『マリア・カラスの真実』は、私的映画ブームのフィナーレを飾るにぴったりのドキュメンタリー映画だった。もっとよい状態でカラスの歌と映像が残っていれば、映画ももっとよいものになっただろうに、と思わずにはいられなかったけれど。
マリア・カラスについては、断片的にテレビなどで見聞きしたことがあった以外は、昨日の記事にも書いたようにせいぜい、オペラ演出家・映画監督として著名なフランコ・ゼッフィレッリ著『ゼッフィレッリ自伝』(木村博江訳、創元ライブラリ、1998年)で彼女について書かれた箇所を読み、CD『椿姫』(ジュリーニ指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団及び合唱団、1955年Live)を聴いたことがある程度だった。CDは、2007年10月13日にバーデン市立劇場の『椿姫』を観に行ったあとで、カラスと聞き比べたくなって求めたものだった。
何日も、映画の感想を書こうと思いながら書けなかった。カラスに圧倒されたため、といってよい。何も本格的なものを書こうとするわけではなく、軽い雑感を書くつもりにすぎないのに、書こうとすると畏怖の念が生じる。
そう、カラスのことを書こうとすると、『ギリシア神話』に出てくるムーサ女神たち(ミューズ)に見られる気がして怖くなるのだった。
映画の中でカラスがギリシアの円形野外劇場でリハーサルをする場面が出てくるが、彼女はまさに古代ギリシアの残り香を発散する女性であることをわたしは実感した。『ギリシア神話』に出てくる激烈で個性的な女神たちは、現実に存在したギリシア女性がモデルになっているに違いないが、カラスには、その女神たちを髣髴させるムードがあった。
娘が映画館でCDとDVDがセットになった『マリア・カラス 永遠のディーヴァ』を買った。DVDのコンサート場面を観ながら、何てゆたかな表情だろうと思う。あの激しさは何なのだろう、そしてあの優しさは……。高みを見つめ続ける精神からしか出てこないものではないだろうか。カラスが愛し、生涯で最も多く歌ったオペラが『ノルマ』であるということは、その例証であるといえる。
CDに『ノルマ』第一幕からの抜粋曲《清らかな女神》が収録されているので、何度も聴いたが、今もそれを繰り返し聴きながらこの記事を書いている。何度聴いても、戦慄するほどの美しさだ。神聖感があるのである。ムーサ女神たちの息吹が感じられるのだ。高みへ、高みへと昇りゆこうとする精神と同時に憂い――あくまでも清浄感のある憂い――を感じさせる歌声といったらいいだろうか。
カラスの歌声には、ほとんど人間の声とも思えないところがある。天空に向かって紗をかけたように響き拡がる高音域の声からも、重厚にシックに響く低音域の声からも、そのゆるぎのなさからだろう……パルテノン神殿の柱を連想してしまう。
CDの曲目解説から『ノルマ』のあらすじを以下に拾ってみよう。
カラスが生涯で最も多く歌ったオペラ《ノルマ》。ローマの支配にあるガリヤの地で、民を率いる神聖なる巫女ノルマが、実はローマ人の武将と愛し合い、子供まで儲けてしまったものの、男の裏切りを経て、最後には人々に全てを告白、燃え盛る炎に身を投じるという物語である。
《清らかな女神》は、「月光が降り注ぐ中で、儀式に挑むノルマが祈りを捧げる1曲」だそうだ。
現代に生きる我々にとっては他愛ないただの恋も、民を率いる神聖な巫女にとってのそれは神を欺く忌まわしい所業であり、国賊に値するような犯罪行為でもあるだろう。
マリア・カラスその人は、神か彼かというほどの高い愛を願い、求めた人であったに違いない。そのお相手が海運王オナシスだったとは皮肉という他はない。ゼッフィレッリは前掲の著書の中で、カラスとオナシスとの関係をよくリポートしている。
1923年、ギリシアを故国とする両親の元に生を享けたマリア・カラス。本名はカラスではなく、如何にもギリシア的なカロゲロプーロスである。ニューヨークに出た両親が薬局を始める際に改姓したのだった。
実はわたしは映画の初めのほうを見損なったのだが、映画のパンフレットによると、マリアは、オペラ歌手志望だった母親からオペラの英才教育を受けたようである。それも、公立図書館で音楽資料を聴かされるといった知的な学習が中心だったようだ。カラスが他のオペラ歌手たちとは一風異なる、独自の世界を強く感じさせる基盤がこの頃に作られたと見てよいのではないだろうか。
