含まれるのだろうか。

ブラヴァツキーが登場するのは以下の著作だろうか。

Le Théosophisme, histoire d'une pseudo-religion, Paris, Nouvelle Librairie Nationale, 1921.
(「神智主義:ある疑似宗教の歴史」)

しかし、この著作が書かれたのは、ゲノンの諸宗教研究の出発点に近い地点ではないか。最初の著作が書かれた1921年と同年に発表されているのだから。

著作を読んでみなければあれこれいえないが、ウィキペディアにはゲノンがブラヴァツキーの神智学や心霊術を批判した理由として「これらの運動を物質主義的な観点から出てき た擬似的な精神主義であるとみなしていた」とある。

ブラヴァツキーが心霊主義の解明と解説のために、心霊的な実験を行ったことは確かだが、おそらくインドの大師の指導のもとに『シークレット・ドクトリン』などの執筆を行ったことまで一緒くたにされているに違いない。

あれを独りで書いたと見做す人々はブラヴァツキーが剽窃しただの内容が出鱈目だのといい、そうでない人々は霊媒だという。ブラヴァツキーの論文に対して、高飛車で見下した見方をするのが名誉だとでも思っているかのような異様な雰囲気がある。

そして、彼らの偉そうな様子にも拘わらず、『シークレット・ドクトリン』そのものを曲解せずにきちんと批判できた人はいないという事実がある。

「物質主義的な観点から出てきた擬似的な精神主義」とは何だろう?

『シークレット・ドクトリン』において、物質に関する説明は単純ではない。邦訳版「宇宙発生論」の上巻の索引には「物質  Matter」の項目に39頁示されていて、注として「質料」「プラクリティ」「プロタイル」の項も参照とあるのだ。ちなみに「質料 Substance,Matter」は60頁示されている。「プラクリティ Prakriti」は10頁。「プロタイル(均質の質料)  Protyle,Homogeneneus matter」は2頁。

1頁に当たるだけでも時間がかかり、わたしの脳味噌では理解に難儀する。ゲノンは脳味噌の上半分が欠けていそうに見える頭の格好だが、きちんと理解した上で批判しているのだろうか。

以下の過去記事で、ブラヴァツキーと同じモリヤ大師の指導を受けたといわれるレーリヒ夫人の『新時代の共同体 一九二六』(日本アグニ・ヨガ協会、平成5年)の用語解説から「唯物論」「物質」について引用した。

  • 2015年4月12日 (日)
    #15 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ④心霊現象研究協会(SPR)と神智学協会
    https://elder.tea-nifty.com/blog/2015/04/15spr-491a.html

    唯物論 近代の唯物論は精神的な現象を二次的なものと見なし肉体感覚の対象以外の存在をすべて否定する傾向があるが、それに対して古代思想につながる「霊的な意味での唯物論」(本書123)は、宇宙の根本物質には様々な等級があることを認め、肉体感覚で認識できない精妙な物質の法則と現象を研究する。近代の唯物論は、紛れもない物質現象を偏見のために否定するので、「幼稚な唯物論」(121)と呼ばれる。「物質」の項参照。(日本アグニ・ヨガ協会、平成5『新時代の共同体 一九二六』「用語解説」pp.275-276)

     物質 質料、プラクリティ、宇宙の素材。「宇宙の母即ちあらゆる存在の大物質がなければ、生命もなく、霊の表現もあり得ない。霊と物質を正反対のものと見なすことにより、物質は劣等なものという狂信的な考え方が無知な者たちの意識に根づいてきた。だが本当は、霊と物質は一体である。物質のない霊は存在しないし、物質は霊の結晶化にしかすぎない。顕現宇宙は目に見えるものも、見えないものも、最高のものから最低のものまで、輝かしい物質の無限の面をわたしたちに示してくれる。物質がなければ、生命もない」(『手紙Ⅰ』373頁)。(日本アグニ・ヨガ協会、平成5『新時代の共同体 一九二六』「用語解説」p.275)

ルネ・ゲノンの影響力は大きいようだから、著作に触れたあとでまた書くつもりだが、歴史小説もすすめなければならないので、少しあとになるかもしれない。

国立情報学研究所のサービスCiNiiに、ルネ・ゲノンに関する以下の論文がある。

  • ルネ・ゲノンと現代世界の危機
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110009459735
    田中 義廣
    収録刊行物
    フランス文学論集   [巻号一覧]
    フランス文学論集 (21), 34-46, 1986-11-29  [この号の目次]
    日本フランス語フランス文学会

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2015年9月 9日 (水)

グレイ 著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ 』を読了後に

※当ブログ公開の記事に加筆し、「マダムNの神秘主義的エッセー」で公開中の作品です。

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シモーヌ・ヴェイユの生誕100年ということで、フランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイ著『ペンギン評伝双書シモーヌ・ヴェイユ』*1が上梓された。

その秀才ぶり、哲学者アランとの邂逅と薫染、生来の美貌に異議を唱えるかのような男性的な粗野な服装、赤い乙女と異名をとった社会活動、キリスト教への接近と次第に濃厚となっていった神秘主義思想への傾斜、風評を呼んだ死にかた、残された諸作品に散りばめられた煌くような思想の断片……哲学には馴染めない一般人にも、人気の高いシモーヌ・ヴェイユである。

フランスの女性哲学者シモーヌ・アドルフィーヌ・ヴェイユ(Simone Adolphine Weil)は1909年パリで生まれ、1943年夏イギリスのケント州アッシュフォードのサナトリウムで亡くなった。34歳だった。

新しく出たこの本では、これまで書かれた評伝類でもさりげなく触れられてはいたが、シモーヌの摂食障害――拒食症の傾向――に迫っている。

シモーヌの育った家庭が、それまで読んだ評伝などを通して想像していた以上のブルジョア家庭であったことを知った。

シモーヌの父親は内科医で、「何世紀にもわたってストラスブールに定住していたユダヤ人大商人の一族の出」*2であり、母親は「多くの国で輸出入業を展開していた裕福なユダヤ人実業家一族の出」*3なのだそうだ。相当にお金持ちの家系なのである。

シモーヌの兄は数学者アンドレ・ヴェイユ(André Weil、1906年 - 1998年)。アンドレは仲間と数学者集団ブルバキを結成。数論、代数幾何学に大きな業績を残した。主な著作に三部作『代数幾何学の基礎』(1946)、『アーベル多様体と代数曲線』(1948)、『代数曲線とそれに関連する多様体』(1948)がある。

