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2013年12月16日 (月)

左傾化してゆくわが国の宗教界

『気まぐれに芥川賞作品を読む ①2007 - 2012』は枚数的には短い評論集なので、とっくに仕上がっていてもおかしくない本なのだが、その芥川賞受賞作品のレビュー集に、わたしは以下の記事の抜粋を収録した。

 瀬戸内寂聴に関するものだ。

  • 2010年6月17日 (木)
    文学界の風穴となるだろうか?

 備考として、寂聴のケータイ小説の感想を載せた。

  • 2008年11月13日 (木)
    瀬戸内寂聴作『あしたの虹』を読んで

 寂聴が、わが国の文学界に鬱然とした影響を及ぼしていると考えたからだ。寂聴に関する分析としてはそれだけでは足りないものがあると感じていた。

 最近は芥川賞受賞作品を読んでいこうという意欲自体が薄れているので、②を書くかどうかはわからないし、わが国の文学の風見鶏ともいえる村上春樹に関する評論『村上春樹と近年のノーベル文学賞作家たち』の続編に当たる作品を書けるかどうかも今は何ともいえないところ。

 寂聴の影響力は文学にとどまるものではないので、政治に対する影響を、その手かがりとなることだけでも挿入しておきたいと考える。

 前掲の「文学界の風穴となるだろうか?」と備考「あしたの虹を読んで」では〔ライン以下に抜粋を載せておく〕、文学界と仏教界の権威を帯びた文化の顧問的イメージ、おおらかさのシンボル、といった寂聴の実態は、坊主のコスプレをした贅沢なマダ~ムにすぎず、僧侶兼作家という立場を利用した、巧妙な仲介業者ではないかというわたしの推測を述べた。

 信長、秀吉、家康、明治政府、GHQなどを経て、わが国があの手この手で根付かせてきた政教分離だが、寂聴は坊主のコスプレをしたまま、いとも気軽に左翼と関係の深い政治運動へと出かけて行く。 

 テロリストの新左翼活動家とも親しく、『愛と命の淵に―瀬戸内寂聴・永田洋子往復書簡』(福武書店、1986年)など出している。

 YouTubeに「重信房子からの手紙  日本赤軍元リーダー・40年目の素顔」があり、それに寂聴が顔を出していた。

 重信房子は全共闘のアイドルだったという。

 番組の中で短歌を紹介していた。一般人が詠んだと思えばよくできているといったところだろうか。父親との思い出なども紹介されたが、この人にはそんな肉親との時間や植物を愛でる時間を他人から奪ったという自覚は生じなかったのだろうか。

 海外で多数の民間人をも巻き込んだテロ事件を繰り返すことで、罪のない一般人の貴重な時間がいくつも奪われたはずだ。

 ローザ・ルクセンブルクも獄中で植物を愛で、美しい手紙を残しているが、置かれた状況も、立場も、学識も、人間性も、重信房子とは別格で、重信房子のようなテロ活動のなかで自分探しでもしていたような曖昧さ、凡庸な人間性とは器が違う。

ローザ・ルクセンブルク:Wikipedia 

ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg, ポーランド語名ルジャ・ルクセンブルク、Róża Luksemburg 1871年3月5日 - 1919年1月15日)は、ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家、哲学者、革命家。ミハイル・トゥガン=バラノフスキーとルドルフ・ヒルファーディングの不比例説に対してカール・カウツキーとともに消費制限説で対峙し、ミハウ・カレツキに影響を与えた。
彼女はポーランド王国社会民主党の理論家であり、のちにドイツ社会民主党、ドイツ独立社会民主党(ドイツ社会民主党左派)に関わるようになった。機関紙『Die Rote Fahne(赤旗)』を発刊し、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設、1919年1月にはベルリンでドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコール(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、虐殺される。死後、多くのマルクス主義者や社会主義者のあいだでは、同じく虐殺された盟友のカール・リープクネヒトとともに、革命の象徴的存在とされている。後にその思想はルクセンブルク主義とも呼ばれる。

 重信房子のような人間がつくった組織に殺された人々は、本当に浮かばれないという気がする。「人が人を虐げることなく、差別や不正がない社会を追い求めた」と番組では美化していた。

