カテゴリー「オペラ・バレエ・コンサート」の17件の記事

2013年2月25日 (月)

ドイツの指揮者ウォルフガング・サバリッシュ、亡くなる

 ドイツの指揮者ウォルフガング・サバリッシュが22日、亡くなった。89歳だったという。

 博多で、サバリッシュ率いるフィラデルフィア管弦楽団の演奏を聴いたことがあった。テレビでサバリッシュとフィラデルフィア管弦楽団のファンになっていたわたしはその日を楽しみにしていたが、期待外れだった。

 どういうわけか、管弦楽団の音がバカに小さく聴こえた。

 それに、楽団の人たちは感じがよかったが、サバリッシュからはテレビの温かなイメージとは違い、冷ややかな印象を受けて意外というかショックだった。

 アジアの田舎の聴衆がお気に召さなかったのだろうか……そんなことまで考えさせた指揮者は、サバリッシュだけだ。もしかしたら、体調が悪かったとか、そういったことからテレビとは別人に見えただけかもしれないが、あれは何だったのだろうと時々考えることがあった。

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2010年11月10日 (水)

スロヴァキア放送交響楽団。そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団について少しだけ(これについては改めて)。

 深夜ぽっかり目を覚まして、これを書いている(現在4時過ぎ)。

 昨日、スロヴァキア放送交響楽団を聴きに行ったときはなんといっても、前日に聴いたイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の完璧でありながら自然で優しい、至福の響きがまだ余韻として残っていた。

 メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の古いプログラムを探し出してみると、前回わたしが聴いたのは1991年12月5日福岡サンパレス・ホールだったことがわかった。わたしはそのとき、33歳だったはずだ。

 そのときからほぼ20年、本物のヴァイオリンの音とはあの彼らが奏でる音のことだと思い続けてきた。再聴した今もその確信にゆらぎはないどころか、一段と確信は深まった。

 すばらしいのは勿論ヴァイオリンだけではない。『田園』を奏でる管楽器の音が鳥の囀りにしか聴こえなかった……そんな響きなのだ。また打楽器の美しさ。

 初めて聴いた娘は「あんなに綺麗なヴァイオリンの音は初めて聴いたよ。澄んだ水みたいな音だった。一人一人のクオリティーがおそろしく高いね」と繰り返した。

 パンフレットには「イスラエル・フィルは結成当時以来の伝統である、優秀なユダヤ系音楽家の奏でる響きで、いまやウィーン・フィルやベルリン・フィルの弦楽セレクションの響きをしのぐ、“世界一の弦”と称せられるほど、艶やかで独特の濃密な色彩感をそなえている」と書かれているが、わたしは下手なオーケストラを聴いたあとでウィーン・フィルを聴き直すことがよくある。彼らの響きは一流で、狂いや乱れがなく、完璧だからだ。

 しかし如何に完璧であろうと、無機的なウィーン・フィルやベルリン・フィルの響きに感動したことは一度もない。なまを聴けば違うのだろうか。

 乳とはちみつの流れる小川のような響きだと今回わたしは思ったイスラエル・フィルを聴いたあとだった不運に加え、2005年にはプラハ国立歌劇場の格調高いオペラ『アイーダ』に惚れ惚れした記憶もあったのだ。

 チェコスロバキア共和国は、1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離した。いうまでもなく、プラハ国立歌劇場はチェコを代表する歌劇団だ。

 プログラムによると、スロヴァキア放送交響楽団は「放送を通じて広く国民に音楽を楽しんでもらうことを目的として」1929年に誕生した。1949年にコンサート専門のオーケストラ、スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団が誕生して、そちらに一部の楽員を持っていかれたり、常任指揮者に関しても紆余曲折あったようだ。

 つまり金返せとはいわないまでも、スロヴァキア放送交響楽団の演奏は、わたしはつまらなかった(それでもなおN響よりはましだった。N響はあんなんでいいのか?)。

 のそっと響いてきてぼやーと煙る管楽器の音。テキトーに叩いているとしか思えない打楽器。トライアングルの響きがあんなに脳天気に聴こえた珍妙な『新世界』をわたしは生涯決して忘れないだろう。

 ヴァイオリンは聴かせどころは一生懸命練習していると見え、熱の入ったよい演奏だった。しかし、興味を惹かれない部分もむらなく練習に励んで貰いたいものだ。

 そんな練習光景すら、演奏から透けて見えてくるありさまではあった。娘はしきりに「若いメンバーが多いみたいだから……」といってなぜかフォローしていた。

 イスラエル・フィルには1人として必要でない弾き手は存在しないと感じさせる意識と技術の高さがあり、また彼らが演奏すると、作曲家は楽譜に1個たりとも無駄におたまじょくしを置いたりはしていないと思わされるが、スロヴァキア放送交響楽団で聴いていると、1人2人メンバーがいなかったり増えたりしたってどうってことはないんじゃないかと想えてくるし、おたまじょくしもテキトーに置かれたりしたのかしらんと感じられてくるのだった……ナンタルチア!

 イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団とロシア・ナショナル管弦楽団は、どちらをとればよいかわからないくらいわたしの好きなオーケストラだ。

 イスラエル・フィルの手にかかると、元々好きなベートーヴェン『田園』ばかりか、乙女の生贄の儀式なんぞを描いた調子っぱずれ(?)のストラヴィンスキー『春の祭典』までもが、最後まで聴かされてしまう。すごい迫力だった。それでいて、もの優しい響きだった。彼らの演奏はなぜあんなに優しいのだろう。

 ところで、わたしが現在執筆している児童文学作品『不思議な接着剤』のヒロインはマグダラのマリアだ。正確にいえば、『マリアによる福音書』をシンボライズした女性だ。

 インド人指揮者ズービン・メータに率いられたイスラエル・フィルの完璧でありながら自然で豊かな演奏は、作品を進める上での励ましにも、参考にもなるものだった。行けてよかった。作品は時間がかかっても完成させたい。

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2010年5月 3日 (月)

中村紘子のピアノ・リサイタルで、フジ子・ヘミングを想う

 先月10日の中村紘子のピアノ・リサイタルから日が経ってしまったが、若干メモがあるので、過去記事と合わせて書いておくことにした。

 以下は、プログラム。1961年12月、東京文化会館での初リサイタルの再現プログラムとのこと。

  • スカルラッティ[タウジヒ編]
    パストラーとカプリス
  • ベートーヴェン
    ピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」Op.13(※作品13番の意)
  • シューマン
    謝肉祭Op.9
  • フォーレ
    ワルツ・カプリース第1番Op.30
  • ラフマニノフ
    10の前奏曲Op.23より〈変ホ長調〉Op.23-6、〈ト短調〉Op.23-5
  • ショパン
    バラード第1番ト短調 Op.23
    12の練習曲Op.10より第5番 変ト長調「黒鍵」、第12番ハ短調「革命」
    ポロネーズ変イ長調Op.53「英雄」

 20100410161249

 アンコール曲は以下。

  • ドビュッシー
    月の光
  • ラフマニノフ
  • ショパン
    ワルツ第2番
  • グラナトス
    アンダルーサ
  • ブラームス
    ハンガリー舞曲第1番

 光沢のある白地に、黒いラインと黒い花の模様の入ったドレス姿で紘子さん、登場。背中から、床に引き摺る長いリボンが垂れている。時折、宝石がきらめく。テレビで観る通りの華やかさで心が浮き立った。夫の双眼鏡を借りて行ったので、表情までよく見える。引き締まった顔つき。

 昔、教育テレビの『ピアノのおけいこ』をよく観ていた。エッセーも好きで、考えかた、感じかたに共感を覚えてきた。それで、かなりの期待と共に、耳を傾けたのだった。

 なめらかで上質、均整がとれているという当初の印象。要所で確認をとるかのように小さく頷く癖もお馴染のもので、楽しい。

 しかし、この時点から既にわたしはフジ子・へミングの演奏と比べていて、「フジ子のように、何が出て来るかわからない面白さはない」などとメモっている。

 劇的な曲になると、紘子さんとフジ子の違いが歴然としてくる。

 フジ子に比べて、表現が表面的で、曲想を掴みえていないのではないかと感じさせるが、紘子さんのエッセーなどからして頭でわかっていないとは思えないため、これは体験から滲み出るものの違いとしか思えなかった。テレビのコマーシャルで観ているほうがよかった、とまで思う。 

 後半近くから、わたしはもうフジ子のことしか考えていなかったので、メモにはフジ子のことしか書いていない。紘子さんには失礼な話だけれど、こんな事態は自分でも予想外だったのだ。

 あれは英雄だった――妙に紘子さんの演奏がガンガン乱暴に聴こえたのは。帰宅後に、同じ曲をCDで聴いたフジ子のほうは、重苦しかった。

 このことから、両奏者のタッチの質の違いと、彼女たちがいずれも楽譜に忠実な弾きかたをしていることが推測できた。

 楽譜に、強いタッチをするようにとの指示が連続して下されているに違いない。

 指が太くて重厚な音を出せるフジ子は重くなりすぎ、軽い音になりがちな紘子さんのほうはガンガンうるさく聴こえたのだった(声量の乏しい歌手が声を張り上げているような感じ)。

 紘子さんの場合、模範的な弾きかたという印象で、ピアノのレッスンの域を出ない。強いていえばサロン芸術という感じの演奏……。

 そうした見方からすると、フジ子のピアノは――服装までもがそうだが――ジプシー的、野生的。大自然と人間社会の香りがし、双方に対する並外れた理解力と彼女独自の哲学を感じさせる。また純然たる霊性の美の輝きわたる瞬間がある。フジ子の演奏には天から地までが含まれるのだ。バルザックの文学がそうであったように。

 フジ子のよさが改めてわかった、中村紘子のピアノリサイタルだった。

 芸術家とは、分野は違っても哲学家、そして神秘家でもあるのだ――と改めて、わたしは思った。そうでないピアニストは、職業としてピアノを選んだ職人にすぎない。職人的ピアニストが大勢を占めるなかで、フジ子はやはり芸術家としてのピアニストなのだ。

