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2012年9月 3日 (月)

創作の枝に吊り下げられたわたし

今日は、創作らしきことは何もしていない。

というのも、不出来な起承転結の《起》の部分が、物語の進行を止めているからだ。

《起》が求める要素……ここで書くべき事柄は全て詰め込んだ。いや、詰め込みすぎた。

ミューズの訪れがあったのは承転の部分の夢のように神秘的なワンシーンのみで、わたしはまだ書いていないそのシーンにいつまでも浸っていたい。

そのシーンに辿り着くまでの工夫が功を奏しいないということだ。登場する物たちをわたしは缶詰にしてしまっている。ガチガチで、缶詰の中のマグロ状態。

作者としての罪悪感から何とかしてやりたいのだが、どうすればいいのかわからない。

昔、小講演の中で神智学の先生がおっしゃった、ネフェシュ、という言葉がふいに浮かんだ。

Nepheshはヘブライ語で生命の息、すなわちサンスクリット語でいうプラーナ……生気を意味するそうだが、カバラでは人間の肉体に生命力を与える動物魂のことだという。

ネフェシュが欠けているために、生きられないのだ。が、ネフェシュを与えにくい物たちをわたしは扱っているわけだ。

物として、あくまで道具として、小道具として作品の中で用いるほうがたやすい。というより、そうしなければ不自然な話なのだ、はじめから。かといって、物に宿る霊として登場させるには、舞台もお話も、これではだめだ。

ここまでこの物たちを全面に出すことになった原因はわたしの怠惰、よくいえば合理精神で、こうすれば一気に物語の背景を描き終わると思ったのだった。

短い枚数のお話だから、ちょいちょいと片付けられると高をくくっていた。

とんでもなかった。まるで、創作の枝に逆さに吊り下げられているみたいだ。風が吹くと、ぐるぐる回るのよ。

娘に昨夜見せたら、如何にもつまらなさそうだった。『卵の正体』ほどの興味も惹かないようだった。『卵…』には、「ブキミ」といったり、主人公の男の子を「単純というか、素直すぎるというか……」と小馬鹿にしながらも(この愛情の感じられるけなしかたは、ある程度気に入ったときの娘特有の表現である)、結構面白そうだったのに。

娘の芳しくない反応の理由がわかるだけに、不愉快で、わたしはヒステリックになるのを必死で抑えた。

だが、やはりだめだ。このまま進むわけにはいかない。それとも、あの書きたい場面まで進んで、《起》が剥がれ落ちるかどうか見ようか?

娘は、ペガサスを飼う物語に出てくる主人公の少年を相当に気に入ってくれている。

今書いている作品で娘を楽しませるのは、難しいかもしれない。完全な失敗となれば、キキキ、もう創作の枝に吊り下げられたまま、猿になるしかない。

(あとで)
いやいや、落ち着いて思い出そう。よく考えてみれば、あのワンシーンに全てが含まれているはずなのだ。お話は全部見えていたはずだ。《起》でやりすぎてしまったというわけか。全てが狂ってしまった感じだ。どうすればいいのだろう。一から書き直すべきかどうか、迷う。

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