恋愛には高度な雑念状態を作り出し、妄想を育む危険な側面がある。自著宣伝。
拙著『詩人の死』が「第19回三田文学新人賞」の予選を通過した(そこ止まり)ことは過去記事で書いたが、実は予選だけでもよく通ったものだとわたしは「三田文学」の懐の深さに感じ入った次第だった。
というのも、この作品はわたしが当ブログで詩人と呼んできた女友達へのレクイエムであると同時に神秘主義的な覚え書きでもあって、文学作品としては読みづらいだけでなく、賞に応募した作品でありながら、当の賞を批判する以下のような部分(下線部分)すらあるのだ。
“ところで、これは神秘主義ではよく知られていることだが、霊的に敏感になると、他の生きものの内面的な声(思い)をキャッチしてしまうことがある。人間や動物に限定されたものではない。時には、妖精、妖怪、眷族などという名で呼ばれてきたような、肉眼では見えない生きものの思いも。精神状態が澄明であれば、その発信元の正体が正しくわかるし、自我をコントロールする能力が備わっていれば、不必要なものは感じずに済む。
普段は、自然にコントロールできているわたしでも、文学賞の応募作品のことで頭がいっぱいになっていたときに、恐ろしいというか、愚かしい体験をしたことがあった。賞に対する期待で狂わんばかりになったわたしは雑念でいっぱいになり、自分で自分の雑念をキャッチするようになってしまったのだった。
普段であれば、自分の内面の声(思い)と、外部からやってくる声(思い)を混同することはない。例えば、わたしの作品を読んで何か感じてくれている人がいる場合、その思いが強ければ(あるいはわたしと波長が合いやすければ)、どれほど距離を隔てていようが、その声は映像に似た雰囲気を伴って瞬時にわたしの元に届く。わたしはハッとするが、参考程度に留めておく。ところが、雑念でいっぱいになると、わたしは雑念でできた繭に籠もったような状態になり、その繭が外部の声をキャッチするのを妨げる。それどころか、自身の内面の声を、外部からやってきた声と勘違いするようになるのだ。
賞というものは、世に出る可能性への期待を高めてくれる魅力的な存在である。それだけに、心構えが甘ければ、それは擬似ギャンブルとなり、人を気違いに似た存在にしてしまう危険性を秘めていると思う。
酔っぱらうことや恋愛も、同様の高度な雑念状態を作り出すという点で、いささか危険なシロモノだと思われる。恋愛は高尚な性質を伴うこともあるから、全くだめとはいえないものだろうけれど。アルコールは、大方の神秘主義文献では禁じられている。
わたしは専門家ではないから、統合失調症について、詳しいことはわからない。が、神秘主義的観点から推測できることもある。
賞への期待で狂わんばかりになったときのわたしと、妄想でいっぱいになり、現実と妄想の区別がつかなくなったときの詔子さんは、構造的に似ている。そんなときの彼女は妄想という繭に籠もっている状態にあり、外部からの働きかけが届かなくなっている。彼女は自らの妄想を通して全てを見る。そうなると、妄想は雪だるま式に膨れ上がって、混乱が混乱を呼び、悪循環を作り上げてしまうのだ。
こんなときにナルシシズムと性欲を以て直子に接した、『ノルウェイの森』のワタナベくんのような人物は、危険である。妄想の繭から出るには、直子が自身で澄明な精神状態になるしかないところへ、彼はそれを手助けするどころか、逆のことをやってしまうからだ。『ノルウェイの森』はわたしにはどうしても危険と感じられる作品なのだが、神秘主義的観点からみれば、村上春樹の作品にはもっと危険なものもあると思う。 ”
賞狙いしていたときのわたしは、本当にそんな危険な状態だった。世に出たいという思いがそれほど強い時期だった。今も賞に応募することはあるが、かつての目的とは異なる。
「鬼の創作道場」(「鬼ヶ島通信」)には連続して応募してきたが、これは児童文学作品の書きかたを学習するためと日本の児童文学界を知る目的での応募である。
「九州芸術祭文学賞」にはなるべく応募したいと思っているが、そうでもしないともうわたしは純文学作品を書かなくなってしまうからである。九州芸術際文学賞にフィットするような粘液臭、土着臭のするテーマはわたしには苦痛なのだが、純文学的テーマはこれとリンクする部分があるので、そうした部分に目を向ける必要もあると思い、しぶしぶ書くのだ。
九州芸術際文学賞自体は純文学対象の賞というわけではなく、実際には大衆文学での応募が多いと思う。オペラでも歌謡曲でもいいという賞のありかたが、純文学をだめにしてきたのではないかとわたしは考えている。