 風雪に耐えて弾いて来たフジ子。それは決して無駄ではなかった。叩き込まれた古き佳きヨーロッパのピアニズムが、彼女の感じかた、考え、思想を濾過し、純度の高いものにしている。

 そして、また、若い頃のフジ子の失敗――デビューコンサート前日に聴力を失い、当日の失敗を招くという彼女の苦い経験――は、偶然ではなかったのだと思った。

 彼女はプロにしてはミスをしがちだ。大ステージでの経験が不足していることが原因だろうか、と考えていたが、中村紘子と比較してみて、そうではないとはっきりとわかった。

 フジ子は神経が細すぎるのだ。若いとき、彼女はプレッシャーに勝てなかったのだ。それで、デビューの大舞台をふいにしてしまった。

 彼女はミスをすると、混乱状態となってミスを重ねたり、投げたような感じになることがある。そのナイーヴは生まれつきのもので、彼女の芸術家としての感性を研ぎ澄ませてきた反面、諸刃の剣となって、彼女自身を傷つけてきたのに違いない。

 彼女の求道性は、そんな切迫した感性のありかたがもたらした面もあるのかもしれない。一個の芸術家は、不思議な生まれかたをするものだと思う。彼女の遅いデビューは、多分悪魔がもたらした悪戯などではなく、必然だった……! 

 革命。フジ子の演奏では、左手がもっと重く、うねるように持続的に響いた。激動の革命の内部構造が見え、民衆の息遣いが聴こえてくるようだった。

 フジ子はペダルの使いかたが絶妙だと感じたが、それはドビュッシーのような抽象性の高い曲では、ひときわ生きていた。紘子さんのドビュッシーは味気ない。

 紘子さんがアンコールで弾いたラフマニノフの鐘(真央ちゃんが滑った曲)を、フジ子で聴いてみたいと思った。

 ただ、紘子さんは楽譜通りに狂いのない弾きかたができ、音に色がないだけに、平均的なオーケストラには合わせやすいのではないだろうか。フジ子は過度に敏感でミスする頻度も高いから、よほど熟練した、フジ子の芸術性を理解できるオケでないと、うまくいかないだろう。

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2010年5月 1日 (土)

シネマ『パリ・オペラ座のすべて』を観て~芸術に関する国家的制度の違いに目から鱗

『パリ・オペラ座のすべて』
監督:フレデリック・ワイズマン
出演:パリ・オペラ座エトワール他ダンサーたち、ブリジット・ルフェーブル、パリ・オペラ座職員
2009年/フランス・アメリカ/160分/翻訳:古田由紀子/配給:ショウゲート

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 最終日だったためもあってか、いつもは少ない館内が最前列を除いて、ほぼ埋まっていた。中年女性が大半だった。

 事前にネット閲覧した『パリ・オペラ座のすべて』のレビューでは眠くなるとの感想が多かったが、娘も途中、上半身が大きく右に傾いでいた。

 元々、モダン・バレエというものがぴんと来ない、と娘。わたしも、『パリ・オペラ座のすべて』というドキュメンタリーに断片的に挿入されていたパリ・オペラ座の演目の中では、クラシック・バレエの演目のほうが優雅さという点で、好みに合う。

 ナレーションが一切ないので、わかりにくかった。

 あれは何というモダン・バレエの演目だったのか――薄い黒衣を纏った狂乱の女が、男の子と女の子にバケツの赤い液体を両手でなすりつけて、血で染まったようになった子供たちは空のバケツをそれぞれ頭から被せられて横たわるという怖い場面があった。

 子殺しの場面なのだろうが、表現が直接的すぎてわたしはしらけ、掃除が――まさか赤い液体はペンキではないだろうが――大変だろうな、とか余計なことばかりに気が散った。

 パリ・オペラ座の舞台裏は、想像以上に地味で淡々としていた。

 建物は相当に古い。衣装作りの工房は狭くて、昔ながらの手作業といった感じだ。被り物が沢山あって、『くるみ割り人形』に使われるのだろう、リアルなネズミの頭部が作られていた。

 メイク、ライト、掃除の作業員に至るまで、カメラが向けられる。食堂も狭い。バイキング形式にトレーが並べられ、ほしいものをいって、とって貰う。クスクスが人気だった。屋上で養蜂が行われていたのは、あれは何だろう? 時折映し出されるパリの景観。生々しい、ちょっと窶れた中年女性のように見えるパリ。

 芸術監督ブリジットはそんなパリが乗り移ったかのような風貌の考え深そうな、かつ、さっぱりとした印象の中年女性で、熟練したものを感じさせ、さすがに意識が高そうだった。

 頻繁に行われているらしいスタッフのミーティングで彼女は、古典的な演目も大事にしていきたいというようなことを主張し、バレエ学校としての意義を説いていた。初めて大役に抜擢された若い女性に「人生って素敵ね」という。

 稽古場も古い。ダンサーたちは、無表情で黙々と練習に励んでいた。

 女性ダンサーは西洋人の特徴ということもあるのか、ほとんどが相当な錨型。彼女たちは男性かと思うくらいに骨張っていて筋肉質で、二の腕も脹ら脛も筋肉隆々。浮き出た骨と盛り上がった筋肉のため、たおやかな人体というよりは、昔理科室で見た人体を構造面からデフォルメした模型のようにすら見える。彼女たちはノーメイクに見えた。

