縛りを感じさせる幽霊譚になってしまっていたシネマ『思い出のマーニー』
ショッピングモールに入っているカルディに月に1~2度、家族でコーヒー豆を買いに行き、そのとき夫は大抵映画を観、わたしと娘は一緒に映画を観ることもあるが大抵はカルディやスーパーで買い物を済ませたあと、服やアクセサリーを見、ロフトと書店に行く。
コーヒー豆が切れたとき、近くのスーパーには粉になっているコーヒーしかなかったのだが、それを買って使っていた。家でコーヒー豆を挽くときの芳ばしい香り、粉にしたものをサイフォンで淹れるときのフラスコのポコポコ煮立つ音とコーヒーの香り……ああ豆、豆を買いに行かなきゃ。
夫と娘の休みがなかなか重ならなかったので、昨日夫とふたりでカルディに出かけた。夫がいつものように映画を観る態勢だったので、サイト「Yahoo!映画」を一緒に見ると、合う時間帯ではゴジラとマーニーしかなかった。
夫は子供の頃からの少女・少年漫画ファンで、アニメも嫌いではなく、スタジオジブリ作品は確か全部観ているので、ゴジラよりもマーニーを観ようかなという。わたしはその間、買い物をし、ロフトや書店を見て、スタバでくつろいでいようかと考えた。
スタジオジブリ作品である米林宏昌監督『思い出のマーニー』を、その原作であるジョーン・ロビンソンの児童文学作品と比べてみたいという思いはあったが、どうしても観たいとはおもわなかった。
そういうと、夫が映画代を持つよ、といってくれた。定年後の再就職でますます小遣いの額が減ったのに、嬉しいことをいってくれると感謝し、半分だけ出して貰うことにして(それでなくとも、夫の年齢のお陰で夫婦割引が利く)、観た。
とても美しい映像とマーニーの魅力に惹かれたが、いつもジブリ作品に感じるように、今回も違和感があった。
原作をわたしは岩波少年文庫版、松野正子訳で読んでいたので、原作とどう違うか、比較したくなった。というのも、原作には全く違和感がなかったので。
今ここでそれを丹念にやっている時間がない(今月中に仕上げたい小説があるので)。で、書きかけになるが、少しだけでもメモをとっておこう。
以下、ネタバレあり、注意!
児童小説『思い出のマーニー』は、イギリス児童文学の伝統を感じさせる作品だと思う。
『マーニー』を読みながら、わたしはエリナー・ファージョン『銀のシギ』を連想した。イギリス最大の入江であるザ・ウォッシュがあるというイングランド東部、北海に面したノーフォーク州がどちらにも出てくるからかもしれない。
また、タイム・スリップといってよいと思うが、主人公アンナの生きている時間がマーニーの時代にたびたび入り込むところはフィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』を連想させた。発表年を調べてみると、『トム』は1958年、『マーニー』は1967年となっている。
アンナの内面描写からは、少年少女の内面を豊かに描いたイギリスの児童文学の中でも、キャサリン・ストー『マリアンヌの夢』を連想させられた。ニュージーランドに生まれて、主にイギリスで純文学小説を発表した短編小説の名手キャサリン・マンスフィールドの繊細な心理描写なども連想させられる。
そして、マーニーが誰であるのか――という謎解きの場面で、皆が話し手のまわりに集まって話を聞くところは、アガサ・クリスティの推理小説を連想させられるではないか。
お金持ちの家に生まれながらマーニーは孤独な子供時代を過ごし、幸せな結婚をするが、その暮らしは長くは続かず、娘との仲もうまくいかなかった。
娘は家を出て、結婚し、女の子をもうけたが、離婚。再婚後の新婚旅行中に交通事故で亡くなる。祖母のマーニーは孫を引き取って、懸命に育てたが、娘の死のショックを乗り越えることができず、病気が重くなって亡くなる。
残された3歳になる女の子は子供のためのホームへ送られ、やがて一組の夫婦に引き取られた。奥さんは女の子を可愛がるが、女の子はその奥さんをお母さんと呼ばず、おばちゃんと呼ぶ。
