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2019年11月26日 (火)

田中保善『泣き虫軍医物語』に見る第二次大戦の諸相 ①映画「タイタニック」ばりの脱出劇と醤油樽(加筆あり、赤字)

慰安婦問題、植民地支配、日本軍の残虐性――といったジャパンバッシングの根拠とされてきた歴史的事象が、少なくとも、飾らぬ心情が吐露された、底抜けに明るく、お人好し、その一方では思慮深く果敢な一人の大日本帝国軍人の人間像が立ち現れてくる一冊の本『泣き虫軍医物語』を読む限りにおいては、真っ赤な嘘、捏造にすぎず、第二次大戦は日本人にとってはまさに大東亜戦争であったことが明白にわかる内容となっている。

そうした意味において、このコンパクトな本は期せずして、第二次大戦における大日本帝国軍人の行動様式、思考傾向を如実に示した、一歴史資料と見なすに足る性格を備えているといえよう。

本書、田中保善『泣き虫軍医物語』(毎日新聞社、1980)は、第二次大戦末期の昭和19年7月、町の開業医だった著者が軍医として応召、戦地ボルネオを中心とした体験記録である。

信憑性の薄い河野談話が発表されたのは平成5年(1993)、田中氏の『泣き虫軍医物語』が上梓されたのは、それを13年遡る昭和55年(1980)のことであった。

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田中保善氏は、別の本『鹿島市史 真実の記録』(1990)で、戦時中は祐徳稲荷大神及び萬子媛に祈って何度となく命を救われたとお書きになっていた。萬子媛を研究中のわたしは、当然ながらそうした内容を期待して『泣き虫軍医物語』を注文したのだった。

愛媛の古書店からの発送で、310円。経年劣化で中身は黄ばんでいるものの、美品といってよい商品だった。中表紙に付された青年軍医のきりっとした童顔の御写真を見たとき、思い出した。

小学校だったか中学校だったかは忘れたが、集団予防接種のとき、見かけたお顔だった。上品な、優しそうなお顔。昔のことで、記憶は確かではない……

プロフィールから引用する。

明治42年鹿島市に生まれる。鹿島中学旧制佐賀高を経て昭和10年九州帝大医学部卒、同12年鹿島市で開業。同19年7月応召。同21年4月復員。(後略)

期待に反して、『泣き虫軍医物語』には命拾いした事実が事実のままに活写されているだけで、それを祐徳稲荷大神及び萬子媛に結び付けるという宗教的評価はなされておらず、それが窺えるような心情的反応も記述されていない。

あからさまな神秘体験の記述は全くないのだ。命拾いした出来事と稲荷大神及び萬子媛とが結び付けられたのは、どの時点であったのか。それは不明である。

しかし、次のような故郷の芳香漂う出来事を、故郷を見守っておられる神々の神慮によってもたらされた奇跡的体験といわずして、何といおう? 田中氏は後年の著書で、そのように解釈されているのである。

それは映画「タイタニック」ばりの脱出劇の中で起きた。話が前後することになるが、そのハイライトシーンをまず紹介しておこう。

簡単にそのときの状況を説明しておくと、田中軍医は、久留米陸軍病院から南方派遣部隊に編入された。太平洋の島々は次々と連合軍に占領されて戦局は重大化。サイパン島は昭和19年7月7日に玉砕。この時期に南方に派遣されることは死を意味していた。

駆逐艦、水雷艇、駆潜艇、飛行機に護衛された船団12隻は9月10日、門司港を出港し、朝鮮海峡、東シナ海と南下するにつれて沢山の輸送船団の往来に出会う。台湾の基隆沖に差しかかった。

夜10時頃、ドスーンと腸に響く大音響。夜空に火花を上げながら、船尾を真っ逆さまにして沈んでゆく、後続の輸送船。いわゆる轟沈であった。

四千名以上の兵隊が何らなす術もなく海底に呑み込まれたに違いない。いかに戦争とはいえ悲惨極まりなく、初めて体験した死の恐怖に心臓も凍る思いであった。(田中,1980,p.28)

船団は2日後、高雄港へ。行手には潜水艦が待ち受ける、魔のバシー海峡。

船団は飛行機と艦艇に守られながら強行突破。船団が進む間に、友軍機と艦艇は合計4隻を撃沈。船団が比島(フィリピン諸島)に近づくにつれて沈んだ輸送船の残骸が多くなった。