 寂聴も、終始重信房子に共感していて、それは賛美ともとれるほどだ。

「新しいことを起こそうとする人は必ずね、法に触れたり、あるいは世間のね、一般の道徳の癇に障ったりするんですよね。でもそれを恐れないでね――恐れているかもしれないけどですね――あえて、それにぶつかってですね。それでも自分の思いを少しでも達しようとするね、そういう情熱をね、抑えきれない情熱ね、それこそがわたしは若さだと思うんですよね」

「もしもわたしが彼女の時代に生きていたとしたら、やったかもしれない、そういうものが自分のなかにあるから、どうしてもそういう人たちに近寄っていって、縁が結ばれてくる」

 重信房子がしたことはスポーツや起業ではないのである。重信房子が自分の罪を悔いているようには感じられないが、それに気づかせることができるのは寂聴のような坊主のコスプレ女ではなく、萬子媛のような筋金通った僧侶に違いない。

 彼女たちは日本のような国に生まれたからこそ、好き放題しても生かされ、交際の機会さえ与えられたわけである。国家反逆罪に問われたとたんに死刑、宗教者というだけで弾圧される国も世界には珍しくない。その自覚の片鱗さえ、彼女たちには見出せない。

 こうした寂聴の影響が日本人に及ばなかったとは思えない。団塊の全共闘世代が実権を握り始めてからなのか、日本の宗教界――仏教、キリスト教――は左傾化が著しいようだ。わたしはそれについて知らなかったので、ショックだった。

 検索して最初のほうに出てきたサイトを拾ってみた。カトリック教会からの悲鳴が沢山てきた。

宗教界の反日化一考:李下で冠を正す

●2013年03月27日
ベネディクト16世の生前退位の原因は韓国カトリック教会の暴走かもしれませんよ:突然日記

カトリック教会の左傾化(第1回) 東京純心女子大学教授 澤田昭夫 (月曜評論平成12年5月号掲載):相模大野キリスト教会

やはり反正平協のカトリック教徒は多いようだ:Heaven or Hell
2005-10-28

日本の教会をお救いください(2007 9/4):YUMENOSUKE ISLAND

[引用ここから]
主よ、あなたの教会があなたの教会を指導する司祭の多くが解放の神学により左傾化した思想を持ち、反体制的な運動に終始しています。
また彼らを信奉する左翼信者がその手足となり、カトリックの信者は左翼でなければならないという雰囲気にしています。

主よ、私は思うのです。あなたはなぜ私を日本に生まれさせられたのか?
日本と日本人の文化伝統を忌み嫌いかつての日本人を残虐な悪魔の手先かのように宣伝してまわること、天皇制を暴力の象徴などと勝手な解釈をすること。
こういったことのすべてが主よあなたから出されていることだとはとても思えないのです。

「平和・平和」などと叫びながら、反日反米の運動をして何が平和ですか?
今のカトリック教会の体制への攻撃が、それが平和主義を標榜する人たちのやるべきことでしょうか?

全ての創り主である神よ、あなたが私を20世紀後半の日本に生まれさせたのには意味があるのでしょうか?であるとすれば私はこう考えます。
私の自由意志であるのなら、日本ではなくアメリカに生まれ育ちたかった。
どちらかと言えば保守的排他的なムラ社会の力学が盛んな日本は嫌いでした。日本の文化も浪花節や演歌など、聴くのも嫌なほど大嫌いです。
日本の国家はもっと華やかな美しい曲であってほしいし、日の丸ももっと鮮やかな国旗であってほしい。

しかし私は、主よあなたが思し召しならばこの国を愛しこの国の人間として生涯をささげようと思っています。
大嫌いな日本人の国民性の中で神への愛のために生き抜こうと思っています。そう決心してこれまできましたものの、あなたの教会の指導者は、 日本の歴史文化を忌み嫌い、自虐史観を押し付けて、日本の国益より朝鮮半島や中国の国益を優先するよう教会の中で宣伝しています。

