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2017年7月29日 (土)

友情について

このところ、ずっと友情について考えていた。

59歳になったわたしに、今後も友人をつくる機会が訪れるかどうかはわからないけれど、友人をつくるための最良の時は過ぎ去ったのではないかという気がしている。

今のわたしには文学を通して交際の輪が広がった日々が輝いて見える。その輪の中心には神智学を通じて知り合った人々との交際が見えない世界への翼となって、その痕跡をとどめている。

文学仲間とは文学観の違いから口論になったり、仲違いすることもあった。しかし、それは今思えば、何て贅沢な交際に恵まれた日々であったことだろう。

文学仲間とは話が通じないとか、話題に出したいことを相手に遮られて全く出せないということがほとんどなかった。

そうした交際の中でも、わたしが「詩人」と呼んだ今はなき女友達と女性編集者Мさんとは深い会話ができた。

皆が文学に抱擁されていたからこそ、そうした交際が可能だったのではないかと思う。比較的最近になって女性編集者Мさんから電話があり、会いたいという話だったが、わたしはまた口論になりそうな気がして会えないといった。

彼女が応援している作家たちを、彼女と共に応援することはとてもできないと思ったのだ。編集者として包容力がなければ、仕事にならないことはわかっている。

だが、彼女が応援しているこの国でよい地位を得ている作家たちは本当に作家という名に値する人々なのだろうか(勿論値する人々だっているだろうが)。

Мさんとの齟齬も、本を正せば、この国の文学界が左派に牛耳られている異常な状況から来ているとわたしには思える。

葛藤、不運、不遇が、左派に与することのできない物書きを襲い続けてきたのだ。言論の自由は事実上、左派にしか存在しない。独占を真に自由と呼びうるかどうかは疑問のあるところだが。

左派が毛嫌いする神秘主義、その中でも近代神智学運動の母といわれるブラヴァツキーは左派のバッシングの的となってきた。マルクス主義の根拠となっている唯物論の誤りを的確に指摘できる神智学は左派の天敵だからである。

大学生のわたしはプロティノスが神智学の創始者アンモニオス・サッカスの直弟子とは知らなかったにも拘わらず、哲学者の中ではプラトンに次いでプロティノスに惹かれ、やがてブラヴァツキーの神智学に辿り着いた。

神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長であった田中恵美子先生からは、神智学の神髄を教わった。先生がお亡くなりになった今も、わたしは美しい白薔薇を想い浮かべるように、先生の美しかったオーラの色合いを想い浮かべる。

先生と対等に交際するにはわたしには知能も教養も足りなかったが、先生の影響を自分に可能な限り受容させていただいた。

このような、わたしの目に知性美に輝く理想像と映った田中先生のような人と人生の早い時期に出会ってしまったので、先生が亡くなってしまうと、味気ないこの世がいよいよ味気なく映ってしまうようになった。

死後、別れの挨拶に会員達を訪れた先生――同じことを経験した会員が複数いる――は、その後もあの世から見守ってくださっているのを感じる。それでも、生身の先生に大会などでお目にかかることはもうできないのだと思うとこの世は如何にも味気ない。

もし、あの世から地上世界にある神社へと、毎日ボランティアに通っておられる萬子媛のような高級霊と出会わなければ、神秘主義者として生きざるをえないわたしの後半生はどんなに淋しく、虚しく過ぎたことだろう。

あの世にまで広がる交際を可能にしたのは、神智学という神秘主義だ。

文学と神秘主義、この二つの思想に抱擁されて、コミュニケーションの可能性を追求し、その恩恵に浴してきたわたしはいつのまにか、コミュニケーションというものはごく自然に行われるものと錯覚してしまっていた。

ところが、中学時代、高校時代に親しかった友人達と旧交を温める機会を持ったことから、その錯覚が打ち砕かれた。

その中でも、中学から高校にかけて最も親しかったナースになった友人との35年ぶりの再会は意外な展開を迎えた。同じころに幼馴染からもやはり35年ぶりに連絡があり、幸いこちらとは旧交を温めることができた。

二人の違いといえば、幼馴染とは互いに35年間欠かさず年賀状を出し続けて相互に連絡し合っていたが、ナースの友人とは音信不通になったりならなかったりで、その状況に嫌気がさし、もう年賀状を出さないことに決めた矢先の再会だったということである。

幼馴染みは文学好きというわけではないが、長電話の中で「Nちゃん、創作続けている?」と大切なことを問いかけるように尋ねてくれた。創作のことを話したかどうかさえ覚えてなかったので、思いがけない嬉しさだった。

幼馴染みの声は昔と同じように優しく、柔らかに響き、当時と同じようにわたしを癒してくれる。

わたしの創作を励ましてくれるのは、この幼馴染みと東京在住の従姉くらいだ。

いや、もう一人だけいた。大学時代に美術部だった埼玉在住の友人で、彼女は今は喫茶店を経営しており、絵は描いていないという。が、シャガールばりの彼女の絵をわたしは忘れられず、彼女は毎年の年賀状に欠かさずわたしの創作のことを書いてくれるのだ。