シモーヌに対する両親の過保護ぶりは病的と思われるほどで、お金がなければ、ここまで過保護になることはできないだろう。ヴェイユには、想像以上の抑圧でもあったのではないだろうか。

両親の過保護ぶりを引用すると、シモーヌが1931年にノルマンディー海岸で漁師の仕事に挑戦したとき、ヴェイユ夫妻は「娘の精神のバランスにこの種の激しい仕事が必要であることを感じとり、一足先にノルマンディーに出向いてシモーヌが漁師の仲間に加えてもらえるように骨折った」*4。

教職時代、「ル・ピュイへの赴任に続く数年間、その数年間、ヴェイユ夫人は娘が新しい任地に移るごとに同行して住まいを探し、毎月様子を見に行っては食料貯蔵庫に食べ物を買いそろえ、娘が健康を害さぬようにあれこれと世話を焼いた。ル・ピュイでは、リセとの校長の面談にもついていった」*5。

シモーヌにとって食事は骨折り仕事で、「彼女は最高品質のごく新鮮な食べ物しか受けつけず、梨にキズ一つあると食べられなかったのだ。偏頭痛に襲われるとさらにひどくなり、そういうときには食べ物をもどしてしまい、口にはいるのは生のじゃがいもをすったものだけだった」*6。

ヴェイユ夫人はそんな「娘の健康を守るための策略をめぐらせた」*7。

ヴェイユ夫人は息子アンドレに手紙でこぼしている。「かわいそうなトロールを怒る気にはなれないの、ほんとにいい子でかわいいのですもの。……晩ごはんにも、じゃがいもと水で溶いたココアしか食べないの。……そしてこの散らかりようといったら!」「だめだわ、この子絶対、結婚できない!」*8

1932年8、9月をヒトラー率いるナチスが台頭するベルリンに滞在したときには、「両親は娘の安全を考えて恐怖にかられ、娘にはそれと悟られないように彼女を保護する手立てを工夫し続け、その夏はハンブルグに滞在することに決めた」*9。

その年の秋、シモーヌはオセールのリセで教え始めた。「ヴェイユ夫人は近所のビストロの主人にお金を渡し、たまには娘がまともな食事をするように取り計らってくれるように頼み込んだりもした」*10。

ブールジュ赴任中の1936年、シモーヌが母親に送った手紙には「今朝、奇妙な夢をみました……おかあさまが私に『あなたへの愛があまりに強くて、他に誰も愛せない』と言うのです。怖くて苦しかった。……」*11という母親との心理的葛藤を感じさせる文章がある。シモーヌはこのとき、27歳である。

1936年、シモーヌがスペイン市民戦争に従軍したときには、ヴェイユ夫妻は「知人の組合活動家に頼みこんで、スペイン国境を越え、バルセロナに辿りついたのである」*12。みすぼらしい下宿屋の一室を借りたが、シモーヌが前線にいるという以外の情報が得られず、「共和党の軍隊の到着は夜半であったため、彼らはPOUMの本部の前のベンチに座り、何日も続けてその到着を待った」*。4、5日の後ついに現れたシモーヌは足に火傷を負っていた。父のヴェイユ医師が傷の手当てをし、夫妻は娘を宿に連れ帰った*13。

神秘主義に関する著作のある独学のカトリック哲学者ギュスターヴ・ティボンの農場で働いたときにも、ヴェイユ夫妻はシモーヌを訪ねている。

しかし、ついにヴェイユ夫妻の保護がシモーヌに届かなくなるときがやってきた。

両親と共にニューヨークに滞在していたシモーヌがイギリスに行こうとしたとき、ヴェイユ夫妻も後を追って行こうとしたが、書類が揃わず、叶わなかったのである。

「人生がいくつもあれば、その一つをお父さまとお母さまにあげるわ。でも人生はこれ一度きりなの」*14という別れの言葉を両親に残し、シモーヌは1942年ニューヨ―クを船出した。
ヴェイユ夫妻の残りの人生は娘の原稿を後世に残すための清書に費やされたが、夫妻がシモーヌの墓を訪ねることはなかったという。

守護天使でさえも自分の出る幕はないと思ったに違いないと想像したくなるくらい、あっぱれな両親であるが、これは深刻な話である。シモーヌの行動が、両親の過度な介入のためにどこか戯画化されるほどだ。

シモーヌの何事につけ極端な傾向は、両親との関わりのなかで丁寧に見ていく必要があると思える。何にしても、両親の徹底した関心は娘に注がれ、娘の徹底した関心は神に注がれたのだ。

シモーヌの死後、アンドレと両親との間にシモーヌの死や彼女の自筆原稿をめぐって亀裂が生じた。

アンドレの娘で、シモーヌの姪に当たるシルヴィ・ヴェイユ(Sylvie Weil、1942 - )は自著(稲葉延子訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』(春秋社、2011年)の中で「父はこの分析が正しいのかどうかはわからないが、自分の母親がシモーヌの内に、母親がいなくてはならない状態をつくりあげ、それが原因でシモーヌは死んだと見做していた」*15と書いている。

シモーヌが晩年、キリスト教神秘主義に傾斜したその態度には、明晰さに忍び込むあまやかな霧のような、如何にもキリスト教的盲目性と信仰的ムードが感じられ、わたしが影響を受けてきたブラヴァツキーの神智学のような神秘主義的態度とは明らかに違う。

例えば、よくシモーヌの神秘体験として紹介される「プロローグ」*16と名づけられたような体験は、一般的な観点からは特異であるのだろう。

だが、わたしはさりげなく残されたその覚書の彼女独特の厳密さとロマンティシズムとが溶け合わさったような美しい表現にこそ注目するのであって、彼女の体験そのものを過度に重要視することには疑問を覚える。

その体験ゆえに、聖女といわんばかりの書きかたをしたヴェイユ関係の本は多いように思う。この本でも切り札のような使われかたをしていて、それはどうかと思ってしまうのだ。

もっとも、こうしたことにわたしが疑問を覚えるのは、わたしがブラヴァツキーの神智学のような筋金入りの神秘主義に傾倒しているからである。

神秘主義では、肉眼には見えない存在にも届く限りの知性の光を当てることが当たり前のことであるため、シモーヌが書き残した「プロローグ」のようなエピソードをただありがたがったり、忌み嫌うだけといった態度はむしろ異常なことに思えるのだ。

