時間を置くべきだった
ライン以下の記事を携帯からアップし、帰宅して時間が経ってみたら、印象が変わってしまい、これまでの彼女の手法上に存在する、彼女らしい作品だという感想に落ち着いてしまった。
どうしたわけか。
自分では気づかなかったけれど、身贔屓があったのかもしれない(我ながら、何というズーズーしさだろう!)。
先に読んだ作品を酷評してしまったために、今度の作品では感動したいという身勝手な期待感がわたしの中に潜んでいて、感じかたを狂わせたのではないかと思う。
細部が本当にすばらしいのだ。いくらか古い時代背景が完璧に、まさに匂うようによく書けている。わたしには到底真似のできないリサーチ力、描写力。
わたしはそうしたところに心を震わせながら読んだのだった。彼女の長所が全開していた。
ただ、時間が経ってみると、余韻に乏しい。それどころか、読んでいるときに引っかかったちょっとしたいくつかの箇所が内部的な重大な欠陥の噴出であったように思えてくる。
芯が通っていない気がする。肝心の部分をつぎはぎで済ませてあるような危うさを感じてしまうとでもいおうか。
批評をする場合、第一印象はメモ程度にとどめておいて、時間を置いてから書くようにしなければならない――少なくともわたしの場合は――ということがよくわかった。
せめて、レビューを書く前でよかった。要するに、昔も今もわたしたちは文学観が違う、それだけのことだ。結局、また独りぽっちになってしまったような孤独感に襲われる。
何という迷走ぶりだ。早くも電子書籍作り疲れかな。
・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
過去記事で、以前文通していた児童文学作家の作品を酷評してしまったが、今日、未読だった一冊が気になり、書店で通読。
雷に打たれたように(通俗的な表現で申し訳ないが)、感動し、購入した。
やられてしまった! という言葉が口をついて出た。
彼女のよさが最大限に生かされ、欠点が最小限に抑えられている。
この文章が彼女の目に触れることはないと思う(触れたら不快かもしれない)が、おめでとう!
よい作品を拝読させていただき、深く感謝致します。
あーよかった。わたしにもまだ、よいものはよいと感じとれるだけの感性が備わっているのだと安心した。
酷評ばかりしていると、悲しく、我が身がみすぼらしく思え、創作意欲も低下する。
よい刺激を受けた。
Kindle本の売上1,500円弱から、アメリカの税金400円強が引かれた金額(引かれずに済む手続き、しておくべきだったかな)が新生銀行の口座に振り込まれていた。3月分の売上だそう。
初の稼ぎを、かつての知り合い(文学観の違いから衝突し、別れたとわたしのほうでは勝手に解釈している)の成功作に払った。
これ以上の満足感はない。
ただ、わたしは一生、物にならず、家族には苦労をかけて終わるのだろうと今更ながらに思われ、今のうちにわびておいた。
レビューは近いうちに、読み込んできちんとしたものを、書きたい。直塚万季はペンネームだからバレることもないだろう。
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