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2015年9月21日 (月)

ブラヴァツキー批判の代表格ゲノンの空っぽな著作『世界の終末―現代世界の危機』

※「ルネ・ゲノンの終わっている脳味噌で書かれた『世界の終末―現代世界の危機』(田中義廣訳、平河出版社 、1986年)」として公開していた記事を改題し、神智学と仏教の違いを述べたブラヴァツキーの解説と、レーリッヒ夫人(ブラヴァツキーと同じくモリヤ大師の指導を受けた)がいう宗教の意味を紹介した田中恵美子 神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長の文章を加えた。

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過去記事で、シモーヌ・ヴェイユが学友でシュルレアリストであったルネ・ドーマルと共にルネ・ゲノンの著作の愛読者だったという情報を紹介した。

そうだとすると、シモーヌがルネ・ゲノンの思想を受容し、自己形成に役立てた可能性は高い。わたしはゲノンを調べる必要があると思った。

利用している図書館にはルネ・ゲノンの著作は(田中義廣訳)『世界の終末―現代世界の危機』(平河出版社 、1986年) しかなかったので、それを借りた。

厳めしい論文を想像していたが、引用もなしに軽く書かれたような印象を受けて拍子抜けし、どこにブラヴァツキーのことが書かれているのか、探してみた。

何しろアマゾンの商品の説明には次のように書かれているのだから、ブラヴァツキーの代表作『シークレット・ドクトリン』を上回る重厚な論文を期待してもおかしくはないと思う。

商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
ルネッサンス以降の〈知〉が犯してきた過ちは、いまや西洋文明を終末へとかりたてている。必要なのは〈真の伝統精神〉の復興である。…西洋の知のあり方を否定し、近代オカルティズムの隆盛を批判したルネ・ゲノンの洞察は、半世紀を経た今日、さらに深い意味をおびてここに蘇る。

次に引用する文章は、本のジャケットに著者紹介として書かれたものからである。

1886年~1951年。フランスの思想家。
洋の東西を問わず秘教的伝統を探求し、世界の中心点の存在、歴史の循環的展開を説く。唯物論、科学、オカルティズムを含めた現代西洋精神のすべてを否定し、徹底した反近代の姿勢をつらぬいた。
1930年にエジプトにわたり、終生カイロにとどまった。
著書に、ブラヴァツキー夫人を批判した『神智学、ある疑似宗教の歴史』
、…(略)

これははっきりいって、誇大広告もいいところである。

わたしが持っているブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン (宇宙発生論 上)』(平成8年第3版)の商品パッケージ寸法は21.4 x 16 x 5 cm、頁数は762頁。

ゲノン『世界の終末―現代世界の危機』(1989年)の商品パッケージ寸法は18.8 x 12.6 x 1.6 cm、頁数は244頁。

ゲノンの本は作りとしては軽装でも、勿論きちんと製本された商品であるが、内容は軽くて、軽佻浮薄というより「猫踏んじゃった」である。ざっと読んだだけでも、それがわかるほどのひどさだ。

何しろ、プラグマティストのウイリアム・ジェイムズを批判したのに続いて、ブラヴァツキーを暗示しているところが1箇所あるだけなのだから。次の文章である。ゲノンの定義も引用もなしに唐突に断定する癖のある文章は批判されているウィリアム・ジェイムズそっくりである(Notes:夏目漱石を参照されたい)。

ここで、宗教の堕落の最終的産物は哲学の堕落の最終的産物と融合する。すなわち、「宗教的経験は「プラグマティズム」と一体化するのだ。「プラグマティズム」の名の下に、無限の神という観念より「有利だ」という理由〔わけ〕で、限界のある神の観念のほうを推奨するのだ。このような神になら、優れた人間に対して感じるのと似た感情を抱くことができるという理由で。同時に、「潜在意識」への訴えによって、心霊術やありとあらゆる「疑似宗教」に直結するに至る。これらは現代に特徴的なもので、われわれは別の著作でこれらを研究した*。 訳註*――『心霊術の誤り』と『テオゾフィスム』参照(Guénon、田中義廣訳、1989、pp.103-104)

