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2014年5月13日 (火)

初の歴史小説 (27)佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂と萬子媛との人間関係。光茂に仕えた『葉隠』の山本常朝。

 以下の本を読んでいる。

初期の鍋島佐賀藩 藩祖直茂、初代勝茂、二代光茂のことども
田中 耕作 (著)
佐賀新聞社 (2000/10)

 現在、初期鍋島佐賀藩にかんする理解を深めようとしているところ。大河ドラマにさえ興味のないわたしにとって、戦国時代からこっちの日本の歴史は他国の歴史のようですらあったが(西洋史には興味があったので、高校、大学と西洋史を選択した)、ちょっと間を置くと再度「お勉強」に入っていくのが苦痛になってくる始末。

 ただ萬子媛(祐徳院)というキイワードが魔法のような効果を生じている。

 今も天界からこの地上を見守っていらっしゃる萬子媛はとても魅力的に感じられる。神社にはこのようなタイプの高級霊の存在するケースがあることを確認できたことは神秘主義者のわたしにとっては意義深いことで、このことを考察した作品をいずれ執筆して神秘主義者のための資料となるようにしたい。

 このようなタイプの修行者をもたなければ、このようなタイプの守護者を日本人は持つことがなかったわけである。わたしはたまたま児童小説『不思議な接着剤』を書くためにマグダラのマリアについて調べていた。

 すると時も場所も異なるが、萬子媛と同じように後半生を修行に明け暮れて亡くなり、守護聖人として祀られているマグダラのマリア伝説があるのを知った。

 宗教的外観は違うが、古今東西、人間はどこでも似たようなことをやっているわけである。生前に徳のあった人物を慕い、加護を祈念する。そして、驚いたことに、現にそれに応えている祐徳院のような人物(霊)が存在することをわたしは知ったわけである。この純正ボランティア精神(?)が生じた背景を知りたい。

 できれば天界での仕組みも知りたい。いつからいつまで、このボランティアをお続けになるのか(つまり萬子媛が再び地上へ転生なさるときはあるのか。もしあるとすれば、そのあとはどうなるのか)、天界での管理体制はどうなっているのか。地上との関係はどうなっているのか。なまじ神秘主義的直感があると、逆におびただしい疑問が湧いてくるけれど、こうしたこと全てを知ることはわたし程度の神秘主義者には難しい。

 まずは卑近なところから繙いていくしかない。この方はどんな人生を送られたのか。その環境はどんなものであったのか。思想的影響は? 黄檗宗(念仏禅)以外の影響も知りたい。そして、萬子媛を繙くことは、これまでわたしが知らなかった日本について知ることである気がする……

 とりあえず、小説執筆の参考になりそうなところを前掲書とWikipediaからメモしておこう。

●佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂
 寛永9年5月23日(1632年7月10日) - 元禄13年5月16日(1700年7月2日)

 肥前国佐賀藩の第2代藩主、鍋島光茂からすれば、直朝(萬子媛の夫)は異父弟に当たるが、光茂は第2代藩主となるはずだった鍋島勝茂の四男忠直の長男で、光茂は祖父にあたる勝茂から直接、藩主の座を継承したのだった。

 勝茂の長男元茂は勝茂が家康の養女菊姫と結婚したとき、廃嫡され、江戸に人質として送られている。のちに7万3,000石を与えられて小城藩の初代藩主となった。勝茂の五男直澄は蓮池藩、九男直朝は鹿島藩の藩主となった。

 子供たちに濃やかな気配りをした感のある勝茂には葛藤があったようで、五男の直澄に跡を継がせたかったようなことが本には書かれている。光茂は江戸生まれ、江戸育ちで、勝茂は養子にしたこの実孫に違和感があったようだ。

 光茂の母恵照院は直澄に再嫁し、その育児は恵照院付だった小倉に任される。

 この頃、殉死は珍しいことではなかったようで、光茂の父忠直が23歳の若さで亡くなったときも、お供が殉死している。光茂は明暦3年(1657年)藩主に就任したが、寛文2年(1662年)、幕府に先んじて殉死を禁止したという。

 光茂という男は、Wikipediaに「佐賀藩には三支藩(蓮池藩、小城藩、鹿島藩)があり、藩主は勝茂にとって子や弟であったことから、当初は格式の差は無かった。しかし、光茂は支藩への統制を強めた」とあるようにいささか陰険というか、がっちりしたところがあったようだ。

 一方、「武家でありながら歌道を極め、京都の公家で二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた」ともあり、公家出身だった萬子媛との浅からぬ人間関係を想像したくなる。

 萬子媛の2番目の子、式部朝清について、郷土史家はわたしへのメールに以下のようにお書きになっている。

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この朝清は、佐賀藩2代藩主鍋島光茂に仕え、佐賀に住み、光茂の信頼厚く、「親戚同格の扱いを受けました。
「親戚同格」というのはご存じかと思いますが、佐賀藩士の身分序列を著すもので、その格付けは(略)厳しく格付けされていました。朝清が「親戚同格」の扱いを受けたのは、破格の待遇だったと思われます。
朝清は、光茂からこのような待遇を受け、鹿島西牟田の地に900石を支給されていました。しかし、貞享4年9月20日、21歳の若さで急死します。原因、病名は不明です。
この朝清突然の死が母萬子を慟哭させ、黒髪を剃って尼となり、深山幽谷の祐徳院に隠棲させるもととなります。

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 光茂の父も23歳という若さで急死しているが、死因は疱瘡であった。もしかしたら、朝清も同じ病気で亡くなったのかもしれない。

 ところで、『葉隠』の口述者として有名な山本常朝は光茂に小姓として仕え、光茂の死後出家し、田代陣基に『葉隠』を口述した。以下はウィキペディアより。

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山本常朝:Wikipedia

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日(1719年11月21日)は、江戸時代の武士、『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路(現在の佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩士山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田作左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき、鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳のとき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳に元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚に仏道を学び、21歳のときに仏法の血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

『葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田(現在の佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき、6月、山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月、御書物役を拝命。28歳のとき、江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授(古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事に京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居と晩年

同年5月16日、光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家、5月19日、高伝寺了意和尚より受戒、剃髮。そして、7月初旬佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町)黒土原の庵室朝陽軒に隠棲。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年)3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分の墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方約11キロの大小隈(現在の佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日、田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年)10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所は八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしものを

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