 それが舞台に上がると、くっきりとしたメイクに劇的な表情、衣装とライトの効果、しなやかな身のこなし、流れるような動き……目が覚めるような女性美の表現者となる。

 ダンサーの定年は42歳、年金受給は40歳からだそうだ。団員たちとのミーティングで、経営責任者のように見える男性が、改正になった特別年金受給制度について説明し、またダンサーの引退後の地位について労働省と交渉中だといっていた。

 パリ・オペラ座は、ルイ14世が創り上げた世界最古のバレエ団だという。フランスという国家がパリ・オペラ座の運営には関与しているようだ。

 ダンサーは、修道女の我慢強さとボクサーの強靱さを兼ね備えなくてはならないそうだ。

 華やかな芸術の舞台裏というものは、総じて地味で淡々としたものなのだなあ……と改めて考えさせられたのは新鮮だった。ただ、映画の作りまでもが地味で淡々としすぎていた嫌いもあった。

ネット検索・閲覧したところでは、パリ・オペラ座の154名の選ばれたダンサーとそれを支える1500人のスタッフは国家公務員なんだそうだ。パリ・オペラ座の舞台裏がどこかしら旧ソ連を連想させたのも、地味だったのも、その割には安定感が感じられたのも、そうした制度と無関係ではないだろう。
 これは改めて、フランスの芸術と国家の関係について調べてみる必要がありそうだ。民間の恣意的な展開にしては、フランスの芸術の純度の高さとその維持が不思議で、ずっと何となく疑問に思っていたのだ。とんまなことにようやく、その秘密の一端に触れえたわけか!

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2009年9月20日 (日)

デアゴスティーニのDVDオペラコレクション

デアゴスティーニのDVD<br />
 オペラコレクション

 娘が買ってきた、デアゴスティーニの隔週刊DVDオペラコレクションNo.2『椿姫』を今から夜更かしして観ます。1,990円で、家にいながらにしてオペラが楽しめるなんて!

 娘はNo.1『カルメン』も買ってきたので、既に観ました。これが何と演出は、フランコ・ゼッフィレッリですよ。しかも、創刊号は990円……。

 『カルメン』『椿姫』を生で鑑賞したときのことを思い出します。

 どちらも金返せ!とまではいいませんが(あの値段であれだけの舞台は、贅沢だったとは思いますが)、わたしの芸術的満足感に打ち震えたい心にとっては満足のいくものではありませんでした。

 特に演出に疑問が残ったのでしたが、さすがゼッフィレッリの演出はきちんとした中にも新鮮さを感じさせ、すばらしいと思いました。舞台に立つ出演者たちは、絵画の中で動いているかのようでした。

 カルメン役のオブラスツォワがもう少し若ければ、と思わないでもありませんでしたが、あの年齢といくらかふくよかであればこそ、あれだけの円熟味のある声が出せるのでしょうね。ホセも、エスカミーリョも聴かせてくれます。

 またカルロス・クライバーの気品のある指揮姿に、うっとりとなってしまいました。

 さて、これから鑑賞する『椿姫』はどうでしょうか。

 と、既に始まっているのですが、椿姫役のゲオルギューは若くて綺麗です。が、カルメン役をしたオブラスツォワに比べると、声量のなさは歴然としています。全体にウィーン国立歌劇場の『カルメン』に比べれば、このコヴェント・ガーデン王立歌劇場の『椿姫』は迫力に欠けます。

 ……。

 ああっ、主役同士がかぶりつき合った! いや、接吻か……。技術と才能が足りないと、演出も偏らざるをえないのでしょうか? ちょっと我慢できないな、この『椿姫』。オペラを披露するって、大変なことなんだわ! でも、1,990円でこの文句は間違っていますよね。ごめんなさい。

 マリア・カラスの『椿姫』を聴き直して、寝ます。同じ硬質でも、カラスのあの声量……あれが恋しくなりました。

 一緒に鑑賞していた娘は、とうに爆睡状態。では、お休みなさい。よいシルバーウイークを!

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2009年7月20日 (月)

シネマ『マリア・カラスの真実』を観て

 『マリア・カラスの真実』は、私的映画ブームのフィナーレを飾るにぴったりのドキュメンタリー映画だった。もっとよい状態でカラスの歌と映像が残っていれば、映画ももっとよいものになっただろうに、と思わずにはいられなかったけれど。

 マリア・カラスについては、断片的にテレビなどで見聞きしたことがあった以外は、昨日の記事にも書いたようにせいぜい、オペラ演出家・映画監督として著名なフランコ・ゼッフィレッリ著『ゼッフィレッリ自伝』(木村博江訳、創元ライブラリ、1998年)で彼女について書かれた箇所を読み、CD『椿姫』(ジュリーニ指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団及び合唱団、1955年Live)を聴いたことがある程度だった。CDは、2007年10月13日にバーデン市立劇場の『椿姫』を観に行ったあとで、カラスと聞き比べたくなって求めたものだった。

