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2014年11月 9日 (日)

歴史短編1のために #3 後水尾天皇の禅と学問

結局、非公開にしたNotes:初の歴史小説と同じノートになりつつあるが、触りだけという感じにとどめている。

後水尾天皇:Wikipedia

以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛をきっかけに認めることになる。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。

家光の上洛によって院政が認められたくだりは、以下の本pp.88-89に詳しい。

後水尾天皇―千年の坂も踏みわけて (ミネルヴァ日本評伝選)
久保 貴子 (著)
出版社: ミネルヴァ書房 (2008/03)

昔は防火、消火の手段が限られていたから、火事が発生しやすく、燃え広がりやすかったようだが、それにしても、この時代、あっけないほど邸が焼失している。また、疱瘡などで、人があっけなく死ぬ。疱瘡が目につく。

生きるのが嫌になりそうだが、逆に生への執着が強まるかもしれない。嫌でも、宗教に関心が向きそうだ。

萬子媛の出家は、萬子媛の2番目の実子、朝清が21歳で急死したことがきっかけとなっている。朝清の死の原因は何だったのだろう? 1番目の実子、文丸は元服前の10歳で夭逝している。

前掲書によると、「慶安四年(一六五一)五月六日、後水尾天皇は広御所で突然落飾した。五十六歳の時である」(p.112)。

上皇は臨済宗の僧、一糸文守に傾倒し、帰依したという。上皇は一糸に、父後陽成天皇から伝えられた硯を、二首の和歌を添えて下賜したりしている。しかし、一糸はこの3年後、39歳の若さで亡くなっている。

全く死にたくなりそうだが、上皇は85歳まで生きた。ずっと幕府との確執が続いたことを思えば、大変な生涯だったと思える。学問に救われたところもあるのではないだろうか。

尤も、この学問ですら前掲書によれば、「幕府は、天皇に学問と和歌、そして有職故実全般にわたって習学することを規定した。この法度が制定された時の「天子」は後水尾天皇である。言い換えれば、ここに規定された天皇像の体現を求められた最初の天皇ということになる」(p.44)

書き忘れていたが、前掲書には、「法皇に与えた禅僧は少なくない」とあり、「日本黄檗宗を開いた隠元隆琦もその一人」(p.120)だという。

学問は、父後陽成天皇が九歳で読書始めを行ったという先例にならったという。慶長九年(一六〇四)十二月十三日から、慶長十四年三月十二日に、四書(大学、論語、孟子、中庸)の読書が終わって御祝いの盃のあったことが「時慶卿記」に記されているそうだ。「時慶卿記」は公卿・西洞院時慶の日記。

いやはや、大変な「読書」だ。まず、儒学をみっちり叩き込まれたということだ。

それから有職、有職は公家・武家などの行事、儀式、官職等に関係する知識。和歌。楽・郢曲。連歌。詩文学。歌学。聯句。詩。

さらに、職原抄、職原抄は中世日本の有職故実書。公事根源、公事根源は室町時代に一条兼良により記された有職故実書。神皇正統記。日本紀。和漢朗詠。詠歌大概。百人一首。大鏡。水鏡。増鏡。大和物語。

理系だったら、悲劇だわね。

幸い、後水尾天皇にはこの種の学問が性に合っていたらしく、公家衆への講義なども好きだったようだ。

「源氏物語」は当時、女性に人気があったらしい。前掲書からは、禁裏で女中衆に楽しそうに源氏を講釈している上皇の様子が見えてくるようだ。

寛永二年、三十歳のときに叔父八条宮智仁親王から古今伝授を相伝されたという。

後水尾天皇の和歌、まあまあだとわたしは思う。古今伝授といえば、それを切望した鍋島光茂を連想してしまう。

ウィキペディアによると、光茂は「武家でありながら歌道を極め、京都の公家で二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた」だそうだが、何首か見た限りでは、わたしは結構ひどい気がしたわ。下手の横好きとしか思えなかった。前の記事に書いた、龍造寺氏の血筋の方がずっと文才、ありそう。

明日までに20枚書くはずだった……計画倒れとはこのこと。

が、ともかく、朱子学、陽明学のおおまかなところ、後陽成天皇、後水尾天皇については頭に叩き込んだ。執筆には想像した以上に時間がかかりそうだが、アウトラインはかためた。よし、行ける!

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