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2012年2月14日 (火)

詩人、行織沢子の死 ③母代わり?

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 これまで、こんなことは考えたこともなかったけれど、わたしは亡くなった女友達を母代わりにしていたのかもしれない。

 母は48歳で亡くなり、女友達は59歳で亡くなった。

 女友達は、年齢的にはわたしと五つしか離れていないが、優しくて、きちんとしていて、気遣いの細やかな人だった。

 だが、考えてみると、大学時代の彼女は、統合失調症の治療の違いからか病状の違いからかはわからないが、シャープで、才女っぽい、近寄り難い感じの人だった。高校時代に発病していなければ、別の大学に行っていただろう。そんな毛色の違いを感じさせた。

 ほとんど笑わなかったのは、カトリック系のシスター学校の名残だそうだった。そこでは、必要でないことはしないことになっていたという。

 それが、自分でも語っていっていたことには、治療のある段階くらいから、穏やかになり始めた。鈍くなった、と自分ではいっていた。

 上品さはそのままに、優しくなり、いくらか庶民的な感じになって、わたしには親しみやすくなった。よく笑うようになり、そのすばらしい笑顔が忘れられない。

 本当の友人づきあいがはじまったのは、その頃からだった。

 その彼女の変化は、電話局勤めの母が、腎臓病のために退職し、家にいるようになってからの変化に似ている。

 勤めていた頃の母は、可愛らしい顔に似合わず、男性的な行動力とプライドがあり、とても社交的だった。それに、庶民にしてはよいものが好きで、贅沢なところもあった。

 共稼ぎをしていたし、外国航路の船員をしていた父の給料もよかったのだ。敗戦で落ちぶれるまでは、祖母の家柄がよかったこともあって、よいもの好みの気質が備わっていたのかもしれない。

 そんな風な、いくらか気位の高いところやよいもの好みのところ、病気が原因で行動に制限が加わり、それにつれて優しく、気遣いが細やかになっていったところなど、そっくりではないか。

 女友達が亡くなった今になって初めて、わたしはそのことに気がついた。

 わたしは自分でも気づかずに、女友達をお姉さん代わりというより、母代わりにしていたのかもしれない。

 その甘えからか、彼女に対しては、ときに礼儀を欠いたり、だらしなくなったりもしたのだった。今になって、何だか申し訳ない気がしてきた。

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