 何日も、映画の感想を書こうと思いながら書けなかった。カラスに圧倒されたため、といってよい。何も本格的なものを書こうとするわけではなく、軽い雑感を書くつもりにすぎないのに、書こうとすると畏怖の念が生じる。

 そう、カラスのことを書こうとすると、『ギリシア神話』に出てくるムーサ女神たち(ミューズ)に見られる気がして怖くなるのだった。

 映画の中でカラスがギリシアの円形野外劇場でリハーサルをする場面が出てくるが、彼女はまさに古代ギリシアの残り香を発散する女性であることをわたしは実感した。『ギリシア神話』に出てくる激烈で個性的な女神たちは、現実に存在したギリシア女性がモデルになっているに違いないが、カラスには、その女神たちを髣髴させるムードがあった。

 娘が映画館でCDとDVDがセットになった『マリア・カラス 永遠のディーヴァ』を買った。DVDのコンサート場面を観ながら、何てゆたかな表情だろうと思う。あの激しさは何なのだろう、そしてあの優しさは……。高みを見つめ続ける精神からしか出てこないものではないだろうか。カラスが愛し、生涯で最も多く歌ったオペラが『ノルマ』であるということは、その例証であるといえる。

 CDに『ノルマ』第一幕からの抜粋曲《清らかな女神》が収録されているので、何度も聴いたが、今もそれを繰り返し聴きながらこの記事を書いている。何度聴いても、戦慄するほどの美しさだ。神聖感があるのである。ムーサ女神たちの息吹が感じられるのだ。高みへ、高みへと昇りゆこうとする精神と同時に憂い――あくまでも清浄感のある憂い――を感じさせる歌声といったらいいだろうか。

 カラスの歌声には、ほとんど人間の声とも思えないところがある。天空に向かって紗をかけたように響き拡がる高音域の声からも、重厚にシックに響く低音域の声からも、そのゆるぎのなさからだろう……パルテノン神殿の柱を連想してしまう。

 CDの曲目解説から『ノルマ』のあらすじを以下に拾ってみよう。

カラスが生涯で最も多く歌ったオペラ《ノルマ》。ローマの支配にあるガリヤの地で、民を率いる神聖なる巫女ノルマが、実はローマ人の武将と愛し合い、子供まで儲けてしまったものの、男の裏切りを経て、最後には人々に全てを告白、燃え盛る炎に身を投じるという物語である。

 《清らかな女神》は、「月光が降り注ぐ中で、儀式に挑むノルマが祈りを捧げる1曲」だそうだ。

 現代に生きる我々にとっては他愛ないただの恋も、民を率いる神聖な巫女にとってのそれは神を欺く忌まわしい所業であり、国賊に値するような犯罪行為でもあるだろう。

 マリア・カラスその人は、神か彼かというほどの高い愛を願い、求めた人であったに違いない。そのお相手が海運王オナシスだったとは皮肉という他はない。ゼッフィレッリは前掲の著書の中で、カラスとオナシスとの関係をよくリポートしている。

 1923年、ギリシアを故国とする両親の元に生を享けたマリア・カラス。本名はカラスではなく、如何にもギリシア的なカロゲロプーロスである。ニューヨークに出た両親が薬局を始める際に改姓したのだった。

 実はわたしは映画の初めのほうを見損なったのだが、映画のパンフレットによると、マリアは、オペラ歌手志望だった母親からオペラの英才教育を受けたようである。それも、公立図書館で音楽資料を聴かされるといった知的な学習が中心だったようだ。カラスが他のオペラ歌手たちとは一風異なる、独自の世界を強く感じさせる基盤がこの頃に作られたと見てよいのではないだろうか。

 マリアがジュニア・ハイスクールを卒業後に、両親は別居、母親は姉とマリアを連れてギリシアのアテネへ移住する。ここでマリアはピアノと歌のレッスンを開始し、楽譜研究に没頭するなどして、そのストレスから太り始めたようである。

 マリアのオペラ歌手としての基礎を作った母親であったが、マリアとの関係は良好とはいえず、金銭をめぐっての確執が続いた。

 イタリア・デビュー後に、マリアは28歳上のヴェローナの実業家メネギーニの愛人となり、彼がマネージャー役となる。やがて結婚。スカラ座のスターとなったときから、彼女はダイエットを始め、100キロ以上あったのが、1年半で40キロのダイエットに成功したというのだから凄い。痩せて、声は硬質になった気がした。

 メネギーネは、マリア・カラスが恋心を傾けるには年寄りすぎた。そこへ狼よろしく現れたのが、アリストテレス・オナシスだった。

 映画を観ると、カラスがオナシスに遭ったが運の尽きであって、ムーサ女神たちの巫女であったカラスには諸刃の剣のような相手であったことがよくわかる。彼女は性的に満たされ、才能はオナシスを得てほんの一時燃え上がったかもしれないが、オナシスによって燃え尽きたのだ。

 カラス自らがそれを望んだともいえよう。人間離れのした技を見せ続けなければならない日々に疲れていたに違いない。そんなカラスの弱みに、オナシスは打ってつけの男だった。ゼッフィレッリは書いている。

