瀕死の児童文学界 ⑤独学によさそうな本
志高く創設されたと思われる児童文学界における名のある二つの協会がいずれも、コンクールを前面に出した安くはない講座案内を賞の応募者に送りつけてきたり、雑誌でコンクール攻略法を特集したり……といった俗っぽさ丸出しという感じだ。そして、コンクールは沢山あれど、栄冠に輝くのはほとんどがエンター系の作品ばかり――といった偏りかたなのだった。
エンター系、大いに結構だと思うが、音楽のジャンルからクラシック音楽が消え失せたらショッキングであるのと同じように、本格的に児童文学の執筆を開始し始めたわたしには、それはショッキングな現実といえた。
というのも、わたしは拝顔も叶わないままではあったが、前掲の二つの協会のうちの一つ日本児童文芸家協会の会長を1975年から1995年まで務められた福田清人氏の以下の本を一番の教科書として、児童文学を独学してきたからだった。
わたしが以下の過去記事で引用したのは、この本からだった。
2006年11月12日 (日)
新聞記事『少女漫画の過激な性表現は問題?』について
https://elder.tea-nifty.com/blog/2006/11/post_a6be.html
今読んでも少しも古びていない、このすばらしい創作の指南書には次のようなことが書かれている。長くなるが引用しておきたい。
[引用 ここから]……
すぐれた児童文学は児童の精神形成――豊かな情緒をやしなわせる点や、勇気敢闘の志を持たせるのに役立つ文学である。それは多くの自伝、回想記類を見ても、きまって幼少時の読書の思い出を述べていることでもわかる。ドイツのすぐれた児童文学者ケストナーは「たいがいの人間は自分の少年時代をコウモリガサのように過去のどこかに忘れてきてしまう。そのあと四十年、五十年の学問も経験も最初の十年間にくらべると純粋さという点ではとても及ぶものではない。少年時代は私たちの灯台だ」といっているが、この少年少女時代に純粋な灯台の日を自覚させ、また灯台の光線の照明する遠いかなたを示す一方、おとなたちにもそれを読めばかつての純粋な時代を回想させるのが児童文学である。ところでわが国の文壇ではなんだか児童文学は一般成人文学より安易なもの、年齢的な児童なみに一段下がったものという誤った観念があるのではなかろうか。
それは小川未明がすでに述べたように小説と別の独立した文学ジャンルである。詩や小説を書いているうち、自分の文学精神が一般の詩や小説より児童文学に向いていることを自覚し、そちらへ進んだといった方がいいのである。
日本の児童文学史をみても、その開拓者巌谷小波は、尾崎紅葉硯友社同人で「文壇の少年屋」とよばれたほど、少年の主人公の小説家から少年文学へ進んだ。鈴木三重吉も小川未明も、宮沢賢治もそうであった。
今日児童文壇の二大家である浜田広介氏も坪田譲治氏もそうであった。
それは日本の作家ばかりでなく、アンデルセンにも童話以前に小説「即興詩人」があり、ケストナーにも詩集があった。
私はむしろ詩や小説で文学のデッサンをして児童文学へはいった方がいいのではないかとさえ思っている。
……[引用 ここまで]
わたしが童話の試作を始めたのは、中学1年のときだった。子供ごころに童話は難しいと感じられた。他にジュニア小説を書き、真似事のような詩を書き散らした。高校生のときには詩と童謡、大学生のときは詩と哲学論文もどきのエッセーと純文学小説、大学卒業後は主に純文学小説で、俳句に熱中した一時期があった。歴史物を書きたいと思って取材に出かけたり(まだ試作品とエッセーしか書けていない)、戯曲を書いたりもした。
40代で一度児童文学に戻りかけたが、そのときですら時期尚早と感じられた。子育ての最中だから書けるかもしれないと思ってのことだったが、子供というものを至近距離から見つめすぎて苦しく、むしろ書けなかったのだった。
そして、ようやくわたしは念願の児童文学に戻ってきた。故郷のように感じられるのはこの世界のはずだった。
