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2014年1月19日 (日)

詩人と呼んだ女友達の命日が近づいたこのときに書く、死者たちに関する断章

 わたしが詩人と呼んでいた女友達は、2012年2月1日の夜から2日午前中までの間のどこかで事切れた。起床が遅いので、ご家族が部屋に行ったところ、もう亡くなっていたそうだ。優しい、穏やかな死に顔だったとのことだった。

 彼女から最後に電話のあったのが1日だった。わたしたちは普通の会話をした。彼女があの世に赴いてからまる2年になろうとしている。その間、彼女について何か感じたことは一度もない。

 過去記事で書いたことの繰り返しになるが、あの世に旅立つ前の死者ということに限定すれば、わたしはこれまでに4人の訪問を受けた。そこには訪問としか表現しようのない形式があった。

 2人は絵に描いたような知識人で、1人の知識人は神智学徒だった。別れの挨拶をするためにわたしを訪れた。もう1人の知識人はキリスト者だったが、ある確認のために秘密裡のつもりで――わたしにばれているとは気づかず――わたしを訪問した。わたしを、というより部屋の本棚を訪問したというほうが正確かもしれない。

 神智学徒の別れの挨拶は初七日の間、間歇的に繰り返され、その内容は高級感を伴った親愛の繊細な表現と迫り来る本当の別れを意識した叱咤激励や焦燥の念が混じったものだった。

 キリスト者のことは『昼下がりのカタルシス』のモデルにしたが、まああれはフィクションである。受けた恩恵は大きく、シビアな齟齬は小さかったのだが、小説ではあるテーマを追究するために、その割合を逆転させてみた。

 別の1人は教育関係に生涯を捧げた人で、この人が4人の中では最も死んで自由の身になったことに歓喜していた。彼の葬儀で、仏教の敬虔な信者だったと知ったが、今時の仏教の信者というだけで、あれほど死んですぐに死んだ状況に慣れ、わたしのことを死者とも普通にわかり合えると疑わず、その後、夢に適切な現れ方をしては示唆的な表現をとる――といった霊的熟練者になれるものなのだろうか。

 彼は葬儀場でわたしを見つけ、帰宅するわたしについてきた。日田市を訪問してみたかったのだろう。わたしが日田市に住んでいたときに、彼は亡くなったのだった。シャガールの絵のようにわたしの上を漂ったりして、ついて来た。地面がトランポリンの役目でもするのか、唐突に浮き上がって、大木の梢あたりから楽しげな笑い声を響かせたりもした。姿が見えるわけではないが、動きはわかるのだ。

 音声を使ったこの世のコミュニケーションとは異なり、死んだ人とのコミュニケーションは、互いの思い(言葉)を一時的に共有し合うような形式で行われる。相手のことを知るためには互いの光(オーラ)を読む。わたしには、たまたま読む機会が与えられた――といった形をとることがほとんどだ。

 死んだばかりで、彼はまだこの世に対する関心も旺盛だった。日田市の人口を訊いてきたのである!

 萬子媛をモデルにした初の歴史小説を書こうと思い立った頃、彼の夢を見た。夢の舞台は講堂で、黒い垂れ幕のある入り口付近に、燕尾服姿の彼は連れの男性と立っていた。わたしを待っていてくれたようで、とても深みのある瞳でわたしを見つめた。だが、すぐに連れの男性と来賓席へ行ってしまった。

 わたしは萬子媛に関する取材を始めてすぐに壁にぶち当たったのだが、幸運にも優秀な郷土史家から沢山の資料を提供していただくことができた。郷土史家と彼が生前知り合いだった可能性は充分にある。

 あの夢は、そのことを知らせるものだったのかもしれない。そういえば、彼が亡くなってしばらくして見た夢があった。わたしは登山に近いことをして難所を乗り越え、苦労して彼をあの世に訪ねたという夢のストーリーだった。

 夢の中で彼は、萬子媛が創建された神社の近くに引っ越してきていた。仏教徒だったのに、なぜ神社の近くに住んでいるのだろう、と目覚めてから不思議に思ったのだが、萬子媛が筋金入りの仏教徒だったと知った今、謎が解けた思いだ。

 そのとき、彼は夢の中で「もう少し身長を高くしたほうがいいかな? 君も知っているように、ここでは皆、自分が好きなように外観を変えることができるんだよ」といった。

 この3人は、神智学徒、キリスト者、仏教徒で、今も彼らはわたしの夢で印象的な姿を見せたり、意味ありげなことをしたりする。彼らが生きていたとき以上に活発な交流があるといったら変かもしれないが、わたしの妄想にせよ、その妄想は生き生きとしていて発展性があるのだ。

 夢は、この世における内的、外的な出来事ばかりか、あの世における出来事をも、時系列を無視してごっちゃに映し出す、性能のよくないテレビ画面のようなものなのだ。

 この世とあの世の空間は重なり合っており、わたしたちは意識していないが、この世で生きているのと同時にあの世でもそれにふさわしい媒体を使って生きているのだ。ブラヴァツキー夫人の神智学の教えによれば、わたしたちは宇宙と同じように七重構造になっている。

 死者としてわたしをというより、わが家を訪れた残る1人は夫の叔父さんだった。この人も葬儀場から、夫について来たのだった。優しい、面白い人だったが、死んだことに納得していない様子で、死んだ実感がないのか、生きた人と同じもてなしを受けられないことに怒っていた。

 そして、ぷいっと出て行ってそれきりだった。死者はアポイントをとって現れるわけではないので(死後の知識がないままに死んだ人の行動は特に性急である)、こちらとしても失礼をしてしまうのは致し方ない。

 詩人と呼んだ女友達が亡くなってからのまる2年というもの、わたしたちの間には完全な静寂がある。距離、あるいは空白という言葉に置き換えてもいいかもしれない。

 わたしたちは別々の世界に生きていて、干渉し合わない。たぶん、わたしが想像していたよりずっと、彼女は生前、この世だけに生きていたのだろう。そして今ではあの世だけに生きているのだと思われる。

 あの哲学色の強い、芸術の香気を放つ詩からは信じがたいことではあるが、彼女は徹底した唯物論者だった可能性がある。だから、わたしは彼女に神秘主義的な話をする気になれなかったのだろう。

 そのことと彼女の精神疾患がどう関係し合っていたのか、わたしにはわからない。

 統合失調症は降って湧いた災難のように彼女を襲い、制限をもたらしたのか、それとも彼女自身の思想が病気を招いて制限を作り出す結果となってしまったのかは知りようがないが、その制限の中で彼女は驚くべき忍耐と輝きを見せたのだった。

 苦行僧のような生き方は美しかったが、この世のくびきから逃れ、今の彼女はあの世で平安に過ごしているのではないかと想像している。一般の人々はそのようであると思う。

 彼女の詩はここにある。彼女がこのことを知ったとき、わたしが彼女の子供たちを拉致しているように感じるのか、保護しているように感じるのか、別の感じ方をするのかは全くわからない。

 作品ができるとすぐに送ってくれ、元原稿は棄ててしまっていた生前の彼女の癖を考えれば、一応はわたしを信頼して作品の管理をゆだねてくれたと解釈しているのだが……。

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