『テオゾフィスム』にそれが書かれているとしても、ここにこれだけしか出ていないのに「近代オカルティズムの隆盛を批判したルネ・ゲノンの洞察」はないだろう。

もっとも、カントを軽く否定したあとにスピリチュアリズムについて少し書かれていて、ここもブラヴァツキー批判に関連づけられているようである。

多くの人々は「概念を抱く」ことと「想像する」ことの区別を知らず、カントのような哲学者たちは、表象として表わすことのできないものいっさいを、「考えられないもの」と断言するのである。同様に、いわゆる「スピリチュアリズム」や「イデアリズム」は多くの場合、移しかえられた一種の物質主義にすぎない。このことはわれわれが「ネオスピリチュアリズム」**と名づけられたものにだけあてはまるのではなく、自分では物質主義の反対者であると考えている哲学的スピリチュアリズムにもあてはまるのだ。訳註**――心霊術などを含む心霊主義。広い意味では近代オカルティズム全体を指す(Guénon、田中義廣訳、1989、解説p.140)

ずいぶん大雑把な括りである。

カントは大学時代、岩波文庫から出ているものを囓れるだけは囓ったが、いきなり出てきたこの指摘には目が点になった。

『シークレット・ドクトリン (宇宙発生論 上)』の索引で「カント Kant」を見ると、6頁示されている。肯定的な引用が多いが、批判的な引用もあって、一律ではない。

それはブラヴァツキーのキリスト教文献からの引用についてもいえることである。ブラヴァツキーのキリスト教批判は単純ではない。それに比べて、ゲノンはそれ以前の問題として、批判の対象をきちんと捉えているのかが大いに疑われる。

ブラヴァツキーがスピリチュアリズムをどう見ていたのか、H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵 The Key to Theosophy』(神智学協会ニッポンロッジ 竜王文庫内、平成7年改版)の用語解説で確認しておこう。用語解説には「心霊主義(Spiritualizm)」と、それと同義と書かれた「スピリティズム(Spiritism)」の項目がある。

心霊主義(Spiritualizm) 
 死者の霊が生きている者と交信するために地上に戻るという信仰である。

スピリティズム(Spiritism)
 心霊主義(Spiritualizm)と同義であるが、心霊主義者が輪廻説をほとんど異口同音に退けるのに対して、スピリティストは輪廻説を基本的原理とする。しかし、スピリティズムの見解と東洋のオカルティスト達の哲学的教えの間には、たいへんな違いがある。スピリティストはA・カルディックが創設したフランス学派に属し、アメリカ、イギリスの心霊主義者は、アメリカのロチェスター市で自説を唱えたフォックス姉妹の学派に属する。神智学徒は心霊主義者とスピリティスト達の霊媒現象を認めるが、彼等のいう「霊」についての考えを拒否する。
(Blavatsky、田中恵美子訳、平成7改版、用語解説p.36)

『世界の終末―現代世界の危機』の解説には、ゲノンがパピュスの主宰するオカルト研究機関「ヘルメス塾」(エコール・エルメティック)の講義に定期的に出席しはじめたのをきっかけに、「そのほか各種の秘教団体、秘教グループに出入りするようになった」とあり、パピュスとは「1887年に神智学協会のフランス支部「イシス」に加入した。しかし神智学協会の『東洋的』オカルティズムに反対して、1890年「イシス」を脱会し、西洋的秘教の研究機関「秘教研究の独立グループ」(のちの「エコール・エルメティック」)を開設した」*ような人物である。*(Guénon、田中義廣訳、1989、解説p.198)

パピュスを通じて、間接的に神智学協会フランス支部の噂を聞いた程度のことにすぎないのではないだろうか。

それとも、『テオゾフィスム』にはブラヴァツキーの諸著からの引用があちこちにあるのだろうか。普通はそれを期待するのだが、あればこの本でも出てきていいような気がする。当時のオカルトブームに染まって、あれこれ囓ってみただけという風に想像したくなる。

解説の203頁には「ブラヴァツキー夫人は半ば職業的な霊媒であったし、……(略)」とあるが、これは何だろう? 霊感占いで生計を立てていたとでもいうのだろうか。またしても目が点になってしまった(こんな出鱈目を読むと、老眼にこたえる)。

