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2018年10月31日 (水)

歴史短編1のために #49 萬子媛は再婚だったのか、初婚だったのか?

24日、第二稿、やっと、一行だけ書いた。

第一稿が2015年12月の脱稿だから、三年間のブランク。

第二稿が全く進まなかったのは、萬子媛についてわからないことが多く、伝承と史実が異なると思える部分もあって(一致している可能性もないではない)、調べ.るのに時間がかかり、調べてもわからなかったりもして、創作意欲が低下していたということがあった。

しかし、現地取材したり、取材に協力していただいた専門家の方々のお陰でわかったことも多い。藩日記を読んだ収穫も大きかった。

そのような中で、まだわからないことは、37歳で鍋島直朝に嫁いだ萬子媛は初婚だったのか、再婚だったのかということである。

専門家の方々も、第一稿を読んでくださった方々も、閲覧した複数のサイトでも、わたしの夫と息子も皆が、萬子媛の年齢から考えて再婚だった――という憶測をなさる。

小説というフィクションを書くのだから、どう書こうと自由なのだが、ここが決まらないために悶々としていたが、決めた。初婚だということに。娘だけが、わたしと同じ憶測をする。

わたしがなぜそう考えるかというと、大名職を引退した夫が存命であるにも拘わらず(恐らく仲も悪くなかった)、おなかを痛めた子のうちの次男までもが21歳で早逝したとき、萬子媛は剃髪なさった。

そのときに義理の息子・断橋和尚に吐露した率直な気持ちが、大名になった断橋の弟・直條の著と考えられる萬子媛の小伝に書かれている。

かくも自分の気持ちに正直で、思い切ったこともなさる萬子媛。情の深さ、細やかさと優れた教養で多くの人々を惹きつけた萬子媛。

いわば全力投球型の萬子媛が再婚だったとは、考えにくいのだ。

初婚で結婚した相手に不満があれば、積極的に打開策を考えて実行なさるだろうし(離婚という匙投げの手段ではなく)、夫と死別したのであれば、萬子媛の性格からして、その地で出家なさったのではないだろうか。

花山院定好は別れに臨み、衣食住の守護神として伏見稲荷大社から勧請した邸内安置の稲荷大神の神霊を銅鏡に奉遷し、萬子媛に授けた。

もし再婚であったなら、萬子媛は初婚のときも授かったのか?

結婚するたびにお稲荷さんを持たされて送り出されるというのも、不自然な気がする。

なぜなら、そのお稲荷さんは、ただのお稲荷さんというわけではない。朝廷の勅願所であった伏見稲荷大神の分霊なのだ。

萬子媛は二歳で、母方の祖母・清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)の養女となっている。清子内親王について、萬子媛との関係を中心にざっとまとめてみる。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説<https://kotobank.jp/dictionary/nihonjinmei/>(2018年10月25日アクセス)に、次のような解説がある。

清子内親王(後陽成天皇の第三皇女)
1593-1675* 
江戸時代前期,後陽成(ごようぜい)天皇の第3皇女。

文禄(ぶんろく)2年10月23日生まれ。母は女御藤原前子(さきこ)(中和門院)。慶長6年内親王となり,9年鷹司信尚(たかつかさ-のぶひさ)にとつぐ。信尚没後,大鑑院と号した。延宝2年12月9日死去。82歳。

清子内親王は28歳で、夫・鷹司信尚と死別して大鑑院と号した。
大鑑院は34歳で、孫娘である萬子媛を養女とした。
37歳になる萬子媛を1662年に嫁に出したとき、大鑑院は69歳。
曾孫の文丸が生まれた1664年(萬子媛39歳)、大鑑院は71歳。
曾孫の朝清が生まれた1667年(萬子媛42歳)、大鑑院は74歳。
1673年に文丸が10歳で死去したとき、大鑑院は80歳。

未亡人であった清子内親王は、なぜ萬子媛を養女としたのだろうか。萬子媛には同じ母から生まれた兄弟姉妹がいる。サイト「公卿類別譜(公家の歴史)」より引用させていただく,。

忠弘
定教(母同。忠広嗣) 
円利(※家譜による。母同。入叢林為出家)
定誠(母同。定教嗣) 
堯円(母同。専修寺十六代。近衛尚嗣猶子) 
女子(母同。号貞寿院実全妙操〔高千穂家譜〕。   
 元禄10年9月18日(1697年11月1日)卒〔高千穂家譜〕。   
 ※家譜は豊前国英彦山座主亮有室とあるが、愛宕家譜・知譜拙記によれば、愛宕通福の実父は亮有の父有清〔岩倉具堯二男〕で、母は定好の娘とある)
女子(母同。鍋嶌和泉守室) 
女子(母同。惣〔*系図纂要作総〕持院尼。智山周旭)