引退の理由であるオナシスとの関係が彼女の待ち望んだ幸せをもたらしたのなら、私は彼女をそっとしておいただろう。しかし、そうではないことが次第に見て取れるようになった。二人一緒のときには常に幸せを装い、彼女がまだオナシスに夢中なのは明白だった。悪いことに、彼女が絶望的に愛を捧げれば捧げるほど彼の中の最悪のものが刺激され、彼女にありたけひどい仕打ちをするのだった。彼のサディズムは限度を知らないようだった。彼女を侮辱し、とくに昔馴染の前でそれを見せつけたがり、絶対に結婚の兆しは見せなかった。にもかかわらずマリアは自分のギリシア正教にこだわり、教会での結婚に憧れた。流産したという噂もあった。本当だとすれば彼女にとっては猛烈な打撃だったに違いない。「女神」マリアが子供に対して完璧な母親になれたとは思えないが、自分のキャリアが傾きかけている今、彼女は普通の生活を望んでいたに違いなく、それが与えられなかったのは、痛ましいほどの虚しさを感じただろう。

 映画は、カラスがオナシスとの間に儲けた子を死産した事実に触れていた。ゼッフィレッリは、次いで、こうも書いている。

自らも子供を亡くしたマリアは、ノルマと彼女の手を振り切ろうとする子供たちについて全身全霊で歌うことができた。「トスカ」とはまた異なるマリアの情熱の反面を示すもので、オナシスと関わる以前には決して表現できなかったと思われた。背筋が寒くなるほどの迫力で、彼女は歌の内容と一体化した。

 人間は、どういうわけか、自分に対してひどい仕打ちをする人物に執着するものである。相手を頭の悪い、品性の低い、下等な人間と割り切ることがなかなかできない。あたかも生贄を欲する邪神に囚われたかの如く、自分を理解する能力のない相手に自分をわかってほしいと懇願し、自身の最後の血の一滴までも貢ぎかねない衝動に駆られる。

 しかしカラスに卑劣な振る舞いをしたオナシスは、たぶん、どこかで、ムーサ女神たちに八つ裂きにされたに違いないとわたしは思うのだ。ムーサ女神たちは、崇高であると同時に怖ろしい女神でもある。歌の競い合いをして敗れた男性の両眼をくり抜き、吟唱の技を奪うような神々なのだから。

 カラスの死後、遺品が早々と競売にかけられて四散し、記念館を建てられないという事実も、カラスの恋の無残な結果を物語るかのようであるが、その痛ましさにおいてもスケールが大きい。カラスとオナシスの恋そのものがギリシア神話を想わせもする。

 これは余談になるが、ギリシア悲劇もわたしは怖ろしい。エウリピデスの作品を読み返したいと思いながら、何年も怖くて出来ない。彼の作品には呪いがかかっていると本気で思っている。エウリピデスの作品に神聖さはない。ただ絵画的な美しさが際立っていて、読み返したいとたまに思うのだが、彼の作品を読むと何かしらオゾマシイことが起きるので出来ない。

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2009年2月 9日 (月)

カラヤン指揮・監督のカルメン

今朝になって、一昨日からの不調は風邪だったことがわかりました。

測ったらたぶん熱があるのではないかと思います。喉は、まだ少し痛い程度。腰が痛く、体が動きません。昨日程度の家事も無理と感じますが、昨日のあれは異常でしたよ。今朝は、頭は痛くとも、はっきりしています。これが裁判のある来週でなくて、よかったと思います。

深夜観た『カルメン』は、カラヤン指揮・監督によるオペラ映画でした。

途中寝てしまって、最初と真ん中と最後しか観ていないのですが、黒人グレース・バンブリーのカルメン役は、違和感がありました。歌いかたは、素直な印象。が、ビゼーの曲が生かされた無駄のない構成だったと思いました。

ローザンヌ歌劇場のカルメンは、オーバーオールのポケットに手を突っ込んで始終うろうろしている女工というよりニートに見え、少し頭が足りないように見えましたが、カラヤンのこのカルメンはそれよりはましでした。女工の衣装は、ミニっぽい変なデザインでしたが。
何より、ローザンヌ歌劇場ではだらだらと続くベッドシーンは、カラヤンでは闘牛で盛り上がる華のあるシーンで、ビゼーの曲と絶妙に絡み合っていました。カルメンの心変わりも、自然な描かれかたでした。

ああでも、メリメの『カルメン』を知るわたしには、カルメンの描きかたが物足りない。文学作品に描かれたカルメンの純愛、痴態、宿命の瘴気……とりわけ知性が描かれていない。カルメンの険しさもクールさも多面的魅力も、そこから出ていると思えるだけに物足りなさも募ります。

演劇的に見れば、本当に物足りないものがあるのですけれど、これはオペラ。何よりビゼーは音楽で、そうした部分をあまやかに、やや俗っぽく表現してみせたのだと思えば、それほど文句はありません。

カラヤンの音楽は、硬質。アニハーノフのレニングラード国立歌劇場管弦楽団なんかのほうが、大雑把でもカルメンには合う気がします。

当ブログにおける関連記事:ローザンヌ歌劇場オペラ『カルメン』を観て

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BS2でカラヤン指揮カルメン〜!