主よ、どうか教えてください。私は朝鮮半島や中国の国益を優先するためにこの国に生まれたのではないと、確信させてください。
平和を守るといいながら、日本人のものであるはずの憲法すら改正させようと しないものたちから、どうか日本の教会をお守りください。

主よ、あなたは私の心の中にこうおっしゃいました。
「自分の行きたい方向へ行こうとすればするほど遠のき、自分のやりたいことをやろうとすればするほど逆のことをやらないといけないようにする意地悪な運命。
そんな運命も自分から進んで自分の意志とは逆の方向へ全力で走ってみたら意地悪な運命も驚いて、一周廻って元に戻るかもしれないぞ。」
そう信じてこれまでやってきました。
果たして意地悪な運命は驚いて一周廻ってくれたのでしょうか?
私は自分はやりたいとかやりたくないとか、好きとか嫌いとかを抜きにして、どうしても左翼は間違っていると思いますし、共産主義は神への冒涜と思っています。
どうか、今現在の状況が、神のご意志でないことを確信させてください。
そして、純粋に信仰にのみ打ち込めるような教会の環境にしてください。

主よ、どうかこの世の中からマルキストを消滅させてください。
主よ、どうかこの世からフェミニズムを消滅させてください。
主よ、どうかこの世から極端な人権擁護主義を消滅させてください。

主よ、どうか日本のカトリック教会を正常な祈りの場に戻してください。
[引用ここまで]

 日本の宗教界でこのようなことが起きているとは。左翼思想、すなわちマルキシズムはそもそも宗教を否定する単純な唯物論なのである。両立ということは、ありえないのだ。

 仏教の場合は僧侶と教師を兼ねることも多いことから、日教組を通して左傾化が起きたと思われる。

 サイト検索では、牧師が左翼の横暴に耐えかねて、プロテスタントからカトリックに緊急避難する例まで見つかった。

 わたしは昨日、眠れなかった。

 こうした現象の元凶はしかし、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムなどGHQによる日本占領管理政策によるのではないかと思われる。江藤淳がそれについて著書を残しているようだ。未読なので、読んでみたい。 

 ここでわたしが単純な唯物論と書いたのは、自身の神秘主義的な観点からの表現である。『New Era Community』(日本アグニ・ヨガ協会、平成5年)の「用語解説」から二つの唯物論の違いに関する解説を紹介しておきたい。

[引用ここから]
唯物論 近代の唯物論は精神的な現象を二次的なものと見なし肉体感覚の対象以外の存在をすべて否定する傾向があるが、それに対して、古代思想につながる「霊的な意味での唯物論」は、宇宙の根本物質には様々な等級があることを認め、肉体感覚で認識できない精妙な物質と現象を研究する。近代の唯物論は紛れもない物質現象を偏見のために否定無視するので、「幼稚な唯物論」と呼ばれる。
[引用ここまで]

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

文学界の風穴となるだろうか?(抜粋)
2010年6月17日 (木)

 純文系の作家として世に出ようと思えば、悲劇だ。

 伝手があれば別かもしれないが、大手出版社の新人賞をゲットするしかない仕組みになっている。運よく賞がとれたところで、飼い殺されている作家(であるような、ないような人々)がどれだけいることか、想像できないくらいなのだ。

 わたしが某賞で最終候補になったときに賞をとった男性は、作家になれるつもりで会社をやめたと聞いた。奥さんが働いていたからそれができたのだろうが、賞の発表誌がわが国を代表する文芸雑誌だったのだから、その気になるのも無理はなかった。

 彼の作品は、エッセーがその雑誌に一度だけ載った。数年後に、わたしが別の作品で最終候補になったとき、彼が来ていた。

 依然として、せっせと担当編集者に作品を提出していたようだった。その後、彼がどうなったのかは知らない。そこと接点を持ち、飼い殺されている人々の話は、何度となく聴いた。

作風は濃いが、内容は薄くて、じっくりと読みたいという気を起こさせない作家の純文学作品が文芸雑誌を独占しており、評論といえば護教的とでもいいたいようなシロモノばかり。

