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2018年8月16日 (木)

歴史短編1のために #40 鹿島藩日記第二巻ノート (2)萬子媛を慕う義理の孫

自分のための単なる読書ノートです。あとでまとめて拙ブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」に、「祐徳稲荷神社参詣記」の続きとしてアップします。

『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、昭和54)

変体仮名が曲者だわ~!

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『鹿島藩日記 第二巻』(祐徳稲荷神社、1979)によく出てくるこの文字がわからず、悶々とした。合略仮名(仮名合字、つづきかな)で、平仮名の「よ」と「り」の合字、「より」。

昨日からまだざっとメモしているだけなのだが、萬子媛の実家を継いだ弟、花山院定誠が萬子媛の亡くなる前年に亡くなったことが日記からわかる。

前の記事に「忠広と定教は若くして亡くなり、寛永17年2月26日(1640年4月17日)生まれの定誠が藤原氏北家師実流の花山院家24代当主となった。権大納言、武家伝奏役、内大臣をつとめたあと、元禄5年(1692年)、52歳で出家し、宝永元年(1704年)に死去」と書いた。萬子媛にはショックだったのではないだろうか。

萬子媛が病気になられてから、頻繁に「お幾様」というお名前が出てくる。鍋島直條女とあるから、このお幾様は萬子媛の義理の息子の娘。義理の孫になる。お幾様が萬子媛を心配していた様子が日記から伝わってくる。

鍋島直條(1655 - 1705)は51歳で亡くなっており、家督を継いだ五男、直堅(1695 - 1727)は病弱だったらしく、33歳で早世している。

直堅の母違い(?)の姉が「お幾様」ではないかと思うが、弟との年齢差はかなりあっただろう(直堅の母は側室から昇格した継室・中野氏)。それでも、父、直條の年齢を考えれば、比較的、若かったのではないだろうか。

直條の結婚は寛文11年(1671)、17歳のときで、相手は佐賀藩主光茂の養女(蓮池藩鍋島直澄の娘)千代、19歳である。直條夫人千代は元禄元年(1688)、36歳で出産後、亡くなっている。千代のこの末の子もほどなく亡くなった。第二女が既に天和二年(1682)、亡くなっている。

お幾様が長女だったとすれば、早ければ結婚の翌年くらいに生まれ、遅ければ第二女が生まれ亡くなった前々年くらいの生まれになるから、萬子媛が亡くなったとき、25歳~33歳くらい。

萬子媛の修行期間は62歳からの18年間に及ぶから、萬子媛の出家時、お幾様は7歳~15歳。子供のころ可愛がられ、萬子媛の出家後は時々会いに行っていたとすれば、慕うのも頷ける。

わたしは萬子媛をモデルとした歴史小説の第一稿で、萬子媛を慕い、お産につきそう若い女性を描いた。

義理の娘に設定したのだが、実際には娘ではなく孫だったとはいえ、萬子媛を慕う「お幾様」のような女性がいたことに驚きを覚えた。

他にも、萬子媛が筝を奏でる情景が頭に浮かんだので、その場面を書いたら、実際に萬子媛は筝を弾かれたようで、遺愛の琴(筝)を祐徳博物館で観ることができる。

萬子媛が可愛がり、萬子媛を慕う若い女性が萬子媛に付き添っているところがしきりに頭に浮かび、病気はちょっと思いつかなかったので、萬子媛のお産ということにしたのだった。

実際の萬子媛も、お幾様を可愛がられたに違いない。わたしが神秘主義的感性で捉える萬子媛はそのような格調高い慈母のような雰囲気を持つかたなのだ。

だからわたしも――お幾様には負けるかもしれないが――あの世のかたであるにも拘わらず萬子媛が大好きになってしまった。そうでなければ、書き慣れない歴史小説など書こうとは思わない。児童小説の続きを書く。

お亡くなりになった神智学の先生も大好きなので(先生は多くの会員から慕われていた)、ちょっと困るくらいだ。百合も薔薇もたまらなく好き、という感じだろうか。

護摩堂での二夜三日の祈禱を命じたり、お見舞いに行く折に中尾地蔵へも参詣したり、しきりに人をやって容体を尋ね(萬子媛逝去の前日も)……と、お幾様は萬子媛のことが心配でたまらなかったのだろう。

父と義理の祖母を一度に亡くしたお幾様……可哀想に。萬子媛と寝食を共にして修行に明け暮れた筋金入りの尼僧たちとは違って、一般的な女性だったと思われるので、なおさら気の毒になってしまう。

元禄14年~15年かけて起きた赤穂事件について日記に書かれており、解説を引用しておきたいが、記事を改めよう。『伊万里市史』から、鍋島焼についてもノートしておきたい。

討ち入りが起きた元禄15年10月3日の日記に肥前佐賀領大風雨とあり、これは台風だろうか。被害状況が細かく記されている。

田畠18万1,000石が荒れた。倒家数2万9,045軒。崩塀3,800間余。
倒木3万4,850本。破船29艘。
死人62人のうち男57人、女5人。
死馬8疋。

わたしは萬子媛が断食入定ではなく、一般的な死にかたを選ばれた――と推測できることが嬉しい(萬子媛が古枝にあった祐徳院のどこで病まれたかが書かれていないので、断定はできない)。

萬子媛に興味が湧いたのは断食入定という過酷な死にかたをなさったという伝承に接したからだったが、わたし自身は死に至るまで断食を続けるような過激な修行を不自然、不要なことだと思っている。

それに、高雅でありながらとても率直なかたである萬子媛がわたしの思い込みに違和感を覚えていられる感じがそれとなく伝わってきて、現実にはどうであったのか知りたくなり、『鹿島藩日記 第二巻』を購入した。購入して、よかった。

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