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2018年12月16日 (日)

神秘主義エッセーブログ「90」に加筆

目次 4 の文章に加筆したので、その部分を引用しておきます。

マダムNの神秘主義的エッセー
http://mysterious-essays.hatenablog.jp

90 映画「くるみ割り人形と秘密の王国」とホフマンの原作
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2018/12/15/005345

目次

  1. 映画「くるみ割り人形と秘密の王国」
  2. ホフマンの原作は、結構不気味ともいえるお話
  3. 原作のストーリー
  4. 神秘主義者の難しい立脚点と要求されるバランス感覚
  5. ホフマンの生涯

神秘主義者の難しい立脚点と要求されるバランス感覚

原作に登場するドロッセルマイアーおじさんの態度の曖昧さ――あちらの世界にこちらの世界の人間を連れ去るエージェントのようにすら見える――は、おそらくホフマンその人の曖昧さであって、どちらの世界も真なることを知っている神秘主義者の難しい立脚点を表わしていると見ることができる。

それを裏付けるようなホフマンの言葉が、ホフマン(大島かおり訳)『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』(光文社古典新訳文庫,2009)の解説で紹介されている。

自分はあまりにも多くの現実にからめとられている、と彼は言う。そして「髙い領域へ人を導く天国の梯子[はしご]はその脚を現実生活の中に据えていなければならない」*4(ホフマン,大島訳,2009,「解説」p.392)

そのためには、バランス感覚が要求されるだろう。

一口であちらの世界といっても、低級な世界から高級な世界まで――ぴんからきりまで――性質の異なる精妙な世界が存在するからである。

物質界に一番近い目に見えない世界をブラヴァツキーの神智学ではアストラル界、あるいはカーマ・ローカというが、スコラ哲学ではリンボ界、昔の言葉で黄泉の国ともいう。アストラル界は主観的空間の中にあり、五感を超えたものだが、それでも存在しているとブラヴァツキーは解説している。マリーが入り込んだ魅惑的で危険な世界はこのアストラル界を連想させる。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、1995・改版)の用語解説「幻覚(Hallucination)」には注目すべき解説がある。省ける部分などないのだが、長いので、部分的に引用する。

幻覚(Hallucination)
(前略)様々な幻覚を起こすのはこのアストラル光の波動であるが、幻覚は医者が説明するように、いつもただ無意味で空想的な夢というわけではない。存在しないもの、つまりアストラル波動に印象づけられていないものは、誰も見ることができない。(中略)酔っぱらいも透視家も、霊媒もアデプトも、それぞれのヴィジョンをアストラル光の中で見ているのである。ただ、酔っぱらいや、狂人や、トレーニングを受けていない霊媒や脳脊髄炎の患者は、ヴィジョンをコントロールすることができないので、仕方なしにごちゃまぜのヴィジョンを無意識のうちに呼び起こしているが、一方、アデプトやトレーニングを経ている透視家は、このようなヴィジョンを選択し、コントロールして見ることができる。(後略)*5(ブラヴァツキー,田中訳,1995,「用語解説」pp.30-31 )

アストラル光とは何であるか、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『実践的オカルティズム』(神智学協会ニッポン・ロッジ 竜王文庫内、1995)の用語解説「アストラル光(Astral light))より引用する。

アストラル光(Astral light)
物質の地球を取り巻くエネルギー場。(中略)二面の鏡のように、上の世界を反映すると同時に、物質界に起こることをすべて記憶する。一般の透視家が見るいわゆる「アカ―シック・レコード」は、アストラル光に記録されたものである。そうしたイメージは幻想的で人間の心を迷わせるようなもので、またアストラル光の波状運動は蛇の動きに似ているので、「大蛇」や「サタン」と呼ばれる。*6(ブラヴァツキー,田中&クラーク訳,1995,「用語解説」p.3)

文学もそのなかに含まれる芸術と人間との関係をいえば、上質の芸術作品がもたらしてくれる美を通して高級界との絆を深める情操を育むことこそが大事で、刺激が強すぎる影響力からはマリーのような児童の場合、保護してやるべきではないだろうか。

神秘主義的観点から見れば、これはあくまでわたしの考えにすぎないが、ドロッセルマイアーおじさんは無責任というだけでなく、危険な人物ですらあると思う。ホフマンはなぜあのような結末にしたのだろう?

これを読んだ用心深い母親は、ドロッセルマイアーおじさんのような人物にはちょっと警戒心を働かせるようになるのではないだろうか。ただ、前述したように、やりすぎたと思ったからこそ、ドロッセルマイアーおじさんはマリーの「空想」を否定したに違いない。

このような問題を考えるとき、助けになるのは神秘主義で、それも近代的な言葉で明快に解説されたブラヴァツキーの著作ほど頼りになるものはない。

ホフマンの作品には美が溢れ、高い世界へのあこがれをそそるものがあるという点で貴重だと思うが、現代日本で出版されている子供向けの著作には有害と思えるようなものがずいぶんあるように思えて、危惧せざるをえない。

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