実は、わたしにも生涯に一度だけの体験ではなかったかと考えている、当時は天使かと思った存在との接触があった。

その存在を見たのはありふれた場所で、塾の教室だった。わたしはまざまざと見たのに、わたしのすぐ傍にいた助手仲間にも、塾のオーナーにも、見えなかったらしい。

わたしたちが仕事をしていたテーブルから、いくらか距離を置いたところに、さりげなくその人は立っていた。掃き溜めに鶴――というとオーナーに失礼になるが、要するにありふれた場所といいたい――とはこのことかとわたしは思った。

何という眉目の繊細さ、まなざしの美しさであったろう。

その人は、これまで見たこともなかったような素材でできたごく軽やかにフワフワとして見える、薔薇色を帯びたドレスのようなものを纏っていた。

ただならぬ美しさ、煌きに満ちたその人は、状況から考えると、生徒の母親で、パーティーを抜け出してきたとしか思われなかったが、あまりにも場違いな現象にわたしはどう解釈してよいのかわからなかった。

我を忘れるほどだったが、かろうじてお辞儀をすると、その人もお辞儀をした。それは、その人がまるでわたしの侍女でもあるかのように遜った、それでいて気高い感じを受ける、この世のものならぬ優雅なお辞儀の仕方だった。

わたしは、鈍感な助手仲間に注意を促した。彼女は仕事の手を休めて、わたしの見るほうを見、しばらくその方向を注視したあとで不審そうにわたしを見ると、苦笑しただけだった。次いで、塾のオーナーに注意を促したところ、目で叱られた。『何をしているの、早く、仕事をしなさい!』

その直後に、生徒に注意をとられたということもあって、その人から目を反らした少しの間にその人はいなくなっていた。

後日、喫茶店でそのときのことを助手仲間に問い質したところ、わたしが彼女に注意を促したときのことは覚えていて、そのとき彼女にはわたしが目で示した場所には何も見えず、わたしの行動を変に思ったとのことだった。

今にして思えば、そのとき、わたしは思想の転換期にいた。

大学時代からキリスト教と、それに対峙する形のいわゆる秘教といわれてきた――門戸が一般に開かれている現在では秘教ではなくなっているのだろうが――神秘主義に惹かれていて、どちらに行こうかと迷っていた。両者の思想には重なるところもあるだけに、迷いは深まった。

あるとき、神父さんたちの宿舎のある黙想の家を訪ねようとしたときのことだった。そこへ出かけるのは、何回目だっただろうか。

わたしは庭の像を見ながら歩き、洗礼を受けるかどうか考えていた。そのとき、ある男性的な響きがわたしの内部で響き渡り、驚いて足を止めた。「そこでは、お前の満足は到底得られない!」と声は忠告したのだった。

人にいえば気違いと思われるので、文章にする以外は人には話さないが、わたしにはあの世の空気と前世に関する微かな記憶があり、子供の頃から見守りを感じてきた。

その1グループの存在から来る忠告は、小さな頃はわたしには叱責と感じられることが多かったが、次第に干渉が少なくなり、最近ではその存在をほとんど忘れている。見放されたのかと思うこともあるほどだ。

それで、そのときの忠告もわたしには自然に感じられたのだが、臍曲がりなわたしはその声をあからさまに無視して、黙想の家のほうへ断固として足を向けた。

わたしの迷いはその後も深まるばかりだった。そして、卒業間際に母が倒れ、『枕許からのレポート』*17で書いた内的な体験があった。

天使かと思うほどに美しい人を見たのは、そのしばらくあとのことだったから、今思えば、神智学で高級霊といわれるような高次元的存在が思想的な節目に現れて、神秘主義への門出を祝福してくれたのではないだろうか。子供の頃から見守りを感じてきたグループに関係のある存在なのかもしれない。

わたしはもうお亡くなりになった神智学の田中恵美子先生に、自分の様々なフシギ体験を話した。

すると、それは不思議でも何でもないそうで、便宜上神秘主義には「神秘」とついているが、神智学の辞書に神秘を意味する言葉はなく、人間に解明はされてなくても、全てに科学的な原因があるという。

もっともなことだとは思ったが、わたしは自分が狂人か特別な人間かという観点で揺れ続けた。幸い先生は長生きされたので、自分を特別視したり蔑視したりする習慣は、先生の手紙で叱責されたり、意見されたり、また励まされたりすることで、ほぼなくなった。

人は凡庸なわたしを見て、シモーヌの体験とおまえの体験は所詮格が違うというかもしれない。だが、キリスト教という権威を剥ぎとれば――とわたしは思う。わたしは天使のような高級霊にあこがれ、シモーヌはイエス・キリストにあこがれていた。見たものの違いにはその違いがあるだけではないか――と。

こうしたことを書いたのは、シモーヌの思想のすばらしさはすばらしさとして、一方に苦しさというか、ある限界を感じるからである。

とはいえ、ここで中途半端にシモーヌのある限界を論じるわけにはいかない。したがって、今はこの覚書をささやかな問題提起としておくにとどめたい。

わが国にはエッセー「20 バルザックと神秘主義と現代」(「マダムNの神秘主義的エッセー」)で書いたような特殊事情があって、神秘主義を忌避する傾向があることを指摘しておきたい。

わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。公職追放によって空席となった教育、研究、行政機関にフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢入り込んだといわれる。

わが国のシモーヌ・ヴェイユ研究には偏り、あるいは欠落があるのをわたしは感じてきたのだが、シモーヌの豊かな知性及び情感は左派活動では到底満たされえず、また彼女の厳正中立な精神性がキリスト教会の枠内にも収まりきれなかったのは次の引用からも明白である。

 ペラン神父はすぐさま洗礼を持ち出したが、シモーヌは間髪をおかず、一連の異議を展開しはじめた。洗礼を受ければ、ただひとえにキリスト教に帰依し、他の偉大な宗教のなかに自分が見出した真実を排除しなくてはならなくなるのではないか、とシモーヌは異議を唱えた。さらに、カトリックの教義は教会の外での救済を認めるか否かという問題に、明快に応えてほしいとも迫った。*18

大学時代に博多の書店「リーブル」で初めてシモーヌの本――『超自然的認識』*19――に出合ったとき、何気なく開いた白いページがきらきらと金色に輝き、自分の体が宙に持ち上げられたような――勿論、それは錯覚なのだが――感じを覚えて、これまで覚えたことのなかった類の感動の中で慌てたのを昨日のことのように覚えている。

