書評 - 梨木香歩『ミケルの庭』(新潮文庫、平成15年) 秀逸な「魔」の描写と問題点
『ミケルの庭』は、新潮文庫版『りかさん』のための書き下ろしだそうだ。
2012年3月20日 (火)
書評 - 梨木香歩『りかさん』(偕成社、1999年) 自己満足の道具となったアビゲイル
https://elder.tea-nifty.com/blog/2012/03/--cc15.html
上の『りかさん』の書評では触れなかったが、『りかさん』の「アビゲイルの巻」に、マーガレットというアメリカのダウンタウンに住む東ヨーロッパから移民したユダヤ人一家の女性が出てくる。
日米親善使節として日本に送られることになった、ママードールのアビゲイル。送る前に、企画の指導役の一人である教会の牧師夫人アビィ(アビゲイルという名は彼女の名をとってつけられた)がダウンタウンの家々を訪問して回る。貧しい家に住むマーガレットは教会の信者ではなかったが、アヴィの訪問を受ける。悦ばれるだろうという期待に反して、マーガレットの反応は鈍い。アヴィはいう。
[引用 ここから]……
私、女性は皆こういうものに心惹かれるものだと当然のように思っていた、でも、あなたは私に、あなたが他人とうまくつきあえないことを以前話してくれていたわね。いつか子どもを持ったとき、その子を育てて行けるかどうか自信がない、という不安もあったわね。そういう今のあなたに人形をかわいいと思う心のゆとりがあるわけがなかった。つらいことを押しつけてしまった。ごめんなさい。
……[引用 ここまで]
牧師夫人でありながら、アビィという女性の言動は無神経というほかないが、追い討ちをかけるように愛の押し売りをする。言葉の不自由や貧しさといった生活不安でいっぱいの女性から、愛を搾りとりたいのだ。
[引用 ここから]……
でもねえ、マーガレット、この人形にはすでにいっぱいの愛が蓄えられているのよ。この人形はその愛を、見知らぬ国へ届けに行くの。ほら、抱いてみない?
……[引用 ここまで]
アヴィがいうと、愛という言葉がお金に聴こえる。この場面の作者の意図がわたしにはよくわからない。
アヴィを批判的な意図から描いているのか、それともマーガレットに人間的欠陥があり、そのために、将来生まれる子供に対してその愛を充分には注げないことの伏線として描いているのかが……。ここのところは大事である。
このあとのアヴィに肩入れしたような作者の描き方からすると、後者だろう。だとすれば、作者にとっての愛には、演出を伴う、相手の都合を無視した些か利己的な面のあることがわかる。
牧師夫人アヴィの、愛というにはあまりにも一方的な働きかけを受け入れられなかったマーガレットの感性は、わたしにはむしろ正常に映るのだが、マーガレットのこの状態はまるで業病のような描かれ方をして、曾孫のマーガレットにも表われる(そのように作者は描く)。未読だが、曾孫マーガレットは『からくりからくさ』で登場するそうで、彼女はこの『ミケルの庭』では、不在の形で登場する。
曾孫のマーガレットはミケルを生むが、育児ノイローゼのようになっていた。そこへ短期留学の話があり、マーガレットは下宿仲間の3人に勧められて、彼女らにミケルを託し、留学した。
下宿仲間の3人とは、『りかさん』に出てきたようこ(蓉子)、与希子、紀久である。マーガレットを含む4人が下宿しているのは蓉子の祖母の家である。祖母亡き後は蓉子の父が大家で、下宿人の希望に副い、一部が染色工房となった。
ところで、マーガレットの育児ノイローゼだが、育児ノイローゼになる母親は全く珍しくない。育児中、母親は過酷な労働条件のもとに置かれるだけでなく、そこでは様々な不測の事態が生じやすいからだ。
責任感の強い母親ほど育児ノイローゼになりやすいところへ、マーガレットのようなパートナーの協力の得られない不安定な状況に置かれるともなれば、前途多難であることは想像がつく。人それぞれの悪条件と戦いながら、それでも多くの母親は、育児ノイローゼやそれに近い状態を乗り越えて、何とか子育てしていくのだ。
