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2012年3月12日 (月)

祐徳稲荷神社 ③萬子媛ゆかりの石壁神社にて

 以下の記事は佑徳稲荷神社の紹介というより、私的な覚書です。寝言ぐらいに思ってお見逃しくださればと思います。

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 祐徳稲荷神社の創建者萬子媛のことを書く前に、母方の祖母の家系について調べていました。

 祖母の生家は佐賀県神崎郡三田川にあったと聴いていましたが[2006年、三田川町・東脊振村が合併し、吉野ヶ里町が発足]、比較的最近まで、祖母の生家が大庄屋だったことくらいしか知りませんでした。

 ただ、前にも祖母の家系に何となく興味が湧いたことがあって、それは卑弥呼について調べようと思い立ち、吉野ヶ里がオープンして間もない頃に訪ねたことからでした。

 吉野ヶ里にあったクニが邪馬台国だとは思いませんでしたが、古代史研究の参考になることは間違いないと思われたのですね。
 でも、出かけるまでは、吉野ヶ里遺跡のある辺りがもしかしたら昔――早くても14世紀以降でしょうが――は祖母の家の地所だったかもしれないなどとは露程も考えませんでした。

 ところが、その吉野ヶ里遺跡でわたしは一種神秘的といってよい体験をしたのです。
 インスピレーションの訪れに似た清爽な高揚感を伴う体験でした。当時のメモ――『吉野ヶ里幻想』というちょっとSFがかったショートショートのかたちとしてしか残っていませんから、むしろ淡白な表現なのですが――から抜粋してみます。

[引用 ここから]…… 
 環濠内をめぐる。塵一つ落ちていない。「まむしに注意」の立て札が立ち入り禁止区域のあちこちにあった。復元された物見櫓を仰ぎ、高倉倉庫を見、縦穴式住居に入って見た。炉跡やベッド状遺構といったものを眺める。此処が布や壷や花で飾られていたとしても、わびしいものだ。弥生人の心境になって雨の音を聴く。ガイド・ブックには、この住居跡は弥生時代後期のものとあった。卑弥呼は弥生時代後期に活躍した。うーむ、「魏志『倭人伝』」に描かれているゆたかな文化と今わたしがその人として味わっている文化が重ならないではないか。所在ない気分となって、わたしは縦穴式住居から出た。

 雨の中、墳丘墓展示室がほの明るい。六基のかめ棺が穴の中で浮かびあがっていた。幾層にも土をつき固めた墳丘深く、崩壊したかめ棺があり、かめの中に半ば埋もれたかたちでレプリカだろう、銅剣とライト・ブルーの管玉が見える。土肌のなめらかさが、豪華だ。かめの中の闇に翡翠色の光が溶け込んでいる。深々と覗き込んでいたわたしは、ふと思った。かめの中の闇があかしの闇であることを。この闇が失われたものの闇であることを。 [略]

 わたしの頬に、雨に濡れた頭髪が滴を落とす。わたしは改めて、かめ棺の内部を見た。半ば埋もれた、銅剣と管玉を見た。「わたしは高貴に生きたのです」と、闇が語ったのではなかったか。そんな気配をかめ棺の内部の品性にわたしは感じ、求めた。求めずにはいられなかった。
……[引用 ここまで]

 わたしは墳丘墓の中の闇を覗き込んでいたあのとき、闇が光でもあり、音楽でもあり、言葉でもある――また地中は同時に天空でもある――という強い感銘に似た印象を受ける中で、その光でも音楽でも言葉でもある闇が古代に生きた男女のイメージを伴い、「わたしたちはもっと高貴に生きたのです」と語りかけた感じを持ったのでした。

 以来、時々吉野ヶ里遺跡のことを思い出すようになったのでした。そして、以下に書いたような出来事を経て、今度は、やまとのあやについて考えるようになりました。

2009年3月26日 (木)
やまとのあやⅠ
https://elder.tea-nifty.com/blog/2009/03/post-c587.html

 いくら支流とはいえ、やまとのあやの家系がどうして家臣として鍋島家と結びつくのか、見当もつきませんでした。どうせ支流のこと、調べてもわからないだろうと考え、特に調べようとも思いませんでした。

 しかし、萬子媛ゆかりの石壁神社で、心の中での単なる独りごとのつもりで、
「萬子媛。わたしはあなた様の生きざまって凄いなあとずっと思ってきました。もうどこかへ生まれ変わっていらっしゃいますか? それとも、霊妙な空間からまだここを見守っていらっしゃいますか? ああ、そういえば、わたしの祖母の家は鍋島家の家臣だったと聴いています」
と、実にへんてこなことを語りかけてしまいましたが、まさかそれに対するリアクションがあるとは想像もしませんでした。