シモーヌ・ヴェイユの断章「プロローグ」が紹介された『超自然的認識』の訳者田辺先生にお目にかかったことはなかったが、試行錯誤をそのままぶつけたようなわたしの不躾な手紙の数々に美しい返事をくださった。

大学時代に田辺先生と神智学の田中先生に質問の手紙を出してから、お二方はお亡くなりになるまでわたしごときと文通をしてくださった。キリスト者と神智学者の双方に接することで、わたしはバランスを保とうとしていたのかもしれない。

田辺先生はキリスト者、田中先生は神智学者であり、この世における思想の区分では違う場所にいらっしゃったが、いずれも重厚な思想的ムード、人間的な優しさを漂わせておいでだった。このお二方から受けた影響力の大きさは自分でも自覚できないほどだと思う。

マダムNの覚書、2009年3月13日 (金) 22:18
2015年9月8日加筆

*1:フランシーヌ・デュ プレシックス・グレイ Francine du Plessix Gray(上野直子訳)『ペンギン評伝双書シモーヌ・ヴェイユ 』岩波書店、2009
*2:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.6
*3:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』pp.5-6
*4:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.41
*5:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.53
*6:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.54
*7:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.54
*8:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.54
*9:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.63
*10:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.63
*11:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.113
*12:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.120
*13:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.120
*14:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』p.204
*15:S・Weil(稲葉訳)『アンドレとシモーヌ ヴェイユ家の物語』p.152
*16:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』pp.244-246
*17:マダムNの覚書「枕許からのレポート」及び直塚万季「枕許からのレポート(Collected Essays, Volume 4)」ノワ出版、2013年、ASIN:B00BL86Y28
*18:Gray(上野訳、2009)『シモーヌ・ヴェイユ』pp.177
*19:シモーヌ・ヴェイユ(田辺保訳)『超自然的認識』勁草書房、1976

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2015年9月 4日 (金)

シモーヌ・ヴェイユに関する日本での研究に欠けていると思う要素

過去記事「フランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイ著『ペンギン評伝双書 シモーヌ・ヴェイユ』(上野直子訳、岩波書店,2009年)」をキンドル本にする予定の神秘主義的エッセー集に収録する予定ですが、まだ改稿に手をつけていませんでした。

で、新ブログにも公開するので、改稿しておこうと思い、本を再読していました。

そして、ウィキペディアを閲覧しましたが、先日たまたまウィキペディアのフランス版でバルザックを閲覧し、さすがはバルザックの本国のウィキペディアだけあって充実していたことを思い出しました。

バルザックの著作がカトリック教会の禁書目録に載せられていたこともきちんと書かれていました。

要するに、キリスト教会が認める人以外の人々について、彼らがイエス・キリストと同じようなことをしたと書いたり、そうした人々のことを解説したりしてはいけないし、その原理を究明するようなことを書いたりしてはいけないということです。

バルザックの豊饒な文学精神、探究心はキリスト教会の枠からあまりにも堂々とはみ出してしまいました。

シモーヌ・ヴェイユの厳正中立な精神性にも、当然ながらキリスト教会の枠には収まりきれないものがあり、前掲書177頁には彼女がペラン神父に問いかけている次のような場面が描かれています。

ペラン神父はすぐさま洗礼を持ち出したが、シモーヌは間髪をおかず、一連の異議を展開しはじめた。洗礼を受ければ、ただひとえにキリスト教に帰依し、他の偉大な宗教のなかに自分が見出した真実を排除しなくてはならなくなるのではないか、とシモーヌは異議を唱えた。さらに、カトリックの教義は教会の外での救済を認めるか否かという問題に、明快に応えてほしいとも迫った。

わたしはかつて教会に出かけたりしていた大学時代、全く同じような疑問を抱きました。

日本人なので、深刻さはありませんでしたし、返ってくる答えも想像がついたので、別のことを尋ねました。

当時出かけていた3箇所で、アメリカ人の神父さんと日本人の神父さんとイタリア人の神父さんに何を尋ねたかは覚えていませんが、日本語が不自由なイタリア人の老神父さんには当時熱中していたトマス・アクィナスについて何か尋ねました。すると、肖像画の載った系図のようなものを広げて見せてくださいました。

日本ではクリスチャンになることのほうがどちらかというと珍しいくらいですが、ヴェイユが生きていたころのフランスでは事情が違うでしょうね。

話が逸れましたが、以下はフランス版ウィキペディアの冒頭部分とGoogle先生を頼ったわたしのひどい翻訳です。

Simone Weil: Wikipédia

Simone Adolphine Weil est une philosophe, humaniste, écrivaine et militante politique française, sœur cadette du savant André Weil, née à Paris le 3 février 1909 et morte à Ashford (Angleterre) le 24 août 1943. Bien qu'elle n'ait jamais adhéré explicitement au christianisme, elle est reconnue, et elle se considérait, comme une mystique chrétienne.

シモーヌ・アドルフィーヌ・ヴェイユは哲学者、ヒューマニスト、作家、フランスの政治活動家。科学者アンドレ・ヴェイユの妹。1909年2月3日フランスに生まれ、1943年8月24日アシュフォード(イングランド)で死亡した。
彼女がキリスト教会に入会した痕跡はないが、自らをキリスト教神秘主義者とみなしていたと考えられている。

以下は日本版の冒頭です。

シモーヌ・ヴェイユ (哲学者): ウィキペディア

シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)(Simone Weil, 1909年2月3日 パリ、フランス - 1943年8月24日 ロンドン、イギリス)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
彼女は第二次世界大戦中にロンドンでほぼ無名のまま客死した(享年34歳)。戦後、残されたノートの一部が知人の編集で箴言集として出版されるとベストセラーになった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を知人たちが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、何カ国語にも翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。

キリスト教神秘主義者という記述も、神秘主義という記述も日本版にはありません。全文読みましたが、どこにもありませんでした。以下のようなエピソードは採り上げられているのに。

激しい頭痛のなか、彼女は母セルマと一緒に復活節前後の祭式で歌われるグレゴリオ聖歌を聴くためソレム修道院の儀式に十日間参列した。シモーヌは、同じように参加していたイギリス青年から英国の詩人ジョージ・ハーバードの詩「愛」を教えられ、その詩を口唱しているときキリストの降臨を感じる。

