« グリンピースのリゾット。ジェネリックをやめて2週間。 | トップページ | ジェネリックやめて3週間目に突入(これまでの経緯をざっと復習)。スプレー1噴霧。 »

2016年1月29日 (金)

なつかしい獅子文六『悦ちゃん』とヴァージニア・ウルフの日記

書店に行くと、ちくま文庫で獅子文六『悦ちゃん』が出ていた。なつかしかった。子供時代、児童文学として出ていた『悦ちゃん』を母に買って貰い、読み始めたら止まらなくなったのを覚えている。

ちくま文庫版を開いてみると、結構な長編なので、子供向きに短くしてあったのかもしれない。独特の明るさとユーモアに満ちているが、読者の心を鷲掴みにするいじらしさ、切なさがあると子供ながら感じていた。

簡単にいえば、男やもめの些か頼りない父親と暮らす少女悦子が自然体で生きる姿が描かれ、やがて彼女に関わることになった女性鏡子と協力し合い知恵を出し合って苦境を乗り切る生き生きとした物語である。

検索したら図書館にあったので、夫に頼んで他の本と一緒に借りて貰うことにしたところ、検索後に借し出されたようで、なかったという。新着本なので、人気なのだろう。

悦ちゃん (ちくま文庫) 
獅子 文六 (著)
出版社: 筑摩書房 (2015/12/9)

『海軍』も借りた。以前はこうしたテーマの本には興味がなかったが、今はある。

海軍 (中公文庫)
獅子 文六 (著)
出版社: 中央公論新社 (2001/08)

大学時代、ヴァージニア・ウルフの精緻な描写の連なる日記を読んで、これこそ作家の日記だと感心した。残念ながら誰かに貸したきり、戻ってこない。再読したくなり、これも新装版を借りた。

今の日本の文学作品を読んでいると、感覚が狂ってくる。ヴァージニア・ウルフには「意識の流れ」という手法を用いた秀逸な『燈台へ』という作品がある。ヴァージニアの日記は作家の基準を示す燈台の光のようにすら感じられる。

「意識の流れ」という純文学の有名な手法について、ウィキペディアから引用しておく。

意識の流れ (いしきのながれ、英: Stream of consciousness) とは、米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。(……)
この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を表す言葉として使われるようにもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の流れ」という言葉が用いられるようになる。(……)
人間の思考を秩序立てたものではなく絶え間ない流れとして描こうとする試みは「意識の流れ」という語の成立以前からあり、最も早い例としてはローレンス・スターン『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』などがあるが、特に近現代の意識の流れを用いた小説には心理学の発達、殊にジークムント・フロイトの影響が見逃せない。
意識の流れ手法を用いた代表的なイギリスの小説家としては、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ドロシー・リチャードソンなど。この手法を用いた作品として挙げられる例にはジョイスの『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』、ウルフの『灯台へ』、フォークナーの『響きと怒り』などがある。
また、内的独白や無意志的記憶という用語で表されることもある。

ウィキペディアの執筆者. “意識の流れ”. ウィキペディア日本語版. 2016-01-04. https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E6%B5%81%E3%82%8C&oldid=58122749, (参照 2016-01-29).

ある作家の日記 [新装版]
V.ウルフ (著),  神谷 美恵子 (翻訳)
出版社: みすず書房; 新装版 (2015/7/25)

『ある作家の日記』によると、ヴァージニアには義兄(母の連れ子)から性的虐待を受けた少女時代があり、そのことが一因と思われる精神障害を惹き起こし、狂気の発作が時々出現して、この知性派作家の人生を狂わせた。

Virginia_woolf_1927

Virginia Woolf
1927年頃
原典: Harvard Theater Collection, Houghton Library, Harvard University
From Wikimedia Commons, the free media repository

ヴァージニアの夫でよき理解者だったレナード・ウルフにヴァージニアが宛てた最後の手紙は悲痛だが、ヴァージニアの人となりをよく表していると思うので、ナイジェル・ニコルソン(市川緑訳)『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』(岩波書店、2002年)から以下に引用しておく。