花山院家(清華家)-公卿類別譜(公家の歴史)<http://www.geocities.jp/okugesan_com/kazanin.htm>(2018年10月25日アクセス)

鍋嶌和泉守室というのが萬子媛のことで、下に妹がいる。この妹といくつ違いなのかわからないが、母(没年不明)が出産後に亡くなり、そのときまだ二歳だった萬子媛を祖母が引き取ったということも考えられる。

祖母との暮らしは、抹香臭い(?)、宗教色の濃いものだったのではないだろうか。

『肥前鹿島円福山普明禅寺誌』(編集:井上敏幸・伊香賀隆・高橋研一、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2016)所収の萬子媛の小伝「祐徳開山瑞顔大師行業記」に、
大師、いまだ笄[こうがい](かんざしで髪を束ねる)せざるより、早くも三宝[さんぽう]の敬すべきを知り、香華を仏に供[そな]うるを以[もっ]て常の業と為[な]し、帰に泪[およ]ぶ」(2016,p.72)とあることから考えても。

萬子媛は成人以前に早くも仏教における「仏・法・僧」と呼ばれる三つの宝物を敬うべきことを知り、仏前に香と花を供えることを日課とし、仏教に帰依していた――とあるので、祖母と一緒に、清く正しく美しくお暮しになっていたことは間違いない。

そして、それは幼いころからのものであったために、萬子媛にとってはごく自然な、快いものでさえあったのではないだろうか。

父の花山院定好はもとより祖母も、萬子媛の良縁を心底願っていたに違いない。わたしに憶測できる、萬子媛が晩婚になった理由はこのことしかない。格式の高さと貧乏である。

江戸時代、公家は様々な制約の中で、貧乏生活を余儀なくされていた。

萬子媛の実家である花山院家は750石。養女に行った鷹司家は五摂家※の一つで、最高貴族といえる家柄だが、鷹司家は1500石と小大名より少ない(10万石以上を大大名、5万石以上を中大名、それ以下の大名を小大名といった)。

※藤原北家から出た近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家の五家のことをいい、鎌倉時代半ばより代々摂政・関白を務めた。

萬子媛が後妻となった、その小大名の一つである肥前鹿島藩は2万石である。

下種ないいかたになるが、格式の高い家の生まれの明眸、才知ともに備わった萬子媛が年増となり、当時の基準での嫁としての商品価値が下がって初めて、小大名が近寄れるくらいの雰囲気が醸成されたのではないだろうか。

適齢期に大大名、中大名にやるには、貧乏が邪魔をした。

萬子媛が父から授かった伏見稲荷大神の分霊こそ、花山院家屈指のお宝といってよいものだったかもしれない。

前掲引用の系図にあるが、以下の過去記事から引用すると、村上竜生『英彦山修験道絵巻 』(かもがわ出版、1995年)は江戸時代に作られた「彦山大権現松会祭礼絵巻」に関する著作で、それによれば、絵巻が作られたのは有誉が座主だったときだった。

2016年1月23日 (土)
江戸初期五景2 #2 英彦山。鍋島光茂の人間関係。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2016/01/2800-e9da.html

この著作には有誉の父が亮有、母は花山院定好の娘だと書かれている(亮有の父・有清の室という説もある)。いずれにしても、ここで出てくる花山院定好の娘というのは、萬子媛の姉だろう。交際があったらしく、英彦山からのお使いは時々、鹿島藩日記に出てくる。

有清の三男で亮有の弟の通福は中院通純の猶子となっており、中院通純の娘・甘媛は鍋島光茂の継室(後妻)となっている。

このころ、英彦山は「英彦山三千 八百坊」(3,000人の衆徒と坊舎が800を数えた)と謳われるほど栄えていたというが、何しろ険しい山の中である。京都住まいの貴族である花山院定好が、本心から嫁にやりたいと思うようなところだったのだろうか。

萬子媛の妹は、臨済宗単立の比丘尼御所(尼門跡寺院)で、「薄雲御所」とも呼ばれる総持院(現在、慈受院)へ入った。以下の過去記事、参照。

2015年1月19日 (月)
歴史短編1のために #12 尼門跡寺院
https://elder.tea-nifty.com/blog/2015/01/12-293c.html

定好の娘達の落ち着き先をみていくと、下種の勘繰りかもしれないが、花山院定好のつらい胸のうちが読めるような気がしてくる。

渾身の力を振り絞り、万感胸に迫りつつ娘を送り出した父の思いが萬子媛に伝わらないはずはない。こんなことを二度も三度も繰り返すだけの財力も気力も父にはないことを、聡明な萬子媛はわかりすぎるほどわかっていたに違いない。

こうしたことを総合して考えてみると、萬子媛は初婚だったと思えてしまうのだ。

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