 祐徳稲荷神社について、神社のホームページから以下に引用します。

[引用 ここから]……
貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、衣食住の守護神として国民の間に篤く信仰されております。
……[引用 ここまで]

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 写真はクリックすると、大きくなります。

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 わたしの唐突な語りかけは、どうも深窓の麗人の住まう家のドアをドンドン叩いたような行為だったらしく、驚かれたご当人――としか思えない――方からリアクションが伝わるという神秘的な体験をしました。

 そのときのことは、息子にメールしておいたので、以下にご紹介します。息子は例によってわたしの変なメールに、フリーズしたのではないかと思いますが、別に何もいいませんでした。こうしたことを自分の中だけにしまっておけなくて、わたしは思わず家族にいってしまいますが、家族が受け流してくれるので助かっています。

引用 ここから]……
話題は変わりますが、鹿島の祐徳稲荷神社に行きました。
創建者、萬子媛の庵を神社にした場所(石壁神社)で、背を向けて帰りかけたとき、背後から格調高い貴婦人の気配を感じました。
いきなり心の中で話しかけたので、そんなことは珍しいのか、苦笑なさる雰囲気が伝わってきて、それが細波が寄せるように感じられる微笑に変わり、冷えてきていた時刻だったにも拘わらず、背中がほんわか、温かになりました。
そんじゃそこいらにはいない、品格の高い人というか霊みたい。創建者の責任として、亡くなってからも彼の世から見守っていらっしゃるのだと思いました。
俗っぽいお願いはしにくいけれど、芸術に打ち込むとかは見守っていただけそう。イメージとしてはシックだけど豪華な紫と銀色を感じさせる人(霊)。
宇佐八幡宮なんかは現在、鍵がかかっているというか、神霊不在の感じです。現実に、跡継ぎ問題で秘伝を受けたという世襲家の女性と神社庁とのあいだで揉めてるみたいで、第二審も世襲家敗訴、上告したとニュースに出ていました。
でも、神社って、萬子媛みたいにできた人を祀っているケースは希だと思うから、詣でても、あまり語りかけたりはしないほうがいいと思います。以上は、まあ物書きの空想と思ってください。(2012.1.12)
……[引用 ここまで]

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 私的好奇心を充たすためだけのリサーチですが、この記事を書くために、祖母の実家がやまとのあやの支流でありながら、鍋島家の家臣でもありえた可能性を探ってみました。サイト「日本の苗字七千傑」で、祖母の割りと珍しい姓から家系を遡るとN…氏⇒江上氏⇒岩戸氏⇒大蔵氏と、相当な支流からですが、何とか大蔵氏まで辿り着きます。また、逆に、第6代江上氏種の子孫を追うと、確かに祖母の家系N…氏に行き着きます。
[江上氏http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03005a.htm#002

 そして、ウィキペディアで祖母の旧姓N…氏の前に出てくる「江上氏」について調べると(抜粋してライン以下に折り畳んでいます)、概略の最後のほうに鍋島の名が出てくるので、鍋島家との関係がこんなかたちで形成されたのかもしれません。

 ④で、平成4年に、個人誌「ハーモニー」に掲載した短編小説『茜の帳』の付録として付けたちょっとしたエッセー『萬子媛抄』を紹介する予定です。瑞々しさだけがとりえの欠陥作品『茜の帳』も個人誌発表時のままで紹介したいと考えています。
 なぜ『萬子媛抄』を付録としたかというと、小説の後半部の舞台が佑徳稲荷神社だからです。茜という白狐霊の登場する作品で、同人誌「くりえいと」にも載せていただきましたが、割りに好評でしたよ。

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「江上氏」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィキペディアの執筆者,2011,「江上氏」『ウィキペディア日本語版』,(2012年3月12日取得,//ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E6%B0%8F&oldid=39653420).

江上氏(えがみし)は、日本の氏族の一つ。

出自

本姓は東漢氏系大蔵氏で、大蔵春実を祖とする九州の大蔵氏の嫡流原田氏の庶家に当たる。原田種成の第4子種光が筑後国三潴郡江上村に土着したのが始まりとされるが、初期の系図については諸説あり未だ確定を見ていない。

概略

6代氏種の時、元冦の役の軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜り移住。元弘3年(1333年)、8代近種が護良親王の命で行動していたことが確認される。