魔のバシー海峡を無事に乗り切り、高雄港を発って3日目の30日、リエンガエン湾のサンフェルナンド港に到着。 

久留米部隊は港から8キロ離れた海岸へ向けて出発。その行軍が身体にこたえた田中軍医は不覚にも、自らが患者第一号となってしまう。幸い、軽症だった。

背嚢を当番兵に持ってもらって歩いていると、垣根に真っ赤なハイビスカスの花の咲き乱れる家々があり、予定の海岸に辿り着く。ヤシの林の中に点々と民家があり、その中の一軒を医務室にする。クリスチャン農家らしかった。

「家の中の物を荒らしてはいけない。何も盗んではいけない」と田中軍医は皆に注意する。医務室に配給の砂糖1俵と缶詰5箱が届いた。食事もすんだ頃に家の主人らしい比島人が来て英語で話しかけたが、田中軍医には解せない。

主人は、家の内外を見て回り、何も荒らされていないのを喜び、すっかり信頼して、両手いっぱいの卵を差し出した。

田中軍医は、何もいらないから壁の棚に置かれていた発火道具を譲ってくれ、と日本語で頼む。スコールでマッチが駄目になったときのために必要だった。主人は希望を了解して承知してくれた。

当地区の司令官から、サンフェルナンド地区は国道の沿線は安全だが、国道から4キロ離れた密林中には米軍大佐の率いる5千名のゲリラが国道筋をうかがっているとの通達があった。比島は全部平定されて、攻撃して来る米軍のみが敵だと思っていた田中軍医は、「安全なのは点と線だけなのか」(田中,1980,p.34)と思う。

翌日、異動命令があり、サンフェルナンドの街はずれに移った。軍医一行はエジプトの街のように石造りの家が並ぶ街を見物し、コーヒーを飲もうと思い、コーヒー店の前に行列を作って順番を待った。

焼けつくような暑さにコーヒーを諦めて、横の丘に登る。そこには、バシー海峡で救助された兵隊達やら群馬県出身の若い女性たちがいた。

女性たちは、南方のジャワ、スマトラ、昭南(現在シンガポール)等の商社や軍関係の偕行社の女子事務員として、赴任途中だったという。救助された兵隊達は満州国境から南方へ派遣された部隊であった。

魚雷を食って全員が退船した時、一名の兵の姿が見えなかった。中隊長は皆が危険だからと止めるのもきかず、その兵隊を求めて輸送船に引き返し、捜しているうちに船もろとも沈んでしまった。部下思いの中隊長を偲んで兵達は涙ぐんでいた。日露戦争の旅順港口封鎖作戦における広瀬中佐と杉野兵曹長の話とそっくりである。
 それに引き替え、部隊長と船長はボートに乗り移り、兵隊も乗ろうとすると、沢山乗ってはボートが沈むと、ボートに掴まった兵隊の手を払い除けて海に突き落として漕ぎ去った。泳ぎながらこれを見ていた兵隊達は、陸へ上がってからも部隊長と船長の態度を非難し続けた。私はこの話を聞いて、もし自分がそうなった時は、兵隊から非難されるようなことは絶対にしないと心に誓った。(田中,1980,p.36)

すぐ後に、田中軍医は同様の惨事に身を置くことになる。

10月10日午前11時、サンフェルナンド港を出航した12隻の輸送船団は比島西岸を海岸沿いに南下。今度は護衛艦が半減し、飛行機の援護もなかった。田中軍医の乗船「江尻丸」(貨物船、7千トン)は第四番船で、煙突に「4」の字が大きく書いてあった。縁起が悪いと兵隊たちは心配する。

12時頃、右側を護衛していた駆逐艦が急に面舵を取り、「右舷前方二時の方向に魚跡、魚跡!」とけたたましい叫び声が上がった。

このときは魚雷をうまくかわした江尻丸だったが、2時半ごろ、また突然「魚雷、魚雷!」の叫び声がした。田中軍医は便所で放尿中だった。江尻丸は今度はかわしきれなかった。

惨事、と一言でいえないほど、海と船と魚跡と船内の様子を活写する著者の描写は絵画的ですばらしいが、引用の制限もあって、全部は伝えきれない。

船が爆発して沈む前に退船しなければ死ぬ。部屋に降りて軍刀、図嚢、軍医携帯嚢を取り出したかった田中軍医は果たせず、かろうじて拾った救命胴衣を着用し、海に飛び込むために左舷へ急いだ。