誰かと会って話すとき、わたしは相手の喜びの源泉や苦しみの原因を知りたいと思う。そして、相手にも同様にわたしのことを知ってほしいので、万遍なく話題を広げたい。

しかし、考えてみれば、それは高度にコミュニケーションがとれ、相手のことに関心があって初めて可能になることなのだ。

女性同士であっても、相手が好きであれば、相手に関心を持つのが自然である。そして、コミュニケーションは、語彙や表現力が乏しければ、うまくいかない。

博多で三人の友人達と旧交を温めて、とてもなつかしかったものの、むしろわたしにとっては冷やす結果となってしまった。

二人は――ナースの友人には子供はいないにも拘わらず――どこか姑臭くなっていて、なつかしい顔立ちや振る舞い、変わらぬ魅力を湛えた表情の移り変わるある瞬間に何か底意地の悪さといったものを感じさせるのだ。

考えてみれば、昔もそうしたことを感じることがあり、それは気のせいだと思っていた。

だが、おそらく一人は底意地の悪い姑に献身的に仕える重労働の中で、自制心を次第に摩滅させただけでなく、底意地の悪さを姑に学んでしまったのだ。ナースの友人は職場環境によるものだろうか。ナースの中に時々、底意地の悪い人を見かけるときがあるからそう思うだけで、わたしの憶測にすぎない。

わたしが独身時代、金持ちだったのに、今はそうでないのが痛快らしい。金持ちだったのは両親であって、わたしではない。両親の自分勝手には結構苦しめられたし、倒れた母の看病のために就職できなかったにも拘わらず、両親はそのことを意に介していなかった。

好意的でなつかしい友人の振る舞いの中に棘のように意地悪が潜むことに、わたしは耐えられないが、そのときはなつかしさのほうが勝り、再会が嬉しかった。

姑臭くなった友人の一人と二人きりで駅の構内を歩いたとき、幸い昔の彼女が戻ってきた。昔彼女の家に泊めて貰った晩、目を綺羅星のように輝かせながら宇宙への憧れを語った彼女。

そのときの彼女が戻ってきたことを思い出し、交際を深めていけば、姑からの仕打ちの痕跡など、やがて消えて行くのではないかと考えている。その機会があればだが。

ナースの友人とは修復が可能か不可能かという以前に、価値観も友情観も違いすぎるのがわかった。

結局、人間性を損なっていなかったのは新興宗教にはまっている残る一人の友人だけだった。彼女には底意地の悪さは微塵も感じられず、知識欲も旺盛と映った。

おそらく宗教活動を通して、彼女は読書習慣や考える習慣を持ち、それは情操を養う機会ともなったのだ。

その宗教の内容に関してはわたしには共鳴できないところがあるけれど、底意地の悪さというものが本人も気づかない精神的飢餓感から発生しているように思えるとき、宗教が――宗教組織が宗教を何か世俗的な目的のためのアイテムとしていない限りにおいてだが――萎縮しやすい女性の生活に活気と潤いとコミュニケーションの機会を与えてくれるように思われる。

大学時代の友人で、別の新興宗教にはまっている人がいて、彼女にも同じことを感じている。わたしたちは度々電話し合って、様々な事柄について万遍なく話す。暮らしのことから、現在の不安や課題、宗教思想、宇宙について、政治についても。

考えかた、思想の違いも率直に話して、むしろその違いが興味深くて楽しい。彼女にも、底意地の悪さは全く認められない。

そもそも、暮らしに欠けるものを感じ、何か高いものへの欲求や憧れがあるから、二人の友人は入信したのだろうと思う。

聖人ではないのだから、齟齬や不愉快というものは交際にはつきものであって、わが身も顧みず、そのことをどうこういうわけではない。

相手に意地悪と誤解されても仕方のない場面は交際にはよくあることのだが、底意地の悪さというものはこれとは別物で、わたしが問題としたいのはこのことであり、これが意図的であるというところに問題があると思うのだ。

ごく瞬間的な意地悪な素振り、雰囲気、言葉を意図的に親しみの中に混ぜてくる人というのは心底病んでいるだけでなく、その対象とする人を本当には好きではない可能性があると思う。

この悪癖に冒される人達というのは、わたしの知る限り、唯物主義者、現世主義者に多い。それは先述したように、物質偏重からくる飢餓感なのだ。

博多での再会後に彼女のご主人が統合失調症との診断を受けたと知り、わたしはそのことにひどく負担を感じた。統合失調症が大変な病気であることを知っているから、彼女のことが心配になり、こうしたことの全体がわたしには負担と感じられた。

友人としての有効期限は過ぎたとわたしが感じ、整理しかかったときに繰り返し誘いをかけてきて(わたしの体がひどく心配なのだと彼女はいった)、35年ぶりに再会した後、この大変な事態を明かされるとはあんまりだと思った。

しかし一方では、大変な状況下でわたしのことを思い出してくれた彼女に嬉しさを覚え、何か誇らしいような気持ちも起きた。頼りにされているのかもしれないという一方的な思い込みで責任感を刺激された。

