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2016年5月26日 (木)

松原泰道『禅語百選 NON・BOOK―42』(祥伝社、昭和52年)、西宮カルメル会修道院訳註『十字架の聖ヨハネ詩集』(ドン・ボスコ社、1982年)

結局、昨夜は家族に弁当を頼み、寝ていた。今日から平常復帰。やはり以前よりは回復が速い。

実は、熊本地震の本震で落ちてきた本を積み重ねたまま、暮らしていた。夫と早く片づけたいねと話しつつ、余震が長引いたことからその時期に迷っていたのだった。

今日ようやく夫と共同作業で、居間に置いている本棚のうちのやや前に傾いてしまった二つの本棚の頭を後ろに傾けて下に木片を差し込み、頭のほうが壁に近い状態に戻した。壁の下部がわずかに出ているため、全体を壁にぴたりつとけることはできない。

地震のような異変があると、本棚の価値がわかる。値段のよかった本棚は微動だにしていなかった。

婚礼用の衣装ダンスのよさも長い年月が経つと、はっきりわかる。後に買い足した安価な衣装ケースに入れた衣類は、気をつけていても傷みが速い。

で、本棚を元に戻すついでに不要な本を処分したいと思った。

家族のものが混じっている本棚のものは勝手に捨てるわけにはいかないので確認をとると、台風被害や長い年月の間に相当に劣化したコミックスを含めて捨てられるものはほとんどなかった。

自分のものだと遠慮せずに処分できると思ったが、好きでない作家の本であっても、資料として捨てるわけにはいかなかったり、もういいやと思う本であってもいざ捨てようとするとちょっと確認しておきたいことが出てきたりで、結局現在、居間のいつものわたしの場所は地震で落ちてきたとき以上に本に埋もれている状態だ。明日の夜までには何とかしたい。

そんな作業のなか、大学時代に購入した――大学時代に購入した本の多くが今のわたしの心の財産となっている――本の中から、松原泰道『禅語百選 NON・BOOK―42』(祥伝社、昭和52年)が出てきた。

長い年月の間に劣化しているけれど、豊かな内容に変わりはなく、座り込んで久しぶりに再読していた。昭和47年(1972)初版、昭和52年(1977)24版である。

19歳のときに購入したのだろう。大学時代のなつかしい愛読書だった。

当時のわたしが特に魅かれたのは有名な次の禅語。

滅却心頭火自涼  心頭を滅却すれば 火自ずから涼し (『碧巌録』第43則『評唱』)

本の著者について、ウィキペディアから引用する。

松原 泰道(まつばら たいどう、1907年11月23日 - 2009年7月29日)は、日本の臨済宗の僧侶。東京都港区の龍源寺住職。
東京府生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜県の瑞龍寺で修行したのち、臨済宗妙心寺派教学部長を務める。
1972年出版の「般若心経入門」(祥伝社刊)は記録的ベストセラーとなり、第一次仏教書ブームのきっかけを作った。1989年仏教伝道文化賞受賞。1999年禅文化賞受賞。著書は百冊を超える。
宗派を超えた仏教者の集い「南無の会」前会長。南無の会は1984年に正力松太郎賞を受賞した。
2009年、肺炎のため101歳で死去。

ウィキペディアの執筆者. “松原泰道”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-29. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E6%B3%B0%E9%81%93&oldid=58420652, (参照 2016-05-26).

本の「まえがき」に、禅がどのようしてひろまったか、わかりやすく解説されている。

釈尊から第29代目が禅の初祖・菩提達磨大師である。達磨大師は毒殺されたとの伝説があるという。北周の武帝から仏教は大弾圧を受けた。

命がけの逃走と放浪と遍歴のあい間に礼拝したいと思っても一体の仏像もなく、頼りとするのは自分の中に埋みこめられている教えられた「ほとけのこころ」を開発し確認し、それを自覚するしかなかった。

宗教は違えど、十字架の聖ヨハネの詩の一節を連想させられる。

この幸いな夜に
誰にも見られず 何も見ないで
ひそかに(私は出て行った)
心に燃え立つそれの他に
光も導きもなしに。

その光は 私を導いた、
真昼の光より ずっと確かに、
私のよく知っている あの方が
私を待つ処に、
誰一人居ない あの処に。

西宮カルメル会修道院訳註『十字架の聖ヨハネ詩集』(ドン・ボスコ社、1982年、p.29-31)

禅僧は危険を冒して山中に訪ねてくる求道者にことばで伝えることも不可能だったと思われ、必然的に禅の伝法はドグマ化されずに済んだという。

隋・唐の時代となり、戦乱もようやくおさまって、禅の教団が確立する。禅書や禅語が難しくわかりにくいのは当時の民衆にわかるように日常語や俗語で話されたり書かれたりしたためだとか。俗語などは辞書には載っていないし、死語となったものも多かった。

「ことばは思想ではありません。月ということばは、月を指す指示的存在です。指にとらわれるのは愚かです。指のさす遥かかなたを見つめねばなりません。禅語の字義だけに低迷するのは好ましくありません。禅語の持ついのり願い・そしていのちを汲みとってください」と松原氏はお書きになっている。

神秘主義的にいえば、ことばが宿し発散している、いのちそのものの光であるオーラを内奥で感受することではあるまいか。

今日の再読で印象に残ったのは、次の禅語だった。

白雲抱幽石  白雲 幽石を抱く (『寒山詩』)

わたしは寒山について何も知らなかった。これもウィキペディアから引用しておく。

寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国で唐代に浙江省にある天台山の国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。
ウィキペディアの執筆者. “寒山”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-01. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AF%92%E5%B1%B1&oldid=58086097, (参照 2016-05-26).

禅語百選―今日に生きる人間への啓示 (ノン・ポシェット) 文庫
松原 泰道   (著)
出版社: 祥伝社 (1985/07)

十字架の聖ヨハネ詩集
セイント・ホアン・デ・ラ・クラッツ(15 (著),  ルシアン・マリー (著)
出版社: 新世社(名古屋) (2003/09)

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