 もっとずっとましなものか、少なくとももう少しはましなものが書けるはずの人材が埋もれている。日々埋もれてゆく。純文学の修練を積み、実力を培った人材の多くが棄てられて行くこの現状は、惜しい。

 純文学が社会の価値観に与える影響は大きいが、潜在的だから、この事態が見過ごされてきている。わが国の純文学は自然にこうなったのだろうか? 勿論、そんなはずはないのだ。

 わたしのパソコン歴は6年くらいのもので、ネットをし始めた頃に、たまたま平野啓一郎の『日蝕』について検索した。一頃話題になった、佐藤亜紀の『鏡の影』との関係が気になったからだったと思う。その頃、交際のあった女性編集者はわたしにそのことについて、佐藤亜紀の嫉妬だろうといった。

 事の真偽はともかく、神秘主義に親しんできたわたしの『日蝕』に対する感想としては、呆れたシロモノだというしかない。神秘主義的な事柄を玩具にしているように映る(いずれきちんと感想を書いてみたいと思っている)。

 悪趣味で幼稚、どこといってとりえのなさそうな、純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにないこの作品が天才的と評されて芥川賞を受賞した。

 純文系作品ともエンター系作品ともいえそうにない――といったのは、昔の作家の例になるが、泉鏡花、吉屋信子の少女小説のように、どちらの資格もあるという意味でいったのではない。どちらの資格もないといっているのだ。佐藤亜紀の作品はエンター系だが、まぎれもない文学作品であり、作風はスタイリッシュだ。

 ところで、平野啓一郎のデビューの仕方を、ウィキペディアから以下に抜粋。

平野啓一郎. (2010, 5月 7). Wikipedia, . Retrieved 19:09, 6月 16, 2010 from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%B9%B3%E9%87%8E%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E&oldid=31979233.

デビューの経緯
啓一郎の特色の一つとしてその「投稿によるデビュー」が挙げられることがある。啓一郎がデビューした文芸誌『新潮』の巻末には、現在まで毎巻欠かさずに「御投稿作品は、全て「新潮新人賞」応募原稿として受付けます。」との記述がある。啓一郎自身がインタビューで答えた情報によれば、デビュー経緯は以下の如くである。

1997年、21歳の啓一郎は1年(資料収集半年、執筆半年)を費やしデビュー作となる『日蝕』を書く。投稿先を『新潮』に決める。年末、『新潮』編集部に自分の思いを綴った16枚の手紙を送る。手紙を読んだ編集部からは「とりあえず作品を見せて欲しい」と回答。編集者の出張先が京都であったこともあり、会って食事をする。1998年、『新潮』8月号に『日蝕』が一挙掲載される。「三島由紀夫の再来とでも言うべき神童」などという宣伝と共にデビューする。翌年芥川賞受賞。

 含みのあるようなエピソードだが、出版社も商売だろうから、作品がよいものであれば、そんなことはどうだっていいと当時わたしは思っていた(よいものとは思えなかったから、そのことが問題だと思った)。だから、ネットで平野のデビューには瀬戸内寂聴が関与しているという記事を閲覧したときも、ちょっと意外に感じただけだった。

 平林たい子と円地文子が好きなので、そのついでにという感じで、瀬戸内寂聴の作品を読んだ。岡本かの子も好きなので『かの子繚乱』を読んだ。よく取材がなされており、労作と思われた。

 しかし読後、わたしは一抹の疑問を覚えた。『かの子繚乱』の天衣無縫というよりは幼稚な、それでいて色欲に衝かれたような生臭いかの子像が、ぴんとこなかった。かの子の作風は高雅で知的であり、性をテーマとしていても、生臭さがない。

 一方、お坊さんなのに、瀬戸内寂聴の作品はどれもこれも生臭いとわたしには感じられた。これまでにわたしの知るどんな作家のものよりも、生臭い。

 一般的には、瀬戸内寂聴は、文学界と仏教界の権威を帯びた文化の顧問的イメージ、おおらかさのシンボル、といったものではないだろうか。 

 現に昨日――6月16日付――の朝日新聞朝刊の文化欄にも、88歳になった寂聴が慎ましやかな表情で出ていた。以下は記事からの抜粋。

携帯電話にはハート形のストラップも付け、若い作家との交流もある。「芸術は新しい世界をひらいていかないとダメです。こつを覚えれば小説は書けますが、それではつまらない。私もまだ書いていない、新しいものを書き続けていきたいと思っています」

