神秘主義者としての課題と最近の出来事
出しておきたい本は何冊もあるのだけれど、電子本にするにはかなりの時間を食うので、それだけ新しい作品を書いたり、これまでに書いたものをまとめたりする時間が減ってしまうことになる。
素人稼業の限界というものを感じ出した。本になるという望みを後世に託して、ひたすら執筆に取り組むだけの世に対する信頼感がわたしにはない。
自分がしない限りは、誰もしてくれないのだ。
だから、優先順位を決めることが重要になってくる。その優先順位は、今後わたしにどれだけの時間が残され、その時間をどの程度自分で使うことができるかで、違ってくる。
世の中には様々な作品が溢れている。わたしは女として、それもとりわけ子育てをした専業主婦として生きてきて――ずっと執筆を続けてきたわけだから、お金をほとんど稼げない兼業主婦というほうが実態に即しているだろうが――、その観点から書きたいことが沢山ある。
『台風』、そのうちキンドル本にする予定の『侵入者』、『地味な人』、『白薔薇と鳩』はそうした傾向の強い作品で、まだまだ書き足りないのだが、それより今は神秘主義者として生きてきた観点から書きたい思いが強い。
これまでに出したキンドル本のうち、その傾向の強い作品は『枕許からのレポート』(パブー版は無料)、『昼下がりのカタルシス』、『詩人の死』である。
『詩人の死』では、詩人と呼んだ女友達がモデルとして登場する。彼女とは、神秘的な次元での交流やその類の意見の交換などは皆無だった。が、統合失調症に苦しむ彼女を見ていて、神秘主義的な観点から考えさせられた様々な事柄があった。
たとえば、以下のような事柄である。直塚万季『詩人の死』(ノワ出版局、キンドル版、2013年)より抜粋。
ところで、これは神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、他の生きものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。
人間や動物に限定されたものではない。時には、妖精、妖怪、眷族などという名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いも。精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。
普段は、自然にコントロールできているわたしでも、文学賞の応募作品のことで頭がいっぱいになっていたときに、恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。
普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。ところが、雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自身の内面の声を、外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。
賞というものは、世に出る可能性への期待を高めてくれる魅力的な存在である。それだけに、心構えが甘ければ、それは擬似ギャンブルとなり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めていると思う。
酔っぱらうことや恋愛も、同様の高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、全くだめとはいえないものだろうけれど。アルコールは、大方の神秘主義文献では禁じられている。
わたしは専門家ではないから、統合失調症について、詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。
賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの詔子さんは、構造的に似ている。そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は自らの妄想を通して全てを見る。そうなると、妄想は雪だるま式に膨れ上がって、混乱が混乱を呼び、悪循環を作り上げてしまうのだ。
こんなときにナルシシズムと性欲を以て直子に接した、『ノルウェイの森』のワタナベくんのような人物は、危険である。妄想の繭から出るには、直子が自身で澄明な精神状態になるしかないところへ、彼はそれを手助けするどころか、逆のことをやってしまうからだ。『ノルウェイの森』はわたしにはどうしても危険と感じられる作品なのだが、神秘主義的観点からみれば、村上春樹の作品にはもっと危険なものもあると思う。
神秘主義者は敏感であるだけに様々な刺激に晒されがちであり、この年齢まで生きてくることがわたしには結構大変だった。反面、喜びも大きかった。