火曜日
最愛の人へ。私は狂っていくのをはっきりと感じます。またあの大変な日々を乗り切れるとは思いません。今度は治らないでしょう。声が聞こえ始めたし、集中できない。だから最良と思えることをするのです。あなたは最高の幸せを与えてくれました。いつでも、私にとって誰にもかえがたい人でした。二人の人間がこれほど幸せに過ごせたことはないと思います。このひどい病に襲われるまでは。私はこれ以上戦えません。私はあなたの人生を台無しにしてしまう。私がいなければあなたは仕事ができる。きっとそうしてくれると思う。ほら、これをちゃんと書くこともできなくなってきた。読むこともできない。私が言いたいのは、人生の全ての幸せはあなたのおかげだったということ。あなたはほんとに根気よく接してくれたし、信じられないほど良くしてくれた。それだけは言いたい。みんなもわかっているはずよ。誰かがわたしを救ってくれたのだとしたら、それはあなただった。何もかも薄れてゆくけど、善良なあなたのことは忘れません。あなたの人生をこれ以上邪魔しつづけることはできないから。
 私たちほど幸せな二人はいなかった。
 (Nicoison,2000 市川訳,2002,p.192)

前掲書『ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 』はヴァージニアのパートナーであったという女性ヴィタ・サックヴィル=ウェストの次男によるウルフの評伝らしいので、借りた。

ヴァージニア・ウルフ (ペンギン評伝双書) 
ナイジェル・ニコルソン (著), 市川 緑 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2002/6/24)

ヴァージニア・ウルフからは長いこと離れていたし、昔わたしが読んだ彼女の伝記、評伝類にはヴィタ・サックヴィル=ウェストが出てこなかったのか、印象に残らなかっただけなのかはわからないが、記憶になかった。

読むのはこれからだが、落合恵子のあとがきが本の最後を飾っているのが嫌である。

ヴァージニア・ウルフはフェミニズムの先駆者として有名であるが、落合恵子のフェミニズムとは本質が全く異なるという印象を受ける。

ヴァージニア・ウルフのフェミニズムは人類全体を高めるためのものだという美しさを感じさせるが、落合恵子のフェミニズムには人類をオスとメスに先祖返りさせるような嫌らしさがある。

落合恵子のあとがきから感じられるのは、オスが得ている特権に対する告発とその特権を奪いたいという目的意識で、単純ないいかたをすれば奪い合いの印象を与えるものであって、それ以上の崇高な意識が感じられない。彼女の政治活動にもそれはいえることではないだろうか。

マルキシズムもフェミニズムも劣化したものだと思う。

ところで、ヴァージニア・ウルフの作品から、わたしは何か制限――限界といったほうがいいかもしれない――のようなものを感じていた。シモーヌ・ヴェイユに感じた制限、あるいは限界とどこか共通点があるような気もしていた。

ヴァージニアの宿痾であった精神障害という病気から来た制限、あるいは限界とは別の何か思想的な性質のもので、それがなんであるかはわからなかった。

が、夏目漱石に影響を及ぼしたウィリアム・ジェームズの問題点を探る中で、彼の思想の問題点に気づいた今、「意識の流れ」という手法を接点としてヴァージニアがヴィリアム・ジェームズのどんな影響を受けたのかを調べる必要があると考えている。

ウィリアム・ジェームズについては以下のカテゴリーに記事がある。

シモーヌ・ヴェイユがルネ・ゲノンの影響を受けていたことを知って、ある謎が解けたように、何かがわかるかもしれない。

ナグ・ハマディ文書の翻訳で著名な荒井献著『ユダとは誰か』も借りた。

ユダとは誰か 原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ (講談社学術文庫)
荒井 献 (著)
出版社: 講談社 (2015/11/11)

自分の創作「江戸初期五景2」のための資料も借りた。テレビで視聴したBS朝日「世界遺産 晩秋の日光~天下人家康の夢ここに~」は参考になった。

|

« グリンピースのリゾット。ジェネリックをやめて2週間。 | トップページ | ジェネリックやめて3週間目に突入(これまでの経緯をざっと復習)。スプレー1噴霧。 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

評論・文学論」カテゴリの記事

文学 №1(総合・研究) 」カテゴリの記事