生活不安という世俗的な事情から、賞応募には少し早いと思いながらも、昨年いっぱいチャレンジしてみた。ところが、賞に落選したよりはるかにショッキングな前述のような出来事に遭遇したわけだった。しかし、それは子育て中から異変を感じていたことではあった。わたしが子供の頃に親しんだような児童文学全集をわが子にも買ってやりたいと思っているうちに、子供たちは成人してしまった。待っていても出なかったのだ。
できれば、自身の代表作となるような児童文学の秀作を数編は仕上げてから、児童文学の問題に直面したかったが、早く直面してしまったので、わたしは問題へのとり組みと児童文学の修業を同時に行うという、いささか滑稽なはめに陥っている。碌な作品も書けないでいて偉そうなことをいうなといわれるのが落ちだとわかっていても、放置できる問題とは思えない。かといって、この問題をどうすべきかがわからないから、とりあえずブログで問題と感じる点を記事にしているというわけだ。
前掲の福田清人氏の本を読めば、わが国の児童文学界がエンター系に偏ることになった発端の事情も窺える。
[引用 ここから]……
最近、坪田譲治氏にお会いした折り、氏は「小説は書こうと思えば書けるが、童話というものは本当にむずかしい。なかなか書けないものだ」と、しみじみ述懐しておられた。
児童文学といってもファンタジー性の濃い童話と、児童小説とに分類できる。坪田氏のいうのは主として前者を意味するもののようであった。それは散文詩的な要素を含み、強いモチーフにささえられている。アンデルセンや宮沢賢治や、初期の小川未明や、浜田広介の作品のようなものである。
こうした傾向の作品は、今日少ない。世間一般に児童文学というとき、この種の傾向を意味している場合が多い。しかしこうした童話のモチーフが浅く、児童に甘えた傾向におちいったとき、児童の現実を描く生活童話が生まれた。それはそれなりに意味はあったが、いつか安易に流れた下手な小説めいたものが多く書かれた。
……[引用 ここまで]
ウィキペディアに、日本児童文芸家協会「創立当初の会員構成は、文壇作家や放送作家それに「少年倶楽部」系などの大衆児童文学作家が大半を占めていたことが特徴的であった」とあったのも、わたしが電話で訊ねた編集者の認識が冒険物=エンター系であったというのもなるほどと頷ける。純文系は生活童話、それも「安易に流れた下手な小説めいたもの」という印象が今も残っているのかもしれない。
しかしこれはわが国の特殊事情であって、純文学とは本来そういったものではないはずだ。音楽でいえばエンター系がポピュラー音楽なら、純文学はクラシック音楽といえよう。子供向きの純文学作品でよくできたものは、児童の生活を興味深く照らし出す彫りの深い描写を特徴とし、面白さという点でも格別の、精巧さを宗とする第一級の芸術品なのだ。そして純文学であれば、文化の継承という使命を忘れることはない。宮沢賢治の童話がそうであるし、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』は純文学の手法で書かれた傑作だ。
わが国の児童文学はイギリスなどとは違って、ジャンル的な確立がうまくできないまま、あやふやなかたちで来ているのかもしれない。このままでは、子供というより中年女性の好みそうなお菓子(スイーツと呼ぶべきか)、魔女、お化けの溢れかえったエンター系の読み物が、宮沢賢治やフィリパ・ピアスのような作家の育つ土壌まで完全に覆い尽くしてしまうだろう。
以下のような本を一度でも読んでいるのといないのとでは、文学作品に対するとり組みかたが全然違ってくると思う。
リンジグレーンの以下の本は、子供の思考、行動がよく捉えられている子供のスケッチ集といってよいような作品集だ。短編集なので、一編くらいなら筆写が可能だろう。ずいぶん勉強になるに違いない。わたしはやってみようと思っている。
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