誕生日に見つかった鍵
体調は回復。心臓の不調だけだったのだろう。
以下はカテゴリー「Notes:不思議な接着剤」に収めたいメモ。現時点では、ぼかした書きかたになる。
……何かに、あるいは誰かに道案内されているとしか思えない。創作もそのための方便にすぎないのかとすら思える、マグダラのマリアの謎を解くための鍵(ヒント)が見つかった。
誕生日に……これは最高の贈り物だ。
その鍵は、著作として既によく知られたものなのだが、わたしは知らなかったし、以前であれば、知っていたとしても気に留めなかっただろう。
実に、賞に落選してあれほど嘆いた――児童文学作品Pの続編を考える中で、見つけた。見つけるように仕向けられたとしか思えない。
Pは、1次も通らなかったんだから、あれは凄いレベルの賞で、よほどの名作が受賞するに違いない……気が向いたら比較のためにも、公開するかもしれない。
現在の日本の児童文学の主流はファンタジーで、ファンタジーとは呼ばれているが、神秘主義が伝えてきたシンボル、用語、エピソードなどを玩具にした、その実はファンタスティックな要素に欠ける空疎な作品群だ。わたしは何の反省もなしに、こうした風潮を引き延ばそうとする先の見えない儲け主義に異議がある。
他の作家の卵さんがたも、落選作をどんどん公開してくだされば、どんな作品が劣ったものとして落選させられているかの実態が掴めるというもの。
美術の世界では、アンデパンダン展なんてのもある。鑑賞や読書に耐えないから落とされているとは限らないのだ。
しかし、仮に受賞したり、1次か2次を通過していたとしたら、わたしはこんな方向へ行っただろうか?
続編は、落ちなければ、書こうと考えなかったものだ。そして、もし鍵が見つからなければ、中断中の児童文学作品『不思議な接着剤』は別物になったか、完成に漕ぎ着くかなり前の時点で挫折することになるに違いない。勿論、鍵が見つかった今ですら、挫折の危険度は高い。
ただわからないのは、なぜわたしがこの道を歩かなければならないのか、ということだ。
過去記事で何度か書いたが、わたしは前世に修行者として高齢で死んだ記憶と彼の世の光や大気の記憶(脳は生まれ変わるごとに新しくなるので、これは単純にいってしまえば霊的な記憶)と、何かテーマを持ってきたまではよかったが、産み落とされたときのショックでテーマに関しては忘れてしまった。
マグダラの謎を解くことがわたしのテーマなのだろうか? 海外の優れた研究者たちによって――通説を形成するにはいかないとしても――既に解かれたともいえるのではないだろうか?
もしかしたら充分に解かれたとはいえないのかもしれないし、この事の意味するところの大きさは、もっと遥かに大きいのかもしれない。
偶然、もう一つのライフワークである邪馬台国の宗教を考える場合に参考になりそうなことが、古代アフリカにあったマグダラの従者であった人物の国の――コプト教伝来以前の――宗教に見つかった。古代においては珍しいことではないだろうから、記憶に留めておく程度でいいと思う。
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