「穴」で第150回芥川賞を受賞した小山田浩子の「工場」を試し読み
が 第150回芥川賞に小山田浩子(30)の「穴」、直木賞に朝井まかて(54)の「恋歌(れんか)」(講談社)と姫野カオルコ(55)の「昭和の犬」(幻冬舎)が決まったという。
芥川賞には食指が動かなくなったとはいえ、どんな作品を書く人が芥川賞をとったのだろう……と少しは気になる。
Kindle版で出ている本があれば、冒頭部分の試し読みができる。『工場』がKindle版で出ていた。
『工場』には、「工場」「ディスカス忌」「いこぼれのむし」の三編が収録されている。単行本で1,890円、Kindle版で1,440円。
30字×11行に設定したKindle Paper whiteで29頁、「工場」という作品を読むことができた。
小山田浩子「工場」についてアマゾンで見た内容紹介には、「何を作っているのかわからない、巨大な工場。敷地には謎の動物たちが棲んでいる――。不可思議な工場での日々を三人の従業員の視点から語る新潮新人賞受賞作」とあった。
シュールな作風はわたし好みだ。最近読んだタブッキの『夢のなかの夢』はよかった。それに、わたしはかなりの動物好き。期待すると幻滅することが多いので、期待するまいと思う(つまり既にこの時点で期待してしまっていた)。
何回幻滅させられても、つい期待に胸を弾ませて試し読みに入ってしまう。そして、結果的に本を購入することなく終わり、当ブログに芥川賞というカテゴリーまで作っておきながら、最近はちゃんとした感想を書くことなく終わっている。
今回も、そうなりそう。というのも、文章の野暮ったさから29頁読むのに精根尽きたのだ。この先、どんな動物が出てこようが、その動物たちがどんな理由で工場の敷地内に棲んでいようが、どうでもよくなってしまった。
「工場」の冒頭の一行はこんな風。
工場は灰色で、地下室のドアを開けると鳥の匂いがした。
「工場は灰色」といわれても、外観がそうなのか、工場の内装がそうなのか、あるいは工場内部に灰色の煙でも立ち籠めているとか、もしかしたら雰囲気がそうなのかもしれない。地下室のドアを開けるには、地上から地下に下りて行かなければならない。
語り手が「工場は灰色」というからにはどの時点かでそう感じたわけだが、いつそう感じたかの手がかりも読者には与えられないため、工場がどう灰色なのかの情報に不足したわたしのようなせっかちな読者は早くも苛々してくるわけなのだ。
もし、「目の前に聳え立つ工場は灰色だった」とあると、工場が外から眺められていることがわかるのだが。
語り手が工場を灰色と感じたときの位置関係、時刻、天候、あるいは照明の具合など、読者には何もわからない。地下室へ、どんな手段を使って下りて行ったのかもわからない。エレベーターなのか、階段なのか、あるいはエスカレーターなのか。
ともかく、語り手が地下に移動したことは間違いないようだ。そして、「地下室のドアを開けると」とあるが、先を読むと、このドアは地下にあるフロアの入り口のドアのことらしい。そのフロアの一部をパーテイションで区切った応接室で、語り手は面接を受ける。
が、「地下室のフロア」とも書かれている。建築用語辞典に「地下室とは天井の高さの3分の1以上が地下に入っている部屋をいう」とある。作者のいうフロアとは、床のことではなく、階のことだろう。「地下室のフロアがうるさい」と続くので。地下にある部屋の階といわれると、何となく混乱する。
最初の一行に戻ると、この地下のフロアのドアを開けたときに鳥の匂いがしたということになる。
最初の一行を読んだ時点ではわたしは、語り手が地下室のドアを開けたとき、その狭い地下室に充満していた鳥の匂いが鼻についたのだろうと想像した。しかし、作者は地下のフロア全体を指して「地下室」といっているようだから、ちょっと混乱する。
何にしても、工場が灰色というのは、外観、内装、内部の空間、雰囲気のうちのどれのことなのかという疑問を残したまま先を読んだ。