アンナはおばちゃんと呼んで、自分を引き取ってくれたミセス・プレストンにうまく打ち解けられないが、嫌いでは決してない。ミセス・プレストンの、アンナに愛されているかどうかといったことに関する自信のなさそうな様子や、不自然な態度に対して抵抗を覚えているだけなのだった。
そんな少女の内面が心憎いほど精緻に描かれている。アンナがマーニーと出会う場面は美しく、神秘的である。
なぜアンナが少女だったころのマーニーの世界に入り込むことができ、一緒に遊べたかは解釈によるのだろうが、どちらも愛情に飢えたところがあり、自然体で愛し、愛されることに強い欲求がある。どちらも繊細で共感能力が高い。
しかもふたりには血縁関係があり、共に過ごした時間があったのだ。それにも関わらず、大きな時間のずれがあったために、ふたりは共有した時間をうまく生かすことができず、一方は亡くなってしまい、他方は幼いまま取り残された。
同じ年齢で時間の共有ができさえしたら、ふたりは無二の親友になれたであろうに――その時間のずれという理不尽さを超えるほど、マーニーは残された時間を最大限に使って孫を純粋に愛した。
そのような愛情は決して消えることがないとわたしは神秘主義者として知っている。イギリスの神秘主義は児童文学に豊かに息づいているとわたしは考えている。マーニーの純度の高い、豊かな愛にジョーン・ロビンソンは作家として形式を与えたのだろう。
原作がすばらしかったために、映画では残念に思うところがいろいろとあった。
まず映画では構造上のいい加減さが目につく。映画の場合は死んでいるはずのマーニーのほうから積極的に関わってきているかのような幽霊譚の趣があるが、タイム・スリップに思える場面もある。
そうでなくては、アンナがマーニー以外の人々や当時の情景を一緒に体験することは不可能だろう。しかし、アンナがマーニーと会ったあとで眠ってしまったり、倒れたりするところを見ると、病的なアンナの白昼夢だろうかと思え……何でもありの手法に、こちらの頭の中は混乱してしまうのである。
神秘的な描き方をすればするほど、押さえるべきところはきっちり押さえ、守るべき法則は守らなくては鑑賞に耐えない、いい加減な作品だという誤解を生むだろう。
少女たちの内面や行動、それに対する大人たちの描き方にも不自然や非常識を感じさせるところがあって、手抜きを感じさせるところが多々ある。
映画は原作をなぞっているようで、肝心のところでそうではない。
原作では重要な役割を果たすワンタメニーじいさんだが、映画では存在感に乏しい。マーニーとアンナの双方を知っている、知恵遅れのように描かれているこの老人こそ、鍵となる人物で、異なる二つの時間帯を行き来する渡し舟の船頭なのかもしれない。
原作の最後のあたり、帰省する日にアンナが別れを告げに行ったのはワンタメニーじいさんだけだった。
映画では、引っ越しの挨拶に隣近所を回る大人みたいで、「ふとっちょぶた」にまで挨拶していた。「ふとっちょぶた」の描かれ方も違う。原作ではアンナは「ふとっちょぶた」と気が合わないため、思わず口喧嘩になった、それだけのことである。
映画では、「ふとっちょぶた」といわれた少女は、アンナより1歳上なだけなのに、「おばさん」の縮小版のような外観で、親切なのだが、アンナは過剰反応する。アンナに別れの挨拶をさせることで、制作者は「ふとっちょぶた」を成長戦力のアイテムとして利用しているかのようだ。
そのような説教臭さ、縛りがこの映画にはあり、せっかくの映像の美しさや原作の神秘性を台無しにしている気がする。原作では時空を超えて拡がりを見せる人間愛が、映画では、孫を村社会に溶け込ませることに成功した幽霊のお話(お茶の間劇場)となってしまって、甚だ後味が悪い。
原作にある「内側」という言葉の意味を映画では矮小化している。
この記事は書きかけです。
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