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2014年7月19日 (土)

初の歴史小説 (36)後陽成天皇の憂鬱 ①強まる幕府の干渉

 参考資料として、以下の本を借りた。後陽成天皇や猪熊事件について、触れてあるようだったので。

東福門院和子の涙 (講談社文庫)
宮尾登美子 (著)
出版社: 講談社 (2012/12/3)

 萬子媛は1625年に生まれ、1705年閏4月10日に没した。父は花山院定好。母は鷹司信尚と後陽成天皇第三皇女の清子内親王の娘だが、萬子媛は清子内親王(母方の祖母)の養女となっている。

 萬子媛が生まれる以前の1621年に、清子内親王の夫である鷹司信尚は既に亡くなっていた。花山院定好は延宝元年7月4日(1673年8月15日)に亡くなる前年、10歳になる萬子媛の長男文丸に会っている。文丸は、参勤交代で帰国する父(鍋島直朝)の船に同船して帰ってきたのだが、翌年――祖父定好と同年に――亡くなった。

 で、猪熊事件のきっかけとなったのは、以下のノートにも書いたように、花山院定好の兄だった。

 猪熊事件は公家衆と女官の乱交事件であったが、、慶長14年(1609年)に起きた。萬子媛が生まれる16年前のことだった。猪熊事件を起こしたのは、かぶき者たちである。

かぶき者:Wikipedia

かぶき者(かぶきもの。傾奇者・歌舞伎者とも表記)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。
(……)
かぶき者たちは、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、一方ではその男伊達な生き方が共感と賞賛を得てもいた。武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもあった。寛永期頃から江戸に現れる旗本奴、町奴といった無頼集団もかぶき者の一類型と見られる。また、1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、のちの歌舞伎の原型となった。
かぶき者の文化は慶長期にその最盛期をみるも、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくが、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに、その美意識は歌舞伎という芸能の中に受け継がれていく。

 ノート(34)に書いたように、佐賀藩でも慶長11年(1606年)、藩祖直茂が京都に出かけて留守の間に、三の丸で密通事件が起きている。

 宮尾登美子の前掲書によると、「慶長十二年、和子姫ご誕生の年、出雲阿国[いずものおくに]、大御所さまのお招きより江戸へ下り、城内にてかぶきを演じました」とある。江戸や京都などの都市部ばかりでなく、佐賀藩のような地方でもかぶき熱に浮かされる者たちがいたということだろう。

 慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて……というと、相当に長い間流行が続いたということになる。慶長18年(1613年)に「公家衆法度」、慶長20年(1615年)に「禁中並公家諸法度」が制定されて、公家に対する統制は強まったのだろうが。

 猪熊事件について、宮尾登美子の前掲書では資料に添って淡々と――侍女の語りとして――書かれている。後陽成天皇については悩み多き人物として、これもまた淡々と――侍女の語りとして――書かれている。

 その理由として「武家と共存のことでつねにお悩みになられたものかと考えられます」と侍女に語らせている。

 Wikipediaには以下のようにあった。

後陽成天皇:Wikipedia 

後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) - 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) - 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。
(……)
後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。

〔略〕
慶長8年(1603年)に、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。
これに先立って後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者とした。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。関ヶ原の戦い後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子・政仁親王を立てる。
慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。

 幕府に権力を握られていく中で、子の政仁親王(後水尾天皇)とも不和が生じた。

 後陽成天皇の「自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』などがあり、『日本書紀』を慶長勅版として発行」させたというから、歴史や文学に造詣が深かった。

 ところで、宮尾登美子の小説では時々、ぎょっとさせられる箇所に出くわすのだが、以下の部分もそうだった。

和子姫さまも私も、京に移りましてよりまっさきに覚えましたのが神仏への信仰でござりまして、おかげさまにてどれだけ仏さまに救われましたことか。
 武家とても祈願は込めますなれど、戦勝や家運隆盛が先だち、一個人の心の平安を求めることはいささかうしろめたい思いがいたします。それというのも、武家は戦って家を守り、公卿さま方はみずから文を恃[たの]んで家を守るということにござりましょう。

 そんな、とってつけたような。俗っぽすぎて、読む気が失せる。現代っぽすぎるというべきなのだろうか。

 日本の古典から感じられる香気は、ほとんど信仰心の香気といってよいとわたしは考えている。

 日本人は邪馬台国の時代から柔和で、信仰深かった。自然をご神体と見る感性があり、この世に生きる人間としての悲痛、真摯な思いを神仏に向けて放っていた。

 時代は違っても、恃みとする信仰対象は異なっても、敗戦まで日本人はそうだったのではないかと書かれたものを読むと、そう思わずにはいられない。その心はだいぶ失われてしまったけれど、『梁塵秘抄』は現代日本人の感性をも打つはずである。

 その心は、大正10年(1921年)から昭和2年(1927年)にかけて駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルに、日本人について「彼らは貧しい。しかし、高貴である」といわせた理由なのではないだろうか。

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