BS2でカラヤン指揮カルメン〜!
昼間眠ってばかりいて、夕方になり寒くなったせいか、少し眠気がとれました。
そうすると、眠気に隠れてわからなかった体調の悪さがわかりました。
夕飯の支度は無理だと思い、娘に弁当を頼みました。帰宅した娘が、まだだった掃除機もかけてくれ、情けない気持ちでした。

夕食後も寝ていたのですが、ふと目を覚ますと、テレビでオペラ『カルメン』をやっているではありませんか。オケの指揮がカラヤンですから、古いフィルムなのでしょうね。
昨年観たローザンヌ歌劇場の、はっきりいって破廉恥な(とわたしには感じられた)演出による『カルメン』に割り切れない思いがあったので、比較するにはよい機会です。また途中で寝てしまわなければ、記事にします……。

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2008年11月10日 (月)

ローザンヌ歌劇場オペラ『カルメン』を観て

 10月22日に、ローザンヌ歌劇場オペラ『カルメン』を観に出かけてから、今日まで、記事にしておきたいと思いながら、できなかった。違和感が大きすぎたためだった。

 闘牛場の前で展開するはずのシーンが演出家ベルナールのアレンジにより、赤い、けばけばしい寝室に置き換えられていて、ベッドシーンが長々と繰り広げられた。さすがに衣装は身につけたままなのだが、ベッドを転々としての絡みのシーンが長かった。

 闘牛場での死闘を愛欲シーンに重ねるのは、いくらなんでも無理があるだろう。

 何しろ演じるのは俳優ではなくて、オペラ歌手たち。ホセ役の男性は太め。カルメン役の女性は太めというわけではなかったけれど、脚は結構がっしりしていた。目の遣り場に困っただけでなく、見苦しかった……。このシーンだけではなく、いろいろと違和感のある演出だった。あれでは原作者メリメと作曲者ビゼーに気の毒だと思った。

 メリメの作品を読めばわかるが、カルメンもホセも鋭い知性を隠し持っている。どこにでもいそうなねえちゃん、あんちゃんではないわけだ。それは、ホセがカルメンを刺す前の二人のやりとりからもわかる。長くなるが、メリメ作『カルメン』(杉捷夫訳、岩波文庫、昭和4年)から以下に引用しておきたい。

――カルメン、おれと一緒に来てくれるか? 私は女にこう言いました。
 女は立ち上がり、器を投げ出しました。それから、いつでも出かけますという風に、ショールを頭にかぶりました。宿の者が馬をひいて来ました。女は鞍のうしろに乗りました。そうして二人はそこを遠ざかりました。

――じゃ、私のカルメン、お前はほんとに俺と一緒に来てくれるのだね? 少し行ったところで、私はこうききました。

――わたしは死ぬところまでお前さんについて行きますよ。それはよござんす。しかしもうお前と一緒には生きていないから。

 さびしい谷あいにさしかかりました。私は馬をとめました。――ここかい? こう女が言いました。そうして、ひらりと身をひるがえしたと思うと、馬からおりていました。ショールをぬいで、足下に投げつけました。腰の上へ、握ったこぶしをあてがい、私の顔を、穴のあくほど見つめながら、じっと立っています。

――私を殺そうというんだろ。ちゃんと知っているよ。書いてあるから。だがね、お前さんの心には従いませんよ。女はこう言いました。

――この通りたのむのだ。冷静になってくれ。おれの言うことをきいてくれ! なあ、過ぎたことは全部水に流すのだ。だが、これだけはお前も知っているだろう。おれの一生を台なしにしたのはお前だぞ。おれがどうぼうになったり、人殺しになったりしたのは、お前のためだぞ。カルメン! おれのカルメン! おれにお前を救わせてくれ。お前と一緒におれを救わせてくれ。

――ホセ、お前さんはできない相談を持ちかけているんだよ。私はもうお前さんにほれてはいないのだよ。お前さんはまだ私にほれているのさ。お前さんが私を殺そうというのは、そのためだ。私はまだお前さんにうそをつこうと思えば、いくらでもできるけれど、そんな手数をかけるのがいやになったのさ。二人の間のことは、すっかりおしまいになったのだよ。お前さんは私のロムだから、お前さんのロミを殺す権利はあるよ。だけど、カルメンはどこまでも自由なカルメンだからね。カリに生まれてカリで死にますからね。これが女の答でした。

――じゃ、お前はルーカスにほれているのか? 私はこうききました。

――そうさ、私はあの男にほれましたよ。お前さんにほれたように、一時はね。たぶんお前さんほどには真剣にほれなかったろうよ。今では、私は何も愛しているものなんかありはしない。そうして、私は、お前さんにほれたことで、自分をにくらしく思っているんだよ。

 カルメンは、自身及び他者を的確に把握し、その行く末を見通して自らの運命に意思決定を下すだけの感性と知性を備えた、聡明な女性として描かれているだけではなく、彼女の出自であるジプシー民族の性(さが)……そのアウトローとしての生き方、野性味、したたさか、奔放さ、情熱、情深さ、迷信深さ、滲み出る生活苦、哀感、天性の踊り子、といった特性をも絢爛豪華にまとった極上の女性として描かれているのだ。

