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2018年8月28日 (火)

神事、そして文学に対する冒涜でしかない高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)

ノーベル文学賞は終わった感があるが、『文藝春秋』(平成30年9月号)に発表された高橋弘希「送り火」(第159回平成30年上半期)を読んで、芥川賞もとうとうここまで冒涜的、おぞましいシロモノを日本社会に送り出すようになったか、と脱力感を覚える中で思った。

書きかけだった「鹿島藩日記第二巻ノート (6)祐徳院における尼僧達」の続きがまだだし、トルストイ『戦争と平和』に関するエッセーも「マダムNの神秘主義的エッセー」に連載中で時間がないのに、今日はこれを読まされた(絶賛されていたのだから、「読まされた」だ)。

高橋氏の文章は描写力があって素晴らしいそうだが、誉めすぎだ。描写力というほどの印象的な描写はなく、くどくどしく説明が重ねられているだけで、どちらかというと平板な文章である。

ただ、過去記事で書いたように、わたしは文学界に新星が現れたと確信したので、日本文学が終わったとは思っていない。この希望の光がなければ、不快感、絶望感で今日は何もできなかったかもしれない。

2018年5月12日 (土)
「三田文學」(第24回三田文学新人賞)から新星あらわる
https://elder.tea-nifty.com/blog/2018/05/24-98ca.html

選評の中では、高橋のぶ子「青春と暴力」だけがまともで、他の選考委員の選評は批評能力以前に常識を疑う。

高樹氏の選評のタイトルに青春とあるが、複数の中学生、そして後半は複数の大人が主体となるリンチ事件(殺人になったかどうかがストーリー上は不明)を長々と描いたものが、青春文学などであるはずがない。

しかも、このリンチ事件には神事を――ミサの倒錯であるかのような黒ミサに匹敵するおぞましさで――絡めてあるのだ。虚構なら、何を書いてもいいというわけではないだろう。

実際にも報道されることのある、凄惨なリンチ事件を神秘主義的に見れば、凶悪な低級霊の憑依事例といえそうであるが、話が文学から離れるので、これ以上は追究しない。

ただ、果たして「送り火」が文学といえるだけの資格を備えているかどうかといえば、微妙である。

高樹氏の選評に同感の部分を以下に引用したい(前掲誌309~310頁)。高樹氏が選考委員の中にいてくれたことは芥川賞にとって、わずかな救いだった。そうでなければ、芥川賞の名を辱めただけで終わっただろう。

<ここから引用>
けれど受賞作「送り火」の十五歳の少年は、ひたすら理不尽な暴力の被害者でしかない。この少年の肉体的心理的な血祭りが、作者によって、どんな位置づけと意味を持っているのだろう。それが見いだせなくて、私は受賞に反対した。〔略〕文学が読者を不快にしても構わない。その必要が在るかないかだ。読み終わり、目をそむけながら、それで何? と呟いた。それで何? の答えが無ければ、この暴力は文学ではなく警察に任せれば良いことになる。
<ここまで引用>

懸念されるのは、あれだけの冒涜、暴力を描きながら(そこでは平板な文章が活気づいている)、受賞者インタビューに「暴力性と言われますけど、自分としては男の子たちが皆でお祭りでワイワイしている様子を描こうと思ったのが最初です」という自覚のなさだったことである。

村上春樹の創作姿勢にも、わたしは同様の疑問を覚えた。過去記事「村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅲ)」から以下に引用する。

<ここから引用>
 ネットで、『海辺のカフカ』について新潮社が作者の村上春樹にインタビューした記事を見つけた。そこで「この小説はいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?」という問いに答えて、彼は次のように答えている。
いや、そういうものは何もないんです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えていない。最後がどうなるとか、いくつかの話がどう結びつくかということは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。
 『ノルウェイの森』が『海辺のカフカ』と同じような書き方をされたかどうかはわからないが、わたしには同じご都合主義の臭いがする。『海辺のカフカ』を読みながら、本当にわたしが憔悴してしまうのは、死屍累々の光景が拡大され、即物的な描写が目を覆うばかりにリアルなものになっているからだ。以下は、そのごく一部分だ。
ジョニー・ウォーカーは目を細めて、猫の頭をしばらくのあいだ優しく撫でていた。そして人指し指の先を、猫のやわらかい腹の上で上下させた。それからメスを持ち、何の予告もなく、ためらいもなく、若い雄猫の腹を一直線に裂いた。それは一瞬の出来事だった。腹がぱっくりと縦に割れ、中から赤い色をした内臓がこぼれるように出てきた。猫は口を開けて悲鳴を上げようとしたが、声はほとんど出てこなかった。舌が痺れているのだろう。口もうまく開かないようだった。しかしその目は疑いの余地なく、激しい苦痛に歪んでいた。
このような息も詰まる残酷な場面が、何の設計図もなしに書かれ、無造作に出てくるというのだから驚く。作品が全体として現実とも幻覚ともつかない雰囲気に包まれており、主人公がまだ15歳の少年ということを考えると、作者の筆遣いの無軌道さには不審の念すら湧いてくる。

<ここまで引用>

神秘主義的に考えれば、作家が質〔たち〕の悪い低級霊に憑依され、そのような低級霊の影響下で書かれた作品が流行病のように広がることだって、ある。売れているからといって、有名な賞を受賞しているからといって、油断してはならない。娯楽や慰めのために読む本の影響を、わたしたちは学問的な読書のとき以上に受けると思うべきだ。

勿論、村上氏や高橋氏を霊媒作家というのではない。作家の姿勢次第で、読者は思わぬところへ導かれることがあるということを警告したいだけだ。

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