マリアがジュニア・ハイスクールを卒業後に、両親は別居、母親は姉とマリアを連れてギリシアのアテネへ移住する。ここでマリアはピアノと歌のレッスンを開始し、楽譜研究に没頭するなどして、そのストレスから太り始めたようである。
マリアのオペラ歌手としての基礎を作った母親であったが、マリアとの関係は良好とはいえず、金銭をめぐっての確執が続いた。
イタリア・デビュー後に、マリアは28歳上のヴェローナの実業家メネギーニの愛人となり、彼がマネージャー役となる。やがて結婚。スカラ座のスターとなったときから、彼女はダイエットを始め、100キロ以上あったのが、1年半で40キロのダイエットに成功したというのだから凄い。痩せて、声は硬質になった気がした。
メネギーネは、マリア・カラスが恋心を傾けるには年寄りすぎた。そこへ狼よろしく現れたのが、アリストテレス・オナシスだった。
映画を観ると、カラスがオナシスに遭ったが運の尽きであって、ムーサ女神たちの巫女であったカラスには諸刃の剣のような相手であったことがよくわかる。彼女は性的に満たされ、才能はオナシスを得てほんの一時燃え上がったかもしれないが、オナシスによって燃え尽きたのだ。
カラス自らがそれを望んだともいえよう。人間離れのした技を見せ続けなければならない日々に疲れていたに違いない。そんなカラスの弱みに、オナシスは打ってつけの男だった。ゼッフィレッリは書いている。
引退の理由であるオナシスとの関係が彼女の待ち望んだ幸せをもたらしたのなら、私は彼女をそっとしておいただろう。しかし、そうではないことが次第に見て取れるようになった。二人一緒のときには常に幸せを装い、彼女がまだオナシスに夢中なのは明白だった。悪いことに、彼女が絶望的に愛を捧げれば捧げるほど彼の中の最悪のものが刺激され、彼女にありたけひどい仕打ちをするのだった。彼のサディズムは限度を知らないようだった。彼女を侮辱し、とくに昔馴染の前でそれを見せつけたがり、絶対に結婚の兆しは見せなかった。にもかかわらずマリアは自分のギリシア正教にこだわり、教会での結婚に憧れた。流産したという噂もあった。本当だとすれば彼女にとっては猛烈な打撃だったに違いない。「女神」マリアが子供に対して完璧な母親になれたとは思えないが、自分のキャリアが傾きかけている今、彼女は普通の生活を望んでいたに違いなく、それが与えられなかったのは、痛ましいほどの虚しさを感じただろう。
映画は、カラスがオナシスとの間に儲けた子を死産した事実に触れていた。ゼッフィレッリは、次いで、こうも書いている。
自らも子供を亡くしたマリアは、ノルマと彼女の手を振り切ろうとする子供たちについて全身全霊で歌うことができた。「トスカ」とはまた異なるマリアの情熱の反面を示すもので、オナシスと関わる以前には決して表現できなかったと思われた。背筋が寒くなるほどの迫力で、彼女は歌の内容と一体化した。
人間は、どういうわけか、自分に対してひどい仕打ちをする人物に執着するものである。相手を頭の悪い、品性の低い、下等な人間と割り切ることがなかなかできない。あたかも生贄を欲する邪神に囚われたかの如く、自分を理解する能力のない相手に自分をわかってほしいと懇願し、自身の最後の血の一滴までも貢ぎかねない衝動に駆られる。
しかしカラスに卑劣な振る舞いをしたオナシスは、たぶん、どこかで、ムーサ女神たちに八つ裂きにされたに違いないとわたしは思うのだ。ムーサ女神たちは、崇高であると同時に怖ろしい女神でもある。歌の競い合いをして敗れた男性の両眼をくり抜き、吟唱の技を奪うような神々なのだから。
カラスの死後、遺品が早々と競売にかけられて四散し、記念館を建てられないという事実も、カラスの恋の無残な結果を物語るかのようであるが、その痛ましさにおいてもスケールが大きい。カラスとオナシスの恋そのものがギリシア神話を想わせもする。
これは余談になるが、ギリシア悲劇もわたしは怖ろしい。エウリピデスの作品を読み返したいと思いながら、何年も怖くて出来ない。彼の作品には呪いがかかっていると本気で思っている。エウリピデスの作品に神聖さはない。ただ絵画的な美しさが際立っていて、読み返したいとたまに思うのだが、彼の作品を読むと何かしらオゾマシイことが起きるので出来ない。
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