 新しい世界とは何だろう? この生臭いお坊さんを悦ばせる小説とは、どんなものなのか? わたしは彼女が影の影響力を発散し続ける限り、わが国の純文学に新しい世界は拓けないだろうと思う。

 生臭くて内容に乏しい、変な技巧を凝らした作品でないと、賞がとれない純文学界の雰囲気は、一体誰がもたらしたものなのか?

 若い作家と交流があるということは、その作家たちが彼女の後押しでデビューしたということを意味するのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼女の影響下でデビューの機会を奪われたその他大勢の作家の卵がいるということを意味する。

 わたしがそんな疑問を持ち出したのは、半年ほど前に、美容院で『婦人画報 1月号』(アシェット婦人画報社、2009年12月1日発売)の《寂聴先生、米寿のおしゃれ説法》を読んだときだった。

 寂聴のブランド趣味を披露した特集……。カルティエ、ティファニーの腕時計。シャネルのバッグは「清水の舞台」的に高かったそうだ。ロエベ、エルメスのバッグ。以下は、愛用品につけられた説明。

①数奇屋袋はブランドバッグと同様に大好きで、粋な意匠のものが好み。ちょっとした散歩などに持ち歩く。
②アンティークの籠バッグ。レザーバッグは耐久性に優れるが、和のやさしさも捨てがたいという。
寂聴先生のお酒好きは有名で、猪口や片口のプレゼントも増えた。艶やかなガラス製は金沢のもの。
④時間ができると、愛用のピンクの携帯電話で自らのケータイ小説をのぞく。PV数が増えるのが楽しい。
⑤携帯電話に映えるキラキラストラップは、平野啓一郎夫人でモデルの春香さんからの贈り物。
⑥「平野啓一郎さんはプレゼント魔」と嬉しそうに話す寂聴先生。
⑦驚くなかれ、尼寺「寂庵」には秘密のバー「パープル」がある。仲良しの編集者たちと過ごす部屋。
⑧バー「パープル」のカクテルは、すべて紫色。祇園の芸妓さんがレシピをたくさん考案してくれた。

 尼寺にバーがある? ステーキとお酒とブランド品が好きな僧侶。わたしは、めまいを起こしそうになった。

 これではもはや、瀬戸内寂聴は、坊主のコスプレをした贅沢なマダ~ムにすぎない。プレゼントが多いようだが、それは彼女が僧侶兼作家という立場を利用した、巧妙な仲介業者でもあるということを意味しているのではないだろうか。

 宗教の本質は神秘主義である。神秘主義が禁酒、禁煙、菜食を勧めるのには、秘教科学的な理由があるからで、その一つは、肉体より精妙な体にダメージを与える可能性があるからだ。〔※以下を参照されたい〕

 H・P・ブラブゥツキー著『実践的オカルティズム』(田中恵美子、ジェフ・クラーク訳、竜王文庫、1995年)の用語解説より、その七本質を紹介しておく。

[引用ここから]
神智学の教えによると、人間を含めて宇宙のあらゆる生命、また宇宙そのものも〈七本質〉という七つの要素からなっている。人間の七本質は、(1)アストラル体(2)プラーナ(3)カーマ(4)低級マナス(5)高級マナス(6)ブッディ(7)オーリック・エッグ
[引用ここまで]

  アストラル体はサンスクリット語でいうリンガ・シャリーラで、肉体は本質というよりは媒体であり、アストラル体の濃密な面にすぎないといわれる。物質界に最も近い目に見えない世界をアストラル界というが、アストラル体はそのアストラル界の質料から構成されている。カーマ、マナス、ブッディはサンスクリット語で、それぞれ、動物魂、心、霊的魂の意。ブッディは高級自我ともいわれ、人間の輪廻する本質を指す。ブッディは全く非物質な本質で、サンスクリット語でマハットと呼ばれる神聖な観念構成(普遍的知性魂)の媒体といわれる。