そのことが歌謡曲に軍配のあがる結果を作り出し、歌謡曲がなぜかクラシック部門の賞(芥川賞)を受賞するようになり、世間ばかりか専門家ですら純文学と大衆文学の区別がつかなくなってしまっている。批評家が平然として、両者に区別などない、などという。それは、オペラも歌謡曲も同じ音楽だから、両者に区別などないというような言い草と同じだ。
小説は面白ければいい、面白くない小説はだめだ、といういいかたがよくされるようになったが、そうしたいいかた、物の考えかた自体が純文学にはないものだと思う。
純文学的には、面白さというものは人間探求の深みから地下水のように自然に湧き出るものであって、作品が純文学的に深いほどに人物はユーモラスな味を醸し出すようになり、その面白さは大衆文学の面白さとは異なるものなのだ。バルザックの作品を読めば、そのことがわかる。人物の滑稽味。滋味。
「三田文学」に対する興味は遠藤周作との関係からで、わたしの本格的な読書は高校時代に耽読した遠藤周作の諸作品から始まったといってよいかもしれない。普段はそのことを忘れてしまっているけれど。遠藤周作の良心は日本文学が産み落とした宝物の一つではないだろうか。
何だか、記事の内容がタイトルとはずれてしまっているが、恋愛の描きかた一つとっても、純文学と大衆文学とでは描く目的が違うのだ。恋愛は、純文学では人間を知るためのアイテムであり、大衆文学では楽しませ、酔わせるためのアイテムである。
「明日も生きねばならぬ」という観点から描くのが純文学であり(仮に自殺に走る主人公を描くにせよ、読者へのメッセージはそれを反面教師にせよということである)、「明日のことなんか忘れて、楽しもうじゃないか」というのが大衆文学である。人間には、どちらも必要なものだと思う。
このところ病院通い、その他のことで慌ただしく、電子書籍作りがストップしてしまっていた。来週また内科と循環器クリニックに行かなくてはならないので落ち着かないが、今日からでも幻想短編小説『茜の帳』(付録:『萬子媛抄』を含む数編のエッセー)の電子書籍作成に入りたい。
神秘主義的メモはソネットブログ「マダムNの神秘主義的作品」にだいたいまとめているが、落ちている記事がないかチェックして、『神秘主義者の雑記帳Ⅰ』という電子書籍にしたいと思っている。
というのも、前の記事を書いているとき、25年くらい見落としてきた箇所があり、その箇所を再発見したことがわたしの神秘主義者としての自覚をもたらしたのだ。その箇所とは、エレナ・レーリッヒの論文から引用した中にある以下の部分。
“光の道を辿る人々に光のハイラーキーが送る標は沢山ある。”
自分に見えている光の点が神秘主義的な現象であることはわかっていて、その解釈についてエレナ・レーリッヒの論文を長年参考にしてきたにも拘わらず、上記記述を見落としていた。
ハイラーキーHierarchyとは、大師方の結合団体の意。わたしが見ていたものは、光のハイラーキーから送られていたもので、それはわたしが曲がりなりにも光の道を辿っているからなのだ……。
どうしてこの部分が25年も全く目に入らなかったのか、わからない。わたしがうぬぼれたり、傲慢になったりしないように隠されていたのではないかと思えるほどだ。いや、きっとそうに違いない。
今のわたしはうぬぼれるどころではない。神秘主義者としてはまだ赤ん坊時代にいるということが、自覚できるからである。ただ、上記記述に勇気を掻き立てられ、自身の神秘主義的な考察を世に出すことについての不必要な葛藤や遠慮を覚えることは減るだろうと思う。
「鬼の創作道場」に応募した習作。『卵の正体』が売れています。
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息子の女友達が英訳にチャレンジしてくださっている児童小説。ペガサスを描くために乗馬体験し、馬の虜となってしまいました。
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神秘主義的な考察を散りばめました。
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『台風』は台風被害について、受験生を抱える家庭、白蟻やハムスターについて描いた作品。
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ハルキ中毒者に読んでほしい(ハルキストが読みたいと思うわけないか。お酒のカタログを必要としている人に、お酒は体に悪いという医療書を薦めるようなものだろうから)。
村上春樹現象に疑問を感じているかたにも。
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