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2020年9月13日 (日)

本家の歴史の終焉  その弐

前記事に書いた義理の伯母(伯父の奥さん)の話の続きになりますが、QRコードをスマートフォンで読み込んで追悼動画を閲覧できます――と会葬礼状にありました。

伯父のときには会葬礼状にそのようなことは書かれていなかったので、妹と「最新のオプションかな、凄いね」と感心しました。

実は、伯母のお通夜は、台風のため、ドライアイスで持たせて遅らせたそうです。

会葬礼状には「母が倒れたのは父の四十九日り法要の翌日でした。そして百箇日の日に父のもとに旅立ちました」とあり、「向かう先でも仲睦まじく過ごすのだと思えば心が少しは軽くなります」ともありました。

わたしはガラケーを使っているので、娘のスマホで閲覧しました。スマホで見るにはパソコンに慣れたわたしには、画面が小さい。

追悼動画をパソコンで閲覧できないだろうかと思い、ガラケーで読み込んだURLをパソコンにメールで送り、アクセスしたら閲覧できました。動画を閲覧できるのは1ヶ月間とありますが、右クリックで「画像の保存」が出てきます。パソコンにダウンロードすることも可能でした。

追悼動画を閲覧して伯母の人生を鳥瞰させて貰った気がしました。

伯母が9人きょうだいの長女だったとは知りませんでした。

都会的で綺麗な姿の女の人達4人と伯母とで写ってる写真がありました。姉妹の集合写真でしょう。

本家は、戦前は地主だったのではないかと思っています。確認したことはありませんが、母方の祖母の実家が大庄屋だったことはわかっており、その祖母の幼馴染みがよく父方の本家に出入りしていて、彼女がわたしの両親の婚姻を――泣き落としで――半ば強引に成立させたことから、似た家柄だったのではないかと……。

母方の祖母の実家と父方の本家は似たような家柄で、父方の本家に嫁いできた伯母の実家も似たような家柄だったのではないでしょうか。お嬢さん育ちだったのではないかと思えます。

地味ななりをし、額に汗して働いている伯母の姿ばかりが記憶にありますが、子供のころからわたしは伯母に心惹かれるものを感じていました。失礼な表現かもしれませんが、わたしの目には襤を纏ったシンデレラのように見えたのでした。

農家の人達は上品な人達……というイメージがわたしにはありました。本家の人達がそうだったからです。言葉は方言ですし、立ち振る舞いが見事だというわけでもないのに、なぜそのように感じたのでしょう?

清い品性が感じられたから……としか言いようがありません。

そのうち、農家の人だから上品な人とはいえない、わたしと同じように普通なのが一般的なのだ(?)と次第にわかったことから、父方の本家の戦前は、戦後とは暮らしぶりが違ったんじゃないかなと思うようになったのでした。

占領軍による農地改革などで、暮らしぶりは違ってしまっても、精神的な支柱は守り続けたのが本家の人々だったのではないかと推測しています。

別に、戦前の格差社会を礼賛するつもりで、このようなことを書いているわけではありません。事実と感じられることをそのまま書いているだけです。

戦前の格差社会においても色々な人がいたでしょう。ただ、格差社会といっても、求められる精神のありかたが違っていたことは確かです。持てる者には徳が求められた――そのような社会だったのではないでしょうか。

姉妹の集合写真では、伯母もめかし込んでいますが、苦労の色が濃く出ています。それは化粧では隠せません。妹達とは年齢差もありそうです。

農家の本家に嫁に来て、どんなに苦労したことでしょう。でも、表情が一番陰翳に富み、画家の欲望をそそりそうな素晴らしい顔です。伯母の笑顔の美しさといったらありません。

伯母は1928年生まれで、和暦だと昭和3年の生まれになります。終戦は1945年(昭和20年)ですから、そのとき伯母は17歳。長男の出産は25歳です。

結婚がいつだったかは知りませんが、長男出産の前年が結婚した年だと仮定すると、24歳での結婚。当時としては遅いほうではないでしょうか。

終戦後のゴタゴタで、結婚どころではなかったのかもしれません。そして、戦前からの縁で嫁いだ家は、すっかり貧乏な農家になっていた……

妹達とは年齢差がありそうですから、日本社会がもう少し落ち着いて、都会も活気を取り戻したころから苦労せずに済みそうな家と縁談が次々に調い、都会へ嫁いでいった……といったところではなかったでしょうか。わたしの憶測にすぎませんけれど。

お嬢さん育ちの嫁であっても、陰湿な嫁いびりを受け続ければ、意地悪になるか、病気になるか、離婚に至るかでしょう。

伯母は清い品性を保ち続けて、「多忙な中にも時間を作り、大正琴やお花を嗜んで心豊かに過ごしていた」と会葬礼状にもあります。

それからすると、陰湿な嫁いびりはなかったと思われます。3世代同居でしたから、様々な揉め事がなかったはずはありませんが。

わたしは婚家に同居していたわけでもないのに、嫁いびりで心臓がやられました。肉体の心臓を盾として、その奥に在す大切なものを防御したともいえます。

祖母は、曽祖父(祖母にとっては舅)がいたから嫁いできた、宗教上の師と思い嫁いできた、と話してくれたことがありました。

曽祖父が宗教家だったという話は聞いたことがありません。祖母は、舅の宗教的造詣の深さや、その教えを日々の暮らしで実践している人としてのよほどの尊敬があったのでしょう。

亡くなったわたしの母も、曽祖父を「素晴らしい人だった……」と褒めていました。どう素晴らしかったのか、具体的に聞いておけばよかったと後悔しています。

いずれにせよ、曽祖父の高潔な宗教観が家全体を包み込んでいて、陰湿ないじめなどは許さない雰囲気があったのでしょう。

伯母は貧乏な農家に嫁いできて苦労したでしょうが、何かしら精神的な恩恵には浴したのかもしれません。

重態に陥った母が回復したあとで(手記「枕許からのレポート」参照)、わたしが本家の仏壇に手を合わたとき、まるでそれに応えるかのように、えもいわれぬ高貴な菫色の光が見えました。

彼の世から本家を見守る曽祖父が贈ってくれた光だったのかもしれません。

「農閑期には日雇いの仕事出て家族のためにと頑張った働き者、40を過ぎてはじめた肉用牛の肥育にも力を注ぎました」と会葬礼状にあります。

手塩にかけた牛を出荷するとき、伯母は泣いていました。

政府の減反政策が影響して牛を飼うようになったように記憶しています。清廉な本家には肉用牛の肥育は家風に合っていませんでした。

しかし、今度は日米牛肉・オレンジ自由化問題が発生します。1971年です。その後の幾度かの輸入枠拡大を経て1988年6月、牛肉・オレンジ自由化交渉は合意に達しました。

そして、現在の問題の一つとして、日本の国土のあちこちが中共に買い漁られています。国は放置状態。先人が心血注いで守ってきた土地ですよ。政府の無策ぶりに怒りが湧きます。

すっかり老いた伯母が畑に出ている写真は、感動的です。草取りの最中なのでしょう、地面に這いつくばったまま、カメラに顔を上げています。

田畑が生き甲斐になっていた様子が窺え、まるで大地と一体化した人みたいに見えます。

この写真に、感極まりました(/_;)

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