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2016年4月17日 (日)

バルザックの夢と亡くなった近藤くんのことなど

仮眠中にバルザックが出てくる夢を見た。ごく普通の夢で、わたしは第三者的立場で夢を傍観していた。

全体がノスタルジックなベージュの感じ。

夜の広いカフェのように見えるそこはバルザックの仕事場兼学習塾(?)。

幅のある楕円形のカウンターがあって、カウンターにはチーズや飲み物が置かれているようでもある(はっきりしない)。ワンルームのようになったこちらやあちらの暗がりは別の部屋のようになっている。

写真で見るような風貌のバルザックはカウンターの向こう側にいて、気さくな優しい態度で数人の子どもたちの学習を見てやっている。

宿題は創作で、子どもたちは日記帳のような学習帳に短い小説を書いていっている。

夢の中でひとりの子どもがクローズアップされた。

小学3年生くらいの子どもで、白っぽい金髪をしている。学習帳に目を近づけて一生懸命に何か書きつけているその子の小説に興味を持ったバルザックが、どんな小説なのか見ている。

その子の素養や生活環境をバルザックは熟知しているようで、学習帳を見るのも初めてではなさそうだ。

挿絵なのか、悪戯書きなのか、学習帳には子どもっぽいイラストがある。

その子の最近の小説には見どころがあるようで、バルザックは新鮮さを覚えたように読んでいる。バルザックが感興をそそられたのは一つ前に書きつけられた小説であるようだ。

バルザックはその子の恵まれない境遇に涙する。優しい、温かな、その子を思った涙だ。

Honor_de_balzac_1842_512px_2

Honoré de Balzac (1799-1850)
1842
Louis-Auguste Bisson (1814–1876)
From Wikimedia Commons, the free media repository

夢にどんな意味があるのかわからない――何の意味もないのかもしれない――が、夢の中であったとしてもバルザックの拝顔の栄に浴することができて幸せだった!

ブラヴァツキーをして「フランス文学界最高のオカルティスト」といわしめたバルザック。

フランス文学界の最高のオカルティスト(本人はそのことに気付かなかった が)、バルザックはどこかで、数とマインドの関係は数と物質の関係と同じであると言っている。即ちマインドと物質の両方にとって数は“不可解な動因”であ る(おそらく世俗の者には不可解だが、イニシエートの心には決してそうではない)。その偉大な作家が考えたように、数は一つの実在であり、同時に、彼が神 と呼び、私達が一切と呼ぶものから発する息である。その息だけが物質コスモスを組織することができた。“そのコスモスでは、数の結果である神を通してだけ、すべてのものは形体を得る”。この問題についてバルザックの言葉を引用するのは有益である。

  ――最も小さな創造物と同じように、最も大きな創造物も、すべてによって生まれたものであり、その量、特性、寸法、力、属性によって互いに区別されているのではないか?……(H・P・ブラヴァツキー著、田中恵美子&ジェフ・クラーク訳)『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論(上)』神智学協会ニッポン・ロッジ、1989、p.279)

ブラヴァツキーの引 用は長いので全部は無理だが、これはバルザックの神秘主義的哲学小説『ルイ・ランベール』、あるいは『セラフィタ』からの引用だろうか? まだ確認していない。拙エッセーブログ「マダムNの神秘主義的エッセー」収録作品で、『ルイ・ランベール』の美しい断片を紹介したことはあった。

  • 20 バルザックと神秘主義と現代
    http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2015/09/02/225128

過去記事で、近藤くんの訃報を閲覧して早すぎる死に衝撃を受けたと書いた。

近藤くんとは同人雑誌『日田文學』の仲間だったが、彼と懇親会で顔を合わせたことはなく、「九州芸術祭文学賞」の授賞式でお目にかかったことがあっただけだった(わたしが2001年に地区優秀作になったときで、そのとき彼は地区次席だった)。

その後当ブログがきっかけで、メールを頂戴し、彼が一つ下の学年(同年生まれだが、わたしは早生まれ)だったことから「くん」をつけて呼ぶようになった(失礼なことだが、嫌そうではなかったので)。

そう呼んだ理由には他にも、彼が神秘主義的な作風の作品を書いたことから覚えた親しみがあったと思う。その後、それは真の神秘主義的な情感や動機か ら書かれたものではなく、創作上の戦略から神秘主義的色付けがなされただけではないかと思うようになった。真相がどうであったかはわからない。

その後、近藤くんは2008年に「黒い顔」で「九州芸術祭文学賞」の最優秀作になり、文藝春秋「文学界」デビュー。

いずれにせよ、近藤くんはわが国の左傾化した文学界とも折り合いが悪くないように思われたので、辛抱強く書いていけば、芥川賞を受賞することもできるのではないかと思っていた。

だが、もし彼が隠れ神秘主義者だったとしたら、世に出ることをほぼ諦めてぬけぬけと神秘主義物書きとして生きているわたしより遥かに無理をしていたのではないかと思う。

「仕事で責任のある立場となり、大変」とメールにあったことからすると、仕事と執筆の調整で苦労していたのかもしれない。

いずれにしても、彼はこの国で小説家として亡くなった。以下は毎日新聞の記事より。

訃報
近藤勲公さん57歳=小説家「はがき随筆」選者

毎日新聞2016年3月17日 19時41分(最終更新 3月17日 21時29分)

  近藤勲公さん57歳(こんどう・のりひろ=小説家)16日死去。葬儀は18日午後1時、大分県津久見市港町4142の25の風之荘つくみ。喪主は妻直美(なおみ)さん。

 2008年度の九州芸術祭文学賞で「黒い顔」が最優秀作に選ばれ、その後も「銀杏神社」「夏の底」などの作品を雑誌「文学界」で発表した。14年5月からは毎日新聞大分版「はがき随筆」の選者も務めた。

早すぎる死ではあったけれど、もし彼が神秘主義者でなかったとしたら葛藤なく念願のこの国の小説家として生きることができたはずだし、もし彼が神秘主義者だったとしたらこの世の価値観から解放されてあの世で楽しんでいることと思う。

わたしはこの国で小説家として死ぬことはできないだろう。バルザックのような小説家がわが国の文学界の大御所として君臨してくれていたら……という思いがこのような夢を見せたのだろうか。

といってもこのところ、近藤くんのことは考えたが、地震のことで頭がいっぱいで、それ以外のことはほとんど何も考えていなかった。

いずれにせよ、バルザックのような人物がトップにいる文学界と反日左派にのっとられたこの国の文学界とでは全く異なる世界である。

この国で報われない神秘主義小説を書き続けているわたしをバルザックは憐れんでくれたのだと思いたい。

白っぽい金髪の子がわたしだとすると、バルザックの小説を基準としてわたしの小説は小学3年生くらいのレベルのようだ。そういえば、ブラヴァツキーが出てきた夢でもわたしは小学生だった(あれはまぎれもなく、わたしとして出てきた)。

  • 43 H・P・ブラヴァツキーが出てきた最近の単なる夢三つ
    http://mysterious-essays.hatenablog.jp/entry/2016/02/04/143331

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