 よく観察すれば、一見、自由奔放に見えるカルメンは、実は、ジプシーという運命共同体にがんじがらめに縛られていて、死ぬ自由しか持ち合わせていないことがわかる。複数の男たちを操る魔性の手管でさえ、商売道具として身につけざるをえなかった技能ともいえるのだ。

 それがベルナールの演出で見ると、ただの頭もお尻も軽い、気晴らしのためには何でもする類の男女の、退屈なやりとりでしかない。時代設定からして、1820年のスペインを舞台としてこそ、ジプシー民族の置かれた当時の環境から、カルメンの前掲の特性が自然に出るのであって、それを1930年代に置き換えることには無理があったのではあるまいか。

 出演者たちも演奏も、こぢんまり感はあったが、決して悪くはなかっただけに、残念だった。まあ、フランスのオペラらしい洒落た趣向をそれなりに凝らしてあったのが救いではあった。

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2008年6月 2日 (月)

イングリット・フジコ・ヘミング2008ソロリサイタル~4月23日のメモより  

この日、メモをとり始めてしばらくしてポールペンが書けなくなりました。
娘が隣の席からアイブローペンシルを差し出してくれ、それで書き続けましたが、残念なことには読めない箇所が続出。
また、持病持ちのわたしは薬で予防していったにも拘らず、喘息の発作が出かけたため、それをこらえるのに死に物狂いとなり
、メモをとるどころではなかった15分間がありました。
そんな不完全な、印象をとどめたにすぎないメモです。

今回のピアノはスタインウェイ。前回は優美な荒馬ベーゼンドルファーに手こずらされていた感のあったフジコだったが、今宵の演奏はどうだろう?

今回、わたしの座る位置からはフジコの顔を拝める幸運はあっても、鍵盤を走る肉厚の指も、ペダルを踏み込む足も見えない。従って技術面の観察はあまり期待できない。〔この点では、観察可能だったときのリサイタル・メモ、こちら及びこちらへ。〕

プログラム第一部

今回も、千代紙のような着物地の服をガウンのように羽織って、フジコ登場。袖に白いレースの飾り。白いブラウス。透明感のある素材の黒いパンツ。

スカルラッティ
高音部の美しさ。

フジコは今日はピアノを信頼しきって、のびのびと弾いている。アルベニツ「スペイン組曲」とショパン「エチュード 遺作」の間に、プログラムにはなかった「夜想曲」が挟まった。彼女が最高に乗っている証しと見てよい。夜想曲はしっとり落ち着いて、リラックスして弾いていた。

ショパン エチュード3番 ホ長調 別れの曲
このあとプログラムはまだまだ続く予定だが、この曲が今宵一番の出来栄えとなるのではないだろうか。実際そうなった。わたしはこの日のフジコの演奏では、この曲が最もよかったと思う。〕
ショパンは改めて凄い人だと思わせる。祖国ポーランドとのとわの別れを描いたといわれる曲。その別れにまつわる物悲しさが何という華やかさで描かれていることか。運命のうねり、流転……そうしたものを謎めいて感じさせる箇所もある。
ショパンの凄さをフジコは伝えてくれる。彼女自身の技術、生きざまというフィルターを通して。
実は、凡庸なピアニストが弾くショパンほど退屈なものはない。実際、フジコの演奏でショパンを聴くまでは、わたしにとってのショパンは退屈さと切っても切れない作曲家だった。

ショパン エチュード第12番 ハ短調 革命
前回と同じくすばらしい。実によどみない。冴えている。娘は今回はこれが最もよかったといった。わたしは革命はベーゼンドルファーならではのよさが出た前回がよかったと思ったが、とにかくよかったことに間違いはなかった。〕

プログラム第二部

フジコ、袖に祭太鼓を想わせる模様のある粋な黒い衣装を羽織って登場。背中は青い磁器を連想させる。この衣装は、大正時代末期の幟旗だとあとで司会者による説明がなされた。〕

ベートーベン ピアノソナタ 第17番ニ短調 テンペスト
タッチの力強さ、なめらかさ。音の重なり合いかたの絶妙さ。ペダルの使いかたの絶妙さだろう。

演奏者の持つ雰囲気は演奏を支配する。内面の静けさ。フジコはひじょうに成熟したものを感じさせるが、大人が皆その雰囲気を持つとは限らない。むしろ、ほとんど持っていない。

苛々、ピリピリ、を感じさせた前回とは別人のような落ち着きかただ。

これまでにフジコのソロリサイタルを3回視聴したが、第1回目と今宵の第3回は甲乙つけがたい出来栄え。だが、ベーゼンドルファーと格闘気味だった第2回目も、ピアニストという仕事の過酷さを、また彼女の気迫やナイーヴさをまざまざと見せてくれたという点で、実に魅力的ではあった!

リスト 愛の夢 第3番 変イ長調
甘く物悲しく響く。

リスト 春の宵

リスト パガニーニ エチュード 6番
高音部のやわらかさ。指のタッチの慎重さだろう。

リスト ラ・カンパネラ
まるで、玉が転がるよう。


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