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2018年10月28日 (日)

歴史短編1のために #48 黄檗文化(煎茶道、普茶料理)に鍋島焼が使用されていたことを裏付けるニュース

萬子媛が娘時代を過ごされた江戸時代前期の公家町について、わかっていることがあれば知りたいと思った。図書館検索で、こうした情報に接することができそうな資料を検索したが、思うように出て来なかった。

24日の深夜、「公家町 江戸初期」でネット検索すると、2018年2月21日に発信された、次のような思いがけないニュースがヒットした。

京都市文化財保護審議会(井上満郎会長)は21日、京都迎賓館(上京区)の建設に伴う公家町遺跡出土品2件555点を含む10件を市文化財に指定・登録するよう、市に答申した。京都迎賓館関連の発掘調査では初の指定。[略]発掘調査は1997~2002年、豊臣秀吉が安土桃山時代に公家屋敷を集約させた公家町跡の一角で実施。[略]杉之坊の281点は、当時最先端の文化だった煎茶の道具や茶碗をはじめ、高級な肥前磁器の色絵ふた付き鉢、輸入陶磁器など。[略]市文化財保護課は「いずれも江戸前期に門跡・公家が所持した高級磁器の実態や、公家と町衆の生活を比較する上で重要な資料」としている。

京都新聞(2018年02月21日 22時38分)「公家町遺跡出土品など指定・登録へ 京都文化財保護審」<https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180221000159>(2018年10月28日アクセス)

このニュースは、拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」で書いた、次のような記述の裏付けとなるものではないだろうか。

72 祐徳稲荷神社参詣記 (3)2017年6月8日 (収穫ある複数の取材)
https://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2017/08/06/205710

隠元隆琦の渡来は1654年のことで、隠元は63歳であった。1625年生まれの萬子媛は、このとき29歳である。黄檗宗がもたらした文化は「黄檗文化」と呼ばれる。
ウィキペディアによると、「隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した」
*1という。

隠元隆琦は普茶料理という中国式の精進料理を伝え、日本における煎茶道の開祖となった。

有田を中心として焼かれる磁器は有田焼と呼ばれるが、伊万里港から積み出されていたため、伊万里焼とも呼ばれる。これとは別に、大川内山にあった鍋島藩直営の窯で焼かれた献上用の高級磁器は鍋島焼と呼ばれた。

萬子媛が生きていた江戸初期から中期にかけて、黄檗宗が流行り、人々は普茶料理に親しんだ。そして、これはまだわたしの憶測にすぎないが、佐賀藩の有田で焼かれた磁器及び献上用の鍋島焼は、普茶料理に使用されたのではないだろうか。

21歳で早世した萬子媛の次男・式部朝清は佐賀藩2代藩主・鍋島光茂(1632生 - 1700没)に仕え、佐賀に住み、光茂の信頼厚く「親類同格」の扱いを受けていた。

光茂は三家格式を定めることで、蓮池藩・小城藩・鹿島藩の三支藩を完全な統制下に置いた。古今伝授を受けるほどに和歌を好み、彼は『葉隠』の語り手となる山本常朝の主君であった。また、寛文2年(1662)、幕府に先んじて殉死を禁止している。

明敏な頭脳を持ち、政治的、文化的に先取的動きを見せる光茂が黄檗宗、煎茶道と関係が浅かったとは考えられないし、彼は鍋島焼とも関係が深い。鍋島焼との関係の深さは、元禄6年(1693)に光茂が有田皿山代官に与えた手頭(指示書)からも明らかである。

黄檗宗は幕府の鎖国政策の下で流行した。鍋島藩で焼かれた磁器は、江戸時代に花開いた黄檗文化の形成に関係していたとわたしは考えている。もしこの憶測が正しければ、鍋島藩は黄檗文化の流布に一役買っていたことになる。

*1:「隠元隆き」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2016年11月27日 (日) 07:35 UTC、URL: http://ja.wikipedia.org

写真を見ると、様々な食器がある。

前掲ニュースと関連した催し物(平成30年7月14日~平成30年11月25日)の記事も出てきた。

 平成29年度の京都市有形文化財に「公家町遺跡(安禅寺杉之坊)出土品」と「公家町遺跡(櫛笥家)出土品」が指定されました。そこでこのたび、京都市考古資料館では、文化財指定を記念して平成30年度前期特別展示「お公家さんのうつわ − 京都御苑出土の古伊万里を中心に − 」を開催する運びとなりました。
 指定品は、京都御苑内における京都迎賓館の建設工事に先立って1997~2002年に実施された発掘調査で出土した遺物の一部です。

[略]
 今回、有形文化財に認定された資料は、公家町遺跡出土遺物群のうちの安禅寺杉之坊の穴蔵と櫛笥家の土坑から出土したものです。いずれも、京都市内では類例の少ない古伊万里(肥前磁器)が多数含まれており、江戸時代前期の公家屋敷で用いられた焼き物の実態を伝えています。

京都考古学資料館「平成30年度前期特別展示『お公家さんのうつわ』開催について 」<https://www.kyoto-arc.or.jp/blog/jp-mus-exhibition/2935.html?cat=11>(2018年10月28日アクセス)

このような出土品がなかったために、矢部良明『世界をときめかした伊万里焼』(角川書店、2000)の中の次のような記述が生まれざるをえなかった。

鹿島藩初代藩主を務めた鍋島勝茂(1580-1657)か二代藩主光茂(1632-1700)の時代であったか、鍋島藩が支配する伊万里焼の製品をもって、徳川政権の長である将軍から諸大名、そして貴紳たちに進上することが考えられた。
 後世の記録であるから伝承の範囲のこととはなるが、その鍋島焼の創業は、寛永五年(1628)のことという。もしこの伝承が正しければ、鍋島焼開窯は鍋島勝茂の采配によると考えなくてはならないが、残念なことに当時の史料では証明されていない。
(矢部,2000,p.108)

図書館に返してしまったので、再度借りて確認しなくてはならないが、『伊万里市史 第二巻 陶磁器編 古唐津・鍋島』に、その時代の進上にまつわるエピソードが紹介されていた。

メモしようと思いながら忘れてしまったのは、鍋島焼が黄檗文化に関係していたというには、その進上にまつわるエピソードと、前掲書にもある鍋島光茂が元禄六年(1693)に有田皿山の代官に出した「指令文書」(矢部,2000,p.114)の存在だけでは証拠として弱いと思ったからだった。

黄檗文化と鍋島焼の結びつきを専門家にお尋ねしたときに、その結びつきを否定なさったことを考え合わせて、確かに史料、出土品共に乏しすぎる――と思い、何とはなしの失意の中で、本を返してしまった。

それ以上の追究を諦め、所詮は素人芸の小説なのだから、フィクションでどう書こうが問題ない……と半ば投げやりな気持ちでいたときに、このニュースに出くわしたのである。

鍋島焼についてはもう少し詳しく書いておきたいが、とりあえず、このノートはここまで。

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