一般の人々は、日々の糧のための労働と現状の満足を得ることで頭の中がいっぱいだ。それが当然だとも思う。一日の終わりには、快い酔いをもたらしてくれるお酒のような作品が求められる。商業主義は、そこにのっかる。刺激する。
大衆の求めに応じる作品作りに多くの作家、賞の応募者は追われている。
わたしは別のことがしたいと思った。わたしの本が売れないのは当然なのだ。それでも、前掲のような神秘主義者の実感と発見をこめた作品に、★一つの烙印を押されるとがっかりする(幸い、すぐに高評価をいただいて、そのかたがわたしにはミューズの使者に想えたほどだった)。
わたしの本になど目をくれる人はほとんどいないところへ、★一つのような判定が煙幕のような役目を果たしてしまい、酔うことではなく、神秘的なもの、繊細なもの、深いもの、死後の世界にまでもっていけるものを求めている人々にわたしの作品がますます届かなくなることを畏れる。
世間にはこの類の作品が溢れているようだが、神秘主義に関する平均以上の知識と真摯な姿勢がありながら、ごくありふれた一般人としても生きているわたしのような人間の作品といえば、本当に少ないのだ。
ほとんどが体験を経ていない借り物にすぎないか、読むことが危険であるようなものか、逆にとても高尚なものであるかのいずれかであることが多いのだ。
酔うことではなく、神秘的なもの、繊細なもの、深いもの、死後の世界にまでもっていけるものを求めている人々は本当にわずかで、そのうちの電子本を読む人となると、どれだけ少ないだろうと思う。でも、確実にそういった人々はいる。
呪わしい商業主義、と思うが、その商業主義のお陰でわたしは本を出せるのだから、勿論他方では感謝している。
神秘という言葉は、現代では雑多なものを含みすぎている。
わたしの理解している神秘主義は厳密な学問そのものであり、面白いというより、難しいもの、実験を伴うものだ。前掲の抜粋で書いたような、一種のテレパシー現象というべきものをわたしはずっと研究している。
わたしの作品は、砕けた表現で行う、その発表の場でもあるのだ。
一種のテレパシー現象というべきもの――といえば、最近こんなことがあった。
出したばかりのキンドル本『気まぐれに……』が出たか出ないかの頃(体調が悪かったため横になっていたので、確認していなかった)、比較的若い男性がおそらくはわたしの本を見て、愉快でたまらないといった風に笑っている雰囲気が伝わってきた。
嫌な笑いではなく、軽い楽しげな印象で、わたしの本に何か滑稽なところでもあるのだろうか――と感じさせた。わたしの気のせいか、妄想かもしれないと思ったが、気になり、確認してみることにした。
そして、前の記事に書いたように、『気まぐれに芥川賞受賞作品を読む ①2007~2012』が出ていて、それはいいけれど、アマゾンの商品ページの本のタイトルを見ると、丸囲み数字の1が見事に文字化けして、2007年が12007年という壮大な未来の年に変貌してしまっていた!(訂正済み)
ああ、このことを笑っていたんだなと思った。
人間のハートは自分の思いをも含めた様々な思いを受信する優れた装置であるが、自らの雑念が相当な乱れを惹き起こすこともあって、受信技術に長けるにはハートを清浄に保てるようになる以外になく、神秘主義者は敏感であるだけに、下手をすれば、2ちゃんねる用語にある電波系のような人間になってしまうだろう。
インテリの雰囲気のある男性が、わたしの本に関心を向けているのも感じられた。そのあと、新しい本が1冊だけ売れたのを確認したが、買ってくれたのはその人かもしれない。まあわたしの妄想かもしれない。
こうした一種のテレパシー能力は、科学が進めば裏付けることのできる現象だと神秘主義文献には書かれている。この能力は万人にどころか、動物にも植物にも、肉眼には見えない存在にも備わっているはずだ。
ブログを書いたり、本を出したりしていると多くの人の思いをキャッチしてしまうことになるので、訪問者も購読者も少ないのが幸いしている状況ともいえる。
しばらくは初の歴史小説にかかりきりになるだろう。その前のちょっしたお楽しみに、タブッキとシモーヌ・ヴェイユの本を借りてきた。タブッキは研究を進めたいが、今は時間がとれない。
過日、神智学協会ニッポン・ロッジからインド国際本部の会長の選挙用紙が送られてきたので返送したが、アンケート用紙もあり、自由な書き込みのできる欄があったので、「神智学の影響を受けたと思われる作家がわかるようでしたら、教えていただくか、会報誌で特集していただけたら嬉しいのですが」と書いてみた。
わたしの確認したところでは、作品にはっきり「神智学」と出している作家はタブッキ、カロッサ、ハクスリー。また、ノーベル文学賞を受賞したチリの女性詩人ガブリエラ・ミストラルの略歴には、神智学のチリにおける会に入会したような記述がある。
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