 ブッディはマナスと結びつかなければ、人間の本質として働くことができない。マナスはブッディと合一すると神聖な意識となる。高級マナスはブッディにつながっており、低級マナスは動物魂即ち欲望につながっている。低級マナスには、意志などの高級マナスのあらゆる属性が与えられておりながら、カーマに惹かれる下向きのエネルギーも持っているので、人間の課題は、低級マナスの下向きになりやすいエネルギーを上向きの清浄なエネルギーに置き換えることだといえる。

 飲酒や肉食は、カーマに惹かれる下向きのエネルギーを強めるといわれる。他にも、いろいろな理由から、神秘主義は清浄な生活を勧めている。

 一般人には、一足飛びにそのような清浄な生活を送るのは難しいが、誓いを立てた僧侶はその難事業にチャレンジし、世の模範になろうとするわけである。彼女は僧侶とはいえないが、前掲の雑誌から以下に抜粋する彼女の意味をなさない言葉からすると、良識ある大人ともいえない。

「女子高生が援助交際なんかしちゃってブランドバッグを手に入れて喜んでいる一方で、ブランドものなんて虚飾!と言わんばかりに頭から否定してしまう大人がいる。いったい日本はどうなってしまったんでしょうね。戦時中の“贅沢は敵だ”じゃあるまいし、モノのもつ価値をきちんと理解できる大人が、大切に慈しんで使えば、それでいいではありませんか。ねぇ」

 わが国を覆う物欲と性欲。この風潮に彼女が一役買っていないとは思えない。

 最後に、瀬戸内寂聴のケータイ小説『あしたの虹』に関する拙評論を紹介しておく。

瀬戸内寂聴作「あしたの虹」を読んで
2008年11月13日 (木)

 瀬戸内寂聴がケータイ小説サイト「野いちご」に発表した、『あしたの虹』を完読。

 携帯小説であろうが、単行本小説であろうが、媒体が異なるだけで、本質のどこに違いがあろうか。読みやすさの工夫に違いが出てくるだけだ。

『あしたの虹』を一言でいえば、変則型のシンデレラ物語(王子様は二人!)。イモねえちゃんのハーレークイン・ロマンスといったらわかりやすい。あるいは、エッチと出産のすすめ(周囲が何とかしてくれるから~)というべきか。

 以下、ネタバレあり。

 小説にはヒカルという、翳のある美貌の青年が出てくる。ヒロインは彼と恋をして子供を孕む。ヒカルはいつのまにか墨絵を天職とする芸術家ということになり、同じ道の大御所クラスの老婦人がパトロンとなる。そのパトロンは、作者をほのかに連想させる。

 丁寧に見ていこう。

 ヒロイン・ユーリは、愛嬌のある健康的な容貌・雰囲気の持ち主。

 両親の離婚で、心を痛めている。彼女の目下のテーマは、彼女自身の次の言葉に要約されていよう。
「あたしはセックスなんて好きでもないのに、それがどうして、男と女になくてはならないのか、知りたくて、そのことへの好奇心がつのる一方だった」。

 といっても初体験は中2のときに《軽いノリ》で終わっていて、相手はお笑い芸人を目指す同じ学年の男子。彼は、離れてからもずっとユーリを慕い続け、折に触れて連絡してくる。ユーリは他に、2人の男子と《エッチ》しているから、今更前掲のテーマでもないという気もするが、まあ簡単にいえば、あまり感じなかったということで、彼女は、もっと感じさせてくれる男を探している、早くもとうの立った若い女性といえるだろう。

 ユーリは家計を助けるために(それにしては切実さが感じられないので、単なる小遣い稼ぎ?)、2,800円の日給で、うなぎ屋に雇われる。そこで働いている《イケメン》青年ヒカルに、ユーリは即座に恋。ヒカルもユーリを憎からず思う。

 だが、ヒカルには秘密があり、罪の意識を抱いている。その罪の意識のために、自らストーブで左顔面にケロイドの烙印を押して、イケメンすぎる自分から女性たちを遠ざける工夫をしたほどだ。

