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2015年4月 2日 (木)

#14 漱石が影響を受けた(?)プラグマティズム ③現金価値

W・ジェームズの『プラグマティズム』( 桝田啓三郎訳、岩波文庫、2010年改版)を読んでいると、過去の哲学が最新科学ではないといって非難しているかのようだ。

プラグマティズムが何であるかは、以下の引用にいい表されていると思う。

「一つの観念ないし信念が真であると認めると、その真であることからわれわれの現実生活においていかなる具体的な差異が生じてくるであろうか? その真理はいかに実現されるであろうか? 信念が間違っている場合に得られる経験とどのような経験の異なりがでてくるであろうか? つづめて言えば、経験界の通貨にしてその真理の現金価値はどれだけなのか?」
 プラグマティズムは、この疑問を発するや否や、こう考える。真の観念とはわれわれが同化し、努力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念である。偽なる観念とはそうできない観念である。これが真の観念をもつことからわれわれに生ずる実際的な差異である。したがってそれが真理の意味である。それが真理が真理として知られるすべてであるからである。
(pp.199-200)

現金価値という言葉が出てくるあたり、アメリカの哲学らしいといえばそうだが、わたしにはW・ジェームズが馬脚を露わしたように感じられた。

神秘主義者は、神秘主義的知識の有無で、この世でもそうだが、より一層死後の世界であるあの世での「現実生活」においていかなる具体的な差異が生じてくるかのデータを集めてきた。

かくいうわたしもほんの少しだが、今生でこれまでに少しは集めた。そのための内的な装置作りをつらい体験によって今生でやり直さなければならなかった(その頂点というべき体験を『枕許からのレポート』で書いた)。この世的にそれを証明できないのが残念であるが。

2007年9月30日 (日)
手記『枕許からのレポート』
https://elder.tea-nifty.com/blog/2007/09/post_e32f.html

※Kindle版もあります。
枕許からのレポート(Collected Essays, Volume 4)

験証とは、検証、実験の結果に照らして仮説の真偽を確かめることだが、最新の実験装置で験証できる観念だけが真の観念である、とW・ジェームズはいっていることになる。

つまりそのときの科学で解明できることだけが真で、それ以外の仮説は全て偽ということになるわけだ。神秘主義者はそうやって切り捨てられたりするわけだが、それはつまり、哲学を科学に限定してしまうという話になるのではないだろうか。

だが、科学の進歩を考えれば、現代のプラグマティストによって偽と見なされた観念も、未来のプラグマティストには真の観念と見なされることもありうるということになるのではないだろうか。

神秘主義がなぜ生き延びてきたのかというと、神秘主義がその方法論において無秩序ではなく、一つのスタイルを遵守してきたからだと考えられる。

H・P・ブラヴァツキー『実践的オカルティズム』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成7年)序文で、それがどんなものかが説明されているので、引用してみよう。

 ブラヴァツキーの言っている「オカルティズム」は当然、心霊現象や「超自然的なこと」を漠然と指す現代の「オカルティズム」とは全く違う意味である。夫人のいうオカルティズムは、人類と同じくらい古い「科学中の科学」で、人間の最高の成就である。神聖な科学は近代科学と同様に、普遍的真理を探求するために厳密な方法を用いるので、科学と言える。しかし、道具と教育と動機という面において、神聖な科学と世俗的な近代科学は大いに異なる。
 物理的な観察をするために近代科学は様々な装置に頼るが、神聖な科学は物理的及び非物理的な観察をするには、主に、清められた人間の心の認識に頼る。(一人の観察は幾代もの先輩達の観察と照らし合わせて真正さが確かめられる。)

今ある物理的な装置で験証できないことを全て偽とする態度が哲学的とは、わたしには思えない。験証できない仮説は仮説のままにしておくほうが愛智者にふさわしい態度に思えるし、そもそもそうでなければ――哲学の仮説がなければ――、哲学が科学の進歩に寄与する機会も乏しくなるのではあるまいか。

だからこそカントは、『純粋理性批判』の中で「どうか理念(イデー)という語をその原義に即して保存されることをお願いしたい」(『純粋理性批判(中)』篠田英雄訳、岩波文庫、1961年、p.37)といって、仮説は仮説のままの純粋さに置いておこうとした。

また、カントはプラトンの「イデア」とアリストテレスのいう「イデア」との違いについて書いている。

プラトンは、イデアという語を用いた。そして彼がこの語を、感覚から採らなかったばかりでなく、アリストテレスの論じた悟性概念を遙かに超出するものと解したことは明らかである。経験のなかには、これと合致するようなものはまったく見出せないからである。[……]表現の行き過ぎということを別にすれば、この哲学者が、世界秩序における自然的なものを理念の不完全な模写と見なすことから始めて、目的即ちイデアに従ってこの世界秩序の建築的〔体系的〕結合へ上昇していく精神の飛翔は、我々の尊敬と追従に値する努力である。また道徳、立法および宗教の原理に関するところのものについて言えば、イデアが経験において完全に実現されることは不可能であるにせよ、しかし(善の)経験を初めて可能にするのは、やはりイデアそのものなのである。従ってイデアは、これらの領域において実に独自の功績を有する。それだのにこの功績を認めないのは、かかる功績がまったく経験的規則によって判定されるためであるが、しかし原理としての経験的規則の妥当性は、当然イデアによって無効にせられた筈である。自然に関しては、我々に規則を与えるものは経験であり、経験が真理の源である。しかし道徳に関しては、経験は(残念ながら!)仮像を産む母であり、私がなすべきところのものに関する法則を、なされるところのものに求めようとし、或いは後者によって前者に制限を加えようとすることは、まことに以てのほかの沙汰である。 (『純粋理性批判(中)』pp.32-37)

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