わたしには、再婚した奥さんにつられるようにして頭が普通でなくなった父があり、また「詩人」と呼んだ統合失調症の友人がいた。彼女の参考になることを話せそうだった。

コミュニケーションがうまくいかないのを感じたが、彼女のほうではうまく行く必要もないのかもしれない。

彼女の愚痴を聞いて、適度な慰めとなり、陽気な飲み友達となれるのなら、彼女にとって最高の友人となれただろう。ご近所づきあい、気晴らしのアイテムとしての友人関係を求められているだけだとわたしは思った。

ただ、わたしの友人づくりはシビアすぎるのだろう。彼女のほうが標準なのだ。わたしが貪欲に友情に純度の高さを求めすぎるのだ。いつまでも青臭い、お馬鹿さんなのだ。そう、相手が姑臭く感じられるほどに、わたしは若いころから成長がないのかもしれない。

彼女と親しかった高校時代の交際も、考えてみれば、ご近所づきあい風だった。それが彼女の友情観であり、わたしの友情観とは食い違いがあったのだ。だから彼女という友人がいながら底知れない孤独を感じていたのだろう。

高校時代にはそのことがわからなかった。勉強や行事やクラブ活動で忙しい高校時代は、深い話をする機会がないだけだと思っていた。そんなわけはなかったのだ。友情観が一致していたとしたら、ない時間をつくって、あれこれ話したに違いない。

彼女にとって、わたしは重い、変なところのある、面倒な友人だったのではないだろうか。

そんなわたしだが、ご主人を一心に支えている彼女には深い尊敬の念を抱いている。ナースとして優秀な彼女であるからこそ、できることだとも思う。

大地に根差したような彼女の快活さ、バイタリティにわたしは惹かれたのに違いない。くれぐれも無理しすぎないようにと願う。

フルートが上手で、岸洋子「希望」を教えてくれた彼女は本来、芸術に鋭い感性を持つ人だとわたしは思っている。ストレス解消は、アルコールより芸術に頼ってほしい。

何にしても、頭を疑われそうになっては、彼女から逃げ出さないわけにはいかない。何しろ彼女はナースなのだから、怖い。如何に説明しようが、唯物論者で現世主義者である彼女――彼女にその自覚はないだろう――に神秘主義をわかって貰うのは無理な話だ。逃げるが勝ちだ。ごめんね。

結婚するときに、神智学を教わった田中恵美子先生がカーリル・ギブランの
「結婚」に関する詩を邦訳して贈ってくださった。主人との間でいろいろあるたびに、その詩を読み返してきた。

英語版「神智学ウィキ」に、カリール・ジブラン(ハリール・ジブラーン、カーリル・ジブラン)​​の神秘主義は、キリスト教、イスラム教、スーフィズム、ユダヤ教と神智学といった異なる影響が収束したものだと書かれていた。(→ここ

イタリア神智学協会のオフィシャルサイト「著名な神智学者の名前の一部」にもカリール・ジブランの名があった。

過去記事で紹介したカリール・ジブラン『預言者』(佐久間彪訳、至光社、1984年)から、「友情について」を再掲しておこう。   

そこでひとりの青年が言った。お話しいただけませんか。友情について。
    アルムスタファは答えて言った。
    君の友人は君の需
(もと)めへの応え。かれは畑。君はそこに愛をもって種まき、感謝をもって刈り取る。
    彼はまた食卓。君の暖炉。
    君は飢えてかれのもとに行き、平和を求めてかれを探すのです。

    友がその考えを語るとき、恐れるな、君自身の心のなかの「否
(いな)」を。そしてまたおさえるな、「然(しか)り」を。
    また、友が黙するとき、君の心は止めてはいけない。かれの心に耳を傾けることを。
    なぜなら友情にあっては、言葉なしに、すべての思い、すべての望み、すべての期待が生まれて、分かち合われるのです。それも喝采を必要としない喜びのうちに。
    君が友から離れるとき、歎いてはならない。
    なぜなら、君がかれのなかで一番愛しているものは、かれのいないときにこそ明らかになるのだから。山は、それを目指す者には、平野からこそ明らかに見えるもの。
    そして友情には、精神を深めることの他にはどんな目的もあらしめるな。
    なぜなら自らの神秘を顕わにする以外のことを求める愛は、愛ではなくて、投げ込まれる網にすぎない。

    そして君の最良のものが友のためであるように。
    もしかれが君の引き綱を知らねばならぬなら、君の満ち潮も知らせてやるように。
    なぜなら、時間をつぶすための友を求めるなら、いったい友とは何だろうか

    時間を生かすための友をこそ常に求めなさい。
    なぜなら、友とは君の需めを満たすもの。君の空虚を満たすためのものではない。
    そして友情の甘美さのうちに笑いがあるように。そしてまた楽しみの分かち合いも。
    なぜなら、小さな事柄の一滴のうちにも、心は自分の朝を見つけてさわやかになるのだから。

    カリール・ジブラン『預言者』(佐久間彪訳、至光社、1984年)

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