ヴェイユには異端カタリ派に関する論文もあるんですけれどね。

アントニオ・タブッキの作品に神智学協会が登場しても、解説には神智学にも神秘主義にも何も触れられていないのを思い出しました。わたしは新ブログの以下の記事で、次のように書きました。

わが国では、第二次大戦後のGHQの占領政策によってマルクス主義の影響力が高まった。公職追放によって空きのできた教育、研究、行政機関などのポストにフランクフルト学派の流れを汲むラディカルなマルキストたちが大勢ついたといわれる。

最初保守系のブログで知り、自分でも調べてみたら、そうでした。日本の文系の分野の研究には偏り、あるいは欠落があると考えるべきでしょう。

保守系ブログの削除が目立ちますが、言論弾圧行為として集団訴訟の動きもあるようですよ。おかしな話ですよね、この国で。もっとも、神秘主義者のわたしはずっと前から感じていましたが。

ちなみに、国会図書館のサイト「カレントアウェアネス・ポータル」には以下の記事で2014年から著作がパブリック・ドメインとなった人々が紹介されていますが、その中にはシモーヌ・ヴェイユも含まれています。

パブリック・ドメインとなっているシモーヌ・ヴェイユの写真が沢山あるので、嬉しくなります。

フランス版ウィキペディアでトップを飾るのは以下の写真。

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Simone Weil (1909–1943) – a French philosopher, Christian mystic and political activist of Jewish origin.
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

日本版では以下の写真。

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Simone Weil in 1921.
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

この写真、美しいと思いますが、ヴェイユの12歳のときの写真なんですよね。

以下は、新ブログにこのところ公開した記事です。

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2014年4月27日 (日)

『シモーヌ・ヴェイユ選集1――初期論集・哲学修業』(冨原眞弓訳、みすず書房)の目の覚めるような魅力。田辺先生の夢。

シモーヌ・ヴェイユの初期論集。書店で見つけて以来、読みたくてたまらないが、図書館の蔵書検索ではヒットしなかった。書店でパラパラとめくってみたところでは、これまでは伝記で断片的にしかお目にかかれなかった学校時代の作文・論文なども収録されているようだ。

追記
よく利用している県立図書館ではなく、新設図書館のほうからシリーズの本全てを借りて目を通した。春秋社『シモーヌ・ヴェーユ著作集』と重なる作品もあるが、この選集でしか読めない作品は貴重であるし、既に邦訳本のあった工場日記なども細かいところまで訳出、紹介されていて、新鮮な印象を受ける。1に収録された学校時代の論文から早くも窺える視野の広さ、表現の瑞々しさ、厳密さと奔放さの混じった考察の魅力は比類がない。

シモーヌ・ヴェイユ選集 1―― 初期論集:哲学修業
シモーヌ・ヴェイユ (著), 冨原 眞弓 (翻訳)
出版社: みすず書房 (2012/1/11)

 この本を借りていたとき、16歳のときの既に論文の形式、内容を備えた貴重な作品をコピーしておきたいと思ったが、うっかり返してしまった。

 シモーヌ・ヴェイユの論文は、宝石箱をのぞき込んだようなときめきを与えてくれるのだが、この本の魅力をきちんと分析するためにはもう一度借りてこなければならないだろう。

 初期論文の言葉の選択の巧みさ、飛翔を目指しているかのような思考傾向は最晩年の論文に至るまで、変質することのない特徴として存在している。

 そして、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユが西洋的思考法という卵の殻を内側から破ろうとして破りきることのできなかった悲劇性は、彼女の最晩年の面影に遭難を予期した登山家のような特殊な輝きを与えているとわたしは思う。

 このところの朝晩の温度差は大きいが、日中は夏日といってもよいくらい温かいせいか、血圧が低下しがちでやたらと眠い。その眠気を覚ますにはヴェイユの論文を読むに限る。

 大学時代に博多の書店「リーブル」で初めてヴェイユの本――田辺保訳『超自然的認識』だった――に出合ったとき、何気なく開いた白いページがきらきらと金色に輝き、自分の体が宙に持ち上げられたような――勿論、それは錯覚なのだが――感じを覚えて、これまで覚えたことのなかった類の感動の中で慌てたのを昨日のことのように覚えている。

 そういえば、昨日、田辺先生の夢を見た。先生にお目にかかったことはなかったが、試行錯誤をそのままぶつけたようなわたしの不躾な手紙の数々に美しい返事をくださった。

 大学時代に、この田辺先生と神智学の田中先生に質問の手紙を出してから、お二方はお亡くなりになるまで文通をしてくださった。

 キリスト者と神智学者の双方に接することで、わたしはバランスを保とうとしていたのかもしれない。

 当ブログのプロフィールに「田辺先生はキリスト者、田中先生は神智学者であり、この世における思想の区分では違う場所にいらっしゃいましたが、いずれも重厚な思想的ムード、人間的な優しさを漂わせておいでになり、お亡くなりになるまでわたしごときと文通してくださいました。つまり、受けた影響力の大きさには否定しようもないものが……」と書いた通り、このお二方から受けた影響力の大きさは自分でも自覚できないほどだと思う。

 わたしの夢の中で、田辺先生は絵画の制作をなさっていた。

 絵には舞台劇が組み込まれており、舞台劇は絵の中で進行中だった。フード付の長衣を着た女性がドクロの眼窩を連想させる黒目がちの目を見張って、迫真の演技を行っている。シェークスピア、あるいはギリシア悲劇のどれかだろうか。

 舞台劇を除いた部分は、何だかクレーを連想させる。シンプルな線が印象的。十字架と、その近くにデフォルメされた2人(3人だったかもしれない)の人物が配置されている。

 わたしは「キリスト教のテーマが強すぎるため、非常に抽象的に感じます。この絵が完全な抽象であれば、むしろわかりやすいでしょうね」と、生意気そうに感想を述べる。

 暗いが、シックで高級感の漂う空間が心地よかった。この夢は何を意味しているのだろう?

