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2017年2月12日 (日)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想メモ4(唯物論的芸術観の限界か?)

恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、2016)の本の帯に赤字で「第156回直木賞受賞作 ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説」と書かれている。

『蜜蜂と遠雷』を読んでいると、わたしは故人となったピアニスト中村紘子のいくつかの名エッセーを連想してしまう。

参考にされているからだろうが、ピアノコンクールの現場からの濃やかなレポート、昨今のクラシック音楽事情、またピアニズムの歴史やしっかりと構築された音楽論などは、慌ただしく挿入展開される恩田陸独自の乱暴な音楽論とは到底相容れないものがあり、作品全体がちぐはぐで読むに堪えない。

ただ、技術的には優秀なピアニストでありながら、最高級の情操といえるような種類の霊感からのみ来る表現の妙には足りないものを感じさせる中村紘子の演奏を考えるとき、恩田陸ではいくらか滑稽な表現になっているとはいえ、両者に共通することとして、わたしはそこに唯物論的芸術観の限界を見るような気がする。

小説の中で、進歩程度のことを進化と表現し、作品の鍵として登場させた風間塵という少年をギフト、劇薬と表現して、この少年をことさらに天才に仕立てて現状打破の道具にしようとする作者の性急さは、恩田陸の焦燥、飢餓感を感じさせ、それは彼女のいささか道を踏み外した創作法と思想的限界を物語るものであるようにわたしには思える。

風間塵の演奏中に栄伝亜矢が浸る幻想で、塵はいう。「先生と話していたんだよ。今の世界は、いろんな音楽に溢れているけど、音楽は箱の中に閉じ込められている。本当は、昔は世界中が音楽で満ちていたのにって。」(恩田、2016、492頁)

その箱こそ、唯物論という、戦後の世界を席巻した左派(リベラル)の思想ではないだろうか?

それを打破するにはおそらく即物的手段では不可能だろうが、恩田陸はそれしか思いつかない。

即物的手段にいくら音楽風の装飾をほどこしたところで、風間塵の演奏は即物的様相を帯びてしまう。「なんて大きな音なの。三枝子は、自分の耳が、目が信じられなかった。音の圧力に、顔が打たれているようだった。本当に、刺激を、痛みを、肌が感じているのだ。/こんなに大きな音が出せるなんて。それとも、あたしの錯覚なのだろうか。巨大なエネルギーを持つ物質があそこにあって、四方八方に放射されているように感じる。」(恩田、2016、397頁)

これはピアノ演奏よりも、爆弾の炸裂に適した表現ではあるまいか。

過去記事でも紹介したが、近代神智学運動の母といわれるブラヴァツキー系の神秘主義では唯物論、物質をどう考えるかがエレナ・レーリッヒ『新時代の共同体 一九二六』(日本アグニ・ヨガ協会、1993)の用語解説にわかりやすく示されているので、引用しておきたい。

 唯物論 近代の唯物論は精神的な現象を二次的なものと見なし肉体感覚の対象以外の存在をすべて否定する傾向があるが、それに対して古代思想につながる「霊的な意味での唯物論」(本書123)は、宇宙の根本物質には様々な等級があることを認め、肉体感覚で認識できない精妙な物質の法則と現象を研究する。近代の唯物論は、紛れもない物質現象を偏見のために否定するので、「幼稚な唯物論」(121)と呼ばれる。「物質」の項参照。(275頁~276頁)

 物質 質料、プラクリティ、宇宙の素材。「宇宙の母即ちあらゆる存在の大物質がなければ、生命もなく、霊の表現もあり得ない。霊と物質を正反対のものと見なすことにより、物質は劣等なものという狂信的な考え方が無知な者たちの意識に根づいてきた。だが本当は、霊と物質は一体である。物質のない霊は存在しないし、物質は霊の結晶化にしかすぎない。顕現宇宙は目に見えるものも、見えないものも、最高のものから最低のものまで、輝かしい物質の無限の面をわたしたちに示してくれる。物質がなければ、生命もない」(『手紙Ⅰ』373頁)。(275頁)

次に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』の中のひっかかった文章についてメモしておこう。

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