 秘密というのは、父親の再婚相手ルナとの密通であった。うっかり再婚と書いてしまったが、なぜか入籍はまだだったことになっていて、事業に失敗し、脱税までした父親が莫大な借金を残して亡くなるものの、ルナがそれまでに貰った大金は無事。

 ルナの孕んだヒカルの胤かもしれない子供は流れ、ルナはヒカルの父親に懺悔する気持ちから修道女となる。修道女になったり坊主になったりするのにはお金が要るようだから、ヒカルの父親がルナにくれたお金がそのための資金となったのだろう。そんな事情のわからない閲覧者の中には、ルナのしっかり掴んだ金銭の描きかたが変に露骨な印象を与えるかもしれない。

 失意のヒカルだったが、ユーリとの新しい恋愛に活路を見出し、ユーリのおなかは膨らむ。それに対する、離婚したユーリの両親はじめ周囲の祝福も得られる幸運に、墨絵画家を目指すことにしたヒカルにパトロンが現れるという幸運が続く。そのパトロンは、ユーリがバイトを始めた頃、うなぎ屋に客として現れた《スイセンさん》。

 この人がどのような人物かというと、次のように書かれている。
「おばあちゃま。おとうさんを産んだ人。そして四つのおとうさんを捨てて恋に走り、家を飛びだしていった、いずみという女。今では雅号翠泉(すいせん)と名乗り、墨絵を描いて芸術家になっている。外国でも有名なんだそうだ。いつでも忙しくて日本じゅうを展覧会や講演で飛び回ってる。外国へもしょっちゅう出かけている。めったに逢うこともない。ひとりでマンションに住んでいる」

 こうした幸福、というより棚ボタ式幸運の絶頂の最中、ヒカルは事故に遭いそうになった子供をかばい、トラックの下敷きとなって死ぬ。それでも、ユーリは孤独のうちに放置されることはない。初体験の相手トオルが今はお笑い芸人として成功しており、ユーリと子供を見守りたいというのだ。その他大勢の登場人物全員もまるく治まり、それなりにハッピーとなって、めでたし、めでたし。

 しかしながら、わたしはハッーピーな気分にはなれなかった。芸術家であり、僧侶である作者に対する疑問が湧いた。

 修道女となるルナにも、墨絵画家となるヒカルにも、それらしさは何も備わっていないにも拘らず(それらしい繊細な伏線が張られていないにも拘らず)、如何にも唐突に、ルナは修道女になることができ、ヒカルは芸術家として簡単に大成できて死後の名声まで勝ちとる。わたしは、芸術と宗教に対する軽薄な扱いが感じられて不快だった。この世はコネとお金よ、要は要領のよさよ、といわれている気がした。

 携帯向きの軽い小説にしたから? それとも、この軽いノリで宗教、芸術に関わってきたのがこの人なのか? 意外にもこんな小品に、物書きの本音や本質が表れるものなのかもしれない、との新鮮な感慨をわたしは抱いた。

 大御所が秘かに絵文字など使って携帯小説を書けば、話題作りにもってこいで、それがすぐに本となりお金となって、社会を循環する血液にどろりとした血液がそそがれる。

 同じ源氏物語の訳者といっても、オリジナル作品で見てみれば、例えば、円地文子に屈折した深刻な性表現、男女の確執を感じさせるものが多いのとは対照的に、瀬戸内寂聴には、あっけらかんとした性バイタリティーを感じさせる作品が多い(といえるほど、読んではいないのだが、どの作品からも同じ匂いがする)。

 そして両者の求めるものの違いからか、同じ源氏物語を読んでも、円地訳で読むと高雅、神妙、瀬戸内訳で読むと濃い、それでいて、どこか平板な感じがする。

 わたしは以前から思っていたのだが、彼女は出家なぞ、するべきではなかったのではあるまいか。世俗に生きて、肉欲の枯れるまで男性遍歴を重ねるべきだった。そうすれば、少なくとも今の生臭い境地を突き抜けた、傑作が書けたかもしれないではないか。それだけの濃厚、タフな資質が彼女にはあっただろう。彼女自身に光源氏を生きてほしかったと残念に思う。

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