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2013年12月24日 (火)

クリスマスイブに思い出すシモーヌ・ヴェイユの断章

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 以前にも一度ご紹介しましたが、クリスマスイブに再度。シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)《プロローグ》より。

★―シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)《プロローグ》より―★

 かれはわたしの部屋へはいってきて、こういった。「なにも理解せず、なにも知らぬあわれな者よ。わたしといっしょに来なさい。おまえが思ってもみないことを教えてあげよう。」わたしはかれのあとについて行った。

 かれは、わたしをとある教会へ連れてきた。新しいが、あまり美しくない教会だった。かれは、わたしを祭壇の前までみちびいてくるとこういった。「ひざまずきなさい。」わたしはこたえた。「まだ洗礼を受けておりません」。かれはいった。「真理が存在する場所の前に出たときと同じように、愛をこめてこの場所でひざまずきなさい」と。わたしは、いいつけられたとおりにした。

 かれは、外に出なさいといい、こんどは屋根裏の一室へ上らせた。そこからは、開いた窓ごしに、町の全体が、材木を組んだいくつかの足場が、荷おろしをしている船が何隻かもやってある川が見えた。かれは、すわりなさいといった。

 わたしたちふたりのほかに、誰もいなかった。かれは話した。ときどき、誰かが入ってきて、会話に加わったが、すぐまた、出ていった。

 もう冬とはいえない頃だった。といってまだ春にはなっていなかった。木々の枝は、まだ蕾をつけず、裸のまま、冷たい空気の中で、日ざしを浴びていた。

 光がさしのぼってきて、輝きを放ち、そして薄らいで行った。そのあと、星と月とが窓から入りこんできた。それからまた新しく、明けの光がのぼってきた。

 ときどき、かれは黙りこんで、戸棚からパンをとり出してきて、わたしたちは分けあって食べた。そのパンは、まさしくパンの味がした。その味にはもう二度と再び出あうことがなかった。

 かれは、わたしにぶどう酒をついでくれ、また自分にもついだ。太陽の匂い、その町が建っている大地の匂いがするぶどう酒だった。

 ときどき、わたしたちは、その屋根裏部屋の床の上に横になった。甘い眠りがわたしの上にくだってくるのだった。そして、目がさめると、わたしは太陽の光を吸いこんだ。

 かれは、教えをさずけようと約束していたのに、なにも教えてくれなかった。わたしたちは、古い友だちどおしのように、とりとめもなく、種々雑多なことを話しあった。

 ある日、かれはいった。「さあ、もう行きなさい」と。わたしはひざまづいて、かれの足に接吻をし、どうかわたしを行かせないでくださいと切に願った。だが、かれはわたしを階段の方へと抛り出した。わたしは、何もわからず、心は千々に砕かれて、階段を下りて行った。いくつもの通りを通りすぎた。そして、あの家がどこにあったのかを、自分が全然知らずにいることに気づいた。

 もう一度あの家を見つけ出してみようとは、決してしなかった。かれがわたしを連れにきてくれたのはあやまりだったのだと、さとっていた。わたしのいる場所は、この屋根裏部屋ではない。それはどこだっていい。刑務所の独房でも、つまらぬ装飾品やビロードで飾りたてたブルジョアの客間の一室でも、駅の待合室でもいい。どこだっていいのだ。だが、この屋根裏部屋ではない。

 ときとして、わたしは、おそれと後悔の気持をおさえかねながら、かれがわたしにいったことを少しばかり、自分で自分にもう一度いいきかせてみずにいられないことがある。わたしがきちんと正確におぼえていると、どうしてわかるだろう。そうわたしにいってくれる、かれはもういないのだ。

 かれがわたしを愛していないことは、よくわかっている。どうして、かれがわたしを愛してくれるはずがあるだろうか。それにもかかわらず、なおかつ、おそらくかれはわたしを愛してくれているらしいと、わたしの中の奥深くの何ものかが、わたしの中の一点が、おそろしさにふるえながら、そう考えずにいられないのだ。

★―シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』(田辺保訳、勁草書房、1976年)《プロローグ》より―★

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2013年5月19日 (日)

カリフラワーサラダ。最近の家庭生活。本の選択ミスだった読書。

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 昨日作ったカリフラワーがメインのサラダです。他にきゅうり、ハム、ゆで卵、ピクルス、キーウイ。ドレッシングは、土井善晴先生のレシピにあった和風ドレッシングを。薄口しょうゆ大さじ2、酢大さじ2、オリーブ油大さじ4。

 このところ、モチベーションが下がっています。

 体調が悪いわけではありません。家事は普通にやっています。家族関係も別に悪くありませんが、各人に見守りが必要な時期とあって、そちらに比重がかかっているということはあるかもしれません。

 金曜日、久しぶりに息子から電話があり、3時間近くあれこれおしゃべり。めったに電話がかかってきませんが、かかってきたときは長話になることが多いのです。近々、また海外出張だとか。

 息子は昨年、初の海外出張でオランダ、ドイツへ行きました。今度はアジア、それもお隣の韓国へ。今インドに出張中の上司と行くそうです。

 韓国と日本の関係は複雑な状況です。息子が韓国で何をどう見て帰ってくるか、土産話に期待したいところです。

 娘は残業が増え(生き残りにしのぎを削らなければならない書店ですから、大変なのです)、疲労回復の時間を必要としているところへ、気晴らしの時間はむしろ多くほしいとあって、睡眠不足になりがちでした。

 金曜日、帰宅した娘が「駐車場を歩いていたときにクラッとめまいがして、座り込んでしまった……」といいました。座り込んだあと、すぐに普通に歩けたそうですが、それを見ていた同じ会社の女性が車で送ってくださったとか。

 数ヶ月前にも一度同じことがあったというので、気にかかりました。娘は小学6年生のときに橋本病(甲状腺機能低下症)と診断され、野口病院に半年に1度通院しています。その受診では特に変わったことはないようでしたが、めまいと聞くと心配になります。

 めまいの原因となりやすい箇所として素人にも思いつくのは、耳、心臓、脳です。メニエール症候群、不整脈、高血圧・低血圧、脳腫瘍などです。あとは自律神経でしょうか。

 何しろ母親のわたしは不整脈歴が長く、現に今も別の心配な不整脈がないかを調べて貰うために携帯心電計をお借りしているところなのですから、娘がそうした体質を受け継いでいる可能性はあります。

 血圧の点からいえば、娘は夫に似た体質なのか、低血圧です。

 意識がなくなったというわけではなく、左脚から力が抜けて座り込んだ――という娘の訴えから連想したのは低血圧から来ためまいなのではないかということでした。

 わたしは本来は高血圧ですが、循環器系の新しい薬が追加された当初、ひどい低血圧になり、美術館の椅子で眠り込んでしまったことがあったほどです。その頃のめまいには、娘のいうようなタイプのものがあった気がします。