余談だが、ブラヴァツキーは貴族のお嬢様育ちで、ピアノの名手であった。どうしても困ったとき、ピアノで稼いだこともあったと伝記のどこかにあった気がする。

ゲノンのこの本の出鱈目な内容に合わせて放言すれば、彼がカトリック・サポーターであることは間違いない。

カトリックには胡麻をすっているからである。ゲノンが西洋でちやほやされる理由はそれだろう。シモーヌ・ヴェイユと同じだ。というより、シモーヌはゲノンのそういうところも受容したのだ。

なぜ胡麻すりかというと、それだけの根拠が提示されていないからである。例えば、次のような箇所。

ますます拡がり、ますます深刻化していく無秩序に対抗するには、西洋においても東洋においても、まだ外界においてなお活動しているすべての精神的勢力の大同団結を訴える必要がある。西洋の側ではカトリック教会以外は考えられないが、カトリック教会が東洋の伝統の代表者とコンタクトをとることができれば、きわめて祝福すべきことと言わねばならない(Guénon、田中義廣訳、1989、p186)

西洋において、カトリックが深刻化していく無秩序に拍車をかけているとは考えないのだろうか。

カトリシスムがもはや思想的にも様式的にも時代遅れになっていて、人々の心を捉えることが難しくなったからだとは考えないのだろうか。

また、新時代に合わせた神秘主義運動を邪魔ばかりしてきたゲノン、あなたのような人達が要らぬ混乱を招いてきたのだとは夢にも思わなかったのだろうか。

わたしはエッセー20「バルザックと神秘主義と現代」で、神秘主義が 〈無知蒙昧、精神薄弱、一切の社会悪の根源のようにみなされている〉ことからきた社会的弊害について書いた。

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ルネ・ゲノン(1925年の写真)
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

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Helena Petrovna Blavatsky (1831-1891)
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ゲノンはイスラム教に改宗し、カイロ郊外で20年過ごし、臨終の言葉は「アラー、アラー」だったという。

ゲノンは秘教団体を断罪しながらもフリーメーソンや神智学――が伝えるイニシエーション――というものに未練があったのか、解説には次のようなことが書かれている。

その後も彼はメーソン関係者との接触を保ち、メーソン改革の可能性を追求したらしかった。しかし、結局メーソンとの復活は期しがたく、西洋の伝統的秘教組織は事実上失われてしまった、とゲノンは考えているようだ。(Guénon、田中義廣訳、1989、解説p.231)

1910年にゲノンはイーヴァン・アゲリというスヴェーデンの画家と出会った。彼は神智学協会に入会したり、インド思想に興味を抱いてセイロンまで旅行した後、イスラム教に改宗し、アブドゥル・ハーディと改名していた。1907年頃アゲリにイニシエーションを授けたのが、アブデル・ラーマン・エリシュ・エル・ゲービルである。(略)
ゲノンはアゲリの紹介で、このアブデル・ラーマン・エリシュ・エル・ゲービルからイニシエーションを受けたらしい。(Guénon、田中義廣訳、1989、解説p.240)

ゲノンが受けたという――神秘主義に関してゲノン程度の理解力しかない人物でも受けられるような即席めいた――イニシエーションは、ブラヴァツキーが解説するイニシエーションとは似たところの全くない別物だろう。

わたしが気になったのは、ゲノンに傾倒し、熱い口吻で彼について書いているブログ記事を多く閲覧したことである。

「秘教的伝統主義者で、インド・アラブ・中国の奥義に通じ、最後はカイロでイスラムの聖者として死んだ思想家」といった高い位置づけのようだ。

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五比丘[ごびく]
Part of a Buddha-statue, showing the first five disciples of the Buddha at the Isipatana Deerpark of Sarnath, showing their respects to the Wheel of the Dhamma.
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ゲノンが仏教に関しては極めて貧弱な理解力しか持ち合わせていないということが次の引用からもわかるだろうに、何とも思わないのだろうか。仏教に関する記述はここに出てくる以外見当たらない。