語り手の名前は牛山佳子。彼女が就活の面接で工場を訪れたこと、工場が莫大で広大だということ、工場が町で重きをなす存在だということ、正社員の募集に応じたはずの佳子だったが、契約社員として雇われることになったということ――がわかるけれど、最初にわたしが感じた疑問及びその疑問から与えられたストレスは解消されないまま、小説は次の段階に入ってしまう。
新入社員の研修の話に移るのだ。後で気づいたが、ここからの語り手は牛山佳子から新入社員の古笛という男性へバトンタッチしている。
古笛は、研修と親睦を兼ねた工場周回ウォークラリーに参加するが、その場面でも工場のどこがどう灰色なのかははっきりしない。グレーの社用車は出てくるけれど。
賞狙いの本などにはよく、最初の一行が大事とある。情報不足の痩せたあの一行がなぜか、新潮新人賞の下読みの心をくすぐったというわけだ。
しかし、下読みの好みがどうであれ、作者に描写力がないと、読者は作者の作り出した世界をうまく共有することができない。小説がプツン、プツン、と切れるように感じられる。
まだ冒頭部分で大した話が展開しているわけでもないのに、何度も戻ったり、先に行ったりして内容を確かめざるをえないのは、描写力がないからであろうが、その描写力のなさは作品が行き当たりばったりであるところからも来ている印象である。
案の定、以下の All Aboutの記事にわたしの印象を裏付けするような作者の言葉があった。
- 『工場』小山田浩子インタビュー [書籍・雑誌] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/426424/
“たまった断片の中から選んだものをつなげてできあがったのが「工場」なんです。
時系列が前後したり、話者が変わるときに出来事が分断したりするところをテクニックがあるというふうに好意的に書いてくださった方もいたんですけど、本当に申し訳なくて胃が痛くなりました。実はもともと断片だった文章をつないだら自然とそうなっただけで、意図してないんですよ。”
作者は織田作之助賞を受賞している。わたしにはとれなかった。最終まで2度行ったけれど。尤も、今の織田作之助賞は、その頃の織田作之助賞とは違うようである。作品「工場」に対してではなく、単行本『工場』に与えられた賞らしい。ウィキペディアには以下のようにあった。
2010年、「工場」(「新潮」2010年11月号)で第42回新潮新人賞受賞。小説家デビュー。2013年、単行本『工場』(新潮社)で第26回三島由紀夫賞候補、第30回織田作之助賞受賞。[小山田浩子:Wikipedia]
作者は編集プロダクション、大手自動車メーカー子会社、眼鏡販売店勤務など職場を転々したそうだ。
受賞歴を見ると、わたしなんかとは別格の人とわかったが、自動車メーカーの子会社に勤めていたのであれば、設計がどれほど大事かがわかっていてもよさそうなものではないか。断片をつなげて書く書き方で、どの程度の作品ができるのかがわからないのだろうか。
アマ、プロを問わず、最近はこのような書き方をする物書きが増えている。そのような書き方は、設計図もなしに自動車を組み立てたり、家を建てたりするのに等しい。
適当に組み立てられた車は、うまく走ったところで村上春樹ブランドの車のように、訳のわからない世界へと暴走してしまったり、エンコしてしまったりするだろう。家であれば、運よく住めたところで、雨風、地震には耐えられまい。
作者はうちの子供たちと同じ年齢域にある人のようで、就活の場面には思い当たるものがあった。そうした部分が若い人の共感を誘ったり、興味を惹くということはあるだろう。そう思い、娘に読ませてみたところ、文章が読みづらいといってすぐに放り出してしまった。
緑色で引用した作者の文章を、青色で書き換えてみた。