船は惰力で進み、艦橋から全員退船の命令を伝える進軍ラッパが鳴り響いていた。敵の魚雷は、戦車を積んである船倉に命中していた。

その爆発で船倉の上にいた沢山の兵隊達は、粉々になった戦車の破片とともに肉体もバラバラになり、噴き上げられて船内各所に落ちてくる。私の胴衣にも灼熱した戦車の破片が飛来して、襦袢を通して右脇腹に食い込んだ。灼けつくようにチリチリと痛い。私は右脇腹の傷はそのままにして甲板を左舷へ急いだ。無電のアンテナを張ってある針金に兵隊の胸部だけが引っかかっている。首も両手も腹から下もない。剣道道具の胴が引っかかっているようであった。肉片が甲板に落ちて、それを兵隊があわてて踏みつけ、バナナの皮を踏みつけて滑って転ぶように甲板上に転がる。海へ飛び込もうと兵隊はひしめきあい、それにつまずき折り重なって倒れる。(田中,1980,p.38)

前後左右の兵隊にはさまれ、足が甲板につかないまま引きずられていき出した田中軍医は、いつしか兵隊たちの頭の上に転がされてしまう。左舷は遠ざかっていた。

弾薬をいっぱい積んだ船倉に燃え移ったら船もろとも爆発して死ぬことになるので、田中軍医は自分から兵隊の頭の上を転がっていき、やっと甲板の橋の鉄の鎖に掴まった。ここで著者は、「私の左右で次々と兵隊達は元気に飛び込んでいる」と書く。読みながら、まるで水泳の授業が描かれているような錯覚に陥った。

海面まではめまいがするほど高かったが、水泳に自信のある田中軍医は思い切って飛び込んだ。

グングンと一直線に海底に向かって沈んで行き、早く浮上したくとも、高所からの飛び込みであったため、沈下が止まらない。これ以上もたないくらいになってやっと沈下が止まった。浮上しようにも呼吸が苦しくなり、思うように力が出なかった。

船体から離れた45度くらいの角度で浮上したつもりが船尾に近く、船尾にはスクリューが回っていた。渾身の力でクロールで泳いで、船体から離れた。夢中で泳ぎ、泳ぎをやめてみると、救命胴衣の浮揚力が大したものではないことに田中軍医は気づいた。2、3時間もつかどうかだった。

立ち泳ぎをしていると、顔に水筒が当たってうるさい。時計は中が水浸しになりながらもまだ動いており、12時45分。海岸までは1キロくらい。引き潮で海水は沖へ向かって流れていて、思うように進めなかった。

爆発で海中に散らばったいろいろな物が流れてきた。そのとき、驚くべきものを田中軍医は発見するのである。

なかでも私がびっくりしたのは「佐賀県藤津郡吉田村」と墨で書かれた空の醤油樽であった。はるか故郷を離れた南海で、しかも海に投げ出されて藁をも掴む気持ちでいる時に、故郷鹿島町の隣の吉田村と書かれた醤油樽が流れてきたのである。急に故郷に残してきた母や妻子を思い出し、なんとかして助からねばと思い、その醤油樽を拾って麻縄で腰にくくり付けた。浮揚力は救命胴衣よりもずっと強い。(田中,1980,p.41)

ここがハイライトシーンである。

神秘主義者の目で見ると、これは偶然の出来事ではない。高級霊がカルマとのバランスを考えながらなさる、典型的な救助例の一つといってよい。それは、偶然を装って行われるのが常なのだ。

爆発したのは貨物船だったのだから、その中に醤油樽が混じっていたとしてもおかしくはないが、溺死しそうなこの窮地で故郷の名を記した醤油樽が流れてくるなど、いくつもの偶然が重なるのでなければ、起きることではない。

「萬子媛、大戦中もよいお仕事をなさっていますね。さすがです」とわたしは半ば呆れた。醤油樽は使命を帯びていた。そのとき、大海原に降り立っておられたに違いない、萬子媛のオーラの輝きがわたしには見えるような気がする。

この脱出劇には続きがある。前述のバシー海峡で起きたボートの一件に酷似した状況が、田中軍医をめぐって発生したのだった。

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