アリステア・マクラウド『冬の犬』(新潮クレスト・ブックス)のすばらしさ
アリステア・マクラウドはすばらしい。厳寒の地に生きる人間と動物の物語。
厳寒の地といっても、季節はあり、あの赤毛のアンで有名なプリンス・エドワード島の東隣の島、ケープ・ブレトン島が舞台なのだ。
冬は「ビッグ・アイス」と呼ばれる流氷の群れが接岸し、見渡す限りの氷原がひろがるという。
流氷はお宝を運んでくる。難破船からの流出物で、酒樽、家具、釣り道具、船のドア……人間や馬の死体なども。
ある冬、少年は1匹の犬に曳かせた橇で氷原に出かけ、お宝を見つける。それは、アザラシの死体だった。アザラシを犬橇で持ち帰る途中、少年は氷の割れ目に落ち……最初は犬橇ごと。次は少年ひとりで。
犬は、ジャーマン・シェパードの血が何分の一か混じった家畜用コリー犬だ。すごい力持ちだったが、家畜の群れをまとめ役としては役立たずの犬だった。しかし、このとき、犬は頑張る。
引き具が犬の肩から前へずり落ちはじめたが、犬は私を引っぱりつづけ、私はつかまりつづけた。とうとう肘が堅い氷の上についた感じがした。私はその氷の端に両肘をかけ、自力で這い上がった。全身ずぶ濡れで、暗い水面から白いどろどろの氷の上にあがってきたもう一頭のアザラシのようだった。上に出たとたん、着ているものが凍りはじめた。肘や膝を曲げると、まるでSFの国から抜け出したロボットのようにギーギー音がし、しばらくして自分を見おろすと、ワニスを塗ったように全身が透明な氷でコーティングされていた。〔pp.70-71〕
『冬の犬』(新潮クレスト・ブックス)という短編集に収録された「冬の犬」と、灯台守として生きる女性の過酷すぎて幻想性をすら帯びた人生を描く「島」が、とりわけ印象的だった。
燈台守として長年、孤独に暮らすうち、知らぬ間に「島の狂女」伝説をつくりあげていた女性は、燈台が閉鎖され、島を去らなければならなくなったとき、胸の痛みを覚える。
ひょっしたらそれは、ひどい場所や苦しい状況やつらい結婚から去ってゆく者の心情に似ていたかもしれない。最後にもう一度肩越しにふりかえって、「ああ、私は人生の大半をここにささげてきたんだ。たいした人生ではなかったけれど、それを生きたのはたしかに私だった。これからどこへ行こうと、もう前と同じ私ではない」と静かに自分に言い聞かせる人々の心情に。〔p.226〕
見たこともなかった孫が島に迎えにきて、その若者は、事故死したために結婚できなかった恋人とそっくりのセリフを吐く。「もう、行かなくちゃ」「戻ってくるから」「戻ってくるって言ったよね」「いっしょに行こう。どこかほかの土地に行って、いっしょに暮らそう」
こうした場面は、老いた彼女に現実に起きたことなのだろうか、幻想なのだろうか。
短編小説「島」の主人公が、女性なのか、つかの間のロマンスが生んだ遺伝子の奇跡〔p.229〕なのか、島そのものなのかわからなかったが(渾然一体となっているようでもある)、読み終わったとき、呆然としてしまった。
アリステア・マクラウドは寡作な作家で、生涯に短編小説16を収録した短編集1冊、長編1冊残しただけという。
原題『Island』の短編小説は、日本では8編ずつに分けられ、前掲の『冬の犬』と『灰色の輝ける贈り物』という邦題で出版されている。長編小説の邦題は『彼方なる歌に耳を澄ませよ』。訳者は中野恵津子。
行き届いた、無駄のない描写は、ドキュメンタリーを観るような緊迫感をもたらす。
そして、作家の内面的な豊かさ、卓越した人生観は、作中の人間や動物を明晰な光で照らし出し、大自然の懐の然るべき一点に結晶させる。
生き物たちが醸し出す叙情味は、尊厳美を伴って、読む者を魅了せずにはおかない。
短編集2冊は宝物となりうる本だが、図書館からの借り物なので、返さなくてはならないのが残念だ。
長編はまだ借りていないが、これも評判が高い。
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