 他に症状はないということから、様子を見てもよい気もしましたが、素人判断は怖いので、病院に行ってみたら、と勧めました。たまたま次の日が休みだったということもあり、わたしの通院している循環器クリニックは土曜日も開いているので、そこへ娘は行きました。

 土曜日も開いている総合病院があったので、そちらでもいいと思いましたが、娘は前にウィルス性の腸炎か何かでかかったときに循環器クリニックの先生が気に入ったみたいで、循環器クリニックを選択。

 それにしても、夫も娘も子供みたいに、体のことはわたしに預けたがります。体でどこか不安な箇所があれば、自分で病院を見つけて受診するなり何なりすればいいのに、と思うのですが。

 夫は、過日、定年後の再就職で入った会社の健康診断で、血圧が経過観察となっていました。夫は密かに心配していたようで、わたしの目につくところに健康診断の結果を広げていました。

 上が130ちょうど、下は基準値内で高血圧という判定は、61歳という夫の年齢からすると、厳しすぎる採点ではないかと思いました。それよりわたしは、ほん少しはみ出ているコレステロールが気にかかりました。義母(夫の母親)は中年期から高脂血症だったのですが、脳梗塞で倒れたことがあります。ただし、これは空腹時の採血ではありません。

 念のために病院に行ったみたら、というと、夫はいつものように「別にいいよ」といいました。明らかにもう一押ししてほしそう。そこで、もう一押ししたら、行く気になってくれました。

 総合病院、わたしの通っている循環器クリニック、近くの内科循環器科医院のうちのどれかがいいのではないか、と夫にいいました。

 夫の年齢を考えると、歩いても行ける距離にホームドクターをつくっておいたほうがいいと前から話してはいました。そのよい機会でした。夫は近くの内科循環器科医院を選択。ググってみると、先生は東京の私大(博士課程)卒。連携という点でどうだろうか、とは思いましたが、よさそうな感じはしました。

 成人病の生活指導なども積極的に行われているようなので、夫に禁煙を勧めて貰えるかもしれないとわたしは期待しました。

 夫が健康診断の結果を持参して、そこを受診したところ、血圧は問題ないということで(病院ではもっと低く出たようです。健康診断の基準は厳しすぎると先生もおっしゃっていたとか)、空腹時の血液検査でも特に異常はありませんでした(でも、悪玉コレステロールには気をつけたほうがよさそうな気がわたしはしました)。

 また何かあれば、ということでした。血液検査なども、心配であれば、定期的にしてくださるそうです。

 先生の年齢はわたしくらい、説明は丁寧、お年寄りの患者ばかりだったそうですが、混んでも閑散としてもいず、建物の中は綺麗なほう。

 夫は気に入り、そこの先生が今後ホームドクターになりそうです。ただ、禁煙とか減煙の忠告などは何もなく、この点に限り、わたしの期待外れでした。

 以前から当ブログをご訪問の方はわたしたちが夫に対するストーカーに悩まされてきたことをご存知だと思いますが、夫は、ようやく彼らしい雰囲気を取り戻してきました。自然な表情と活気。

 いつのまについたのか、一緒に暮らすのが嫌になるような品の悪い癖がいくつかついていたのですが、驚いたことにそれも消えてきました。本当に荒みきっていた長い年月があったのだと、改めて考えさせられました。

 今後また、ストーカーという自覚のない女性(及び協力者の〇〇0さん)から何か引き起こされることがあれば、やはり通報しかないと考えています。

 過日、ストーカーに対する警察の方針に変更があったとのニュース記事を見、コピーしていました。ストーカー被害を受けていらっしゃる方々の参考になるよう、ライン以下にクリップしておきます。

 ストーカー(及び、その協力者)には自覚がなく、自らをむしろヒロイン(ヒーロー)のように思っている場合が多いのではないでしょうか。

 精神医学には無知なわたしにも、ストーカー行為は病気から来るものとしか思えない異常さなので、警察の方針転換はよいことかもしれません。専門機関がどの程度、対応できるのかはわかりませんが。

 娘のことからすっかり夫に話題が移ってしまいました。娘が循環器クリニックを受診したところ、問診で先生は「謎解きみたいだねー!」とおっしゃったとか。

「お母さんに行くようにいわれたの?」とも、おっしゃったそうで。借りっぱなしの携帯心電計を返すように娘に伝言があるかもしれないと密かに心配していましたが、それはありませんでした(ホッ。ぎりぎりまでお借りしようっと)。

 体重測定、血圧、脈拍、心電図、血液検査があったそうです。心電図には異常がなく、先生は、娘が座り込んだあと、すぐに歩き出したという点に着目され、血圧が一時的に低下したのではないかとおっしゃったとか。

 座れば、血圧は上がるそうです。わたしも娘のめまいの原因は低血圧ではないかと思っていましたが、座れば血圧が上がるとは知りませんでした。血圧の低下については、特に何もおっしゃらなかったとか。

 診ていただくと、何となく安心しますね。

 血液検査の結果は、もし何かあれば、結果がわかり次第連絡があるそうですが、そうでない場合は都合のよいときに聞きに行けばよいそうです。娘は先生に対する好感度が高まったみたいでした。娘に関する後日談(⇒その後、橋下病で処方されている薬の量が減ったら、めまいがなくなったという)

 ところで、最近、よい刺激を受けるつもりで読んだ本が逆作用を起こしました。本の選択ミスがあったということですね。モチベーションが下がっている、もう一つの原因です。

『シモーヌ・ヴェイユ詩集』(小海永ニ訳、青土社、1992年)に収録されている戯曲『救われたヴェネチア』を読了。

 全体にギリシア悲劇や旧約聖書の『ヨブ記』を連想させる格調高いムードがありましたが、戯曲で未完とはいえ、人物造形が全然できていません。

 ヴェネチアを侵略しようとする側の指導者(主人公)が、純粋(プロメテウス、ヨブ、イエス・キリストをモデルとしたに違いないヴェイユの意図を考えると、ここは超自然的憐れみというべきかもしれません)というにはあまりにも単純に、十人会という都市を管轄する中枢機関に計画を明かしてしまうというストーリーも、ちゃちに感じられました。

 これでは、子供です。子供も純粋思考を行います。ここで、主人公が幼稚に見えてしまうようでは、台無しです。格調高い台詞をいわせればいわせるほど、逆効果となります。

 ただ、侵略されれば男は殺され、女は犯された挙げ句に殺されたりする(ことも起こりうる。舞台は中世です)――といった点が生々しくクローズアップされていて、そのあたりは秀逸に思えました。