マーガレットが乳児のミケルを置き去りにして短期留学に行くのは如何にも不自然で、作者のご都合主義的な操作が感じられる。
重大な問題を提起しているという点で、『ミケルの庭』の主人公といってよいのは、紀久である。
ミケルは紀久の昔の恋人とマーガレットの間の子供だった。紀久はインフルエンザにかかり、ミケルに移さないように用心していたにも拘らず、魔がさしたように、ミケルを抱いてしまう。そのときにインフルエンザが移ったのか、魔的な作用でかは定かでないが、ミケルは高熱を出し、医者の不手際もあって、危険な状態に陥ってしまうのだ。
紀久に魔がさしたときの様子は、以下のように描かれている。
[引用 ここから]……
いけない、と、何かが頭の奥で叫ぶ。両手を広げた自分の腕に重なるようにして、何か、大きな、黒い鳥の翼のようなものが自分を覆うような気がする。ミケルがハイハイでこちらにやってくる。ミケルは嬉しそうだ。この子は滅多にこんな顔をしない。やはりこの子も寂しく思っていたのだ。そう思うとなおさらのこと、抱きしめようとする動きが止らない。けれどいけない、風邪が移るから、それはしてはいけないのに、と叫ぶ声が遠くで聞こえる。反対にすぐ顔の前の方で、ああ、なんてかわいい、と、自分でないもののように呟く声がしてぎょっとする。
……かわいい、かわいい、食べてしまいたいぐらいかわいいねえ。
ミケルがあっという間に近づく。微笑んでミケルを迎える自分の口元が悪魔のようだ。邪悪な、黒い、大きな鳥のようだ。紀久はぞっとする。けれどそれも、頭のどこかで。
気が付けば、ミケルを抱きしめていた。
……[引用 ここまで]
作家の鋭敏な感性が捉えた、秀逸な魔の描写といえよう。
ここでこんな告白をするのもナンだが、神秘主義者として生活しているわたしは現に、人間に入り込んで影響を及ぼす、悪戯な妖精だが妖怪だか、肉眼では見えない色々なタイプの生き物を透視することがたまにある。ブラヴァツキーの神智学で、エレメンタルと呼ばれるものだろうと思う。以下の過去記事を参照。
2012年1月 7日 (土)
たっぷりの珈琲、童話、神秘主義。
https://elder.tea-nifty.com/blog/2012/01/post-2592.html
作者は『ミケルの庭』で、魔はどこから来て、どこへ行くのか? その正体は何なのか? と、虚心に問いかけているような気がして心を打たれた。
しかしながら問題は、この作家が魔に拮抗できるだけのものを読者に与えられないところだろう。蓉子が紀久の背中を撫でてやって、その役割を担わされているようだが、役不足に感じられる。
その原因はおそらく、先に見たマーガレットの曾祖母と牧師夫人アビィの描き方からもわかるように、作者の物事の捉え方が皮相的なところにある。何作か見てきたが、梨木は村上春樹同様、作家にしては子供っぽく、怖いものを読者に見せるだけの資格を欠いているように感じられるところが、問題だとわたしは思う。盲人が盲人の手を引くとは、このことではないだろうか。
読者は、彼らこそ自分のことをわかってくれる、何とかしてくれると思うのかもしれないが、それは虚しい期待にすぎないことを作中から読みとるべきである。気晴らしが――もっと深刻には救いが――ほしいのはわかるが、彼らの作品には危険なところがあることを自覚すべきである。彼らを一緒くたに扱うのが乱暴なことだとはわかっているけれど、あまりに似ているので、ついそうしてしまう(彼らが河合隼雄チルドレンとまでは知らなかったが)。
瀕死状態のミケルを使って、臨死体験のようなものも絵画的に表現されているが、それも作者にとってはこなれていない素材で、大団円を演出するための工夫にすぎないという気がする。
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