永享6年(1434年)、12代常種は少弐氏の九州探題渋川満直の征討に協力。勢福寺城の城主となり、以後は少弐方として行動するようになった。13代興種は大内氏と通じたため少弐氏により勢福寺城を追われたが、14代元種は大内氏と対立を深める少弐氏を援け再び勢福寺城に入った。天文2年(1533年)元種は東肥前に侵攻してきた大内氏の軍勢を蹴散らしたが、天文3年(1534年)再び侵攻した大内氏に少弐方は劣勢に立たされた。元種は少弐資元・冬尚親子を勢福寺城に受け入れ立てこもったが、最後は水ヶ江龍造寺氏の龍造寺家兼の進言により大内氏と和議を結び勢福寺城を明け渡した。

少弐冬尚は再起を図るため、協力を請うた龍造寺家兼の尽力で勢福寺城に復帰。龍造寺家門(家兼の弟)が執権に就き、江上元種は馬場頼周と共に補佐として少弐氏を支えることになった。しかし少弐氏内での龍造寺氏の勢力増長を嫌った馬場頼周は、家門に謀反の嫌疑をかけ龍造寺派を謀殺してしまう。家門は逃れたが、これにより少弐氏と龍造寺氏の対立が決定的となった。天文15年(1546年)龍造寺家兼は挙兵して馬場頼周を討ち、翌天文16年(1547年)には家兼を継いだ龍造寺隆信によって少弐冬尚は勢福寺城を追われた。元種は冬尚を守り筑後まで逃れ、江上城で隠居した。

天文20年(1551年)少弐冬尚が大友義鎮と組んで龍造寺隆信を肥前から追放すると、元種の跡を継いだ15代武種は少弐氏の執権となった。しかし勢力を拡大した龍造寺隆信は、永禄2年(1559年)に勢福寺城を攻め、少弐冬尚を自刃に追い込み少弐氏を滅亡させた。武種は直前に龍造寺隆信に降っている。龍造寺氏に属することになった武種であったが、後に離反して大友氏に従ったため龍造寺氏の征討を受けるに至った。武種は和議を申し出て隠居し、後継には養子として龍造寺隆信の子の家種が迎えられることになった。

16代家種は龍造寺隆信が討ち死にした沖田畷の戦いで奮戦し生き延びた。しかし病弱であった龍造寺政家に代わり龍造寺氏の実権を握る鍋島氏を食い止められないまま、朝鮮の役に参加し戦没した。

家種の子は江上姓を捨て、長子茂美(佐野右京亮)は佐野氏を名乗り、次子勝種(勝山大蔵)や勝山姓を名乗った。茂美の子孫は佐賀藩士佐野氏の祖となった。勝種は龍造寺伯庵を擁して幕府に龍造寺家の復興を訴えるも敗訴。正保元年に会津藩保科家預かりとなり、江上氏に復姓した。慶安元年に会津藩に召し抱えられ、子孫は会津藩士として続いた。江戸時代最後の当主種順の子に、戊辰戦争で伝習第一大隊として活躍した秋月登之助(江上種明)がいる。

また『北肥戦誌』の記述には、15代・武種の弟の定種が、武種が大友氏に離反した際に自害を以って諫言しようとしたのを(即座に武種らに止められ死には至らず)鍋島直茂が称賛、その子孫を家人に列したのであるが、その子孫が川瀬氏だとある。

江上氏歴代当主

江上種光:初代。原田種成の第4子。原田氏より筑後国三潴郡江上に分家し江上氏の祖となる。
江上長種:2代。長子は四郎種冬、次子は三郎忠種。
江上種冬:3代。長種の長子。
江上忠種:4代。長種の次子。
江上次種:5代。忠種の子。
江上氏種:6代。次種の子。江上種宗とも称される。 元寇の役の軍功により肥前国神埼荘地頭職を賜る。
江上重種:7代。氏種の子。
江上近種:8代。重種の子。元弘三年(1333)、護良親王の命を奉じて赤松氏と戦う。
江上常種:12代。
江上興種:13代。
江上元種:14代。
江上武種:15代。
江上家種:16代。龍造寺隆信の次子。江上武種の養子となる。
江上勝種(1590~1676):17代。家種の次子。種勝・胤勝とも称される。通称は初めは勝山大蔵、後に江上隼人。勝山姓を名乗り、龍造寺伯庵を推して幕府に龍寺家復興を訴えるも敗訴し会津藩保科家預かりとなりった。後に江上氏に復姓して名跡を復活させ、会津藩に出仕した。龍造寺伯庵の後見であったことが考慮され、藩主より特別の計らいを受けている。
江上種弼:18代。原田嘉種の第3子。通称は八十郎、隼人。江上勝種の養子となる。
江上種孝:19代。種弼の子。
江上種央:20代。種孝の子。
江上種重:21代。種央の子。
江上種徳:22代。種重の子。
江上種順:通称は江上又八。秋月登之助(江上種明)の父。

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