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2015年3月29日 (日)

アントニオ・タブッキの新刊『イザベルに ある曼荼羅』(和田忠彦訳、河出書房新社、2015年) ※31日に加筆あり。

タブッキのファンで、わたしにタブッキのことを教えてくれた娘が炬燵テーブルのわたしの場所に、何気なくその本を置いていた。

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イザベルに: ある曼荼羅

勿論、娘は自分のためにその本を買ったのだが、わたしと喜びを共にしたいのだ。

娘に教えられてタブッキを読むようになり、魅了されるまでに時間はかからなかった。

それだけではなく、タブッキの作風に、神智学徒として神智学の影響を感じないわけにはいかないので、その方面から研究したいと思うようになった(わたしの家族は神智学にも神智学協会にも関心がないが、わたしが毎年神智学協会の会費を払って――年会費が4,500円から5,000円に上がった――インドのアディヤールにある神智学協会国際本部の会員名簿に登録された自分の名前が抹消されないよう、更新していることは知っている)。

文学関係では他に待っていることが山ほどあるので、とりあえず当ブログにノートだけでもと思い、カテゴリー「Notes:アントニオ・タブッキ」を設置したのだった。

そして、図書館からこれまでに邦訳・上梓されたタブッキの本は全部借りて、だいたいの傾向は掴んだものの、ノートのほうはあまり進んでいない。

最近では夏目漱石の作品にふと疑問を覚え、深入りする気のないままに調べているうち、漱石との関連で出てきた鈴木大拙が神智学協会の会員だったことを知り、『神秘主義』『日本的霊性』を読んだら、これまたカテゴリー「Notes:夏目漱石」を設置せざるをえなくなった。

漱石や彼と対照的な生きかたをした鈴木大拙の作品を読み、調べるのも、まだまだこれからだが、大拙の『神秘主義』『日本的霊性』を読む限り、それらには神智学徒ならではの視野の広さや偏見を排した厳密さがあって、神智学協会の目的(以下に引用)を連想させられるところがある。

神智学協会の目的
1)人種、信条、性別、階級、皮膚の色の相違にとらわれることなく、人類愛の中核となること。
2)比較宗教、比較哲学、比較科学の研究を促進すること。
3)未だ解明されない自然の法則と人間に潜在する能力を調査研究すること。

アントニオ・タブッキの新刊『イザベルに ある曼荼羅』の原題は Per Isabel: Un mandala と解説にあり、邦題は原題そのままであることがわかる。

うっとりするくらい、綺麗な本……

Tabu6

目次からして魅力的だ。「第一円 モニカ リスボン 想起」と始まって、これが第九円まである。目次の最後は「『レクイエム』から『イザベルに』へ 夢うつつのはざまで」だが、これは訳者による解説となっている。

この作品は『レクイエム』に重なるところがあるらしいので、図書館から再度借りた。傾向を見るために借りただけで、読了していなかったから。

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ウィキペディアに「イタリアは1985年までカトリックが国教だったが、廃止によって信者が激減している」とあるが、『インド夜想曲』は1984年に発表されているから、その時点ではイタリアはまだカトリックを国教としていたということだ。

『レクイエム Requiem』の発表は1992年。そして、この『イザベルに ある曼荼羅』という本の誕生に関して註に、以下のような興味深いエピソードが紹介されている。

 この書物についてアントニオ・タブッキの〈出版許可〉は存在しない。それゆえ作家の作品としては歿後に出版される未刊の遺作第一号ということになる。(……)作品全体は一九九六年、ヴェッキアーノで口述された。(……)ほかの作品の執筆に取り掛かっているうちに、方向もいろいろ変わっていった。旅を重ね、国境を越えていくなかで、この作品をある親友の女性に預けることにしたのだ。ようやく預けた作品を、読み直したいから返してほしいと言ったときには、おそらく出版する意志が固まっていたのだろう。だが、それは二〇一一年のことだった。そしてその秋には病を得ていた。(pp.177-178)

曼荼羅を知らない日本人は少ないと思うが、1996年当時、イタリアで曼荼羅はポピュラーなものだったのだろうか?

過去記事で書いたが、フィレンツェの書店主さんとメール交換している娘によると、書店主さんは邦訳版の源氏物語をお読みになるくらいの読書家なのだが、タブッキはお読みになったことがない。

自国の作家ではルイージ・ピランデッロ、ディーノ・ブッツァーティ、イタロ・カルヴィーノがお好きだそうだ。最近、娘は書店主さんの文学や演劇の話についていけなくなり、中断中。短期間だけ、やはり娘のメル友だったイタリアの地震学者はタブッキがお好きとのことだった。

娘は目下、イタリア語講座の家族的雰囲気に満足していて、そこでイタリアへのあこがれがかなり満たされている様子。年輩の人が多いが、とっても楽しそう(わたしも娘につき合って体験学習した)。それで、メール交換のほうがなおざりになっているようだ。