“新入社員の研修と親睦を兼ねた工場周回ウォークラリーの一団は、あちこちに立ち寄りながら、初日の夕方近くになって、工場の南側、海へせり出した地区に差しかかり、北地区と南地区を分かつ大きな河にかかる巨大な橋を渡っていた。橋は片側二車線の道路と、幅五メートルを優に超える歩道が往復ついていて、一団が橋を渡り始めてから渡り終わるまでの間にバスが五台、首をたたんだキリンのような形のシャベルカーを載せたトラックが三台、それから乗用車が数十台追い越して行った。”
↓
新入社員の研修と親睦を兼ねた工場周回ウォークラリーの一団は、初日の夕方近くには、南地区の海へせり出した所にいた。そこから北地区へ行くために、大きな河にかかる巨大な橋を渡った。橋は四車線、両側についている歩道の幅は優に五メートルを超えた。一団が橋を渡る間にバスが三台、キリンのように見えるシャベルカーを載せたトラックが三台、さらに乗用車が数十台通った。
研修と親睦のために集められた一団が工場の「あちこちに立ち寄りながら」であることはわかりきったことなので、不要。作者の文章では、海へせり出した地区=橋、と読めるが、先を読むと、せり出した地区へ到達した一団がその後、橋を渡ったようである。
車線の数え方は、往復(両側)の合計で数えることになっているので(道路構造令第5条第2項、第3項など)、ここでは四車線と書けばいいと思う。わたしの読解不足があるのかもしれないが、こう書き換えたくなるほど、作者の文章はわたしには読みづらい。
古笛を工場に推薦した教授が出てくるのはいいが、この教授の食事の仕方が奇怪で、面白がる以前に疲労困憊してしまった。
「ざばざばと音を立てて茄子レバーと米飯を口に入れて、呑みこみながら教授は立ち上がり、メンチカツに添えてあるキャベツの千切りの上にドレッシングをかけに行った」とあると、まるで教授が噛まずに食物を呑み込んだみたいだ。かき込んだくらいのことを大袈裟に書いているのだろう。
「梅干しを口に入れ、果肉を吸い取ってから奥歯で種を噛み砕いて天神を取り出し、殻を皿の上に吐いた」というのも、特殊な食べ方に思えてしまうが、よく読むと、梅干しの種の中にある天神を食べるのはそう珍しい食べ方とはいえない。
しかし、果肉を吸い取るとあると、まるで梅干しがホオズキか何かのようだ。梅干しの皮を残して果肉を吸い取るには、芸が要ろう。種を砕くには普通は奥歯で行うだろうから、ここには問題はない。殻を出すのも普通のことだ。はて、梅干しの皮はどうなったのかしらん。
しかも、この教授は確か、梅干しを七つも取っていたはずだ。七つの梅干しをこんな器用な食べ方で、天神まで食べたのだろうか。七つの梅干しの皮がどうなったのかまで、作者はレポートすべきである(?)。「教授は梅干しを、天神まで食べたりした」ぐらいの表現で済むところを、作者はここでも大袈裟に書いたのだ(もちろん、教授は皮も果肉と一緒に食べたのだ)。
どうでもいいところで疲れさせられると、肝心のシュールな場面で鈍感になってしまいそうだ。試し読みの部分では、そのシュールな場面にはお目にかかれなかった。
シュールな作風には、洗練された、すっと頭に入ってくる文章が要求されよう。全体にスタイリッシュでなくては、シュールな印象を読者に与えることはできない。
「工場」を読むことに挫折したわたしには、芥川賞を受賞した「穴」も読めそうにない。
わたしが感想を書き始めた2007年頃から、芥川賞受賞作品にはシュールな効果を狙っているように感じさせられるものが多いが、文章を含めて小説を書くのに必要な技術が習得されていず、作品を成立させるための核(哲学)がなく、骨格(構成)も充分でないため、そのほとんどが空想小説というより妄想小説、独り遊び小説に終わっているように思う。
以下の電子書籍を早く出してしまいたいと思いつつ……
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