 人物造形、ストーリーのあまりの単純さから、ヴェイユの哲学自体に不審の念すらわき、改めてヴェイユの諸著を読み返して分析してみたい欲求に駆られました。

 哲学者として知られるシモーヌ・ヴェイユに、文学の能力まで期待するのは欲深なのかもしれませんが、がっかりする気持ちがわたしの創作に対するモチベーションを下げてしまったことは否めません。

 もう1冊、児童書。

 すごいなあ、また本が出ているじゃない、と思いながら、期待による興奮と嫉妬でドキドキしながら、本を開きました。

 その人ならではの綺麗な文章……と感じ、作品に対する期待感と充実した作家生活に対する嫉妬心がmax。読んでしまいました。うーん。

 夢を見ないといっていた癖に、なぜ夢の場面がしきりに出てくるのでしょう? 物事の解決に、安易に夢を利用しすぎている気がします。

 記憶が失せている幼い頃の罪な行為に主人公の注意を喚起し、主体的な行動を起こさせることで、罪自体を浄化しようとする作者の動機が読み取れました。

 が、そもそも、幼い悪戯心でした行為と事故とは直接に結びつくものではなく、仮に結びついたとしても、そんな事態を招いたのは明らかに大人たちであるというのに、それが罪などという大袈裟なテーマのもとに展開するなんて、わたしには考えられないことでした。

 あっちも、こっちも、不自然なところだらけ。

 材料を寄せ集めてつなぎ合わせたような作風、とってつけたようなテーマを指摘してしまい、わたしとその人との文通が終了してしまった苦い過去がありました(他にも、たぶん、色々な失礼をわたしは働いたのでしょう)。

 文章は完璧、表現力もすばらしい。そういった面には磨きがかかっているというのに、まぁーだこんな書き方をしているんだ……と心底がっかりしました。

 そのような書き方がその人にとっては自然で、それについて批判するわたしの方が間違っているのかもしれませんが……。

 そのような書き方をした作品でないと今の日本の児童文学界では通らないんだとつい繰り返し思い、わたしのモチベーションは下がるところまで下がりました。

 電子書籍を作っても、所詮は埋もれるだけ。それでも、いい加減、また作り始めますがね。モチベーションの回復しないままに。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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2013年5月 4日 (土)

ゴールデンウィークに借りた『シモーヌ・ヴェイユ詩集』、『死海文書のすべて』

 シモーヌ・ヴェイユの戯曲『救われたヴェネチア』が以前から気になっていたので、それが収録されている『シモーヌ・ヴェイユ詩集』(小海永ニ訳、青土社、1992年)を図書館から借りてきた。

 以下の構成。

  • 編集者のノート
  • ポール・ヴァレリーの手紙
  • 詩編
     金持ちの若い娘に
     聖シャルルマーニュの会食時に読まれた詩
     稲妻
     プロメテ
     ある一日に
     海
     必然
     星
     扉
  • コント 火の妖精たち
  • 救われたヴェネチア
     《救われたヴェネチア》に関するノート
     第一幕
     第ニ幕
     第三幕

 シモーヌ・ヴェイユの伝記に、詩をヴァレリーに送り、返事があった旨が書かれていたので、詩に関しても興味があった。

 ざっと見たところでは、ギリシアの古典に題材を求め、詩のスタイルもそれ風で、さすがはシモーヌ・ヴェイユというべき志の高さを感じさせるが、荒削りで、学びの段階にあるという印象。

 彼女に潜む科学的傾向が、象徴的表現とうまく協調できていない。シモーヌはこれ以降詩作の道を歩みはしなかったから、手法的な模倣・模索期に留まったことになる。

 ヴァレリーは詩の初心者に対して、長所短所を言葉を尽くして述べ、激励で締めくくっている。この頃のフランス文学界にはヴァレリーが健在だったのだと改めて思う。以下は過去記事で紹介したヴァレリーの詩。

『火の妖精たち』は、シモーヌが11歳のときに書いた童話だという。戯曲も読むのはこれからだが、全体にみずみずしさが溢れていて、よいゴールデンウィークになりそうだ。

 死海文書関係ではトンデモ本も多いようだが、これは本格的。少し読んだところだが、ひじょうに興奮する。訳者は、日本における古代ユダヤ研究の第一人者、秦剛平氏。

 カロッサの本も引き続き、沢山借りた。第一の目的は以下の続きを書くためだが、単に読みたいから、ということもある。バランスのとれた作風で、心身共健全へと導かれる気がする。カロッサ、医師であっただけのことはある(?)。

 オルダス・ハクスリーを読むと、ベザント夫人などと出てきて、その頃、神智学協会の会長はアニー・ベサントだったのだろう。Wikipediaによると、

  • アニー・ウッド・ベサント(Annie Wood Besant, ベザントとも表記されるが発音は「bɛsənt」, 1847年10月1日 ロンドン、クラパム - 1933年9月20日 インド、アディヤール)
  • オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894年7月26日 - 1963年11月22日)

 アニー・ベサントというと、1925年にノーベル文学賞を受賞したバーナード・ショーとの関係が有名だが、そのあたりもリサーチしてみたいところだ。

 他にも、神智学を囓った人物と関係のある面白い著作を見つけた。②で触れたい。

 だが、体調が戻ったので、先に電子書籍を作ってしまおうと思う。連休明けにでも、またキャンペーンをやろうかと考えている。

 追記:
 ウィキペディアの以下の記述を読むと、アニー・ベサントとオルダス・ハクスリーは深交があったようだ。ウィキペディアより抜粋。

Wikipedia:アニー・ベサント  
 1927年、アニーはカリフォルニア州オーハイ(Ojai)に2.0km2の土地を購入し、オルダス・ハクスリー、ジッドゥ・クリシュナムルティらと学校建設を夢見た。1933年、アニーは亡くなったが、学校はHappy Valley Schoolとして1946年に開校した。2006年、学校はアニー・ベサントを記念して、ベサント・ヒル・スクール(Besant Hill School)に改名した。

 Wikipedia:オルダス・ハクスリー
 ハクスリーは意識の拡張に関心を持っていた。1944年の著書『永遠の哲学』では古今東西の神秘主義者の思想を引用抜粋し、神的な実在を認識した人間の思想を研究した。 特にインドの哲人クリシュナムルティとは長年家族ぐるみで親しく交流し、深い影響を受けた。”

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