インドではこの時期に仏教が生まれた。仏教はその当初の性格はいかなるものであれ**、少なくとも分派のいくつかでは、道教やゾロアスター教の場合とは正反対に、伝統的精神に対する反抗に行き着いてしまった。あらゆる権威の否定、真のアナーキー、語源的な意味におけるアナーキー、すなわち知的、社会秩序における「原理の欠如」にまで達してしまったのである。奇妙なことにインドでは、この時期より古い建造物はまったく発見されていない。仏教を過大評価し、すべてを仏教から始めたがる東洋学者たちは、この事実を自分たちの理論に有利に利用しようと試みてきた。しかし、この事実の説明はきわめて簡単である。それ以前の建物は木で造られていたので、当然跡形もなく消え失せたのだ***。ただし、建築法におけるこのような変化が、それが生じた民族における生活条件全般の深刻な変化と必然的に結びついていることもまた確かである(Guénon、田中義廣訳、1989、p.22)

原注で補われてはいるのだが、短絡的でよく意味のわからない、おかしな記述ではないだろうか。

解説には次のようなことも書かれている。ゲノンは「エゾテリスムの領域では純粋形而上学の真理はただひとつであり、あらゆる伝統に共通のものだから、どこから始めても結局は同じ地点に到達するはずである」といったそうだが、この考えは、ブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』でダイナミックに展開した理論を弱々しい線でなぞっているかのようである。

そして、ゲノンは東洋の代表的伝統のうちインド思想の研究から始めることを西洋人に勧めるそうだが、その中に仏教は含まれないという。

ただしインド思想といっても、仏教は含まれない。ゲノンによれば仏教は正統な伝統からの「逸脱」ないし「奇形」にほかならず、真の形而上学を否定して一種の哲学的観点に置き換えた。また感情的要素を導入したため、宗教的色彩を帯びるようになった。これらの点で仏教は西洋の哲学や宗教にある程度類似しており、そのため西洋の哲学者や東洋学者や東洋派オカルティストは仏教を過度に重視するのであろう。しかし厳密な意味では仏教は宗教でも哲学でもなく、西洋思想とは異質なものであるとゲノンは断っている(Guénon、田中義廣訳、1989、解説p.217)

こうした文章を読むと、わたしは頭がおかしくなりそうになる。日本人解説者がこれを書いたのだとはとても思えない。

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広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒、京都市)。国宝。
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

ゲノンのいう「正統な伝統」というのが、わたしにはさっぱり呑み込めなかったからだろう。伝統を様式とでもいい換えれば、わかりやすくなるだろうか。

いや、そもそも理論を展開させるだけの知識の蓄えが感じられないではないか。

三大宗教の一つといわれる仏教が宗教ではないというゲノンの主張こそ、通念からの「逸脱」ないし「奇形」にほかならない。この異質の考えを受容させるにはそれだけの理論的根拠が必要である。

ブラヴァツキーを批判するのであれば、それは彼女の先行研究としての『シークレット・ドクトリン』なり『アイシス・アンヴェールド』なりに具体的に触れなくては、意味をなさない。

ゲノンの『テオゾフィスム』でそれがなされているのなら、なぜここではなされないのだろうか。

わたしは神智学と仏教の違いを述べたブラヴァツキーの解説を引用することで、ブラヴァツキーの仏教に関する高度の理解力がゲノンとは別格といえるものだったとの一端を示したいと思う。

H・P・ブラヴァツキー(田中恵美子訳)『神智学の鍵』(神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年改版、「神智学は仏教ではない」pp.23-25)より。

 あなた方はよく、「エソテリック・ブッディスト」即ち秘教派の仏教徒と言われます。すると、あなた方はみなお釈迦様の信者ですか?
 音楽家のすべてがワグナーの崇拝者ではないと同じように、私達全部が仏教徒というわけではありません。(略)シネット氏の傑作『エソテリック・ブッディズム』(Esoteric Buddhism)という書名の本当の意味を誤解したことから、この間違いが起こったのです。このブッディズム(Buddhism)という言葉の綴りの中のdは、二つでなく一つにすべきでした。Buddhismは釈迦の宗教哲学のBuddhismではなくて、ただ「智慧」ボーダ、ボーディ、知力、叡智の教えという意味です。すでに言った通り、神智学とは智慧の宗教です。

