中共によって無残に改竄された、「ヨハネによる福音書」のイエス
ブラヴァツキー夫人に関する大田俊寛氏の論考に疑問を抱き、ノートした記事をまとめて「マダムNの神秘主義的エッセー」にアップする予定ですが、イルミナティから転向したという人の動画を見つけたことから、トルストイ『戦争と平和』に関するエッセー6本のうちアップしていなかった2本を書いてしまうことにしました。
このような動画に出合うことを予期していたわけではないのですが、何かが足りない気がして、残る2本のエッセーを放置していました。
その動画を参考にすると、やはりイルミナティ=国際金融資本で、彼らの源流を辿ると、何と新約聖書にも出てくるファリサイ派(パリサイ派)にまで行き着いてしまうのです。動画には、そのファリサイ派の話が出てきます。
フリーメーソン結社を乗っ取ったイルミナティに、フリーメーソン結社の儀式を裏返したような儀式があったとは想像したこともありませんでした。
新約聖書の中で、律法学者・ファリサイ派とイエスは鋭く対立しています。イエスは「あなたたちは悪魔である父から出た者」といっています。イエスの神と彼らの神は異なるとまでいっているのです。否、イエスの言葉からすると、彼らの崇める神は、神ではなく悪魔と読めます、
異邦人であるわたしにはこの言葉を比喩的にしか捉えられませんでしたが、あるいはイエスは、そこまでいいたくなる彼らの忌まわしい行状か何かを知っていたのかもしれません。
聖書に照らし合わせると、あの動画をフェイクといいきることはできません。
ロスチャイルド家は、ファリサイ派ユダヤ人の血を引いていることを誇りにしているとか。もしそうであるなら、イエスを死に追いやった人々の子孫ということになりますね。ユダを操ったのは、祭司長やファリサイ派の人々だからです。
改訂1994年、中央出版社発行のフランシスコ会聖書研究所訳『新約聖書』の「ルカによる福音書」を見ると、「金を愛するファリサイ派の人々」の章があります。ロスチャイルド家はイエスの時代のご先祖様の頃から既に、お金が大好きだったようですね。
同じくルカの「ファリサイ派の人々と律法学者を責める」の章では、イエスは彼らに対して、強欲と悪意とに満ちている、あなたがたは不幸だ、あなたがたの先祖が預言者たちを殺した、といっています。
ヴァイスハウプトもユダヤ人だったのではないでしょうか。これは憶測にすぎませんが。
ところで、そんなことを考えているときに、何と、とんでもないニュース!
「ヨハネによる福音書」の中の有名な「姦通の女」の場面を、中共が改竄したというのです。
ヴァイスハウプトにも、ユダヤ人マルクスにも資金援助をしたといわれるロスチャイルド。彼らに生み出された中共は、とうとうイエスを人殺しにしてしまいました!
これは、ある意味で焚書坑儒よりひどい! ぞっとしました。
— naotsuka_maki (@NaotsukaM) September 29, 2020
フランシスコ教皇が中共と司教任命の暫定合意をしてから、カトリックはどうなるのだろう、地下教会の信徒の運命は……と気にかかっていましたが、とうとう中共がこんなことまでやり出すとは……。https://t.co/fAUdFwsH4M
中国の教科書が聖書の一節を書き換え キリストが石で女性を殺した内容に https://t.co/hOyd9z2zwa
— naotsuka_maki (@NaotsukaM) September 29, 2020
「大紀元」の記事では、男たちが姦通の罪で捕まった女を連れてやってきたとありますが、わたしの読んでいる新約聖書では、律法学者とファリサイ派の人々が連れて来たとあります。また、イエスを試みて訴え出る口実を得るために、とあります。
本来は、イエスの機転の利いた反応が印象的な場面です。
姦通した女を律法では石打ちの刑に処するようにとモーセは律法の中でわたしたちに命じていますが、あなたはどう考えますか、と彼らはイエスに問いかけます。
すると、イエスは何も答えずに、身をかがめて地面に指で何かを書き始めます。この場面を描いた、ニコラス・レーリヒの絵を思い出しました。
しかし、なおもしつこく彼らが問い続けるので、イエスは身を起こしていいます。あなたがたのうち罪を犯したことのない人がまずこの女に石を投げなさいと。そして、イエスは再び身をかがめ、地面に何か書いていました。
人々は年長者から一人、また一人と去っていきました。そしてイエス一人と、女だけが残されます。
イエスは身を起こして「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを処罰すべきとみなさなかったのか」と尋ねます。イエスに彼女は「主よ、だれも」と答え、イエスは仰せになります。「わたしもあなたを処罰すべきとはみなさない。行きなさい。そして、これからは、もう罪を犯してはいけない」
イエスの説く教えの奥深さが伝わってくる素晴らしい場面なのに、ここを真逆に、イエスをファリサイ派の人にしてしまっています。
今回、何度となく読み返してきた新約聖書を初めて読むような気がしました。イエスとファリサイ派との対立が生々しく迫ってきたのです。こんな読みかたをしたことはありませんでした。