話が横道に逸れてしまった。

『レクイエム』(鈴木昭裕訳、白水社、1996年)を何気なく開いた頁に、スピノザが出てきた。

実は漱石ノートに追記を書くつもりだったが、それがアリストテレスとスピノザのことだった。

娘がカルヴィーノのタロット・カードをテーマにした作品を話題に出したので(河出文庫版『宿命の交わる城』)、本棚を漁っていたら、なくなったと思っていたアリストテレスの本『形而上学』と、「世界の名著」シリーズに入っていた1冊しか持っていないと思い込んでいたスピノザの文庫版が何冊も出てきた。

それらを読み返して書き留めたくなったことが出てきたため、今日はそれについて書くはずが、なぜか今、タブッキについて書いている。鈴木大拙にしても、タブッキにしても、作品に触れると、「この神智学徒め!」と歓喜の声をあげたくなる。

わたしの好きな本、関心を持った本がよく出てくるし、何しろ内容に共鳴できて、心地よいからだ。

以下の緑字部分は31日に加筆。

神智学徒という呼びかたは不用意にすぎるかもしれない。タブッキに関しては、神智学協会と関わりがあったかどうかは知らない。「神智学に満ちているアントニオ・タブッキの世界 ④で書いたように、その作風から神智学の徒といったにすぎない。

タブッキに覚えたのと同じ親しみを期待して、ペソアの本を繙いたのだった。ところが、ペソアの本は見知らぬ思索者の本として存在していた。

流派の違いをはっきりと感じ、改めてアントニオ・タブッキが神智学という思想、思考法と如何に関係の深い人であるかがわかった気がした。タブッキが神智学協会の会員であったかどうかは知らないが、彼の諸作品は神智学の芳香を放っている。

『白水Uブックス 99 インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水社、1993年)に次のようなくだりがある。

「おねがいだから」僕は言った。「思い出してよ。協会っていったいなんの協会なの」
「わかりません。学問の集まりじゃないかしら。たぶん。でも、わかりません」(……)なにか思い出したようだった。「神智学協会です」そう言って、彼女は初めてにっこりした。
(p.22)

「彼が神智学協会の会員だったかどうか、僕は知りたいのですが」僕は言った。
会長はじっと僕を見つめ、「メンバーではありませんでした」と小さく否定した。
「でも、あなたと文通をしていたでしょう?」僕は言った。
「そうでしたかな」彼は言った。「たとえそうだとしても、個人的な文通でしたら、内容を申しあげるわけにはいきません
(pp.70-71)

「でも、どうしてゴアに行ったんだろう。もし、なにかごぞんじでしたら、おっしゃってください」
 彼はひざのうえで手を組みあわせ、おだやかに言った。「存じません。あなたのお友だちが具体的にどんな生活をしておられたか、私は知らないのです。お手伝いはできません。残念ですが。いろいろな偶然がうまく噛み合わなかったか、それともご自分の選択でそうされたのか。他人の仮の姿にあまり干渉するのはよくありません」(
pp.79)

インドで失踪した友人を探して神智学協会を訪ねた主人公に、協会の会長は主人公をじらすような、意味深な態度をとるが、確かに協会には誰が会員であるとかないとかといったことを穿鑿したり、アピールしたりする習慣がない。

よく宗教団体にあるような、有名人を広告塔にする習慣でもあれば、神智学の影響を受けた作家について調べ始めたわたしのような人間には好都合なのだが――。

このようなことをプライベートなこととして干渉しないのは、最初の引用で女性がいうように、神智学協会が宗教の集まりではなく、学問の集まりだからだろう。

ところで、『レクイエム』の訳者あとがきで、主人公が会おうとする相手は「詩人」「食事相手」としか呼ばせていないが、ペソアであると名前を明かしてある。

タブッキがペソアに強く惹きつけられたのも、心情的によくわかる。ペソアは神秘主義者ではない。形而上学徒だと思う。

神智学徒には神秘主義者が多いと思うが、神秘主義者は形而上学徒に惹かれる傾向があるのかもしれない。

偶然にも、わたしには「詩人」と呼んだ女友達がかつていて、追悼短編小説まで書いたのだが、彼女は形而上学徒だった(当人にその自覚はなかっただろう)。

詩人の死

ウィキペディアによると、曼荼羅はサンスクリット語の言葉を漢字によって音訳したもので、マンダラには丸いという意味があり、円には完全・円満などの意味があることから、これが語源だろうという。

神秘主義は丸く、形而上学は直線だから、違いは一目瞭然なのだ。

違いがわかっていても(わかっているからこそというべきか)、何しろこちらは丸いので、包容せずにいられないというわけである。

W・Q・ジャッジ『オカルティズム対話集』(田中恵美子&ジェフ・クラーク訳、神智学協会ニッポン・ロッジ、平成8年)に以下のような問答がある。

学徒 オカルティズムとは何ですか?
師匠 卵の形で宇宙を現そうとする知識の分野です。(pp.44-45)

たぶん『レクイエム』『イザベルに ある曼荼羅』は近いうちに読了すると思うが、タブッキノートを更新できるかどうかはわからない。

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