 カピラ城の王子によって創始された仏教ブッディズムと、神智学の同義語と言われる「智慧教」ブディズムとはどう違うのですか?
 「天国の奥義」と言われるキリストの秘密の教えと、教会及び宗派の後世の典礼過重主義や独断的神学との違いと全く同じです。仏陀(Buddha)とはボーダ(Bodha)即ち理解、智慧によって「啓明された者」という意味です。この智慧は釈迦が選んだ阿羅漢だけに与えられた秘教的な教えの根や枝となったのです。
(略)

 しかし、神智学の倫理と仏陀の教えた倫理とは同じではないのですか?
 確かにそうです。この倫理は智慧の宗教の真髄であり、かつてはあらゆる国々の秘伝を受けた人達の共通のものでした。仏陀は自分の大衆への教えの中にこのような高貴な倫理を具体的に伝えた最初の人でした。そしてこの倫理を自分の公開の教えの基礎とし、真髄としたのです。ここに顕教的仏教と他のすべての宗教との大きな違いがあります。他の宗教では儀式主義と独断が最も重要な位置を占めていますが、仏教ではいつも最も大切にされるのは倫理です。神智学の倫理と仏教の倫理がほとんど同じであるのはこのためです。

 神智学と仏教に何か大きな違いがありますか?
 神智学と顕教的仏教との大きな違いは、南方仏教で代表されている顕教的仏教は次のことを全く否定することです。(a)神の存在(b)意識的な死後の存続または個性を保持し続ける自我意識。少なくとも、今、最も純粋な形の顕教仏教と考えられているシャムの教派の教えがそうです。仏陀の大衆への教えだけに関して言えばそうです。(略)仏陀の入滅後、仏陀の秘伝を受けた阿羅漢たちは隠遁して他の国々へ行きましたが、その国々で出来た北方仏教の諸派は今、神智学説と言われていることすべてを教えます。というのも、秘伝で授けられる知識は神智学説を含めるからです。このように、南方仏教のあまりにも正統派的思想のせいで、真理がどんなに文字通りの解釈の犠牲になってきたか分かりません。一方、たとえ「文字にこだわる解釈」ではあっても、他のいかなる教会や宗派の教えよりも、どれほど壮大で、高尚で、哲学的、科学的であるか分かりません。しかし、神智学は仏教ではありません。

わたしが疑似宗教信者か、ブラヴァツキーが創始した神智学協会という「実践的な面で同胞団という考えを宣布するための博愛的、学術的な団体」の一員であるのかは、このエッセーが――若輩者の執筆によるものではあるけれど――ある程度は物語っていることと思う。

一員であるならば、博愛主義者、アーリア人やその他の民族の古い文献の探求者、サイキック能力の研究者でなければならず、万物の中に神聖な合目的性があるという感覚がなければならないとブラヴァツキーはいっている。

ゲノンの著作を読んでいると、宗教の意味に混乱を来してしまう。

レーリッヒ夫人――ブラヴァツキーと同じくモリヤ大師の指導を受けた――がいう宗教の意味を田中恵美子 神智学協会ニッポン・ロッジ初代会長が紹介しているので、その文章から引用しておこう。

「宗教」という言葉は英語のリリジョン(Religion)の訳語ですが、ヘレナ・レーリッヒは「Religionはラテン語のReligarから来た言葉で、高級世界との絆を結ぶという意味である」と言っています。
 人間は内奥に超越的なものへのあこがれを秘めています。私達はみな、その超越的なものから出て来て、その火花を内に秘めているからです。宗教心というものはこのあこがれから出た人間の自然な思いの発露でありましょう。宗教という意味の真意はこのかすかなあこがれにつながりがあるように思います。(略)
 一人一人に神が念じ込んでくださった祈願の秘密のあること、そして個人の忍耐と努力こそ最大の救いであること、苦しく頼りない時には、内なるものに一心に祈り、語りかければ必ず光がさして来ることを理解して欲しいと思います。
 * 

*田中恵美子(中野潤一・鳥居邦子編集)「至上我の光 巻頭言集」竜王文庫、平成8年、p.56

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