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2014年10月29日 (水)

#4 神仏分離政策の影? ③マルキシスト、マードックの影響と漱石の日和見

Notes:夏目漱石・インデックス

「こころ」から、Kの境遇について書かれた部分を引用してみる。

Kは真宗の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他ほかのものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃としごろになったとすると、檀家のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐から出るのではありません。そんな訳で真宗寺は大抵有福でした。
 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まとまったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家へ養子に行ったのです。

浄土真宗は廃仏毀釈に最も抵抗したといわれるが、それでも影響を免れえなかった。Kが養子にやられたのは、そんな事情が反映していたに違いない。

「先生」はKを自分の下宿へ招き、2人は同じ下宿で暮らすようになる。彼らはある日、房州への旅に出た。

そのとき、日蓮の生れた村で、Kは渋る「先生」を強引に引っ張って行って、立派な伽藍を持つ日蓮宗の住持に会う。2人は「広い立派な座敷」へと通され、すぐに住持に会えた。

Kは住持にしきりに日蓮について尋ねる。

日蓮は草日蓮といわれるくらいで、草書が大変上手であったと坊さんがいった時、字の拙いKは、何だ下らないという顔をしたのを私はまだ覚えています。Kはそんな事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしょう。坊さんがその点でKを満足させたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向って日蓮の事を云々し出しました。

ひどい状態にある仏教界のことで苦悩しつつも僧侶として立つ将来を模索し、何とか活路を見出したいと思っていたKであったから、立派な伽藍を保っている日蓮宗に一縷の希望を見出し、住持に面会したくなったのだと思われる。

住持はKを満足させてくれる存在ではなかった。Kの苦悩はそのことによって深まっただろうが、「先生」にはそれを洞察する力がない。わかろうとする思いもない。これが友情といえるのだろうか?

Kの自殺の原因が、仏教界の将来を悲観したことにあったことは間違いない。それを安直に失恋に結びつけたのは、「先生」の価値観が形而下的、世俗的なものに置かれていたことの例証であろう。

「先生」を自殺させることで、「先生」の価値観を作者、夏目漱石は断罪しているようでもあるが、漱石の価値観は「先生」に通ずるものである。それを処世術へ、さらには「則天去私」という哲学がかった観念へと昇華させた。

しかし、わたしにはそれは自国の現状を分析すべき知識人にあっては一種の逃避、利己主義と映る。御用文学者の限界を見る。なぜなら、「先生」あるいは漱石とは対照的な人物を、わたしは知っているからである。

その人物は、漱石とは対照的に、時の政府の廃仏毀釈によって破壊された仏教の原点に立ち返り、その原点から輝かしい宗教精神を現代的表現で甦らせようとした。残念なことに、その人物は、そのような思想の流れは、結局のところ、主流とはなりえなかった。

一種の逃避文学、日和見文学は、自らの心地よさをのみ追求する村上春樹の小説に受け継がれているといえる。

「則天去私」などという便利な言葉では誤魔化しようのない漱石の日和見主義は、エッセー「マードック先生の『日本歴史』」(青空文庫)からも明らかだと思う。長くなるが、それが端的に表れた箇所を引用してみる。

維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然に何の苦もなく今日まで発展して来たと同様に、明治の歴史もまた尋常正当に四十何年を重かさねて今日まで進んで来たとしか思われない。自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙る評価には、案外な点もあるいはあるといわれるかも知れないが、自分が如何にしてこんな人間に出来上ったかという径路や因果や変化については、善悪にかかわらず不思議を挟む余地がちっともない。ただかくの如く生れ、かくの如く成長し、かくの如き社会の感化を受けて、かくの如き人間に片付いたまでと自覚するだけで、その自覚以上に何らの驚ろくべき点がないから、従って何らの好奇心も起らない、従って何らの研究心も生じない。かかる理の当然一片の判断が自己を支配する如くに、同じく当り前さという観念が、やはり自己の生息する明治の歴史にも付け纏っている。海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試しがない。必竟われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑の起る余地が天で起らないのである。丁度葉裏に隠れる虫が、鳥の眼を晦ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着すべき所以がない。こう変色するのが当り前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。

虫の研究者、動物学者、と漱石がへつらうマードック先生は、漱石の恩師である。このマードック先生はマルキシストだったようだ。

ジェームズ・マードック:Wikipedia

ジェームズ・マードック(James Murdoch、1856年9月27日 - 1921年10月30日)は、日本とオーストラリアで教師として働いたスコットランドの学者、ジャーナリストである。東京帝国大学などで教え、大著『日本歴史』を著した。マードックが教えた人物には夏目漱石がいる。
(……)

1889年に日本に招かれ第一高等中学校でヨーロッパの歴史と英語を教えた。この時の学生に夏目漱石がいる。教職の一方、自らの著作も行った。
(……)
1893年9月、日本を去り、オーストラリア時代の同志であるウィリアム・レインがパラグアイに作った実験的な共産主義的コミューン「新オーストラリア(New Australia)」に参加した。マードックが到着するまでに、入植者の約3分の1が離脱しており、想像した社会主義の楽園ではなく、貧困や、仲違いや病気があった。彼はほんの数日滞在しただけで幻滅し、日射病で健康を害してロンドンに戻った。パラグアイには、12歳の息子を置いていった。ロンドンでは療養と日本における16世紀ヨーロッパの修道士の手紙を翻訳する大英博物館の仕事で5ヶ月間を過ごした後、日本に戻った

漱石には、共産主義の観念的な理想に燃えていたころのマードックの影響があるという点に留意しておく必要がある。

戦後の日本の教育、マスコミは左派の強い影響下にあるが、夏目漱石はその左派にとって、都合のよい「文豪」なのだ。読書感想文に繰り返し推薦される「こころ」は、特に彼らのお気に入りのようである。

#5では、#2及び当ノートで紹介しかけた、「先生」あるいは漱石とは対照的な生き方をした人物を通して、本当は死ななかった(?)Kのその後を追ってみたい。

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